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名古屋高等裁判所 平成13年(行コ)28号 判決 2003年7月08日

控訴人 豊田労働基準監督署長

代理人 町田鉄男 鉾田達人 近藤健一 安福達也 前田節男 濱野健 ほか5名

被控訴人 甲野花子(仮名)

主文

1  本件控訴を棄却する。

2  控訴費用は控訴人の負担とする。

事実及び理由

第1控訴の趣旨

1  原判決を取り消す。

2  被控訴人の請求を棄却する。

3  訴訟費用は、1、2審とも、被控訴人の負担とする。

第2事案の概要

1  本件は、訴外トヨタ自動車株式会社(以下「訴外会社」という。)に勤務していた訴外Aが、昭和63年8月26日ビルから飛び降り自殺したことが業務に起因するうつ病によるものであるとして、Aの妻である被控訴人が、岡崎労働基準監督署長に対し、労働者災害補償保険法(以下「労災保険法」という。)に基づく遺族補償年金及び葬祭料の各給付を請求したところ、同署長から事務の移管を受けた控訴人が、平成6年10月21日、Aの自殺は業務に起因する疾病による死亡とは認められないとして、被控訴人の各請求につき不支給処分をしたため、被控訴人が控訴人に対し、上記不支給処分の取消しを求めた事案であり、原審が請求を認容する判決を言い渡したので、これに不服がある控訴人が控訴したものである。

なお、以下では、原判決の略称に従うこととする。

2  争いのない事実等

原判決の事実及び理由欄の「第3」の「2 争いのない事実等」に摘示のとおり(但し、原判決4頁3行目の「正式出図」を「正式図の出図」に改め、同5頁17行目の「Aは、」の後に「昭和63年7月下旬から8月上旬にかけて」を加える。)であるから、これを引用する。

3  争点

Aが罹患した本件うつ病は、業務に起因したものであるか否か

4  争点に関する当事者の主張

後記5のとおり当審における主張があるほか、原判決の事実及び理由欄の「第3」の「4 争点に関する当事者の主張」に適示のとおり(但し、次のとおり付加訂正する。)であるから、これを引用する。

(1)  原判決6頁22行目の「争点1について」を「業務起因性の一般的な判断基準について」と改める。

(2)  同19頁1行目の「争点2について」を「本件うつ病の業務起因性の有無について」と改める。

(3)  同20頁6行目の「開発成果を持って」を「開発成果を得て」と改める。

(4)  同25頁2行目の「3女」を「三女」と改める。なお、以下原判決における「3女」をいずれも「三女」と改める。

(5)  同頁15行目の「同時刻ではなく」の後に「午前」を加える。

(6)  同52頁23行目の末尾に、以下のとおり、加える。

「そもそも、業務とは、使用者の指揮命令を受けて、使用者のために行われるものであるところ、労働組合運動に使用者が介入したとすれば、不当労働行為という問題が生じるのであって、労働組合の職務に関するストレスを業務上のストレスということはできない。」

5  当審における当事者の主張の骨子

(1)  控訴人の主張の骨子

原判決は、「業務と傷病等との間に業務起因性があるというためには、単に当該業務と傷病等との間に条件関係が存在するのみならず、社会通念上、業務に内在ないし通常随伴する危険の現実化として死傷病等が発生したと法的に評価されること、すなわち相当因果関係の存在が必要である」ところ、「単に業務が他の原因と共働原因となって精神疾患を発症させたと認められるだけでは足りず(したがって、被控訴人主張の共働原因論は採用できない。)、当該業務自体に、社会通念上、当該精神疾患を発症させる一定程度以上の危険性が存することが必要である」とし、「うつ病の発症メカニズムについてはいまだ決定的な見解があるわけではないが、現在の医学的知見によれば、「ストレス―脆弱性」理論を採用するのが合理的である」としながら、相当因果関係の判断基準である「社会通念上、当該精神疾患を発症させる一定以上の危険性」を、誰を基準として判断するかという問題について、「同種労働者(職種、職場における地位や年齢、経験等が類似する者で、業務の軽減措置を受けることなく日常業務を遂行できる健康状態にある者)の中でその性格傾向が最も脆弱である者(ただし、同種労働者の性格傾向の多様さとして通常想定される範囲内の者)を基準とするのが相当である」との見解を採用しているが、このような見解は「ストレス―脆弱性」理論の誤った理解に基づき、原判決が自ら排斥した本人基準説に帰着するという矛盾を含んだ独自の判断基準を定立した明白な誤りがある。

また、上記見解に基づく業務起因性の判断においても、職場委員長への就任という明らかに業務外の出来事を業務上の出来事として判断し、Aの心理状態に重きを置くあまり、業務状況の認定において、実際の業務に当たっていたB課長及びC係員の証言及び供述を根拠なく排斥し、しかも、Aの出来事に対する捉え方と、実際に起こった出来事とを混同して認定評価するなどの誤りがある。

そして、本件においては、Aの業務上の負荷と、業務外の負荷を検討した場合、「ストレス―脆弱性」理論及びこれに依拠する判断指針に照らせば、上記両負荷は、いずれも、それ自体で客観的に精神障害を発病させるに足りるおそれがある程度の強いものとはいえないから、Aの心理面の脆弱性が本件うつ病の主な役割を果たしたというほかないのであって、業務起因性を肯定することはできない。

(2)  被控訴人の主張の骨子

「ストレス―脆弱性」理論は、脆弱性と生活上のストレスとの相関関係によるという考え方で、原因を外因、内因、心因三分説のように、脆弱性か生活上のストレスかのどちらかの二者択一で一方に決めてかかる考え方を否定し、これを克服した考え方であるのに、控訴人の主張は、精神障害の原因が生活上強いストレスを受けたことにあるか、あるいはそうではない場合は脆弱性にあるかどちらかに二者択一的に決めてしまおうとする考え方と実質的には変わらない考えに陥っている。

控訴人の主張する判断基準は、「ストレス―脆弱性」理論に依拠するとしながら、被災者が受けたストレスを具体的かつ総合的に判断できない結果を招いているのであって、現実には被災者が受けた業務上のストレスを正しく判定する基準となっていない。

心理的な負荷・ストレスの判断基準について、控訴人の主張する平均人基準説は、労働者の性格をはじめとする個体的な要因を無視する考え方であり、平均人以下の健康状態にある弱者を切り捨てる理論である。そもそも因果関係の存否が問題となる他の分野において疾病(例えば、大気汚染の事例)や自殺(例えば、学校におけるいじめが原因で生徒が自殺した事例)が問題となる場合においても、その原因は個体に即して具体的、個別かつ総合的に考えられており、平均人基準説はとられていない。

また、原判決の事実認定及び事実評価が不当であるとする控訴人の批判は、失当である。

第3当裁判所の判断

1  前提となる事実関係

<証拠略>によれば、以下の事実が認められる。

(1)  Aの経歴、家族状況、健康状態、生活状況、性格等

ア 経歴

Aは、昭和28年5月25日に名古屋市西区で出生し、昭和47年3月に愛知県立旭丘高等学校を、昭和51年3月に東京工業大学を各卒業した後、訴外会社の奨学金を受けて同大学大学院理工学研究科(材料科学専攻)に進学し、昭和53年3月に同大学院を修了して、同年4月に訴外会社に入社した。

訴外会社に入社後は、昭和53年11月に第1車両設計課の前身である第1技術部車両設計課に配属され、以来一貫してシャーシー関係の設計業務に従事し、昭和62年2月からは第1係係長の職に就いていた。なお、係長への昇進は、同期入社者の中でも比較的早く、Aの仕事振りは周囲から高く評価されていた。

イ 家族状況

Aは、中学校時代の同級生であった被控訴人と訴外会社への入社直前である昭和53年3月12日に結婚し(婚姻届の提出は同年4月1日)、2人の間には3女(昭和54年9月生、昭和58年9月生、昭和63年7月生)が出生しており、家族関係は格別の問題もなく円満であった。

被控訴人夫婦は、結婚後は名古屋市千種区<以下略>に居住していたが、昭和62年10月16日、現在の住居地である名古屋市天白区<以下略>(被控訴人の実家の隣地)に新築した居宅に転居した。

なお、被控訴人は、水曜日(午前、午後)及び土曜日(午後)に名古屋音楽学校、愛知県立明和高等学校、桐朋学園東海分室でピアノの講師を務めていたほか、自宅でもピアノの個人レッスンを行っていたが、Aの仕事優先の考え方を理解し、実家の両親の支援を受けて家事育児の一切を引き受けていた。

ウ 健康状態

Aは、高校時代にはボート部に所属して国体に出場したことがあり、大学時代にはラグビー部に所属していたほか、一般の山岳会にも所属していたスポーツマンであり、重篤な病気に罹患したこともなく、自殺した当時も身体健康上の問題はなかった。

また、Aには、精神病関係の既往歴はなく、その親族関係にも精神病関係の既往歴を有する者は存在せず、精神障害の遺伝的素因は全くなかった。さらに、アルコールは週末にビール1本程度でアルコールや薬物への依存的傾向もなかった。また、本件うつ病の発症に至るまで、Aがストレスに対して脆弱であることを窺わせる事実も見い出せない。

エ 生活状況

Aは、訴外会社に入社後、午前6時40分ころに起床し、午前7時ころ(現在の住所地に転居した昭和62年10月以降は午前7時10分ころ)に自家用車で出勤し(朝の通勤所要時間は約1時間15分)、午後10時15分から午後11時ころの間に帰宅し(帰りの通勤所要時間は約45分)、その後に夕食をとり入浴等して午前零時30分ころから午前1時ころに就寝するのが日課であり、睡眠時間は約6時間ほどであった。

オ 性格

Aの性格は、几帳面で積極性もあり責任感が強い、真面目で明るく、人あたりや人付き合いが良く、家族思いで、敵を作らず誰にでも好かれるタイプであったが、対外的な交渉でははっきりものを言うこともできた。反面、完全主義者で神経質なところがあるほか、非情になりきれないところがあり、仕事第一主義で、全部自分でやろうとして仕事を背負い込むところも見受けられた。上司のB課長も、「バランスがとれていて、優等生的であり、職場にとっては申し分のない人物」と高く評価していた。

