名古屋高等裁判所 平成11年(ネ)960号 判決 2002年1月23日
主文
1 本件控訴をいずれも棄却する。
2 控訴費用は控訴人の負担とする。
事実及び理由
第1当事者の求めた裁判
1 控訴人
(1) 原判決を取り消す。
(2) 被控訴人らは,控訴人に対し,各自,100万円及びこれに対する平成2年3月4日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
(3) 訴訟費用は,第1,2審とも,被控訴人らの負担とする。
(4) 仮執行の宣言
2 被控訴人
主文と同旨
第2事案の概要
1 本件は,平成元年1月及び2月(以下,平成元年については,月日又は月のみで表示する。)当時,大府市立大府北中学校の教諭として勤務していた控訴人が,同校のA校長から違法な時間外勤務命令を受けて業務に従事させられたこと等によって精神的苦痛を被ったと主張し,被控訴人らに対し,国家賠償法1条及び3条に基づいて損害賠償を求めている事件の控訴審である。
2 本件の事案の概要(①争いのない事実等,②主な争点及び③主な争点に関する当事者の主張)は,次のとおり補正し,当審における主張を付加するほか,原判決の「事実及び理由」欄の第二の一ないし三(原判決4頁9行目から111頁9行目まで)に記載されたとおりであるから,これを引用する。
(1) 原判決6頁6行目の「午前八時」を「午前八時二〇分」と改める。
(2) 同13頁6行目から7行目にかけての「本件道徳研究は右の文部省の委嘱に基づいて実施されたものであるところ,」を「この文部省の委嘱に基づく道徳教育の研究(以下,「本件道徳研究」という。)については,」と改める。
(3) 同16頁1行目の「本件道徳研究会」を「本件道徳研究」と改める。
(4) 同18頁2行目の「(3)」を「(6)」と改める。
(5) 同45頁5行目から6行目にかけての「昭和六四年度の」を「昭和六四年度」に改める。
(6) 同65頁1行目,3行目,4行目及び7行目の各「道徳研究会」をそれぞれ「道徳授業研究会」と改める。
(7) 同79頁3行目の「主催」を「主宰」に改める。
(8) 同79頁10行目の「召集」を「招集」に改める。
(9) 同105頁2行目及び5行目の「道徳研究」を「本件道徳研究」と,3行目の「右の道徳研究会」を「道徳研究全体会,各部会,研究会」と各改める。
(10) 同111頁7行目の「著しく」の次に「長時間にわたる」を加える。
(11) 当審における当事者の主張
ア 控訴人
(ア) 原判決の次の点に関する認定,判断は,誤ったものである
a A校長の学校運営に関する姿勢について
原判決は,A校長の学校運営に関する姿勢について,教員の自発性を重んじ,生徒の利益を優先するものであった旨認定している。しかし,A校長がそのような学校運営をしていたことを認定し得る証拠はなく,むしろ,証拠によれば,本件道徳研究を最優先した同校長の偏った学校運営が,教員の教育活動を圧迫し,非行件数が増えるなど生徒に犠牲をもたらしたことが明らかである。
b 控訴人の事務の進め方等について
原判決は,控訴人の進学関連事務の進め方等が非効率であった旨認定しているが,これは証拠の評価を誤った認定である。また,原判決は,進学関連業務の中には分担し,手分けして空き時間に処理することが可能な作業も多かったにもかかわらず,控訴人は,学年会を開催して,全教員が集まって作業を行う方針をとった旨認定し,これが時間外勤務が長時間に及んだ理由の1つであるとしている。しかし,上記認定は実態に沿わないものであるし,そもそも,控訴人は学年主任であったが,学年主任は,勤務時間管理の責任を負う者ではない。本件において行事の日程調整に困難が生じたのは,本件道徳研究の日程を最優先したA校長の学校運営にあったことが明らかである。
c 教師の職務の分類について
原判決は,教師の職務について,①教師の本来の職務であることが明らかなもの,②本来の職務に付随する業務と認められるもの,③本来の職務か否か必ずしも明らかでないもの及び④広義では教育活動といえるものの,直ちに職務行為等とはいい難いもの,に分類しているが,その根拠は明らかでない。また,教師と生徒との直接的接触を重視する教育の自由の観点からすると,このような固定的な分類には問題があり,有害であるというべきである。
(イ) 時間外勤務命令の存在について
a 明示の時間外勤務命令について
