名古屋高等裁判所 平成13年(う)268号 判決 2002年4月16日
主文
本件控訴を棄却する。
当審における未決勾留日数中260日を原判決の刑に算入する。
理由
本件控訴の趣意は、弁護人橋詰洋三作成の控訴趣意書に記載のとおりであるから、これを引用する。
論旨は、要するに、原判示第二の殺人未遂について、被告人にはA(以下「被害者」という。)殺害の意思がなく、殺人の実行行為もなかった上、被害者が車ごと海中に飛び込んだこと自体甚だ疑わしいところであって、殺人未遂の事実を認定した原判決は事実を誤認したものであり、これが判決に影響を及ぼすことは明らかである、というのである。
そこで、原審記録を調査して検討すると、原判決挙示の関係各証拠を総合すれば、原判示殺人未遂の事実は優に認められ、その理由として原判決が(補足説明)の項で認定説示するところも概ね相当として是認できる。原判決に事実の誤認はなく、当審における事実取調べの結果を加えて再考しても、この結論には変わりがない。
すなわち、原判示関係証拠によれば、被告人(昭和44年生)及び被害者(昭和47年生)の経歴、両名の平成9年10月以降の交際関係、被告人の経済的な困窮状況のほか、被告人が、口実を設けて被害者を巨額かつ多数件の生命保険等に加入させた上、平成11年8月被害者との(真意に基づかない)婚姻届を提出した(原判示第一の犯行)後、保険金等の受取人の名義を被告人に変更したこと、その間、被害者に対し、暴行を加えるなどして執拗に立替金等の返済を要求し、金を返せないのなら死んで保険金で返せなどと言ったこと等については、原判示(補足説明)二1(一)ないし(六)のとおりであると認められ、また、被告人が、ついに被害者が車ごと海に落ちて死亡する事故死を装って被害者を殺害することを企て、平成12年1月9日、同月10日と2回にわたり被害者を連れて自動車で原判示a漁港に赴いたものの実行にまで至らなかったことについては、同(七)ないし(九)のとおりであると認められ、更に、被告人が原判示第二の同月11日深夜、被害者をして真冬の海に車ごと飛び込ませたが、海中で車外に出た被害者が停泊中の漁船にロープを使って同船に這い上がるなどしたため、未遂に終わったこと、被害者がB方で助けを求め、同人に事情を説明するとともに勤務先のCにもことの経緯を訴え、Bが警察に通報して車の引上げに至ったこと等については、同(一〇)のとおりであると認められるのであって、殺人未遂の事実はたやすく否定できないところである。
これに対し、所論は、まず、被害者が車ごと海中に飛び込んだということについては証拠上疑いがある、すなわち、<1>本件車両(BMW)はオートマチック・トランスミッション車であり、被害者が一旦運転席に乗り込んだ後、車外に出てから車両のみを海中に落下させることは十分に可能であったこと、<2>体重約60キログラムの肥満体で運動神経も優れていない被害者が、真冬の海中に落下した車内から抜け出て、停泊中の漁船後部に垂れ下がっていたロープを巧妙に上って同船に乗れたというのは、経験則上容易に信じられず、甚だ不自然であること、<3>被害者がB方に助けを求めた時、外傷はなく、ローファーの靴を履いていたこと等に照らしても、車両ごと海中に飛び込んで、その後車外に出たとは考えられないのであって、これらのことは被告人がるる訴えているところであり、この点に関する被害者の供述は信用できない、という。
しかし、この点に関する被害者の供述は、具体的で真実性に富み、特異な自己の体験を認識と記憶のままに述べていることが看取され、直後のBやCに対する説明から捜査段階及び原審を通じて当審までほぼ一貫していて反対尋問等にも揺るぐところがないものである上、客観的な車体の損傷状況等とも整合もしくは符合しているから、全体として十分信用できるものと認められる(被害者が海に落ちる前の車内から脱出しながら、海から這い上がったように芝居し、被告人を陥れるため嘘をつき続けているとの疑いはない。)。所論<1>の点については、被告人の想定するような車外からアクセルを操作するなどの方法では、車体の損傷状況や海中での発見位置等から推定された時速約20キロメートルという飛び込み速度を確保することは極めて困難であると認められるし、同<2>の点については、被害者は水泳が得意であって、女性の比較的厚い皮下脂肪で体温の急激な低下を免れたとも考えられ、必死になればロープを掴んで漁船に這い上がることも決して不可能ではなく、同<3>の点についても、特に不自然視するほどのものとはいえないから、所論指摘の諸点は原判示殺人未遂の事実に合理的疑いを生じさせるものではない。この所論は採用できない。なお、所論は、被告人は車ごと海に飛び込む前後の被害者の動静を見ておらず、現場から離れた位置に自車(トヨタマークII)を移動させていたのであって、被害者の車は全く見えなかった旨の被告人の供述を覆すに足りる実質的な証拠はない、というが、この点に関する被告人の供述は実況見分の際の被告人の説明や被害者の供述に比照してそのままには信用できないから、この所論は採用するに由ない。
ところで、所論は、本件において被害者は被告人から逃れ、その前から姿を隠して生き残るために、自己の自由な意思決定に基づいて車ごと海に飛び込んだものであるから、被告人の指示が殺人の実行行為に該当するはずはなく、自殺教唆の未遂を構成する余地もない、一方、被告人には自ら被害者を殺害する意思はなく、単に金銭面で大きな迷惑を掛け続けた被害者に対し自殺を実行させる意思があり、これを要求したにすぎないが、被害者には自殺の意思が生じなかったのであるから、せいぜい強要罪の成否が問題となるに止まる、と主張する。