(2)  業務上の出来事等

ア Aの業務内容

(ア) 所属部署の概要等

Aが勤務していた訴外会社は、愛知県豊田市トヨタ町に所在する輸送用機械器具製造等を業とする株式会社(平成8年9月末の資本金は3189億円、従業員数は約7万人)であり、当時のシャーシー設計部は、総括課、計画課と第1から第7までの車両設計課の9課に分かれており、Aが所属した第1車両設計課は課長以下5係で編成されていた。Aは、同課第1係係長であり、直属の上司は、同課のB課長(昭和60年2月に課長に就任、当時45歳)であった。

なお、当時の第1車両設計課の各係長は、第2係がB課長の兼務、第3係がD係長(昭和58年2月には係長に就任、当時37歳)、第4係がE係長(昭和61年2月に係長に就任、当時36歳)、第5係がF係長(昭和58年2月に係長に就任、当時46歳)であった。

第1係の係員は、Aが係長に就任した当初、C、G、H、I、Jの5名であったが、昭和62年3月に社外応援者のKが、同年5月に同Lが、同年11月に社員のMとNがそれぞれ加わり、昭和63年7月からは社外応援者のOも手伝うようになり、Aが当時指導監督していた人数は11名に増加していた(なお、Pは、A死亡以前から外注先として第1係の設計業務に関与していたが、社外応援者として訴外会社に来たのは昭和63年9月であった。)。なお、Cは係長一歩手前のベテラン社員であり、Nは新入社員であった。

また、当時の第1車両設計課の他の係の人数(社外応援者を除く社員)は、第2係がB課長外7名、第3係がD係長外5名、第4係がE係長外6名、第5係がF係長外3名であった。

(イ) 訴外会社の生産方式と設計業務の特殊性

訴外会社では、生産過程において、「ジャスト・イン・タイム」と「自働化」を特徴とした独自の生産方式を採用しており、これにより高い生産効率と人件費等のコスト削減を目指していた。

また、新車の開発や量産車のマイナーチェンジ等は、製品企画室があらかじめ設定した日程に基づいて行われていた。そして、設計業務の遅れは他の部署の日程に大きな影響を及ぼすため、設計図の出図期限は遵守すべきものであり、設計部門においては出図時期が一番の繁忙期であった。

(ウ) 第1係の担当業務について

a 担当車種、業務内容等

第1係は、シャーシー関係(サスペンション、ステアリング、シャーシーフレーム、排気管、燃料系関係部品)の設計業務を担当しており、昭和63年2月以降は、主として、アジアカー(インドネシア等のアジア地区で現地生産を行っていた商用車のことで、標準車である4×2車とその派生車である4×4車の2車種があった。)のマイナーチェンジに伴う開発設計及びライトエーストラック(4WD車と4WS車があった。)の新ステアリング開発に伴う改良設計を行うことになった。

ところで、アジアカーの4×4車は前々から計画されていたものであったが、このところ製品企画室から具体的な日程の問い合わせがあったため、出図期限を昭和63年8月末と定めたものである。また、ライトエーストラックの新ステアリングの開発は、転回の際の回転半径を小さくするため、回転操舵システムの導入を図るもので、革新的な技術の開発というものではなく、先行技術の導入という意味合いが強いものであった。

(なお、Q主査によれば、自動車の開発設計は、フルモデルチェンジ、マイナーチェンジ、改良設計の3つに大別されるが、フルモデルチェンジを100の仕事量とした場合、マイナーチェンジは20ないし60くらい、改良設計は5ないし20くらいの仕事量であるという。)。

第1係は、上記の主たる業務を遂行するとともに、従前から行っていた生産ラインからの変更依頼による改良設計業務や、既に量産化された車両に対するユーザーからの苦情に対処するためのスポット的な設計業務を行っており、当時は、ライトエーストラックのリーフスプリング異音問題(昭和63年8月23日及び同月25日に中央発條の担当者との打合せが行われ、同25日に製品企画室のQ主査との会議が行われている。)やトーションバー前後動き量大の問題について検討がなされていたほか、ライトエーストラックのPS油圧使用ダンプ開発計画(昭和63年8月2日及び同月8日にトヨタ車体の担当者らと打合せが行われている。)にも関与していた。

b 作業状況

設計業務は、先行試作設計(当該企画が成り立ちうるか否かを確認する意味合いを持つもので、基本的な部分を確認するために行われるもの)から始まり、第1次試作設計、第2次試作設計を経て正式図の出図に至るというものであり、これを受けて正式な生産が開始(ラインオフ)されることになる。

前述のとおり、第1係では、昭和63年2月から、アジアカーのマイナーチェンジに伴う開発設計及びライトエーストラックの新ステアリング開発に伴う改良設計がそれぞれ開始されていたところ、アジアカーの4×2車は、同年7月末までに先行試作設計を完了し、同年10月からの第1次試作設計を開始する予定であり、アジアカーの4×4車は、同年8月末までにその主要部分の先行試作設計を終える予定であり、また、ライトエーストラックの4WD車及び4WS車は、同年7月末までに先行試作設計を完了し、同年8月から第1次試作設計を開始する予定であった。

しかし、アジアカーの4×2車はなんとか予定どおりに先行試作が完了したが、アジアカーの4×4車に手を付けるほどの余裕がなかったため、Aは、B課長に相談し、同年7月21日に日程調整を行って出図期限を同年9月末に変更したものの、その後も業務が計画どおりに進行しなかったため、同年8月7日に再び日程調整を行って出図期限を同年10月中旬ないし同月末に再延長した。また、ライトエーストラックの4WD車及び4WS車についても予定どおりには先行試作設計が完了せず、例えば、Rrサス廻り、フレキシブルホース(ブレーキ、PS)については同年8月10日が出図期限であったが、試作日程に対しリミットである同年9月10日に変更されているし、同年7月末までに出図されたものについても、この段階で生産コストが高くつくことが判明したため、第1次試作設計を行っていく中で解決していくこととされ、同年8月18日には社内関係部署及び部品メーカーとのコスト検討会が、翌19日には設計者のみによる検討会が開催された。

上記のとおり、第1係においては、同年7月は2車種の車両の出図期限が重なって忙しい時期であったし、同年8月も仕事の遅れを取り戻すために忙しい時期であった。

係員ごとの仕事の分担状況は、アジアカーについては、N、G、I、Rが専任で担当し、ライトエーストラックについては、K、O、J、H、Pが専任で担当していたほか、M、C、Lが双方を兼任していたが、担当部品とその作業状況の詳細は原判決60頁21行目から65頁5行目までに摘示のとおりであるから、これを引用する。

c 第1車両設計課の他の係の担当車種

第1車両設計課では、第2係がトヨエース(2トン未満)とハイエーストラックを、第3係がコースターを、第4係が大型トラックとトヨエース(2トンないし3.5トン)を、第5係が特装車(宅配車、冷凍車、ミキサー車)をそれぞれ担当しており、2車種を担当していたのは第1係だけではなかった。

(エ) Aの担当業務等

a 第1係係長としての主な業務

(a) 月例報告の作成

訴外会社では、部内方針の斉一性を図るべく、各部毎に月例会議を開催することになっているところ、その際の報告書を作成する業務である。なお、月例会議は月に2回開催されるが、報告書を作成するのは原則として後半の1回だけであり、前半については必要に応じて作成することとされていた。

(b) 製造現場、販売店からのクレームに対する改良処置

製造現場、販売店からのクレームに対する改良処置について、これを検討するとともに、各係員の業務進捗状況をみて、その担当を割り振る業務である。

(c) 業務処理の管理等

設計図を予告どおり課長に提出できるようにするため、各係員の業務進捗状況をみて仕事を割り振り、係員が設計業務を行うに際して助言、指導するとともに、係員が作成した図面をチェックする業務、すなわち、日程表の原案を作成して上司の決裁を仰ぎ、日程決定後は日程が遵守されるように係員を指揮監督する業務である。

(d) 先行設計図の書き込み

フリーハンドで配置などの概略を図示することであり、係員とともに図面、パソコン画面を見ながら原案を決定する業務である。

(e) 他部署との調整

係を代表して関係部署との連絡調整を図る業務である。

(f) 生産工程現場に赴いて、改良設計の打合せを行う。

(g) 各種会議等への出席

(h) 特許申請の助言(主に手続面)

b Aの担当業務の引継

本件自殺後、Aが担当していた業務は、ライトエーストラック関係を第1係のC係員が、アジアカー関係を第5係のF係長がそれぞれ引き継ぎ、第1係係長はB課長が兼務した。

そして、F係長が引き継いだアジアカーの4×2車の第1次試作設計は昭和63年の暮れころに終了した。また、C係員が引き継いだライトエーストラックの先行試作設計の未了部分は昭和63年9月末ころに終了した。

なお、アジアカーの4×4車は、コストの関係で市場の強い要望がなかったため、昭和63年の9月か10月ころに開発計画が中止された。

イ Aの労働時間等

(ア) 昭和63年当時、訴外会社の就業規則(昭和63年2月1日改正)によれば、労働時間は午前8時30分から午後5時30分までとされ、休憩は正午から午後1時までの1時間、休日は土曜、日曜、特定休日とされていた。

また、平成10年法律第112号による改正前の労基法36条に基づき訴外会社と訴外組合との間で締結された協定(36協定)によれば、労基法上の労働時間である1週間40時間を基準として、1か月の時間外労働時間の上限は75時間とされていた。

(イ) Aの時間外労働時間

a 昭和62年9月から昭和63年8月25日までの、勤務報告表上の時間外労働時間、休日出勤日数、年次休暇取得日数は、原判決別表1、2に摘示のとおりであり、同期間中の1か月の時間外労働時間の平均は45.37時間であり、昭和62年9月から昭和63年6月までの平均は42.95時間であった(ただし、勤務報告表上表れていない残業に関しては後述する。)。

