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名古屋高等裁判所 平成13年(う)443号 判決 2002年7月24日

主文

原判決を破棄する。

被告人を懲役1年に処する。

この裁判確定の日から3年間刑の執行を猶予する。

原審及び当審における訴訟費用は被告人に負担させる。

理由

1  本件控訴の趣意は,検察官足立敏彦作成の控訴趣意書に,これに対する答弁は,弁護人萱垣建作成の答弁書に,それぞれ記載されたとおりであるから,これらを引用する。

論旨は,要するに,原判決は,被告人が犯人であると断定することには合理的な疑いが残り,結局,本件公訴事実については犯罪の証明がないとして無罪を言い渡したが,被告人が犯人であることは明らかであるから,原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認がある,というのである。

2  そこで記録を調査し,当審における事実取調べの結果を併せて検討する。

原判決が認定説示するとおり,関係証拠によれば,被害者が,公訴事実のようなわいせつ被害に遭ったこと自体は明白であって,本件の争点は,専ら被害者に対して本件わいせつ行為に及んだ犯人が被告人であるか否かである。

この点について,原判決は,「被害者が被告人の上着の一部ないし身体の一部を掴んだ状況からみて,その直前まで被害者と密着していた犯人と被告人とを取り違える可能性は少なく,その他被害者が犯人を特定した事情,被害者と被告人の位置関係からみて,被告人が犯人である疑いは強い。」としながらも,①被害者の背後右側に被害者に接着して人がいた可能性があり,したがって,被告人以外に犯行をなし得る者がいた可能性があること,②JR甲駅到着後,被害者が犯人をつかまえようとした際,被害者の背後の乗客が移動した可能性も否定できないから,被害者が犯人以外の者をつかんだ可能性がおよそあり得ないという状況ではないこと,③被害者は,犯人の顔を確認していないこと,④被告人の自白について,「虚偽の自白供述をする可能性は想定できないものでもない。」こと等を指摘して,結局のところ,「被害者の供述と被告人の自白供述を併せて検討しても,犯人を被告人と断定することにはなお合理的な疑いを残すといわざるを得ない。」という。

3  そこで,原判決が指摘するこれらの点について検討する。

(1)  被告人以外に犯人がいた可能性について

原判決は,被害者の左後ろに被告人が,右斜め後ろにアタッシュケースを両手で持った男性(以下,「アタッシュケースの男」という。)がいたことを前提に,被告人とアタッシュケースの男との間にも被害者に接着して人がいた可能性があり,したがって,被告人以外に犯行をなし得る者が存在しなかったわけではないという(上記①)。原判決がこのようにいう根拠は,被害者自身が原審公判廷において,アタッシュケースの男と被告人との間に人がいたかもしれないと述べたことにあるとみられる。

そこで先ず,被害者が原審公判廷において,このような供述をするに至った経緯をみると,被害者の体とアタッシュケースの男の体とは接着していなかったが,二人の間にはすき間はなかった旨被害者が述べた点に関して,原審裁判官が,「そうすると,その間に誰か人がいたんでしょうか。」と質問したのに答える形で述べられたものであることが明らかである。

ところで,当日,被害者は,混雑する列車の中で,教科書や筆記用具の入った青色ビニール製バッグ(横約38センチメートル,縦約27センチメートル,巾約13.5センチメートル,手提げ用の紐を合わせた全体の高さ約47センチメートル)を右肩から下げていたのであるから,被害者とアタッシュケースの男とは接着してはいないものの,そこに人が立つことが可能なほどのすき間はない状態であったと認められる。そうだとすると,「くっついてはいないが,すき間はなかった。」旨述べた被害者の供述自体は,必ずしも不合理なものではないというべきである。この点について,被害者は,当審公判廷において,原審裁判官の質問に答えているうちに,結果として,自分とアタッシュケースの男との間に人がいた旨述べてしまったものであって,自分の認識とは異なる旨明確に述べている。これを踏まえて検討すると,被害者は,自分がアタッシュケースの男と接着していなかったとすると,身動きもできないような本件当時の列車内の混雑状態からすれば,自分とアタッシュケースの男との間に他の乗客がいたためにすき間がなかった可能性もあり得ると考え,原審裁判官からの質問に対し,つじつまを合わせようとした結果,これを肯定する趣旨の供述をするに至ったものと理解される。