原判決は,明示の時間外勤務命令を認めることができないとしているが,これは認定を誤ったものである。A校長は,進学事務の処理のために強い拘束を受けていた控訴人に対し,その遂行を督励し,又は学校管理者の管理に係る印を託するなどの行為をしているのであって,これが時間外勤務命令に該当することは明らかである。
b 黙示の時間外勤務命令について
(a) 原判決は,黙示の時間外勤務命令が存在したものと認めることはできないとした。しかし,その存否は,事実上の拘束力の有無をもって判断すべきものであって,本件において,これを認めることができないとした原判決の認定は,誤ったものである。
(b) 原判決は,黙示の時間外勤務命令が存在したものと認められるための要件として,①自由意思を強く拘束する状況及び②時間外勤務の実情を放置することが給特条例7条の立法趣旨にもとること,との2つをあげる。しかし,これは,自由意思を強く拘束された職務遂行であっても,当然には職務命令によるものでなく,自発的,自主的な職務遂行の場合があることを予定しているものであって,論理的に矛盾している。また,給特条例7条の立法趣旨によって時間外勤務命令の成立する範囲を著しく限定しようとする原判決の上記見解は,時間外勤務命令を厳しく排除しようとした同条の立法趣旨を無視し,黙示の職務命令が認められる場合を著しく狭めるものであって不当である。なお,原判決の時間外勤務命令の存否に関する判断枠組みは,教職員の職員会議への参加が校長の指示,職務命令に基づくものである旨を判示した判例(最高裁昭和44年(行ツ)第26号昭和47年4月6日第一小法廷判決・民集26巻3号397頁)に違反するものである。
(c) 原判決は,時間外勤務命令の存否につき,①当該勤務の内容が本来の職務であれば,自発的にされたものと推認すべきである,②当該勤務の実情において当該職員の裁量にゆだねられている割合が大きければ大きいほど,教員の自由意思でされたものと推認すべきである,③当該勤務がやむを得ない事情の下に特定の期間のみにされたものである場合は,給特条例7条の立法趣旨にもとるものではない,とする。しかし,これらの認定基準によって,本件において時間外勤務命令が存しなかったと判断することは不当である。
(d) 原判決が時間外勤務命令の存在を否定すべき事情として,職員協議会等の会議において,A校長が勤務時間を過ぎれば退席してもよい旨の発言をしたと認定したが,その事実はなく,認定を誤ったものである。また,本件においては,①進学事務に関して集団で作業をすることは当然のことであり,②学年主任であった控訴人につき,日程調整に関しての責任はなく,③進学関連業務を時間内に処理することはできなかったのであって,④本件道徳研究が優先されていたという事情が存したことを考慮すべきである。なお,控訴人は,A校長に対し,再三にわたって,第3学年の実情を伝え,勤務の拘束をゆるめることを進言し,運営委員会等においても,進学関連事務の進め方や日程などを明確に報告していたのである。
(e) 時間外勤務命令に関する給特条例の解釈に当たっても,憲法上認められた教師の教育の自由,教育基本法10条1項の観点が必要である。かかる観点からすると,勤務時間外は,あるべき教育のための自主的,自律的な活動が保障されるべき時間である。本件において,控訴人が時間外勤務に従事した業務のうち,その中心的なものは,道徳教育研究会等への参加及び複合選抜制度の導入に伴う進学関連業務であるところ,これらは,教育の自由を侵害するおそれの高い業務であるといわざるを得ず,こうした業務に従事させることについては,時間外勤務命令の存在が推認されるというべきである。
c 本件における控訴人に対する時間外勤務命令は,勤務時間外の自主的,自律的活動を侵害したものであり,また,教育基本法10条1項に違反するものとして違法であるだけでなく,教育の自由を侵害したものであって違憲であるというべきである。
(ウ) 管理義務違反について
a 勤務時間内に処理できない業務をさせることは,それ自体,管理義務違反であることが明らかであり,また,勤務時間外に教育の自由を侵害するおそれが高い業務をさせた場合は,管理義務違反が推認されるというべきである。本件においては,本件道徳研究及び進学関連業務が勤務時間外に行われ,それが教員の生徒に対する個別指導の妨げになったという実態があるから,本件における控訴人の時間外勤務については,時間外勤務命令の有無に関わらず,控訴人の教員としての活動の自由を侵害したものとして違憲,違法であるというべきである。時間外勤務が存在することは,教育基本法10条2項に基づく条件整備義務違反であり,教育の自由を侵害するものである。
