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名古屋高等裁判所 平成19年(行コ)7号 判決 2010年3月11日

主文

1  原判決主文第3項中,1審原告P1の1審被告厚生労働大臣に対する却下処分取消請求に関する部分を取り消す。

2  1審被告厚生労働大臣が,1審原告P1に対し,平成15年1月28日付けでした原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律第11条1項に基づく原爆症認定却下処分を取り消す。

3  1審原告P1のその余の控訴を棄却する。

4  1審原告P2,1審原告P3及び1審原告P4の控訴をいずれも棄却する。

5  訴訟費用は,第1審,2審を通じ,1審原告P1と1審被告厚生労働大臣との間では,全部1審被告厚生労働大臣の負担とし,1審原告P4と1審被告厚生労働大臣との間では,全部1審原告P4の負担とし,1審原告らと1審被告国との間では,全部1審原告らの負担とする。

事実及び理由

第1章控訴の趣旨

第11審原告ら

1  原判決中,1審原告ら敗訴部分を取り消す。

2  1審被告厚生労働大臣が,1審原告P1,1審原告P4に対し,1審原告P1については平成15年1月28日付けでした,1審原告P4については平成16年5月12日付けでした原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律第11条1項の認定申請に対する各却下処分を取り消す。

3  1審被告国は,1審原告らに対し,それぞれ300万円ずつ及びこれらに対する,1審原告P2につき平成15年4月29日から,1審原告P3,同P1,同P4につき,いずれも平成16年6月29日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

4  訴訟費用は,第1,2審とも1審被告らの負担とする。

第21審被告ら

1  1審原告らの本件控訴をいずれも棄却する。

2  控訴費用は1審原告らの負担とする。

3  仮執行宣言免脱

第2章事案の概要等

第1事案の概要

本件は,被爆者である1審原告らが,原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律(平成6年法律第117号,以下「被爆者援護法」という。)11条1項に基づく認定(以下「原爆症認定)という。)の申請をしたところ,いずれも却下処分を受けたため,1審被告厚生労働大臣に対して各却下処分の取消を求めるとともに,1審被告国に対して,各却下処分の違法を理由として,国家賠償法1条1項に基づき慰謝料及びこれらに対する遅延損害金の支払を求める事案である。

原判決は,1審原告P2及び1審原告P3に対する各却下処分を,いずれも違法として,これらを取り消し,1審原告P1及び1審原告P4に対する各却下処分を,いずれも適法であるとして,同人らの請求を棄却し,1審原告らの国家賠償請求については,いずれも理由がないとして,請求を棄却した。1審原告ら及び1審被告厚生労働大臣は,それぞれの敗訴部分を不服として控訴したが,1審被告厚生労働大臣は,1審原告P2及び1審原告P3に対する控訴を取り下げた。したがって,当審における審理の対象は,1審被告厚生労働大臣のした1審原告P1及び1審原告P4に対する却下処分の違法性の有無及び1審原告らの1審被告国に対する国家賠償請求権の有無である。

第2法令の定め等

1  被爆者援護法制定に至るまでの被爆者に対する援護施策の経緯について

(1) 原子爆弾被爆者の医療等に関する法律(昭和32年法律第41号)(以下「原爆医療法」という。)の成立

昭和32年,被爆者に対する援護施策として,「広島市及び長崎市に投下された原子爆弾の被爆者が,今なお置かれている健康上の特別の状態にかんがみ,国が被爆者に対し健康診断及び医療を行うことにより,その健康の保持及び向上を図ることを目的と」して,原爆医療法が制定された(1条)。

同法によると,「被爆者」とは,①原子爆弾が投下された際,当時の広島市及び長崎市の区域内または政令で定めるこれらに隣接する区域内に在った者,②原子爆弾が投下されたときから起算して政令で定める期間内に,前号に規定する区域のうちで政令で定める区域内に在った者,③前2号に掲げる者のほか,原子爆弾が投下された際,またはその後において,身体に原子爆弾の放射能の影響を受けるような事情の下に在った者,④前3号に掲げる者が当該各号に規定する事由に該当した当時その者の胎児であった者のいずれかに該当する者であって,被爆者健康手帳の交付を受けたものをいうとされている(2条)。

また,同法によると,都道府県知事は,被爆者に対し,毎年,健康診断を行い(4条),健康診断の結果,必要があると認めるときは,当該健康診断を受けた者に対して必要な指導を行うものとされ(同法6条),厚生大臣は,原子爆弾の傷害作用に起因して負傷し,または疾病にかかり,現に医療を要する状態にある被爆者に対し,必要な医療の給付を行うが,当該負傷または疾病が原子爆弾の放射能に起因するものでないときは,その者の治ゆ能力が原子爆弾の放射能の影響を受けているため現に医療を要する状態にある場合に限る(7条1項)と規定し,放射線起因性が認められる負傷または疾病に対して医療の給付を行うこととした。そして,医療の給付を受けるためには,厚生大臣による原爆症の認定を受けることを要し,厚生大臣は認定に当たって原子爆弾被爆者医療審議会(以下「医療審議会」という。)の意見を聴くことを要するとされている(同法8条)。

(2) 原子爆弾後障害症治療指針について(昭和33年8月13日衛発第726号各都道府県知事・広島・長崎市長あて厚生省公衆衛生局長通知)(以下「治療指針」という。)の制定(甲全8の2の文献番号1)

治療指針は,原爆医療法7条の医療の給付に係る医療が適切に行われるよう,原爆の傷害作用に起因する負傷または疾病(原子爆弾後障害症)の特徴及び患者の治療に当たり考慮されるべき事項を定めたものである。治療指針によると,治療上の一般的注意として,いかなる疾患または症候についても一応被爆との関係を考え,その経過及び予防について特別の考慮が払われなければならず,原子爆弾後障害症が直接間接に核爆発による放射能に関連するものである以上,被爆者の受けた放射能特にガンマ線及び中性子線の量によってその影響の異なることは当然想像されるが,被爆者の受けた放射能線量を正確に算出することはもとより困難であって,この点については被爆者の個々の発症素因を考慮する必要もあり,また当初の被爆状況等を推測して状況を判断しなければならないが,治療を行うに当たっては,特に次の諸点について考慮する必要があるとされ,具体的には以下のような指摘がなされている。

ア 被爆距離については,被爆地が爆心地から概ね2キロメートル以内のときは高度の,2キロメートルから4キロメートルまでのときは中等度の,4キロメートルを超えるときは軽度の放射能を受けたと考えて処置してさしつかえない。

イ 被爆後における急性症状の有無及びその状況,被爆後における脱毛,発熱,粘膜出血,その他の症状をは握することにより,その当時どの程度放射能の影響を受けていたかを判断することのできる場合がある。

ウ 原子爆弾後障害症として比較的明瞭なものは,瘢痕治癒異常,造血機能障害,内分泌機能障害,白内障等であるが,この外,肝機能障害,各種腫瘍等種々の続発症の生ずる可能性も考慮しなければならない。

エ 原子爆弾後障害症においては,その症状が一進一退することが多いので,治療を加えた結果一応軽快をみても,その後における健康状態には絶えず注意を払う必要がある。

オ 原子爆弾被爆者の中には,自身の健康に関し絶えず不安を抱き神経症状を現すものも少くないので,心理的面をも加味して治療を行う必要がある場合もある。

カ 原子爆弾後障害症については,全身的な補強が,肉体的にはもちろん精神的にも好影響をもたらす場合が少くない。特に全身衰弱の認められるものには,量的及び質的に十分な栄養の補給,強壮剤の投与を行うとともに,各種ストレスに対する予備能力の低下傾向に注意する必要がある。

上記通知は,原爆医療法11条2項が定める原爆症認定の基準を定めるものではなく,同条1項の健康保険の診療方針に関して特に留意すべき事項を,同法9条の指定医療機関に周知させる目的で発せられたものであるが,原爆症認定の審査を担当していた原子爆弾被爆者医療審議会の意見聴取を経ており,原爆症に関する当時の起因性判断の考え方を推認させるものといえる。特に,原爆による放射線の線量評価システムが存在しない時期に,被爆者ごとの被爆線量の推定に関する一応の目安が示されているものとして,注目する必要がある。

(3) 「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律により行う健康診断の実施要領について」(昭和33年8月13日衛発727号各都道府県知事・広島・長崎市長あて厚生省公衆衛生局長通知)(以下「実施要領」という。)(甲全2)

治療指針と日を同じくして,実施要領が発せられた。この通知は,被爆者の健康診断(原爆医療法4条)を行うに当たって考慮すべき事項を定めたものであるが,被爆者の障害についての放射線起因性に関する記述として,次のような記載がある。

放射能による障害の有無を決定することは,はなはだ困難であるため,ただ単に医学的検査の結果のみならず被爆距離,被爆当時の状況,被爆後の行動等をできるだけ精細には握して,当時受けた放射能の多寡を推定するとともに,被爆後における急性症状の有無及びその程度等から間接的に当該疾病または症状が原子爆弾に基づくか否かを決定せざるを得ない場合が少くない。

また,被爆者の健康診断を行うに当たって特に考慮すべき点は,次のとおりであるとして,原子爆弾の放射能に基づく疾病である限り,被爆者の個々の発症素因,生活条件等は別として,被爆者の受けた放射能の量が問題となることはいうまでもない。しかし,現在において被爆当時に受けた放射能の量をは握することはもとより困難であるが,概ね次の事項は当時受けた放射能の量の多寡を推定するうえに極めて参考となり得ると指摘している。すなわち,

ア 被爆距離

被爆した場所の爆心地からの距離が2キロメートル以内のときは高度の,2キロメートルから4キロメートルまでのときは中等度の,4キロメートル以上のときは軽度の放射能を受けたと考えてさしつかえない。

イ 被爆場所の状況

原子爆弾後障害症に関し,問題になる放射能は,主としてガンマ線及び中性子線であるので,被爆当時における,しゃへい物の関係はかなり重大な問題である。このうち特に問題となるのは,開放被爆としゃへい被爆の別,後者の場合には,しゃへい物等の構造並びにしゃへい状況等に関し,十分詳細に調査する必要がある。

ウ 被爆後の行動

原子爆弾後障害症に影響したと思われる放射能の作用は,主として体外照射であるが,これ以外に,じんあい,食品,飲料水等を通じて放射能物質が体内に入った場合のいわゆる体内照射が問題となり得る。したがって,被爆後も比較的爆心地の近くにとどまっていたか,直ちに他に移動したか等,被爆後の行動及びその期間が照射量を推定するうえに参考となる場合が多い。

エ 被爆後における健康状況

前述の被爆者の受けたと思われる放射能の量に加えて,被爆後数日ないし,数週に現れた被爆者の健康状態の異常が,被爆者の身体に対する放射能の影響の程度を想像させる場合が多い。すなわち,この期間における健康状態の異状のうちで脱毛,発熱,口内出血,下痢等の諸症状は原子爆弾による障害の急性症状を意味する場合が多く,特にこのような症状の顕著であった例では,当時受けた放射能の量が比較的多く,したがって,原子爆弾後障害症が割合容易に発現し得ると考えることができる。

オ 臨床医学的探索

臨床医学的探索に当たっては,原子爆弾後障害症として最も発現率の高い造血機能障害の検査に主体を置くほか,肝機能検査,内分泌機能検査等もあわせて行う必要のある場合がある。

また,異常については,この異常が放射能以外の原因に基づくものであるか否かについては,詳細に検討を加えたうえ,一応考えられる他の原因を除外した後においてはじめて放射能に基づくものと認めるべきであり,したがって,この鑑別診断を行うに当たっては,尿検査,糞便検査,エックス線検査その他必要ある検査はもちろん十分に行わなければならない。

カ 経過の観察

原子爆弾後障害症の一部,例えば,軽度の貧血や白血球減少症のようなものでは,所見が一進一退する場合が往々にしてみられるので,被爆者の健康について十分に経過を観察する必要がある。

(4) 医療手当及び特別被爆者制度の創設

昭和35年法律第136号による原爆医療法の改正により,一般疾病医療費制度(同法14条の2。原爆症認定を受けた被爆者を支給の対象とする医療手当制度が創設され(原子爆弾の放射線を多量に浴びた被爆者に医療費の支給が限定されていたが,その後にその制限がなくなった。),医療手当制度(同法14条の8)が追加された。

(5) 原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律(以下「被爆者特措法」という。)の制定及びその改正

被爆者特措法は,広島市及び長崎市に投下された原子爆弾の被爆者であって,原子爆弾の傷害作用の影響を受け,今なお特別の状態にあるものに対し,特別手当の支給等の措置を講ずることにより,その福祉を図ることを目的と」して制定された(1条)。

同法は,原爆症の認定を受けた被爆者に対する特別手当(2条,当初月額1万円),原爆医療法14条の2が定める特別被爆者に対する健康管理手当(5条,当初月額3000円),同法7条1項の医療の給付を受けている者に対する医療手当(7条),特別被爆者で介護を要する者に対する介護手当(9条)の各制度を規定した。各手当については,一定の所得制限があった。

その後,原子爆弾小頭症手当(4条の2),保健手当(5条の2),葬祭料の支給(9条の2)等が追加され,原爆医療法上の前記医療手当が被爆者特措法の特別手当に統合されて医療特別手当の制度となった。

2  被爆者援護法の制定

平成6年,原爆医療法と被爆者特措法を一元化するものとして,被爆者援護法が制定され,平成7年7月1日から施行されるとともに(同法附則1条),原爆医療法及び被爆者特措法は廃止された(同法附則3条)。

(1) 被爆者援護法の概要

ア 被爆者援護法制定の趣旨及び目的

被爆者援護法は前文を設け,次のとおり定める。

「昭和二十年八月,広島市及び長崎市に投下された原子爆弾という比類のない破壊兵器は,幾多の尊い生命を一瞬にして奪ったのみならず,たとい一命をとりとめた被爆者にも,生涯いやすことのできない傷跡と後遺症を残し,不安の中での生活をもたらした。

このような原子爆弾の放射能に起因する健康被害に苦しむ被爆者の健康の保持及び増進並びに福祉を図るため,原子爆弾被爆者の医療等に関する法律及び原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律を制定し,医療の給付,医療特別手当等の支給をはじめとする各般の施策を講じてきた。また,我らは,再びこのような惨禍が繰り返されることがないようにとの固い決意の下,世界唯一の原子爆弾の被爆国として,核兵器の究極的廃絶と世界の恒久平和の確立を全世界に訴え続けてきた。

ここに,被爆後五十年のときを迎えるに当たり,我らは,核兵器の究極的廃絶に向けての決意を新たにし,原子爆弾の惨禍が繰り返されることのないよう,恒久の平和を念願するとともに,国の責任において,原子爆弾の投下の結果として生じた放射能に起因する健康被害が他の戦争被害とは異なる特殊の被害であることにかんがみ,高齢化の進行している被爆者に対する保健,医療及び福祉にわたる総合的な援護対策を講じ,あわせて,国として原子爆弾による死没者の尊い犠牲を銘記するため,この法律を制定する。」

イ 被爆者の定義

被爆者援護法が定める被爆者は,直接被爆者,入市被爆者,救護被爆者,胎児被爆者で被爆者健康手帳(同法2条)の交付を受けたものとしており(同法1条),この点は原爆医療法と同様である。

ウ 被爆者健康手帳について

被爆者健康手帳の交付を受けようとする者は,その居住地(居住地を有しないときは,その現在地)の都道府県知事(広島市及び長崎市においては市長)に申請しなければならず(同法2条1項),都道府県知事は,同申請に基づいて審査し,申請者が前記被爆者の定義に該当すると認めるときは,被爆者健康手帳を交付する(同条2項,3項)。

エ 被爆者に対する援護の概要

被爆者援護法が定める被爆者に対する援護措置は次のとおりである。

(ア) 健康管理

都道府県知事は,被爆者に対し,毎年,厚生労働省令で定めるところにより,健康診断を行い(同法7条),健康診断に関する記録を作成・保存し(同法8条),必要な指導を行う(同法9条)。

(イ) 医療の給付

厚生労働大臣は,原子爆弾の傷害作用に起因して負傷し,または疾病にかかり,現に医療を要する状態にある被爆者に対し,必要な医療の給付を行う。ただし,当該負傷または疾病が原子爆弾の放射能に起因するものでないときは,その者の治ゆ能力が原子爆弾の放射能の影響を受けているため現に医療を要する状態にある場合に限る(同法10条1項)。

(ウ) 一般疾病医療費の支給

厚生労働大臣は,被爆者が,上記(イ)の医療給付を受けることができる負傷または疾病以外の負傷または疾病について医療を受けたときは,当該医療に要した費用を限度として,一般疾病医療費の支給をすることができる(同法18条1項)。

(エ) 医療特別手当の支給

都道府県知事は,11条1項の認定(原爆症認定)を受けた者であって,当該認定に係る負傷または疾病の状態にあるものに対し,医療特別手当(月額13万5400円)を支給する(同法24条1項,3項))。

(オ) 特別手当の支給

都道府県知事は,11条1項の認定(原爆症認定)を受けた者(医療特別手当の支給を受けている者を除く。)に対し,特別手当(月額5万円)を支給する(25条1項,3項)。

(カ) 原子爆弾小頭症手当の支給

都道府県知事は,被爆者であって,原子爆弾の放射能の影響による小頭症の患者であるものに対し,原子爆弾小頭症手当(月額4万6600円)を支給する(同法26条1項,3項)。

(キ) 健康管理手当の支給

都道府県知事は,被爆者であって,造血機能障害,肝臓機能障害その他厚生労働省令で定める障害を伴う疾病(原子爆弾の放射能の影響によるものでないことが明らかであるものを除く。)にかかっているもの(医療特別手当,特別手当,原子爆弾小頭症手当の支給を受けている者を除く。)に対し,健康管理手当(月額3万3300円)を支給する(同法27条1項,4項)。

(ク) 保健手当の支給

都道府県知事は,被爆者のうち,原子爆弾が投下された際爆心地から2キロメートルの区域内に在った者またはその当時その者の胎児であった者(医療特別手当,特別手当,原子爆弾小頭症手当,健康管理手当の支給を受けている者を除く。)に対し,保健手当(月額1万6700円)を支給する。ただし,厚生労働省令で定める身体上の障害(原子爆弾の放射能の影響によるものでないことが明らかであるものを除く。)がある者等については3万3300円とする(同法28条1項,3項)。

(ケ) その他

介護手当(同法31条),葬祭料(同法32条),特別葬祭給付金(同法33条)の支給の制度が定められている。

以上をまとめると,(ア)の健康管理手当及び(ウ)の一般疾病医療費の支給は,被爆者援護法1条の「被爆者」であれば受けることができる援護であるが,(ク)の保健手当の支給を受けるためには,爆心地から2キロメートル以内の区域に在った直接被爆者またはその当時その者の胎児であった被爆者であることが要件とされ,(キ)の健康管理手当の支給を受けるためには,一定の疾病に罹患すること(ただし,原子爆弾の放射能の影響によるものでないことが明らかであるものを除く。)が要件とされている。また,(イ)の医療の給付,(エ)の医療特別手当または(オ)の特別手当の支給を受けるためには,被爆者援護法に基づく原爆症認定を受けることが要件とされている。

オ 原爆症認定の要件と手続

被爆者援護法による原爆症認定制度の概要は次のとおりである。

(ア) 認定要件について

被爆者援護法による原爆症認定を受けるための要件として,被爆者が現に医療を要する状態にあること(要医療性)のほか,現に医療を要する負傷または疾病が原子爆弾の放射能に起因するものであるか,または右負傷または疾病が放射線以外の原子爆弾の傷害作用に起因するものであって,その者の治ゆ能力が原子爆弾の放射能の影響を受けているため右状態にあること(放射線起因性)を要すると解される(同法10条1項,11条1項。最高裁平成10年(行ツ)第43号同12年7月18日第3小法廷判決参照)。

(イ) 申請手続について

原爆症の認定を受けようとする者は,都道府県知事を経由して,厚生労働大臣に,負傷または疾病の名称,被爆時の状況(入市の状況を含む。),被爆直後の症状及びその後の健康状態の概要等を記載した認定申請書(様式第5号)に,医師の意見書(様式第6号)及び当該負傷または疾病に係る検査成績を記載した書類を添えて提出しなければならないものとされ,上記医師の意見書には,①疾病等の名称,②被爆者健康手帳の番号,③被爆者の氏名及び生年月日,④既往症,⑤現症所見,⑥当該疾病等が原子爆弾の放射能に起因する旨,原子爆弾の傷害作用に起因するも放射能に起因するものでない場合においては,その者の治ゆ能力が原子爆弾の放射能の影響を受けている旨の医師の意見,⑦必要な医療の内容及び期間を記載すべきものとされている(被爆者援護法施行令8条1項,同法施行規則12条)。

(ウ) 審議会等の意見聴取

被爆者援護法は,厚生労働大臣は,原爆症認定を行うに当たって,審議会等(国家行政組織法8条に規定する機関をいう。)で政令で定めるものの意見を聴かなければならないとし(同法11条2項),同法施行令9条においてその審議会等は疾病・障害認定審査会とされた。

そして,同審査会は,委員30人以内で組織し,特別の事項を審査させるため必要があるときは,臨時委員を置くことができ,これら委員及び臨時委員は,学識経験のある者のうちから,厚生労働大臣が任命するものとされている(疾病・障害認定審査会令(平成12年政令第287号)1条,2条)。また,同審査会に,被爆者援護法の規定に基づき認定審査会の権限に属させられた事項を処理する分科会として,原子爆弾被爆者医療分科会(医療分科会)を置くものとされ,同分科会に属すべき委員及び臨時委員等は,厚生労働大臣が指名するものとされている(同令5条1項,2項)。

なお,原爆医療法当時は,厚生大臣が原爆症の認定を行うに当たっては,医療審議会の意見を聴くものとされていた(同法8条2項)。

(エ) 認定書の交付

厚生労働大臣は,原爆症認定の申請書を提出した者につき原爆症の認定をしたときは,その者の居住地の都道府県知事を経由して,認定書を交付する(被爆者援護法施行令8条2項)。

(2) 原爆症認定に関する審査の方針

ア 認定基準(内規)について

医療審議会は,平成6年9月19日,「認定基準(内規)」(以下「6年認定基準(内規)」ということもある。)を定めて,審査の目安としていた。

イ 審査の方針の制定とその内容(乙全1,甲全8の2の文献番号2)

医療分科会では,平成13年5月25日,審査の方針(以下「旧審査の方針」という。)を決定し,その基準を目安として原爆症の認定審査を行うこととした。旧審査の方針の概要は次のとおりである。

(ア) 原爆放射線起因性の判断

a 判断に当たっての基本的な考え方

Ⅰ 申請に係る負傷または疾病(以下「疾病等」という。)における原爆放射線起因性の判断に当たっては,原因確率(疾病等の発生が,原爆放射線の影響を受けている蓋然性があると考えられる確率をいう。以下同じ。)及び閾値(一定の被曝線量以上の放射線を曝露しなければ,疾病等が発生しない値をいう。以下同じ。)を目安として,当該申請に係る疾病等の原爆放射線起因性に係る「高度の蓋然性」の有無を判断する。

Ⅱ この場合にあっては,当該申請に係る疾病等に関する原因確率が,

① おおむね50パーセント以上である場合には,当該申請に係る疾病の発生に関して原爆放射線による一定の健康影響の可能性があることを推定

② おおむね10パーセント未満である場合には,当該可能性が低いものと推定する。

Ⅲ ただし,当該判断に当たっては,これらを機械的に適用して判断するものではなく,当該申請者の既往歴,環境因子,生活歴等も総合的に勘案した上で,判断を行うものとする。

Ⅳ また,原因確率等が設けられていない疾病等に係る審査に当たっては,当該疾病等には,原爆放射線起因性に係る肯定的な科学的知見が立証されていないことに留意しつつ,当該申請者に係る被曝線量,既往歴,環境因子,生活歴等を総合的に勘案して,個別にその起因性を判断するものとする。

b 原因確率の算定

原因確率は,次の表の申請に係る疾病等,申請者の性別の区分に応じ,それぞれ定める別表に定める率とする。

申請に係る疾病名

申請者の性別

別表

白血病

別表1-1

別表1-2

胃がん

別表2-1

別表2-2

大腸がん

別表3-1

別表3-2

甲状腺がん

別表4-1

別表4-2

乳がん

別表5

肺がん

別表6-1

別表6-2

肝臓がん

皮膚がん(悪性黒色腫を除く)

卵巣がん

尿路系がん(膀胱がんを含む)

食道がん

別表7-1

別表7-2

その他の悪性新生物

男女

別表2-1

副甲状腺機能亢進症

男女

別表8

c 閾値

放射線白内障の閾値は,1.75シーベルトとする。

d 原爆放射線の被曝線量の算定

申請者の被曝線量の算定は,Ⅰの値に,Ⅱ及びⅢの値を加えて得た値とする。

Ⅰ 初期放射線による被曝線量

初期放射線による被曝線量は,申請者の被爆地及び爆心地からの距離の区分に応じて定めるものとし,その値は別表9に定めるとおりとする。

Ⅱ 誘導放射線による被曝線量

誘導放射線による被曝線量は,申請者の被爆地,爆心地からの距離及び爆発後の経過時間の区分に応じて定めるものとし,その値は別表10に定めるとおりとする。

Ⅲ 放射性降下物による被曝線量

放射性降下物による被曝線量は,原爆投下の直後に特定の地域に滞在し,またはその後,長期間に渡って当該特定の地域に居住していた場合について定めることとし,その値は次のとおりとする。

特定の地域

放射性降下物による被曝線量

己斐または高須(広島)

西山3,4丁目または木場(長崎)

0.6~2センチグレイ

12~24センチグレイ

e その他

Ⅰ bに規定する「その他の悪性新生物」に係る別表については,疫学調査では放射線起因性がある旨の明確な証拠はないが,その関係が完全には否定できないものであることにかんがみ,放射線被曝線量との原因確率が最も低い悪性新生物に係る別表2-1を準用したものである。

Ⅱ cに規定する放射線白内障の閾値は,95パーセントの信頼区間が,1.31ないし2.21シーベルトである。

(イ) 要医療性の判断

要医療性については,当該疾病等の状況に基づき,個別に判断するものとする。

(ウ) 方針の見直し

この方針は,新しい科学的知見の集積等の状況を踏まえて必要な見直しを行うものとする。

なお,審査の方針の別表は別紙別表1-1,1-2,2-1,2-2,3-1,3-2,4-1,4-2,5,6-1,6-2,7-1,7-2,8ないし10のとおりである。

ウ 新しい審査の方針(乙全200)

原子爆弾被爆者医療分科会は,平成20年3月17日,「新しい審査の方針」(以下「新審査の方針」という。)を定め,被爆者援護法11条1項の認定に係る審査に当たっては,被爆者援護法の精神に則り,より被爆者救済の立場に立ち,原因確率を改め,被爆の実態に一層即したものとするため,この方針を目安として,行うものとした。

(ア) 放射線起因性の判断

a 積極的に認定する範囲

Ⅰ 被爆地点が爆心地より約3.5キロメートル以内である者

Ⅱ 原爆投下より約100時間以内に爆心地から約2キロメートル以内に入市した者

Ⅲ 原爆投下より約100時間経過後から,原爆投下より約2週間以内の期間に,爆心地から約2キロメートル以内の地点に1週間程度以上滞在した者

以上の者から,放射線起因性が推認される以下の疾病についての申請がある場合については,格段に反対すべき事由がない限り,当該申請疾病と被爆した放射線の関係を積極的に認定するものとする。

① 悪性腫瘍(固形がんなど)

② 白血病

③ 副甲状腺機能亢進症

④ 放射線白内障(加齢性白内障を除く)

③ 放射線起因性が認められる心筋梗塞

この場合,認定判断に当たっては,積極的に認定を行うため,申請者から可能な限り客観的な資料を求めることとするが,客観的な資料がない場合にも,申請書の記載内容の整合性やこれまでの認定例を参考にしつつ判断する。

b aに該当する場合以外の申請について

aに該当する場合以外の申請についても,申請者に係る被曝線量,既往歴,環境因子,生活歴等を総合的に勘案して,個別にその起因性を総合的に判断するものとする。

(イ) 要医療性の判断

要医療性については,当該疾病等の状況に基づき,個別に判断するものとする。

(ウ) 方針の見直し

この方針は,新しい科学的知見の集積等の状況を踏まえて随時必要な見直しを行うものとする。

第3前提事実

1  アメリカ合衆国は,昭和20年8月6日午前8時15分,広島に,同月9日午前11時2分,長崎に,それぞれ原子爆弾を投下した。

2  1審原告らは,いずれも,被爆者援護法1条の定める被爆者である。

3  1審原告らは,被爆者援護法第11条1項に基づく原爆症認定申請をしたが,1審被告厚生労働大臣(1審原告P2については,厚生大臣)はこれを却下した。1審原告らの各申請日時,各処分の日,訴状送達日の翌日は以下のとおりである。

申請日

処分のなされた日

訴状送達日の翌日

1審原告P2

平成9年1月27日

平成9年6月3日

平成15年4月29日

1審原告P3

平成14年7月8日

平成15年1月28日

平成16年6月29日

1審原告P1

平成14年7月9日

平成15年1月28日

平成16年6月29日

1審原告P4

平成15年6月23日

平成16年5月12日

平成16年6月29日

第4争点

1  放射線起因性の判断基準について(争点(1))

1審原告P1及び1審原告P4が求める取消請求は,原爆症認定の申請についてされた各却下処分の取消を求めるものであり,前記各1審原告らは,各申請について認定要件(放射線起因性及び要医療性)が充足されているにもかかわらず申請を却下した点で違法であると主張するものである。そして,医療分科会では,原爆症認定の審査方針として,その要件の一つである放射線起因性に関する判断基準を定め,前記基準に則って原爆症認定を行ってきたものであるところ,1審原告らは,前記審査方針の内容を批判して,あるべき判断基準を主張し,1審被告らは前記審査方針の正当性を主張するものである。したがって,医療分科会が従前採用していた原爆症認定に関する審査方針における放射線起因性の判断基準の相当性が争点となる。

なお,前記のとおり,現時点では,医療分科会では新しい審査方針が定められ,この方針に基づいて原爆症認定が行われているが,当審における争点は,従前の審査方針の相当性である。

2  1審原告P1及び1審原告P4の原爆症認定要件の充足性について(争点(2))

争点(1)を前提として,1審原告P1及び1審原告P4に関する原爆症認定申請時における放射線起因性及び要医療性の充足性の有無,具体的には,1審原告P1については,同人の被爆後約50年を経て発症した白内障が,放射線白内障として放射線起因性を有するのかどうかが主たる争点であり,1審原告P4については,同人の膵臓病変が分枝型膵管内乳頭粘液腫瘍(以下「IPMN」という。)であるかどうか,IPMNに放射線起因性が認められるかどうか,また,同人に要医療性が認められるかどうかが主たる争点である。

3  1審原告らの1審被告国に対する国家賠償請求権の有無について(争点(3))

1審被告厚生労働大臣が,1審原告らに対して,原爆症認定に関する却下処分をしたことについて国家賠償法上違法性が認められるかどうかが争点である。

第5争点に関する当事者の主張についての原判決の引用

争点(1)に関し,1審原告らの主張として,原判決22頁15行目冒頭から同78頁5行目末尾までを,1審被告らの主張として,原判決78頁6行目から同132頁16行目末尾までを引用する。

第6争点に関する1審原告らの当審における主張

別紙「1審原告らの当審における主張」のとおり。

第7争点に関する1審被告らの当審における主張

別紙「1審被告らの当審における主張」のとおり。

第3章当裁判所の判断

第1原子爆弾による被害の概要

証拠(甲全3,5,43,乙全14,56,101)によれば,アメリカ合衆国により日本国に投下された2発の原子爆弾の概要,その物理的な作用,概括的な被害の内容について,以下の事実が認められる。

1  広島の原子爆弾

広島の原子爆弾には,効率を高めるために,臨界量の約3倍である約60キログラム弱で,90パーセント以上の高濃縮ウラン235が使用された。そして,臨界量以上の核分裂物質を2つに分けて,砲弾状の塊とリング状の標的にして,それぞれは臨界条件を満たさないようにし,爆発させたいときに,砲弾状の塊を火薬爆発の圧力で,リング状のものに衝突,合体させて,その衝撃で中性子発生装置を発動させ,連鎖反応を引き起こさせるといういわゆる砲身式と呼ばれるタイプのものである。広島原爆は,昭和20年8月6日午前8時15分,広島市内の原爆ドーム(旧広島県産業奨励館)付近,P5病院の上空,約580メートルで爆発し,約60キログラム弱の高濃縮ウラン235のうち,約0.7キログラムが核分裂反応を起こし,その余のウラン235は環境中に放出された。1キログラムのウラン235が核分裂するときの質量減少は1グラム弱であるが,高性能TNT(トリニトロトルエン)火薬のおよそ2万トンの爆弾の爆発エネルギーに相当し,核分裂によって生じたエネルギーの約50パーセントが爆風の,約35パーセントが熱線の,約15パーセントが放射線のエネルギーとして放出されたとされている。

2  長崎の原子爆弾

長崎の原子爆弾は,いわゆる爆縮(インプロージョン)式と呼ばれるタイプのものである。球の中心に中性子発生装置を置き,その周りを臨界量以下のプルトニウムで取り巻き,さらにその周辺をタンパーとして天然ウランで球状に囲み,その外側に高性能火薬による爆縮レンズを取り付けて,全体が球状にできあがった球面に多数の点火栓をつける。点火栓を同時に発火させて火薬を爆発させると,爆発波が爆縮レンズで天然ウランを外から球状に圧縮し,その中に発生する衝撃波が,あたかも一つの球が収縮するように中心に向かって進み,その高速・高圧によって中心に置かれたプルトニウム球が極めて短時間内に圧縮されて,密度が高まり,臨界条件が満たされ,その瞬間に中心に置かれた中性子発生装置が押しつぶされて,連鎖反応が始まるという仕組みである。爆縮式では,核分裂物質の周辺を大量の火薬物質が取り巻いているため,核爆発で発生した中性子がそれらと衝突してエネルギーを失うため,初期中性子線のエネルギー分布は砲身式に比較して,低いエネルギーの方にずれる。

長崎原爆は,昭和20年8月9日午前11時2分,長崎市内競馬場の北東約300メートルの上空約500メートルで爆発し,爆弾に使用されたプルトニウム239は約8キログラムであるが,そのうち,約1キログラムが核分裂反応を起こし,その余は環境中に放出された。

3  原子爆弾の物理的な作用

(1) 衝撃波,爆風の物理的作用

原爆の爆発によって,爆発点に数10万気圧という超高圧が作られ,周りの空気が膨張して爆風となった。爆心地あたりでの風速は秒速280メートル,3.2キロメートルの地点でも秒速28メートルあったとされている。爆風の先端は衝撃波として進行し,爆発の約10秒後には,爆発点から約3.7キロメートルにあり,30秒後には11キロメートルの距離に達した。衝撃波が外方に向かい,風が吹き止む瞬間があった後,今度は外方から内方へそれよりも弱い爆風が流れ込んだ。

(2) 熱線の物理的作用

爆発によって生じた火球は,爆発の瞬間に温度が摂氏数百万度に達し,火球の膨張によって,その表面温度は下降するが,火球の表面を覆っていたショックフロントが火球から分離すると,火球からの熱放射が直接外部に放出されるようになり,その温度は約7000度で,地上爆心地地域で,1平方センチメートル当たり99.6カロリー,3.5キロメートルの地点で,1平方センチメートル当たり1.8カロリーの熱線量が計算されている。爆発後3秒以内に火球から放射された99パーセントの熱線が地上に影響を与え,爆心地付近では人体を炭化させ,瓦や岩石の表面を溶融させるほどの熱作用をもたらし,爆心地から1.2キロメートル以内で,無遮蔽の状態で被爆した人は致命的な熱線熱傷を受け,死者の20ないし30パーセントがこの熱傷によるものと推定されている。

(3) 放射線の物理的作用(甲全101)

ア 放射線の意義

放射線には,エックス線,ガンマ線などの光と同じ性質を持つ電磁波と,アルファ線,ベータ線,中性子線などの粒子線があり,いずれも人体細胞を含む物質を透過する能力があり,それらが透過する物質にエネルギーを与えるとともに,その電離作用によって様々な傷を与える。

イ 放射線の作用

ガンマ線は,物質をよく透過する。これは,アルファ線やベータ線のような荷電粒子と異なり,核や核外電子とのクーロン力(電荷を帯びた粒子に働く力のことで,2つの粒子の電荷の積に比例し,粒子間の距離の2乗に反比例する。)による相互作用がないためである。それでも,物質を透過中のガンマ線は,核や核外電子と相互作用をしながら,自分自身のエネルギーを失っていく。

ベータ線は,ガンマ線と同様,物質を透過するが,その際,原子を構成する電子や核との間で,クーロン力による相互作用を起こす。ベータ線は,1回の電子との衝突で運動エネルギーを全て失う確率はほとんどなく,多数回,電子と衝突しながら,方向をめまぐるしく変え,場合によっては後ろに戻ってくるものもある。このように,入射ベータ線は物質中で散乱され,運動エネルギーを減じながら,全体として,入射方向の強さ(フルエンス率)を減らしていく。

アルファ線は,ヘリウム核であるから,電荷を持ち,物質中を進むとき,主に,核外電子との電気的相互作用によって,電子の電離や励起を起こす。原子核とも相互作用を起こすがその確率は低い。アルファ線は電子に比べて質量が大きいので,電子をいろいろな方向に飛ばすが,自分自身はほとんど曲がらずに進む。同じ核種から放出された同じエネルギーを持つアルファ線は,どれも同じ距離だけ進み,物質中を通過する過程でその数はほとんど減らない。しかし,進行距離がある距離を超えると,突然その数が0になる。その意味で,ガンマ線やベータ線が指数関数的に強さが減弱するのと対照的である。アルファ線の生体内での飛程はせいぜい,80ミクロン程度である。

中性子は電荷がないので,物質中を通過するとき,クローン力による相互作用がなく,主に原子核との衝突によりエネルギーを失う。原子核の大きさは原子に比べ,非常に小さいので,中性子が衝突する確率は小さく,透過性が大変大きい。高速中性子は,原子核と衝突すると,相手の核が重いと,相手にあまりエネルギーを与えず,中性子自身は高速のまま方向を変えるだけであるが,相手の核が軽いと,1回の衝突で相手に与えるエネルギーが大きく,衝突された方の原子核は,勢いよく物質中を飛び,周りの物質の電離,励起を起こす。

このように,高速中性子は,核と衝突しながらエネルギーを失い,速度を減じ,緩中性子となり,最終的には,そこにある物質の熱運動エネルギーと同程度となる。この状態の中性子を熱中性子という。熱中性子は,核反応を起こして吸収されるか,半減期約10分のベータ線を出して陽子に変わる。

それぞれの放射線が生体に対して,どのような影響を与えるかをみるとき,2つの面がある。一つは生体内での飛程であるが,ガンマ線,中性子線は透過力が強く,ベータ線,アルファ線は透過力が弱い。アルファ線は紙一枚を透過しにくく,ベータ線は数ミリのアルミニウム,プラスティックを透過しにくく,ガンマ線は鉛やコンクリートなどの密度の高い物質を透過しにくく,中性子線は水分の多いもの,水やコンクリートを透過しにくいとされている。もう一つは局所的な影響力であるが,これは線エネルギー(LET)で表され,LETは単位飛程当たりのエネルギー損失と定義され,アルファ線,中性子線は高LET放射線,ガンマ線は低LET放射線と呼ばれる。