原判決別表1、2によれば、昭和63年7月の時間外労働時間数は68.5時間で、それまでの平均42.95時間に比べて格段に多く、また、同年8月の時間外労働時間数46.5時間も、同月25日までの分であり、8日間の夏休みがあったことを考慮すれば、従前に比べて格段に多いものであった。また、Aは、それまでしていなかった休日出勤を、同年7月には2日、同年8月には3日している。

b 第1係各係員の時間外労働時間

第1係各係員の、昭和62年9月から昭和63年8月25日までの期間中の1か月の時間外労働時間の平均値(なお、同期間の各月毎の時間外労働時間、休日出勤日数及び年次休暇取得日数は、原判決別表1に摘示のとおりである。)は、Cが41.33時間、Iが43.95時間、Hが46.20時間、Gが45.50時間、Jが45.54時間、Mが50.25時間、Nが44.55時間(ただし、MとNについては昭和62年11月から昭和63年8月25日までの平均値)であった。

また、原判決別表1によれば、同年7月の時間外労働時間数は、ベテラン係員のCを除く全員が他の月よりも多く、同年8月の時間外労働時間数も、JとMは50時間を超えていたことが認められる。

c 第1車両設計課の各係長の時間外労働時間

第1車両設計課の他の係長の、昭和62年9月から昭和63年8月25日までの期間中の1か月の時間外労働時間の平均値(なお、同期間の各月毎の時間外労働時間、休日出勤日数及び年次休暇取得日数は、原判決別表1に摘示のとおりである。)は、第3係D係長が38.37時間、第4係E係長が39.25時間、第5係F係長が50.20時間であった。

原判決別表2によれば、Aの時間外労働時間数は、D係長およびE係長よりも多かったが、F係長よりも少なかったことが認められる。

ウ 残業規制

(ア) 訴外会社における残業半減運動

訴外会社では、急激な円高による経営悪化に対処するために、昭和61年12月から昭和62年6月まで、事務・技術部門等の管理部門の社員を対象に、平均月間残業時間を半分にすることを目標とした残業半減運動を行った。その内容は、業務の優先順位付けの徹底と今やらなくてもいい業務を見送ること、形式化した業務をやめること、徹底的な業務の効率化、所定時間内での業務遂行が基本であることを徹底すること等であった。

そして、残業を行おうとする者は、残業の必要性を自ら上司に申告し、上司の指示を受けて残業を行うという取扱いがなされ、また、1週間に2日以上「一斉定時退場日」が設定されていた。

(イ) 第1車両設計課における残業規制

第1車両設計課においても、各月毎に係員1人平均の目標残業時間数をあらかじめ設定し、その時間内を目指した残業規制が敢行されていたが、それ以上の残業をしなければどうしても業務をこなせない者は、係長に申し出て課長の指示で残業するものとし、年間を通して調整することにしていた。

そして、上記目標残業時間数は、昭和62年7月以降徐々に緩和され、同年12月には1人1か月平均42時間となり、昭和63年4月には同46時間とされたが、同月下旬、課全体の残業時間数が目標よりもオーバーしてきたため、これを抑制するために、「明日より19時以降の残業中止」の指示がなされ、同年5月においても現状を維持するものとされた。さらに、同年6月には、同年7月から12月までも現状を維持する旨の指示がなされたが、これに対しては、′89プロジェクトがあるため後期は残業時間を増やして欲しい旨の要望が出されていた。

そして、原判決別表1、2の昭和62年9月から昭和63年8月までの時間外労働時間数の推移は、上記目標残業時間数の変化及びそれ以上の残業をしなければ業務をこなせない場合の取扱いに合致していることが認められる。

エ 本件出張命令

製品企画室は、南アフリカ共和国向けにV/N型車を導入するため、現地使用条件、環境条件下でNVH・ほこり入り・商品性等の確認のための出張を決定し、昭和63年8月2日、第1車両設計課課長宛てに、シャーシー関係全般の評価を行う派遣員として、同課のTUV担当の係長を推薦するように依頼した。なお、出張期間は、平成元年1月10日から同月25日までと予定されていた。

そこで、B課長は、昭和63年8月20日、Aに本件出張を依頼したところ、Aが業務への影響を心配して断ろうとしたので、B課長が、「出張期間中は僕やC君がフォローする。」と述べて説得すると、Aはやむなくこれを承諾した。

なお、Aの上記心配は、本件出張が予定されていた平成元年1月が、アジアカーとライトエーストラックとの双方の第1次試作設計について最終段階に近い時期であったことから、これらの業務への影響を懸念したものであった。

オ 上司の対応について

B課長は、夏休みの前日である昭和63年8月9日ころ、Aの顔色がすぐれなかったため声を掛けると、Aが、「子供の夜泣きで目が覚めると仕事のことが浮かんできて眠れない。」などと述べたため、「ライトエーストラックの新ステアリング開発のコスト低減の問題は自分が中心となってみんなで一緒にやりましょう」旨を述べるとともに、夏休みはしっかり休むようにと助言した。

また、B課長は、夏休み明けにも、Aが職場委員長の仕事に時間がとられて業務に支障が出ることを心配している様子であったので、ベテランのC係員に少し仕事を任せたらどうかと助言した。

さらに、B課長は、社外応援のPを同年9月から第1係に配属することにした。

カ 職場委員長の就任

(ア) Aは、訴外組合の評議員をしていたが、昭和63年7月初旬ころ、同年9月から翌年8月までの1年間が任期となる訴外組合の職場委員長に就任するように説得を受けた。Aは、業務の多忙さを理由に何度も断ろうとしたが断りきれず、同年7月下旬ころ、職場委員長への就任を承諾した。なお、本件自殺後、職場委員長には、第2車両設計課第4係長のSが就任した。

(イ) 職場委員長の職責、具体的職務内容

a 訴外組合では、労使関係は相互信頼を基盤とするものとし、生産性の向上を通じて企業の繁栄と労働条件の維持改善を図るものとされ、訴外組合の活動は、職場での活動がその基盤になるとされていた。

そして、かかる職場活動を円滑に進めるために、職場委員長は、職場の代表として、また、職場役員のリーダーとして、各種会議に出席して審議決定に参画したり、諸課題の改善を進めるなど、組合員の種々の悩みや意見、要望を吸い上げ、ひとつひとつ改善し、職場を一つにまとめていくという重要な役割と重い責任を担うものとされていた。

b 職場委員長が出席するべき会議としては、年1回休日に開催される組合大会、月に1、2回平日の午後に開催される評議会、通常は評議会と同じ日に開催される支部評議会、必要に応じて開催される支部評議員会議、通常は評議会の日の昼休みに開催される職場委員長会議、年に3、4回開催される支部懇談会、毎月の月末に開催される支部生産説明会、各種研修会、労使協議会の傍聴、上部団体の大会、中央委員会があった。

また、職場委員長の任務としては、上記のような各種会議への参加の他、<1>職場役員の一覧表の作成・提出、<2>職場役員カードの作成・提出、<3>職場役員の役割分担の明確化、<4>職場役員の所持品管理、<5>職場役員手当の受領・管理、<6>組合員の把握、人員報告書の提出、<7>職場委員会、職場懇親会、職場評議員会議等の開催などがある。

(ウ) 組合役員は、訴外会社の通常の勤務時間内に組合活動を行うことが許されていたが、その場合、上司は組合役員の業務スケジュールを調整するなど組合活動に十分配慮するものとされていた。

Aも、評議員として、昭和63年6月28日評議会に、同年7月1日職場委員会に、同月8日支部評議会に、同月11日職場委員会に、同月13日及び同月27日職場懇親会に、同月29日評議会に、同年8月4日支部評議会に、同月7日職場委員会にそれぞれ出席し、同月21日から22日まで職場委員長セミナーに参加し、同月25日職場懇親会に出席した。そして、同月27日には評議員1日研修、同月29日ないし31日には訴外組合への挨拶等が予定されていた。

(3)  業務以外の出来事

ア 三女の妊娠、出産

被控訴人は、昭和63年7月4日に三女を出産した。出産は、特段異常なところも認められず、いわゆる正常分娩であった。

Aは、被控訴人が妊娠後の昭和62年12月に盲腸炎の手術をしたため、三女への影響について心配していたが、出産直後の三女は、体重3232グラム、身長49.1センチメートルで、生後3日から4日に黄疸のため光線療法を24時間施行されたほか(なお、上記黄疸は生後5日目には治癒している。)、特段の異常もなく、その後の発育も順調であった。

イ 住宅ローン

Aは、新居新築に伴い、住宅金融公庫から880万円、社団法人愛知県年金福祉協会から400万円、三井銀行から560万円、東海銀行から840万円、合計2680万円の貸付けを受け、住宅金融公庫に対しては月額2万4069円(ただし、ボーナス支給月は11万5591円)、社団法人愛知県年金福祉協会に対しては毎月2万3300円ないし2万3400円をそれぞれ給料天引きで返済し、三井銀行と東海銀行の関係は毎月合計約6万円を別途返済していた。

ところで、Aの収入は、上記給料天引きにかかる返済金控除後の手取額で、月額約27万円ないし32万円であり、他に夏と冬のボーナス(それぞれ約100万円)もあり、新居新築に伴うローンの返済を含めても家計はAの収入で十分賄うことができた。そして、被控訴人の桐朋学園東海分室、名古屋音楽学校、愛知県立明和高等学校から収入の合計額は手取りで1か月約18万円から約20万円であり、ピアノの個人レッスンの収入は1か月合計4万円ないし5万円であったが、被控訴人はこれを貯金に回していた。

ウ 三女の夜泣きについて

被控訴人は昭和63年7月4日に三女を出産し、被控訴人と三女は同月11日からAと生活をともにするようになった。しかし、被控訴人は、Aに配慮し、Aは2階で就寝し、被控訴人と三女は1階で就寝するようにしていた。