しかし、関係証拠によれば、原判示(補足説明)三2(二)ないし(四)のとおりであって、被害者は決して自己の自由な意思で車ごと海に飛び込んだものではなく、他の選択肢を選ぶことのできない心理状態において、被告人から強制されて車ごと海に飛び込んだものと認められ、同四3のとおり、被告人においても、そのような被害者の状態を利用して、被害者に対し車ごと海に飛び込むことを指示したものと認められる上、車ごと海に飛び込む被害者の行為には、その生命侵害の現実的危険性が認められるから、被告人の殺害意思及び殺人の実行行為性は否定できないところである。すなわち、関係証拠によると、上記(補足説明)のとおり、被害者は、もともと暴力を振るう人には逆らわず、言われるままに行動するという性向が見られるところ、被告人との交際を通じ、被告人から立替えたホストクラブでの飲食代金200万円の返済を強く迫られ、脅され、暴力を振るわれるなどしたことで、服従関係が生じ、約2年間にわたりいわゆる風俗店等で稼いだ現金の大半を差し出し続け、被告人に言われるがまま災害死亡時総額5億9000万円の生命保険等に加入し、偽装の婚姻届を提出し、死亡保険金の受取人を被告人に変更し、遺書めいた手紙を作成して銀行の貸金庫に入れるなどしたが、まとまった返済資金を用意するあてはなく、被告人の監視下から逃げ出したり実家の両親らに助けを求めたりすることも心理的に不可能な状況に置かれていたこと、被告人から、本件当日まで3夜連続で被告人方から現場に連れて行かれ、車ごと海に飛び込んで死ぬよう執拗に強く迫まられ、暴力も振るわれるなどしたことのほか、被害者は日頃自動車を運転する機会が全くなかったこと、BMWは被告人の使用車両であること等が認められるのであって、しかも、もともと被害者には自殺する理由などないのであるから、(補足説明)三2(三)(四)のように、被害者は他に選択肢のない精神状態に陥り、被告人に強制されて意思決定の自由を制限された状況において車ごと海に飛び込んだものと認めるほかないのである(追い詰められた被害者が被告人から逃れて姿を隠すためには車ごと海に飛び込むほかないと考えたことは、所論指摘のとおりとしても、これをもって、被害者の自由意思による選択などということはできない。)。そして、被告人は、上記のような被害者との交際等を通じて自己が被害者を支配していることを十分に認識していたものと認められる上(一時期同棲していたDに対し、自殺と見せかけて被害者を殺害する考えを打ち明けた際、「あいつ(被害者の意)は俺の言うことなら何でも聞く」などと言っていたことも、その一つの証左である。)、本件現場では、(補足説明)二1(一〇)のとおり、被害者を車両の座席に座らせ、車内に本やカメラを入れた後、被害者に対し、ドアをロックし、窓を閉め、シートベルトを着用し、ブレーキ痕を付け、転落直前に点灯すること等を具体的に指示し、被害者が飛び込む時も現場近くに留まり、その直後には車が海中に転落したのを確認するため現場に戻ったこと、a漁港の岸壁から車ごと海中に飛び込むことは、その生命を侵害する現実の危険性が大きいものであったこと等が認められるから、被告人に被害者殺害の意思があったことは明らかであるし、被害者の行為を利用した殺人の間接正犯としての実行行為性も到底否定できないところである(威迫等によって被害者が抗拒不能の絶対的強制下に陥ったり意思決定の自由を完全に失っていなくても、行為者と被害者との関係、被害者の置かれた状況、その心身の状態等に照らし、被害者が他の行為を選択することが著しく困難であって、自ら死に至る行為を選択することが無理もないといえる程度の暴行・脅迫等が加えられれば、殺人罪が成立すると解すべきである。なお、弁護人は当審弁論において、被告人は被害者が自殺を承諾したものと認識していたから、事実の錯誤がある、と主張する如くであるが、被告人と被害者との間で自殺というような言葉が交わされたとしても、被害者が真意に基づいて自殺するものでないことは被告人が十分に認識していたものと認められるから、事実の錯誤ではなく、せいぜい当てはめの錯誤が問題となるにすぎず、この所論は採用しない。)。もっとも、被告人は、原審において被害者の供述には措信できない点が多い旨述べ、当審においても、被害者の具体的な言動等に照らし、被害者は被告人に服従していたものではなく、むしろ被告人こそ被害者に騙され利用されていた旨供述するが、これらの被告人の供述は関係証拠と比照してそのままには措信し難いところであって、叙上の結論を変更するに足りない。
以上のとおりであるから、原判決に事実の誤認はなく、論旨は理由がない。
よって、刑訴法396条により本件控訴を棄却し、刑法21条を適用して当審における未決勾留日数中260日を原判決の刑に算入し、当審の訴訟費用は、刑訴法181条1項ただし書を適用して被告人に負担させないこととし、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 堀内信明 裁判官 手崎政人 裁判官堀毅彦は転補のため署名押印することができない。 裁判長裁判官 堀内信明)