ウ 被爆線量の単位

(ア) 吸収線量

吸収線量とは,放射線が物質ないし生体に作用したとき,単位物質(組織)1キログラム当たりに吸収されたエネルギー量を表す。単位はグレイ(記号Gy)で,1グレイは,単位物質1キログラム当たりに吸収される放射線のエネルギーが1ジュールであることを意味する。1グレイは100センチグレイ,放射線が単位物質1グラム当たりに吸収されたエネルギー量を表すラド(記号rad)との関係では,1グレイは100ラドである。

(イ) 等価線量

等価線量とは,放射線防護の目的のため,1990年国際放射線防護委員会によって定義された概念であり,吸収線量が等しくても,放射線の種類やエネルギーの大きさ,すなわち線質の相違,臓器や組織の相違によって,生物学的効果に量的な相違が生じることを考慮した単位で,組織1キログラム当たりに吸収されたエネルギー量を表す。単位はシーベルト(記号Sv)である。生物学的効果比は,エックス線,ガンマ線で係数1,アルファ線は係数20,中性子はエネルギーの範囲によって係数5ないし20とされている。

(ウ) 照射線量

照射線量とは,エックス線あるいはガンマ線について,ある場所における空気を電離する能力を表す量である。単位は通常,レントゲン(記号R)を用いる。1レントゲンは,エックス線あるいはガンマ線により,0度c,1気圧で1立方センチメートルに1静電単位の電気量に相当する正(あるいは負)イオンを生じさせるような照射線量である。

(4) 原爆放射線の分類

ア 初期放射線

原爆爆発後1分以内に空中から放射された放射線を初期放射線と呼ぶ。その主要成分は,ガンマ線と中性子線である。ガンマ線のうち核分裂の連鎖反応が起こっている100万分の1秒以内に放出されるものを即発ガンマ線と呼び,爆発1分以内に核分裂生成物や誘導放射化された原子核から放出されたものを遅発ガンマ線と呼ぶ。遅発ガンマ線には,大気中の主として窒素と水素の原子核及び地上の物質の原子核が中性子を吸収して誘導放射化して放出するガンマ線も含まれる。中性子のうち核分裂の連鎖反応の瞬間に核分裂で放出されるものを即発中性子と呼び,核分裂で生じた核分裂生成物からやや遅れて放出された中性子を遅発中性子と呼ぶ。また,原爆の器材物質の原子核がガンマ線を吸収して放射核となって中性子を放出するものがある。核分裂によって生じたエネルギーの約5パーセントが,初期放射線として放出されたとされている。

なお,核分裂によって生じる中性子のエネルギー分布はよく分かっているが,原爆が砲身式であるか爆縮式であるかによって火薬量や配置が異なり,中性子の散乱のされ方が違うので,爆弾の外に放出される中性子線の量やエネルギー分布は異なってくる。また,核分裂によって生じる中性子は複雑に配置された原爆の器材物質の原子核によって減速されるので,エネルギー分布を原理的に計算できたとしても,計算結果には大きな不確定要素が伴い,そのため最終的には実験結果に頼らざるを得ないとされている。

イ 残留放射線

残留放射線は,爆発後1分より後の長時間にわたって放射されるものであり,2種類に大別される。一つは,放射性降下物で,核分裂生成物及び分裂しなかったウラン235(広島),プルトニウム239(長崎)が空中に飛散し,爆発1分以後のガンマ線,ベータ線及びアルファ線の放射線源となったものである。もう一つは,地上に降り注いだ初期放射線(中性子)が土壌や建築物資材の原子核に衝突して原子核反応を起こし,それによって放射線を誘導する誘導放射能である。核分裂によって生じたエネルギーの約10パーセント(初期放射線のエネルギーの約2倍)が,残留放射線として放出されたとされている。誘導放射能による被爆線量は,初期放射線に比べると線量は小さいものの,長時間にわたり残存し,遠距離被爆者及び入市被爆者に影響を与えたとされている。

4  原爆による被害(甲全86の7,乙全14,56)

(1) 死亡者

原爆による死亡者数は正確に把握されていないが,広島市では全人口34万人から35万人のうち9万人から16万6000人が死亡し,長崎市では全人口25万人から27万人のうち6万人から8万人が死亡したといわれている。

また,広島市調査課によれば,昭和21年8月10日現在の広島の死者は,軍人,広島で作業をしていた朝鮮半島の人々を除いて11万8661人であり,このうち約11万4000人が,昭和20年12月までのいわゆる急性期に死亡したと考えられている。急性期の死亡者のうち,爆心地から2キロメートル以内の死亡総数を100パーセントとしたとき,初めの2週間の死亡者は88.7パーセント,第3週から第8週までの死亡者が11.3パーセントであったとされている。

(2) 爆風,衝撃波による被害

爆風,衝撃波は,建物等の建築物を倒壊させ,倒壊した建物からは火災が発生し,大災害を生じさせた。建物被害は主として地形,建造物分布の違いが大きく影響し,広島では,被爆前の建物の約91.9パーセントが半壊・半焼・大破以上の被害を受け,全市が瞬時にして壊滅したといっても過言ではないのに対し,山が多い長崎では,被爆前の建物の約36.1パーセントが被害を受けた。しかし,広島,長崎とも,消防機関はほぼ全滅し,施設や消防隊員が被災を免れたところでも,街路の堆積物が消防隊の進路をふさいで,消火活動を妨害した。火災を拡大した原因として,両市とも,給水管が損壊して,水圧が低下し,給水が停止していたこと,地上に露出していた給水管も建物の崩壊で切断され,あるいは熱のために融解したりし,地下の給水管も土地の不均一な移動のため破損したものが多かったことが挙げられる。このような要因から,その被害は甚大であり,爆風及び火災によって灰燼に帰した面積は,広島で13平方キロメートル,長崎で6.7平方キロメートルに及んだ。

(3) 熱線による被害

原爆による熱線により,爆心地は摂氏3000度にも達し,瓦,岩石を溶融させ,人体を炭化させた。露出した皮膚に第1次熱傷(爆発による熱線が直接引き起こす熱傷。火災等による熱傷を第2次熱傷という。)が生じた範囲は,広島で半径3.5キロメートル,長崎で半径4.0キロメートルであった。

(4) 放射線による人体に対する被害(乙全14,101)

放射線の人体への影響は,急性障害と後障害に分けられる。急性障害は,昭和20年12月末までに生じた障害をいい,後障害はそれより後に生じた障害をいう。

ア 放射線の急性障害

(ア) 急性障害(急性症状といい,被爆直後から第2週の終わりまで。)としては,高度な放射線を浴びた者は,火傷等の外傷が軽い場合であっても,被爆直後から,全身の不快な脱力感,嘔吐,吐き気などの症状が現れ,2,3日から数日間に発熱,下痢,喀血,吐血,下血,血尿を起こし,全身が衰弱して被爆から10日前後で死亡した。この時期の死亡者の病理学的所見として,放射線による骨髄,リンパ節などの造血組織の破壊及び腸の上皮細胞,生殖器や内分泌腺細胞における腫脹と変性などがみられた。

(イ) 第3週から第5週までの時期(亜急性症状)の主な症状は,吐き気,嘔吐,下痢,脱毛,脱力感,倦怠,吐血,下血,血尿,鼻出血,歯齦出血,生殖器出血,皮下出血,発熱,咽頭痛,口内炎,白血球減少,赤血球減少,無精子症,月経異常などであった。

病理学的に最も著明な変化は,放射線による骨髄,リンパ節,脾臓などの組織の破壊で,その結果,血球,特に顆粒球及び血小板の減少が生じた。この時期の死因の多くは敗血症であった。そのほか死因との直接の関係は少ないが,下垂体,甲状腺,副腎などの内分泌腺に放射線による萎縮性障害像がみられた。

(ウ) 第6週から第8週(合併症状)には,比較的軽微な症状であった者は回復に向かい始めたが,一部には肺炎,膿胸,重症大腸炎などの症状を発し,いったん好転しかけていたものが再び容態が悪化した例がかなりみられた。これらの発現は,放射線による人の抵抗力の減弱によるものと考えられている。

(エ) 第3月から第4月の終わりまで(回復症状)は,外傷,熱傷,放射線による血液や内臓諸臓器の機能障害も回復傾向を示したが,生殖器への放射線の影響はなお続いており,男性の精子数減少,女性の月経異常もみられた。

イ 放射線の後障害

一般に,昭和21年以降に発生した放射線に起因すると考えられる人体影響を,放射線の後障害と呼び,このうち,被爆後長年月の潜伏期を経て現れてくるものを特に晩発障害と呼び,急性障害に引き続いて起きる障害を慢性障害と呼ぶ場合もある。個々の症例を観察する限り,一般にみられる疾病と同様の症状を持っており,放射線に起因するかどうかの見極めは不可能であるが,被爆集団として考えると,集団中に発生する疾病の頻度が高い場合があり,そのような疾病は放射線に起因している可能性が高いと判断される。

ウ 放射線被害の確定的影響と確率的影響

(ア) 放射線の確定的影響

確定的影響とは,しきい値(影響が現れる最小線量)が存在し,被爆線量がしきい値を超えると影響の現れる確率が急激に増加して全員に影響が現れる影響をいう。

放射線は,直接的に遺伝子のDNAやタンパク質分子を傷つける。同時に間接的に放射線により体内で生成されたフリーラジカル(遊離基)が,タンパク質分子や遺伝子を傷つける。タンパク質分子や遺伝子は修復作用を持つが,一定線量以上の放射線を浴びて大量のタンパク質分子や遺伝子が同時に傷つけられ,修復作用が働かなくなって多数の細胞死が起こる場合や,多数の遺伝子が傷つけられて多くの細胞分裂が正常に行われなくなる場合には,放射線症状が現れる。このような機能喪失に基づいて症状が出現するものを放射線の確定的影響という。特定臓器障害の確定的影響については,症状出現のための線量(しきい値)が存在すると考えられる。この確定的影響の場合,被爆線量がしきい値を超えれば,症状が出現し,線量の増加に伴って症状が出現する者の割合が増えるとともに,症状が重篤になる。

(イ) 放射線の確率的影響

確率的影響とは,しきい値が存在しないと考えられており,被爆線量の増加とともに,影響の現れる確率が増加するような現象をいう。

放射線による遺伝子などが損傷された後,タンパク質分子や遺伝子の修復によりいったん急性症状が治まっても,誤った修復作用が行われることがあり,誤った修復作用の起こる確率は,被爆者の浴びた放射線量に比例するといわれている。遺伝子が誤って修復された場合に,長年の後に,がん等の放射線後障害を引き起こすことがある。この放射線後障害は,被爆線量にほぼ比例して確率的に発症するので,確率的影響といわれる。このように,確率的影響は,極少量の線量であっても生じる可能性があると考えられ,しきい値はなく,症状の重篤性は線量と直接的な相関関係がない。

第2検討すべき問題について

旧審査の方針の検討における放射線起因性の判断基準の相当性を検討するには,その基礎となるDS86による原爆被爆線量評価の相当性,疫学に基づく寄与リスク(原因確率)やしきい値を用いて,放射線起因性を判断することの相当性が問題となり,さらに,線量評価については,残留放射線の評価や内部被爆の問題をどのように考えるか,また,急性症状と被爆線量との関係をどのように捉えるのかという点が問題となるので,以下検討する。

第3線量評価について

1  旧審査の方針における原爆放射線の被爆線量の算定基準の概要とその根拠

(1) 旧審査の方針における原爆放射線の被爆線量の算定基準の概要

前記「第1章第2法令の定め」に記載のとおり,旧審査の方針は,被爆線量を,初期放射線による被爆線量に誘導放射能による被爆線量及び放射性降下物による被爆線量を加えて得た値とするものとし,初期放射線による線量の点については別表9(遮蔽がある場合につき別表註記あり。),誘導放射能による線量の点については別表10,放射性降下物による線量の点については,広島では己斐または高須,長崎では西山3,4丁目または木場についてのみ,所定の線量を付加するものとしている。

(2) 初期放射線による被爆線量算定基準の根拠

旧審査の方針別表9は,DS86により算出された数値に基づいて作成されており,被爆時に遮蔽がなかった場合の被爆線量に相当する。被爆時に遮蔽があった場合,DS86における透過係数を考慮して,透過係数が0.5を超えることはないとして設定されている。

(3) 誘導放射能による被爆線量算定基準の根拠

旧審査の方針別表10は,DS86等報告書において,誘導放射能による外部被爆の積算線量を計算した結果,広島では約50ラド,長崎では18ないし24ラドと推定され,また,これが爆心地から被爆した地点までの距離や,爆発からの時間の経過とともに減少するとされたことに基づいて,爆心地からの距離を100メートル間隔で,広島では700メートルまで,長崎では600メートルまでとし,積算線量を8時間ごととした場合の計算値を用いて作成されたものである。

(4) 放射性降下物による被爆線量算定基準の根拠

旧審査の方針における放射性降下物による被爆線量算定基準は,主要な放射性降下物は,広島では己斐・高須地区,長崎では西山地区という爆心地から約3000メートル離れた地域にのみ,みられたとの知見に基づき,DS86等報告書において,放射性降下物による外部被爆の積算線量を計算した結果,広島では0.6ラドないし2ラド,長崎では12ないし24ラドと推定されたことに基づくものである。

(5) 旧審査の方針において,内部被爆による影響を考慮しなかった根拠

旧審査の方針において,内部被爆を考慮しなかったのは,長崎で原爆からの放射性降下物が最も多く堆積したとされる地区の住民について,セシウム137からの内部被爆線量を計算した結果,昭和20年ないし昭和60年までの積算線量は,男性で10ミリラド,女性で8ミリラドとされ,広島における放射性降下物がみられた地域の住民の内部被爆線量は,長崎の10分の1程度と考えられるとの知見に基づき,内部被爆による線量は極微量であると考えられたことによるものである。

2  原爆放射線の線量推定方式の変遷と各システムの内容

(1) DS86策定に至るまでの経緯(甲全5,乙全14,16,40,59)

昭和20年8月6日,広島に原爆が投下された直後の同月8日から,日本国の科学者らは現地に入って原爆被害の状況の調査を開始し,これら種々の調査結果がまとめられている。他方,アメリカ合衆国のトルーマン大統領は,広島・長崎の被爆者を長期間追跡調査することの重要性にかんがみ,NAS(national academy of science)に対してその方策を立案するように命じ,NASの勧告に基づいてABCC(atomic bomb casualty commission)が設立された。ABCCは米国政府によって運営され,日本国側も国立予防衛生研究所の支所を広島,長崎のABCC内に設置し,これに協力するという体制であった。ABCCでの研究内容は,昭和50年にABCCが組織変更された放射線影響研究所(radiation effects research foundation;以下「放影研」という。)に引き継がれ,日米両国政府が共同して研究する体制となったが,放影研における調査研究活動の目的に照らして,被爆者が受けた放射線量を正確に把握することが最重要事項であった。そして,当時存在した線量評価システムとしては,昭和40年,米国のオークリッジ国立研究所の科学者らによって提案された。これがT65D(tentative 1965 doses)である。

T65Dは,「ichiban project」という大規模な実験プロジェクトの結果によるものであるところ,このプロジェクトは,ネバダ核実験場において,長崎型原爆のテスト,高い塔に裸の小型原子炉あるいは強力なコバルト60線源を設置した実験や,日本家屋を建てて遮蔽実験を行い,これらの実験から得られた結果を広島と長崎の場合に当てはめて,放射線量を推定した。

しかしながら,昭和45年代になると,T65Dの問題点や矛盾点,特に中性子線の線量評価や,日本家屋のガンマ線に対する透過率についての問題点が指摘され,昭和56年から日米合同で研究活動が開始され,昭和61年に放影研から「1986年放射線評価システム(DS86)」が発表された。

(2) DS86等報告書の内容(乙全39,40)

ア システムの概要

DS86は,広島・長崎の被爆者データを放射線防護基準の考察に用いるために開発された,被爆者ごとの被爆線量の正確な評価を行う「線量評価システム」である。そして,原爆の爆発と同時に放出される放射線である即発放射線及び遅発放射線が臓器に線量を与える諸過程を,全て物理的素過程に基づいて計算コードに組み立てたものがDS86である。DS86とT65Dを比較すると,長崎では,DS86では,ガンマ線カーマ(ガンマ線が,ある質量の物質においてはじき飛ばした全ての荷電粒子の持っている初期運動エネルギーの総和を質量で除した価で,通常,照射された放射線のある場所での強さを表す。特に,前記物質を空気とした場合を空気(中)カーマという。以下同様である。)については,T65Dより幾分小さいものの,誤差の範囲内といえるが,中性子カーマについては,T65Dの約2分の1ないし3分の1であり,この原因は,大気中の水蒸気成分による影響と考えられるとしている。また,広島では,DS86では,ガンマ線カーマについては,T65Dの2ないし3.5倍となり,中性子カーマについては,T65Dの約10分の1と大幅に減少しているが,ガンマ線カーマが増大した一因は,爆弾の出力が12キロトンから15キロトンに増大したためであり,中性子カーマが減少した原因は,大気中水蒸気成分の影響のほか,爆弾の起爆装置の相違と殻の厚さに起因して,広島の中性子スペクトルが長崎の中性子スペクトルより軟らかいことに基づく。また,透過率について,T65Dでは,距離と無関係に定められていたが,DS86では爆心地からの距離ごとに値が変わっており,DS86による家屋内遮蔽カーマは,一般に,T65Dより小さくなる傾向がある。さらに,臓器線量の計算に当たっては,昭和20年ころの日本人の体格,被爆時における種々の遮蔽状況,被爆者の姿勢,臓器15種類を選択して計算をした。

なお,DS86には,残留放射能については,その線量計算に含まれていない。

イ 原爆の出力の推定

広島・長崎に投下された原爆の出力は,線量計算にとって最も基礎的なデータであるにもかかわらず,投下時のデータの大部分が失われたため(広島では飛行機内で撮影されたフィルムは偶然に破棄され,長崎では随伴飛行機が,爆撃時までに撮影点に到着しなかったため,撮影されてない。),直接の測定値からの値は得られていない。しかしながら,長崎爆弾については,これと同一型の原爆による実験の結果から,出力は,かなり精度よく推定でき,21キロトンプラスマイナス2キロトンの範囲内にあるとされている。

広島型の爆弾は,今までに広島に一発投下されただけで,同一型の実験ができず,その出力の推定は,長崎の場合より誤差が大きいが,15キロトンプラスマイナス3キロトンとされている。原爆の出力の推定は,その後の核分裂の連鎖反応の程度を推定するために必要な判断である。

ウ ソースタームの計算と検証

ソースタームとは,核分裂の連鎖反応で発生した放射線が,100万分の1秒という短い間に,爆弾容器の物質と衝突しながらこれを通り抜け,どれだけの量が,どういうエネルギー分布で,大気中にどの方向に放出されたかという点を確定する作業である。ロスアラモス国立研究所とローレンス・リバーモア研究所において,地下核実験のデータ解析用のコンピューター・プログラムを用いて,原爆の放射線の複雑な放出過程の理論的な計算が行われ,中性子やガンマ線の粒子及びそれらの2次生成物が放出され,吸収されるかあるいはシステムから脱出するまで追跡されたとされている。ただし,軍事機密のため,日本側に示されたのは,原爆容器を通り抜けて外部に放出された即発ガンマ線と中性子線の総量,エネルギー分布及び方向分布に関する計算結果だけであった。広島原爆については,放出放射線の角度分布とエネルギー分布が,長崎原爆については,エネルギー分布が計算された。これらの計算の検証は,広島原爆のレプリカ(砲身を短くし,核分裂物質を減らしたもの。)を用いて組み立てた臨界実験装置等によりなされた。

エ 放射線の空中輸送,空気中カーマの決定

初期放射線が爆弾の線源から空気中を経て線量推定の対象となる地域に伝播していくことを放射線の輸送という。即発中性子線,即発ガンマ線及び空気捕獲ガンマ線の空中輸送について,2次元コンピューターコードやモンテカルロコードを用いた大規模な計算により,爆心地から2500メートルまでの各距離における空気中カーマ(カーマとは物質に放出される運動エネルギーの意味であるが,空気中カーマとはある場所における遮蔽前の線量で,単位はグレイで表される。)が決定された。ただし,これらの即発輸送には,大気は爆風によって攪乱されていないとして計算がなされている。

オ 熱ルミネッセンス法によるガンマ線の計算値の検証

ガンマ線の測定には熱ルミネッセンス法が用いられる。タイル,煉瓦,岩石などに含まれた石英などの結晶にガンマ線を照射すると,結晶内の電子が励起状態になって静電気エネルギーとして貯蔵されるところ,熱ルミネッセンス法では,結晶を熱すると,このエネルギーが光(ルミネッセンス)として放出されることを利用して,ガンマ線の照射量を測定することができる。そこで,上記のとおり計算された空気中カーマのうち,ガンマ線カーマについては,爆心から約1500メートル近辺にある広島大学理工学部校舎,長崎市家野町民家の塀等から収集された被爆時の状態を保持している試料につき,熱ルミネッセンス法によるガンマ線の測定を行い,その測定結果と前記計算値とを比較した。この結果,広島において,測定値は,爆心地から1000メートル以遠の地点で,計算値より大きく,近い地点では,逆に計算値より小さくなっている。長崎においてはこの関係は逆である。1000メートル以上の地点で測定値の平均値とよい一致を得るためには,計算値は,広島で約18パーセント大きくなり,長崎で約10パーセント小さくなる必要があるとされた。

カ 中性子に関する検証

中性子線量の検証には,中性子により特定の物質中に誘導された特定の放射性物質の放射能を測定し,この測定値に対応する計算値と比較する方法を取った。DS86開発当時に得られていた放射能の測定値には,速中性子により誘導されたリン32,熱中性子によって誘導されたコバルト60,ユーロピウム152がある。

リン32は,爆弾投下の数日後に測定したデータに再検討が加えられ,爆心地から近距離においては,DS86の計算値との間に差はみられないが,爆心地から400メートル以遠の距離においては,測定値の誤差が大きくなるため,結論を下すことができないとされ,コバルト60は,T65Dの決定の際の測定に加え,新たな試料の測定も行われたところ,計算値が,地上距離260メートルにおいて,測定値の1ないし1.5倍,1180メートルにおいて測定値の4分の1と,系統的な差を示した。この不一致を解決するために,種々の調査や計算を行ったが,1180メートル地点において,計算値と実測値とで4倍の違いが出る点の解明には至らず,この問題は未解決のまま,残されているとされている。次に,ユーロピウム152は,当時新しい測定であったが,測定データは全体として計算結果と矛盾しないが,1000メートルの地上距離における計算結果の妥当性を確認するには,不確かさが大きく,また,測定機関の間で測定値のばらつきが大きいとされた。

被爆者の被爆線量の推定に関しては,比較的高いエネルギー(約0.5メガエレクトロンボルト(Mev)以上の中性子の影響が主となり,それ以下のエネルギーの中性子の影響は余りないとされ,速中性子によるリン32のデータを中心に検討が行われた。なお,計算された中性子カーマ値が間違っているという可能性はまだ残っていて,中性子の測定についてのこの章の結論は,中性子線量がさらに研究が進展するまでは疑わしいということでなければならないとの記述がある。

キ 残留放射能の放射線量

報告書自体,誘導放射能及び放射性降下物による被爆線量の測定の正確性に影響する多くの要素がよく知られておらず,被爆線量推定は大まかな近似にならざるを得ないとし,その理由として,風雨の影響がある以前に,速やかな被爆率の測定がなされていないこと,その後の風雨の影響を明らかにしたり,放射能の時間分布を与えるのに,十分な程度の測定が繰り返されていないこと,測定場所の数が余りにも少なく,放射能の詳細な地理的分布について,十分に推定できるものではなかったこと,このような調査では,代表的でない標本が抽出されることが多く,このような標本に偏りが存在しているかどうかも不明であること,較正や測定の詳細に関する資料が入手できていないことなどを挙げ,多数の測定の精度は非常に低く,その誤差はかなり大きいと思われると断っている(乙全16)。

報告書は,結論として,放射性降下物の影響については,爆発の1時間後から無限時間まで地上1メートルの位置で計算した結果が,西山地区(長崎)において20ないし40レントゲン,己斐・高須地区(広島)において1ないし3レントゲンとしている。

内部放射線の被爆は,残留放射能中の放射性核種の吸入摂取を含め若干の可能性があるとして,西山地区住民の測定結果に基づき,昭和20年から昭和60年までの40年間に男性で10ミリラド,女性で8ミリラドと推定した。

誘導放射能による影響については,爆心地での最大被爆量を広島について約80レントゲン,長崎について30ないし40レントゲンと推定され,1日後にはその約3分の1,1週間後には数パーセントとなると推定された。また,地上での線量率は,時間の経過とともに急激に減少し,爆心地から離れることでも急激に減少するので,早期入市者の被爆線量は,その人の爆心地付近での行動状況を正確に把握しなければ評価できないとされている。そして,以上に述べた線量は,地上1メートルでの空気中の照射線量(レントゲン)であって,組織の吸収線量に換算すると,放射性降下物による人体組織の無限時間までの積算線量は,最大で,広島で0.6ないし2ラド,長崎で12ないし24ラドとなり,誘導放射能によるものは,最大で,広島で50ラド,長崎で18ないし24ラドとなる。

ク 家屋及び地形による遮蔽

各種の日本家屋のモデルを作成し,連結モンテカルロコードにより,自由空間の放射線場と結合されることによって,被爆者が被爆時にいた位置における中性子とガンマ線のエネルギーと角度別フルエンスをコンピューターにより計算を行い,放射線透過率を求めた。T65Dに比べると透過率は低いものとなった。

ケ 臓器線量

昭和20年当時の典型的日本人成人の体重を55キログラムと推定し,被爆時の姿勢によって,臓器の位置や身体の遮蔽などが異なることを考慮して,正座位,直立,臥位の模型を作成し,このような模型に放射線を入射して,問題とする臓器に達するまでの放射線の輸送に関する連結計算を行い,被爆者の特定の臓器での中性子とガンマ線のエネルギー及び角度別のフルエンス(中性子線,アルファ線,ガンマ線などの粒子がある場所をどのくらい通ったかを表すために用いられる量で,単位は毎平方メートル)を得て,臓器線量を計算した。このような臓器線量評価システムを当該模型に適用したところ,ガンマ線の等方入射では,計算値と実験値とが非常によく一致し,また,中性子とガンマ線の混合場の被爆では,中性子の測定値は,入射ガンマ線に対する透過率と同様によく一致しているが,人体中での中性子相互作用によって生ずるガンマ線については,計算値より実験値の方が大きいことを示したとされている。

なお,DS86では,赤色骨髄,膀胱,骨,脳,乳房,目,胎児(子宮),大腸,肝,肺,卵巣,膵,胃,睾丸及び甲状腺の15臓器を対象としている。

コ 線量評価体系の作成

以上の計算を統合すると,特定の被爆者に関するデータを入力し,自由空間データベース,家屋遮蔽データベース及び臓器遮蔽データベースを組み合わせて,各種の線量を出力することができる。被爆者の属する市,爆心地からの距離,日本家屋の中又はそのそばで被爆した場合の状況に関するパラメータあるいは戸外にいて家屋あるいは地形により遮蔽された場所で被爆した場合,当該地点における記号化された遮蔽割合を入力すると,被爆者の位置における遮蔽フルエンスを出力することができ,また,年齢,性別,体位の入力により特定臓器の吸収線量等所要の情報を出力することができる。ただし,これによって被爆線量を計算できるのは,爆心地より2500メートル以内で被爆した遮蔽記録のある被爆者である。これが,DS86の体系である。

なお,推定線量に対する不確定性(誤差)の推定は,予備的な値として,空気中カーマに対して広島で16パーセント,長崎で13パーセントとなり,臓器カーマに対しては25ないし35パーセントとなっていると報告されている。

(3) DS02について(乙全15,67,68,113)

ア DS02の策定の経緯

DS86における中性子線量に関する計算値と測定値との不一致等を踏まえ,平成14年に新しい原爆放射線線量の評価システム(DS02)が作成された。日米実務研究者会議が平成13年3月から開催され,ここで策定されたDS02(新線量評価方式)が原爆放射線量評価検討会によって平成15年に承認され,平成18年,日本語訳が放影研から出版された。なお,DS02には改訂部分のみが記載されており,それ以外の部分は今後ともDS86を参照するものとされた。

イ DS02の特徴

DS86からDS02への大きな変更は,広島における爆弾の出力を15キロトンプラスマイナス3キロトンから16キロトンプラスマイナス4キロトンに,爆発高度を580メートルから600メートルプラスマイナス20メートルに修正したことである。

DS02及びDS86のどちらにおいても,空気中カーマは地形,建造物または身体による遮蔽を受けていない地上1メートルの地点における線量として計算されている。そして,広島と長崎の爆心地から2500メートルの範囲内において,DS02により計算された総カーマ線量とDS86のそれとの差は10パーセント未満である。広島では,DS02の中性子及びガンマ線の空気中カーマを合計した線量はDS86と比べて多かったが,その差は5パーセント未満である。爆心からの距離が1000メートルから2500メートルの範囲では,広島については,DS02の空気中カーマ線量は,DS86によるそれより,平均して7パーセント高く,長崎については,爆心からの距離が爆心地から2500メートルの全範囲において,DS02の中性子とガンマ線の空気中カーマ線量の合計は,DS86によるそれより,8パーセントほど高く,爆心地から1000メートルから2500メートルでのDS02の空気中カーマ線量は,DS86によるそれより,平均して9パーセント高い。これらの平均値は,DS02とDS86によって得られた線量に有意な差はないことを示してはいるが,線量の中性子とガンマ線の成分において重要な変化がある。

また,広島について,DS02とDS86とで線量を詳細に比較すると,ガンマ線量については,爆心地付近では,DS02線量とDS86線量は余り変わらないが,遠くなるにしたがって,DS02線量がだんだんDS86線量よりも高くなり,約10パーセント以内で横ばいとなる。そして,中性子線については,爆心地付近では,DS02線量がDS86線量よりも低いが,爆心地から500メートル付近で逆転して,1000メートル付近で,DS02線量がDS86線量より10パーセント程度高くなり,再びその率が小さくなっていき,2000メートル付近で同じ程度となり,それ以遠では,DS02線量がDS86線量よりも低くなっていく。

長崎について,DS02とDS86とで線量を比較すると,ガンマ線量は,約10パーセント増加となっているが,DS02の中性子線量はDS86線量よりも低く,その比率も30パーセントくらいとなる。中性子線量はガンマ線量に比較するとはるかに小さく,かつ,爆心地から2000メートル以遠では絶対値も非常に小さくなる。

そして,広島におけるDS86からDS02への空気中カーマ線量の変化は,ガンマ線カーマの変化とほぼ一致している。これは,ガンマ線が爆弾の総線量中78パーセントを占め,爆心地からの距離が1500メートル以遠の全範囲では,空気中カーマの99パーセント以上を占めるためであり,広島では明らかに空気中カーマでは,ガンマ線が優位を占めている。このことは長崎におけるDS86からDS02への空気中カーマ線量の変化についても当てはまり,広島の場合より顕著である。これは,空気中ガンマ線カーマは,爆弾の直下では総カーマの94パーセントであり,爆心地から1000メートル以遠では,全範囲でカーマの99パーセント以上を占めているからである。

なお,DS02の体系は,DS86と実質的に異なるものではなく,ソースタームの計算,空中輸送計算,地上構造物による遮蔽率の計算,人体における臓器線量の計算が改めて行われ,計算値と実測値の比較検討も行われた。

3  DS86の線量評価方式に対する指摘

DS86による初期放射線の線量評価について,以下のとおりの指摘がなされている。

(1) ガンマ線について

ア DS86等報告書(昭和61年)の指摘

DS86等報告書では,前記のとおり,広島においては1000メートル以上の地点で測定値は計算値より大きく,近い地点は逆に小さくなっている。長崎においてはこの関係は逆であり,1000メートル以上の地点で測定値の平均値とよい一致を得るためには,計算値は広島で約18パーセント大きくなり,長崎で約10パーセント小さくなる必要があるとされている。

イ P6らによる測定結果及び指摘(平成4年及び平成7年)(甲全28の1,2,甲全30の1,2,甲49の1,2,50の1,2,)

(ア) P6らによる「広島の爆心地から2.05キロメートルにおける測定ガンマ線量とDS86の評価との比較」の指摘(甲全84の21)

P6らは,広島の爆心地から2050メートルに地点で採取した5枚の瓦の試料を用いて,ガンマ線量を熱ルミネッセンス法により測定した。また,爆心地から2450メートルで収集した瓦の試料もバックグラウンド評価の信頼性をチェックするために解析した。その結果,爆心地から2050メートルにおける測定値の平均値は129ミリグレイプラスマイナス23ミリグレイであった。この値は,同一距離におけるDS86による計算値の2.2倍の値であり,これらの結果からすると,爆心地から2050メートルにおける測定値に対し,DS86の推定値は50パーセントあるいはそれ以下であることを示していると指摘している。

(イ) P6らによる「爆心地から1.59キロメートルから1.63キロメートルの間の広島原爆のガンマ線量の熱ルミネッセンス法の線量評価」の指摘

P6らは,広島の爆心地から1591メートルないし1635メートルのビルディング(郵便貯金局)の屋根の5か所から収集した瓦の試料を用い,熱ルミネッセンス法によって,広島原爆からのガンマ線カーマを測定した。前記5か所からそれぞれ各4枚の瓦の試料を用いて石英の粒子を抽出して,これらの粒子を熱ルミネッセンス法により解析をして,ガンマ線カーマを得たところ,その測定値の平均値は,DS86による計算値より平均して21パーセント(標準誤差は4.3パーセントないし7.3パーセント)多かった。この測定結果と従前の熱ルミネッセンス法による測定結果によると,ガンマ線カーマの測定値は,爆心地から1300メートルの地点で,DS86による計算値を超過し始め,この不一致は爆心地からの距離の増加とともに,増加することを示唆している。このような不一致は,DS86の中性子のソーススペクトルに誤りがある(遠距離に到達できる高いエネルギーの中性子の成分が過小評価されていること。)ことに起因し,このことは,これまでの中性子線の測定値によって裏付けられていると指摘している。

ウ DS02報告書の指摘(乙全113の中)

熱ルミネッセンス法によって,ガンマ線量を測定する場合,試料となる煉瓦やタイルは,自然放射線核種によりエネルギーを蓄積している。したがって,広島及び長崎で採取された煉瓦やタイルは,前記自然放射線核種によるエネルギー蓄積に加えて,原爆からの放射線によるエネルギーを蓄積しているので,後者によるエネルギー値を知るためには,バックグラウンド線量(自然放射線核種によるエネルギー蓄積量)を把握することが重要である。そして,広島,長崎で採取された試料について,測定に基づいて得られた合計推定バックグラウンド線量は,0.1グレイないし0.33グレイの範囲にあった。これらの値に対応する爆弾の合計自由野ガンマ線量計算値の地上距離は,広島では,0.1グレイで約1900メートル,0.33グレイで約1600メートルであり,長崎では0.1グレイで約2100メートル,0.33グレイで約1800メートルであり,バックグラウンド推定値は,前記距離よりも若干近距離において,正味線量測定値に大きな影響を及ぼし始めるので,バックグラウンドに関する不確実性は,広島では爆心地から1500メートル以遠,長崎では爆心地から1700メートル以遠の距離においては,正味線量測定値の不確実性の主な寄与因子となるとしている。

エ P7教授(以下「P7」という。)の意見書の指摘(甲全29,34,102)

P6らは,原爆放射線が到達していないことが明白な爆心地から遠距離における測定値を求めて,これをバックグラウンド値とし,この値を,爆心地から2450メートルにおける瓦の試料による測定値から差し引いて,原爆によるガンマ線線量を求めるとマイナスとなったとしている。本来,線量がマイナスとなることはあり得ないから,爆心地から2450メートルの地点では原爆によるガンマ線量は,測定誤差の範囲内で,もはや測定できない線量しか到達していなかったことになるとともに,P6らは,バックグラウンド値を大きめに見積もったことを示している。したがって,P6らが求めた爆心地から2050メートルの地点における原爆によるガンマ線線量の値は過大な値ではないものといえる。

また,広島,長崎原爆から放出された初期放射線のガンマ線の実測値をカイ自乗フィット計算すると,広島では,DS86によるガンマ線の計算値は,近距離では実測値より系統的にやや過大であるのに対し,遠距離では系統的に過小評価となり,爆心地から遠距離になるほど,過小評価の度合いが高くなっている。DS02によるガンマ線の計算値は,近距離でDS86によるそれより,わずかに小さく,遠距離ではわずかに大きくなっているが,実質上,DS86の計算値とほとんど変わっていないので,DS02の計算値についても,依然として実測値との不一致の問題は残されている。これに対し,長崎では,DS86によるガンマ線の計算値は,比較的実測値とよく一致している。これは,長崎原爆の放出した中性子線量の割合が,ガンマ線の放出線量と比較して少なく,長崎原爆における中性子線の遠距離における過小評価の影響を受けなかったためと思われる。

(2) 熱中性子線について

ア DS86等報告書の指摘

前記のとおり,コバルト60については,計算値は,爆心地から近距離では,測定値よりも最大1.5倍となり,爆心地から1180メートルでは,測定値の4分の1となるなど系統的な差を示し,種々の調査や計算を行っても,この不一致の点を解決するに至らず,この問題は未解決とされ,ユーロピウム152については,測定データは全体として計算結果と矛盾しないが,爆心地から1000メートルまでの間の計算結果の妥当性を確認するには不確かさが大きく,また,測定機関の間で測定値のばらつきが大きいとされている。

イ P8らの「広島原爆の被爆線量評価の問題点」(平成12年)の指摘(乙全15の添付資料)

DS86で計算した広島原爆の中性子はユーロピウムの生成量を説明できないし,コバルト60の測定結果もうまく説明していない。また,加測器マス方式で測定した塩素36についても同様な系統的ずれを示している。測定により求められた値と計算値との比をとると,熱中性子の結果は,一致して系統的なずれがあることが認められる。近距離ではデータが計算値より小さく,遠距離では大きい。そこで,広島原爆は,2つのウラン235を配置して,火薬で2つのウランを合体させて,臨界に達して爆発させたものであるが,この2つのウランの衝突の際,原爆の底が抜けたように割れたと仮定し,また,中性子が発生した高度を90メートル引き上げて計算をすると,1000メートル以内では全ての実測値と計算値とが一致してくるが,これでも,1000メートル以遠では両者を一致させることができないと指摘されている。

ウ P9らによる「長崎における原爆中性子によって誘導された残留コバルト60の測定と環境中性子によるバックグラウンドへの寄与」(平成14年)の指摘(甲全32の1,2)