なお、Aは、夏休みの前日である昭和63年8月9日、B課長に対し、「子供が夜泣きをしてよく眠れない。夜泣きで目が覚めると、仕事のことが頭に浮かんで寝れなくなる。」旨述べたことがあった。

エ 引っ越し

被控訴人夫婦は、昭和62年10月16日、名古屋市千種区<以下略>から現在の住所地である名古屋市天白区<以下略>(被控訴人の実家の隣地)に新築した居宅へ転居した。

オ その他について

Aは、休日(土曜日)で時間に余裕のあるときは、被控訴人を車で名古屋市中区伏見にある名古屋音楽学校に送迎していた。

(4)  事故前3か月間のAの言動等

ア 昭和63年6月の言動

Aは、それまで被控訴人に仕事の話をすることはめったになく、仕事上の愚痴をこぼしたり、弱音を吐いたりすることもなかったが、同月ころから被控訴人に仕事上のことで愚痴を言うようになり、そのころから明け方に目を覚ますようになった。

イ 昭和63年7月の言動

(ア) Aは、同月ころから仕事の日程消化に不安を覚えるようになり、鉛筆とメモ用紙を枕元に置いて就寝し、1週間に3、4回夜中に起きて、浮かんだアイデア等をメモするようになった。

(イ) 被控訴人は、同月4日に入院先で三女を出産し、同月11日退院したが、Aは仕事が忙しく、病院を訪れたのは出産の日と退院の日のみであった。しかも、出産の日は、午後10時ころになってようやく病院に来れる状態であり、退院の日は年休を取得したものの、会議等があったため、午後2時ころまで勤務した後、病院に来たものであった。

(ウ) Aは、同月初旬、同年9月から訴外組合の職場委員長に就任するように説得され、仕事の繁忙を理由に固辞していたが、同年7月下旬、断り切れずに職場委員長への就任を承諾した。

(エ) Aは、同月6日、未出図についてチェックした。

(オ) Aは、同月12日、被控訴人に対して、「今日は本当に忙しかった。」と述べた。

(カ) Aは、同月14日、LとGの業務進行状態をチェックした。また、同月21日にはアジアカーの4×4車の日程調整をした。

(キ) Aは、不眠状態もさらに悪化し、同月の終わりころになると、非常に疲れた様子で帰宅するようになり、被控訴人に対して、「足が重い。」と訴えるようになった。

ウ 昭和63年8月の言動

(ア)a Aは、同月の初めころから、午前5時過ぎに目が覚めるようになり、そのため、睡眠時間は4時間ないし4時間30分となった。

b Aは、同月1日、休日出勤した。

Aは、そのころ、被控訴人に対し、「係の仕事が2台の車のマルモ級の忙しさなので、職場委員長を何度も辞退したんだが、断りきれなかった。」と深刻な表情で訴えた。そのため、被控訴人が、医師に診断書を書いてもらって断ることを助言したが、Aは、「労働組合の仕事は自分の仕事より優先しなければならない。会社を辞める覚悟なら断ってもよいが、それはできない。頑張ってみるよ。」と答えた。

c Aは、同月2日から同月4日まで通常どおり勤務した。

Aは、同月4日に被控訴人の祖母が死亡し、同月6日に葬式が催されることを被控訴人から聞いて、「休みの日でよかった。」と述べた。

d Aは、同月5日も休日出勤し、午後5時過ぎに被控訴人の祖母の通夜に行き、午後9時過ぎに帰宅した。

e Aは、同月6日(休日)は午前9時30分ころに家を出て被控訴人の祖母の葬儀に出席し、午後2時過ぎに帰宅した。

f Aは、同月7日、通常どおり勤務し、アジアカーの4×4車の日程調整を行った。そして、帰宅後、被控訴人に対し、「今回の仕事は乗り切れないかもしれない。今年の夏休みは毎日出社になるかもしれない。」と述べた。

g Aは、同月8日の朝、被控訴人に対し、被控訴人がときどき相談している占い師に相談してきてもらえないだろうかと述べて、相談事項を記載したメモ(<証拠略>)を手渡した。このメモには、「今後何に注意して行くべきか。現部署にいるべきか。現状を話すべきか。」と記載されていた。そこで、被控訴人が、どうしたのかと尋ねたところ、Aは、「以前の次長であったTさんが2月に代わったが、今の次長や課長は現場の混乱には気付いていない。このままでは予定どおりには到底進まない。自分が図面を書く時間があれば何とかなると思うんだが、会議なんかで忙しくて時間がとれない。今後どうすべきか迷っているんだ。」と述べた。そして、同日の帰宅後、Aは、被控訴人に対し、「今日は課長に現状を報告した。だけど、課長は、『なんとかなる。夏休みに気分転換をしてまた頑張ってくれ。』と言って取り合ってくれない。」と訴えた。そして、Aは、このころから、「身体が疲れれば眠れるかも知れない。」と言って、早朝に30分ないし1時間のジョギングを開始するようになった。

h Aは、夏休みの前日である同月9日、朝早く家を出て午前7時1分に出勤し。同日、Aの顔色がすぐれなかったため、B課長がAに声を掛けると、Aは、「子供が夜泣きしてよく眠れない。夜泣きで目が覚めると仕事のことが浮かんできて眠れない。」と述べた。そこで、B課長は、「ライトエーストラックのコスト低減の問題は私が中心になってやるから、夏休みはゆっくり休んで元気回復するように。」と述べた。

(イ) 同月10日から同月17日までは夏休みであった。

Aは、同月10日、「ものすごく肩が凝る。」と言って整体で治療を受けたが、あまり効果はなかった。同日、Aと被控訴人らはAの実家を訪れた。

Aは、翌11日の午後2時ころ、訴外会社に出かけて、仕事に必要な書類を持ち帰った。

そして、Aは、同月17日の午前中まで、午前5時ころに起きて約1時間ジョギングし、その後、3度の食事と午後3時の休息時間を除いて午後10時ころまで自宅で仕事をし、午前0時ころに就寝する生活を続けた。ただし、同月13日は昼ころから夫婦と子供2人でAの実家に赴き、Aは、疲れているからと言ってソファーで横になったり、子供の相手をしたりし、同月16日は、Aと子供の2人で昼前にAの実家を訪れ、Aは用事がある旨述べて子供2人を置いて帰った。そして、同月17日の午後、Aは、「いよいよ明日から休みが明けるので、朝8時30分にすぐに仕事に取りかかれるようにしておきたい。」と言って、持ち帰っていた書類を返すため訴外会社に出かけた。なお、仕事ははかどった様子で、帰宅後晴れ晴れとした顔をしていたが、「自分で仕事をしてしまうと係の人達の力がつかないな。」とも述べていた。

(ウ) 夏休み明けの同月18日、Aは、この日からジョギングを中止し、「夏休みも終わりだ。また頑張ろう。」と言って出勤した。同日、B課長がAに声を掛けると、Aが、「9月から職場委員長になったら時間をとられて仕事に影響するんじゃないかと不安です。」と述べたので、B課長は、Aに対し、「組合の負担が重くなるようなら、C君に分担してもらったらよい。」と助言した。なお、同日、ライトエーストラックのコスト低減の問題について、社内関係部署及び部品メーカーが集って検討会が開かれた。

Aは、同月19日、「早く目が覚めたから。」と言って午前5時過ぎに出社した(ただし、タイムレコーダーは午前8時2分に打刻されていた。)その時、「1時間でも多く仕事がしたい。」と記載されたメモが残されていた。同日、ライトエーストラックのコスト低減の問題について、設計者のみによる検討会が開催された。また、同日、Aは、B課長と開発プロジェクトの作業日程調整を行った。

同月20日、Aに対して本件出張命令が出された。Aは、帰宅後、被控訴人に対し、「時期的に出図などで忙しい時期なので断ったが、課長は、『課長が2人いれば代わってやるけどな。』と言って取り合ってくれなかった。」と被控訴人に訴えた。被控訴人が、「6か月も先の1月のことだから、後で考えればいいのに。」と助言したところ、Aは、「半年先といっても日程は全て埋まっている。1月が一番忙しい時期なんだ。僕が抜けたら仕事が混乱する。とても行ってられないんだ。」と答えた。

同月21日及び22日は休日であったが、Aは、職場委員長の研修セミナー(1泊2日)に参加し、同22日午後3時38分、研修セミナーの帰りにそのまま出社し、午後5時42分まで開発プロジェクトの作業日程計画作成に関する仕事をした。そして、Aは、同日の帰宅後、「肩がやけどのようにヒリヒリ痛い。」と被控訴人に訴え、疲れている様子ではあったが、「セミナーに来ていた人も皆それぞれ忙しそうだから、また、頑張ろう。」と述べた。

Aは、同月23日、午後9時37分ころに退社した。Aは、このころ、C係員から見ても顔色が悪く、表情も険しく、疲れている様子であった。

Aは、同月24日、午前5時過ぎころから、自宅で今後の仕事の作業日程表を作成していた。その際、被控訴人に対し、「課長が忙しさを何も分かっていない。この計画表をこのまま出したら、部長、次長が無理な計画だと言ってびっくりする。課長のメンツも潰れてしまう。どうしようかな。」と言った。Aは、同日、B課長らと、開発プロジェクトの作業日程調整を行った。そして、被控訴人が、同日午後9時ころ帰宅したAに対し、上記日程表のことを尋ねると、「まあ、何とかね。」と答えただけであった。Aは、その後すぐに夕食を取ったが、直後にすべて吐いてしまった。

Aは、同月25日、午前8時15分に出社し、午前中は業務報告書の作成やライトエーストラックの新ステアリング関係の仕事に従事し、昼休みに行われた職場懇談会で職場委員長交替の挨拶をし、午後はメーカーの技術者とライトエーストラックのリーフスプリング異音対策について事前打合せをしたうえ、午後3時から4時まで製品企画室のQ主査らと同異音対策について打ち合わせ、その後、Q主査と並んで歩きながら、「労働組合の役員になって仕事が大変です。」と述べた。