一方,被告人自身も,原審公判廷において,被害者の右横にアタッシュケースの男がいたが,その男が持っていたアタッシュケースが被告人の両膝に当たり,嫌な思いをした旨述べているのであって,被告人のこの供述に照らしても,被告人とアタッシュケースの男との間,更には被害者とアタッシュケースの男との間には人はいなかったことが明らかである。

そうすると,原審公判廷における被害者の上記供述部分は,自らの認識を述べたものではなく,原審裁判官の質問に触発された不確かな推測を述べたものであって,信用性がなく,採用できないというべきである。このような被害者の原審における上記供述部分に基づき,被告人以外に犯人が存在した可能性があるとした原判決の判断は,その前提を欠くという他なく,これをもって被告人を犯人と認定することに合理的な疑いをいれる余地があるということはできない。

(2)  被害者が犯人以外の者をつかまえた可能性について

原判決は,JR甲駅でドアが開いた直後ころ,被害者が犯人をつかまえようとした際,被害者の背後にいた乗客が移動する可能性もあったから,被害者が犯人以外の者の体をつかんだ可能性も否定できないという(上記②)。確かに,被害者はその下半身を触った犯人の手そのものをつかんだわけではないし,被害者が犯人の方に向きを変える間に後ろの人が移動することも全くあり得ないわけではない。

しかしながら,JR甲駅到着ころの列車内は,身動きが困難なほど混雑しており,列車のドアが開いて下車するに際し,乗客は押し出されるようにして順次車外に出る他ない状態であったというのであるから,被害者と犯人との相互の位置関係が大きく変わることはないし,仮に変化があったとしても,その程度はおのずと限られるというべきである。しかも本件では,犯人は直前まで被害者の体に自分の体を密着させていたのであるから,被害者が体を回転させて背後の犯人の体をつかもうとした際に,犯人以外の者の体をつかむ余地はなかったというべきである。したがって,被害者が犯人以外の者をつかんだ可能性があり得ないわけではないとした原判決の判断は,首肯できないというべきである。

(3)  犯人の特定について

原判決は,被害者は犯人の顔を確認していないとして,この点を被告人を犯人と断定できない事情のひとつとして指摘している(上記③)。確かに,被害者は,一貫して犯人の顔までは確認していない旨述べている。しかしながら,これまでみてきたように,本件全証拠を子細に検討しても,本件当時における被害者との位置関係などから,被告人の他には犯人である可能性のある人物の存在は認められないこと,本件被害者が被害を受けた直前直後には,犯人は被害者に体を密着させた状態でその背後におり,被害者はその犯人の体をつかんでいることや,被害者は,犯人がうす茶色のスーツを着用していたことを確認しており,被告人も当時うす茶色のスーツを着ていたことが明らかであること等を総合すれば,被害者が犯人の顔を確認していないことは,被告人と犯人との同一性に合理的な疑いを抱かせるに足りるものではないというべきである。

(4)  被告人の捜査段階での自白の信用性について

被告人は,捜査段階で,一旦は犯人であることを認める供述をしていたのであるが,その自白について,原判決は,任意性を疑わせるような事情はないとしながらも,当日予定されていたコンピューターのセミナーに出席できないことへの不安を感じた被告人が,「自らの否認供述を信用してもらえる可能性と自白供述をした場合の利益,不利益を考量し,迷惑防止条例違反の限度で虚偽の自白供述をする可能性は想定できないものでもない。」とし,さらには,被告人と被害者との位置関係について,被害者は一貫して,犯人は自分の左後ろに立っていたと述べているのに対して,被告人は被害者の右後ろに立っていたと述べることから,捜査段階での被告人の自白には全面的に依拠できず,被告人が犯人であると断定するには合理的な疑いが残る,という(上記④)。