DS86の最終報告において,P10らによって測定されたコバルト60の残留放射能の実測値と低エネルギーの中性子領域におけるDS86による計算値との間に系統的な不一致がみられるとされ,また,広島で得られたユーロピウム152,コバルト60,塩素36に対する放射能データとDS86の計算値との不一致が確認されている。そこで,広島での前記問題の性格を明らかにするために,長崎での実測値に広島の場合と同様の不一致が存在するかどうかの点について,関心が集まっていた。すなわち,もし,長崎において,計測値と測定値とが一致するのであれば,広島にみられた不一致は,空気中の中性子の伝搬計算による不確かさによるものではなく,広島原爆から放出された中性子スペクトルによることになるからである。そこで,P9らは,長崎原爆の中性子によって誘導された5個の鉄鋼サンプル中の残留コバルト60の放射線を,爆心地から1000メートル以内において測定したところ,その計算値と実測値の比率は,長崎及び広島における計算値と,前記P10らによる実測値との比と同様の傾向を示した。そして,平成14年におけるデータは爆心地から約1000メートルでの計算値とはおおむね一致しているが,爆心地から1100メートルを超えるデータがないため,DS86による計算値と実測値との乖離の問題は未解決のままであるとされている。

エ DS02報告書(平成14年)の指摘(乙全113中)

(ア) コバルト60について

広島においては,一つの例外を除いて,爆心地から1300メートル以内のコバルト60の測定値とDS02に基づく計算値とは全体的によく一致した。

長崎においては,コバルト60の測定値は,DS02に基づく計算値とおおむね一致したが,近距離における計算値と測定値の間でも,大きな差異を示すものがあった。

(イ) ユーロピウム152について

広島においては,爆心地から800メートル以内では,ユーロピウム152の測定値とDS02中性子に基づく計算値とはよく一致しており,800メートルから1000メートルでは,測定結果が計算値よりわずかに高い傾向にある。

長崎においては,ユーロピウム152の測定値は,若干ばらついているが,DS02中性子に基づく計算値とは2倍以内で一致している。

(ウ) 塩素36について

塩素36については,日,米,独で測定がされた。米国での測定によれば,測定値は,爆心地付近からバックグラウンドと識別不可能となる距離まで,DS02のよる計算値と一致するとされ,ドイツでの測定によれば,広島での被爆試料について,爆心地から800メートル以遠における測定値とDS02による計算値との間に顕著な不一致は認められず,近距離においては,塩素36から得られた実験に基づくフルエンスは,DS02による計算値に基づくものより低いとされ,日本での測定によれば,爆心地から1100メートルの間では,測定値とDS02による計算値とはよい一致がみられ,1100メートル以遠の試料については,バックグラントとの識別が不能で,原爆による塩素36の測定は困難であるとされている。

オ P11らによる「原子爆弾の放射線に関する研究」(平成15年)の指摘(乙全15)

DS86作成後,熱中性子誘導放射能(ユーロピウム152,コバルト60,塩素36)の測定値と対応するDS86計算値との間には,系統的なずれがみられ,近距離では計算値が実測値より高く,遠距離では,計算値が実測値より低い。この傾向ははっきりしており,DS86作成後に測定値の数が増加するとともに,広島においてはこのずれが顕著なものとなってきた。長崎では,DS86の計算値と実測値とが,系統的なずれを示さない測定値と,広島と同様のずれを示す測定値との両者がある。このように,熱中性子線について,DS86の計算値と実測値が一致しない傾向ははっきりしたものの,その原因については,未解決のままであり,測定しているのは非常に微量な放射能であり,爆心地から2000メートルを超すと,測定値が計算値の10倍,100倍となっていくため,測定値に問題がある可能性も残されていた。そこで,この問題を解決するために,技術の進歩に裏付けされた最先端の測定とコンピューター技術の進歩により可能となった膨大な計算を再度行い,測定,計算の両面からのすりあわせにより不一致の原因を究明するために,日米合同で研究を行うこととした。ここでは,9か所の異なる被爆距離における被爆試料をそれぞれの4人の測定者用に分割して,同一試料の測定をする環境を設定して測定をした結果,ユーロピウム152については,計算値(DS86若しくはDS02)と測定値とは,1000メートルを超す遠距離に至るまで非常によく一致し,塩素36については,3人の測定者による測定値に若干のばらつきはあるが,計算値と測定値とは一致がみられた。結論として,日,米,独によるガンマ線(熱ルミネッセンス)及び中性子(放射化による残留放射能)に関する測定値は,爆心地から少なくとも,1200メートルの地点までは,DS02の計算値と全般的に極めてよく一致していること,爆心値から1200ないし1500メートル以遠での中性子の測定値と計算値の相違については,線量の絶対値が小さく,バックグラウンドとの区別が困難なことなど,測定値の不確実性によるものと判断されていると指摘されている。

カ P7の意見書(平成16年)の指摘(甲全102)

DS86では,コバルト60,ユーロピウム152,塩素36について,爆心地から近距離については,DS86による計算値が実測値を上回り,遠距離については,DS86による計算値が実測値を下回るという傾向を示しており,このように種類の異なる原子核について,同一の傾向を示すということは,DS86の計算値に問題があることを示唆している。最近,広島については,ユーロピウム152と塩素36について,精度のよい実測値が得られ,爆心地から1400メートル付近までの実測値とDS02による計算値とはよく一致することが示されたが,なお,ユーロピウム152については,1400メートルあたりから,DS02の計算値は実測値を下回る傾向がみられる。しかし,これ以上の遠距離について,実測値と計算値との一致の有無を明確にすることは,ユーロピウム152と塩素36の測定値がバックグラウンドの影響を受けるため,現状では困難である。そうすると,遠距離における実測値と計算値との比較については,コバルト60の1800メートル付近の実測値と計算値との比較が重要となる。そこで,コバルト60の実測値に基づいて,カイ自乗フィット計算によって中性子線量を求めると,爆心地から700メートルまでは,実測値に対して,DS86の計算値の方がやや過大であり,900メートルでは,実測値に対して,DS86の計算値の方が過小となり,計算値に対する実測値の比は,1500メートルで約14分の1,2000メートルで167分の1となるなど,爆心地からの距離が離れるにしたがって,DS86の計算値は実測値に対して過小評価の度合いが拡大していく。

長崎については,中性子線について,遠距離において適切な測定試料を入手することが困難であるため,爆心地から1100メートルまでの実測値しか得られていない。そして,長崎でのユーロピウム152の実測値には大きなばらつきがあるので,実測値にばらつきのないコバルト60について検討をする。そこで,コバルト60の実測値をカイ自乗フィット計算によって得られた中性子線量に基づいて推定すると,爆心地から1300メートルで,9.06センチグレイとなり,DS86の計算値の約4.2倍,2500メートルで,0.35センチグレイとなり,DS86の計算値の約172倍となると指摘している。

(3) 速中性子線について

ア DS86等報告書の指摘

前記のとおり,原爆投下直後の調査の際,広島で採取された絶縁碍子中の硫黄に含まれるリン36の計算値は,爆心地から400メートル以内の距離では,DS86の計算値とよく一致するが,それ以遠の距離においては,測定値との誤差が大きくなるとされている。

イ DS02報告書の指摘(乙113中)

DS86において,広島で採取された硫黄試料からリン36放射化の測定値に基づいて評価がなされたが,今回の再評価において,測定値の更新と修正が行われた。その結果,地上距離500メートル未満(直線距離800メートル未満)において収集された硫黄試料に関する測定結果は,現在利用可能なデータが許す範囲において信用できる。

広島で採取された銅試料中のニッケル63を加測器質量分析法を用いて測定したところ,爆心地から1800メートルでの値がバックグラウンドの大きさとなると思われ,このバックグラウンド値を差し引いた後の実測値を補正して計算すると,前記銅試料中のニッケル63の測定値は,DS02に基づく試料別計算値とよく一致し,DS86に基づく計算値と比較した場合でも,一点の試料を除いてよく一致するとされている。

ウ P12らによる「広島の原爆生存者における距離の関数としての高速中性子の測定」(平成15年・以下「P12論文」という。)の指摘(乙全43の1,2)

DS86では,生存者に対する中性子線量(爆心地から900メートルないし1500メートルでの中性子線量)の計算値が正しくない可能性があるとの指摘がなされ,広島では,熱中性子放射化測定が広範囲に実施され,長崎でも同様の測定が行われ,熱中性子に関する実測値は得られたが,測定バックグラウンドの不確定性や,熱中性子と中性子線量の関係の不確定性等の要素があるため,熱中性子線の実測値によって,中性子線量を確定することができなかった。これに対し,高速中性子は,基本的には広島のあらゆる中性子線量に寄与するものであり,試料の環境への依存性は,熱中性子線に関する実測値よりはるかに少ない。そこで,P12は,速中性子線測定のために,加測器質量分析法を用いて,銅の中の微量のニッケル63を検出する方法を開発し,広島において,爆心地から380メートルないし5000メートル以上と,爆心地からの距離の異なる7地点から被爆した銅の試料を採取し,各試料について測定を2回以上行ったところ,380メートルから1461メートルまでの試料からは,高速中性子の実測値が直接得られ,1880メートルと5062メートル地点での試料からは,原爆中性子をそれほど浴びていない銅試料中のニッケル63計数が測定された。これらの実測値を基に,種々の計算をした結果,爆心地から900メートルないし1500メートルの距離で,高速中性子に関する実測値とDS86による計算値との間に十分な一致が認められ,高速中性子と中性子線量との間に密接な相関関係があると仮定すると,前記の実験結果から,中性子線量の実測値とDS86の計算値との不一致は,前記距離については,あったとしてもわずかなものと推認される。そして,広島と長崎において,ガンマ線は,熱ルミネッセンス法を用いて検証され,長崎では中性子はDS86に一致するというこれまでの結論を考慮すると,このような実験結果によって,広島の線量測定のための強力な基盤が得られたものであり,原爆生存者が浴びた線量について,将来修正が必要となるとしても,その程度はわずかであると考えられると指摘している。

エ P7の意見書(平成16年)による指摘(甲全102)

P12論文では,DS86の広島原爆の中性子線量の計算値と実測値の不一致の問題は解消したと指摘しているが,このようにはいえないとして,次のような問題点を指摘できるとしている。すなわち,ニッケル63の実測値とDS86の計算値とが一致しているといえる爆心地からの距離は,949メートルと1014メートルの地点における測定値だけであり,1301メートルと1461メートルの地点における測定値とDS86の計算値とは一致しているとはいえない。もともと,爆心地から1000メートル付近の地点は,熱中性子線の実測値に対して,DS86の計算値が過大評価から,過小評価に移行する地点であり,P12論文における実測値に対するDS86の計算値とを比較してみても,前記と同様の傾向が窺われる。また,P12論文による実測値を基に,高速中性子線量が距離とともに半減する地点,すなわち半減距離を調べてみると,P12論文の実測値による半減距離は170メートルとなり,DS86の計算値によるそれは145.8メートルであり,後者の方が半減距離が短いので,速中性子線は,実測値による方が,DS86の計算値によるより,ゆっくり減少していることが分かる。同様にDS02の計算値による半減距離を求めると145.6メートルとなるので,やはり,実測値による方が,DS02の計算値によるより,ゆっくり減少していることに変わりはない。そして,高速中性子の成分中に,エネルギーの高い成分が多く含まれていると,遠距離まで到達する中性子が増加するので,半減距離は長くなる。そうすると,P12論文の実測値による半減距離が,DS86及びDS02の計算値によるそれより長いということは,DS86及びDS02による中性子線量の計算値が,エネルギーの高い成分を,実際より少なく見積もっている可能性があることを示唆している。さらに,P12論文では,爆心地から1880メートルの地点における測定値を,バックグラウンド値としているが,DS02による計算値によっても,前記地点では,なお,かなりの量の高速中性子が到達している距離なのであるから,前記地点における測定値をバックグラウンド値とすることは,実測値と計算値とを比較することを無意味なものにすることになると指摘している。

(4) 初期放射線に係るDS86による計算値と測定値の不一致の原因についてP7は,DS86あるいはDS02の計算値と実測値の不一致の原因として,以下のとおり指摘している(甲全102)。

前記原因としては,原爆の爆発点から放出された中性子線のエネルギー分布,すなわちソースタームの計算の問題,中性子の伝播に重要な影響を与える湿度の高度による変化,ボルツマン輸送方程式に基づくコンピューター計算における区分の設定の問題が考えられるとし,以下のように指摘している。すなわち,中性子が散乱や吸収されないで,平均的に到達することができる距離(平均到達距離)は,中性子線のエネルギーが高くなるほど大きくなるところ,広島原爆のガンマ線及び熱中性子線の実測値がDS86による推定線量より,遠距離で過小評価となっている点,そして,原爆では,100万分の1秒以内に核分裂の連鎖反応を数十段階以上繰り返させる必要上,エネルギーが1メガエレクトロンボルト以上の高速中性子に連鎖反応を起こさせる主要な役割を持たせているはずであるのに,広島原爆の構造と形状に似せた模擬原子炉(原子炉では,制御された連鎖反応を持続させるために,中性子を減速し,核分裂の連鎖反応における主要な役割を熱中性子と呼ばれる低エネルギー中性子に持たせている。)からのソースタームの測定値とDS86に用いられたソースタームとが一致したとされている点などからすると,DS86に用いられた中性子のソースタームのうち,高エネルギー成分が,実際の広島原爆のソースタームと異なって過小に評価されている可能性が考えられる。また,DS86では,長崎の原爆爆発時の湿度として,海に近い海洋気象台の記録値(71パーセント)をそのまま採用しているが,長崎では爆心地付近は海からやや離れ,河川の影響も小さいから,海面近くと上空とでは湿度が異なり,上方になるにつれ湿度が小さくなっていた可能性がある。そして,湿度が前記記録値より低い場合,大気中の水蒸気に含まれる水素の原子核による中性子線の吸収率が減少し,DS86の計算値よりもずっと多くの中性子線が遠方に到達することになるし,上空の空気中の原子核で反射して地上に到達した中性子の寄与が遠距離で増大することになる。長崎原爆において,DS86の計算値では,近距離での中性子線量が,実測値より,やや急減に減少しており,これは,中性子を吸収する水分量を,DS86では実際より大きく見積もったことに起因するものと考えられると指摘している。

また,P7は,DS86でみられた,遠距離におけるガンマ線の計算値と実測値との不一致,コバルト60による中性子線の同様の不一致,高速中性子のニッケル63の計算値による半減距離と,実測値によるそれとの不一致は,DS02においても解消されておらず,広島原爆の爆弾のタンパー(外殻)の材質,火薬の量や成分の詳細,広島原爆が放出した放射線のエネルギー分布の詳細は米国の軍事機密であるとして明らかにされず,前記の問題の解明は妨げられていると指摘している。

(5) 他方,P8らは,平成17年8月に発表された「新しい原爆放射線評価体系DS02」(乙全103)において,以下のとおり指摘している。DS86の計算値と被爆試料の測定値には,計算値が近距離で高く,遠距離で低いという系統的なずれが確認され,この問題を再検討することとし,平成8年,日米の研究者による共同研究が開始され,DS02が決定されたこと,その結果,DS86における前記問題のうち,近距離では計算値が測定値より高い点は,爆発点を20メートル引き上げることで,計算値が低くなり解決し,遠距離では計算値が測定値より低い点は,遠距離でユーロピウム152のデータが計算値より高いことは恐らく天然のガンマ線の混入により高くみえていたことで解決したというものである。

4  残留放射能,内部被爆について

(1) 残留放射能について

DS86による誘導放射能及び放射性降下物による被爆線量は大まかな近似にならざるを得ないとしつつ,誘導放射能及び放射性降下物の一応の数値を提示しているが,これらについては,以下のような調査結果や見解がある。

ア 誘導放射能に関する調査結果と指摘について

(ア) P13「広島及び長崎における残留放射能」(昭和37年)の指摘(乙全17)

広島の己斐・高須地区及び長崎の西山地区では,降下核分裂生成物が認められたが,爆心地ではその量は無視してさしつかえないほどであった。両市の爆心地における放射能は主として,中性子によって誘発された放射性同位元素から発生したものといえる。降下物による最大照射線量は,広島では数ラド,長崎ではほぼ30ラドであったと考えられる。ただし,これらの数値は,その上限を示すものである。そして,爆発後1時間から無限時間に至るまでに,広島の爆心地区における中性子誘発放射能によって受けると考えられる最大照射線量は,計算方法によって異なるが,183ラドから24ラドの範囲にわたるものと推定される。24ラドの推定値を得た計算方法(研究室内で,広島及び長崎において採取した土壌並びに屋根瓦標本に対し,中性子線による照射をし,シンチレーション検出器を用いてガンマスペクトルを測り,その誘発放射能を決定する方法)は,最も誤差が少なく,その数値にも信頼が置ける。この方法によって算出した長崎の爆心地における爆発時より無限時間までの積算線量は4ラドで,この数値は結果を無視してさしつかえないほど線量が低いことを示す。最大線量183ラドが算出されている場合についても,空中における中性子の減衰により,爆心地から900メートルの距離における中性子束は爆心地の10分の1に減少したし,発生した同位元素の半減期が短かったため,爆発から24時間で放射能は70パーセントが消滅したことから,個人がこの照射を受ける可能性は極めて少なかったものと推定されると指摘している。

(イ) P10らによる「広島・長崎における中性子誘導放射能からのガンマ線量の推定」(昭和45年)の指摘(乙全190)

中性子によって土壌及び建築材料に誘導された放射能からガンマ線量を実験データに基づいて推定したところ,原爆投下後1日目に広島の爆心地付近に入り,そこに8時間滞在した者の推定被爆線量は3ラドである。広島の爆心地から500メートル及び1000メートルの距離における線量は,それぞれ爆心地の線量の18パーセント及び0.07パーセントであった。爆発直後から無限時間までの累積ガンマ線量は,広島では爆心地で約80ラド,長崎では同じく約30ラドであると推定されたと指摘している。

(ウ) 「原爆放射線の人体影響1992」(平成4年)の指摘(甲全111の8)

爆心地における爆発直後から無限時間までの積算線量として,DS86において示された値をもとに,広島で80ラド,長崎で40ラドとし,広島と長崎について,人が市内に入った時間,入った場所,滞在した時間の具体的な場合について被爆線量の推定を行ったところ,爆発直後から無限時間までの積算線量のうち,約80パーセントは1日目が,約10パーセントは2日目から5日目までが,残りの約10パーセントは6日目以降がそれぞれ占めていることが判明した。また,爆発直後から現在までの,都市別,距離別の積算線量は以下のとおりである。

爆心からの距離(メートル)

都市

積算線量(ラド)

広島

長崎

80

40

500

広島

長崎

9.1

3.4

1000

広島

長崎

0.17

0.096

1500

広島

長崎

0.0048

0.0028

以上から,即発放射線(中性子,ガンマ線)は人に対して一瞬のうちに大きな被爆を与え,残留放射能のうち,誘導放射能は即発放射線に比べると人に与える線量は小さいものの,長時間にわたり残存し,被爆生存者や早期入市者に被爆をもたらしたといえると指摘している。

(エ) P14による「DS02に基づく誘導放射線量の評価」(平成16年7月)の指摘(甲全85の60)

京都大学原子炉実験所のP14は,DS86報告書にあるP15らの計算結果をDS02に応用することにより,距離と時間の関数として誘導放射能による地上1メートルでの外部被爆(空気中組織カーマ)を求めたところ,誘導放射線量率に関する計算結果は,以下のとおりである。放射線量率は,時間とともに急速に減衰し,爆発1分後の爆心地でのそれは,広島で1時間当たり約600センチグレイ,長崎で1時間当たり約400センチグレイとなり,広島,長崎ともに,1日後にはその1000分の1に,1週間後には100万分の1に減少しているが,それでも,爆心地近辺では,約1年近く,自然放射線レベル以上の放射線量率が続いていたことになる。これまでに得られた爆心地近辺での測定値と計算値とを比較すると,広島は両者がおおむね一致しているが,長崎では,測定値に比べて,多いものでは,計算値がその6ないし8倍となっている。その理由は定かではない。積算放射線量についていうと,積算線量値は,爆心からの距離とともに速やかに減少する。爆心地での積算線量は,広島で120センチグレイ,長崎で57センチグレイであり,爆心地から1000メートルでは,広島で0.39センチグレイ,長崎で0.14センチグレイ,1500メートルでは,広島で0.01センチグレイ,長崎で0.005センチグレイとなり,これ以上の距離での誘導放射線被爆は無視して構わない。広島の爆心地に原爆爆発の1日後に入って,ずっとそこに滞在した場合の線量は,広島で19センチグレイ,長崎では5.5センチグレイ,1週間後に入って,ずっとそこに滞在した場合の線量は,広島で0.94センチグレイ,長崎で1.4センチグレイとなる。

以上に基づき,P14は,個人線量の正確な評価は困難であるものの,誘導放射能による被爆が問題となるのは,爆心地から1000メートル以内に,1週間以内に入った人であるといってよいと指摘している。

イ 放射性降下物に関する調査と指摘について

(ア) P16らの「気象関係の広島原子爆弾被害調査報告」(昭和28年5月)の指摘(甲全86の2)

広島管区気象台気象技師P16らは,昭和20年8月から同年12月までに収集した資料(住民からの聞取りを含む。)に基づいて,広島原爆の当日の降雨について検討し,原爆投下後20分から1時間後に降雨があり,降雨は午後3時から4時ころまで続き,その範囲は,爆心地付近から北西方向に長径29キロメートル,短径15キロメートルであり,継続時間1時間以上の大雨域は長径19キロメートル,短径11キロメートルの楕円形ないし長卵型の区域であったとした。雨水の性状として,降り始めの小雨の雨粒に特に黒い泥分が多いため,粘り気があり,白い衣服がかすり状になり,流れる川水は墨を溶いたように黒くなり,雹のような大粒の雨が降った。1ないし2時間,黒い雨が降った後に,白い普通の雨となったというものである。

(イ) P17の「広島原爆後の“黒い雨”はどこまで降ったか」(平成元年2月)の指摘(甲全86の1,9,乙全29)

もと気象研究所予報研究部のP17は,前記(ア)の原資料のほか,アンケート調査,現地の聞取り調査等をもとに雨域,降雨開始時刻,降雨継続時間,推定降水量の分布等を調べた結果,降雨域は前記(ア)以外にもあり,少しでも雨が降った区域は,爆心地から北北西約45キロメートル(広島県と島根県の県境近くまで),東西方向の最大幅約36キロメートルに及び,その面積は約1250平方キロメートルで,その降雨域は,(ア)によるいわゆるP16雨域の約4倍に広がること,降雨が1時間以上継続したいわゆる大雨域も,P16らの少雨域(降雨の継続時間が30分以内の区域)に匹敵する広さにまで及んでいた旨を報告した。

(ウ) 黒い雨に関する専門家会議(平成3年5月)の調査とその指摘(乙全20)

厚生省が,昭和51年,前記(ア)に基づき大雨地域を健康診断特例区域として取り扱っていたところ,前記(イ)のP17雨域が契機となって被爆地域の拡大を求める声が起こり,広島県・広島市は,昭和63年8月,黒い雨に関する専門家会議(座長P18・放影研理事長)を設置して検討を開始し,平成3年5月に報告書を発表した。その内容は次のとおりである。

a 残留放射能

昭和51,昭和53年度に国(厚生省)が行った,爆心地から半径30キロメートルの範囲の107地点(爆心地から2キロメートルごとの同心円と爆心地から放射状に8方向に引いた線とが交わった地点)の土壌中の残留放射能(セシウム137)調査データの再検討,上記土壌試料の一部についてのウラン235及びウラン238の測定,屋根瓦中のセシウム137の検討,柿木及び栗木の年輪区分によるストロンチウム90の測定を行ったが,屋根瓦を用いたガンマ線測定方法は不適当であり,土壌中のウラン235の測定法は,客観的資料を提供できる十分な方法であるという確証は得られなかった。また,柿の木によるストロンチウム90の測定は進行中であり,現在までの結果では,黒い雨との関連について,確定できなかった。

b 気象シミュレーション法による降下放射線量の推定

気象シミュレーション法によれば,原爆雲(火の玉によって生じた)の乾燥大粒子の大部分は北西9ないし22キロメートル付近にわたって降下し,雨となって降下した場合には大部分が北西5ないし9キロメートル付近に落下した可能性が大きいことが分かり,また,衝撃雲(衝撃波によって巻き上げられた土壌などで形成された雲)や火災雲(火災煙により形成された雲)による雨(いわゆる黒い雨)の大部分は,北北西3ないし9キロメートル付近にわたって降下した可能性が大きいと判断された。したがって,降雨地域の推定では,多雨地域は,いわゆるP16雨域の範囲と同程度であるが,火災雲の一部が東方向にはみ出して,降雨落下しているとの計算結果となり,また,原爆雲の乾燥落下は,北西の方向に,従来の降雨地域を越えていることが推定されるが,その後の降雨などで,これらの残留放射能は急速に放射能密度を減じている。

また,気象シミュレーション法によって得られた放射性降下物量,その地上での分布データ及びネバダ核実験値を用いて,広島原爆の残留放射能による照射線量率を,炸裂12時間後で,1時間当たり約5レントゲン,最大積算線量(無限時間照射され続けたと仮定した場合の線量)は約25ラドと推定した。

c 体細胞突然変異及び染色体異常頻度の検討

降雨地域と対象地域で統計的に有意差はなく,人体への影響を明確に示唆する所見は得られなかった。

(エ) P13の「広島・長崎原爆生存者に関する放射線量測定」(昭和35年)の指摘(乙全159)

爆心地からの距離が各々3000メートル程に位置する広島市の西部地区(α,高須,己斐)及び長崎の西山地区に降下物があった。これらの放射線核分裂生成物によるガンマ線外部照射積算線量は正確には分からないが,推計の結果,線量は広島で数ラド,長崎の西山地区では100ラドくらいであった。中性子によって土壌に放射線元素が誘発されたものと思われる爆心地付近における放射線は,爆発後数週間目に測定された時は極めて微弱であったが,これは,中性子によって誘発された元素の大部分が半減期の短いものであったことから,当然考えられることである。この線源の最大線量を理論的計算によって推定すると,爆発時から無限時間までの総積算線量は広島で100ラド,長崎で50ラドに達する。しかし,前記計算線量の50パーセントを受ける確率は以下の理由により,極めて少ない。なぜなら,これらの元素の半減期が短いこと(これらの元素の放射能は12時間で半減し,27時間で4分の3に減少する。),爆心地から遠ざかるにつれて,放射能は急激に減少すること(中性子束は,爆心から900メートルで10分の1に減少する。)などによる。したがって,原爆の1次放射線を除けば,広島及び長崎の被爆生存者が有意線量を受けた証拠はほとんどない。中性子に誘発された放射能は存在したが,この放射能は,被爆者が受けた総線量にほとんど寄与しなかったものと思われると指摘している。

(オ) P13の「広島及び長崎における残留放射能」(昭和37年)の指摘(乙全17)

P13は,前記報告書で,放射性降下物について,次のように述べている。広島及び長崎の原爆による降下物の量は,爆発後に両市で行われた線量測定により比較的,正確に測定することができる。放射性降下物は,広島では己斐・高須地区,長崎では西山地区に多くみられた。両市において行われた日米合同調査の結果,昭和20年10月3日から同月7日までの調査では,広島の己斐・高須地区の降下物による放射線量は,最高で1時間当たり0.045ミリラドが記録されている。減衰の法則を適用して爆発の1時間後から無限時間までを積算すると,戸外被爆者の場合,約1.4ラドの線量となる。この線量は,無視することはできないが,生物学的障害の原因となる量としては,恐らく十分なものとはいえないであろう。長崎の西山地区における降下量は,前同日の調査では,最高の場所では,1時間当たり1.0ミリラドを記録した。減衰の法則を適用して爆発の1時間後から無限時間までを積算すると,照射を受けた総線量は約30ラドとなる。しかし,実際問題としては,人は1か所に静止することはないであろうから,この場合,最高線量を示す場所で過ごす時間を1日の3分の1とし,屋内遮蔽による減弱計数2を用いて計算すると,この人が受ける総照射線量は,上記の4分の1に減少するので,西山地区で受けた照射線量は実際上,多く見積もっても,10ラド程度であり,これもまた,明確な生物学的障害を起こすに足りる量とは考えられないと指摘している。

(カ) P9らによる「広島原爆の早期調査での土壌サンプル中のセシウム137濃度と放射性降下物の累積線量評価」(平成8年)の指摘(甲全42の1,2,乙全195の添付資料)

P9らは,広島原爆の極めて早期の調査(広島原爆投下後3日後)において,収集された土壌サンプル中のセシウム137の含有量を決定するために,低バックグラウンドガンマ線測定を行った。これらの22の土壌試料は,爆心地から5キロメートル以内で収集され,核実験による全地球的な放射性降下物には晒されていないので,広島原爆による放射性降下物の測定に適する。22の試料のうち,11の試料でセシウム137が検出された。そして,このうち3つの試料はP17雨域内に含まれるが,P16雨域には含まれておらず,2つの試料はP17雨域に含まれるが,P16雨域の境界線上にあるものであったことから,広島原爆後の降雨域は,P16雨域より広いことを示している。また,その放射能は測定時に,1グラム当たり0.16ないし10.6ミリベクレルの範囲であったことから,これをもとに,放射性降下物の累積被爆線量(原爆後1時間後から無限時間までの地上1メートルの位置による放射性降下物の外部被爆の積算線量)を算定すると,降下物が集中した己斐・高須地区では最大で4レントゲン,同地区を除く爆心地から5キロメートル以内では,0.12レントゲンプラスマイナス0.02レントゲンとなり,初期の外部放射線測定による結果とよく一致すると指摘している。

(キ) P17による「黒い雨問題と気象シミュレーション」(平成16年11月)の指摘(甲全85の41)

P17雨域とP9らによる前記研究結果とを照らし合わせると,広島の爆心地の東側から北西に延びる強い降雨域と,その西側と東側の弱い降雨域とに対応して,残留放射能の分布が対応していることが明らかとなると指摘している。

(ク) P19らの「黒い雨の放射線影響に関する意見書」(平成17年7月)の指摘(乙全116)

黒い雨と放射性降下物とが同一視されることが多いが,雨が黒いのは,不完全燃焼した火災のすすが雨に取り込まれて落下するためであり,両者は区別して理解する必要がある。原爆により生じる放射性降下物には,核分裂したウラン235あるいはプルトニウム239の核分裂生成物及び分裂せずに飛散したウランあるいはプルトニウム(原爆粒),原爆の中性子線によって放射化された土砂が原爆の爆風によって巻き上げられ,上昇気流によって舞い上げられた粉じん,爆風の中性子線によって放射化された可燃物が爆風の熱線によって燃焼した火災煙の3種がある。しかし,原爆の爆風は11キロメートルまで,熱線は約3キロメートルまで達したため,原爆の爆風によって舞い上げられた粉じん等の中には,必ずしも原爆の中性子線によって放射化されておらず,したがって,爆発時においては,爆心地から遠距離の地点では,放射性核種を含んでいないものが大部分であったと考えられる。

そして,「黒い雨に関する専門家会議」での検討においても,土壌中の残留放射能はP16・P17両降雨地域とも相関がみられないことが判明しており,さらに,気象シミュレーション法を用いて推定した長崎の降雨地域は,これまでの物理的残留放射能の証明されている地域と一致することが確認されている。したがって,仮に,黒い雨に関するP17雨域の範囲がP16雨域より広いとしても,だからといって,P17雨域の範囲がそのまま放射性降下物の分布範囲を示すものとはいえないと指摘している。

(2) 内部被爆について

内部被爆とは,放射線核種が飲食物,呼気等により,また皮膚,外傷部位から体内に侵入し,体内から継続的に放射線を照射したという問題であり,外部被爆において問題とならなかったアルファ線やベータ線が関与する点など困難な問題があり,その機序や線量評価については,次のような指摘がなされている。

ア 放射線防護委員会第1委員会作業班報告書による「皮膚の線量限度のための生物学的根拠」(平成3年11月)及びP20らによる「ホット・パーティクル(粒子)被爆の発がんリスク」(平成15年)の指摘(乙全112,224,225の1,2)

放射線防護委員会による前記報告書では,低線量での広い範囲の不均一照射では,皮膚がんのリスクは,被爆した面積,すなわち照射された細胞数,そして皮膚への平均線量に比例するということが合理的であること,P20らの研究の結果,最も発がん性が高いのは,均一被爆であることが明確に示され,不均一被爆の余剰効果が,細胞不活化の相違によって説明されるとは思われないと指摘している。

そして,P20らは,8平方センチメートルの範囲に最小2ミリメートル径までの様々な細胞に,最大エネルギー0.97メガエレクロトンボルトの線源を配置し,発がん効果の比較を研究し,前記報告書では以下のように指摘している。放射線微粒子(ホット・パーティクル)によるような,空間的に不均一な被爆は,同量のエネルギーが組織全体に均一に沈着する場合より,発がん性が高いと示唆されてきた。しかしながら,このような示唆の正確性については,生体内の実験(動物実験)及び試験管内の実験による知見及び人間の疫学的データに基づいて検討すると,全体的にはこれと反対の見解が支持され,前記の放射線防護委員会が提唱するような,平均的な線量が,そのプラスマイナス3倍の範囲内で,発がんリスクに対する適切な評価となることが示唆された。この問題に応用できる人間のデータはほとんどない。プルトニウム噴霧の職業的吸引に伴う肺がん死亡と,診断のために投与されたトロトラストによる肝がんと白血病の発生に関する限られたデータでは,有意な増加要因は現れていない。また,主に肺と皮膚の被爆を含む限られた動物実験でも,ホット・パーティクルによる発がんの増加は示されていない。最近の試験管内での悪性形質転換の実験で,ホット・パーティクル被爆での細胞形質転換の増加を示したものがあるが,適切に解釈するとその効果は余りない。約0.1グレイ未満の吸収線量に及んだ研究はほとんどない。

イ P21の米国上院退役軍人局における証言(平成10年4月)での指摘

生物測定学者であるP21博士は,米国上院退役軍人局において,次のとおり証言している。すなわち,DNAの分子結合を破壊するエネルギーは,およそ10エレクトロンボルトであるのに対し,1個のプルトニウム原子が1回の原子の変化で放出するエネルギーは,500万エレクトロンボルトであり,セシウム137の出すエネルギーは約50万エレクトロンボルトである。したがって,放射能性核種の中の1個のうち,最小の粒子がDNAの科学結合を破壊する能力があることについて,疑いの余地はない。その破壊が被爆を受けた染色体の遺伝情報に不安定を起こす確率は若干100パーセントを下回る。生体組織内での核の変換で,細胞の幾つかは死亡し,幾つかは損傷を受けて修復をし,あるいは誤った修復をする場合もある。そして幾つかが,そのままずっと損傷した状態のまま再生される。誤った修復をした細胞はその働きも誤ってしまうし,また,損傷した細胞は突然変異したDNAを再生してしまう。これが後に不健康やがんをもたらす能力を持っている。

ウ P22による「内部被爆に関する意見書」(平成16年9月)の指摘(乙全30)

長期間の内部被爆の評価上着目すべきはストロンチウム90及びセシウム137である。原子爆弾の爆発に伴い発生する中性子は土壌中等に放射化生成物(誘導放射能)を生じるが,主な誘導放射能であるアルミニウム28,マンガン56,ナトリウム24の半減期は数分から数時間程度と短いので,長時間の内部被爆では,誘導放射能を考慮する必要はない。そして,爆発30分後に西山地区に黒い雨が降り,核分裂生成物が浦上川を汚染した可能性があるが,被災日の夕方においては,浦上川の水面付近の放射性核種の量は,セシウム137及びストロンチウム90ともに,1平方センチメートル当たり,それぞれ3.3ベクレル以下と考えられ,これを前提に検討すると,自然放射線に匹敵する被爆を受ける可能性はない。また,セシウム137及びストロンチウム90の物理学的半減期は,それぞれ約30年及び約29年であるが,体内に取り込まれた放射性核種は,放射性壊変による減衰及び各元素に特有の代謝過程を経て,体外に排出されるので,体内の放射能が実際に半減する時間は物理学的半減期より短くなる。このような生物学的半減期をも考慮すれば,晩発的に肝臓に障害を与えることはないと指摘している。

エ P14による「DS02に基づく誘導放射線量の評価」(平成16年)の指摘(甲全85の60)

P14は,前記報告書で以下のとおり報告している。誘導放射能の体内取込みに伴う内部被爆の正確な評価は,外部被爆以上に困難であるが,大ざっぱな仮定をもとに,焼け跡の片づけに従事した人々の空気中の塵埃吸入を想定して内部被爆評価を試みると,吸入の対象となる放射能を土壌中のナトリウム24とスカンジウム46とし,放射化生成量はDS02検証計算で得られた地上1メートル中性子束を用いて1キロメートル以内の平均値を計算し,塵埃濃度を1立方メートルあたり2ミリグラムと想定し,原爆当日に広島で8時間の片づけ作業に従事したとして内部被爆を評価すると,0.06マイクロシーベルトという値になったとし,この値は,考え得る外部被爆に比較した場合,無視することができる程度のものであると指摘している。

オ P23「原爆症訴訟意見書」(平成16年9月)の指摘(甲全83の2)

放射線防護学を専門とするP24大学教授P23は,前記意見書で,以下のとおり指摘している。原爆被災において,体の外部から浴びた放射線以外に,放射性核分裂生成物や未分裂の核物質の体内への取込みに起因する内部被爆もあったことを軽視してはならない。内部被爆は,その被爆線量を算出すること自体が非常に困難である。なぜならば,体内に取り込まれた放射性物質の種類と量や体内での沈着部位を時系列的に正確に把握することが不可能だからである。内部被爆の影響は,外部被爆とは違った機序で人体に作用する可能性が示唆されている。外部被爆が総じて体外からの一時的な被爆であるのに対し,内部被爆の場合は体内に入り込んだ放射性物質が放出する放射線によって局所的な被爆が継続するという特徴を持つからである。例えば,骨組織に沈着したプルトニウム239は,13種類の放射性核分裂生成物に変化し,その過程で,アルファ線,ベータ線,ガンマ線などを放出し,周囲の組織に被爆を与える。そして,細胞膜が,溶液中の放射性イオンからの放射線に敏感であり,低線量で影響を受けるとの報告があり,長時間に及ぶ内部被爆の結果,外部被爆の場合とは異なる態様において,細胞組織のDNAの損傷等が生じる可能性がある。さらに,このような内部被爆の影響については,微小な細胞レベルで生じるため,「吸収線量」,「線量当量」などのマクロな概念によっては,その影響を正確に評価することができない可能性がある。放射線が組織1キログラム中に与えた平均エネルギーが等しくとも,組織全体が平均的に浴びたのか,それとも特定の細胞が集中的に浴びたのかによって影響が異なり得るにもかかわらず,これらの単位では,局所的に生じた被爆について,その影響を1キログラムの組織全体に対する被爆として平均化してしまうからである。広島,長崎の原爆の場合,微細な放射性粒子が大量に降下したと考えられ,それらの放射性微粒子は,吸引や飲食を通じて体内に取り込まれ,内部被爆の原因となったと考えられる。したがって,被爆者が受けた放射線の被爆量を評価するためには,初期外部放射線に加えて,誘導放射能や放射性降下物による持続的な外部被爆,放射性降下物や未分裂の核分裂物質による内部被爆を全体として評価しなければならない。

