名古屋高等裁判所 平成17年(ネ)721号 判決 2006年6月27日
控訴人
甲野太郎
控訴人
甲野春子
上記両名訴訟代理人弁護士
大見宏
同
榊原尚之
被控訴人
株式会社A(以下「被控訴人会社」という。)
代表者代表取締役
乙山一郎
被控訴人
丙川二郎(以下「被控訴人丙川」という。)
上記両名訴訟代理人弁護士
西川正志
主文
1 本件各控訴をいずれも棄却する。
2 控訴費用は,控訴人らの負担とする。
事実及び理由
第1 控訴の趣旨
1 原判決を取り消す。
2 被控訴人らは,控訴人甲野太郎に対し,連帯して3647万7245円及びこれに対する平成13年11月23日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
3 被控訴人らは,控訴人甲野春子に対し,連帯して3647万7245円及びこれに対する平成13年11月23日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
4 訴訟費用は,1,2審を通じて被控訴人らの負担とする。
第2 事案の概要
1 本件は,スイミングスクールのプール内で死亡するに至った亡甲野夏男(以下「夏男」という。)の両親で,その相続人である控訴人らが,スイミングスクールにおいて夏男を担当していたコーチである被控訴人丙川及びスイミングスクールの経営者である被控訴人会社に対し,被控訴人丙川については民法709条に基づき,被控訴人会社については同法715条及び415条に基づき,それぞれ損害賠償3647万7245円及びこれに対する不法行為の日である平成13年11月23日から支払済みまで民法所定年5分の割合による遅延損害金を請求したところ,原審がこれを棄却したことから,これに不服のある控訴人らが控訴した事案である。
2 争いのない事実等,争点及び当事者の主張は,後記3のとおり当審における控訴人らの主張を付加するほか,原判決「事実及び理由」欄の「第2事案の概要」の「1」及び「2」に摘示のとおりであるから,これを引用する。
3 当審における当事者らの主張
(1) 控訴人ら
夏男は,本件プール西側の壁から約7メートルないし5メートル付近の水泳を中断した地点で何らかの変調を生じ,驚愕呼吸期や抵抗期がほとんどない状態で,終末呼吸期に入り溺死するに至った(非典型的溺死),あるいは,大量の水を吸引することなく溺死した(乾性溺死)。さらに,夏男は,本件プール東側の壁から約3メートルの地点で水没して水を吸引して溺死するに至った可能性が高い(非典型的溺死)。被控訴人らには,上記水泳中断時に夏男をプールから引き上げるべき注意義務があった。
(2) 被控訴人ら
夏男について溺死を裏付ける所見はなく,また,本件プール西側の壁から約7メートルないし5メートル付近の水泳を中断した地点で呼吸障害を起こしていたとすることは,その後約25メートルを自力で歩行したこととの整合性を欠くこと,さらに,本件プール東側の壁から約3メートルの地点で水没して水を吸引して溺死したとの点についても,溺死を裏付ける所見は無いことから,いずれも否認する。
第3 当裁判所の判断
1 夏男の死亡に至る事実経過及び医師の診断等の内容は,次のとおり加削訂正し,後記2のとおり付加するほかは,原判決「事実及び理由」欄の「第3 判断」の「1」に説示のとおりであるから,これを引用する。
(1) 原判決8頁2行目の「右腕を曲げながら」から同4行目の「様子を示し,」までを削除し,同5行目の「歩行を続けた。」の次に「(「歩いているとき右腕を曲げていた」との供述(甲5のB,C,保護者数名)は,本件プール西側の壁から約7メートルないし5メートル付近の水泳を中断した地点での夏男の様子について述べたもので,その後,東側の壁に向かって歩行中の様子についてのものとまでは認められない。また,夏男が足に変調を来していた時点が本件プール東側の壁から約15メートルから10メートルの地点であったとする供述(甲5のD,E)も,Fの夏男が本件プールの東側の壁への歩行中にフラフラしている様子はなかったとの供述(甲5,23)に照らし,正確性に疑問があり,採用できない。)」を付加する。
