大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

名古屋高等裁判所 平成14年(ネ)1043号 判決 2003年5月28日

主文

1  原判決を次のとおり変更する。

2  控訴人と被控訴人とを離婚する。

3  控訴人のその余の請求を棄却する。

4  訴訟費用は,第1,2審を通じ,2分の1を控訴人の負担とし,その余を被控訴人の負担とする。

事実及び理由

第1当事者の求める裁判

1  控訴人

(1)  原判決を取り消す。

(2)  控訴人と被控訴人とを離婚する。

(3)  被控訴人は,控訴人に対し,200万円及びこれに対する本判決確定の日の翌日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

(4)  訴訟費用は,第1,2審を通じ,被控訴人の負担とする。

2  被控訴人

(1)  本件控訴を棄却する。

(2)  控訴費用は控訴人の負担とする。

第2事案の概要

控訴人と被控訴人は昭和51年12月7日に婚姻した夫婦であるが,本件は,夫である控訴人が妻である被控訴人に対し,両者の婚姻関係は既に破綻しており,婚姻を継続し難い重大な事由があるとして離婚を求め,併せて慰謝料を一部請求(300万円を下らない慰謝料のうち200万円を請求)したのに対し,被控訴人は,控訴人は有責配偶者であるから,離婚請求は許されず,また慰謝料請求も理由がないとして争っている事案の控訴審である。

控訴人が破綻原因として主張するのは,被控訴人の浪費,子の監護養育の放擲,家事の怠慢及び控訴人の糖尿病の食事療法への不協力であり,被控訴人が控訴人の有責事由として主張するのは,控訴人の暴力と女性関係である。

第3当裁判所の判断

1  証拠(甲1ないし12,13の1,2,甲14ないし16,17の1,甲19,22,38,41ないし43,45,46,47の1ないし3,甲58,61,64,65,69,乙1,6,11ないし14,35,36,48,55,82の1ないし3,控訴人,被控訴人)及び弁論の全趣旨によれば,次の事実が認められる。

(1)  控訴人と被控訴人は,上記のとおり昭和51年12月7日に婚姻した夫婦であり,両者の間には,昭和52年6月14日出生の長男A,いずれも昭和54年8月29日出生の双生児二男B及び三男Cの3子がいる。

控訴人と被控訴人は,婚姻当初は三重県志摩郡a町bの控訴人の実家に同居していたが,昭和52年1月に独立し,以後,家族で,実家近くの借家や町営住宅等に居住して暮らしていた。

控訴人は,婚姻当時,商船会社の外国航路に就航する船舶の船員として乗船勤務していたが,その後上記会社を退職し,昭和54年4月1日から三重県立水産高校の教員となり遠洋航海実習船に乗船勤務していた。他方,被控訴人は,婚姻後は専業主婦として家事や子の監護養育に当たっていた。

(2)  控訴人は乗船勤務で家を離れて暮らすことが多いため給料の収支管理は被控訴人に委せていたところ,昭和52,3年ころから,控訴人は,被控訴人が控訴人と口論などするとすぐに静岡県清水市の被控訴人の実家に帰ってしまい,その際家計の現金や預金を使ってしまうとの不満を持つようになり,また,被控訴人は控訴人の実家と馴染もうとせず,控訴人の航海中に頻繁に自分の実家に帰っているのに,控訴人が休暇で帰宅すると孤独を訴えるとの反発も感じていた。

他方,被控訴人も,控訴人が些細なことで被控訴人に殴る蹴るの暴力を加えることが婚姻当初から度々あり,また,被控訴人が二男B及び三男Cを妊娠した際に,双生児であることを忌み嫌い,長男Aに被控訴人のことを多産の意味込めて「豚」と呼ばせようとするなど冷淡な態度や理不尽な振る舞いを示すことも少なくなかったことから,控訴人に対し鬱憤を抱いていた。

そのような中で,昭和55年8月ころ,被控訴人は,再び控訴人から暴行を受けたことから,静岡県清水市内の実家に帰ってしまい,そのため,控訴人宅では,控訴人の休暇中は控訴人が,控訴人が航海中は控訴人の両親や弟が3人の子の面倒を見ていた。

そして,昭和56年4月14日に至り,仲人であるD立会の下,控訴人及び控訴人の父と被控訴人の父が四日市船員会館で話し合い,被控訴人の父が,被控訴人が離婚の意思を固めていることを伝え,控訴人が離婚に応ずる意思を表明して協議離婚することで話がまとまり,3人の子は控訴人において養育すること,離婚届は被控訴人が早急に必要部分を作成して控訴人に送付し,控訴人において完成させた上,Dに渡し,同人が提出すること等が取り決められた。