カ P25「意見書」(平成16年12月)の指摘(甲全67,甲全95の1,2)

琉球大学理学部教授P25は,前記意見書で,次のとおり述べている。極めて小さい放射性物質は呼吸や飲食等によって人の身体内部に取り込まれ,親和性のある組織に沈着・滞留し,飛程の短いアルファ線とベータ線は,体内に止まってしまうので,これらが放出時に有していた全てのエネルギーが周囲の細胞組織を形成している原子の電離等に費やされ,ホットスポットと呼ばれる集中的に電離作用を受ける領域が形成される。その内部では,均一的な体外被爆と異なり,高密度電離が行われている可能性がある。そして,高密度電離を行うアルファ線などは,DNAの二重鎖切断を引き起こし,誤った修復がされる確率が高くなり,その結果,誤った遺伝情報を伝えたり,異常細胞を生成・成長させたり,細胞を死滅させたりする。また,DNAの損傷は,放射線が細胞核を直接貫く場合の外,細胞質内部の水分子の電離作用等を媒介として,間接的なプロセスで行われることも明らかになっている。さらに,最近,アルファ線を照射した細胞の周辺の,放射線を照射されなかった細胞に損傷が及ぶバイスタンダー効果と呼ばれる放射線影響も知られるようになっている。内部被爆線量を測定する方法であるホールボディカウンターでは,放射線のうち飛程の長いガンマ線しか測定できないから,内部被爆線量を正確に測定することはできない。

キ P7の「体内に取り込んだ放射性物質の影響」,「意見書」(平成17年7月)の指摘(甲全48,51)

放射性物質を体内に取り込んだ場合,水溶性(あるいは油溶性)の場合は,微粒子の形で体内に取り込まれた場合でも,放射性物質が1個の原子または分子のレベルで,血液やリンパ液に溶けて,ばらばらに散らばって体内に広がり,元素の種類によっては,特定の器官に比較的集中して滞留することが起こる。ヨードが甲状腺に集まるとか,リンやコバルトが骨髄に集まるなどがこの例である。このような場合,尿などの排泄物から微量ながらも放射性の原子または分子が含まれて検出できるので,その測定から身体に取り込んだ放射性物質の量を測定できる。ところが,水溶性あるいは油溶性ではない放射性微粒子が体内に取り込まれ,微粒子がある程度の大きさを保ったまま固着すると,その周辺の細胞が集中して被爆する。この場合は,沈着した部位から,かなり持続的に強い放射線を出し続けるような場合を除いて,放射性微粒子を特定することも困難であるし,排泄物から推定することもできない。このような放射性微粒子による影響は,微粒子の大きさ,微粒子に含まれる放射性元素と放出される放射線の種類に大きく依存し,また,この影響を,生物学的効果比のように単純な因子で表現することも困難である。

外部被爆の場合は,外部の様々な方向から放射線によって照射されたとしても,ほぼ一様に被爆する。そのため,平均的な量である吸収線量(生体組織1キログラム当たりの吸収エネルギー)によって被爆影響を評価することができるが,放射性微粒子による内部被爆の場合は,ホット・スポットの直近の球殻の細胞組織は集中して,継続的な強い被爆を受け,これに次ぐ影響をその周りの球殻が受ける。したがって,器官組織全体の吸収線量のような被爆影響評価によって,内部被爆を評価することは適当ではない。そして,1個の放射線粒子のエネルギーは数万電子ボルトから数百万電子ボルトであり,一方,細胞内のDNAなどの分子の1個の電子が電離するエネルギーは10電子ボルト程度なので,1個の放射線粒子によって,細胞内のDNAなどの分子から数千個から数十万個の電子が電離し,これによって切断された分子の大部分は元通りに修復されるが,電離によって破壊された分子の中には,正しく修復されずに染色体異常や突然変異などを起こし,急性症状や晩発性症状を引き起こすものがある可能性がある。被爆線量が極めて低線量であっても,1個の放射線粒子が細胞の分子に与える影響は,ミクロのレベルでは極めて膨大なものであって,その影響によって急性症状や晩発性症状につながる変化が生じている可能性を否定できないと指摘している。

ク P26「意見書」(平成17年11月)の指摘(甲全88の3,6)埼玉大学名誉教授P26は,前記意見書において,次のとおり述べている。

(ア) ガンマ線の場合には,その線量は線源からの距離に反比例する。したがって,等量の同一核種であっても,体外に存在する場合に受ける線量と比べて,体内に入った場合に受ける線量が格段に大きくなる。

(イ) ベータ線やアルファ線を放出する核種が体内に入ってくると,飛程距離が短いこれら放射線のエネルギーのほとんど全てが吸収され,体内からの被爆が桁違いに大きくなる。ことに,アルファ線の生物学的効果は大きく,1グレイで10ないし20シーベルトにもなる。このようにアルファ線は短い飛程距離の中で集中的に組織にエネルギーを与えて多くの遺伝子を切断し,電離密度が大きいため,DNAの二重らせんの両方が切断され,誤った修復をする可能性が増大する。

(ウ) 人工放射性核種には生体内で著しく濃縮されるものが多いが,例えば,放射性ヨウ素なら甲状腺,放射性ストロンチウムなら骨組織,放射性セシウムなら筋肉と生殖腺というように,放射性核種によって濃縮される組織や器官が決まっているため,特定の体内部位が集中的な内部被爆を受けることになる。

(エ) 体内への取込みがあって,その核種が体内に沈着,濃縮されたとすると,その核種の寿命に応じて内部被爆が続くことになる。例えば,放射能半減期が28年のストロンチウム90が骨組織に沈着すると,崩壊を繰り返し,またストロンチウム90が崩壊して生じるイットリウム90もベータ線を放出するため,長年にわたってその周辺のベータ線による内部被爆が続くことになる。

5  検討

(1) DS86による線量評価について

DS86は,広島,長崎の被爆線量データを基に,原爆放射線の人の健康に対する影響という効果を研究するため,それぞれ開発されたシステムであるT65Dなどを,修正,改訂した被爆者ごとの原爆放射線量評価システムであり,核物理学の理論に基づいてコンピューターにより計算されたデータベース及びコンピュータープログラムの体系である。そして,前記のとおり,DS86では,もともと,初期放射線のガンマ線量については,広島原爆に被爆している種々の試料から得た実測値と比較した場合,爆心地から1000メートル以遠では,実測値がDS86による計算値より大きく,1000メートル以内では,実測値がDS86による計算値より小さくなるという問題点が指摘されており,中性子線量についても,基本的には同様の傾向がみられるというのであるから,爆心地から1000メートル以内における初期放射線量については,まだしも,1000メートル以遠における広島,長崎の原爆による実際の放射線量を精度高く表しているのかどうか,疑問が残るといわざるを得ない。

そして,その後,問題点の修正を図るべくDS02がさらに開発されたものの,基本的には,DS86による計算値や結果と大きく異なるものではなく,前記のようなDS86の持っている問題点を内包しているシステムであると評価するのが相当である。

そして,DS86が昭和61年に発表され,前記のような問題点が指摘されていたことから,その後も,長崎や広島での種々の被爆試料の測定や計算がなされ,その結果,実測値と計算値とが爆心地から遠距離に至るまで一致していると指摘する者もあるが,他方で,不一致のままであると指摘する者もあるのであり,その不一致の原因について一定の見解を明らかにする者もある。そして,また,測定技術の進歩などにより,従前に比べて,特定の放射性物質の放射能は測定精度が向上してきていることが窺えるところであるのに(3項(2)エ(イ)によるユーロピウム152の測定値など),現実に得られた被爆試料による実測値を基にして,被爆線量に関する理論的な計算をした値と,DS86による計算値との間の不一致がいまだに学問的に問題とされている。結局,どのような精密な測定技術や高度の計算技術を駆使し,世界有数の物理学者等が様々な研究をしても,DS86が作成された時点で,長崎,広島の原爆による客観的な放射線量については,爆心地から近距離(1000メートルないしせいぜい1400メートル)地点までの初期放射線量を明らかにすることはできても,それと同程度の精度をもって,それ以上の遠距離地点における線量を明らかにしているかどうかについては,疑問が残り,この点において限界があるシステムであるというべきである。

以上より,DS86は,爆心地から比較的近距離における初期放射線量を算定する目安としては貴重な資料ではあるが,前記のような限界があるシステムであることもまた,明らかであると判断する。

(2) 誘導放射能について

まず,DS86報告書自体が,残留放射線に関する被爆線量の推定は,大まかな近似値にならざるを得ないとし,台風等の影響を補正しなかったと自認しているのであるから,DS86が示す値自体,大まかな近似値であると評価するのが相当である。

そして,誘導放射能については,昭和37年に発表されたP13の論文によると,爆発後1時間から無限時間に至るまでに,広島の爆心地区における中性子誘導放射能によって受けると考えられる最大照射線量は,計算方法によって異なるが,183ラドから24ラドの範囲にわたるものと推定され,最も信頼が置ける数値(24ラド)を得た計算方法によって算出した長崎の爆心地における爆発時より無限時間までの積算線量は4ラドで,広島におけるそれは24ラドであるとしている。また,昭和45年に発表されたP10らによる論文によると,爆発直後から無限時間までの累積ガンマ線量を,広島爆心地では約80ラド,長崎爆心地では30ラドとしている。さらに,平成16年に発表されたP14らによる論文によると,爆発直後から無限時間までの被爆線量を,広島爆心地では120センチグレイ,長崎爆心地では57センチグレイであるとしている。本件記録中には,これ以外に,誘導放射能による被爆線量推定計算をした資料は見当たらず,これらの数値自体について,明白に誤りであるといえるだけの資料は見当たらない。

ただし,P13による昭和37年「広島及び長崎における残留放射能」によって示した中性子誘導放射能による最大照射線量値の算出の根拠となっているのは,DS86やDS02が発表される以前の線量評価に基づく計算値であるから,どのような線量評価が前提になされているのか疑問があるし,P10らが昭和45年に示したガンマ線量の推定値以外の誘導放射能値の算出の根拠となっているのは,T65Dによる線量評価によるものであると考えられるが,T65Dの線量評価の正確性にも問題があったことが指摘されているのであるから,前提となる線量評価の正確性の点で問題がないわけではない。そして,旧審査の方針では,DS86の誘導放射線による最大被爆量は,広島爆心地で約50ラド,長崎爆心地では18ないし24ラドとしているところ,前記数値については,中性子線によって誘導された元素として,土壌中の元素のみが考慮されて算出されている。ところが,実際には,DS86等報告書でも,瓦や煉瓦などの建造物資材のほか,人体などの中の元素についても,中性子線によって誘導放射化されたものが存在することが指摘されているし,後記のとおり,遠距離被爆者の急性症状,入市被爆者にも脱毛,下痢などの放射線被爆による急性症状と同様の症状が一定の割合で生じたことを示す多数の調査結果があり,これらの症状は,放射線に起因するものであると認めるのが相当である。このような事実に照らすと,DS86による誘導放射線の被爆線量値は,過小評価されている可能性があることを否定できないというべきである。また,これらの数値は,その算出の根拠となる計算方法や計算の基礎となる試料等の違いを考慮したとしても,相当に幅のある数値であって,そもそも,現在入手可能な試料等を基に,爆発からの時間と爆心地からの距離によって,誘導放射線による被爆線量を,それなりの精度のある数値として明らかにすることができるのかどうか自体,疑問であるといわざるを得ないのであって,旧審査の方針による数値を唯一の判断基準として,申請疾病について原爆症認定の有無を判断するということについては疑問を抱かざるを得ない。

(3) 放射性降下物について

まず,放射性降下物の降下範囲については,原爆の物理的作用の課程に照らすと,核分裂生成物,未分裂の核分裂性物質及び誘導放射化された大気中の原子核などが,広島においては己斐・高須地区,長崎においては西山地区以外にも,量の差こそあれ,放射性降下物として降下したものであり,この点は,1審被告らも認めるところである。ところで,原爆投下直後の広島における降雨の調査結果として,P16らの調査結果であるP16雨域とP17の調査結果であるP17雨域が存在するところ,P9らの調査結果において,P16雨域には含まれていないが,P17雨域には含まれている地点で採取された3地点の土壌試料からセシウム137が検出されたことや,P16雨域の境界線上にあるが,P17雨域に含まれている2地点で採取された土壌試料からもセシウム137が検出されていることに照らすと,試料数自体が十分なものとはいえないとしても,放射性降下物を含む雨が降った範囲は,P16雨域より広い範囲であった可能性が十分にあるというべきである。このことは,黒い雨に関する専門家会議の検討結果やP19らの指摘を踏まえても左右されないというべきであり,放射性降下物の降下した範囲が,DS86によって線量が算定されている一定の範囲に限定されるとすることは相当ではない。

(4) 内部被爆について

旧審査の方針では,残留放射線による内部被爆の影響は考慮されておらず,これは,DS86等報告書において,内部被爆線量が極微量であると考えられたことによるものである。

しかしながら,DS86等報告書の基礎となるデータは,ホールボディカウンターにより測定されたセシウム137の内部負荷データであるところ,ホールボディカウンターでは,飛程距離の短いアルファ線やベータ線を直接測定することはできないし,また,内部被爆において考慮されるべき放射線核種は,セシウム137以外にも存在する。さらに,ホット・スポットによる内部被爆の可能性とこれによる人体への影響の重大性を強調するP7,P23,P25,P26らの見解もある。いわゆるホット・パーティクル理論と呼ばれる理論に否定的な見解が存在することは前記認定のとおりであるが,ホット・パーティクル理論が科学的知見として,明確に排除されるべきであるとするだけの科学的知見が確立しているとまではいい難い。

(5) まとめ

以上によると,初期放射線の被爆線量の評価システムとしてのDS86については,現在,これ以外に線量評価をする適切な手段がなく,特に爆心地から近距離の地点における初期線量を評価するについてはかなり精度の高いシステムであるといえ,その意味において,その存在意義を否定し去ることまではできないので,誤差があることを考慮のうえ,原爆症の認定に当たって利用することは是認し得る。しかし,DS86の計算値については,誤差が生ずる範囲を狭く解しても,爆心地から1400メートル以遠の放射線量については,誤差がある(過小評価されている)蓋然性が高いうえ,誘導放射線や放射性降下物については,旧審査の方針が定めた数値も過小評価されている蓋然性が高く,このような数値を機械的に個々の被爆者に当てはめて,原爆放射線による被爆線量を評価することについては疑問があるし,内部被爆による影響については,その評価について,専門家においても意見の分かれる点であり,その影響を全く無視して,個々の被爆者の線量評価をすることが相当であるとはいい難い。

第4急性症状について

1  問題の所在

1審被告らは,DS86による線量評価を前提として,放射線による急性症状を発症するには,一定のしきい値を超える放射線に被爆することが必要であり,しきい値を超える放射線の被爆が認められない遠距離被爆者や入市被爆者についてみられた身体症状は,放射線による急性症状ではないと主張し,最高裁判所平成12年7月18日第3小法廷判決(以下「平成12年最高裁判決」という。)において,DS86による被爆線量評価と放射線に起因する急性症状に関するしきい値では説明できない脱毛,嘔吐,下痢等の急性症状が被爆者に認められたという指摘は理由がないことが新たな知見によって明らかになったと主張し,この点は遠距離被爆者(1審原告P1)や入市被爆者の被爆線量評価のうえでも重要な点となるので,この点について検討する。

2  急性症状等に関する調査結果

(1) 遠距離被爆者に生じた放射線被爆による急性症状と同様の症状等に関する調査結果

ア 原爆の効果に関する合同調査団の調査結果(昭和26年)(甲全6,甲全77の11)

原爆の効果に関する合同調査団(通称「日米合同調査団)作成の報告書によると,広島及び長崎において,別紙日米合同調査報告書記載のとおりの結果が得られたとされている。

イ 東京帝国大学医学部診療班P27らによる「原子爆弾被害調査報告(広島)」(昭和28年で,以下「東大報告」という。)(甲全77の7,112の1)

東京帝国大学医学部診療班のP27は,昭和20年10月から同年11月にかけて,広島において,爆心地から5キロメートル以内の生存被爆者5120人の調査を行い,その結果を以下のとおりまとめている。

(ア) 対象被爆者のうち,急性症状様の症状がみられた者の割合

別紙東京帝国大学医学部診療班による報告書1記載のとおり

(イ) 被爆者の遮蔽状況と脱毛発現率の状況

別紙東京帝国大学医学部診療班による報告書2記載のとおり

前記調査結果によると,脱毛の発現率は屋外解放のもの,屋外陰にあったものが最も高く,コンクリート建物内のものが最も低く,木造家屋内のものはその中間率を示し,これによって,コンクリート建物及び木造建物の遮蔽能力を窺うことができる。

(ウ) 爆心地から遠距離で被爆した者にみられた症状について

放射能症(脱毛,皮膚溢血斑及び壊疽性または出血性口内炎症のうち,1症例以上を示したもの)と規定されたものは,爆心地から2.8キロメートル以遠には発見されなかった。しかし,放射能症距離別発生頻度,脱毛距離別発現頻度と近似する状態を示す口内炎症及び悪心,嘔吐の距離別発現頻度曲線は,爆心地からの距離が遠ざかるに伴って低くはなるが,これらの症状を呈するものは3.1ないし4.0キロメートル間においても明らかに存在しており,当該距離内においても,わずかながら放射能障害症状を呈する症例を確認することができると考えられる。他方,発熱,下痢,食欲不振及び倦怠感を調査すると,やや不規則ではあるが,5キロメートルまで,かなりの発生率を示している。これらをもって,放射能威力による災害範囲と定めることはできないが,ただし,これらの症状の初発時期と距離との関係を検査すると,発熱,口内炎症及び下痢は被爆当日に,4キロメートルまで,食欲不振,悪心,嘔吐及び倦怠感は被爆当日に5キロメートルまで,かなりの発生をみており,各症状の発現が何らかの意味において,原子爆発に関係があることを明示している。

ウ P28らによる「広島市における原子爆弾被爆者の脱毛に関する統計」(昭和28年で,以下「P28報告」という。)(甲全8の2の文献5,甲全77の7,85の18)

東京帝国大学医学部放射線科のP28は,東大報告の調査対象者5120名中,707例にみられた脱毛の例について統計的観察を行い,その結果を以下のとおりまとめている。

(ア) 爆心距離による出現頻度

脱毛症の爆心距離による出現頻度は,別紙P28報告記載のとおりである(甲全8の2の文献5の第2表)。

脱毛出現最大距離は,爆心地より水平距離にして2.8キロメートルで,全脱毛者の約90パーセントは2キロメートル以内にある。

(イ) 爆心距離と屋内・屋外発症者数との関係

屋内・屋外で脱毛出現率が多いと考えられる距離は,爆心地からの距離が,コンクリート内で0.1ないし1.0キロメートル,木造内で0.6ないし1.5キロメートル,屋外陰で0.6ないし1.5キロメートル,屋外解放で1.1キロメートルないし2.5キロメートルとなっており,木造内及び屋外陰は原子爆弾の放射線に対して同程度の防護作用をなしたものと推測される。

(ウ) 脱毛部位

脱毛症707例の全例に頭部の脱毛がみられた。頭部以外の脱毛症が併発したものは38例で,脱毛症例707例に対して5.4パーセントを占めている。部位としては,眉,鬢髭,脇下,陰部に脱毛がみられた。

(エ) 考察

原子爆弾による災害は,今回が人類において最初のものであり,放射線の種類,強さ,作用などに関しては,現在明らかにされていない点もあるため,調査した人々の観察や意見が必ずしも一致せず,従来の考え方をもってしては常識的でない事実も報告されている。したがって,この報告においても,脱毛の出現範囲,部位,方向性等に関して従来の放射線生物学的な考え方と多少矛盾し,または,理解に苦しむような点もあるが,特に修正は加えていない。

この調査は,被爆後3ないし4か月目に行われたものであり,一部の脱毛は既に回復していたり,多数の調査票中には,記載上の誤りも含まれていることが推認される。しかし,脱毛調査としては,多数例であり,かつ,脱毛は放射線生物学的にみて人間の受けた放射線量を忠実に表示する一つの標準となり得るので,統計的に観察した。

脱毛の出現範囲は,2.8キロメートルとなっているが,統計によっては1.5キロメートル以内との報告もある。遮蔽との関係は,木造内に最も多く,次いで屋外解放,陰,コンクリートとなっている。脱毛時期は,早い者は被爆後数日から始まっているが,多くは2週間前後に多発している。方向性に関しては,放射線がガンマ線を主とし,かつ,散乱線が多いと考えられるので,一般に方向性が認められないのは当然であろうが,7例(約1パーセント)には方向性が認められた。この原因については,不詳である。

エ P29による医師の「原爆残留放射能障碍の統計的観察」(昭和32年10月で,以下「P29報告」という。)(甲全7)

広島市ε町在住のP29医師は,広島市の一定地域(爆心地から2.0ないし7.0キロメートに及ぶ地域)に住む被爆者生存者全部について,昭和32年1月から同年7月までの間,個別に調査員を派遣して3946名について調査を行い,その結果を以下のとおりまとめている。

(ア) 原爆直後(原爆投下後3か月以内。以下同様。),中心地(爆心地から1.0キロメートル以内。以下同様)に入らなかった屋内被爆者1878名について

対象者1878名中,有症者(原爆放射能障碍及び同熱障碍を受けた人で,急性原爆症の症状を認めた者。以下同様)は380名で,その有症率は20.2パーセントであった。被爆距離別の有症率は被爆距離と反比例し,被爆距離が短いほど,高率であった。また,急性原爆症の各症候の発現率も,被爆距離が短いほど高く,それが長いほど,低率となっており,その低下の具合はかなり整然としていて,別紙P29「原爆残留放射能障害の統計的観察」表1ないし表4の屋内被爆者A群の欄記載のとおりとなる(甲全7の表1)。

(イ) 原爆直後,中心地に出入りした屋内被爆者1018名について

対象者1018名中,有症者は372名で,その有症率は36.5パーセントであった。これらの有症者に特異な点は,被爆距離別の有症率が,被爆距離の延長に伴って低率を示さない点である。また,急性原爆症の各症候の距離別発現率も被爆距離に反比例して,整然と低下はしておらず,別紙P29「原爆残留放射能障害の統計的観察」表1ないし表4の屋内被爆者B群の欄記載のとおりとなる(甲全7の表2)。

(ウ) 原爆直後,中心地に入らなかった屋外被爆者652名について

対象者652名中,有症者は287名で,その有症率は44パーセントであり,(ア)及び(イ)の場合より高率である。被爆距離別有症率は,(ア)の場合と同様,被爆距離に反比例して低下している。急性原爆症の各症状の発現率も被爆距離に反比例している。屋外被爆者が対象なので,熱や火傷の頻度が屋内被爆者より高いが,熱,火傷等の頻度を除いた他の症状で比較しても,(ア)及び(イ)の場合よりも有症率は高く,別紙P29「原爆残留放射能障害の統計的観察」表1ないし表4の屋外被爆者A群の欄記載のとおりとなる(甲全7の表3)。

(エ) 原爆直後,中心地に出入りした屋外被爆者398名について

対象者398名中,その有症率は203名で,その有症率は51パーセントであった。これは,(ア)ないし(ウ)と比較して最も高率であり,別紙P29「原爆残留放射線障害の統計的観察」表1ないし表4の屋外被爆者B群の欄記載のとおりとなる(甲全7の別表4)。そして,この症例に特異な点は,被爆距離別有症率が,その距離に反比例して低率を示さない点であり,これは(イ)の場合と類似している。

(オ) 考察

直接被爆者では,被爆距離が短いほど,急性原爆症の有症率が高く,反対に被爆距離が長いほど,有症率が低い。また,被爆直後に中心地に入らなかった屋内被爆者の有症率は平均20.2パーセントであるが,屋内で被爆して,その後中心地に入った者の有症率は36.5パーセントで,前者より高率である。また,屋外被爆者でも,その直後,中心地に入らなかった者の有症率は平均44.0パーセントであるが,屋外被爆者であって,直後に中心地に入った者の有症率は51.0パーセントで,上記のいずれの場合より高率であった。もともと,屋外被爆者には,熱,火傷の頻度が高いが,これらの頻度を除外して,屋内被爆者の場合と比較しても,なお,屋外被爆者の有症率は高率であった。また,原爆の瞬間は屋内,屋外のいずれにあっても,その後,直ちに中心地に入った者には有症率が高い。

オ P30による「原子爆弾症(長崎)の病理学的研究報告」(昭和28年)(甲全121の資料1)

P31専門学校研究治療班のP30らは,昭和20年9月14日から約1週間にわたり13例の剖検を行い,その結果を以下のとおりまとめている。前記13例は,長崎原爆被爆後,37日から42日目に死亡した例であるところ,全て亜急性原子爆弾症により死亡したものであり,被爆距離別にみると,爆心地から500メートルが1例,800メートルが1例,1キロメートルが7名,1.5キロメートルが1例,2キロメートルが2例,3キロメートルが1例である。

カ 厚生省公衆衛生局による「原子爆弾被爆者実態調査 健康調査および生活調査の概要」(昭和42年11月で,以下(以下「厚生省報告」という。)(乙全22)

厚生省公衆衛生局が,昭和40年11月に原子爆弾被爆者の健康調査を行い,その結果をまとめたものであり,症状・被爆地別にみた被爆後2か月以内の身体異常発現率(総数)については,別紙厚生省公衆衛生局「原子爆弾被爆者実態調査」記載のとおりである。そして,被爆後2か月以内の身体異常の発現率をみると,近距離で被爆した者ほど,各種の身体異常の発現率が高く,爆心地からの距離との間に密接な関係がみられると指摘している。

キ P32らによる「長崎ニ於ケル原子爆弾災害ノ統計的観察」(昭和57年で,以下「P32報告」という。)(甲全8の2文献番号4,84の26)

長崎医科大学外科第1教室のP32教授らは,昭和20年10月から同年12月までの間,長崎市の地区ごとに訪問をし,当時,その地に実在した者について,被爆時の居所,受傷状況,受傷後の経過,転帰などの調査を行い,脱毛に関する調査結果を以下のとおりまとめている。

(ア) 距離別脱毛の頻度

爆心地からの距離が2ないし3キロメートルの地点までの被爆者については,生存者1739名中56名(3.2パーセント),死亡者10名中2名(20パーセント)で,爆心地からの距離が3ないし4キロメートルの地点までの被爆者については,生存者1079名中19名(1.8パーセント)である。

(イ) 環境別脱毛の頻度

脱毛の頻度について,屋外開放の場合,生存者例545名中109名(20パーセント),死亡者例68名中13名(19.4パーセント),屋外陰の場合,生存者例674名中58名(8.6パーセント),死亡者例33名中16名(48.5パーセント),屋内(木造)の場合,生存者例3198名中355名(11.1パーセント),死亡者例184名中54名(29.3パーセント),屋内(コンクリート)の場合,生存者例776名中120名(15.5パーセント),死亡者例44名中12名(27.3パーセント),壕内の場合,生存者例327名中9名(2.7パーセント),死亡者例中4名中2名(50パーセント)である。生存者では,脱毛の発生頻度は,屋外開放が最も多く,次いで,コンクリート屋内,死亡者では,屋外開放が,屋外陰よりはるかに少ないが,これは脱毛の期を待たずに死亡したためと考えられる。

ク P33らによる「原爆被爆者における脱毛と爆心地からの距離の関係」(平成10年で,以下「P33報告」という。)(甲全84の24,乙27,179)

放影研統計部のP33らは,寿命調査対象者である被爆者(原爆時に爆心地から10キロメートル以内にいた人)のうち,被爆線量の推定されている広島,長崎の8万6632人を対象とし,昭和25年以降の約10年間に,面接により被爆時の場所や遮蔽状況などを調べる際に,急性症状に関する資料(ただし,被爆から数年後の記憶に基づくもの。)も入手し,原爆後60日以内に起こったと報告された脱毛のみを陽性とし,脱毛の程度を軽度(4分の1未満),中等度(4分の1以上,3分の2未満),重度(3分の2以上)に分類して調査し,その結果を以下のとおりまとめている。脱毛の陽性を報告した被爆者数は,広島で対象者5万8500人中3857人(うち重度1120人),長崎で対象者2万8132人中1349人(うち重度287人)であった。さらに,脱毛と爆心地からの距離について調査したところ,爆心地から2キロメートル以内での脱毛の発現率は,爆心地に近いほど高く,爆心地からの距離とともに急速に減少し,2キロメートルから3キロメートルにかけて緩やかに減少し(3パーセント前後),3キロメートル以遠でも1パーセント程度のものに,脱毛が認められるが,ほとんど距離とは独立である。脱毛の程度についてみると,遠距離にみられる脱毛はほとんど全て軽度であったが,2キロメートル以内では重度の脱毛の割合が高かった。このようなパターンを総合すると,3キロメートル以遠の脱毛が,放射線以外の要因(被爆によるストレスや食糧事情)などを反映しているのかもしれないことが示唆された。

ケ P34らによる「長崎原爆における被爆距離別の急性症状に関する研究」(平成10年で,以下「P34報告1」という。)(甲全85の20,111の6)

長崎大学医学部付属原爆後障害医療研究施設資料収集保存部資料調査室に所属するP34らは,被爆者手帳保持者を対象として原爆被爆者調査から得られた急性症状に関する情報をもとに,被爆距離が3.5キロメートル以内の人から3000人(被爆距離2ないし2.4キロメートルの者が672人,2.5ないし2.9キロメートルの者が889名)を無作為に抽出し,これらの者に対して急性症状の発生頻度を調べることとし,調査票にあった嘔吐,下痢,発熱,脱毛,皮下出血,鼻出血,歯肉出血,口内炎及びその他の9症状の発症頻度と被爆距離との関連,脱毛については距離別の頻度,発症時期及び程度について調査を行い,その結果を以下のとおりでまとめている。

対象者3000人のうち,嘔吐,下痢,発熱,脱毛などの症状があった人は1086人(36.2パーセント)で,被爆距離が1.5キロメートル未満では約60パーセントの人に症状があった。距離が離れるに伴い,症状の頻度は減少し,1.5ないし1.9キロメートルで40パーセント,2.0キロメートル以遠では30パーセント以下となった。症状の頻度は男女ともにどの距離区分でも同様であり,性別による差異はみられない。症状内容は,下痢(26パーセント),発熱(18パーセント),脱毛(12パーセント),歯肉出血(10パーセント),嘔吐(10パーセント),皮下出血(7パーセント),口内炎(7パーセント),鼻出血(5パーセント),その他(5パーセント)となっている。そして,距離別の脱毛頻度については,被爆距離2.0ないし2.4キロメートルでは672名中41名(6.1パーセント),2.5ないし2.9キロメートルでは889名中32名(3.6パーセント)となっている。また,距離別の脱毛の発症時期について,距離の分類を0.5ないし1.4キロメートル,1.5ないし1.9キロメートル,2.0ないし2.4キロメートル,2.5ないし2.9キロメートルに分類して調査したところ,どの距離でも8月中に約60パーセントが発症し,9月中に約30パーセントが発症している。このような調査結果は,ア項の日米合同調査団,キ項のP32報告による調査結果と一致している。さらに,脱毛の程度は,近距離ほど中等度及び重度の割合が多くなっている。

これらの調査結果からの考察として,急性症状の発症について,日米合同調査団やP32報告による調査結果と同様の結果が得られ,急性症状のうち,下痢及び発熱が多いという結果も前記2調査による結果と同様であった点については,これらの急性症状には,感染症による下痢や発熱といった放射線以外の要因によるものが含まれていることによるのかもしれない。だが,脱毛や皮下出血は,これまで放射線以外の要因では起こりにくいと考えられているので,今回,脱毛についてはさらに詳しく調査をしたところ,脱毛の頻度では被爆距離と発症頻度との相関がみられ,被爆距離2.0キロメートル以遠でも脱毛が観察され,脱毛の発症時期や程度についても,被爆距離2.0キロメートル以上についても,2.0キロメートル未満の群と同様の傾向があり,距離との相関がみられた。これらが放射線に起因するものかどうかについては,さらに詳細な調査が必要である。

コ P35らによる「広島と長崎の原爆被爆生存者における急性放射線症状とその後のがん死亡との関係に関する観察」(平成12年2月で,以下「P35報告」という。)(甲全111の1,112の7)

P35らは,放影研業績報告として,寿命調査対象者による調査結果から得られたデータの解析を行い,その結果を以下のとおりまとめている。

被爆後60日以内に脱毛があったと報告されている者では,急性放射線症状を経験しなかった者に比べ,電離放射線推定被爆線量と白血病死亡率との間にみられる線形の線量反応関係の勾配が2.5倍も急であると認められた。一方,白血病を除くがん死亡率における線量反応関係には脱毛の有無による差はほとんどなかった。白血病に関するこのような結果には,年齢または性別による違いはなく,両市で同じであり,この観察結果から,放射線の早期影響を経験した者は,同程度の放射線被爆がありながら,脱毛を呈した者は,これを呈さなかった者に比べ,追跡調査期間中,白血病で死亡する可能性が高かったことが分かる。そして,線量推定の確率誤差が35パーセント,線量反応が線量の3次の関数であると仮定した場合にも,脱毛のあった群における白血病相対的リスクの過剰は,1.89倍も高く,白血病と脱毛との関連は統計的に有意(P値0.10の水準)であった。

サ P34らによる「長崎原爆による急性症状(脱毛)と死亡率との関連」(平成12年3月で,以下「P34報告2」という。)(甲全10,46,112の9)

P34らは,昭和45年長崎市在住の被爆者手帳所持者のうち,長崎原爆に直接被爆し,急性症状,被爆距離及び遮蔽状況の情報があり,推定被爆線量の得られている9910人について,昭和45年1月1日から平成9年12月31日までの28年間を観察期間とし,この期間の死亡を観察し,昭和32年から昭和44年の間に本人の申告に基づいて得られた急性症状のうち,放射線以外の要因が最も少ないと考えられる脱毛について解析を行い,その結果を以下のとおりまとめている。

対象者9910人のうち,観察期間中に3236人が死亡し,悪性新生物による死亡が830人,脳血管疾患が520人,心疾患が556人などである。被爆線量区分ごとの脱毛数,がん死亡数及びそれらの割合を考察すると,被爆線量が高いほど,脱毛,がん死亡ともに頻度が増加している。また,がん死亡の頻度は脱毛あり(14.9パーセント)の方が脱毛なし(8.2パーセント)よりも高かった。観察期間14年目から脱毛ありの方が脱毛なしよりも生存率が低くなり,がん死亡の場合,脱毛ありの人は,脱毛なしの人より,ハザードは1.52倍高く,被爆線量が1グレイ高くなるごとに,1.1倍高くなる。死因ががん以外の場合は,ハザードに対する有意な影響はみられなかった。

以上の調査結果より,同程度の被爆線量であっても,脱毛ありの人のがん死亡のハザードは脱毛なしの人に比べて高く,同様の結果は,P35らによる放影研の寿命調査集団を対象とした脱毛と白血病死亡の観察でも得られている。その理由としては,脱毛ありの人は,脱毛なしの人に比べて放射線感受性が高いのかもしれないということ,被爆線量に推定誤差があり,脱毛ありの人の被爆線量は実際にはもう少し高かったのかも知れず,今後の慎重な検討が必要であるとされる。

シ P34らによる「被爆状況別の急性症状に関する研究」(平成12年3月で,以下「P34報告3」という。)(甲全85の19)

P34らは,長崎原爆の被爆者のうち被爆距離が4キロメートル未満の者1万2905人を対象として,被爆距離,被爆時の遮蔽状況,急性症状に関する調査を行い(被爆者手帳申請時の調査票による。),その結果を以下のとおりまとめている。急性症状のあったのは4685人(36.3パーセント)で,脱毛についての被爆距離別,遮蔽別の発生頻度は,遮蔽ありの場合は2.0ないし2.4キロメートルで5.5パーセント,2.5ないし2.9キロメートルで2.8パーセント,遮蔽なしの場合は2.0ないし2.4キロメートルで12.5パーセント,2.5ないし2.9キロメートルで8.6パーセントであった。このような結果は,被爆直後に行われた日米合同調査報告(2.1ないし3.0キロメートルの被爆距離で脱毛の発現率は3.1パーセント)による調査結果と一致している。被爆距離が2キロメートル以遠でも,脱毛の発現率との間に相関関係がみられ,また,遮蔽の有無により脱毛率の発生頻度に明らかな差がみられた。このことから,直ちにこれらの要因が放射線であると判断することはできず,放射線との因果関係を調査するためには,個人レベルで染色体調査などを行う必要がある。

ス P34らによる「長崎原爆の急性症状発現における地形遮蔽の影響」(平成16年4月で,以下「P34報告4」という。)(甲全111の7)

P34らは,長崎原爆について,地理情報システムを利用して,地形的に放射線が遮蔽された地域を割り出し,急性症状の発現における地形遮蔽の影響について検討することとし,爆心地から南東側の約2.5キロメートル付近を中心とする5つの町を遮蔽地域とし,爆心地からの距離が遮蔽地域とほぼ同じで,爆発点から可視地域となる7つの町を無遮蔽地域とし,直接被爆者で昭和45年現在,長崎市に在住し,急性症状の情報が得られた9910人のうち,遮蔽地域で被爆した1601人,無遮蔽地域で被爆した1715人について,嘔吐,下痢,発熱,脱毛,皮下出血,鼻出血,歯肉出血及び口内炎の発現頻度を比較する調査を行い,その結果を,以下のとおりまとめている。

遮蔽地域と無遮蔽地域における各急性症状の発現頻度は,嘔吐がそれぞれ1.5パーセント,5.1パーセント,下痢がそれぞれ9.5パーセント,22.3パーセント,発熱がそれぞれ3.9パーセント,12パーセント,脱毛がそれぞれ1.9パーセント,5.1パーセント,皮下出血がそれぞれ1.2パーセント,1.8パーセント,鼻出血がそれぞれ0.9パーセント,3.8パーセント,歯肉出血がそれぞれ2.5パーセント,4.3パーセント,口内炎がそれぞれ2.6パーセント,4.0パーセントであり,急性症状の発現頻度は,全ての症状について,遮蔽地域の方が,無遮蔽地域よりも低かった。このうち脱毛は放射線以外の要因では起こりにくく,自覚的及び他覚的に分かりやすい症状であることや,脱毛の発現頻度の比較について,カイ2乗検定の結果は,P<0.001で有意であった。また,個人についての遮蔽状況として,家屋等による遮蔽の有無別にみた場合も,遮蔽のある場合の方が,遮蔽のない場合に比べて低かった。遮蔽地域と無遮蔽地域における脱毛の程度別発現頻度についても,遮蔽地域での軽度と重度の頻度は,それぞれ1.8パーセント,0.1パーセントであり,無遮蔽地域での軽度と重度の頻度は,それぞれ4.0パーセント,1.1パーセントであり,遮蔽地域における重度脱毛の割合は低かった。さらに,急性症状の程度別頻度についても,遮蔽地域と無遮蔽地域に有意差が認められた。

以上の調査結果からの考察として,遮蔽地域と無遮蔽地域における脱毛の発現頻度の違いは,被爆放射線量の違いを示していると考えられ,遮蔽地域で重度脱毛が2人観察されたところ,これらの被爆当時の詳細は不明であるが,遮蔽地域の一部はフォールアウト(放射性降下物)があった地域でもあることから,その影響の可能性がある。