しかしながら,関係証拠を総合すると,被告人は,取調べ当初は否認していたものの,取調べ開始から約3時間後には犯人であることを認めるに至ったこと,犯行状況の再現についても捜査官からの指示などを受けることなく自ら行っていること,この間,逮捕,勾留などの身柄拘束は受けていないこと,取調べ前に,痴漢に間違えられている旨被告人から連絡を受けていた上司が,取調べ後に警察署に身柄引受に来た際にも,被告人は犯人であると認めたことについてなんら上司に報告や相談をしていないこと,それから約2か月後に行われた検察庁での取調べの際にも,当初は犯人であることを争っていなかったことが認められる。そして,これらの各事実にかんがみると,虚偽の自白をした理由として被告人が述べるところは,いずれも根拠がいかにも薄弱であるといわざるを得ない。

また,被害者は,一貫して,犯人は被害者の背後左側辺りにいた旨述べているのに対し,被告人は,被害者の背後右側にいたと述べており,被害者の供述と被告人の供述との間には,被害者と被告人の位置関係に関してくい違いがみられる。しかし,既に検討したとおり,被害者の位置関係等からしても,本件の犯人である可能性のある人物は,被告人以外にはいなかったことが証拠上明らかであるから,被害者の供述と被告人の供述内容とに上記のようなくい違いがあったとしても,そのくい違いは重要なものとはいえず,この点もまた被告人の自白の信用性を左右する余地はないというべきである。

以上のとおり,犯人であることを認める被告人の捜査段階での自白も十分に信用できる。

4  そうすると,原判決が,被告人を犯人と断定するには合理的な疑いが残るとして指摘する各事情は,いずれも被告人が犯人であると推認することに合理的な疑いを差し挟むものとはいえず,さらに弁護人がるる指摘するところにかんがみつつ検討しても,被害者の供述をはじめ,被告人の捜査段階における自白など関係各証拠によると,被告人が犯人であることが明らかであって,犯罪の証明は十分というべきである。そうすると,犯罪の証明がないとして被告人に無罪を言い渡した原判決には,判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認があるといわねばならない。論旨は理由がある。

よって,刑訴法397条1項,382条により原判決を破棄し,同法400条ただし書により更に判決する。

(罪となるべき事実)

被告人は,平成12年5月24日午前7時37分ころから同日午前7時42分ころまでの間,JR乙駅とJR甲駅間を走行中のJR丙駅発JR丁駅行快速列車車両内において,A(当時17歳)に対し,強いてわいせつ行為をしようとして,そのスカートの上からでん部を撫で,さらに,スカート内に手を差し入れてパンティの上からでん部を撫でた上,パンティ内に手指を差し入れて陰部をもてあそぼうとしたが,同女に右手をつかまれたため,陰部に触ることができず,その目的を遂げなかった。

(証拠の標目)

(法令の適用)

被告人の所為は刑法179条,176条前段に該当するところ,所定刑期の範囲内で被告人を懲役1年に処し,同法25条1項を適用して,この裁判確定の日から3年間刑の執行を猶予し,原審及び当審における訴訟費用は,刑訴法181条1項本文を適用して被告人に負担させることとする。

(量刑の理由)

本件は,満員の電車内でのいわゆる痴漢行為の事案であるが,満員のため思うように身動きがとれない当時高校生であった被害者のでん部を触るなどした上,さらには陰部にまで手を延ばそうとしたものであって,その犯行は執ようで悪質といわなければならない。被害者の受けた屈辱感や精神的苦痛は大きく,慰謝の措置がとられていないこともあって,その被害感情には厳しいものがある。こうした事情からすると,被告人の刑事責任は軽視できない。

もっとも,強制わいせつ行為は未遂に終わっていること,被告人に前科,前歴はなく,会社員として真面目に稼働してきたものであること,妻子がいることなど被告人のために酌むべき事情も認められるので,これら事情をも総合考慮して,今回に限り刑の執行を猶予することとする。

よって,主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 川原誠 裁判官 村田健二 裁判官 堀内満)

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