(3)  しかるところ,同年6月になっても被控訴人から控訴人のところに離婚届が送付されてこないため,控訴人が清水市に赴き,被控訴人に面会したところ,被控訴人は控訴人との婚姻関係の継続を望んだため,控訴人もこれに応じてやり直すことになり,被控訴人は控訴人宅に戻り,約10か月ぶりに両者の婚姻生活が再開されたが,控訴人の被控訴人に対する暴力は,その後も止まなかった。

(4)  被控訴人は,昭和57年ころから頭痛や腰痛があって寝込むようになり,昭和59年か60年の12月には激しい脱力感を覚え,そのころから微熱が生じることも時折あった。しかし,病院には行かずにいたところ,昭和62年10月に至り,体調不良が著しくなり,伊勢市立病院内科を受診したところ,同科の診察では異常が認められなかったものの,精神科の受診を勧められ,同科で受診すると鬱病と診断されて,2年間ほど通院しながら精神安定剤を服用していた。

また,被控訴人は,このころから頸部痛や手指に痺れがあり,整体治療を受けていたが,平成4年2月5日に至り,三重県立志摩病院整形外科を受診して,脊柱管狭窄症,頸部椎間板ヘルニアと診断された。そこで,被控訴人は,同年3月,清水市の実家に帰り,同月26日,清水市立病院で受診し,頸部椎間板ヘルニアと診断され,同年6月1日から同月9日まで同病院に検査入院し,手術を勧められたが,頸部の手術を受けることが不安で,踏み切れないまま,その後も清水市の実家から通院治療を続けていた。

そして,被控訴人は,上記悩みを控訴人にも相談していたところ,同年8月,控訴人から三重県度会郡c町所在の中嶋病院への転医を勧められて三重県に戻り,同月下旬から40日ほど同病院に入院して牽引治療を受けた。

しかし,病状は思わしくなく,被控訴人は,同年10月13日から同年11月20日まで国立伊東温泉病院に入院し牽引やブロック注射等の治療を受けたが症状はさほど改善しないまま,退院後清水市の実家に戻り,清水市立病院に通院していた。

その後,被控訴人は,同年11月26日,東京の三井記念病院で受診し,平成5年1月18日から同月30日まで同病院に入院し,CT検査により頸部脊柱狭窄が認められて手術が必要との診断を受け,一旦退院した後,同年3月1日,再入院して,同月24日に手術を受け,4月24日に退院した。

その後,被控訴人は清水の実家で静養し体調は徐々に回復した。

被控訴人は,その後も,同年7月,都立神経病院に1か月間入院し,平成6年3月,再度同病院に1か月間入院したほか,通院治療も受けている。

(5)  上記のとおり被控訴人が平成4年3月清水市の実家に帰り,同年8月まで清水市立病院に入通院している間,控訴人と被控訴人の3人の子は当時いずれも中学生(長男Aが中学3年生,二男B及び三男Cがいずれも中学1年生)であったが,被控訴人とともに被控訴人の実家で暮らし,中学校も1学期だけ転校した。

そして,同年8月に被控訴人が三重県に戻ったのに伴い,3人の子もbの控訴人宅に戻り,その後の同人らの面倒は入院生活を送る被控訴人に代わって控訴人の弟が見るようになったが,同年9月ころから,長男Aの夜遊び,バイク窃盗,喫煙等の非行が顕著になって,控訴人や控訴人の弟が学校や警察から頻繁に呼出を受けるようになり,また,平成6年になってからは,中学生であった二男B及び三男Cも同様の非行が顕著になって,控訴人や控訴人の弟が学校や警察から頻繁に呼出を受けるようになった。

(6)  前記(3)のとおり昭和56年6月に被控訴人との婚姻生活を再開した後,控訴人は,控訴人が被控訴人に,入通院に必要な時以外はできるだけ家に帰って子供達の面倒を見るように言ったのに,被控訴人はこれを聞き入れず,子供達の世話を控訴人や控訴人の実弟等に委せきりにして実家に滞在することが多かったとか,また,頸部椎間板ヘルニアの治療についても,控訴人が絶えず正規の病院で診療を受けるよう言っていたにもかかわらず永く多額の治療費をかけて整体治療を受けるのみで,平成4年まで整形外科を受診しなかったとか,さらに,被控訴人は控訴人に体調不良を訴える割には,友人達と遊び歩くことが多く,平成5年3月に三井記念病院で手術を受け,完治した後も控訴人が自宅に居るときは体調不良を訴え,乗船勤務で留守にすると元気に外出していたとかいった被控訴人に対する不満を募らせていった。