セ P36による「原爆被害者調査の結果に関する分析データ集(分析対象者6744人の集計結果から)」(平成17年9月で,以下「P36報告」という。)(甲全72の1ないし3,73の1,2,75)

一橋大学大学院社会学研究科のP36教授は,日本原水爆被害者団体協議会(被団協)が,昭和60年に実施した「被爆40年・原爆被害者調査」の際に回収された調査票1万3168枚のうち,原爆体験の重さ及び深さを測定し,被爆者を層化(グループ分け)するために必要な設問に全て有効な回答が得られている6744枚を選定し,これらの分析を行い,その結果を以下のとおりまとめている。

(ア) 被爆状況と被爆距離別にみた,急性放射線障害の有無

直接被爆者4863名のうち,放射線被爆による急性症状と捉え得る症状(吐き気,下痢,食欲不振,発熱,脱毛,皮膚の斑点など)があった者の割合は,爆心地から距離別にみると,被爆距離が1キロメートル以内の者407名中337名(82.8パーセント),2キロメートル以内の者2111名中1483名(70.3パーセント),3キロメートル以内の者1077名中582名(54パーセント),3キロメートルを超える者1251名中507名(40.5パーセント)で,爆心地からの距離が近くなるほど規則的に大きくなり,爆心地から3キロメートルを超える距離における被爆でも,高率で急性症状が発症していることが示された。これを脱毛について,爆心地からの距離別にみると,3キロメートル以内の者582名中156名(26.8パーセント),3キロメートルを超える者507名中116名(22.9パーセント)となっている。

(イ) 被爆状況と被爆距離別にみた,急性放射線障害の症状数

放射線被爆による急性症状と捉え得る症状の個数を,5段階(1ないし2個,3ないし4個,5ないし7個,8ないし10個,11ないし16個)に区分し,爆心地からの距離別にみると,症状が1ないし2個の者の割合は,爆心地からの距離が遠くなるほど,規則的に大きくなるのに対し,症状が5個以上の者の割合は,爆心地からの距離が近くなるほど,規則的に大きくなる。急性症状の重さという観点からみても,被爆距離との関連性があることが判明した。

(2) 入市被爆者に生じた放射線被爆による急性症状と同様の症状等に関する調査結果

ア P29報告(昭和32年10月)(甲全7,甲全8の2の文献番号6)

P29医師は,P29報告において,昭和32年1月から同年7月にかけて,広島原爆投下直後に同市に入市した者629名について,放射線による急性症状と同様の症状の有無や程度,被爆後3か月間の行動等を個人ごとに調査を行い,その結果を以下のとおりまとめている。

(ア) 原爆直後,入市し,中心地(爆心地から1.0キロメートル以内。以下同様)に入らなかった非被爆者104名の急性症状様症状の発症率

該当者104名中,放射線による急性症状と同様の症状を発症した者はいなかった。

(イ) 原爆投下直後に入市し,中心地に出入りした非被爆者(525名)の急性症状様の症状の発症率

別紙P29「原爆残留放射能障害の統計的観察」表6記載のとおりである。すなわち,該当者525名中,有症者は230名であり,有症率は43.8パーセントである。該当者525名中には,一般人405名と,広島県安佐郡安佐町消防団員120名が含まれているところ,後者の集団については,強壮な壮年ないし中年の人達であったことや,各々の生活環境がほぼ等しく,入市の日時,作業地,作業時間,作業目的が一定していたため,この団員の勤労作業後の健康状態を調査することは,統計上,甚だ有意義と思われた。この消防団は,原爆投下の翌日8月7日及び同月8日の午前8時に入市し,市内横川町(爆心地より1.5キロメートル)から爆心地を経て山口町(爆心地より1.0キロメートル)に至る間の被爆者の救助と道路疎開作業を行い,団員の中には,その後も引き続き5日間以上,中心地付近で人探しその他に従事した者があったが,午後4時に作業をうち切って帰村している。作業中に広島の河川の水を飲用する者はなかった。団員中,帰村後,1ないし5日後に発熱,下痢,粘血便,皮膚粘膜の出血,全身衰弱等を来して床に伏すに至った者が多数あったが,その家族(広島市内に入市しない者)には同様の症状にかかったものはなかった。そして,調査対象者について,入市後にみられた発熱,下痢,脱毛等の症候群は,全く,急性原爆症そのままであり,該当者中,原爆直後から20日以内に中心地に出入りした者に有症率が高く,1か月後に中心地に入った者の有症率は極めて低かった。そして,該当者525名中,その26.4パーセントに発熱を認め,その10.3パーセントは3週間以上も高熱が続いた。該当者中,30.8パーセントに急性下痢を認め,その11.6パーセントは,赤痢同様の高熱と粘血便を訴え,この治療は数日より3ないし4か月を要した。

(ウ) 原爆直後に入市し,中心地に出入りした非被爆者525名の中心地滞在時間と急性原爆症との関係

別紙P29「原爆残留放射能障害の統計的観察」表7記載のとおりであり,該当者525名中,中心地滞在時間が4時間以下の場合は有症者が少ないが,10時間以上の場合は,その有症率が高い。また,原爆直後から引き続いて2週間以上滞在した者では,その78.1パーセントに発熱,下痢その他を認めた。

(エ) 考察

原爆時に広島市内にいなかった非被爆者で,原爆直後に,広島市に入ったが中心地に出入りしなかった104名については,その直後,急性原爆症らしい症候は見いだされなかったのに対し,同様の非被爆者で,原爆直後に中心地に入り,10時間以上活動した者のうち43.8パーセントが急性原爆症同様の症状を惹起し,その20パーセントの者には高熱と粘血便のあるかなり重症の急性腸炎が認められた。

そこで,被爆者及び原爆直後,中心地に入市した非被爆者にみられた発熱,下痢の原因について考察すると,これらの症状は,当時の不良な環境や不衛生などで,細菌性の赤痢が合併して起こった現象であるとする者がある。しかしながら,被爆生存者の調査では,被爆距離が短いほど,発熱,下痢の頻度が多く,被爆距離が長くなるほど,規則的に頻度が少なくなっていくのであり,このようなことは,赤痢の流行にはみられないし,原爆直後に入市したが,中心地に入らなかった者には,発熱,下痢はみられないのに対し,同じ非被爆者でありながら,原爆直後に中心地で活動した者のうち30パーセントの者に発熱,下痢がみられ,しかも,その家族にはそのような症状が発現していないのである。また,当時行われた,多数の原爆屍の剖検記録にも消化管全体にわたって,粘膜の壊死等は記録されているものの,大腸のみに限局した化膿性出血性腸炎は記載されていない。このような諸点からみると,急性原爆症の急性下痢は,原爆放射能による腸粘膜破壊のためと考えるのが妥当である。

イ 広島市による「広島原爆戦災誌」(昭和46年8月)(甲全8の2文献番号7,甲47,乙全31)

広島市は,昭和46年8月,広島原爆直後,広島市の爆心地付近に入市して救援活動等を行った,安芸郡江田島幸の浦基地(爆心地から12キロメートル)の陸軍船舶練習部第10教育隊201名と豊田郡忠海基地(爆心地から50キロメートルP37高等女学校駐屯)の陸軍船舶工兵補充隊32名について,救護活動をした場所,期間,救援内容,健康状態についてのアンケートを行い,その結果を以下のとおりまとめている。

(ア) 対象者の活動内容と期間

幸の浦基地救援隊は,原爆投下当日,基地から舟艇により宇品に上陸,正午前に市内に進出し,直ちに活動を開始し,同日夜から翌7日早朝にかけて中央部に進出し,主として,大手町,紙屋町,相生橋付近,元安川で活動し,1週間後の8月12日ないし13日まで活動して,帰還した。

忠海基地救援隊は,8月7日朝から市周辺(東練兵上,大河,宇品,その他主要道路沿いなど)の負傷者の多数集結場所において,救援を行う。

(イ) 救護作業の内容

死体の収容と火葬に従事した者が最も多く,負傷者の収容と輸送,道路・建物の清掃,遺骨の埋葬,収容所での看護,焼け跡の警備,食糧配給などである。

(ウ) 障害の状況

a 出動中の症状

2日目ころから,下痢患者多数続出し,食欲不振もみられた。

b 基地帰投直後の症状(軍医診断)

ほとんど全員が白血球数3000以下で,下痢患者(ただし,重患はなし。)が出て,発熱するもの,点状出血,脱毛の症状の者が少数ながらあった。

c 復員後,経験した症状

168人に倦怠感,120人に白血球数減少,80人に脱毛,55人に嘔吐,24人に下痢がみられた。

d アンケート時(昭和46年)の身体の具合について

112人に倦怠感,40人に胃腸障害,38人に肝臓障害,27人に高血圧,27人に鼻や歯の出血,23人に白血球数の減少,20人にめまい,15人に貧血などがある。なお,右のような症状は,2,3種の症状が1人の身体に出ている場合が多数で,発病者のうち,死体及び負傷者の収容作業従事者の占める割合が最も多く,次いで,火葬,負傷者輸送の順である。

ウ P39らによる「原爆放射線の人体影響1992」中の「早期入市者の末梢血リンパ球染色体異常」(平成4年3月)(甲全111の8)

広島大学原爆放射能医学研究所助教授P39らは,広島原爆投下後の翌日8月7日に広島市内に入市し,旧西練兵場付近で救護活動などの作業に4ないし7日間滞在して従事した広島県賀茂郡在住の賀北部隊工月中隊員20名(入市被爆者としては最も多くの量を被爆したと考えられる。)と原爆投下直後から3日以内に爆心地付近に入った者20名の合計40名を対象として,原爆投下後の医療用放射線被爆の回数や内容などを詳細に聴取し,末梢血を採取のうえ,リンパ球の染色体分析による調査を行い,その結果を以下のとおりまとめている。

早期入市被爆者を滞在期間の長短と医療被爆の多少で4群に分類し,染色体異常の頻度を計測すると,長期滞在で,かつ,医療被爆の多い群(賀北部隊の隊員10名で,T65Dに基づく推定線量が平均13.9ラドの群),長期滞在者の群(賀北部隊の隊員10名で,同推定線量の平均が4.8ラドの群),短期滞在で,かつ,医療被爆の多い群(同推定線量の平均が1.9ラドの群),短期滞在者の群(同推定線量の平均が1ラドの群)の順で染色体異常がみられ,滞在期間の差が染色体異常に反映され,また,長期滞在者,短期滞在者のいずれの群でも医療被爆による染色体異常が考えられる結果が得られた。

エ P41による「2004年くまもと被爆者健康調査プロジェクト04」(平成17年8月で,以下「P41報告」という。)(甲全81の1ないし4)

P41医師は,遠距離被爆者及び入市被爆者の健康障害の実態を解明することを目的として,平成16年6月から平成17年3月までの間に,58歳以上の熊本県内在住者のうち,被爆者合計278名と非被爆者530名を対象として,疾患発生状況の聞取調査を行い,その結果を以下のとおりまとめている。2キロメートル以遠の被爆または入市被爆のみの群については,65パーセントの者に,昭和20年年末までに,下痢,ひどいだるさ,食欲不振,吐き気,発熱などの症状があり,12.7パーセントの者に脱毛があり,入市被爆者のみの群については,71パーセントの者に前記と同様の急性症状があり,8.8パーセントの者に脱毛があった。

オ P36報告(平成17年9月)(甲全73の1ないし4)

P36報告によると,入市被爆者1414名中548名(38.8パーセント),救護被爆者199名中57名(28.6パーセント)に放射線被爆による急性症状と捉え得る症状があったとされている。また,入市被爆者の場合でも,ぶらぶら病があったという者が56パーセント,被爆により健康状態が変わったとする者(すっかり変わったとする者及び少し変わったとする者の合計)の比率は40パーセントを超えており,その比率は爆心地から3キロメートルを超えて直接被爆をした者の比率と変わらない。入通院の頻度についても,長期入院率,しばしば入院した者の率,しばしば通院した者の率は,直接被爆をした者全体の比率と入市被爆者の比率とは同じである。

カ P42弁護士らによる「P43高等女学校入市被爆者についての調査報告書」(平成18年2月)(甲全82)

P42弁護士らは,昭和20年8月19日から同月25日までの間に,P43高等女学校から,救護隊として派遣され,爆心地から約350メートルの距離にある本川国民学校において救護活動に従事した23名(被爆当時15歳ないし16歳の者)を対象として,入市被爆の実情や健康状態の調査を行い,その結果を以下のとおりまとめている。本川国民学校で救護活動に従事した23名のうち,平成17年12月31日現在の死亡者は13名,生存者は10名で,生存率は43パーセントである。調査対象者の生存率は,平成16年簡易生命表による生存率と比較して,非常に低率である。死因が判明した死亡者11名の死因につき,白血病2名,卵巣がん,肝臓がん2名,胃がん,膵臓がんなどがん性の者が7名を占めた。また,生存者については,全員に急性症状がみられた。

(3) 急性症状の発生機序としきい値

ア 放射線基礎医学(第10版)(甲全76の2,乙全101)

放射線の量と急性症状の発生率,潜伏期間と症状との関係については,別紙「ヒトにおける全身照射,線量区分,症状,治療及び転帰(UNSCEAR,1998)のとおりである(乙全101の330pの表19-6)。

なお,P44らは,被爆者の重度脱毛の事例として2グレイ以下の被爆において,20パーセント程度の脱毛が生じるとしている。だたし,この記述については後に削除されている(乙全208)。

イ ICRP(国際放射線防護委員会)専門委員会Ⅰの課題グループによる「電離放射線の非確率的影響」(昭和62年)(乙全92)について

(ア) 皮膚

放射線照射による皮膚反応には,多様な影響が含まれ,重篤度及び発現時期は被爆の条件によって変わる。観察可能な最も早い変化は一過性紅班で,数時間以内に現れ,それは傷害を受けた上皮細胞がヒスタミン様の物質を放出するために起こる毛細血管の拡張によるものである。この初期反応は,典型的な場合は数時間続くだけなので,しばしば見落とされがちであり,その2ないし4週間後に,もっと濃く,もっと長時間継続する紅班の繰り返しが1回から数回現れる。線量が増すと,脱毛,乾性落屑及び表皮の壊死が起こり得る。表皮の基底層の増殖細胞の損傷が紅班と落屑の病因として決定的と思われるので,反応の重篤度を決めるのは,これらの細胞に対する線量である。そして,与えられた線量に対する反応の重篤度は,主として照射された皮膚の深さと面積に依存し,反応の重篤度に影響する他の要因としては,解剖学的な部位,血行,被爆組織への酸素供給,被爆者の年齢などであるが,解剖学的な部位についていうと,頭皮の放射線感受性は,手のひらと足底に次いで低い。

人の皮膚では,10平方センチメートルの面積に紅班を生じさせるエックス線あるいはガンマ線のしきい線量は,1回短時間に与えられる場合,6ないし8グレイとされている。毛嚢の損傷に対するしきい値は紅班のそれよい低い。低LET放射線の1回短時間照射の場合,3ないし5グレイの線量で,一過性脱毛が起こり得る。

皮膚に対する放射線の急性効果(紅班,脱毛等)は,主として表皮の基底層及び毛嚢球の増殖性細胞の傷害とその結果起こる表皮の細胞再生の妨害によるもので,これらの型の傷害が現れるまでの時間は,表皮に対応する細胞コンパートメントにおける細胞の交代動態と密接に関連している。

(イ) 消化器系

胃腸管の粘膜に対する放射線の影響は,ある点では皮膚に対する放射線の影響に対比し得るものである。口腔,咽頭,食道及び肛門の扁平上皮細胞からなる粘膜は,反応の速度で皮膚と似ているが,胃,小腸及び大腸の腺細胞からなる粘膜は,早く反応し,1回照射での耐容線量はもっと低い。粘膜上皮の増殖性細胞の死は,かなりの数の細胞が破壊されると,細胞再生を妨害するのに十分で,その結果,潰瘍を生じ,最終的には粘膜の障害を受けた部分が露出する。事故的全身被爆のように,もし,小腸の大部分が10グレイを超える線量を短時間に受けると,上述の影響のために,急性の致命的な赤痢様症状が引き起こされる。

ウ P45らによる「電離放射線障害に関する最近の医学的知見の検討」(平成14年3月で,以下「P45論文」という。)(甲全85の28,乙全194の添付資料)

(ア) 放射線被爆に伴う確定的影響

放射線の影響は被爆線量に着目して,確定的影響と確率的影響に区分される。確定的影響の特徴は,しきい線量を超えて被爆した場合,被爆線量の増加に伴い発生率が増加し,重症度が増加する。しきい線量以下の被爆では,症状は出ない。各臓器,組織の確定的影響のしきい線量は,放射線治療を受けた患者等の放射線被爆事例を中心にして求められており,ICRPの刊行物中で,被爆した人々の1ないし5パーセント(集団中,比較的感受性の高い人々)に症状が出現する線量をしきい値としている。急性放射線症は,確定的影響によって,発生率の増加,重症度が左右される。

(イ) 急性放射線症

確定的影響の中で最も重篤な障害は,短時間に全身が被爆したときに起こり,体幹など身体の主要部分が被爆し,数時間から数週間以内に現れる臨床症状の総称を急性放射線症という。その病態は,多くの組織や臓器の複合障害と位置づけられている。一般に,急性放射線症は約1グレイ以上の被爆で起きるとされている。被爆線量に依存して現れてくる臨床症状から,血液・骨髄障害,消化管障害,循環器障害,中枢神経障害に分けられる。病態と線量に関しては,以下のとおりとなる。

全身吸収線量(グレイ)

死亡をもたらす主な影響

生存期間(日)

3-5

骨髄の損傷

30-60

5-15

胃腸管及び肺の損傷

10-20

>15

神経系の損傷

1-5

また,急性放射線症は,時間的経過から,前駆期,潜伏期,発症期,回復期若しくは死亡期の4つの病気に分けられる。前駆期は,被爆後数時間以内に現れ,食欲低下,悪心,嘔吐,下痢が主な症状で,およそ1グレイ以上で現れることが多い。これらの症状は,線量が高いほど現れるまでの時間が短く,症状が重い。これらのことから,被爆線量を推定することができる。すなわち,1ないし2グレイでは,吐き気は10ないし50パーセントの被爆者に2時間から数時間後に現れるが,4グレイを超えるとほぼ全員に現れ,6グレイ以上では30分以内に現れるといった具合である。急性放射線症の症状及び検査としきい線量との関係は,以下のとおりとなる。

症状・検査所見

しきい線量(グレイ)

発現までの時間

悪心・嘔吐

48時間以内

末梢血リンパ球の減少

0.5

24-72時間以内

染色体異常

0.2

24時間以内

前駆症状では,この他にも,頭痛,意識障害,体温の上昇等がみられる。前駆期を過ぎると,一時的に前駆期の症状が消え,無症状な時期に入る。前駆期にみられることが多い皮膚の発赤や紅班も消失する。この潜伏期も線量に依存し,8グレイを超えるとほとんどないとされているが,P46臨界事故(以下「P46事故」という)では,これ以上の被爆があった者に潜伏期が観察されている。この潜伏期後には,多彩な症状が現れる発症期に入る。この時期に,典型的な後記の4つの障害が発症する。その後,治療が成功すれば,回復期に入るが,線量が高いと死亡に至る。

急性放射線症における前駆症状と線量・発症までの時間を表に現すと以下のとおり(IAEAのセーフティ-レポートシリーズ2)となる(甲全85の28の表3)。

セーフティ-レポートシリーズ2

線量

1-2Gy

2-4Gy

4-6Gy

6-8Gy

>8Gy

嘔吐

(時期)

(%)

2時間以降

1-2時間

1時間以内

30分以内

10分以内

10-50

70-90

100

100

100

下痢

(時期)

(%)

中等度

重度

重度

-

-

3-8時間

1-3時間

1時間以内

-

-

<10

>10

100

頭痛

(時期)

(%)

非常に軽い

軽い

中等度

重度

重度

-

-

4-24時間

3-4時間

1-2時間

-

-

50

80

80~90

意識

(時期)

(%)

影響なし

影響なし

影響なし

影響あり

意識喪失のことあり

-

-

-

-

数秒/数分

-

-

-

-

100(50Gy以上)

体温

(時期)

(%)

正常

微熱

発熱

高熱

高熱

-

1-3時間

1-2時間

<1時間

<1時間

-

10-80

80-100

100

100

また,急性放射線症の主な兆候については,以下のとおりである。

線量(Gy)

1-2

2-4

4-6

6-8

>8

潜伏期(日)

21-35

18-28

8-18

7以下

なし

主な症状

疲労感

発熱,感染

高熱,感染

高熱,下痢

高熱,下痢

脱力感

出血,脱毛,疲労

出血,脱毛

めまい

脱毛,意識障害

死亡率(%)

0

0-50

20-70

50-100

100

a 血液・骨髄障害

約0.5グレイを超える全身被曝では,リンパ球数が減少するが,1ないし2グレイを超える被曝では,リンパ球以外の白血球数(顆粒球),血小板,赤血球数も減少する。被曝事故では,全身均一な被曝がほとんどないため,たとえ高線量の被曝でも,被曝者の骨髄機能が残存していることが多いため,骨髄移植にも困難な点が生ずる。8ないし10グレイを超える被曝に対しては,他の臓器の障害も大きく,骨髄治療が奏功しても,多臓器障害で死亡することが多い。

b 消化管障害

前駆症状としての下痢のしきい線量は4ないし5グレイであり,約8ないし10グレイ以上の被曝で主症状としての下痢が現れるとされる。高線量の放射線被曝により,血管の透過性が亢進し,腸管内に水が出てくるために生ずるもので,腸管上皮がその幹細胞の死滅で再生できなくなり,重篤及び血性の下痢を起こし,水分・電解質の喪失,出血,吸収不良,感染などが生じる。

c 循環器障害

15グレイ以上の被曝で生じる。心筋は放射線に感受性は低いが,消化管障害,皮膚障害や血管の透過性亢進による水分,電解質の喪失により2次的にも循環不全が生じる。この場合は,より低い線量で起きる。

d 中枢神経障害

50グレイ以上の高線量の被曝では,不穏・見当識障害・運動失調・錯乱などが起きる。対症療法以外に有効な治療はない。

(ウ) 急性放射線皮膚障害

放射線による皮膚障害は,細胞分裂の盛んな基底細胞層が障害を受けることにより生ずる。数週間以内に生じる皮膚障害を急性放射線皮膚障害と呼び,短時間に約3グレイ以上の被曝で起こるとされている。被曝した身体部位(皮膚の厚さの相違など),被曝した皮膚面積などにより,皮膚症状のしきい線量が異なり,特に,全身被曝の場合,予後を大きく左右する因子にもなる。放射線による皮膚障害では,始めは痛みがなく,細胞死や組織死により表皮が脱落して,再生が起きなくなってから現れ,また,皮膚を構成する細胞により,放射線に対する感受性が異なるため,一律に患部の細胞,組織が障害を受けるものではない。障害の程度は,組織に付与されたエネルギーの総量,付与率,患部面積などにより,放射線による影響は,皮下,真皮組織への障害であるとともに,血管の障害でもある。初発症状は,発赤であり,通常は一過性である。およそ3グレイの被爆から現れる。それに引き続き,組織の腫脹が生じるが,その程度は線量によって異なる。時間の経過とともに,脱毛,色素沈着,落屑,水疱,細胞死や表皮の細胞増殖障害によって生じる疼痛性の潰瘍が現れる。被爆した部分の血管内皮細胞が障害を受けると,炎症反応が長期化し,血栓形成が起きる。被曝した皮膚の被曝線量は症状から推定可能であるが,症状がすぐに現れないため,患者は被曝したことに気付かないこともあり,また,いつ被曝したか,どういう放射線によるものか,症状の程度,被曝時間等が不明なことがあることも多い。

急性放射線皮膚障害の症状としきい線量との関係を表に表すと,以下のとおりとなる(甲全85の28の表5)。

症状

しきい線量(Gy)

発症までの時間

紅班

初期紅班(一過性)

二次性紅班

12-24時間

14-21日

脱毛

一過性脱毛

永久脱毛

14-18日

21日

落屑

乾性落屑

湿性落屑

8-12

25-30日

15-20

20-28日

水疱

15-25

15-25日

びらん・潰瘍

20

14-21日

壊死

25

21日

(エ) 同旨の見解として,P47の意見書や同人の証人調書(乙全10,156,193,194,205の1,2)がある。

なお,P47は,放射線による急性障害の症状は,特徴的な経過をたどることが知られているが,様々な疾病で現れる症状に似ている非特異的な症状が多いとしている。また,原爆被爆者の急性障害について,被爆による下痢は,少なくとも4グレイ以上の被爆をしたときに,被爆後3ないし8時間程度で出現することが経験上明らかとなっているので,真実,被爆による下痢がみられたとするならば,重度の脱毛が出現しているはずである。被爆後,下痢,脱毛,長時間続く倦怠感,歯茎からの出血などの症状があったとしても,このような症状は,放射線による急性障害としては,非特異的なものであるから,これらの症状があったというだけで,相当量の被爆があったということにはならないとし,当時の公衆衛生事情などに照らして考えると,吐き気,下痢,だるさ,脱毛などといった症状の原因は,放射線以外にあると考えるのが常識的判断であろうし,被爆による急性障害であれば,下痢等の症状が軽度で,回復した後にこれらの症状を繰り返すということはなく(重度であれば,予後は極めて悪い。),発熱,頭痛,倦怠感,下痢等の症状が長期間継続するという場合は,別の要因によるものと考えるのが妥当な判断であるとしている。

エ P48の意見書及び同人の証人調書(甲全35の1,2,96の1ないし4,97,98)

P49病院名誉院長のP48が,上記P47の見解について,平成19年10月9日付け意見書等で述べる指摘は次のとおりである。なお,同人は,昭和52年以来,広島において被爆者の臨床に携わっていた。

(ア) P47意見書にあるしきい線量は,急性放射線障害に際して観察された臨床症状であって,広島・長崎原爆被害の実態を基礎として定められたものではない。そして,急性放射線症のしきい線量は1970年代に既に確立していたが,当時はDS86はいまだ作成されておらず,T65Dが適用されていた時代である。

(イ) 放射線治療や被爆事故の場合と原爆の場合とでは被爆状況が異なる。原爆の場合には,医療用単一線源からの瞬間照射の状況とは異なり,原爆における脱毛という急性症状の発症の機序は単純ではない。また,原爆の場合は,初期放射線(ガンマ線,中性子線)の他に,地面からの誘導放射線(ガンマ線)を浴び,放射性を持った粉じんやほこりをかぶるなど,ベータ線による外部被爆や内部被爆(ベータ線,アルファ線)があった。

(ウ) 原爆被爆における脱毛の時期,態様は,被爆態様が異なるため,医療用被爆などとは異なる。原爆における脱毛には,1週間以内に生じ,あるいは1か月を経過して生じたもの,頭髪全体に生じあるいは頭髪の一部に生じたものなど,時期及び態様に多様性があり,これは被爆状況が多様であるために起こるものである。

(エ) 脱毛のしきい線量が3.5グレイとすれば,初期放射線量としては,爆心地から1キロメートルの範囲内に相当するところ,諸調査の結果では,1キロメートルを超えて脱毛がみられるのであって,しかも,爆心地からの距離に相関した発現頻度がみられているのであり,1キロメートル以遠の被爆者に発症した脱毛を放射線以外の原因によるものとすることはできない。

(オ) 毛母細胞に放射性物質が特異的に集積するという科学的知見はないが,抗がん剤の投与により脱毛が生ずる場合もあることから,血液を介した被爆が考えられないではない。

3  検討

(1) DS86に基づいて定められた旧審査の方針の別表9によると,爆心地から2キロメートルの地点における初期放射線量は,広島及び長崎において,それぞれ7センチグレイ,13センチグレイであり,誘導放射線はいずれも0である。それにもかかわらず,爆心地から2キロメートル以遠で被爆した者に脱毛,下痢等の急性症状がみられたとする調査結果が,上記のとおり,種々存在し,1審原告らは,これらの身体症状は放射線に起因する急性症状であって,遠距離被爆者であっても急性症状がみられた者については,相当量の放射線被爆があった旨主張し,1審被告らは,これらの身体症状は放射線に起因するものではないと主張するので検討する。

(2) まず,脱毛は放射線以外の要因では起こりにくく,自覚的及び他覚的に分かりやすい症状であるという特徴を有することから,2項で検討した資料のうち,被爆距離が2キロメートルを超える被爆者の脱毛の発現率について記載があるものについてまとめると,おおむね以下のように整理される。

ア 日米合同調査団による報告

長崎における爆心地から2.1ないし2.5キロメートルで被爆した者(外または日本家屋内で被爆した者。)の脱毛の割合は,7.2パーセントで,爆心地からの距離が0.5キロメートル遠ざかるごとに,その発現率は,2.1パーセント,1.3パーセント,0.4パーセントと逓減する。

また,広島における爆心地から2.1ないし2.5キロメートルで被爆した者(長崎の場合と同様。)の脱毛の割合は,4.8パーセントで,爆心地からの距離が0.5キロメートル遠ざかるごとに,その発現率は,2.4パーセント,1.3パーセント,0パーセントと逓減する。

イ 東京大学報告

広島における爆心地から2.1ないし2.5キロメートルで被爆した者の脱毛の割合は,6.4パーセントで,爆心地からの距離が0.5キロメートル遠ざかると,その発現率は,1.7パーセントに減少している。

また,P28報告によると,被爆者の個々の被爆状況すなわち,屋外,屋内のどこで被爆したか,屋内のうち木造家屋かコンクリート建物か,屋外のうち開放部分,遮蔽物がある場所で被爆したかによって,脱毛の発現率が異なり,放射線の屋内のコンクリート建物で被爆した者の発現率が最も低く,屋外開放部分で被爆したものの発現率が最も高いという調査結果が得られている。

ウ P29報告

広島における爆心地から2キロメートルの屋外で被爆し,原爆投下直後爆心地付近に入市しなかった者の脱毛の割合は,18.7パーセントで,爆心地からの距離が0.5キロ遠ざかるごとに,その発現率は,10.9パーセント,12.0パーセント,0.1パーセント,2.8パーセント,0パーセント,4パーセントとなっている。

エ 厚生省報告

症状・被爆地別にみた被爆後2か月以内の身体異常発現率(総数)のうち,脱毛についてみると,直接被爆者であって原爆投下後3日以内に爆心地から2キロメートル以内の地域に入った者で,被爆距離が2.1キロメートルから3.0キロメートル以内で16.6パーセント,3.1キロメートルから4.0キロメートル以内で16.9パーセント,4.1キロメートル以上で11.0パーセントとなっている。

オ P32報告

爆心地からの距離が2ないし3キロメートルの地点までの被爆者の脱毛の発現率は,生存者中3.2パーセントで,爆心地からの距離が3ないし4キロメートルの地点になると,その発現率は,生存者中1.8パーセントと逓減する。

カ P33報告

脱毛と爆心地からの距離について調査したところ,爆心地から2キロメートル以内での脱毛の程度は,爆心地に近いほど高く,爆心地からの距離とともに急速に減少し,2キロメートルから3キロメートルにかけて緩やかに減少し(3パーセント前後),3キロメートル以遠でも約1パーセント認められる(ただし,この部分については,ほとんど距離とは独立である。)とされている。

キ P34報告1,3及び4について

P34報告1では爆心地からの距離が2.0ないし2.4キロメートルで被爆した者の脱毛の割合は,6.1パーセントで,爆心地からの距離が2.5ないし2.9キロメートルの地点になると,その発現率は,3.6パーセントと逓減している。

P34報告3では,爆心地からの距離が2.0ないし2.4キロメートルで被爆した者の脱毛の割合は,12.5パーセントで,爆心地からの距離が2.5ないし2.9キロメートルの地点になると,その発現率は,8.5パーセントと逓減している(ただし,遮蔽なしの場合。)。また,爆心地から2キロメートル以遠での被爆者についても,遮蔽の有無によって脱毛の発生頻度に明らかな差がみられたとしている。

また,P34報告4では,長崎において,遮蔽地区と無遮蔽地区を設定して,急性症状の発現割合を比較したところ,遮蔽地域と無遮蔽地域における各急性症状の発現頻度は,嘔吐,下痢,発熱,脱毛,皮下出血,鼻出血,歯肉出血,口内炎全ての症状について,発現頻度は,遮蔽地域の方が,無遮蔽地域よりも低いという調査結果が得られている。

ク P36報告

爆心地からの距離別が2キロメートルから3キロメートル以内で被爆した者の脱毛の割合は,26.8パーセント,爆心地からの距離が3キロメートルを超える地点になると,その発現率は,22.9パーセントと逓減する。

(3) このように,上記の資料では,おおむね,脱毛の発現率は,爆心地からの距離が遠ざかるにしたがって逓減しており,また,遮蔽の有無を区別したものについては,地形的な遮蔽の有無及び個々の被爆場所による遮蔽の有無のいずれの場合であっても,遮蔽がない場合の発現率は,遮蔽がある場合のそれに比較して高率であり,被爆後に爆心地付近に入市している者は,入市をしなかった場合に比べて,その発現率は高率となっている。また,脱毛以外の下痢などの症状についても,被爆距離との相関関係が強く認められる調査結果となっている。

また,入市による影響についても,P29報告において,被爆後,爆心地に入市した者について,入市をしなかった場合に比べて,前記身体症状の発現率が高率であるとの結果があり,また,P29報告中,広島で原爆の直爆を受けておらず,原爆投下後の翌日と翌々日に入市し,爆心地付近で救護活動を行った消防団員に,帰村後,下痢,粘血便の症状を呈したものが多数あり,その症状は,広島原爆の直爆を受けた者に現れた急性原爆症に極めて類似していたこと,入市をしなかった団員の家族には何らこのような症状が現れていないことのなどの報告がなされており,前記団員の生活環境,入市日時,広島を離れた日時,作業地や作業時間などが類似していることなどにかんがみると,これらの者に現れた身体症状が,個々の団員の個別的な状況いかんによるものではなく,入市したことで,放射線の影響を受けたことによるものであることを窺わせる資料であるといえるし,広島市が編集,発行した「広島原爆戦災誌」による,いわゆる暁部隊(爆心地から数キロメートル以上離れた地域から,広島原爆投下当日ないしその翌日から,1週間程度,爆心地付近で,救護活動に従事した部隊隊員)に対する調査結果や,P42弁護士らによるP43高等女学校の調査結果なども,原爆放射線の影響が原爆の直爆を受けていない入市者に対して及んだことを窺わせる資料であるといえる。

さらに,平成10年以降に発表された報告中には,脱毛のあった群における白血病相対的リスクの過剰は1.89倍で,白血病と脱毛との関連が認められたり,同程度の被爆線量であっても,脱毛ありの人の,がん死亡のハザードは脱毛なしの人に比べて高く,その理由としては,脱毛ありの人は,脱毛なしの人に比べて放射線感受性が高いのかもしれないということ,被爆線量に推定誤差があり,脱毛ありの人の被爆線量は実際にはもう少し高かったのかもしれないという示唆がなされるに至っている。

これらのことからすると,上記調査の結果に表れた,いわゆる遠距離被爆者の脱毛等の身体症状は,原爆放射線に起因して引き起こされた症状であることが強く推認されるものといえる。

(4) これに対し,1審被告らは,P34らによる「原爆急性症状の情報の確かさに関する研究」,「長崎原爆被爆者の急性症状に関する情報の確かさ」長崎医学会雑誌81巻特集号平成18(2006)年を根拠として,上記各報告書の基になった被爆者の記憶は不確かであるとする。確かに,乙全157の表によれば,症状ごとの一致率(直後調査と15-20年後の調査)は71.9パーセントから90.9パーセントの範囲にあることが認められることからすると,中には記憶が不確かなものもあったであろうことは推測される。

しかしながら,日米合同調査団報告,東京大学報告,P28報告によってなされた調査は,人類史上,前例のない原爆爆発による人間に対する影響調査であるという性質上,調査対象者は,自分の身体に現れた身体症状が,漠然と放射線に起因するものではないかという危惧感は持っていたかもしれないが,爆心地の詳細な地点,放射線が人体に及ぼす影響や,それが具体的に自分の身体にどのように現れるのか,自分が被爆した場所と自分に出現した身体症状の内容,発症時期等との間に関連性があるのかどうかといったことを認識していたとはいい難いから,何が自分にとって利益な事実なのか,あるいは不利益な事実なのかを判断する基準は持っていなかったものと考えられ,その意味で,自分の身体症状について,殊更,虚偽の事実を申告するという基礎となる事情は存在しないといえる。また,その調査時期に照らしても,全体的には,記憶が薄れたとの事情もないといってよい。そして,調査者自身,前記のような調査の性質からして,原爆被爆者の身体にどのような症状が出現しているのか,それが放射線に起因するものかどうか,一定の仮説を立てて臨んだ調査ではなかった(特に,主たる調査者が日本人の場合。)ことが窺われ,その意味で,従前の知見との整合性をひとまずおいて,得られた調査結果を検討していることや,これらの調査が,原爆投下後,約2か月が経過した昭和20年10月から同年11月までの間,5000人以上の対象者に対してなされたものであることを考慮すると,前記のような程度の不一致率の存在は,前記の調査結果の意義を没却するものとまではいえない。このことは,これらの,原爆投下後まもなくなされた調査結果が,その後になされた,調査時期,調査者や調査方法,調査の対象となる人員を異にする種々の調査の結果と矛盾するものではなく,これらの調査結果によって裏付けられていることからもいえることである。

次に,1審被告らは,自然災害,東京大空襲においても被爆の影響ではないことが明白な嘔吐,下痢,出血,脱毛,口内炎,倦怠感,不眠といった身体症状の発症が確認されており,身体症状の存在から放射線被爆の急性症状と判断することはできず,特にP46事故においては,事故現場からの距離と体調不良の発現率とに相関関係がある旨主張する。確かに,乙全162によれば,東京大空襲の被災者の中に脱毛(禿)を生じた者があったことが認められないではなく,被災による心身の負担から脱毛等の身体症状が生ずることを全く否定することはできないところであり,広島,長崎の被爆者が,自身が死に直面するに等しい,耐え難い体験をし,精神的な影響を受けなかったということは,むしろ考え難い。しかしながら,被爆者に現れた身体症状が,放射線に起因しないのであれば,その身体症状が,爆心地からの距離に相関して発現したり,また,遮蔽の有無,入市の時期,滞在時間と相関して発現したり,脱毛等の放射線被爆による急性症状様の症状が認められたり,放射線に起因する蓋然性の高い白血病やがん死亡との関連性が認められたことを,合理的に説明することはできないものといわざるを得ない。

また,乙全221中には,P46事故の後,事故現場からの距離に相関して体調不良を訴える者があったことを示す資料があるが,同資料は,体調不良として脱毛等の放射線被爆と同様の事例を扱うものではなく,施設の存在の不快感,不安感を示す資料とはいえるものの,前記の各調査結果にみられる被爆地における急性症状を放射線被爆の影響ではないことを説明する資料とはいえない。

したがって,1審被告らの前記主張はいずれも採用し難い。

(5) さらに1審被告らは,P45論文やこれと同旨のP47意見書を根拠として,放射線に起因する急性症状には,組織別に一定のしきい線量があり,また,特徴的な経過をたどるとし,これらの知見と整合しない1審原告らの訴える身体症状は,放射線に起因するものではないと主張するので検討する。