(2) 同5行目の「5メートル」を「12メートル」と訂正し,同8行目の「佇立する状況下で」を「,再び「大丈夫か」と声をかけたところ,うなずき,その後被控訴人丙川が佇立する状況下で(ただし,被控訴人丙川は東側ゴール付近に行き,その後また本件プール東側の壁から約5メートルの位置にいた夏男の近くに戻っている。)」と訂正する。
2 争点1(夏男の死因について)
(1) 控訴人らは,夏男が水泳を中断した時点でプールの水を気道内に吸引したものであり,その死因は溺死であった旨主張する。
(2) 溺死の経過,主な溺死体の所見及び分類は,概ね以下のとおりであると認められる(甲20,21,31,34)。
ア 溺死の経過
(ア) 驚愕呼吸期
入水時の皮膚刺激による反射的な1回の呼吸運動である。
(イ) 抵抗期(一時呼吸停止期)
液体(溺水)が肺の中へ入ってくるのを防ぐため,呼吸を止めることが可能な時期であり,30秒間ないし1分間程度続く。
(ウ) 呼吸困難期・痙攣期
炭酸ガスの蓄積による中枢の刺激が呼吸を再び引き起こし,激しい吸気と呼気が繰り返され,痙攣性の呼吸運動となり,末期には全身に痙攣が起きて,意識を消失する。1分間ないし2分間程度続く。
(エ) 無呼吸期
痙攣が続き呼吸が停止する1分間程度の仮死状態。
(オ) 終末呼吸期
呼吸が間欠的に起こり,間もなく停止する。
(カ) 以上の全経過は4分間ないし5分間程度である。ただし,心臓の拍動はさらに数分間持続する。
イ 溺死体の主な所見
(ア) キノコ状泡沫
肺胞に入った溺水が呼吸困難期の激しい呼吸運動により空気や粘液と混和され,鼻孔及び口からキノコ状に盛り上がる白色ないし淡紅色の容易に消えない微細泡沫を生じる。乾燥すると口等の周囲の褐色の乾燥痕となって残る。このキノコ状泡沫は,死体を外表から検査して溺死と推定するための唯一の所見といえる。
(イ) 溺死肺
肺は溺水により膨隆し,胸腔を開放しても虚脱しない。胸骨,肋骨をはずすと前縦隔を覆うように膨隆していることが多く,色調は淡紅色から灰白色を呈し水腫状である。溺水により肺内の空気が末梢に追いやられて肺表面の気腫や肺胞壁破綻による出血が見られることがある。
(ウ) 胸腔内溺水
溺水は肺から胸腔内に漏出し,色調は赤褐色を呈する。これは生活反応ではなく死後変化である。一般に溺水は死後2週間程度で体外に漏出し,胸腔内に溺水は認められなくなる。
(エ) 胃腸内溺水
死後でも胃までは水が入るが,十二指腸まで入ることは少ない。
ウ 分類
(ア) 湿性溺死は,上記アの経過をたどる溺死である。
(イ) 乾性溺死は,液体の刺激により反射的に喉頭痙攣,気管支痙攣を起こし,結果として窒息状態となり,溺死する場合をいい,肺内には水分は少ない。溺死の10から20%を占める。
(3) 証拠(甲27,証人臼井康臣)によれば,相当の水泳能力を有している者であっても,水泳中に,短時間の呼吸と体を動かすことの微妙なバランスを崩して水を飲み,溺死に至ることがあることが認められる。しかし,夏男は水泳を中断した後本件プール内を約25メートル歩行しており,本件全証拠によっても,水泳中断後水没するに至るまでの間において,激しい呼吸運動の反復やこれに伴う痙攣等,溺水吸引に伴う呼吸障害を窺わせる症状を起こしたと認めることはできない。