加えて,控訴人は平成4年と平成5年に受診した人間ドックで境界型糖尿病との診断を受け,平成7年に受診した人間ドックでは糖尿病との診断を受けて食事療法を心掛けるよう注意され,さらに平成8年に受診した人間ドックでは糖尿病との診断で専門医に相談するよう指導され,食事療法を実施していたのであるが,控訴人は,被控訴人に食事療法への協力を求めても,被控訴人は全く協力しようとしないとの不満も持っており,また,昭和63年から平成3年ころにかけて,被控訴人が化粧品販売や手作りパン販売の事業に金員を投じたり,高価な服飾品や寝具,語学教材を購入したりすることも苦々しく思っていた。

そして,これらの思いが鬱積して,控訴人は再び被控訴人との離婚の意思を固めていった。

(7)  そこで,控訴人は,平成6年7月ころ被控訴人に離婚の話を切り出し,同年12月31日,3年間生活費を送金した後,平成10年3月に離婚届を提出することを提案したところ,被控訴人は二男Bを連れて同日から平成7年1月16日まで実家に帰って考えた後,同月17日に控訴人宅に戻り,控訴人の提案を了承した。なお,その際,二男Bは被控訴人とともに清水市の被控訴人の実家で暮らし,三男Cはbの控訴人宅に残ることになった。

その後,控訴人と被控訴人は離婚の条件について協議し,同年3月12日,控訴人と被控訴人は平成10年4月末日協議離婚することとし,それまで離婚届はDに預けること,平成7年3月末日より平成8年2月末日まで給与の2分の1,ボーナスの2分の1を支払うこと,同年3月末日より平成10年2月末日まで給与の3分の1,春,夏,冬の各ボーナスの3分の1を支払うこと,子の親権は同年4月末までに子の意見を尊重して決定すること,以上をもって協議離婚届出に押印するが,上記約束を守らない場合は協議離婚届を出してはならず,協議離婚は無効とすることを記載した書面と離婚届を作成したうえ,平成7年3月13日,3年後に離婚届を提出することとしてこれを仲人のDに預け,その際,被控訴人はDに対しこの書面に書かれた約束が守られなかったら控訴人が上記離婚届を取りに来ても渡さないで欲しいと述べた。

そして,同日以来被控訴人は住民票も移して控訴人と別居し,控訴人は,その後,被控訴人に対し,おおむねこの書面の記載内容とおりに送金を実行した。

(8)  しかし,平成10年3月,控訴人と被控訴人は話し合い,あと1年離婚の時期を遅らせることにし,また,今後の控訴人から被控訴人への送金額を月額10万円ずつとすることにした。

そして,平成11年4月,控訴人は被控訴人に離婚届を提出することの同意を求めたが,金銭給付の条件面で折り合えず,控訴人は,被控訴人の同意を取り付けないままDから返却を受けた上記離婚届を同年6月29日にa町役場に提出し,以後被控訴人に対する上記月額10万円の支払いを停止した。

この間の同年5月27日,被控訴人は法律扶助認定を受けて離婚調停の申立をしたが,上記のとおり控訴人から離婚届が提出されて,これが受理されたので,被控訴人は直ちに協議離婚無効確認の調停を経て同訴えを提起したところ,平成12年10月24日,被控訴人の請求を認容する判決がなされた。その後,被控訴人は,改めて,控訴人との離婚を求めて離婚の調停を申し立てた。この調停の席では,控訴人も被控訴人も離婚すること自体には異存がなかったが,金銭的な条件面で折り合うことができず,平成13年6月14日に同調停は不成立に終わった。

しかし,その後,被控訴人からは控訴人との離婚訴訟の提起がなされず,同年11月9日,控訴人から本件訴訟が提起された。

2  離婚事由の存否

以上の事実のとおり,控訴人と被控訴人との婚姻関係は,被控訴人が婚姻当初から続く控訴人の被控訴人に対する暴力や冷淡な態度等に悩み,他方控訴人は被控訴人の家計の管理や被控訴人の実家への帰属意識の抜けきれない態度等に不満を抱いていたことから亀裂が生じ,昭和55年8月ころから被控訴人は実家に帰って控訴人や子供達と別居し,その状態が10か月ほど続いて離婚への動きが生じている。そして,控訴人と被控訴人は一旦は思い直してその亀裂の修復を試みたが,その後被控訴人は頸部椎間板ヘルニアを患い,平成4年3月からその治療のために入退院を繰り返したり清水市の実家に滞在して通院するなどして,家事や子供達の養育が疎かになり,しかも,そのような中で子供達に非行が生じたことから,控訴人の被控訴人に対する不満はいよいよ募り,加えて,控訴人には,もともと被控訴人に対し,控訴人の糖尿病の食事療法に非協力的であるとか,身体の不調を訴えながら友人との遊興には興じているとか,或いは,無駄な金銭の使い方をするなどの不満があったため,控訴人は再び被控訴人との離婚を決意するに至り,平成6年末,被控訴人に3年間生活費を送金して平成10年3月に離婚届を提出することを提案し,これに対して被控訴人も平成7年1月17日までに離婚に応ずる意思を固め,同年3月13日,控訴人と被控訴人が作成した離婚条件を記載した書面と離婚届を仲人のDに預けて,同日以来控訴人と被控訴人は別居し,その後別居状態が続いたまま両者間に離婚を巡る紛争が生じているのであるから,控訴人と被控訴人の婚姻関係は,平成7年3月13日には最早破綻し,婚姻を継続し難い重大な事由が生じているというべきである。