b A校長の管理義務違反
労働基準法上,使用者,管理者に労働者の労働時間を管理する義務があることは明らかであり,このことは,厚生労働省が平成13年4月6日付けで発した「労働時間の適正な把握のために使用者が講ずべき措置に関する基準について」と題する通達においても明確にされているところである。そして,①長時間の時間外勤務が生じており,②そのために教員の個別指導等の主体的教育活動が阻害された場合,③校長がその阻害状況を除去するための管理を行わなかったときは,管理義務違反として,損害賠償請求の根拠となるというべきである。本件におけるA校長は,長時間勤務がまん延していることを熟知しながら何らの措置も執ることなく,これを放置するばかりか,自ら勤務時間外に及ぶ会議を主宰するなどしているのであって,重大な管理義務違反があったことが明らかである。A校長の管理義務違反は明らかであり,時間外勤務命令の存否とは関わりなく,これが損害賠償の根拠となるものである。
イ 被控訴人ら
(ア) 控訴人は,第3学年の学年主任としての職業的義務感,責任感に基づいて,自主的,自発的に遂行した職務につき,事後的に,すべてA校長の職務命令に基づいてしたものと主張しているにすぎない。
(イ) 時間外勤務命令について
a 時間外勤務命令が明示的にも黙示的にも存在したものと認めることができないとした原判決の認定,判断は,正当である。しかし,原判決が,運営委員会及び進学指導委員会等の会議の出席につき,控訴人の意思が事実上拘束されていたものと認めたことは誤った事実認定である。控訴人は,出席した会議において,なんら異議,苦情を述べていないのであって,これは,控訴人が,当時,自主的,自発的に同会議に出席していたものであることを示す。
b 教員の職務は,その実践にあっては無限定性ともいえる特徴を有し,各教員の創意工夫によって無限の広がりを有しているものである。こうした教員の職務と勤務態様の特殊性から勤務時間の内外を問わず,包括的に評価したのが,給特法ないし給特条例の趣旨であり,この趣旨に反しない限り,職務が時間外にされたとしても,違法とはならない。特に,教員の自主性あるいは裁量にゆだねられている度合いが高い職務ほどそれが時間外にされたとしても,給特法ないし給特条例の趣旨に反しないものというべきである。本件の進学関連業務については,いつ,いかなる方法をもってこれをするかは,学年主任である控訴人の裁量にゆだねられていたのである。
(ウ) 管理義務違反について
A校長らに管理義務違反があったという控訴人の主張は理由がないものである。
第3当裁判所の判断
1 争点に対する判断のための前提事実(①昭和63年度の控訴人の職務分掌等,②複合選抜制度,進学関連業務及び学年会について,③道徳研究について,④推薦委員会,進学指導委員会,卒業・終了認定会議,職員協議会,生徒指導全体会について,⑤本件時間外勤務の具体的な職務内容及び⑥控訴人の平成元年度の職務分掌等)は,次のとおり補正するほか,原判決の「事実及び理由」欄の第三の一(原判決111頁11行目から188頁11行目まで)のとおりであるから,これを引用する。
(1) 原判決124頁4行目の「三年生」を「第三学年」と改める。
(2) 同127頁7行目から8行目にかけての「第一五二号証,」の次,同135頁8行目の「第六九号証」の次に,それぞれ「第一八九号証,」を加える。
(3) 同138頁4行目の「主催」を「主宰」と改める。
(4) 同139頁1行目の「3」を「5」と改める。
(5) 同139頁7行目の「第七六」の次に「第七八の一,二」を加える。
(6) 同160頁11行目の「午後八時前」を「午後九時」と改める。
(7) 同175頁5行目の「午後四時二〇分ころ」を「午後四時ころ」と改める。
(8) 同177頁9行目の「四六七通」を「四七六通」と改める。
(9) 同187頁5行目の「午後三時五〇分ころ」を「午後四時ころ」と改める。
2 時間外勤務命令の存否について
(1) 明示の時間外勤務命令について
ア 当裁判所も,A校長の控訴人に対する明示の時間外勤務命令が存在したと認めることはできないと判断する。その理由は,次のとおり,補正するほか,原判決が説示(原判決189頁3行目から192頁7行目まで)するとおりであるから,これを引用する。