なお,臼井康臣医師及び橋詰良夫医師は,いずれも夏男が水泳を中断した時点で相当量の水を飲んでおり溺死するに至ったものである旨診断している(証人臼井康臣及び同橋詰良夫の各証言)が,上記1(3)認定の本件事故状況の詳細を把握せず,上記1(5)認定の剖検依頼箋「現病歴,経過」欄に記載された程度の事情を認識するにとどまったまま,上記診断に至っており,夏男が水泳を中断した後に約25メートルを自力で歩行していたとの事実について整合性のある説明はできていない。
よって,控訴人らの前記(1)の主張は採用できない。
(4) 控訴人らは,夏男が水没時点でプールの水を気道内に吸引したものであり,その死因は溺死であった旨主張する。
(5) 上記1の事実によれば,夏男は①本件プール内で水没し,意識を失ったこと,②蘇生措置中に,口及び挿管チューブから泡が出ていたこと,③病理解剖時に,溺死の特徴である,a肺の膨大(左肺445g,右肺555g),肺気腫,肺水腫,肺の底面出血があり,b気管,気管支内に泡が出ており,c胸骨部から大量の出血があり,d心臓の右心房にかなりの血液があるのに,左心房,左心室にほとんど血液がなく,e背臥位及び右側臥位後,背臥位にしたところ,口腔より泡を出し,右側臥位にて血液の混入した吐物があったこと,④組織検査の結果,脳出血,くも膜下出血,心筋梗塞,肺動脈塞栓症などの突然死につながる病的な原因は見つからず,⑤既往歴や家族歴にも特記すべき所見はなかったことが認められ,これら本件事故時の状況,解剖前の所見,解剖時の所見,組織検査の結果等の諸所見を総合的に判断すれば,夏男の死因は溺死であると推認される。
すなわち,溺水と泡の発生の機序については,上記(2)イ(ア)のとおりである。また,キノコ状泡沫は溺死の全例について見られるものではなく,これが見られないからといって溺死を否定する理由にはならない(甲37)。
肺の膨大については,溺死では肺に溺水を吸引するため肺の重量が増加し,左右肺と胸腔内液の合計重量が1000g以上という所見は溺水吸引を否定できない所見とされているところ,夏男の左肺は445g,右肺は555g,その合計重量は1000g,胸腔内液を加えると1040gであり,肺への溺水吸入を示す所見となっている。なお,現代(昭和60年から平成元年)日本人の14歳の男性では,左肺が439g,右肺が500g,合計939gが平均値である。(甲35ないし38)
胸骨部からの大量の出血は,溺水が肺胞にまで達すると,肺胞から血管内に大量の水が入り血液が溶血を起こしやすくなり,そこで切開すると出血することから,また,心臓の右心房にかなりの血液があるのに,左心房,左心室にほとんど血液がなかったことは,心臓よりも先に肺が機能を停止していることを示すものであり,いずれも溺水吸引を示す所見である(証人臼井康臣)。
(6) これに対し,被控訴人らは,夏男の死因は,突然死であると主張する。確かに,夏男が本件プールの西側の壁から約7メートルないし5メートルの地点で水泳を中断した時点で,溺水を吸引していたと推定することが困難であることは上記(3)のとおりである。また,本件事故時の状況や夏男についての諸所見は,吸引した溺水そのものは確認されていないことなど,上記(2)の発生機序や所見等の典型的な溺死のものとは異なる。
また,溺死に見られる上記所見は,溺死のみならず他の心不全等の死因の所見としても存在しうるものではあるが,本件事故の発生状況及び諸所見は溺死を示唆し,組織検査の結果は他の死因を示唆するものではないうえ,夏男が本件プールの東側の壁から3メートル付近で水没した時に,相当程度疲労していた場合には抵抗期がほとんどない状態で呼吸困難期に至る可能性があること(甲5,23,36),泡が発生していること,蘇生措置中に「ゴロゴロ」という音が聞こえたのは,気道内に吸引された溺水が蘇生措置に伴い気道内で動いたため生じた音の可能性があることからすると,水没時に溺水を吸引した可能性があり,さらに,大量の溺水吸引の事実を裏付ける証拠はないが,乾性溺死もあり得ることから,夏男の溺死を否定することはできないというべきである(甲5,36,37)。
