名古屋高等裁判所 平成11年(う)376号 決定
1 本件控訴事件の審理の経緯は,次のとおりである。すなわち,被告事件について平成11年10月14日名古屋地方裁判所が言い渡した懲役1年(未決勾留日数40日算入)の判決に対し,被告人が即日控訴を申し立てたところ,これを担当することとなった当裁判所は,平成12年1月24日の第1回公判期日において,弁護人の請求により精神鑑定を採用し,同年2月8日の第2回公判期日において,被告人の原判示犯行当時及び現在の精神状態等につき藤田保健衛生大学医学部医師A(以下「A鑑定人」という。)に鑑定を命じた。ところが,被告人は同月14日付けで控訴取下申立書を作成し,同日名古屋拘置所長を通じてこれを当裁判所に提出し(以下「本件控訴取下げ」という。),これを知った弁護人は,本件控訴取下げを無効と取り扱うべき旨の同月16日付けの上申書を提出し,被告人も同月15日付けで「控訴取下書撤回願」と題する書面を提出した(同月17日受付)。そこで,当裁判所は同月29日の第3回公判期日において,職権をもってA鑑定人に本件控訴取下げの書面作成時における被告人の精神状態についても付加して鑑定することを命じ,A鑑定人から同年7月15日付けで精神鑑定書が提出された(同月18日受付)ことから,当裁判所は同年9月4日の第4回公判期日において,前記鑑定書を取り調べるとともに同鑑定人の証人調べを行った(以下,まとめて「A鑑定」という。)。一方,被告人は同年8月28日付けで新たに控訴取下申立書を作成し,同日名古屋拘置所長を通じて当裁判所に提出し(以下「第2次取下げ」という。),当裁判所は,以上の経緯に鑑み,前記証人調べの後,一連の訴訟行為等について被告人質問を行ったものである。
2 そこで,本件控訴取下げ及び第2次取下げの効力について検討すべきところ,被告人が,自己の意思に基づき名古屋拘置所備付の「取下申立書」用紙を使用して本件控訴取下げの書面(控訴取下申立書)を作成した上,これを当裁判所に提出したことは,記録に照らし明らかである。そして,当時の被告人の精神状態について,A鑑定は,「被告人は,遅くとも平成8年ころから精神分裂病(妄想型)に羅患し,妄想状態にあったと診断され,原判示窃盗の犯行はこれらの妄想とは直接の関係がないものの,前記精神分裂病に伴う人格水準,道徳観の低下に基づいて生じたものであって,前記犯行時の被告人の是非弁別能力は限定されていたものである(限定の程度が著しいとまではいえない)ところ,本件控訴取下げは,被告人が精神鑑定のために自己の拘束される期間が延びることを懸念し,控訴を取り下げれば一日でも早く社会に出て元の生活に戻れると考えて行ったものと解され,現実見当能力が障害されているから,その訴訟能力は損なわれているといわなければならないが,その程度は著しいとまではいえず,中等度ないし軽度である。」旨判定しているのであって,信頼するに足るA鑑定のほか,当裁判所における被告人質問の結果,その他本件記録に現われたすべての被告人の言動等を総合して考察すると,本件控訴取下げの時点において,被告人は,控訴取下げという訴訟行為の意義とその効果(原判決の確定)を十分に理解していたものであって,その訴訟能力に欠けるところはなかったと認められる。そうすると,第2次取下げの有効性について検討するまでもなく,本件控訴は,本件控訴取下げによって有効に取り下げられ,これによって終了したものといわなければならない。
弁護人は,その弁論において,被告人は,前件の執行猶予期間中に原判示犯行に及んだのであるが,本件控訴取下げに際し,原審裁判官から前件の分(1年の刑)はなくなっている(執行されない)と言われたものと考え,本件控訴取下げにより(原判決の)1年の刑に服すれば足りると理解したものであって精神分裂病により現実見当能力が障害されていたためであるから,訴訟能力を欠いていたものというほかなく,かかる被告人が弁護人の同意なくして行った本件控訴取下げは無効である,と主張する。しかし,前説示のとおり,本件控訴取下げの時点において,被告人の訴訟能力に欠けるところはなかったと認められるのであって,所論指摘の点は取下げに至る動機の錯誤にすぎず,本件控訴取下げの効力に影響を及ぼすものとはいえないから,前記主張には理由がない。