そして、Aは、午後4時から予定されていた次長月例報告会を欠席し、タイムカードも押さずに胸に名札をつけたまま、誰にも何も言わずに訴外会社を抜け出し、午後8時30分ころ帰宅した。Aは、放心状態で2階に上がってしまったので、被控訴人が様子を見に行くと、ベットで休んでいた。Aは、午後9時30分ころに夕食を食べた後、被控訴人に対し、「もうトヨタにはついていけない。仕事をやる時間がない。トヨタを辞めたい。」と述べたので、被控訴人が驚いて、「何かあったの。」と尋ねると、「もうついていけないんだ。今日、会社の屋上まで行ったんだが、子供の顔が浮かんできた。今死んだらこの子は親の顔を覚えていないだろう。だから、飛び降りられずに帰ってきた。」と答えた。そのため、被控訴人が、「死ぬ気になれば何でもできる。明日、会社を休んで元の次長のTさんに相談した方がいい。」旨助言したが、返答はなかった。同日午後10時30分ころ、Aは、三女を風呂に入れたが、その際、何も言わずに泣いていた。その後の午後11時30分ころ、Aは、落雷による死亡事故のニュースをテレビで見て、「このように死ねたらいいな。」と言った。また、「ゆっくり眠りたい。睡眠薬が欲しいから明日の朝病院へ行ってもらってこよう。」と言った。その後、Aは、翌26日午前1時30分ころ、2階の寝室に上がって行った。被控訴人は、Aの様子が気になり、午前4時過ぎころまでは起きていたが、Aが寝たようであったため自分も眠ってしまった。ところが、Aは、その後に自宅を抜け出し、同日午前5時30分ころ、自宅から約1キロメートル離れたビルから飛び降り、全身打撲により死亡した。

2  うつ病に関する医学的知見

<証拠略>によれば、次の事実が認められる。

(1)  うつ病とその症状

うつ病は、抑うつ気分と病的悲哀を特徴とする感情障害の状態(うつ状態)である。うつ病の症状は、精神症状と身体症状に区分され、中核的症状として、ゆううつ、気持が滅入る、希望がないなどの抑うつ感情を呈し、これが進行すると、表情は暗く、言葉の調子も低くなり、時に茫然となったりする。趣味、家族団らん、友人との交際等に対して何らの楽しさも感じられず、集中力、活力の低下と疲労感、焦燥感、不安感が現れるほか、行動及び思考が抑制されたりする。不相応に自分を責めたり過小評価し、無力感にさいなまれ、現実的事柄を悲観的に解釈するようになったり、刺激に対する反応や他の動作への移行が緩慢になり、極限に達すると抑うつ昏迷状態となって日常生活が不可能になる。また、身体的症状としては、多彩な自律神経症状が現れ、頭痛、肩凝り、吐き気、嘔吐及び口渇等が挙げられるほか、入眠障害・多夢・悪夢・浅眠等の睡眠障害、性欲低下、食欲不振などもこれに含まれる。

なお、これらの症状は、朝方増悪し、夕刻には軽快するという日内変動が見られることもあり、うつ病患者は、これらの症状の集約の末に希死念慮を持ち、自殺を企図することが多いと考えられており、自殺企図は、抑つ感情が強いまま行動の抑制がわずかに取れ、焦燥感が前景に出ているうつ病発症の初期段階もしくは寛解期に多いとされている。

(2)  うつ病の分類等

ア 内因性うつ病と反応性うつ病

何らかの遺伝的ないし生体の要因によって自然に発症するものが内因性うつ病、心理的・社会的要因によって発症するものが反応性うつ病であるが、両者の中間に位置するものもあり、現在では発症要因によって両者を区分することは非常に困難であるとされている。

イ 「ICD―10・第V章」診断のためのガイドライン

うつ病の症状のうち、前記の諸症状が単一で出現することは稀であり、通常はいくつかの症状が重複して生じ、また、病気によってその内容と程度は様々である。

そのため、うつ病の診断には困難を伴うことも少なくないところ、近時は、世界保健機関(WHO)の1992年に出版された「ICD―10・第V章」が診断のためのガイドラインとして用いられることが多い。

上記ガイドラインには、うつ病の症状として、<1>抑うつ気分、<2>興味と喜びの喪失、<3>活力の減退による易疲労感の増大や活動性の減少、<4>集中力と注意力の減退、<5>自己評価と自信の低下、<6>罪責感と無価値観、<7>将来に対する希望のない悲観的な見方、<8>自傷あるいは自殺の観念や行為、<9>睡眠障害、<10>食欲不振といった10個のエピソードを挙示し、そのうち<1>、<2>、<3>を通常うつ病にとって最も典型的な症状と規定した上で、これらのうち少なくとも2つが存在し、それ以外の症状から少なくとも2つが存在する場合を軽症、3ないし4つの症状が存在する場合を中等症とし、さらに、上記典型症状全部と、その余の項目から4項目(ただし、いくつかが重症でなければならない。)の症状が認められる場合を重症と診断する旨の基準が提示されている。また、それぞれの診断において、各症状の持続期間は2週間を要するものとされているが、重度の急性症状を呈する場合は、2週間未満でも重症うつ病の診断をすることを妨げないとされている。

ウ うつ病の原因等

うつ病が発症するメカニズムについては、いまだ決定的な見解が定まっているわけではないが、ある出来事がそれのみでうつ病を発症させるというものではなく、それを受け止める個人の特徴をはじめとする様々な要因の絡み合いによって、ある特定の人にうつ病が発症するとされる。

また、うつ病が発症する状況としては、<1>負荷状況(心身に負荷がかかっている状況で、過重な仕事や不慣れな仕事、仕事の不振や失敗などから不全感、自信喪失感、焦燥感を抱き、心と体の疲労が持続した場合)、<2>脱負荷状況(今までの負担が解消してホッとした状況のこと)等が特徴的であるとされる。

そして、うつ病の発症の要因としては、以下のようなものが挙げられている。

(ア) 個体側の要因

a うつ病になりやすい性格(病前性格)

(a) 執着気質

基本的特徴は、「一度生じた感情が正常人のように時とともに冷却することなく、長くその強度を持続し、むしろ増強する」ことであり、具体的には、仕事熱心、徹底的、正直、几帳面、正義感や義務責任感が強い、ごまかしやずぼらができないなどの性格であり、模範社員といわれるような人を指す。なお、執着気質は、過労に陥っても休養が取れず、活動を継続することでますます過労に落ち込むという悪循環が生じ、その疲労の頂点でうつ病が発症するとされる。

(b) メランコリー親和型

<1>秩序に対して特有なこだわりをもち、何事に対しても几帳面で真面目な性格〔秩序性〕、例えば、臨機応変の態度がとりにくい人で、無理な仕事を押しつけられても嫌といえないため仕事を抱え込んでしまい、仕事の量と質との問題で葛藤するような人、<2>何事に対しても真面目に取り組み、ちょっとした不正でもひどく心が痛み、罪深く思いがちな性格〔過度の良心〕、<3>他人に気を遣い、相手の立場でものを考え、他人に尽くすことに気を配り、他人との対立を避け、同調しようとする性格〔対世配慮〕で、職場では上司にも部下にも気を遣い協調を第一とし、家庭では、父、母としての役割が何の違和感もなく身についているのが特徴である。

b その他の要因

上記性格傾向の他には、精神障害に対する遺伝的素因、アルコール等の薬物依存傾向等が挙げられる。

(イ) うつ病の発症要因となりやすい出来事(心身的負荷の発生要因)

うつ病の発症要因となりやすい出来事(なお、「出来事」は「ライフイベント」の訳語である。)は様々であるが、男性の場合、次のような出来事が挙げられている。

a 業務上の出来事

慢性化した長時間労働による過労、質的に過大な仕事負担、量的に過大な仕事負担、納期のきつさ、指導的地位の責任からくる過度の緊張、組立ラインでの過大な緊張、仕事上のミス、労働条件の大きな変化、上司とのトラブル、抜擢に伴う配置転換、業績不振、ノルマ不達成、課員の増加、勤務時間の変化、自分を理解してくれていた人の異動、仕事量の増加等が挙げられている。

b 業務以外の出来事

精神的打撃、経済問題、引っ越し、親族の死、配偶者の協力の欠如、妊娠・出産等が挙げられている(ただし、妊娠・出産については、女性に比して、それから受ける心身的負荷は小さいとされている。)。

(ウ) なお、最近では、状況因(心身的負荷)と性格等(個体側要因)とを分けて考えるのは妥当ではなく、両者が一体となってうつ病の発症要因となっているとする見解が有力に主張されている。

3  労働省による判断指針の策定とその内容等について

<証拠略>によれば、以下の事実が認められる。

(1)  専門検討会による報告書

労働省は、業務によるストレスを原因として精神障害を発症し、あるいは自殺したとして労災保険給付が請求された事案に対して、同請求の処理を直接実施する労働基準監督署職員が、迅速かつ適正に対処するための判断のよりどころとなる一定の基準を明確化すべく、精神医学、心理学、法律学の研究者等に、精神障害等の労災認定について専門的見地からの検討を依頼し、これを受けた精神障害等の認定に係る専門検討会は、延べ16回の全体会議及び5回の分科会を開催して、平成11年7月、その結果を精神障害等の労災認定に係る専門検討会報告書(<証拠略>。以下「専門検討会報告書」という。)として取りまとめた。

(2)  判断指針(<証拠略>)

専門検討会報告書を踏まえて、労働省労働基準局長は、判断指針(平成11年9月14日付け基発第544号)及び「精神障害による自殺の取扱いについて」(同日付け基発第545号)を通達した。