P45論文の主たる研究者であるP45や同旨の意見書を提出するP47は,被爆医療の専門家であり,その分野における同人らの知見については十分信頼を置けるものと考えられ,したがって,同人らが示す組織別のしきい線量や皮膚障害のしきい線量,IAEAの急性放射線障害の前駆症状と被爆線量の関係のまとめなども,それ自体に誤りがあるとも考えられない。

しかしながら,昭和62年に発表されたICRPの専門委員会による「電離放射線の非確率的影響」によれば,基本的には,放射線に起因する急性症状の発症には,組織別のしきい線量が影響するとしているものの,放射線照射による皮膚反応には,多様な影響が含まれ,それらの頻度,重篤度及び発現時期は被爆の条件によって変わること,与えられた線量に対する反応の重篤度は,照射された皮膚の深さと面積に依存するが,反応の重篤度に影響する要因として,解剖学的な部位,血行,被爆組織への酸素供給,被爆者の年齢などがあり,皮膚に対する放射線の急性効果(紅班,脱毛等)の症状が現れるまでの時間は,表皮に対応する細胞コンパートメントにおける細胞の交代動態と密接に関連することが指摘されるなど,放射線に起因する急性症状が,被爆条件,被爆部位,被爆態様など,個々の被爆者の個体差によって一様なものではなく,P45らのいう知見にも例外が存在することを示唆する内容となっているのであって,P45らのいう知見もこれを否定する知見であるとも考え難い。このことは,P45論文においても,P46事故における患者において,8グレイを超えると潜伏期がみられないとされていたのに,同事故の患者には潜伏期がみられたとし,P45論文の示す知見とは異なる症状の経過があったことが紹介されていることからも裏付けられているというべきである。

また,平成18年9月に発表された「チェルノブイリ原子力発電所事故による人体影響」によると,白血病に関する知見として,事故処理作業従事者以外では,汚染地域の成人住民に白血病が増加したという確かな証拠はなく,前記事故による放射線被爆によって小児白血病が増加したという主張は支持しないとされており,原爆被爆者の場合には,放影研の寿命調査では,原爆後20年間に,成人及び被爆年齢時10歳未満の小児の白血病による死亡率の増加が顕著に認められていることと比較すると,前記事故による一般住民の放射線被爆及び放射線障害の態様は原爆被爆者の場合とは極めて異なっているという見解が明らかにされている(甲全85の2,乙全229)。そして,平成10年にP50らによる「ヒト細胞移植重度複合型免疫不全マウスにおけるヒト毛包の放射線感受性」と題する論文によると,ヒトの頭部細胞組織を免疫不全型のマウス(以下単に「マウス」という。)に移植をして,局部エックス線照射(1ないし6グレイ)を照射する実験をしたところ,脱毛は照射後3週間後から起こり,線量に依存して脱毛が拡大したこと,照射後4週間たっても毛髪は残っており,残存毛髪の幅が細くなっていること,マウスの毛の幅が0ないし3グレイまでの線量でほぼ線形に減少していることから,毛髪の造成活動に関しては1グレイのしきい値がないことが示唆されたとの見解が示されている(甲全140)。このように,1審被告らの主張する放射線に起因する急性症状の特徴と必ずしも整合しない実験結果や見解も表明されている。

前記のような見解を示す知見もあるうえ,広島,長崎の原爆の被爆者のように,極めて近接した日時に,類似した状況で,数万人あるいは数十万人の人々が同時に被爆したうえ,被爆後,適切な医療処置を受けることができなかったという状況と比較した場合,1審被告らが主張するチェルノブイリ原子力発電所事故等のような重大な被爆事故が日常的に発生するものではなく,このような被曝事故による症例が少ないことからしても,P45らのいう知見にも例外が存在することや,前記知見が原爆被爆者に被爆後まもなく出現した身体症状にそのまま当てはまるものともいい難いことが裏付けられているというべきである。

確かに,1審被告らが指摘するように,(1)で指摘した資料については,その調査の方法は,調査員を派遣して対象者に質問をしたものであったり,書面によるアンケート方式であったりするものもあり,特に,原爆投下直後の初期になされた調査については,現在の放射線に対する人体影響の科学的知見のレベルに照らして,科学的な精密性を欠いていることは否定し得ないものの,前記のとおり,これらの資料による原爆被爆者らに,被爆後まもなく出現した身体状況等は,これを実際に観察した医師らが把握した事実,あるいは被爆者自身が自分の体験に基づいて認識した事実を基に把握されたものであって,しかも,その後の調査によっても,その結果は支持されているものである。このようなことからすると,前記の各報告は,被爆者に出現した身体症状が,60年以上前に生起した原爆による放射線に起因するかどうかという,もはや,再現実験をするなどして実際にこれを検証することが不可能な事象について,法的な因果関係の有無を把握するための資料としては,一定の信用性,正確性を有するものというべきであって,当裁判所は,これらの各報告を,1審被告らが主張するように質の低い調査であるとして,軽視することが相当であるとは考えない。

したがって,P45論文やこれと同旨のP47意見書の被爆治療に係る知見については,被爆治療の分野における知見と被爆者の被爆直後の症状に不一致がみられる場合があるという意見としては理解できるが,同人らは被爆者の実態に関する研究や検討に携わってきたわけではなく,同人の専門的知見が原爆被爆者に被爆後まもなく出現した身体症状について,そのまま適用されると解することについては疑問があるから,1審被告らの前記主張も採用しない。確かに,初期放射線による被爆線量が少ないか,0と評価される者に脱毛などの症状が発症していることについて,しきい値との関係でいえば,DS86に基づく線量評価自体に問題があることを指摘することができる以上には,現時点で,その発生機序が明らかになっているとはいえないとしても,だからといって,発生機序が存在しないということを意味するものではないというべきである。

以上によると,調査結果が示す,被爆距離,遮蔽の有無,入市の有無及びその時期,滞在時間と相関する発現率によって急性症状が出現するという事実は,集団的な観察としては,脱毛などの症状は,主として,あるいは専ら原爆放射線の影響によるものであると推定することができるというべきであって,これらの身体症状は,全て原爆放射線によるものではなく,他の原因によるものであるとの1審被告らの主張は採用し難い。

4  まとめ

DS86による線量評価の点については,第3項5に記載したとおりであり,被爆者調査における被爆者にみられた脱毛,下痢といった身体症状(初期症状)は,原爆放射線による影響に基づくものであるとみるのが合理的であり,このように考えた場合,被爆者にみられた初期症状の発現状況や症状と,DS86に線量,放射線被爆治療等による科学的知見が,被爆者の初期症状と一致していない面があるので,これらの科学的知見は,広島,長崎の原爆被爆者の初期症状という点についてみれば,これを十分に説明し得る知見とはいえないというべきである。そして,これらの点を踏まえて,原爆症認定の放射線起因性判断における急性症状の問題について検討すると,旧審査の方針が定める線量評価の手法は,その主たる根拠となるDS86による線量評価システム自体,爆心地から遠距離で被爆した者の被爆線量を評価するについては,誤差(過小評価)の問題があって,そのままの数量をもってこれらの者の被爆線量(初期放射線量)とすることは相当とはいえないのみならず,残留放射線(残留放射能や放射性降下物)の点でも誤差(過小評価)がある蓋然性が高く,また,内部被爆について全く考慮していない点で問題があるのであって,旧審査の方針が定める数値が,個々の被爆者(特に遠距離被爆者や入市被爆者)が実際に被爆した線量と相当程度の蓋然性をもって一致するということを前提として,それのみをもって,個々の被爆者の申請疾病の放射線起因性を判断することは相当とはいえない。

そうすると,個々の被爆者について,正確な被爆線量を数値化して現すということは困難であるということになるが,今後,放射能に関する測定技術やこれに関する計算精度が進展し,物理学者などによって新たな知見が発表されたとしても,個々の被爆者が,60年以上前に実際に被爆した線量を,正確に数値化するということは,もはや期待し得ないというべきで,この点に関する精度を上げることや,今,現在あるシステムの精度がどれほど高いといえるか,あるいはそうではないのかという点について,これ以上,意を用いるということは,個々の被爆者の申請疾病と放射線起因性との関連性を判断するという目的に照らして,それほど意味のあることとは思われない。個々の被爆者の申請疾病の放射線起因性を判断するについては,今,現にある資料等(DS86による計算値を含む。)を基に,これらを有効に活用するようにし,ただし,申請疾病自体の医学的知見,放射能や放射線に関する知見,申請疾病と放射線との関連性に関する知見は,日々進歩する蓋然性が高いことを踏まえて,これを判断していくしかない。その際,DS86による計算値自体,その出発点ともいうべき広島・長崎原爆の出力を推定するのに極めて有力な資料が破棄されていたり,ソースタームについても,これに関する情報はDS86の信頼性を検証するうえで重要な部分であるにもかかわらず,広島・長崎原爆の構造や材質に関する詳細な情報は軍事機密の問題があって明らかにされず,米国側から示されたのはコンピューターによる計算結果のみであるなど,半永久的に検証不可能な計算結果を前提とするものであったり,原爆投下時の両市の気象状況等についても一応の仮定のうえに成り立つなど,様々な前提条件を仮定して,計算をした結果のうえに構築されているものなのであるから,個々の被爆者の申請疾病についての放射線起因性を判断するについて,個々の被爆者の実際の被爆線量を推定するに当たり,DS86による数値自体を,高度に正確性のある精密なものであるとして取り扱うことには問題があるのであって,様々な前提条件を仮定したうえでの,その意味で誤差があることを当然の前提として,科学的,物理的法則を適用した計算値であるとして取り扱い,その際,原爆症認定の申請をした被爆者に急性症状が認められる場合には,原爆放射線の影響を受けたことの根拠の一つとして考慮し,その具体的症状,すなわち,その症状の具体的な内容や程度,発症の時期や症状が継続した期間等を把握し,放射線被爆治療に係る急性症状の知見等をも参考にしつつ,これを判断することが相当である。

第5原因確率について

1  旧審査の方針における原因確率の概要と問題の所在

旧審査の方針では,前記のとおり,DS86に基づく被爆者の被爆線量の評価を行いこれを前提として,疾病等発生が放射線によって確率的に影響を受けるものについては,疫学的知見によって得た原因確率(寄与リスク)を算定し,被爆者について,該当する原因確率を目安に原爆症における放射線起因性の判断を行うこととした(ただし,白内障についてはしきい値を目安とする。)。

したがって,審査の方針に基づく放射線起因性の判断の相当性を判断するためには,原因確率について,その相当性を判断する必要がある。もっとも,1審原告P1の申請疾病である白内障については,原因確率が適用される疾病ではなく,1審原告P4の申請疾病であるIPMNについても,旧審査の方針では原因確率が定められていない疾病であるから,個別の1審原告らの申請疾病の放射線起因性を判断するに当たっては,当該疾病についての原因確率を問題とする余地はなくなっているようにも考えられるが,後述するように,放射線白内障にはしきい値が存在しないとの知見が示されており,放射線起因性判断のあり方とも重要な関係があるので,以下,旧審査の方針における原因確率の考え方とその合理性について検討することとする。

(1) 旧審査の方針における原因確率の概要

前記法令の定め等のとおり,旧審査の方針は,原因確率について,申請疾病等及び申請者の性別の区分に応じ,それぞれ定める旧審査の方針別表1-1ないし別表8(原因確率表)に定める率とするものとしている。そして,旧審査の方針は,原因確率の当てはめによる申請疾病等の放射線起因性の判断について,以下のような手順で行うものとしている。すなわち,

ア 申請疾病等が確率的影響に係る疾病等である場合,その放射線起因性の判断に当たっては,原因確率を目安として,当該申請疾病等の放射線起因性に係る高度の蓋然性の有無を判断する。

イ この場合にあっては,当該申請疾病等に関する原因確率が,おおむね50パーセント以上である場合には,当該申請疾病等の発生に関して原爆放射線による一定の健康影響の可能性があることを推定し,おおむね10パーセント未満である場合には,当該可能性が低いものと推定する。

ただし,当該判断に当たっては,これらを機械的に適用して判断するものではなく,当該申請者の既往歴,環境因子,生活歴等も総合的に勘案したうえで,判断を行うものとする。

ウ また,原因確率等が設けられていない疾病等に係る審査に当たっては,当該疾病等には,放射線起因性に係る肯定的な科学的知見が立証されていないことを留意しつつ,当該申請者に係る被爆線量,既往歴,環境因子,生活歴等を総合的に勘案して,個別にその起因性を判断するものとする。

(2) 原因確率の算定基準の根拠

前記原因確率表は,広島大学医学部保健学科P51を主任研究者として行われた2項記載の論文において,被爆者の性別及び疾病ごとに算出した寄与リスクに基づいて作成された表を転用したものである。

2  P51らによる「放射線の人体への健康影響評価に関する研究」(平成12年・以下「P51論文」という。)(乙全7)

(1) 研究目的

放影研が調査した寿命調査対象者のがん死亡及びがん発生のデータを基に,がんによる死亡及びがん発生における原爆放射線被爆の寄与リスクを主要部位について性及び被爆時年齢別に算出すること,また,がん以外の疾患の死亡や有病についての寄与リスクについても検討することを目的とするものである。

(2) 研究方法

ア リスク評価の指標

放射線の人体への影響に関するリスク評価の指標として,相対リスク(非暴露群に対する暴露群の疾患発生あるいは死亡の比),絶対リスク(暴露群と非暴露群における疾患発生あるいは死亡の差),寄与リスク(暴露者中におけるその暴露に起因する疾病などの帰結する割合すなわち,例えば,暴露群におけるがん死亡者のうち原爆放射線が原因と考えられるがん死亡者の割合)の3種類がある。このうち,寄与リスクは,絶対リスクの相対的大きさで表され,相対リスクと絶対リスクの両指標の考え方を併せ持つものであり,その大きさが0から100パーセントに数値化される。したがって,種々の疾患に対する放射線リスクの評価が同じ枠内の数値として統一的に考えられることから,放射線に起因する死亡者等が占める割合としてのリスク評価の指標としては,寄与リスクが最適と考えられる。なお,寄与リスクの値は,過剰相対リスク(放射線被爆集団における絶対リスクから,放射線に被爆しなかった集団における絶対リスクを引いたもの。)を過剰相対リスクに1を加えたもので除して算定される。

イ 寄与リスクを求めた疾患

寄与リスクの算出の対象となった疾患は,寿命調査及び成人健康調査で放射線被爆と疾病の死亡・発生率(有病率)についての関係が論文発表されているものである。固形がんについては,寄与リスクを求めるに当たって,次の3群に分けた。

(ア) 部位別に寄与リスクを求めたがん

寿命調査集団を使った過去の死亡率・発生率の報告で放射線との有意な関係が一貫して認められ,かつ,部位別に寄与リスクを求めても比較的信頼性に足りると考えられる部位のがんである胃がん,大腸がん,肺がん,女性乳がん,甲状腺がん及び白血病。

(イ) 原爆放射線に起因性があると思われるが,個別に寄与リスクを求めると信頼区間が大きくなると考えられるがんである肝臓がん,皮膚がん(悪性黒色腫を除く),卵巣がん,尿路系(膀胱を含む)がん,食道がん。

(ウ) 現在までの報告では,部位別に過剰相対リスクを求めると統計的には有意ではないが,原爆放射線被爆との関連が否定できないもので,(ア)(イ)以外のがん全て。

寄与リスクを求めなかった疾患は,骨髄異形成症候群(最近,被爆との関連が学会で発表されているが,まだ論文発表されていない。),放射線白内障(しきい値が求められている。),甲状腺機能低下症(論文発表されているデータから寄与リスクを算出することができない。),過去に論文発表がない疾患(造血機能障害など)である。

なお,放射線白内障における安全領域のしきい値は,眼の臓器線量で1.75シーベルト(95パーセント信頼区間1.31ないし2.21シーベルト)である。

ウ 寄与リスクを求めた基となった資料

白血病,胃がん,大腸がん及び肺がんについては,放影研が公開している死亡率調査(1950年ないし1990年),甲状腺がんと乳がんは,発生率調査(1958年ないし1987年,臓器線量からカーマ線量に変換)のデータを使用した。

副甲状腺機能亢進症は,有病率調査結果から寄与リスクを推定し,線量は論文で使われている甲状腺線量で求めた。

肝硬変については,がん以外の疾患の死亡率調査から算出し,線量は論文で使われている結腸線量を使った。

子宮筋腫は成人健康調査集団を対象にした発生率調査から求めた。

エ 寄与リスクを求める際の被爆時年齢及び被爆からの経過年数

白血病及び固形がんの放射線に対する過剰死亡及び過剰発生は,性,被爆時年齢,被爆後の経過年数の影響を受ける。特に白血病については,被爆後10年をピークにして,その後被爆後年数の経過とともに急激に過剰相対リスクは低下しており,1981年から1990年のデータに基づき算出した。固形がんについては,寄与リスクは観察期間の平均を使用した。性差,被爆時年齢による過剰相対リスクに有意差があるがんについては,性別,被爆時年齢別に寄与リスクを求めた。

(3) 研究の結果

ア 白血病,胃がん,大腸がんの死亡,甲状腺がんの発生について,性別,被爆時年齢,線量別の寄与リスクを求めた(審査の方針の別表1~4の各1・2と同内容)。

イ 乳がんについて,被爆時年齢,線量別の寄与リスクを求めた(審査の方針の別表5と同内容)。

ウ 肺がんの死亡について,被爆時年齢の影響を受けなかったので,性別,被爆線量別の寄与リスクを求めた(審査の方針の別表6の1・2と同内容)。

エ 肝臓がん,皮膚がん(悪性黒色腫を除く),卵巣がん,尿路系(膀胱を含む)がん,食道がんについて,この5疾患をまとめて寄与リスクを求めた(審査の方針の別表7の1・2と同内容)。

オ 副甲状腺機能亢進症の有病率調査では,被爆の影響に性差は認められなかったので,被爆時年齢と甲状腺臓器線量別に寄与リスクを求めた(審査の方針の別表8と同内容)。

カ 肝硬変による死亡については,被爆の影響に性差,被爆時年齢による差は認められなかったので,被爆線量ごとの寄与リスクを求めた(最小20センチグレイの場合に3.5パーセント,最大300センチグレイの場合に35.1パーセント)。ただし審査の方針には採用されなかった。

キ 子宮筋腫の有病率については,放射線の影響に被爆時年齢による差は認められなかったので,被爆線量ごとの寄与リスクを求めた(最小5センチグレイの場合に2.2パーセント,最大150センチグレイの場合に40.8パーセント)。ただし,審査の方針には採用されなかった。

(4) 考察

この研究は,これまでの原爆放射線の健康に対する影響に関する研究結果を踏まえて,現時点における最新の科学的知見から,がん及びがん以外の疾患の寄与リスクを求めたものであり,前記の研究は現在も継続されているので,今後の研究によって,さらに新しい知見が発表されると考えられる。今後とも,その時点における最も信頼性のあるリスク評価が必要である。

3  放影研における疫学調査の概要と調査内容について

(1) 放影研の疫学調査の概要(甲全145,乙全10)

ア 放影研の沿革

放影研は,日本国民法に基づき,日本国の外務・厚生省(当時)が所管し,また日米両国政府が共同で管理運営する公益法人として昭和50年4月に発足した。その前身は,米国学士院(NAS)が設立したABCCであり,翌年には厚生省国立予防衛生研究所(予研)が参加して,共同して大規模な被爆者の健康調査に着手した。昭和30年,後記のとおりのフランシス委員会による全面的な再検討が行われ,その結果,研究計画が大幅に見直されて今日も続けられている集団調査の基礎を築いた。

イ 放影研の疫学調査における調査集団について

(ア) 概要

ABCCは,昭和30年のフランシス委員会の勧告を受けて,昭和25年の国勢調査時に行われた被爆者調査から約28万人の日本人被爆者が確認され,このうちの約20万人(昭和25年当時広島・長崎のいずれかに居住していた者)を基本群として,以後の被爆者調査は,この基本群から選ばれた副次集団について行われた。寿命調査(Life Span Study,LSS)では,厚生省・法務省の公式許可を得て,国内である限り,死亡した地域に関わりなく死因に関する情報を入手し,がんの罹患率に関しては,地域の腫瘍・組織登録からの情報により調査が行われた。成人健康調査(Adult Health Study,AHS)については,疾患の発生と健康状態に関する追加情報もある。

(イ) 寿命調査

当初のLSS集団は,基本群のうち,本籍が広島か長崎にあり,昭和25年に両市のどちらかに在住し,効果的な追跡調査を可能にするために設けられた基準を満たす者の中から選ばれ,次の4群に分類される。

① 爆心地から2000メートル以内で被爆した中心グループ(近距離被爆者)。

② 爆心地から2000ないし2500メートルで被爆した者。

③ 中心グループと年齢・性が一致するように選ばれた,爆心地から2500ないし10000メートルで被爆した者(遠距離被爆者)。

④ 中心グループと年齢・性が一致するように選ばれた,1950年代前半に広島・長崎に在住していたが原爆投下時は市内にいなかった者(市内不在者。原爆投下後,60日以内の入市者とそれ以降の入市者も含まれている。)。

当初9万9393人から構成されていたLSS集団は,順次拡大され,今日では12万0321人となっている。この集団には,爆心地から1000メートル以内で被爆した9万3741人と原爆時市内不在者2万6580人が含まれている。これらの人々のうち,8万6632人については被爆線量推定値が得られているが,7109人(このうち,95パーセントは2500メートル以内で被爆している。)については,建物や地形による遮蔽計算の複雑さや不十分な遮蔽データのため線量計算はできていない。平成11年12月現在,LSS集団には,基本群に入っている2500メートル以内の被爆者がほぼ全員含まれるが,近距離被爆者,昭和25年から35年ころまでに転出した被爆者,国勢調査に無回答の被爆者,原爆時に両市に駐屯中の日本軍部隊及び外国人は除外されている。以上のことから,爆心地から2500メートル以内の被爆者の約半数が調査の対象となっている。

(ウ) 成人健康調査

この集団は,2年に1度の健康診断を通じて疾病の発生率と健康上の情報を収集することを目的として設定された。成人健康調査によって,全ての疾患と生理的疾病を診断し,がんやその他の疾患の発生と被爆線量との関係を研究し,LSS集団の死亡率やがんの発生率についての追跡調査では得られない臨床上あるいは疫学上の情報を入手できる。昭和32年の設立当時,AHS集団は当初のLSS集団から選ばれた1万9961人からなり,中心グループは,昭和25年当時生存していた,爆心地から2000メートル以内で被爆し,急性放射線症状を示した4993人全員で構成された。この他に,都市・年齢・性をこの中心グループと一致させた次の3つのグループ(いずれも中心グループとほぼ同数)が含まれる。

① 爆心地から2000メートル以内で被爆し,急性症状を示さなかった者。

② 広島では爆心地から3000ないし3500メートル,長崎では3000ないし4000メートルの距離で被爆した者。

③ 原爆時にいずれの都市にもいなかった者からなるグループ。昭和52年に,高線量被爆者の減少を懸念して,新たに次の3つのグループを加えAHS集団を拡大し,合計2万3418人とした。すなわち,

④ LSS集団のうち,昭和40年暫定推定放射線量が1グレイ以上である2436人の被爆者全員。

⑤ これらの人と年齢及び性を一致させた同数の遠距離被爆者。

⑥ 胎内被爆者1021人。

AHS集団設定後40年を経た平成11年現在5000人以上が生存しており,その70パーセント以上の人々が今も成人健康調査プログラムに参加している。なお,原爆投下時市内不在者に関する積極的な追跡調査は,1980年(昭和55年)年代に終了した。

(2) 疫学研究の方法の概要(甲全65,66,乙全52,53)

ア コホート研究の概要

コホート研究とは,何らかの共通特性(同年生まれ,同一職業,同一の暴露要因など)をもった集団を追跡し,その集団からどのような疾病や死亡が起こるかを観察し,要因と疾病との関連を明らかにしようとする研究であり,疾病の要因と考えられている情報に基づいて,調査集団を設定し,その後の疾病や死亡の起こり方が,要因の有無やその要因への暴露の程度によって,どのように異なるのかを観察する研究である。コホート研究の長所としては,分母集団の死亡率や罹患率が直接測定でき,相対危険も算出することができること,暴露要因の影響を,単一の疾病についてだけでなく,複数の疾病について同時に観察することができることにあり,短所としては,調査集団設定時に調査された要因のみについてしか,その健康影響を測定し得ないこと,他の疫学調査に比べて設定する調査集団を大規模にしなければならず,少なくとも数千人ないし数万人の調査集団を設定し,長期にわたり追跡しなければならないため,調査期間と調査費用が膨大になることがある。コホート研究における解析の手法としては,調査集団を外部集団と比較する外部比較法と,調査集団内部で暴露要因の程度によって分けられたグループ内で比較する内部比較法がある。外部比較法は,比較的情報が入手しやすい全国の暦年別,性別及び年齢別の死亡率(罹患率)が用いられることが多い。外部比較法においては,標準集団として用いた集団が調査しようとする要因以外に質的に異なっていないか,すなわち,2つの集団の比較性が保たれているかどうかという点について十分な検討が必要である。一方,内部比較法は,調査集団内部において,暴露の程度に応じてグループ分けを行い,暴露が高い群から発生した死亡罹患と,非暴露群または低暴露群から発生した死亡罹患の違いをみるものであって,観察人,観察年数及び疾病や死亡の発生数が十分であれば,それぞれの群から起こった累積死亡率(罹患率)を算出し,直接比較することができ,その比が相対危険として算出される。

リスク評価に関しては次の点が問題となる。すなわち,比較的高いレベルの暴露から得られた健康障害に関する用量・反応関係が,低いレベルの暴露においても適用できるのかどうかである。高レベル域での用量・反応直線を,そのまま低レベルに伸ばしてよいとは限らず,暴露レベルが比較的高い領域で得られた用量・反応関係が,低い暴露レベル域で再現できるか否かを疫学的に検討することは必ずしも容易ではない。多数の対照者の調査が必要なばかりではなく,相対的に他の危険因子の影響が大きくなるなどの問題も生ずる。多くの場合,単独の研究で得られたデータのリスク解析結果では不十分で,幾つかの異なる研究から得られたデータをプールして解析するなどする必要がある。

イ ポアソン回帰分析

内部比較法の一手法として,対照群を設定せず,回帰分析を用いて,要因暴露に応じた用量・反応関係を求める方法がある。回帰分析とは,予測したい変数である目的変数(死亡率や罹患率など)と目的変数に影響を与える変数である独立変数(要因)との関係式(回帰式)を求め,目的変数の予測を行い,独立変数の影響の大きさを評価することができる。そのうち,ポアソン回帰分析は,目的変数がポアソン分布(ある事象が万一起こるとすれば,突発的に起こるが,普段は滅多に起こらないという場合における一定時間当たりの事象発生回数を表す分布)に従うことを仮定して行う回帰分析法である。

ウ フランシス委員会の勧告(甲全16)

昭和30年11月,「ABCC研究企画の評価に関する特別委員会の報告書」(フランシス報告)によると,以下のとおりの勧告がなされている。すなわち,死亡診断書調査の主目的は,被爆後5年以上経過して,全般的死亡率の増加として現れるような,全身性の生理学的影響,または幾つかの特定の影響が,広島と長崎の原爆放射線の照射を受けた者に起こるか否かを研究することにあり,このような影響があれば,その影響は死亡統計によって計測できるはずである。ところで,放射線の後影響と死亡との間に関係があるとすれば,照射程度がいろいろ異なった群(症状のある近距離被爆者群,症状のない近距離被爆者群,遠距離被爆者群)を調査の対象としなければならない。そこで,これらの調査は,被爆集団のみによって調査ができるのか,あるいは非被爆集団も含める必要があるかという問題を慎重に検討したところ,被爆群内の放射線の影響の強弱を調べるだけではなく,幾らかの非被爆群も調査の対象に含めることが望ましいと考えられる。被爆群内の影響に勾配が認められたとしても,被爆線量の最も少ない群における放射線の影響は,非被爆者と比較しなければ推定はできないし,また,影響に勾配が認められない場合は,被爆線量の最も少ない群にも直接被爆または降下物による放射線の障害があったかどうかの決定ができないからである。したがって,非被爆者群を調査の対象に含めることを勧告する。最も適切な非被爆者群は,昭和25年10月1日現在,広島市及び長崎市に居住していた者である。そして,戦時中を海外で過ごした転入者及び原爆後1か月以内に入市した者(したがって,多少,残留放射線を受けたと思われる者)を非被爆者群から除くべきかどうか検討したが,両者を観察から除外することはせずに,資料が得られたときに差異があれば,その差異について調査を行うことに決定した。

(3) 放影研等による調査結果の概要

(寿命調査)

ア P52らによる「予研・ABCC寿命調査第3報1950年10月-1960年9月の死亡率」(昭和38年)(甲全41)

寿命調査集団の全サンプル99393件を解析の対象として,昭和33年から昭和35年の間の死亡率を検討したもので,以下の記載がある。

長崎至近距離被爆者には,広島至近距離被爆者より,遮蔽された者が多い。この解析で扱った死亡数は合計8614であるところ,最も多い死因は,中枢神経系の血管損傷と悪性新生物である。原爆時市内にいなかった者は,どの距離区間の被爆者よりも低率な死亡比を観察した。爆心地から1399メートル以内の被爆者は,これより遠距離の被爆者より,全死因,全病死因,結核(広島男子),白血病とその他の悪性新生物の標準化死亡比が高率であることが分かった。自然死による死亡者あるいは白血病を除く悪性新生物で死亡したものが受けたと考えられるT57D線量は,最近の戸籍照合で生存していた被爆者の受けた線量より有意に高率であると分かった。被爆者の地図上の座標別に標準化死亡比をみると,死亡比の大小の一部に,少なくともその地域の社会階級の影響を受けていることが分かった。それにもかかわらず,広島では爆心地を含む地域で被爆した者の標準化死亡比は常に高く,放射線の影響が疑われる。

イ P53外らによる「予研-ABCC寿命調査第6報 原爆被爆者における死亡率1950-70年」(昭和46年)(乙全47)

T65D線量を用いた解析(ただし,爆心地からの距離を用いた解析は一切行われていない。)が行われており,以下の記載がある。

(ア) 高線量被爆群における疾病による死亡率は,低線量被爆群及び市内にいなかった群のそれよりも高い。

(イ) 死亡率の増加は,白血病について特に顕著であって,放射線の影響は推定線量が10ないし49ラドであった者にも存在しているようであった。

(ウ) 白血病を除くがんによる死亡率も高線量被爆群において上昇を示したが,確実に上昇の認められたのは200ラドを越える線量を受けた群のみであった。新生物以外の死因による死亡率には軽微な増加が観察されたが,全体としては,脳卒中,循環器系の疾患及び結核を含むその他の死因に対しては,放射線の影響はほとんどみられず,死亡率に対する放射線の影響は,主として白血病と悪性腫瘍及び良性または性質不詳の新生物などに限定されているようである。特定部位のがんに対する放射線の影響には差異が認められた。特に子宮頚がん,子宮体部がん及び胃がんには,他の部位のがんに比べて,放射線の影響が少ないようであった。ただし,サンプル変動が相対的に大きいので,これらの差異が正確であるとはいえない。

(エ) 被爆時年齢が10歳未満であった小児は,白血病及びその他のがんについて,それよりも高い年齢で被爆した者に比較して強い影響を受けている。

(オ) 高線量群における白血病の死亡率は,観察した20年間にわたって一貫して減少してはいるが,最後の期間である昭和40(1965)年から昭和45(1970)年においてもなお一般の水準までには下降していない。しかし,その他のがんの頻度は,この観察期間中上昇し,最後の期間である昭和40年から昭和45年においてはその上昇が顕著で,白血病を除くがんの誘発に必要な潜伏期は,被爆者が受けた放射線量の範囲内ではおおよそ20年以上であろうと思われる。

(カ) 原爆後30日以内に入市した「早期入市群」の死亡率が極端に低い値を示した。早期入市者は,この20年間一貫して低い死亡率を維持してきた。この傾向の例外は,白血病を除く悪性新生物による死亡率であり,早期入市者のがん死亡率は,昭和35(1960)年までに後期入市者(原爆後31日以上たって入市した者)のそれに達し,昭和35(1960)年から昭和45(1970)年の期間にはがんの死亡率に関しては市内にいなかった群と低線量被爆者群との間に差異はみられなかった。

ウ P53外らによる「予研ABCC寿命調査第7報 原爆被爆者の死亡率1970-72年および1950-72年」(昭和48年)(甲全39,乙全48)

引き続き,対象者に対する観察と解析が行われ,以下の記載がある。

追加観察期間においては,重要な新しい所見は認められず,以前の所見を補強するものであった。結核,脳血管系の疾病及び心臓血管系の疾患などのその他の要因については,放射線の影響は,ほとんど認められなかった。現在までの調査では,死亡率に対する放射線の影響は,白血病とその他の悪性新生物及び良性または性質不詳の新生物などに限定されているようである。白血病による死亡率は急速に下降しているが,現在でも高い値を示しており,胃がんを除く消化器のがんによる死亡率が高線量被爆群に高い。なお,本調査では,放射線被爆の影響を確認するために,原爆時に広島及び長崎にいなかった一群の人々も調査の対象に含まれている。

エ P53外らによる「寿命調査第8報 原爆被爆者における死亡率,1950-74年」(昭和52年)(乙全49)

引き続き,対象者に対する観察と解析が行われ,以下の記載がある。

がん以外の疾患では放射線の死亡に及ぼす後影響がみられるという証拠はなく,電離放射線は全ての疾患による死亡率を高めるものであるとする加齢促進の仮説には疑問が投げかけられた。また,それまでに調査報告で認められた影響に胃がん,食道がん,泌尿器がん及びリンパ腫も追加すべきであるとの示唆が得られ,また,大腸,肝臓及び他の器官にも放射線の発がん効果がみられる可能性がある。

白血病誘発効果は昭和45年から昭和49年の調査でもまだ認められ,白血病以外の悪性新生物全体の絶対危険度の平均も上昇を続け,昭和46年から昭和49年の調査では,100万人年ラド当たりの死亡数は4.2にまで達した。現在放射線の影響が明確にあるとされているほとんどの部位のがんでは,死亡率の増加が統計的に証明されるまでの最小潜伏期間は,がんの種類及び原爆時年齢によって変わるようである。また,白血病誘発効果は最近まで,死亡率に対する後影響を支配してきたが,現在では白血病以外のがんへ放射線影響の方が大きくなってきている。白血病以外の全てのがんに関する絶対危険度の継続的増加に特に関連があると思われるがんの部位は,呼吸器及び消化器のがんであった。発生率に関する資料によれば,乳がんも増加しつつあるが,これはまだ死亡率の解析にはみられない。また,一般に全観察期間を通じて平均した絶対危険度は原爆時年齢とともに増加し,原爆時年齢は,発がんに重要な役割を演ずるが,このことは対象集団の最少年齢が主ながんの発生する年齢に達するまでは完全には解明できない。前報に続き,早期入市者の白血病死亡率が高いことの確認はされず,早期入市者及び後期入市者の死亡率に重要な差異があるともいえない。

オ P53らによる「寿命調査第9報第2部原爆被爆者における癌以外の死因による死亡率,1950-78年」(昭和56年)(甲全111の16,乙全28)

引き続き,対象者に対する観察と解析が行われ,以下の記載がある。

(ア) がん以外の死因による累積死亡率は,両市,男女及び5つの被爆時年齢群のいずれにおいても,放射線量に伴う増加は認められなかった。したがって,現在までのところ放射線による非特異的な加齢促進は認められない。

(イ) 昭和25年以前の死亡の除外による偏りの大ききを求めるために,3つの補足的死亡率調査(昭和21年の広島被爆者調査,昭和20年の長崎被爆者調査及び被爆時に妊娠していた女性の調査結果)を使用して,寿命調査の調査開始(昭和25年)以前の死亡率を再解析した結果,この偏りが1950年以後に調査対象に認められた放射線影響の解釈に重大な影響を及ぼすとは考えられない。

(ウ) 極めて少ない量の誘導放射線を受けたと思われる早期入市者においては,後期入市者及び0ラド被爆群よりも死亡率が引き続き低い。この調査対象期間中の早期入市者には,白血病またはその他の悪性腫瘍による死亡の増加は認められていない。

カ P53らによる「寿命調査第10報第1部 広島・長崎の原爆被爆者における癌死亡,1950-82年」(昭和61年)(乙全12)

上記報告書には,以下の記載がある。

白血病,肺がん,女性乳がん,胃がん,結腸がん,食道がん,膀胱がん及び多発性骨髄腫について有意な線量反応が認められたほか,肝臓及び肝内胆管,卵巣及びその他子宮附属器のがんについては,有意な放射線の影響が示唆されたが,胆嚢及び前立腺のがんにおける正の線量反応は有意ではなかった。しかし,診断上の困難性及び放射線影響の薄弱性から肝臓及び卵巣のがんに対する放射線影響は明白な根拠によるものとはいえない。この解析の基となった死亡診断書における肝臓,胆嚢及び胆管のがんの診断は極めて不正確である。

白血病以外のがんについても,放射線誘発がん死亡に対する被爆時年齢と死亡時の影響には統計的に有意な相互作用が認められ,特に,被爆時低年齢群に当初認められた高い相対危険度が,時の経過に伴い減少したのに対し,被爆時高年齢群では,当初,相対危険度は低いが,その後,増加傾向を示した。これは,白血病以外の全部位のがんを合計した場合に,統計的に有意であったが,胃がん,肺がん及び女性乳がんに同様の傾向が認められた。全被爆年齢群において,白血病を除く,放射線誘発がん死亡の絶対危険度は経時的に増加している。

キ P53らによる「寿命調査第11報第2部 新線量(DS86)における1950-85年の癌死亡率」(昭和63年)(甲全38)

本報告から,これまでのT65Dによる線量推定から,DS86による線量推定に変更され,以下の記載がある。

放射線量の増加とともに死亡率が有意に高くなるのは,従前の調査結果と同様に白血病,食道がん,胃がん,結腸がん,肺がん,乳がん,卵巣がん,膀胱がん及び多発性骨髄腫であり,有意の上昇がみられないのは,直腸がん,胆嚢がん,膵臓がん,子宮がん,前立腺がん及び悪性リンパ腫であるとされ,さらに骨がん,咽頭がん,鼻がん,喉頭がん及び黒色腫以外の皮膚がんと放射線との関係も調べられているが,いずれも有意な上昇は認められなかったとされている。また,脳腫瘍以外の中枢神経系の腫瘍については上昇傾向を示したが,脳腫瘍については,その傾向は観察されなかったとし,放射線誘発がんの経年変化のパターンを明らかにするには,さらに調査が必要であろう。

また,低線量域(0.50グレイ以下)の線量反応関係の検討もされているが,白血病を除いて低線量域と高線量域での回帰係数には有意な差は認められず,白血病では,0.5グレイ未満での回帰係数は0.5グレイ以上でのそれよりも低かった。

ク P53らによる「寿命調査第11報第3部 改訂被爆線量(DS86)に基づく癌以外の死因による死亡率,1950-1985年」(平成5年)(乙全73)