3  控訴人の有責配偶者性の有無

上記のとおり,控訴人と被控訴人の婚姻関係の破綻は,控訴人が離婚の決意を固め,被控訴人がこれを受け容れて,両者に婚姻継続の意思が失われるという形で生じているものであるところ,控訴人が被控訴人との離婚を決意したのは,主として,控訴人が被控訴人の家事・育児を含む生活態度を怠慢で身勝手なものと受け取り,そのような被控訴人と満足の行く家庭生活を送って行くことは困難と感じたためであり,他方,被控訴人が控訴人の離婚の申し入れを受け容れた背景には控訴人の被控訴人に対する暴力や冷淡な態度があり,したがって,控訴人と被控訴人との婚姻関係の破綻は,被控訴人の頸部椎間板ヘルニアの罹患とこれを巡る被控訴人の生活態度に対する控訴人の不満と控訴人の暴力等に対する被控訴人の鬱憤を主たる要因とし,これに他の副次的要素が加わってもたらされたものと考えることができる。

ところで,被控訴人は,上記控訴人の被控訴人に対する暴力をもって,被控訴人は本件離婚における有責配偶者であると主張する。

上記のとおり,確かに,控訴人の被控訴人に対する暴力は控訴人と被控訴人の婚姻関係破綻の一方の要因とは考えられるのであるが,他の大きな要因として被控訴人の頸部椎間板ヘルニアの罹患とこれを巡る被控訴人の生活態度が存在するのであり,その破綻は,専ら又は主として控訴人に責任のあるものとまではいえないから,被控訴人の上記主張は採用できない。

なお,被控訴人は,被控訴人の頸部椎間板ヘルニアは控訴人の被控訴人に対する暴力によって生じたものであると指摘するのであるが,その具体的な因果関係を裏付ける証拠はないから,上記指摘は採用できない(他方,控訴人は被控訴人の頸部椎間板ヘルニアは,被控訴人が遭遇した昭和59年と平成元年の交通事故に起因するものであると指摘しており,被控訴人も時期や態様,程度は異なるものの,控訴人の指摘する上記各交通事故に該当する事故が生じていること自体は否定してはいないところ,被控訴人に頸部椎間板ヘルニアを示す症状と考えられる頸部痛や手指の痺れが初めて生じたと認められるのは昭和62年10月ころであり,控訴人の主張する上記交通事故との時期的関係からして,被控訴人の頸部椎間板ヘルニアが控訴人の指摘する交通事故から生じた可能性も存するものといえる。)。

また,被控訴人は,控訴人の有責性として,控訴人の女性関係も主張する。たしかに,証拠(乙19ないし28,29及び30の各1,2,乙31の1ないし4)によれば,控訴人には女性関係にルーズな面があったことが窺われなくもない。

しかしながら,前記のとおり,控訴人と被控訴人との婚姻関係の破綻は,控訴人が離婚の決意を固め,被控訴人がこれを受け容れて生じているものであり,被控訴人が控訴人の離婚の申し出を受け容れるにつき,控訴人の女性関係が多少なりとも影響している可能性は否定できないにしても,これが婚姻関係破綻に果たした役割はさほど大きいものとは考えられないから,被控訴人の上記主張も採用できない。

したがって,控訴人は控訴人と被控訴人の婚姻関係破綻の原因を作り出した有責配偶者ということはできない。

4  慰謝料請求の当否

前記1に認定した経過によれば,控訴人と被控訴人の婚姻関係破綻が被控訴人の不法行為によって生じたものと認めることはできず,したがって,控訴人の被控訴人に対する慰謝料請求は,これを認めることができない。

5  結論

以上のとおり,控訴人の本件離婚請求は理由があり,慰謝料請求は理由がないから,控訴人の請求をいずれも棄却した原判決を変更して,離婚請求を認容し,慰謝料請求は棄却することとして,主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 熊田士朗 裁判官 川添利賢 裁判官 玉越義雄)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例