判断指針の要旨は、次のとおりである。

ア 労災請求事案の処理に当たっては、まず、精神障害の発病の有無、発病の時期及び疾患名を明らかにした上で、業務上の心理的負荷、業務以外の心理的負荷及び個体側要因の各事項について具体的に検討し、それらと当該労働者に発病した精神障害との関連性について総合的に判断する必要があり、その際、当該精神障害の発病に関与したと認められる業務上の心理的負荷の強度ないしは業務以外の心理的負荷の強度を評価するに当たっては、労災保険制度の性格上、本人がその心理的負荷の原因となった出来事をどのように受け止めたかではなく、多くの人が一般的にどう受け止めるかという客観的な基準によって評価する必要がある。

イ 対象疾病は、ICD―10第V章「精神および行動の障害」に分類される精神障害とする。

ウ 労基法施行規則別表第1の2第9号に該当する疾病と認定するためには、<1>対象疾病に該当する精神障害を発病していること、<2>対象疾病の発病前おおむね6か月の間に、客観的に当該精神障害を発病させるおそれのある業務による強い心理的負荷が認められること、<3>業務以外の心理的負荷及び個体側要因により当該精神障害を発病したとは認められないことの3要件を全て備えていることが必要である。

エ 業務による心理的負荷の強度を評価するに当たっては、当該心理的負荷の要因となった出来事及びその出来事に伴う変化等について、判断指針の別表1「職場における心理的負荷評価表」(以下「判断指針別表1」という。)を指標にして総合的に判断する。

なお、具体的な評価方法については、専門検討会報告書の評価方法と同じである。また、出来事の個別状況、内容等に即して心理的負荷の強度を修正し、さらに出来事に伴う変化等を検討するに際し、本人がその出来事及び出来事に伴う変化等を主観的にどう受け止めたかではなく、同種の労働者(職種、職場における立場や経験等が類似する者をいう。)が、一般的にどう受け止めるかという観点から検討されなければならないとすることも、専門検討会報告書のそれと同じである。

オ 出来事に伴う変化等による心理的負荷がどの程度過重であったかについては、<1>仕事の量(労働時間等)の変化(基本的には労働時間の長さ等の変化によって判断するが、仕事の密度等の変化が過大なものについても考慮する。)、<2>仕事の質の変化(職種の変更、仕事内容の大きな変化、一般的に求められる適応能力を超えた要求等)、<3>仕事の責任の変化(職場内で通常行われる昇進に伴う責任の変化等、通常の責任の増大を大きく超えるものについて考慮する。)、<4>仕事の裁量性の欠如、<5>職場の物的、人的環境の変化、<6>支援・協力等の有無(出来事に対処するための仕事のやり方の見直し改善、応援体制の確立、責任の分散等、上司、同僚等による必要な支援、協力がなされていたか等について検討し、これが十分でない場合に考慮する。)を考慮する。

カ 「客観的に精神障害を発病させるおそれのある程度の心理的負荷」とは、判断指針別表1の総合評価が「強」と認められる程度の心理的負荷、すなわち、<1>判断指針別表1の(2)欄による修正を加えた心理的負荷の強度が「III」と評価され、しかも、同(3)欄の出来事に続いて、又はその出来事への対処に伴って生じる変化によるストレスの過重等の評価が、相当程度過重(同種労働者と比較して業務内容が困難で、業務量も過大である等が認められる場合)である場合、<2>判断指針別表1の(2)欄により修正された心理的負荷の強度が「II」と評価され、かつ、判断指針別表1の(3)欄による評価が特に過重(同種の労働者と比較して業務内容が困難であり、恒常的な長時間労働が認められ、かつ、過大な責任の発生、支援・協力の欠如等特に困難な状況が認められる状態)であると認められるときに限る。

ただし、極度の長時間労働、例えば、数週間にわたり生理的に必要な最小限度の睡眠時間を確保できないほどの長時間労働により、心身の極度の疲弊、消耗を来し、それ自体がうつ病等の発病原因となる様な場合等には、総合評価を「強」とすることができる。

キ 業務以外の心理的負荷の強度は、客観的に一定の心理的負荷を引き起こすと考えられる出来事について、判断指針別表2により評価する。ただし、この場合も、出来事の具体的内容等を勘案の上、平均的な心理的負荷の強度を変更しうる。

ク 個体側要因については、既往歴、生活史(社会適応状況)、アルコール等依存状況、性格傾向について調査し、客観的に精神障害を発症させるおそれのある程度のものであるか否かについて検討を行う。なお、性格傾向については、性格特徴上偏りがあると認められる場合には個体側要因として考慮するが、それまでの生活史を通じて社会適応状況に特別の問題がなければ、個体側要因として考慮する必要はない。

ケ 出来事の評価期間については、精神障害発病前のおおむね6か月の間の出来事を評価の対象とする。

コ 業務上外の判断については、次のとおりとなる。

すなわち、業務以外の心理的負荷ないしは個体側要因が特段認められない場合で、業務による心理的負荷の強度が「強」であれば、業務起因性が肯定される。

そして、業務以外の特段の心理的負荷、個体側要因が認められる場合には、業務による心身的負荷の強度が「強」と認められる場合であっても、業務以外の心理的負荷の強度及び個体側要因のすべてを総合評価して、なお上記カの<2>の要件を充足している場合に業務起因性が認められる。

サ 労災補償の対象とされる多くの精神障害では、精神障害の病態としての自殺念慮が出現する蓋然性が医学的に高いと認められることから、業務による心理的負荷によってこれらの精神障害が発病したと認められる者が自殺を図った場合には、精神障害によって正常の認識、行為選択能力が著しく阻害され、又は自殺行為を思いとどまる精神的な抑制力が著しく阻害されている状態で自殺が行われたものと推定し、原則として業務起因性を認める。

4  専門医の医学的見解の骨子<証拠略>

5  業務起因性の判断について

(1)  労災保険給付の対象となる業務上の疾病については、労基法75条2項に基づいて定められた施行規則35条により同規則の別表第1の2に列挙されており、精神疾患であるうつ病の発症が労災保険給付の対象となるためには、同別表第9号の「その他業務に起因することの明らかな疾病」に該当することが必要であるところ、業務災害に関する遺族補償及び葬祭料の各給付は、一定の事由が生じた場合に請求権を有する者の請求に基づいて補償が行われる制度であることに照らせば、これらの給付を受けようとする者が、請求にかかる各給付について自己に受給資格があることを証明する責任があるというべきであるから、業務起因性の立証責任は保険給付の請求者にあると解すべきである。

(2)  業務と傷病等との間に業務起因性があるというためには、労働者災害補償制度の趣旨(労働者が従事した業務に内在ないし通常随伴する危険が発現して労働災害を生じた場合に、使用者の過失の有無を問わず、被災労働者の損害を補填するとともに、被災労働者及びその遺族の生活を補償するものである。)に照らすと、単に当該業務と傷病等との間に条件関係が存在するのみならず、社会通念上、業務に内在ないし通常随伴する危険の現実化として死傷病等が発生したと法的に評価されること、すなわち相当因果関係の存在が必要であると解せられる。

(3)  精神疾患の発症や増悪は様々な要因が複雑に影響し合っていると考えられているが、当該業務と精神疾患の発症や増悪との間に相当因果関係が肯定されるためには、単に業務が他の原因と共働して精神疾患を発症もしくは増悪させた原因であると認められるだけでは足りず(よって、被控訴人主張の共働原因論は採用できない。)、当該業務自体が、社会通念上、当該精神疾患を発症もしくは増悪させる一定程度以上の危険性を内在または随伴していることが必要であると解するのが相当である。

そして、うつ病の発症メカニズムについてはいまだ十分解明されていないけれども、現在の医学的知見によれば、環境由来のストレス(業務上ないし業務以外の心身的負荷)と個体側の反応性、脆弱性(個体側の要因)との関係で精神破綻が生じるかどうかが決まり、ストレスが非常に強ければ個体側の脆弱性が小さくても精神障害が起こるし、逆に脆弱性が大きければストレスが小さくても破綻が生ずるとする「ストレス―脆弱性」理論が合理的であると認められる。

(4)  もっとも、ストレスと個体側の反応性、脆弱性との関係で精神破綻が生じるか否かが決まるといっても、両者の関係やそれぞれの要素がどの様に関係しているのかはいまだ医学的に解明されている訳ではないのであるから、業務とうつ病の発症・増悪との間の相当因果関係の存否を判断するに当たっては、うつ病に関する医学的知見を踏まえて、発症前の業務内容及び生活状況並びにこれらが労働者に与える心身的負荷の有無や程度、さらには当該労働者の基礎疾患等の身体的要因や、うつ病に親和的な性格等の個体側の要因等を具体的かつ総合的に検討し、社会通念に照らして判断するのが相当であると考えられる。(なお、判断指針は、現在の医学的知見に沿って作成されたもので、一定の合理性があることが認められるものの、当てはめや評価にあたっては幅のある判断を加えて行うものであるところ、当該労働者が置かれた具体的な立場や状況などを十分斟酌して適正に心理的負荷の強度を評価するに足りるだけの明確な基準になっているとするには、いまだ十分とはいえず、うつ病の業務起因性が争われた訴訟において、この基準のみをもって判断するのが相当であるとまではいえない。また、相当因果関係の判断基準である「社会通念上、当該精神疾患を発症させる一定以上の危険性」について、原判決が誰を基準として判断するかを問題とし、<1>「同種労働者(職種、職場における地位や年齢、経験等が類似する者で、業務の軽減措置を受けることなく日常業務を遂行できる健康状態にある者)の中でその性格傾向が最も脆弱である者(ただし、同種労働者の性格傾向の多様さとして通常想定される範囲内の者)を基準とするのが相当である」とし、したがって、<2>「専門検討会報告書及び判断指針の見解は採用できない」としており、専門検討会報告書及び判断指針は<1>の基準とは異なるものとする理解が示されているが、このような理解は、専門検討会報告書及び判断指針が想定する同種の労働者の具体的な内容が、性格やストレス反応性につき多様な状況にある多くの人々についてどの程度の脆弱性を基準としているのかが明らかではないことから生じた誤解のようであり、<証拠略>によれば、通常想定される範囲の同種労働者の中で最も脆弱な者を基準にするという考え方は、専門検討会や判断指針と共通するものであると認められる。さらに、控訴人の主張する平均人基準説も、平均人としてどのような者を想定しているのかが必ずしも明らかではなく、平均という言葉が全体の2分の1程度の水準を意味するものと理解することも可能ではあるが、判断指針と同程度の水準を想定しているのであれば、前記<1>の見解と大差はないものと考えられる。)