この報告では,以下の記載がある。

限られた根拠しかないが,高線量域(2または3グレイ以上)においてがん以外の疾患による死亡リスクの過剰があるように思われ,がん以外の疾患による死亡率のこのような増加は,一般的に昭和40年以降で若年被爆群(被爆時年齢40歳以下)において認められ,若年被爆者の感受性が高いことを示唆している。死因別にみると,循環器及び消化器系疾患について,高線量域(2グレイ以上)で相対リスクの過剰が認められるが,この相対リスクはがんの場合よりもはるかに小さい。ただし,高線量を被爆した被爆者において,がん以外の死因による死亡が増加しているという傾向を確認し,さらに,そのような死亡増加が寿命短縮をもたらしているかどうかを明らかにするには,寿命調査対象の部分集団(成人健康調査対象)について検診で確認される疾患及び寿命調査対象の死亡率に関して追跡調査をさらに行うことが必要である。

(成人健康調査)

P54らによる「成人健康調査第7報原爆被爆者における癌以外の疾患の発生率 1958-86年(第1-14診察周期)」(平成6年)(乙全75)

P51論文の基礎資料となった報告書であり,昭和33年から昭和61年までに収集された成人健康調査集団の長期データを用いて,悪性腫瘍を除く19の疾患の発生率と電離放射線被爆との関係が初めて調査された報告であって,以下の記載がある。

子宮筋腫,慢性肝炎及び肝硬変,また甲状腺がんを除く甲状腺所見が一つ以上あることという大まかな定義に基づく甲状腺疾患に,統計的に有意な過剰リスクが認られる。子宮筋腫についての所見は,良性腫瘍が放射線被爆により発生する可能性を示す新たな証拠となるものであり,肝臓の放射線感受性を示す今回の結果は,重度被爆群において肝硬変による死亡が増加するという最近の寿命調査の報告を裏付けるものである。甲状腺の非悪性疾患に被爆時年齢の影響が認められ,被爆時年齢が20歳以下でリスクは上昇し,20歳以上ではリスクの上昇は認められていない。心臓血管系の疾患については,いずれにも有意な線量反応関係は認められなかったが,近年,若年被爆者では心筋梗塞の発生が増加している。成人健康調査において心筋梗塞と確認された症例は77例に限られ,この中には致死症例は含まれておらず,今回有意な結果が得られなかったのは症例数の不足のためかもしれない。

また,この調査は,昭和33年から昭和61年に受診者の白内障の新たな発生が放射線量に伴って増加していないことを示唆しているとされている。

(がん発生率調査)

P55らによる「原爆被爆者における癌発生率。第2部:充実性腫瘍,1958-1987年」(平成7年)(甲110の10,乙全9)

P51論文の基礎資料となった報告書であり,以下の記載がある。

死亡に関するこれまでの寿命調査所見と同様に,全充実性腫瘍について統計学的に有意な過剰リスクが立証された。胃,結腸,肺,乳房,卵巣,膀胱及び甲状腺のがんにおいて,放射線と有意な関連性が認められ,20歳以下で被爆した群において,神経組織(脳を除く)腫瘍の増加傾向があった。今回初めて寿命調査集団で放射線と肝臓及び黒色腫を除く皮膚のがん罹患との関連性がみられ,唾液腺腫瘍への原爆放射線所見を一層裏付けた。口腔及び咽頭,食道,直腸,胆嚢,膵臓,喉頭,子宮頚,子宮体,前立腺,腎臓及び腎盂のがんには放射線の有意な影響はみられず,被爆時年齢の増加とともに相対リスクが減少することが示されている。そして,原爆被爆者の今後の解析においてはがんの死亡と罹患の両方に焦点を当てるべきである。

(死亡率調査)

ア P56らによる「原爆被爆者の死亡率調査第12報,第1部癌:1950-1990年」(平成8年)(乙全8)

P51論文の基礎資料となった報告書であり,以下の記載がある。

部位・性別リスク推定値で,胃,結腸,肺,乳房,卵巣,膀胱及び甲状腺に加えて肝臓がんに有意な過剰相対リスクが認められる。

イ P57らによる「原爆被爆者の死亡率調査第12報,第2部がん以外の死亡率:1950-1990年」(平成11年・以下「P57論文」ともいう。)(乙全74)

P51論文の基礎資料となった報告書であり,以下の記載がある。

放射線量とともにがん以外の疾患の死亡率が統計的に有意に増加するという前回の解析結果を強化するもので,有意な増加は,循環器疾患(心臓病,脳卒中),消化器疾患(肝硬変が含まれている。),呼吸器疾患及び造血器系疾患に観察されている。1シーベルトの放射線に被爆した人の死亡率の増加は,約10パーセントで,がんと比べるとかなり小さいものとなっているが,今回のデータからはっきりした線量反応曲線の形を示すことはできなかった。また,有意な線量反応関係は,血液疾患による死亡にも認められ,過剰相対リスクは固形がんの数倍であった。

ウ P33ら「原爆被爆者の死亡率調査第13報固形がんおよびがん以外の疾患による死亡率:1950-1997年」(平成15年・「P33論文」ともいう。)(甲110の11の1)

P51論文発表後のものであり,以下の記載がある。

(ア) 放射線に関連した固形がんの過剰率は調査期間中を通して増加したが,新しい所見として,相対リスクは到達年齢とともに減少することが認められた。子供のときに被爆した人において相対リスクは最も高い。典型的なリスク値としては,被爆時年齢が30歳の人の固形がんリスクは,70歳で1シーベルト当たり47パーセント上昇した。

(イ) がん以外の疾患の死亡率が過去30年間の追跡調査期間中,1シーベルト当たり約14パーセントの割合でリスクが増加しており,依然として統計的に確かな証拠が示された。心臓疾患,脳卒中,消化器官及び呼吸器官の疾患に関して,統計的に有意な増加がみられた。

(ウ) 約0.5シーベルト未満の線量については,放射線影響の直接的影響は認めらなかった。

(エ) がん以外の疾患の相対リスクでは,年齢,被爆時年齢及び性について,統計的に有意な変異はなく,これらの影響の推定値はがんの場合と同程度であった。

4  放影研の疫学調査に関する指摘等について

(1) P58による「原因確率に関する意見書」の指摘(平成17年10月)(甲全64)

P58は,前記意見書において,以下のとおり指摘している。

ア 放影研の疫学調査

放影研の疫学調査は,世界史上初の原子爆弾投下による人体被害の実相を,膨大なデータの積み重ねによって明らかにした貴重な調査研究であることは確かであるが,研究の設計に関して,対照群の設定上の問題,残留放射線の影響を無視するなど,被爆線量の推定上の問題,被爆後5年間ないし13年間のデータ欠落に起因する問題があることから,被爆者が受けた原爆や原爆放射線の影響を捉えられず,また,リスクの大きさを正確に推定することができないという欠点をもったものである。したがって,放影研の疫学調査の結果を機械的に用いることには慎重でなければならない。すなわち,

(ア) 対照群の設定上の問題

原因確率算出の根拠となった寿命調査第12報等によれば,放影研では,リスクの分析において,対照群を設定していない。放影研は,相対リスクや,これを基礎とする指標を算出するうえで,基準となる非暴露群の罹患率等について,実際に調査したデータを使う代わりに,暴露群について回帰分析を行い,得られた回帰式から想定上の0線量における罹患率を推定し,バックグラウンドリスクとしている。放影研では,広島,長崎に居住している住民を比較対照群としているが,両都市の原爆では,広い地域の全ての住民に被爆があり,遠距離被爆者などについても残留放射線のような直爆放射線以外の放射線の被爆を様々な程度で受けていることを考慮すると,このようなものを対照群に設定することには当然問題がある。適当な対照群が設定されなかった場合,暴露群での線量反応関係が正しく捉えられているのであれば,放影研が採用したような対照群の設定をすることも一つの方法であると考えられるが,以下に述べるとおり,暴露群での線量反応関係が正しく捉えられていないから,正しい推定ができるとは考えられない。また,比較的高いレベルの放射線量の暴露から得られた健康障害に関する用量(線量)反応関係が,より低いレベルの放射線量の暴露においても適用できるのかという問題が残る。

さらに,残留放射線を含めた放射線被爆の影響を調べようとする場合,残留放射線の被爆を受けていない人々を対照群にする必要があるところ,放影研ではこのような調査がされておらず,対照群の設定に問題がある。

(イ) 被爆線量の推定上の問題

原爆被爆者の放射線被爆の形態としては,初期放射線による外部被爆,放射性降下物や誘導放射化物質からの外部被爆及び内部被爆の形態がある。しかるに,放影研の疫学調査では,原爆放射線のうち,初期放射線のみを暴露要因として評価し,放射性降下物や誘導放射化物質など残留放射線は暴露要因として評価されていないため,残留放射線による被爆の影響を捉えることができない。仮に,初期放射線と残留放射線とを別々の要因として,初期放射線の影響をみようとした場合であっても,観察対象者の残留放射線の暴露量が評価されていない場合は,残留放射線の交絡を修正して,正しい関連を導くことはできない。

したがって,放影研の疫学調査では,原爆放射線全体の影響が捉えられていないことになるから,暴露群における線量反応関係が正しく捉えられていないこととなる。

(ウ) データ欠落に起因する問題

放影研の疫学調査においては,寿命調査については昭和25年,成人健康調査については昭和33年までに,それぞれ死亡した放射線感受性が強いと思われる被爆者の調査がなされていない。一般に,疫学調査開始時点が最短潜伏期間よりも後に設定されると,感受性の高い人達や早期に発症した人達への影響を見落とすことになるし,放射線被爆から疾病の発症までの潜伏期が短いものの評価については,観察開始の遅れを考慮する必要があり,逆に,観察開始時点が早すぎても,影響が発現しない時期を観察期間に繰り入れることになる点を考慮すべきである。

イ 原因確率を原爆症認定基準に用いることの問題点について

寄与リスクとは,暴露群全体が受けたリスクの大きさを,暴露群の罹患率などの影響のうち,当該要因の暴露がなかったら,影響が発現しなかったであろう部分の大きさを表現したものであるが,暴露群に属する個々の人が,暴露を受けたために発現した人なのか,あるいは暴露を受けなくとも発現した人なのかを特定することはできないのであって,このことは,寄与リスクの大小に関係なく当てはまる。したがって,寄与リスクが小さいからといって,当該要因が当該集団に属する特定の個人の発症原因を構成していないとして,寄与リスクの小さい集団に属する全員の放射線起因性を否定するのは誤りである。

疾病の発症に関わる要因は多数あり,相互に関連しながら,相乗あるいは相加,相殺効果を示しながら,多くの要因が総体として疾病の発症に作用している。ある個人が新たな要因に暴露されたとき,以前からもっていた要因との間に新たな関係が作られ,疾病の発生に関与することになるのであって,新たに負荷された要因が,以前からあった要因と無関係に,独自にその個体に関わって,ある疾病を発症させるかどうかを決定するということはない。ところが,旧審査の方針に用いられている原因確率は,ある要因が他の要因と独立して,個々人の疾病の発症に作用し,当該疾病を発症させた確率とされている。しかしながら,前記のような疾病の多要因性にかんがみれば,このような原因確率という概念自体疑問である。

以上のとおり,ある集団の寄与リスクの大小のみで,その集団に属する特定個人の発症原因を特定することができない以上,寄与リスク(原因確率)の大きさをもって,個人に発症した疾病の放射線起因性を否定するための判断基準とすることは誤っている。

そうすると,個々人に発生した疾病の放射線起因性の判断に当たっては,放影研の疫学調査の結果に基づく寄与リスクを転用した原因確率を唯一の基準とすべきではなく,臨床医学や放射線生物学等をはじめとする幅広い分野の学問研究の成果の視点を取り入れる必要がある。

(2) P51による「放射線の人体への健康影響評価に関する研究」についての意見書(平成17年10月)(乙全99,125)の指摘について

P51は,上記意見書において,以下のとおり指摘している。

ア 放影研の疫学調査

放影研の疫学調査においては,ポアソン回帰分析による高度な解析を行い,被爆線量0の場合の死亡(罹患)率の値を推定し,これと任意の暴露要因量(任意の被爆線量)での死亡(罹患)率の増加割合を推定して,相対リスクなどを算出している。

また,全くの非暴露群を設定して,これと暴露群との比較を行う方法は,実施が可能であれば,望ましい方法ではある。しかしながら,このような方法による場合,暴露群と比較して,非暴露群において,暴露因子以外の要因の分布が異なることが少なくなく,結果の解釈に多大な困難さを生じさせることになって,不都合である。放影研も,過去の疫学調査において,内部比較法とあわせて外部比較法を用いたことがあったが,非暴露群における暴露因子以外の要因の分布が暴露群と大きく異なる可能性が指摘されたため,内部比較法を用いることとしたのである。

放影研の疫学調査集団は,原爆投下から5年経過した昭和25年に実施された国勢調査に基づいて設定されたため,最初の5年間に放射線に対する感受性の高い人達が選択的に死亡し,結果的に放射線に対する抵抗性の高い集団を追跡していることにより,放影研の調査結果に偏りを来している可能性があることを全く否定することはできない。しかしながら,放影研では,この点について,幾つかの検討がなされ,それらの結果によると,選択による大きな偏りが存在する可能性は低いものと報告されている。なお,現在,寿命調査で得られているリスク推定は,いわば,被爆者のうち,昭和25年当時生存していた者という集団におけるリスク推定となるが,現時点において生存している被爆者は,昭和25年の時点においても生存していたのだから,原爆放射線のリスク評価として,放影研による疫学調査の結果を応用することについて問題は少ない。

イ 原因確率の算定

疫学調査は,集団の傾向をみるものであって,その結果は,平均的なものであるから,集団に属する各個人については,必ずしも的確に当てはまるということはできない。よって,各個人の放射線起因性について,疫学調査の結果をもって,厳密に判断するということであれば,問題がある。しかしながら,疫学調査の結果を,放射線起因性があることの可能性を示唆するものとして,参考資料的に利用するのはよいと思う。疫学的には,ほんのわずかでも被爆をすれば,それに基づいてがんが余分に起こってくる可能性はある。

5  検討

(1) 疾病の原因確率を決定する基礎となったP51論文の寄与リスクは,放影研の寿命調査及び成人健康調査に基づいて算定され,この寿命調査及び成人健康調査に用いられた線量評価はDS86に基づくものであるところ,前記のとおり,DS86は,爆心地から遠距離の地点での線量評価が過小評価となっている蓋然性が高いことや,また,内部被爆による線量を無視できるものとすることには問題があり,したがって,前記寄与リスクの算出に当たって,初期放射線以外の残留放射線及び内部被爆が考慮されていない点等に問題があるといえる。また,P51論文における寄与リスク算出には,ポアソン回帰分析の手法が採用されているところ,解析の手法自体がどのように高度な手法であっても,その基礎となる調査集団における被爆線量に関するデータに前記のような問題点があることからすると,上記手法によって得られた数値自体が過小なものとなっている可能性があることを否定し得ない。

さらに,P51論文では,寄与リスクを算定するに当たり,甲状腺がん及び乳がんについては,発生率調査で得られた数値を用い,白血病,胃,大腸,肺がんについては死亡率調査で得られた数値を用いている。そこで,P51論文(乙全7)の表1(がん過剰相対リスク~死亡率調査,発生率調査から)によって,1シーベルト当たりの過剰相対リスクについて,死亡率調査による場合と発生率調査による場合とを比較してみると,食道がんのように,死亡率調査によるそれ(0.53)が,発生率調査によるそれ(0.28)を上回るものもあるが,胃(死亡率調査で0.24,発生率調査で0.32),結腸(死亡率調査で0.65,発生率調査で0.72),直腸(死亡率調査で0.03,発生率調査で0.21),肝臓(死亡率調査で0.29,発生率調査で0.49),乳がん(死亡率調査で1.41,発生率調査で1.6)では,いずれも死亡率調査の値より,発生率調査の値が大きく,固形がん全体でも,死亡率調査で0.40,発生率調査で0.63となっている。このように,1シーベルト当たりの過剰相対リスクの値が死亡率調査と発生率調査とでは,相当程度の開きがあり(おおむね,死亡率調査による値より発生率調査による値の方が大きい。),寄与リスクが,過剰相対リスク値に1を足した値を分母とし,過剰相対リスク値を分子とする計算によって表されるのであるから,過剰相対リスク値が大きくなれば,寄与リスク値も大きくなることは明らかであって,過剰相対リスク値を死亡率調査によるのか,発生率調査によるのかは,寄与リスク(原因確率)の算定に影響することもまた,明らかである。そうすると,同じがんでありながら,寄与リスクを算定するに際し,あるがんについては,死亡率調査による値を基に寄与リスクを算定し,あるがんについては発生率調査による値を基に算定して,これらを一律のものとして扱って,10パーセントあるいは50パーセントを基準として,疾病の放射線起因性の有無を判断するということ自体,これを正当化し得るような特段の事情がない限り,正当なものとは評価し難い。

この点について,1審被告らは,死亡率調査(寿命調査)は,発生率調査(成人健康調査)に比べて調査期間が長く,調査集団が大きいから疫学的精度が高いこと,放影研が公開しているデータは,死亡率についてはカーマ線量,臓器線量の情報,発生率については臓器線量の情報であるところ,多くの場合,個人の臓器線量を算出するのは困難で,カーマ線量の方が適用しやすいこと,甲状腺がんと乳がんは予後のよいがんであることを挙げる。

しかしながら,寿命調査の対象者数が成人健康調査の対象者数より大きいことは指摘のとおりであるが,P51論文の作成時に公開されていた死亡率調査のデータは1950年から1990年までの調査結果,発生率調査のそれは1958年から1987年までの調査結果であり,疫学的な精度を左右するほどのデータ量の違いがあるとも直ちにいい難い。次に,カーマ線量を用いて寄与リスクを求めることが妥当であるとの点については,臓器線量からカーマ線量を求めることは可能であり,現に,P51論文でも,発生率調査の値によって寄与リスクを求めた甲状腺がん,乳がんについては,臓器線量からカーマ線量に変換をした値を用いているのであるから,これをもって,前記特段の事情とはいい難い。また,乳がんなどが予後のよいがんであるという点については,このようなことが一般的にいえるとしても,予後のよいがんか,そうでないがんかというのは,どのような基準で区別するのか曖昧なものであるし,現に乳がんについては,前記のとおり,過剰相対リスクの値が,死亡率調査による値と発生率調査による値では,相当異なっているのであるから,前記事情をもって前記特段の事情とはいい難い。よって,1審被告らの前記主張は採用し難い。

(2) また,前記の放影研の調査結果によると,被爆当時から年月を経過するにしたがって,放射線被爆との関連性を有する疾患の種類が増加している。これをがんについてみると,ごく初期のころの調査(寿命調査第3報)によると,爆心地から1399メートル以内の被爆者は,これより遠距離の被爆者より,全死因,全病死因,結核(広島男子),白血病とその他の悪性新生物の標準化死亡比が高率であることが分かったとしている程度であるが,その後,がんについては部位別の研究がなされ,同第6報,同第7報では,白血病,悪性腫瘍及び良性または性質不詳の新生物に放射線影響が認められるとされ,子宮がんなどの相対的危険度は有意に高くはないとされていたが,同第8報では,放射線影響が統計的に有意であると示唆されるがんに,胃がん,食道がん,泌尿器がん及びリンパ腫が追加され,大腸,肝臓及び他の器官にも放射線の発がん効果がみられる可能性が指摘された。その後,同第10報では,白血病,肺がん,女性乳がん,胃がん,結腸がん,食道がん,膀胱がん及び多発性骨髄腫について有意な線量反応が認められたほか,肝臓及び肝内胆管,卵巣及びその他子宮附属器のがんについては,有意な放射線影響が示唆されたが,胆嚢及び前立腺のがんにおける正の線量反応は有意ではなかったとされ,同11報では,放射線量の増加とともに死亡率が有意に高くなるのは,従前の調査結果と同様の各種がん及び多発性骨髄腫であり,有意の上昇がみられないのは,直腸がん,胆嚢がん,膵臓がん,子宮がん,前立腺がん及び悪性リンパ腫であるとされ,さらに骨がん,咽頭がん,鼻がん,喉頭がん及び黒色腫以外の皮膚がんと放射線との関係も調べられているが,いずれも有意な上昇は認められなかったとされている。このようなことは,がん以外の疾患についても当てはまるのであり,放影研による長期間にわたる継続的な研究の結果,線量反応関係が認められる疾病が,がんについては部位別に,また,がん以外のものについてもしだいに明らかになってきている経緯が認められ,このような経緯に照らすと,さらに研究が継続されることによって,新たな知見が得られる可能性が高いことが十分に窺われる。

そして,原爆による放射線被爆による発がんの可能性が一生継続する場合,コホート研究の趣旨からしても,研究の対象となっている調査集団中に生存者がいる限り,観察を継続し続けることに意味があるのであって,現在得られているデータも,いわば観察途中のデータにすぎないという側面を有しているものである。

そうすると,P51論文が寄与リスクを算定するのに用いた寿命調査及びがん発生率調査の値は,それがその時点での最新のデータであるとしても,同論文が作成された平成12年ころのデータに基づくものであり,それ以後の研究の成果や知見を加味したものではないという限界を有するものである。

また,疫学調査の性質上,その結果が直ちに集団に属する個々人について当てはまるというものではないことをも考慮すると,P51論文による寄与リスク(原因確率)を用いて,個々人の疾病についての放射線起因性の有無を判断するについては,このような限界があることを前提として判断することが必要であり,P51自身が指摘しているように,個々の申請者の疾病の放射線起因性の有無を判断するに当たり,原因確率を放射線起因性があることの可能性を示唆するものとして,参考資料として利用することについては意義があるものといえるとしても,寄与リスク(原因確率)が10パーセント以下であることをもって,ある個人の疾病についての放射線起因性を否定することは相当とは思われない。

(3) 以上によると,旧審査の方針が採用する原因確率については,基礎資料として使用された放影研の疫学調査では,その線量評価としてDS86が用いられていることから,DS86自体の線量評価についての問題点のみならず,DS86による線量評価には初期放射線以外の残留放射線や内部被爆による線量が全く考慮されていないうえ,ポアソン回帰解析に用いられたデータ自体に前記のような線量評価の正確性に問題があって,得られた過剰リスクが低い値となっている可能性があること,死亡率調査と発生率調査における過剰リスクには相当程度の差がみられ,概して,死亡率調査のそれより,発生率調査のそれの方が高い値となっていることから,あるがんについては死亡率調査の過剰リスクに基づいて寄与リスクを求め,あるがんについては発生率調査の過剰リスクに基づいて寄与リスクを求めることについての合理性を認め難く,したがって,現に生存している個々人の放射線起因性に関する判断をするに際し,死亡率調査の過剰リスクに基づいて算定された寄与リスクを用いることについても問題がないとはいえないこと,さらに,寄与リスク(原因確率)は,前記のような事情や,これを求めるための基礎資料として使用された放影研疫学調査結果自体,観察途中のデータに過ぎず,一定時期以降の調査結果や知見が加味されていないデータであり,このようなデータに基づいて求められた値にすぎないのに,個々人の疾病の放射線起因性の有無を判断するについて,一律に10パーセントあるいは50パーセントの数値を基準として評価することは相当とはいないこと,このような点から,その正確性には問題があるといわざるを得ない。

第6放射線起因性の判断基準

1  旧審査の方針に基づく放射線起因性の判断の妥当性

旧審査の方針の内容については前判示のとおりであり,その概要は,当該疾病の放射線起因性を判断するについては,基本的には,線量評価システムであるDS86に基づき,被爆者が被爆した市,被爆した際の爆心地からの距離によって算出される初期放射線量,被爆した市と,被爆者が爆心地からどの程度離れた地点で,爆発後どの程度の時間留まったかによって算出される残留放射線量,被爆者が一定の場所に留まった場合に,一定の数値として決められている放射性降下物による被爆線量の合計値を算出し,このようにして算出された被爆線量と被爆時の年齢あるいは性別をもとに,疾病ごとに定められている原因確率を算出して得られる値あるいはしきい値を目安とした推定基準を適用して,高度の蓋然性の有無を決めるというものである。その際,推定規定による判定を機械的にすべきではないとされてはいるが,どのような場合に,どのような観点を考慮して,機械的判断とならないようにして,高度の蓋然性を判断したらよいのか,その具体的な判断基準となる要素を指摘した規定はない。

そして,これまでに検討してきたところによれば,旧審査の方針の判断基準の重要な要素であるDS86による初期放射線量評価,残留放射線評価,原因確率の定め方等には,それらが一定の優れた科学的知見に基づいて考案されたものであることは認められるものの,それぞれに限界ないし問題点を抱えたシステムあるいは基準であることが認められるのであるから,その基準のみに基づいて放射線起因性の判断をすることは相当とは認め難い。前記のとおり旧審査の方針自体基準の機械的適用を戒める旨の定めは置いているものの,それは前記システムなり基準に前記のような問題点があることを前提にしたものではないため,その基準を当てはめるうえでどのような点を考慮すべきかが示されておらず,したがって,それによって判断の適正化を図ることは困難というほかはない。

2  本件訴訟における判断基準

(1) 立証責任及び立証の程度

前記のとおり,被爆者が被爆者援護法による原爆症認定を受けるためには,被爆者が現に医療を要する状態にあること(要医療性)のほか,当該負傷または疾病が原子爆弾の放射線に起因すること(放射線起因性)が必要とされる。

そして,平成12年最高裁判決は,放射線起因性の立証責任及び立証の程度について「行政処分の要件として因果関係の存在が必要とされる場合に,その拒否処分の取消訴訟において被処分者がすべき因果関係の立証の程度は,特別の定めがない限り,通常の民事訴訟における場合と異なるものではない。そして,訴訟上の因果関係の立証は,一点の疑義も許されない自然科学的証明ではないが,経験則に照らして全証拠を総合検討し,特定の事実が特定の結果を招来した関係を是認し得る高度の蓋然性を証明することであり,その判定は,通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ち得るものであることを必要とすると解すべきである」として,原爆医療法の原爆症認定における放射線起因性の立証責任を拒否処分の取消しを求める者に負わせるとともに,立証の程度について「相当程度の蓋然性」の立証では足りないとの判断を示したが,当裁判所も,原爆医療法の廃止に伴って制定された被爆者援護法における原爆症認定の要件である放射線起因性の判断に当たっては,上記最高裁判所の判示するところと同様の考え方に立って判断するのが相当であると考える。

(2) 放射線起因性の判断のあり方

本件訴訟における放射線起因性の判断基準としては,基本的には放射線起因性を判断するうえでは被爆者の被爆線量を考慮することは当然のことであり,現時点においては線量評価システムとしてはDS86に勝るものは考案されていないことから,同システムには前記限界ないし問題点があることを考慮に入れたうえで参考とし,また,審査の方針が定める原因確率についても前記問題点があることを考慮に入れるとともに,申請疾病自体の医学的知見,放射能や放射線に関する科学的知見,申請疾病と放射線との関連性に関する科学的知見あるいは疫学的知見は日々進歩するものであることを考慮に入れて放射線起因性を判断すべきであると考える。特に,遠距離地点での被爆者や入市被爆者についての被爆線量を推定するに当たっては,これらの者の正確な被爆線量を数値化すること自体,相当困難であることにかんがみて,原爆症認定の申請をした被爆者に急性症状が認められる場合には,原爆放射線の影響を受けたことの根拠の一つとして考慮し,その具体的症状,すなわち,その症状の具体的な内容や程度,発症の時期や症状が継続した期間等を把握し,放射線被曝治療に係る急性症状の知見等をも参考にしつつ,これを判断すべきである。そして,上記のほか,1審原告らの個々の申請疾病の放射線起因性の判断をするについては,1審原告らの被爆以前の生活状況,被爆時の状況,被爆後の行動,被爆後に生じた症状等,被爆前の健康状態と被爆後の生活状況や健康状態の比較検討,申請疾病の内容,発病の時期やその後の経緯を勘案する必要がある。これらの事情を勘案したうえ,被爆者援護法の立法趣旨に照らして,当該申請疾病が放射線に起因しているということを,通常人であれば,疑いを差し挟まない程度に真実であるという確信を持ち得るものかどうかを判断して,決すべきである。

(3) 科学的知見について

申請疾病の放射線起因性に関する判断は,原爆放射線と当該申請疾病との間の因果関係の存否を判断するものであるところ,それを判断するに当たっては,その対象となる事項の性質上高度に科学的な知見に基づく判断が必要となる。そして,そのためには,当該申請疾病自体の医学的な知見,原爆放射線自体に関する科学的知見及び当該申請疾病の原爆放射線起因性に関する科学的,疫学的知見がどのようなものであるかを検討することが必要であるが,それらの知見はいずれも高度に科学的な知見であり,また,知見の中にはその専門分野の中で確立した知見もあれば,いまだ確立しているとはいえない知見もある。そして,本件における放射線起因性の判断は,自然科学的な厳密な因果関係の存否についての判断ではなく,法律的な因果関係の判断であり,通常人からみた高度の蓋然性の有無の判断であるから,その知見がその分野において確立していることが,誰の目からみても明らかなものについては,その知見を前提として判断することになるが,一定の水準にある学問的成果として是認されるものと判断される複数の知見があり,その内容が,当該申請疾病と原爆放射線の起因性の有無を判断するについて,必ずしも,両立し得る内容とはいえない場合は,そのような複数の知見が存在していることを前提として,そのような知見が明らかになった経緯,そのような知見を支えている事実,それぞれの知見が,原爆放射線と当該申請疾病との間の法律的な因果関係の存否を判断するという目的と照らし合わせた場合,どのような点が,これを肯定する要素となるのか,あるいはこれを否定する要素となるのか等を検討し,最終的には被爆者援護法の立法趣旨に照らして,当該申請疾病が放射線に起因しているということを,通常人であれば,疑いを差し挟まない程度に真実であるという確信を持ち得るものかどうかを判断して,これを決するほかない。

第71審原告らの原爆症認定要件の存否について

1  1審原告P1について

(1) 1審原告P1の被爆状況等

証拠(甲B3,6,原審における1審原告P1,各項末尾に掲記の証拠)によれば,以下の事実が認められる。

ア 被爆前の生活状況,被爆状況及び被爆後の行動について(甲B3,6,原審における1審原告P1)

(ア) 被爆前の生活状況

1審原告P1(当時18歳)は,昭和▲年▲月▲日,宮崎県で出生し,地元の高等女学校を卒業後,昭和19年春,女子勤労挺身隊に入隊し,爆心地から約3.1キロメートル地点にある長崎市のP59P60工場で検査係に配属されていた。

(イ) 被爆状況

昭和20年8月9日午前11時ころ,1審原告P1は,上記P60工場の事務所で,同じ挺身隊員のP61及びP62とともに書類の仕分作業に従事していたところ,強烈な閃光が目に入り,閃光と同時にごう音とともに衝撃が事務所内を走り,倒れてきた書類棚の下敷きになった。1審原告P1はしばらく気を失っていたが,友人に助け出され,左の額からの出血か所を三角きんで縛ってもらった。

(ウ) 被爆後の行動

1審原告P1は,額からの出血が止まらず,浦上駅(爆心地から約800メートル)の北側にある大学病院で治療を受けるため,同僚であったP62,P61とともに午後1時ころ工場を出て,浦上川に沿って徒歩で大学病院に向かった。工場を出て,後に梁川橋と判明した橋(爆心地から約1.1キロメートル)を渡ったが,川にはたくさんの死体が浮いていた。しばらく歩き,後に浦上駅と分かった駅のプラットホームで休憩し,再び線路沿いに歩いて爆心地から約600メートルに位置する竹岩橋あたりで,P62が付近の病院を見に行ってくれた。しかし,病院の建物が壊れていると言うので,長崎市β町にある寄宿舎に帰ることにした。寄宿舎に戻る途中,浦上駅を過ぎたあたりで黒い雨に打たれた。黒い雨はべとべとしていて粘度が高く,半そでのセーラー服を着ていたため,腕についた雨をなかなかぬぐえなかった。黒い雨は目にも入ったため,黒い雨が付着したままの手で目をこすったりもした。夕方の6時くらいに寄宿舎に戻ったが,建物が倒壊していたため,それ以後3日くらい裏山のカボチャ畑で野宿をした。その後,P60工場や造船所に行き,後片付けをしているうちに同月15日の終戦を迎え,その後4日くらいにかけて,実家のある宮崎市のγ駅に到着した。

なお,被告らは,1審原告P1が認定申請時に提出した認定申請書には,被爆当日,病院を探すため爆心地付近を歩いた旨の記載はなく,浦上駅近辺まで行ったとの1審原告P1の供述等は信用性がない旨主張するが,証拠(甲B3,乙B1,4の1,1審原告P1本人)によれば,1審原告P1は,認定申請書及び異議申立書に被爆当日におよそ5時間にわたって長崎市内をさまよい,爆心地付近にまで行ってしまった旨を記載しており,その内容は原審における同人の供述内容と基本的な部分で齟齬がないから,1審原告P1の上記の説明内容は基本的に信用すべきものと認められる。

イ 被爆直後に生じた症状等について

1審原告P1は,昭和20年8月末ころから,急に発熱し,体のだるさを感じ,髪の毛が抜け始めた。その後1か月ほどで全ての髪の毛がなくなり丸坊主になってしまった。また,同年9月初めころからは,赤痢のようなひどい下痢が続き,血便が出始め,このような状態が9月いっぱい続いた。同年10月ころには,首のリンパ腺が腫れて首が回らなくなりγ町のP65病院で診察を受け,医師から,長崎市に行ったことはないかと尋ねられ,その症状は原爆に起因するものであると言われた。

また,1審原告P1は,翌昭和21年の正月ころから,歯がぐらつき,歯茎から出血しやすくなる状態が1か月ほど続いた。そして,同年3月ころ輸尿管結石になり,約2か月通院治療した。また,同年8月には手足が腫れて診察を受けたところ,腎臓が悪いと言われ,腎機能は現在も落ちており,疲労などを原因として貧血状態になることがある。

ウ 被爆前の健康状態並びに被爆後の生活状況及び健康状態

(ア) 被爆前の健康状態

1審原告P1は,被爆前は健康状態に異常はなく,既往症もなかった。

(イ) 被爆後の生活状況及び健康状態等

a 1審原告P1は,昭和23年ころ嫁いだが,嫁ぎ先でも病気勝ちで,流産を繰り返した後,2子を出産した。しかし,昭和30年ころ離婚し,その後,愛知県で再婚し,1子を出産した。

b 1審原告P1は,昭和40年ころから貧血になり,昭和53年ころからは腰痛,体全体の痛みに悩まされるようになった。そして,昭和56年11月,広島のP49病院にて心臓肥大との診断を受け,昭和60年ころからは風邪を引きやすく,扁桃腺が頻繁に腫れるようになった。

c 1審原告P1は,平成14年8月21日には,P66病院で腰椎辷症,慢性腎炎,高脂血症,高血圧症の診断を受け,変形性脊髄症,骨粗鬆症とも診断されている。

d 1審原告P1の眼の症状について

1審原告P1は,平成2,3年ころ(63,64歳ころ)から,目がかすみ,みえにくくなったと感じていたが,その後,視力の低下や目のかすみがひどくなってきたので,平成9年5月13日(70歳)に愛知県一宮市内のP67を受診したところ,両眼白内障と診断された。その後しばらくの間,P67で点眼内服治療を受け,平成13年11月26日(74歳),右眼の白内障の手術を受けて眼内レンズを挿入した。左眼の視力は0.01程度であり,現在も白内障の治療中で,医師から手術が必要と言われているが,1審原告P1の意向でいまだ手術を受けていない(原審における1審原告P1本人)。

エ 原爆症認定申請と申請疾病

(ア) 原爆症認定申請及び申請書等の記載

1審原告P1は,平成14年7月9日,認定申請書(乙B1)の「負傷または疾病の名称」欄に両眼白内障と記載し,P67医院のP68医師による意見書(乙B2)及び同医院のP69検査技師が記載した健康診断個人票(乙B3)を添付のうえ,1審被告厚生労働大臣に対し,被爆者援護法11条1項の認定申請をした。上記認定申請書の「負傷または疾病の名称」欄には「両眼白内障」と記載されており,「被爆時以後における健康状態の概要及び原子爆弾に起因すると思われる負傷若しくは疾病について医療を受けまたは原子爆弾に起因すると思われる自覚症状があったときは,その医療または自覚症状の概要」欄には,被爆時の状況のほか,貧血や変形性腰痛,脱水症状,白血球が少ないと指摘されていることなどが記載されている。

なお,P68医師作成の上記意見書(平成14年6月15日付け)の「負傷または疾病の名称」欄には,「両眼白内障」と,「既往症」欄には「腰痛」と,「現症所見」欄には「右眼白内障手術実施後視力0.2(矯正0.8),左眼水晶体前嚢下で高度混濁 視力0.1(矯正不能)」と,「当該負傷または疾病が原子爆弾の放射能に起因する旨,原子爆弾の傷害作用に起因するも放射能に起因するものでない場合においては,その者の治ゆ能力が原子爆弾の放射能の影響を受けている旨の医師の意見」欄には「水晶体の混濁状況からして加齢によるものよりも被爆によるものと推定する。」とそれぞれ記載されており,P69検査技師が記載した上記健康診断個人票の「既往歴」欄には「9年初頃から視力低下に気付く 腰痛もあり治療中」と,「現症」欄には「9年5月13日初診 水晶体両眼共前嚢下に中等度の混濁を認め視力両眼共0.4,13年11月視力両眼共矯正0.1に低下,右眼の白内障手術実施,左眼は現在も白内障治療中」と記載されている。

一方,原告P1の診療録(乙B8)の平成14年6月15日の欄には,「水晶体 右人工レンズ,左水晶体後嚢下円盤状混濁,前極前嚢下にも混濁あり」と記載されている。

(イ) 却下処分

1審被告厚生労働大臣は,平成15年1月28日付けで上記申請を却下する処分(以下「本件1審原告P1却下処分」という。)をした(甲B1)。

(ウ) 異議申立て

1審原告P1は,本件1審原告P1処分を不服として,平成15年4月2日,1審被告厚生労働大臣に対し,異議の申立てをした(乙B4の1・2)。

以上の認定申請書,意見書及び健康診断個人票の各記載を総合すると,1審原告P1の原爆症認定申請疾患は,両眼白内障と解される。

(2) 1審原告P1の被爆線量

前記認定事実によれば,1審原告P1は,長崎の爆心地から約3.1キロメートルの距離にある造船所の事務所内で被爆したものである。そして,旧審査の方針別表9は初期放射線量による被爆線量を定めているところ,同表には爆心地から2500メートル以遠の地点の被爆線量を定めていないので,旧審査の方針によると1審原告P1の初期放射線による被爆線量は0ということになる。また,前記認定事実及び旧審査の方針の別表10によると,1審原告P1の被爆後の行動による残留放射線量は1センチグレイ程度となる。そうすると,1審原告P1の被爆線量は,白内障についてのしきい値とされる1.75シーベルトには達しない。