(ア) 原判決189頁9行目の「右①ないし④の作業は,」から189頁10行目の「相当であるところ,」までを削除する。
(イ) 同189頁11行目から190頁1行目にかけての「単に原告が自発的,自主的に作業するのに協力する趣旨で学校長職印を渡したにすぎず,」とあるのを「それぞれ,控訴人が自発的,自主的に作業しているものと認識し,これに協力する趣旨で学校長職印を渡したにすぎず,」と訂正する。
(ウ) 同192頁4行目から5行目にかけての「右は,自発的,自主的に作業をしている原告に対する」を「右は,A校長が,控訴人は自発的,自主的に職務を遂行してくれているものと認識し,こうした控訴人に対して述べた」と訂正する。
イ 控訴人は,A校長が控訴人に対し,進学事務の遂行を督励し,また,学校管理者の管理に係る印を託したことなどは,時間外勤務命令を発したものである旨主張する。しかし,上記アのとおり,A校長が控訴人に対して進学事務の処理に関して述べた点については,その内容,述べられた状況等に照らせば,控訴人に対する激励というべきものであって,時間外勤務命令を発したものとは認められない。また,上記1認定のとおり,教頭から控訴人に対して学校長職印が手渡されたことがあったが,これについても,上記アのとおり,控訴人の作業に協力してされたことにすぎず,このことから時間外勤務命令を発したものと認めることはできない。なお,原審における控訴人本人尋問の結果によると,控訴人は,2月16日,公立高校一般入試の入学願書のまとめの作業をしたが,その際,整理が進んできた段階で,控訴人自ら,教頭に申し出て,学校長職印を預かったことが認められる。これによると,教頭は,控訴人のように信頼をおくことができると判断した者に対しては,効率的に事務を処理することができるように,申出に応じて上記職印を手渡していたことが推認されるのであって,上記職印を手渡したことによって時間外勤務命令を発したものとは到底認めることができない。
(2) 黙示の時間外勤務命令について
ア 控訴人が,1月及び2月に長時間にわたる時間外勤務に従事したことは上記1に認定したとおりである。ところで,この時間外勤務がA校長の黙示の命令によるものであるというためには,具体的な状況に照らし,控訴人に対して強制的に特定の業務をすることが命じられたというべき状況があったことを必要とするものと解される。
イ 本件において,控訴人が従事した時間外勤務は多岐にわたるが,①第3学年の社会科担当の教員としての職務(1月9日のテスト用紙の作成,同月12日及び13日のテストの採点,2月14日の授業の今後の指導計画をまとめる作業),②運営委員会(1月17日及び2月17日),職員協議会(1月23日及び2月20日),道徳研究全体会(1月23日,同月30日,2月20日),進学指導委員会(1月24日,2月9日及び同月13日),推薦委員会(2月2日),道徳研究実践部会(2月7日,同月22日及び同月23日),道徳授業研究会(2月16日),卒業・終了認定会議(2月20日)及び生徒指導全体会(2月28日),の会議への出席,③その他,第3学年の学年主任としての学年会等の業務及び進学関連業務,に大別することができる。なお,②の各会議のうち,運営委員会,進学指導委員会,推薦委員会及び卒業・終了認定会議への出席は,③の業務の一環でもある。
そこで,これらの時間外勤務について,控訴人に対して黙示の時間外勤務命令が発せられていたものと認められるかどうか検討する。
(ア) ①の社会科担当教員としての職務について
上記1認定のとおり,1月10日に学年末試験が実施されたことによると,控訴人は,試験の日程に合わせて,当該時期に自主的な判断で自発的にテスト用紙の作成及びテストの採点を行ったものであることが推認される。2月14日の指導計画をまとめる作業については,この時期にA校長から,この作業をすることを指示されたというべき具体的な状況を認めるに足りる証拠はない。そうすると,①の職務の遂行が勤務命令によってされたものと認めることはできない。
(イ) ②の会議への出席について