(5)  なお、労災保険法12条の2の2第1項は、労働者の故意による事故を労災保険の給付の対象から除外しているが、その趣旨は、業務と関わりのない労働者の自由な意思によって発生した事故は業務との因果関係が中断される結果、業務起因性がないことを確認的に示したものと解するのが相当である。それゆえ、自殺行為のように外形的に労働者の意思的行為と見られる行為によって事故が発生した場合であっても、その行為が業務に起因して発生したうつ病の症状として発現したと認められる場合には、労働者の自由な意思に基づく行為とはいえないから、同規定にいう故意には該当しないものと解される。そして、判断指針においては、業務による心理的負荷により精神障害が発病したと認められる者が自殺を図った場合には、精神障害によって正常の認識、行為選択能力が著しく阻害され、又は自殺行為を思いとどまる精神的な抑制力が著しく阻害されている状態で自殺が行われたものと推定し、原則として業務起因性を認めるものとしているが、この考え方は妥当なものである。

6  Aに対する業務上の出来事による心身的負荷について

前記認定事実によれば、Aは7月下旬ないし8月上旬ころ本件うつ病に罹患し、本件うつ病による心身耗弱状態の下で本件自殺をしたものであり、訴外会社におけるAの業務が本件うつ病発症の要因の1つになっていたこと(すなわち、業務と本件うつ病発症との間に条件関係が存在していたこと)自体は明らかである。そこで、業務上の出来事がAの心身にどのような負荷を与えたかについて以下検討すると、いわゆる業務の過重性について本人を基準とする見解、すなわち本人が感じたままにストレスの強度を理解すれば足りるとする見解は採用できないけれども、ストレスの性質上、本人が置かれた立場や状況を充分斟酌して出来事のもつ意味合いを把握した上で、ストレスの強度を客観的見地から評価することが必要であり、本件においては、Aが従事していた業務が、自動車製造における日本のトップ企業において、内容が高度で専門的であり、かつ、生産効率を重視した会社の方針に基づき高い労働密度の業務であると認められる中で、いわゆる会社人間として仕事優先の生活をして、第1係係長という中間管理職として恒常的に時間外労働を行ってきた実情を踏まえて判断する必要があるというべきである。

(1)  係長就任後から昭和63年6月ころまでの業務

ア Aは、係長として、第1係の業務全般を円滑に遂行していく職責を担うことになったが、その主な業務は、設計図を予定どおり課長に提出できるようにするため、各係員の業務の進捗状況をみて仕事を割り振り、各係員が設計業務を行うに際して指導、助言するとともに、各係員が作成した設計図をチェックすること、係を代表して関係部署との連絡調整を図ること及び各種会議等への出席であった。これらの業務は、いわゆる中間管理職の業務であり一般職員の業務よりもストレスが強いと推測される(<証拠略>)。

イ Aが係長に就任後の第1係の業務は、生産ラインからの変更依頼による改良設計や、ユーザーからの要望に対するスポット的な改良設計等、量産品の改良設計が主たるものであったが、昭和63年2月以降は、上記業務に加えて、アジアカーの4×2車及び4×4車のマイナーチェンジに伴う開発設計並びにライトエーストラックの4WD車及び4WS車の新ステアリング開発に伴う改良設計を行うことになり、業務量が格段に増加した。

ところで、訴外会社では昭和62年6月まで残業半減運動が行われ、昭和63年当時も1人1か月平均の目標残業時間数が定められていたところ、形式化した業務の廃止や業務の効率化等が行われたとしても、残業規制により労働密度が高まったことが推定される。そして、Aの時間外労働時間数は、昭和62年11月から昭和63年6月まで毎月40時間以上の時間外労働をしているが、これは上記毎月の目標残業時間数にほぼ合致するものであることからすれば、Aの昭和63年2月以降の労働密度は、それ以前の労働密度に比べて高いものであったと推認される。

したがって、Aの業務による心身的負荷を評価するに際しては、労働時間だけではなく、労働密度も十分考慮する必要がある。

ウ 上記ア、イによれば、Aは、昭和63年6月までの恒常的な時間外労働や残業規制による過密労働により、相当程度の心身的負荷を受けて精神的、肉体的疲労を蓄積していたものと認められる。

(2)  昭和63年7月の業務

ア 第1係では、昭和63年7月末がアジアカーの4×2車並びにライトエーストラックの4WD車及び4WS車の先行試作設計の出図期限であり、2車種の出図期限が重なって極めて多忙となり、Aの同月の時間外労働時間数も68.5時間となった。

ところが、アジアカーの4×2車は予定どおりに出図できたものの、ライトエーストラックの4WD車及び4WS車については、一部設計未了となり出図期限を延長したものや、出図されたものについても、生産コストが高くつくことが判明したため、第1次試作設計を行っていく中で解決していくこととされたものがあり、さらに、昭和63年8月末までにその主要部分の先行試作設計を終了する予定であったアジアカーの4×4車については、これに手を付ける余裕がないため、昭和63年7月21日に日程調整を行って出図期限を同年9月末に変更せざるを得なかった。

ところで、訴外会社においては、設計業務の遅れは他の部署の日程に大きな影響を及ぼすため、設計図の出図期限は遵守すべきものであるところ、先行試作設計の段階ではその期限は比較的緩やかであり、上記のとおり出図期限の延期が認められたとしても、それは出図期限に間に合わなかったためやむを得ずなされたものにすぎず、第1係を統括する係長としてはマイナス評価を受けるおそれがあり、その後の第1次試作設計の出図期限は遵守しなければならないのであるから、結局、先行試作設計の出図期限を延期すれば、第1次試作設計の出図期限までの間の業務が過重となるのである。

したがって、Aは、昭和63年7月の上記過重、過密な業務及び出図の遅れにより、極めて強い心身的負荷を受けたものと認められる。

ところで、被控訴人は、Aの昭和63年8月の勤務時間報告表とタイムカードとを対比して、Aが1日当たり平均1時間5分のサービス残業を行っていた旨主張するが、サービス残業が常態化していたことを認めるに足りる明確な証拠はなく、上記1時間5分の差は、タイムカードでは午後7時から30分間の休憩時間を控除せず、出勤時の打刻から始業時間までの間及び退勤時において終業時間から打刻までをも労働時間に含めていることが影響しており、Aが上記休憩時間中に自主的に仕事を行っていたことがあるとしても、被控訴人の上記主張は採用することができない。もっとも、Aは、昭和63年7月11日は年休をとりながら通常どおり出勤して午後2時ころまで仕事をし、また、夏休み期間中も自宅で仕事をし、さらに、昭和63年8月24日には午前5時ころから自宅で仕事をしていたことが認められ、常態化していたことは認められないとしても、Aの時間外労働時間は、原判決別表1の時間外労働時間数をある程度上回るものであったと認められる。

イ 職場委員長の就任について

Aは、昭和63年7月初旬ころ、訴外組合の職場委員長に就任するように説得され、業務多忙を理由に何度も断ったが断り切れず、同月下旬ころ、職場委員長への就任を承諾した。職場委員長は、職場をまとめていく重要な役割と重い責任を担うものであり、勤務時間中や昼休み等に行われる各種会議に出席するものとされていた。職場委員長への就任は昭和63年9月からの予定であったが、Aが悩んでいたのは、職場委員長の活動自体に対する不安ではなく、組合活動に時間と労力をとられることによって業務に当てる時間と労力が少なくなり、設計図の出図期限を遵守できなくなることに対する心配(不安、焦燥)であったところ、Aが行うべき労働は、就業規則上の労働時間内では、到底処理することが不可能で、訴外会社が推進した残業半減運動に沿って無駄を省いても、なお毎月長時間の時間外労働を行うことによって、設計図の出図期限を遵守するように務めてきたAとしては、当然の心配(不安、焦燥)であり、通常は時間外労働で現れる業務の過重性が、職場委員長への就任によって上記のような心配(不安、焦燥)という形で現れたもので、業務外に起因するものとは言えず、業務上の出来事として取り扱うのが相当である。

そして、上記心配(不安、焦燥)は、当時も加重、過密な労働に従事し、さらに9月以降も加重、過密な労働に従事することが予定されていたAに対し、さらに強い心理的負荷を与えたものと認められる。

(3)  昭和63年8月の業務

ア 第1係では、昭和63年8月初旬は、ライトエーストラックの4WD車、4WS車の先行試作設計の未了部分やコスト低減の問題検討及びPS油圧使用ダンプ開発計画の検討等が行われ、同年7月に続いて業務繁忙であり、アジアカーの4×4車まで手掛ける余裕はなく、同車については同年8月7日に再び日程調整を行い、出図期限を同年10月中旬ないし同月末に再延長せざるをえない状態であり、Aは、同年8月1日及び同月5日に休日出勤をしなければならなかった。

しかして、Aは、上記加重、過密な業務及び出図期限の再延長により、相当強い心身的負荷を受けたものと認められる。

イ なお、以上の認定に反し、控訴人は、第1係の業務は遅延しておらず、昭和63年8月はアジアカー及びライトエーストラックの大物出図が完了し、比較的余裕のある時期であった旨主張し、B課長も、「2車種とも7月末に出図をほぼ完了し、8月は比較的ゆったりした時期であり、次の第1次試作設計の構想を練るなど順調に仕事を進めていた。」旨供述し、また、C係員も、「大きな設計上の支障や予定変更もなく、7月の出図期限はほぼ守られ順調であった。」旨供述(<証拠略>)している。