3 争点2(被控訴人丙川の不法行為責任の有無について)
(1) 被控訴人会社のようなスイミングスクール経営者及びその従業員である被控訴人丙川には,健常者であっても,また,水泳能力がある者であっても,プール内で溺れ,生命身体に対する重大な結果に至る事故が発生する危険性があることは十分予見可能であったというべきである(甲27,証人G)。
(2) 上記1の事実によれば,夏男は,水泳を中断した時点においては,テスト中に水泳を中断し,再度泳ごうとする姿勢をとった後すぐ立ち止まるという変わった行動をしたものの,一般的に相当の水泳能力がある者でも水泳を中断することはさほどめずらしいことではなく(証人臼井康臣,同G),他に夏男に格別身体的な異常を示す兆候はなく,夏男からの特段の訴えもなかったことからすると,被控訴人丙川は上記夏男の中断に対応して「大丈夫か」などと声をかけて夏男の応答から異常のないことを確認し,無理に泳ぎ続けることを勧めた訳でもないことからして,速やかに夏男をプールから上がらせる措置を採らなかった点について,コーチとしての注意義務,安全配慮義務に反する過失があったということはできない。
(3) また,その後の経緯を見ても,本件プールの西壁に向かう際に右腕を抱える様にしていた以外には夏男に特段の異常行動がなく,本件プールの東壁に向かって歩き始めたこと,夏男に相当の水泳能力があり,本件プールの水深及び夏男の身長からして直ちには溺れる状況にはなかったこと,夏男が中学2年生で体調管理能力もあったこと,被控訴人丙川が本件プール中央付近で再度声かけをし,比較的近くにいたことからすると,夏男を直ちにプールから上がらせる,あるいは,終始,夏男の傍らにあって静動を注視していなかったからといって,コーチとしての注意義務,安全配慮義務に反するものであるとはいえない。そして,夏男はもがいたり,手足をばたつかせたりすることなく,突然に水没し始めたものであり,被控訴人丙川において,夏男が水没しはじめ,意識がないと気づいた時点では遅滞なく救助活動を始めており,夏男が第6コースを歩いていたことから直ちにプールサイドに引き上げることが可能であり,不安定な体勢にならざるを得ない水中で人工呼吸をすることを,引き上げることよりも優先しなければならない状況にあったともいえず,この点についても注意義務違反や安全配慮義務違反はなかったといえる。
4 争点3(被控訴人会社の使用者責任及び債務不履行責任の有無)について
(1) 被控訴人会社の使用者責任の有無について
上記3で説示したとおり,被控訴人丙川について注意義務違反や安全配慮義務違反を認めることができない以上,被控訴人会社の使用者責任についても,その前提を欠くこととなるから,この点に関する控訴人らの主張は採用の限りでない。
(2) 被控訴人会社の債務不履行責任の有無について
被控訴人会社は,控訴人らとの間で夏男の水泳指導を安全かつ適切に行うべき役務提供契約を締結していたものであり,コーチに対する安全教育を徹底する等の安全配慮義務を負っていたところ,本件事故発生前の被控訴人丙川の安全講習への参加は十分なものとはいえず,安全教育の面で問題があったといえる。しかし,被控訴人丙川が本件事故について行った救助活動等に不適切な点はなく,本件事故と上記安全教育の不徹底との間に相当因果関係を認めることはできない。
したがって,被控訴人会社について,控訴人ら主張の夏男を死亡させたことに関する債務不履行責任を認めることはできない。
5 以上によれば,原判決は結果において相当であり,本件各控訴はいずれも理由がないから棄却することとし,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官・野田武明,裁判官・戸田彰子裁判官・丸地明子は差し支えにつき署名押印できない。裁判長裁判官・野田武明)