上記1に認定したとおり,これらの会議については,A校長が主宰し,同校長が実際に出席したものが少なくないが,(a)職員協議会及び生徒指導全体会については,同校長から年度当初に,勤務時間終了後は用事のある人は退席してよい旨が告知されており,(b)道徳研究全体会,道徳研究実践部会及び道徳授業研究会については,勤務時間終了後は退席してもよい旨の申合せがされており,(c)実際に,これらの会議については,退席していた教員がおり,これによって不利益が課せられたことはなかったこと,(d)運営委員会,進学指導委員会,推薦委員会,卒業・終了認定会議については,上記(a)及び(b)と同旨の告知又は申合せはなかったものの,学校全体の問題について協議する職員会議である職員協議会についての出席の拘束性が上記のとおりであったので,特に明示の指示がない限り,これらの会議についても同様に認識されていたものと推認される上,控訴人は,第3学年の学年主任として,これに積極的に出席する意欲を有していたもので,これら会議がいずれも教員の本来的職務に付随する業務に関するものであることに照らしても,控訴人の自発的な意思が拘束されるべき状況にあったとは認められないこと,更に(e)控訴人は,当時,A校長に対して,勤務が時間外に及んでいることにつき,苦情を述べたり,改善を申し入れることがなかったこと,がそれぞれ明らかである。そして,乙2,6,14号証,原審における証人Aの証言及び弁論の全趣旨によると,大府北中のある愛知県知多地方北部は,教職員の勤務時間や休暇等に関する権利意識が強く,勤務時間を過ぎれば退席してよいとの慣行が相当程度,定着していたことが認められるのである。これらを考え併せると,本件において,勤務時間外に及んだ会議の出席に関し,控訴人に対して黙示的に勤務命令が発せられていたものと認めることは困難である。
(ウ) ③の第3学年の学年主任としての学年会等の業務及び進学関連業務についてこのうち,学年会及び進学関連業務に関する当裁判所の判断は,原判決が説示(原判決207頁6行目から209頁10行目まで)するとおりであるから,これを引用する。そして,本件において,A校長が控訴人に対し,他の学年主任としての業務及び進学関連事務の遂行に関して,勤務時間外に勤務することを黙示的に命じたものと認めるに足りる証拠はない。
なお,上記1認定事実,乙2,6号証,原審における証人Aの証言及び弁論の全趣旨によれば,A校長は,控訴人の教員としての経験,大府北中において第1学年及び第2学年の学年主任を歴任してきた実績などから,控訴人が単に学校管理規則に定められた学年主任としての職責を果たすだけでなく,公立高校入試における複合選抜制度導入の初年度である昭和63年度において,第3学年を担当する他の教員を指導,助言し,進学関連業務を始めとする業務を適切に遂行することを期待していたことが認められ,また,控訴人も,A校長のこうした期待を受け止めて,積極的に第3学年の学年主任を引き受けたことが推認される。
控訴人は,学年主任としての業務及び進学関連業務に関して時間外勤務が極めて長時間に及んだ旨を主張し,これに沿う供述をしているが,上記の控訴人が置かれた地位ないし立場に照らすと,むしろ,控訴人において,第3学年を担当する教員の時間外勤務を少しでも減らすために力を尽くすことが期待されていたものというべきである。
(3) 以上によれば,控訴人に対して,明示又は黙示を問わず,A校長から時間外勤務命令が発せられたものと認めることはできない。そこで,その余の点について判断するまでもなく,時間外勤務命令が発せられたことを前提とする控訴人の主張については,いずれも理由がない。
控訴人は,教職員の職員会議への参加が校長の指示,職務命令に基づく旨を判示した判例(最高裁昭和44年(行ツ)第26号昭和47年4月6日第一小法廷判決・民集26巻3号397頁)が示す経験則によれば,本件において,A校長の時間外勤務命令の存在を認定すべきである旨主張する。しかし,同判例は,本件と事案を異にし,本件に適切でないから,上記の判断を左右するものではない。
3 管理義務違反について
(1) 当裁判所も,A校長及び被控訴人愛知県の管理義務違反をいう控訴人の主張は,理由がないものと判断する。その理由は,次のとおり,補正するほか,原判決が説示(原判決210頁4行目から217頁9行目まで)するとおりであるから,これを引用する。
ア 原判決211頁4行目から5行目にかけての「原告は自発的,自主的に時間外勤務をしていたものであり,」を「A校長は,控訴人が自発的,自主的に時間外勤務をしていたものと認識していたのであり,」と改める。
イ 同214頁11行目の「A校長の」から,215頁4行目までを,「前記1認定のとおり,勤務時間終了後は,その出席を強制されているものではなかったこと,控訴人は,A校長に対して勤務時間の割り振りを要請したこともなかったこと,などによると,直ちに控訴人の主張するような管理義務違反があったということはできない。」と改める。