しかし、前記認定のとおり、アジアカーの4×4車の主要部品の出図期限及びライトエーストラックの4WS車及び4WD車の一部部品の出図期限が延長されていること(例えば、アジアカーについては、8月の出図期限が変更されたものとして、4×4Frフレキシブルホース、左右ブレーキ配管、4×4Frアクスル、4×4Frエンジンマウント、4×4フレーム関係、4×4用エキパイFr(CE/G用)がある。)からすれば、第1係の業務が遅延していたことは明らかであり、さらに、ライトエーストラックの新ステアリングのコスト低減の問題が新たに浮上していたこと、その他、PS油圧使用ダンプ開発計画もあったことからすれば、同年8月が多忙な状態であったことは明らかというべきである。<証拠略>(同人は、反対尋問では、昭和63年8月の状況につき、4WDの追加の話を別にしていた旨を述べているし、職場委員長を経験したことはなく、その仕事がどのようなものであるかを十分に理解してはいないと推認される。)及び<証拠略>(同人は、昭和63年8月にはアジアカーの出図が一部予定より遅れていたことは承知していたが、ライトエーストラックの設計に専念しており、アジアカーの設計には関わっていなかった。)は、第1係の業務全体の実体やAの業務の進捗状況等を十分に把握しているものとは認められず、前記認定を左右するものではない。

また、控訴人は、第1係の業務は、Aの死亡後、特段の問題なく終了したのであるから、第1係の担当業務は格別過重でもなく遅延もしていなかった旨主張するが、作業が1番遅れていたアジアカーの4×4車の開発計画が昭和63年9月か10月ころに中止されていることを考慮すれば、それ以外の担当車種の設計業務が順調に終了したとしても、当時のAの業務が加重でないことや遅延していなかったことが推認されるわけではないから(なお、職場委員長には、第2車両設計課第4係長のSが就任した。)、上記控訴人の主張は失当である。

ウ Aは、昭和63年8月10日から同月17日まで夏休みであった。しかし、Aは、訴外会社から書類を持ち帰り、夏休み期間中も大部分自宅で仕事をしていた。

これらの事情を総合考慮すると、Aは、上記期間中は、いくぶん疲労を回復したものと推認するのが相当である。

エ 夏休み明けの昭和63年8月18日から死亡前日の同月25日まで、Aは、ライトエーストラックのコスト低減の問題検討、開発プロジェクトの作業日程調整及びライトエーストラックのリーフスプリング異音問題検討等の業務を遂行し、同月初旬に引き続いて多忙であった。

Aは、このころ既に本件うつ病を発症しており、その言動の中には、うつ状態となっていたAの心理が影響したものがあると考えられるし、出来事による影響も、正常な時よりも過大に感じられたものと推認される。そして、そのような状態の下で、開発プロジェクトの作業日程調整は、Aに対して、強い心理的負荷を与え、本件うつ病を増悪させたものと認められる。

オ 本件出張命令

Aは、昭和63年8月20日、南アフリカ共和国への16日間の出張を命じられた。

本件出張命令は6か月も先のことであったが、その予定日がアジアカーとライトエーストラックの第1次試作設計の出図時期と重なっていたこと及び当時Aが業務の遅延に相当悩んでいたことからすると、Aが、本件出張により上記出図時期が遵守できなくなるのではないかとの不安、焦燥を抱いたことは、既に本件うつ病を発症していたAの心理状態を併せ考慮すれば十分に理解可能であるから、本件出張命令は、Aに対し、強い心理的負荷を与えて本件うつ病を悪化させたものと認められる。

7  業務以外の出来事による心身的負荷とAの個体側の要因について

(1)  業務以外の出来事による心身的負荷

ア 住宅ローンについて

前記認定のとおり、新居新築に伴う住宅ローンの返済を含めても、被控訴人一家の家計はAの収入で十分賄うことができ、被控訴人の20万円余りの収入は全部貯金に回していたのであるから、住宅ローンの返済はAにとって特段過重な負担であったとは解されず、そこから受ける心理的負荷もほとんどなかったと推認される。(それゆえ、<証拠略>において、住宅ローンの発生が判断指針別表2によれば「I」に該当するとの判断は是認できない。)

イ 被控訴人の妊娠中の手術及び三女の出産について

Aが三女に対する被控訴人の手術の影響を心配していたことは前記認定のとおりであるが、三女は昭和63年7月4日に正常分娩で出生し、その後の発育も順調であったところ、本件うつ病の発症が同月下旬ないし同年8月上旬であるという経緯に照らせば、上記の心配が本件うつ病発症の要因とみることは困難であるというべきである。

また、三女の出産についても、被控訴人が三女中心の生活になること、Aも三女の育児について何がしかの負担をせざるをえないこと等からすれば、ある程度の心理的負荷が加わったことは否定できないが、被控訴人夫婦は既に長女、二女の妊娠、出産を経験していること、夫が妻の妊娠、出産により受ける心理的負荷は妻のそれよりも低いとされていること、さらには、引っ越しに伴って被控訴人の両親の住居と隣接することになり、従来の長女、二女の幼児期とは異なり、育児について被控訴人の両親からの援助が期待できる体制にあることを勘案すれば、三女の出産によるAの心身的負荷は、余り高いものであったとはいえない。(<証拠略>は、判断指針別表2に当てはめて評価すると、被控訴人の妊娠中の手術は、Aも胎児への影響について心配していたことから「II」ないし「III」、出産は「I」と評価しているが、前者については、少なくとも、評価は過大であって相当ではない。三女の出産によるAの心身的負荷は、「I」の中でも低い方であったと評価するのが相当である。)

ウ 三女の夜泣きについて

三女の夜泣きは、それが通常のものである限り、三女の出産と包括的に評価すべきものであり、<証拠略>もこれを独立の出来事として評価していない。

そして、前記認定のとおり、Aは、昭和63年8月9日、B課長に対して、「子供が夜泣きしてよく眠れない。夜泣きで目が覚めると仕事のことが頭に浮かんで眠れなくなる。」旨を述べたことがあるが、このころは既にうつ病を発症し不眠も相当進行していた時期であること、前期認定のとおり、被控訴人の配慮により、Aと三女とは別々の階で就寝していたことからすると、Aが三女の夜泣きで目が覚めることがあったとしても、それは多分にAのうつ病の影響によるものと解されるから、三女の夜泣きは通常の範囲内のものであり、前記三女の出産においてすでに包括して評価されているとするのが相当である。

エ 引っ越しについて

前記認定のとおり、新居への引っ越しは昭和62年10月のことであり、本件うつ病の発症時期から約9か月も前のことであるから、これを本件うつ病の発症、増悪の要因として考慮することは相当でない。判断指針も、考慮すべき出来事の評価期間を6か月に限定しているところである。

オ その他について

Aは、休日で時間に余裕のあるときは、被控訴人を車で名古屋市中区伏見にある名古屋音楽学校に送迎していたことが認められるが、走行距離はさほどのものではなく、このことは、日常的な事象であって、心身的負荷の対象となる出来事とは考え難い。

(2)  個体側の要因

前記認定のとおり、Aの性格は、几帳面、真面目で責任感が強く、仕事第一主義であり、医学的知見に照らすと、うつ病親和的なものであったが、通常人の正常の範囲を逸脱しているものではなく、Aのストレス反応性が脆弱であることを窺わせる事情は見いだすことが出来ない。

8  総合評価

上記6、7のとおり、Aは、従前からの恒常的な時間外労働や残業規制による過密労働により、相当程度の心身的負荷を受けて精神的、肉体的疲労を蓄積していたこと、昭和63年7月の2車種の出図期限が重なったことによる加重、過密な業務及び出図の遅れにより、極めて強い心身的負荷を受けたこと、職場委員長に就任することにより出図期限が遵守できなくなるのではないかとの不安、焦燥が相当強い心理的負荷となったこと、同年8月初旬の加重、過密な業務及び出図期限の再延長により、相当強い心身的負荷を受けたこと、同月10日から同月17日までの夏休み期間中、いくぶん疲労を回復したこと、夏休み明け後の開発プロジェクトの作業日程調整及び本件出張命令が、既に本件うつ病を発症していたAに対して、強い心身的負荷を与えたこと、住宅ローン、被控訴人の妊娠中の手術及び引っ越しは、いずれもAに対して特段の心理的負担を与えたものとは認められないこと、三女の出生に伴う家庭環境の変化(三女の夜泣きを含む)は、Aに対してそれほど強い心身的負荷を与えたものではないこと、Aはうつ病親和的性格傾向(ただし、通常人の正常な範囲を逸脱するものではない。)を有していたことに加えて、Aの不眠、早朝覚醒、肩凝り、全身疲労の出現が、上記業務による心身的負荷の蓄積度合いと符合していること、Aが被控訴人に対して漏らしていた不安、愚痴が仕事に関するものばかりであったことを総合考慮すれば、本件においては、業務外の要因による心身的負荷はさほど強度のものとは認められず、Aの本件うつ病は、上記の加重、過密な業務及び職場委員長への就任内定による心身的負荷とAのうつ病親和的な性格傾向が相乗的に影響し合って発症したものであり、さらにその後の開発プロジェクトの作業日程調整及び本件出張命令が本件うつ病を急激に悪化させ、Aは、本件うつ病による希死念慮の下に発作的に自殺したものと認めるのが相当である。

結局、上記の加重、過密な業務等による心身的負荷は、Aに対し、社会通念上、うつ病の発症だけではなく増悪においても、一定程度以上の危険性を有するものであったと認められるから、業務と本件うつ病の発症との間には相当因果関係を肯定することができ、本件自殺は、本件うつ病の症状として発現したものであるから、労災保険法12条の2の2第1項の「故意」には該当しないものである。

以上の次第で、本件うつ病の発症とそれに基づく本件自殺には業務起因性が認められるので、これを否定した本件処分は違法といわざるをえない。

9  以上によれば、本件控訴は理由がないから棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判官 小川克介 鬼頭清貴 黒岩巳敏)

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