ウ 同215頁9行目ないし216頁1行目を削除する。
(2) 控訴人は,勤務時間内に処理できない業務をさせることは,それ自体,管理義務違反であることが明らかであり,本件において,勤務時間を管理する責任を負っていたA校長の管理義務違反があったというべきである旨主張する。
ア 確かに,上記1認定のとおり,控訴人の1月及び2月の時間外勤務は長時間に及んだことが認められるが,本件において,A校長が控訴人に対して,勤務時間内に処理することができないことを認識しながら,特定の業務をさせたことを認めるに足りる証拠はない。
イ ところで,昭和46年に給特条例が制定され,愛知県下の公立学校の教職員については,それまで適用されていた労働基準法37条の時間外,休日及び深夜勤務による割増賃金に関する規定は適用されないものとされ,これに代えて,新たに,俸給月額の4%に相当する額の教職調整額が支給されることになった。しかし,これにより,教員が本来の勤務時間を超えて勤務をすることが当然であるとされたというような運用をすることは,同条例7条2項が時間外勤務を命ずることができる場合を,①生徒の実習に関する業務,②学校行事に関する業務,③教職員会議に関する業務及び④非常災害等やむを得ない場合に必要な業務,の各業務に従事する場合で臨時又は緊急にやむを得ない必要があるときに限った趣旨を没却するものとして,許されるものではないというべきである。そうしてみると,A校長には,当時,大府北中において,時間外勤務が極めて長時間に及んでいた状況を改善すべくなんらかの措置を執る必要があったものというべき余地があり,これらの措置が十分でなかった点においてやや適切でなかった面があるというべきである。
しかし,上記1認定のとおり,A校長は,職員協議会等については会議途中であっても勤務時間が終了すれば,用事のある人は退席してもよい旨を全教職員に対して告知しており,また,本件道徳研究についても,第3学年担当教員に過大な負担とならないように配慮していたのである。そして,控訴人は,学年主任としての業務及び進学関連業務のために多くの時間外勤務をしているところ,上記2(2)イ(ウ)のとおり,控訴人の地位ないし立場に照らすと,これらの業務については,控訴人自らが第3学年の教員の勤務態勢に関して大きな影響力を有していたのであって,A校長に対して適切な処置を求めることを含め,その改善を図るために主導的な役割を果たすことができたのは,控訴人をおいて外になかったものというべきである。そうしてみると,本件における控訴人の時間外の勤務について,A校長に違法な管理義務違反があったという控訴人の主張を採用することはできない。
4 控訴人の主張する損害について
(1) 上記のとおり,控訴人に対する時間外勤務命令が存したものと認めることはできず,また,A校長らの管理義務違反をいう控訴人の主張も採用することはできない。しかし,控訴人の1月及び2月における時間外勤務が長時間に及んだことは,上記認定のとおりであり,これについてのA校長の対応に適切でなかったというべき余地がないではないことから,控訴人が被ったと主張する損害について検討することとする。控訴人は,健康を害された旨も主張するが,この点を的確に証する証拠は存しないことから,以下においては,その主張する精神的苦痛について検討する。
(2) 本件における控訴人の被控訴人らに対する損害賠償請求は国家賠償法1条及び3条に基づくものであるところ,不法行為により精神的苦痛を被ったことを理由とする損害賠償を認めるためには,その精神的苦痛が法的保護に値する程度のものであることを必要とするのである。これを本件についてみるに,上記認定事実及び弁論の全趣旨によると,控訴人は,教師としての理念,価値観により,その遂行すべき業務に序列を置き,本件道徳研究及び進学関連事務等については,低い評価を与えていたことが推認される。そして,こうした意欲のわかない業務に従事しなければならない状況に置かれたことにより,控訴人が拘束を受け,強制的に勤務に従事させられたとの感情を抱き,一定の不満を抱いていたことがうかがわれるところである。
しかしながら,上記1認定のとおり,控訴人が時間外勤務によって処理した業務は,いずれも当時の大府北中における教員,殊に第3学年の学年主任としての本来の職務に属するもの,又はこれに準ずるものであって,必要のないものは存しないことが認められる。なお,この点に関し,控訴人は,本件道徳研究は,教師の教育の自由を侵害するおそれがあるものである旨主張するが,本件における証拠を検討しても,これを認めることはできない。
そして,上記1認定事実,甲1ないし3号証,12号証,当審におけるDの証言及び弁論の全趣旨によれば,本件においては,次の(ア)ないし(オ)の事情を認めることができ,控訴人が本件の時間外勤務において従事した上記の具体的な業務内容に,これらの事情を考え併せると,本件において控訴人が抱いた不満について,法的保護の対象になる程度の精神的苦痛を被ったものと認める余地はないというべきである。
(ア) 担当教科等の時間数について
控訴人は,昭和63度において,勤務年数が35年に及ぶベテラン教師であったところ,担当教科等の時間数は,19時間であった。昭和63年度に第3学年を担当した教員は,控訴人を含めて13人であったが,その担当教科等の時間数をみると,最も少ないBが16時間,最も多いCが23時間であって,19時間というのは,第3学年の中では少ない方であった。そして,第3学年には9クラスあったが,控訴人は担任するクラスを持っていなかったのである。また,控訴人自身の他の年度における担当教科等の時間数をみると,昭和62年度は,第2学年の学年主任であったが,この年は22時間,平成元年度は,担当学年が第2学年であったが,19時間であった。そうすると,担当教科等の時間数からみると,昭和63年度の19時間というのは,他の教員及び控訴人自身の他の年度と比べ,負担の大きなものであったということはできない。
(イ) 学年主任としての事務処理について
控訴人は,第3学年の学年主任として,校長の監督を受け,第3学年の教育活動に関する事項について連絡調整及び指導,助言に当たるべき職務を負っていた。ところで,第3学年を担当する教員は13名であったが,そのうち,控訴人を含めた10名は,昭和62年度に第2学年を担当していたものであり,控訴人が第2学年の学年主任であったことによれば,控訴人は,他の9名の教員につき,これを指導,助言しやすい立場にあったものと認められる。
(ウ) 進学関連業務について
公立高校の受験制度として,昭和63年度に複合選抜制度が初めて導入されたことにより,進学関連業務が大幅に増大したことがうかがわれるが,控訴人は,第3学年の学年主任を担当することが予定されていたことから,県教委が昭和62年に実施した同制度に関する説明会に出席しているのである。また,控訴人は,D教諭が昭和63年度に初めて進路指導主事を担当することになった者であることを知っており,同教諭を指導する立場にあったことを認識していたものと推認することができる。こうしたことによると,控訴人としては,昭和63年度における進学関連業務は,第3学年を担当する教員にとって例年以上に負担が大きくなることを想定し,年度当初から入念に計画を立案し,業務を計画的,効率的に遂行することによって,進学関連業務から生ずる時間外勤務を最小限に押さえるための配慮をすることが期待される立場にあったものというべきである。
(エ) 本件道徳研究に関する事務について
本件道徳研究の関係では,進路指導に従事する第3学年担当教員の負担が大きくならないように配慮されており,しかも,控訴人は,この関係では,実践部の校門指導並びに記録部の写真等の撮影及び整理の依頼を受けていたが,このうち,校門指導については,朝の生徒の登校時に交代で校門に立って生徒が挨拶できるように指導するものであり,また,写真等の撮影と整理についても,実際には,他の教諭が中心となって行っていたものであって,いずれもさほどの負担となるものではなかった。
(オ) A校長との折衝等について
控訴人は,1月から2月の間,A校長に対し,時間外勤務が多い状況を改善するように申し入れることがなかった。そして,控訴人は,3月に,A校長に対し,平成2年度においても第3学年を担当し,学年主任をすることを希望する旨を表明した。
5 以上のとおりであって,控訴人の本訴請求をいずれも棄却した原判決は相当であり,本件控訴は理由がないから,これを棄却することとし,控訴費用の負担について民事訴訟法67条,61条を適用して,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 大内捷司 裁判官 佐久間邦夫 裁判官 加藤美枝子)