しかしながら,前記認定したように,1審原告P1のように爆心地から3.1キロメートルの地点で被爆したいわゆる遠距離被爆者については,DS86による初期放射線量が過小評価されている可能性があることに留意する必要がある。また,1審原告P1は,原爆投下当日,原爆が投下された数時間後に爆心地から最短距離にして600メートルの地点まで額に傷を負ったままの状態で接近をしており,しかもその後,額に出血している状態で,黒い雨に打たれ,寄宿舎付近に避難したというのであるから,誘導放射能や放射性降下物が身体や衣服に付着し,または体内に入ったことは十分に考えられ,誘導放射能や放射性降下物による相当量の外部被爆及び内部被爆をした可能性があり,旧審査の方針による残留放射線量は過小評価されている可能性がある。

そして,1審原告P1には,前記のとおり,下痢,脱毛といった放射線による急性症状として説明することが可能な症状を発現し,その後も,被爆前は格別,健康状態に異常はみられなかったのに,被爆後,体のだるさを感じるようになり,このような脱力感は相当長期間に及び,昭和21年年初ころには,歯茎からの出血傾向がみられ,同年3月ころには輸尿管結石となって通院をし,その後も,貧血,腰痛,心臓肥大,腰椎辷症,慢性腎炎,高脂血症,高血圧症など多数の疾病を発症するなど,被爆を境にして健康状態は急激かつ著しく悪化し,長期にわたって体調不良の状態が継続していることにかんがみると,1審原告P1の被爆線量は旧審査の方針で算定された被爆線量より多量の線量を被爆したものと推認するのが相当である。

なお,1審被告らは,1審原告P1に生じた前記下痢,脱毛等といった身体症状は,原爆放射線に起因するものではないと主張し,その根拠として,放射線に起因する急性症状としての下痢,脱毛の発症にはしきい値があり,特徴のある発症等の経過をたどるところ,1審原告P1は,前記しきい値を超える線量を被爆していないうえ,放射線被爆による下痢,脱毛について現れる特徴的な発症経過がみられないことを挙げる。

しかしながら,DS86に基づく線量評価のみを基準にして急性症状の有無を判断することが相当でないことは前に認定判示したとおりであり,したがって,上記線量評価に基づいて1審原告P1に生じた前記症状を原爆放射線に起因するものでないとの1審被告らの前記主張は採用し難い。

(3) 1審原告P1に生じた白内障の放射線起因性判断における問題点

放射線白内障が放射線被曝によって発症する疾病であることは確立された知見である。それは,旧審査の方針においても認められており,さらに,新しい審査の方針においては,申請者の被爆地点が爆心地より約3.5キロメートル以内である場合には,格段に反対すべき事由がない限り,放射線起因性が積極的に認定される。しかしながら,旧審査の方針においては,放射線白内障は放射線被爆により確定的な影響を受ける疾病として1.75シーベルトというしきい値が設けられていることや,白内障には放射線白内障だけではなく誰でも一定の年齢に達すれば発症する可能性が高いとされる老人性白内障も存在することから,1審原告P1が罹患した白内障の放射線起因性を判断するためには,1審原告P1の被爆線量のみならず,放射線白内障にはしきい値は存在するのか,放射線白内障と老人性白内障とはどのように区別されるのかなどの点について検討する必要がある。

ア 申請疾病である両眼白内障と放射線被爆との関係に関する知見についてまず,白内障の病像や白内障と放射線被爆に関する知見としては以下のようなものがある。

(ア) 白内障の病態(現代の眼科学)の指摘(乙全82)

a 水晶体の構造

水晶体は,透明なカプセル,すなわち水晶体囊に包まれ,直径は9ミリメートル,厚さ3ないし4ミリメートル,重さ0.2グラムで,ちょうど錠剤のような形をした両凸面レンズである。水晶体の赤道部と毛様体との間には無数の繊維状の毛様小帯すなわちチン小帯が張っていて,これにより,虹彩の裏側でガラス体の前に保持されている。水晶体はほぼ無色透明なレンズで,血管,神経はない。水晶体の前面のカプセルを前囊,後面のものを後囊と呼ぶが,前嚢下には一層の上皮細胞層がある。この内側には規則正しく,密に配列した無数の六角柱状の繊維があり,水晶体質の大部分をなしている。水晶体中心部の繊維は,25歳を過ぎるころから硬くなり,水晶体核を形成する。この核は,加齢とともに漸次増大し,硬化していく。核の周りで水晶体囊との間の部分を水晶体皮質と呼ぶ。

b 水晶体の検査法

水晶体は,細隙灯顕微鏡によって観察される。細いスリット光を斜め横から眼内に入れて,生体顕微鏡でみると,角膜に次いで前房の奥に瞳孔を通して水晶体が光学的な切片の像として観察される。これにより,水晶体に混濁があれば,その部位,範囲などが観察され,徹照法もあわせて行われる。

c 白内障について

白内障とは水晶体が混濁した状態をいう。その混濁はタンパクの変性,繊維の膨化や破壊によるもので,これには先天性のものと後天性のものがある。後天性の白内障としては,原因別に,老人性,外傷性,併発性,放射線性などに分けられる。混濁の程度,範囲,部位に応じて視力低下を訴える。

Ⅰ 老人性白内障について

白内障の中でも最も多いものである。原因としては,加齢による水晶体の混濁で,70歳ないし80歳の高齢者になると多少なりとも全ての人にこれが認められる。初発年齢には個人差があるが,一般に50歳以上で,他に原因をみい出せないものを指す。症状としては,視力障害を訴え,程度の差はあるが両側性で,進行は一般に緩徐である。混濁は赤道部皮質や核,あるいは後囊下に始まる。混濁の程度により進行の順に初発白内障,未熟白内障,成熟白内障,過熱白内障に分けられる。

治療としては,視力が障害され,日常生活に支障を来すようになったら手術を行う。また,職業,社会的生活環境も考慮される。

Ⅱ 放射線白内障

放射線エネルギーによって生じる白内障で,レントゲンや原爆などの被爆による。放射線を受けると6か月から数年を経て,後嚢下に白内障をみる。これは,外眼部や眼内に対する照射による場合が多い。

(イ) 「放射線被爆と年齢に関する眼科的所見変化 広島・長崎成人健康調査集団」(昭和57年)(甲全62の2の4)の指摘

原爆時年齢15歳未満の広島対象者の後囊下変化に関連する相対的危険度は,100ないし199ラド群では2.8,200ないし299ラド群では4.3,300ラド以上群では5.3であった。広島若年齢群の後囊下変化において,放射線感受性による加齢増進が200ないし299ラド及び300ラド以上の両群に5パーセント水準で有意な増加をもって認められた。軸性混濁及び後囊下変化の双方に対する相対的危険度の比較統計量は,広島の原爆時15歳未満の年齢群の加齢影響による放射線感受性の増大を示唆すると指摘している。

(ウ) 「電磁放射線の非確率的影響」(昭和62年)(乙全78)の指摘

ICRP(国際放射線防護委員会)は,1977年(昭和52年)に幾つかの非確率的影響(その影響が起こる確率と重篤度の両方が線量とともに変わり,線量反応関係にしきい値があり得るような影響),しきい線量を示し,個々の臓器,組織に対する線量限度を勧告していたところ,本件報告書(1984年4月に主委員会により採択されたもの。)は,前記委員会専門委員会の課題グループが上記勧告の根拠を示したものであり,以下の指摘をしている。

a 水晶体は,身体の中で最も放射線感受性の高い組織の1つである。

b 高線量では水晶体混濁(すなわち白内障)が数か月以内に発生し,急速に進行する。低線量では,混濁が発生するのに何年もかかることがあり,顕微鏡的大きさにとどまり,顕著な視力障害を起こさない。

c 水晶体混濁の原因は,水晶体の前面上皮中の分裂細胞の損傷である。実験的研究によると,このような細胞の顕微鏡的異常は,低い線エネルギー付与(LET)放射線の1グレイ程度の急性被爆の数分以内に検出可能となる。

d 損傷を受けた細胞の分解生成物は後方に移動し,水晶体の後極の被膜下に蓄積し,水晶体の弯曲を後方に変位させる。このような損傷を受けた細胞が十分に蓄積すると,それらは点状の中央後面被膜下混濁として眼科学的に観察可能となる。この段階では,放射線誘発混濁は視力に影響はなく,他の原因による白内障と容易に区別できる。

e 病変が進行するかどうかは,放射線の線量によって決まり,臨床検査だけでは予測できない。病変が進行すると,水晶体の前面皮質と核もまきこむことになり,最終的には重篤な視力障害を引き起こすことになる。この段階では,混濁を放射線誘発病変として識別できなくなる。

f 原爆被爆生存者では,眼科学的に検出し得る混濁の頻度を増加させる低LET放射線のしきい値は大体0.6ないし1.5グレイと推定されている。

g 放射線治療患者(233人)に対する追跡調査等の結果に基づくと,放射線治療における1回照射のしきい値(ある特定の影響が被爆した人々の少なくとも,1ないし5パーセントに生じるのに必要な放射線量)は,2ないし10グレイと推定される。

(エ) 「国際放射線防護委員会の1990年勧告」(平成3年初版)(乙全79)の指摘

ICRP(国際放射線防護委員会)は,水晶体に見知可能な白濁を生じさせるしきい線量(1回短時間被爆で受けた全線量当量または全等価線量)は0.5ないし2.0シーベルト,視力障害(白内障)を発生させるそれは5シーベルトと推定されており,米国放射線防護測定審議会(NCRP)では,1989年(平成元年)に2ないし10シーベルトとされている。

(オ) 「原爆放射線の人体影響1992」(平成4年3月)(甲全62の2の1,乙全14)の指摘

a 放射線白内障の特性

放射線白内障の特性は以下のとおりである。

Ⅰ 電離放射線の種類に関係なく,どの放射線でも水晶体に同じような形態学的変化を起こす。

Ⅱ 水晶体に同じ吸収線量が照射されたときには,放射線の種類によって障害の程度に強弱があり,その差は生物学的効果比(RBE)によって表され,白内障の発症に関しては,速中性子は,エックス線,ガンマ線よりもRBEが大きく,RBEが大きい放射線は,全身照射による致死線量以下で白内障を起こす。

Ⅲ 照射された線量が大きいほど,白内障発生までの潜伏期間が短く,白内障の程度は強い。

Ⅳ 幼若な個体ほど変化が強いが,放射線に対する感受性にも個体差がある。

Ⅴ 混濁は,水晶体の後嚢下で初発する。斑点状ないし円板状混濁を形成し,一部はドーナツ形となる。これを細隙灯顕微鏡でみると,混濁の表面は顆粒状で多色性反射(色閃光)がみられることがある。混濁は後嚢下とその少し前方に位置するものとに分かれて二枚貝様の混濁を形成する。このような初期にみられる所見は放射線白内障に特徴的なものである。

Ⅵ 後極部後嚢下に放射線白内障に類似の混濁を生ずるものとしては,網膜色素変性症やブドウ膜炎に併発する白内障,ステロイド白内障,老人性白内障などであり,これらの白内障との鑑別が必要である。

b 原爆白内障の臨床像

原爆白内障は,原爆以外の放射線によって生じた白内障と極めて類似しており,水晶体の後極部後嚢下に混濁が認められても,軽い変化は被爆していない人にもみられることがあるため,原爆の放射線によって起こったものかどうか判定しかねることもある。原爆白内障を診断するためには,水晶体後極部後嚢下に顆粒状の変化があるだけでは十分ではなく,細隙灯顕微鏡で少なくとも円板状の混濁がみられることを条件としている見解もある。

また,長崎の被爆者を調べたP70によれば,原爆放射線による水晶体の所見として,分割帯の点状混濁,後嚢下の凝灰岩様混濁を挙げている。

広島の被爆者を調べたP71らは,原爆白内障の診断基準に,後極部後嚢下にあって色閃光を呈する限局性の混濁があること,後極部後嚢下よりも前方にある点状ないし塊状混濁があることという2つの形態学的特徴を挙げている。そして,このような水晶体混濁が認められたうえで,近距離直接被爆歴があること,併発白内障を起こす可能性のある眼疾患がないこと,原爆以外の電離放射線の相当量を受けていないことという4条件がそろっている場合に,原爆白内障と診断できるとしている。

c 原爆白内障の病理組織学的所見

原爆白内障の病理組織学的所見では,一致して水晶体後嚢下の皮質に変化が強い。水晶体繊維の顆粒状の崩壊や無定形化が認められているが,放射線の種類による特徴的な病理組織学的所見は得られていない。

1957年(昭和32年)10月から4年間にわたって広島大学で調べられた128人にみられた原爆白内障について,以下のとおり4段階に分けられている。

Ⅰ 微度

微度では,水晶体後極部の後嚢下に色閃光を呈する限局性混濁で直像鏡の+8Dレンズを通して徹照しても混濁は認められない。

Ⅱ 軽度

軽度では,後極部後嚢の前方(後分割帯)に細点状混濁があるもので,徹照法でかすかな混濁陰影を認めることがある。

Ⅲ 中等度

中等度では,徹照法で水晶体の中軸部に直径1ミリメートル以下の類円形の混濁陰影を認める。

Ⅳ 高度

高度では,徹照法で後極部にかなり大きな類円形の混濁陰影を認める。

このように,水晶体混濁が中等度以上になると徹照法でも確実に混濁陰影を捉えることができるが,視力障害を来すことはない。視力障害を自覚するのは高度だけである。また,原爆白内障の発生頻度と混濁の程度は,被爆線量と平行し,被爆時の年齢と相関する。したがって,被爆線量に関係する爆心地からの距離,遮蔽の状態,脱毛,その他の急性放射能症の症状の有無とその程度などの諸要因とも相関関係がある。広島・長崎の被爆者の調査では,頭部の脱毛の程度と水晶体後嚢下混濁との間には高度の相関関係が認められた。

d 原爆白内障の発生頻度

P72病院眼科で行われた調査(1953年(昭和28年)6月から1954年(昭和29年)10月)では,2.0キロメートル以内の被爆者の原爆白内障発生率は54.7パーセントで,2キロメートル以上での被爆者では10.8パーセントであった。

広島大学眼科での調査(1957年(昭和32年)10月から1961年(昭和36年)9月)では,1.0キロメートル以内の原爆白内障発生率は70パーセント,1.0ないし2.0キロメートルでは30パーセントで,1.6キロメートルを超えると発生頻度は急減した。

長崎大学眼科で行われた調査(1953年(昭和28年)7月から1956年(昭和31年)12月)では,被爆距離が1.8キロメートル以内の発生率は54.7パーセント,2.4キロメートル以内では45.8パーセントで,原爆白内障が起こる被爆距離の限界は統計的に1.8キロメートルとしている。

e 脱毛と遮蔽状況

広島,長崎の被爆者の調査で,頭部の脱毛の程度と水晶体後囊下混濁との間には高度の相関関係が認められ,長崎の調査では,脱毛がなく,遮蔽と被爆距離が増加するほど,後嚢下混濁の発生率が減少していることが明らかにされている。

f 原爆白内障の経過

原爆白内障は,被爆後数か月から数年して発生する。重症例は早く発症し,軽症例の潜伏期は遷延する。被爆線量に応じて微度から強度まで,相当する混濁を形成した後は停在性となる。

(カ) 「広島原爆被爆者の放射線白内障1949-64」(平成4年6月)(乙全63)の指摘

この報告書は,DS86線量推定値が得られている広島原爆被害者の2249例中,1949年から1964年の間に認められた白内障(水晶体後嚢下混濁)と電離放射線被爆の定量的関係を再検討したものであり,中性子RBEを18と仮定したDS86における眼の臓器線量当量を用いた場合の放射線誘発白内障における安全領域のしきい値は1.75シ-ベルトで,その95パーセント下限と上限推定値は1.31と2.21シーベルトと推定される(なお,この報告書で,分析の対象とされたのは,線量推定値がありかつ放射線白内障と診断された事例で,58例である。)。

また,被爆者に認められた水晶体変化のうち高頻度に報告された病変は,高線量被爆者における水晶体後嚢下円板状混濁や多色性光彩であったが,約10年前の所見と比較して,これらの病変にはほとんど進行がみられなかった。片眼あるいは両眼の水晶体混濁の程度は,生体顕微鏡検査を用いて,判定不能,微小,小,中,大に分類され,混濁の程度は,ほぼ小以下(約70パーセント)であり,大と分類されたものはわずかに5症例であった。臨床調査によると,ヒトにおいてエックス線曝露から水晶体混濁が発現するまでの時間的間隔は6か月から35年と広範囲にわたっており,平均して2,3年である。エックス線の単一急性被爆のしきい値線量は,一般に2グレイ前後であるとみなされてきたが,原爆被爆者はガンマ線と中性子線に同時に被爆しているため,同時被爆の場合には放射線による生物学的影響に相互作用が存在するか否かに関する疑問が生ずる。しかし,被爆者に関する限られたデータを利用するため,相互作用の存在の決定及びその影響の推定は困難である。いずれにしても中性子線量とガンマ線量の各しきい値は単一エックス線被爆の結果と比較できないかもしれない。また,安全領域を定義づけるうえで両しきい値を考慮することは賢明であると思われる。そして,中性子の生物学的効果比を18と仮定したDS86の眼の臓器線量当量を用いて,白内障のしきい値は1.75シーベルトと推定されている。

ただし,これらのリスク推定値には,多くの不確定要素があり,この不確定要素には,個々の被爆者の被爆場所,姿勢,身体の方向,遮蔽に関する情報が不十分であることに由来する誤差,また1949年(昭和24年)から1964年(昭和39年)に観察された白内障の高線量被爆者数が少数であることに由来する誤差が含まれる。原爆被爆者の個人放射線量に非系統的な誤差が存在することは,線量反応解析において,放射線影響の過小な推定をもたらすものといわれている。ここで,非系統的な誤差を考慮に入れた場合,推定値はある程度高くなり,より高い生物学的効果比に基づくしきい値は,一般的にいわれている2グレイに近似するであろうことが示唆される。

(キ) 成人健康調査第7報(平成6年3月発表,以下「第7報」という。)(乙全75)の指摘

重度被爆者では被爆直後,軸性混濁の発生率が増加するとした以前の報告とは異なり,現在の調査結果によると,昭和33年から昭和61年までの間の成人健康調査対象者における白内障発生率に放射線の影響があることを示唆していない。すなわち,1グレイ当たりの相対リスクは1.05(95パーセントの信頼区間で0.99ないし1.12)であり,このことは,原爆投下以降13年間に白内障発生に関する影響が衰減したか消滅したことを示唆している。また,性,市,被爆年齢の線量反応は有意な修飾因子ではないことが示されているが,被爆以降の時間の影響は有意であった。最も高い過剰リスク(1グレイ当たりの過剰リスクが1.20)は成人健康調査の10年間に現れ,時間とともに減少した。また,被爆時年齢と被爆後経過時間の影響を合わせた場合,被爆時年齢20歳以下の若年時に被爆した人では,過剰リスクは1958年(昭和33年)から1968年(昭和43年)のみにみられたが,この集団では,それ以降は放射線の影響はみられなかった。他方,年齢層の高い集団では,過剰リスクはどの時期においてもみられなかったので,若年時に被爆した人にだけ,放射線の影響が長く消えないことを示唆しているといえる。しかし,後嚢下変化の有病率が10年以上,一定のままであることを示す初期の調査の結果によれば,被爆後長期間経過して新しい症例が発生するとは思われない。

今回の調査による前記結論については,レンズの混濁化の原因を考慮していない白内障の発生率データの解析に基づいているので,推論の範囲は限定されたものである。白内障の発生と原爆放射線の関係に関する適当な解析をしようとする場合,もともと存在していた症例と,原爆被爆被害以外が原因であることが判明した症例を全て除外しなければならないが,今回の調査の範囲を超えるものである。本調査の結果により,結論を出したり,将来,眼科調査を計画するためには,第1に白内障におけるレンズの混濁度の範囲は広いので,軽度の症状を発見するためには細隙灯顕微鏡を使用する必要があること,第2に白内障には老人性,放射線,外傷などのような疾患の合併症など様々な亜型があるので,これを考慮する必要がある。放射線被爆と白内障の亜型に関する推論としては,以下のようにいうことができる。すなわち,一般集団では老人性白内障は年とともに,特に50歳以降に急速に増加することが知られている。このことと,先天的原因は除外されていると思われること,外傷が原因である症例は稀であること,昭和38年から昭和39年に実施された眼科調査では,50歳代と同年代の高線量被爆者の有病率は7パーセントであったことからすると,放射線に誘発された症例数はあるとしても少ないものと思われる。本調査における白内障の大部分は老人性によるものであると思われ,恐らく,レンズの混濁に基づいて評価した加齢に対する放射線影響がないことは,老人性白内障のリスクが放射線被爆で増大しないことを示唆しているといえる。だたし,このような主張は,細隙灯顕微鏡を用いて,特に老人性白内障患者の確認を含んだ詳細な調査をすることによって有効性が立証されなければならず,このような詳細な調査がなされることによって,放射線被爆が老人性白内障の早期発生を誘発するのか,老人性白内障の型を変更するのか,疾患の進行に影響するのかといった疑問に答えることになるかもしれない。

(ク) P45らによる「電離放射線障害に関する最近の医学的知見の検討」(平成14年3月)(甲全85の28)の指摘

水晶体の混濁あるいは白内障の発生は,以前は,水晶体前面の水晶体包下の上皮細胞に生じた細胞死あるいは細胞障害が,水晶体の後面に移動し水晶体中心軸上の混濁となるとされていた。線量が少ない場合は,視力障害を伴わない混濁のみであり,線量の増加に伴い視力障害を伴う白内障となると考えられてきた。しかしながら,最近の知見では,水晶体混濁は,水晶体の分裂細胞(上皮細胞)の細胞死ではなく,水晶体の上皮細胞のゲノムの遺伝子変異による水晶体の繊維タンパクの異常が原因であるとされている。被爆から水晶体混濁が生じるまでの潜伏期間の長さは,繊維組織に分化するまでの時間と,上皮細胞の遊走にかかる時間が関係する。線量が極めて高い場合には,代謝性の変化が生じその結果透明性が失われると考えられている。病理学的には,最初に水晶体後面の水晶体包下の異常として確認される。被爆による水晶体前面の異常の程度が大きい場合には,視力障害の原因となる。放射線による水晶体混濁あるいは白内障の発生には,線量,被爆時の年齢,線量率などが関係する。原爆被爆者のデータでは15歳未満の若年者の感受性が高いとされている。

放射線被爆による水晶体混濁あるいは白内障のしきい線量に関する見解は,研究者(機関)によって一致しておらず,別紙「水晶体混濁,白内障に関するしきい線量」記載のとおりである(甲全85の28の表7)。

(ケ) 成人健康調査第8報(平成15年,以下「第8報」という。)(甲全8の2の文献番号31)の指摘

前記第7報に12年間の追跡期間を追加して更新された報告である。そして昭和35年から平成10年の成人健康調査の対象者からなる約1万人の長期データを用いて,白内障の発生率と原爆放射線被爆線量との関係を調査した結果,白内障に有意な正の線量反応を認めた。白内障での放射線影響は,新しい知見である。また,白内障の1シーベルト当たりの過剰相対リスクは,全相対リスクが1.06であるのに対し,被爆時年齢25歳の相対リスクは1.07である。

(コ) 「原爆被爆者におけるがん以外の疾患の発生率,1958-1998年」(平成16年)(以下「P73論文」という。)の指摘(乙全76)

昭和33年から平成10年の成人健康調査受診者からなる約1万人の長期データを用いて,がん以外の疾患の発生率と原爆放射線被爆線量との関係を調査した。その結果,白内障に関し,有意な正の線形線量反応関係を認めた。水晶体混濁は60歳以降に急増するので,調査時年齢が60歳以下と60歳を超える者の間での線量反応における異種混交を検討した。放射線の影響は若年群において有意(1シーベルト当たりの相対リスク1.16で,95パーセントの信頼区間が,1.04から1.32)であったが,高齢群では有意ではなかった。

これを基に考察するに,過去の成人健康調査の眼科調査により高線量被爆群,特に若年被爆者において後嚢下混濁の発生率の上昇が明らかにされたが,初期の成人健康調査の眼科調査や1958-1986年の以前の成人健康調査のがん以外の発生率調査では白内障に関する放射線の付加的な影響は明らかにされなかった。

しかしながら,さらに12年間の経過観察の追加により白内障の全体的な発生率が放射線量に伴い有意に上昇した。最新の経過観察における発症時60歳未満の白内障症例によって,放射線影響の検出が高まったのかもしれない。また,最近の研究では,非常に遅延性の水晶体の変化が放射線治療後に,あるいは,台湾での放射能汚染された建造物による被爆等においてに検出された。より若い受検者での水晶体混濁に対する放射線リスクの増加と長期の潜伏期間を伴う相対リスクの上昇に関する我々の知見は,これらの知見と一致している。

(サ) P74ら「原爆被爆者における眼科調査」(平成16年4月で以下「P74論文」という。)(甲全8の2文献35,甲全62の2の3)の指摘

平成12年6月から平成14年9月にかけて,成人健康調査対象者のうち被爆時の年齢が13歳未満の者全員及び昭和53年から昭和55年眼科調査を受けた者を対象として,細隙灯顕微鏡,写真撮影及び水晶体混濁分類システム2による分類を行い,性,年齢,都市,線量,中間危険因子を説明変数とし,核色調,核混濁,皮質混濁,後嚢下混濁それぞれの所見なしの群を基準として,混濁群別比例オッズモデルを用いてロジスティック回帰分析を行ったところ,核色調,核混濁に放射線との相関が認められなかったが,原爆被爆者の放射線被爆と水晶体所見の関係において,遅発性の放射線白内障及び早発性老人性白内障に有意な相関が認められた。すなわち,中間危険因子で調整した場合,1シーベルトでの皮質混濁のオッズ比は1.34(95パーセント信頼区間で,1.16ないし1.52),後嚢下混濁のオッズ比は1.36(95パーセント信頼区間で,1.17ないし1.58)であった(共にP<0.001)。なぜ,55年を経てこのような現象がみられるのかその機序は不明である。白内障には紫外線,糖尿病,ステロイド治療,炎症,カルシウム代謝など様々な危険因子が存在することが知られているが,それらを調整しても,線量との関連の優位性の変化は認められなかった。今後,動物実験などにより確認する必要があると考えられる。また,今後,しきい値モデルを用いて解析を行い,放射線の確定的影響について別途報告の予定である。

(シ) P75ら「原爆被爆者における白内障有病率の統計解析,2000-2002」(平成16年9月で,以下「長崎医学」という。)(甲全62の2の5)の指摘

平成12年6月から平成14年9月まで,放影研で行われた広島・長崎の原爆被爆者の白内障有病率調査に関して発表されたデータを使って,白内障線量反応の詳しい統計解析及び白内障線量反応におけるしきい値を検討した。その結果,核色調及び核混濁では,女性で示唆的であり,同程度の放射線リスクがみられた。皮質混濁に対しては,有意な放射線リスクが認められた。後嚢下混濁に対しては,有意な放射線リスクが認められた。このリスクは,被爆時年齢とともに示唆的に減少し,被爆時年齢5歳,10歳及び20歳で1シーベルト当たりのオッズ比はそれぞれ1.67,1.50及び1.22であった。放射線の主効果が有意であった早発性皮質混濁と晩発性後嚢下混濁について,しきい値の検討を行ったが,しきい値の存在は認められなかった。

放射線白内障におけるしきい値の存在の有無は,今後世界各地での放射線関連疫学調査での検討課題の一つであると思われる。

(ス) 放射線基礎医学第10版(平成6年初版)(甲全8の2文献15,甲全76の2,乙全101)の指摘

白内障は,水晶体に混濁を生ずる疾病で,水晶体混濁は2グレイの被爆で起こるといわれるが,臨床的に問題となるような白内障は5グレイの被爆が必要である。

最近の放影研の報告によるとDS86による推定線量で被爆線量の明らかな広島の原爆被爆者2249名について,白内障の発生と線量の関係を調べたところ,中性子線に対して0.06グレイ,ガンマ線に対して1.08グレイのしきい値から求めた中性子のRBEは18で,この値を用いた眼の臓器線量当量で示される放射線誘発白内障のしきい値は1.75シーベルト,安全域は1.31シーベルト(95パーセント信頼限界の下限)であった。潜伏期間は線量と照射期間にはほとんど関係がなく,原爆被爆者では被爆後5年で白内障が発生したと報告されている。この場合,混濁は主に水晶体の後極部に起こり,同時に前嚢下部位に起こることがある。この点で,赤道面上に起こる老人性白内障と区別されるが,進行すれば他の白内障と区別できなくなる。中性子線は,エックス線やガンマ線と比べると白内障を起こしやすく,同一吸収線量でエックス線の5ないし10倍の効果があるといわれている。子供は,成人に比べ,低線量で混濁を生じる。

(セ) P76の意見書(平成17年4月)(乙全81)の指摘

P77大学医学部の眼科学教授P76は,以下のとおりの所見を示している。

原爆による放射線白内障については,後極部後嚢下にあって色閃光を呈する限局性の混濁,若しくは後極部後嚢下よりも前方にある点状ないし塊状混濁のいずれかの水晶体混濁が認められること,近距離直接被爆歴があること,併発白内障を起こす可能性のある眼疾患がないこと,原爆以外の電離放射線の相当量を受けていないこと,以上の4条件がそろった場合に診断できるとされており,特に前記のような特徴的な水晶体混濁が認められることが肝要であり,そのため,水晶体混濁の状況を確認すべく,散瞳した状態で細隙灯顕微鏡検査を実施し,申請者の水晶体混濁が上記の状況であることを確認することが重要である。

また,放射線白内障は,放射線の影響により生じ,被爆後数か月から数年で発症し,特に重傷例にあっては,被爆後早期に発症することが判明しているから,原爆放射線の被爆のみで,被爆後50年以上経過した後に遅発性の放射線白内障が発生したとは考えにくい。仮に遅発性の放射線白内障が発症したとしても,後極部後嚢下にあって色閃光を呈する限局性の水晶体混濁を呈しないことから,老人性白内障との鑑別は大変困難である。その根拠としては,放射線が水晶体に与える影響は「確定的影響」であり,被爆線量がしきい値を超えない限り,その影響は観察されないことにある。またしきい値を超える放射線を被爆した場合でも,線量が低い場合には,水晶体混濁が発生したとしても顕微鏡的大きさにとどまり,著明な視力障害を起こさないことから症状を呈しないとされている。

したがって,申請者に発症した白内障が原爆による放射線白内障かどうかの判断においては,白内障の発症年齢とその病状,細隙灯顕微鏡検査による水晶体混濁の状況,ブドウ膜炎等の白内障を発生させることがある眼疾患の発生状況,糖尿病,強皮症等白内障を生じる全身性疾患の罹患状況,副腎皮質ステロイド薬等服薬状況,外傷の有無,職歴などにかんがみ,老人性白内障や糖尿病性白内障など,他の白内障と鑑別できることも重要である。

(ソ) 主治医等の医師の見解

a P68医師の見解(甲B2,乙B8)

1審原告P1の主治医であるP68医師は,平成17年7月23日付け報告書(甲B2)で,以下のように指摘している。

平成9年5月13日の初診日のカルテには「水晶体後極混濁」という記載があり,水晶体のその他の部分に混濁がある旨の記載はなく,上記初診時の所見は,後嚢下に限局された混濁が認められたことで間違いないこと,また,平成14年6月15日のカルテには,「右 人工レンズ,左 水晶体後嚢下円盤状混濁,前極前嚢下にも混濁あり」と記載されており,前嚢下の混濁もみられるようになっていたが,同診療録のスケッチ(乙B8)からも前嚢下の混濁の範囲は小さいのに対し,後嚢下の混濁の範囲は著しく大きく顕著であることが分かり,皮質の混濁,核の混濁,色調等,老人性白内障に通例みられる所見はなく,以上のように後嚢下の混濁が顕著であったことから,1審原告P1の白内障が原爆放射線に起因するものである。なお,上記平成14年6月15日付け意見書や健康診断個人票に「前嚢下」とあるのは,いずれも「後嚢下」の誤記である。

b 原爆被爆者の白内障についての意見書(P88)(甲全62の1,原審における証人P88)の指摘

原爆白内障は,近距離被爆者すなわち高線量被爆者に特有のものとみなされてきた歴史的経過があったが,近年のP74論文や長崎医学等による新たな眼科調査によって,原爆被爆者の放射線被爆と水晶体所見の関係において,遅発性の放射線白内障及び早発性の老人性白内障に有意な相関が認められ,これらの白内障には,事実上,しきい値のない確率的影響である可能性が示唆されるに至っている。

放射線白内障の特徴は,後嚢下の混濁が初発することであるが,前嚢下にも混濁があり得る旨の報告もあり,混濁の部位は後嚢下に限局されるものではないと考えているところ,1審原告P1も初診時に後嚢下の混濁が認められたとされており,その白内障は放射線白内障であると考えられる。そして,1審原告P1の白内障が,水晶体の皮質部の混濁が中心となる老人性白内障の症状とは異なること,後嚢下混濁が初発していれば,その後の経過で前嚢下に混濁が及んでも放射線白内障とは矛盾しないこと,最近の報告によれば,遅発性の放射線白内障が認められており,被爆後長期間経過した後に白内障が生じたとしても不合理ではないこと,後嚢下混濁についてはしきい値はないと報告されていることなどから,1審原告P1の白内障には放射線起因性が認められると考える。また,現在,被爆者は少なくとも60歳を超えているため,放射線白内障と老人性白内障の両方の所見が併存してる可能性が高い。

c P48医師の意見書(甲全96の1ないし4,99,甲B7)の指摘

放射線白内障は,従来,確定的影響に属する疾患と考えられていたが,1990年代になって,海外において,遅発性の放射線白内障の所見があることが指摘されるようになり,我が国における最近の報告(P74論文)において,被爆線量が増加することによって,後嚢下混濁を呈する放射線白内障と,皮質混濁を呈する老人性白内障が生ずることが確認されるに至った。また,一般的な臨床上の所見として,非被爆者においても,糖尿病,ステロイド投与または老人性白内障の罹患によって,後嚢下混濁が生ずる場合があるため,後嚢下混濁が認められれば,それが必ず放射線白内障であるということになるわけではなく,この点を踏まえて放射線白内障であるか否かを見極めるべきであるが,高齢になれば,被爆者において老人性白内障の特徴である皮質混濁が進行することは当然ではあるものの,放射線の影響によって早発性の老人性白内障(当該被爆者において70歳になって白内障所見を得るべきところ,放射線被爆の結果60歳で白内障を発症してしまうような場合)が生ずることも確認されているのであり,被爆者に老人性白内障が生じていることをもって,放射線白内障が否定されるわけではないし,被爆者の受診時の年齢によって,放射線白内障が否定されるものでもない。そして,被爆者の場合は,被爆という否定できない事実を重視して判断すべきである。

イ 知見についてのまとめ

(ア) 前記認定の白内障と放射線起因性に関する知見を全体的に検討すると,平成4年(1992年)ころまでの見解では,放射線被爆による水晶体混濁の原因は,水晶体前面上皮中の分裂細胞の損傷であり,損傷を受けた細胞の分解生成物は後方に移動し,それが水晶体後極の皮膜下に蓄積されることによって混濁として認識されるようになるというものであったこと,放射線に起因する白内障の発症には一定のしきい値があり,照射された線量が大きいほど白内障発症の潜伏期間が短く,白内障の程度が強いこと,水晶体混濁は,被爆後,数か月から数か年ないし数十年の潜伏期間を経て発現すること,幼若な個体ほど感受性が強く,変化が強い傾向にあること,原爆放射線に起因する白内障の臨床像としては,水晶体後極部の後嚢下の皮質に変化が強く,後極部後嚢下に色閃光を呈する限局性の混濁,後極部後嚢下にある点状ないし塊状の混濁という形態学的特徴を有するとする,「電磁放射線の非確率的影響」や「原爆放射線人体影響1992」に代表される見解が一般的なものであった。

なお,「原爆放射線人体影響1992」は平成4年に出版されたものであるが,証拠(甲B7の資料3,甲全62の2の1)によれば,同文献の原爆白内障に関する記述は昭和54年に出版された「広島・長崎の原爆災害」の記述同様の内容となっており,引用されている文献も1960年代(昭和35年代)までの論文であり,白内障についての調査も1957年(昭和32年)10月から1961年(昭和36年)9月までに行われたP71らによる広島の被爆者128人を調べた際の資料までのものに基づいていることが認められ,また,前記のとおり,放射線白内障のしきい値を1.75シーベルトとした前記「広島原爆被爆者の放射線白内障1949-64」が資料としたものも1949年(昭和24年)から1964年(昭和39年)までに発症した事例中58事例について分析検討したものである。

(イ) そして,1958年(昭和33年)から1986年(昭和61年)までの28年間の成人健康調査対象者の白内障発症率についての調査,解析の結果について,平成6年に発表された放影研による第7報でもおおむね前記見解が裏付けられる結果となり,若年時に被爆した人にだけ,放射線の影響が長く消えないことが示唆されること,調査の結果によると白内障の大部分は老人性によるものであると思われ,恐らく,老人性白内障のリスクが放射線被爆で増大しないことを示唆しているといえると指摘した。ただし,本調査(第7報)の結果により結論を出すためには,細隙灯顕微鏡を使用して,軽度の症状を発見する必要があることや,白内障には老人性,放射線などの疾患を合併した亜型があるので,これを考慮する必要があると指摘し,細隙灯顕微鏡を用いて,特に老人性白内障患者の確認を含んだ詳細な調査をすることによって有効性が立証されなければならないこと,このような詳細な調査がなされることによって,放射線被爆が老人性白内障の早期発生を誘発するのか,老人性白内障の型を変更するのか,疾患の進行に影響するのかといった疑問に答えることになるかもしれないとの見解が示された。

(ウ) その後,放影研による第8報では,第7報で対象とされた受検者の範囲が12年間分追加され,1958年(昭和33年)から1998年(平成10年)までの40年間の成人健康調査の対象者からなる約1万人の長期データを用いて白内障の発生率と原爆放射線被爆線量との関係を調査した結果,白内障に有意な正の線量反応を認めたとの見解が発表され,白内障にしきい値が存在しないことを示唆する見解が示されている。また,P73論文でも前記と同旨の見解が示されるとともに,放射線の影響は若年群において有意であること,より若い受検者での水晶体混濁に対する放射線リスクの増加と長期の潜伏期間を伴う相対リスクが上昇するとの見解が示され,さらに,平成16年に発表されたP74論文では,原爆被爆者の放射線被爆と水晶体所見の関係において,核色調及び核混濁に放射線との相関は認められなかったが,遅発性の放射線白内障及び早発性老人性白内障に有意な相関が認められたとの見解が示され,同年に発表された長崎医学では,放射線の主効果が有意であった早発性皮質混濁と晩発性後嚢下混濁についてしきい値の検討を行ったが,しきい値の存在は認められなかったとの見解が示されるに至っている。また,放射線に起因する白内障の発生機序についても,電離放射線障害に関する最近の医学的知見をまとめた「電離放射線障害に関する最近の医学的知見の検討」(平成14年3月)において,水晶体混濁あるいは白内障発生の原因についての最近の知見として,水晶体の上皮細胞の遺伝子の変異による水晶体の繊維タンパクの異常に起因するものであることが明らかにされた。

(エ) 1審原告らは,このような放射線白内障及び同白内障発症の放射線起因性に関する知見の変遷から,従来,放射線被爆による白内障発症までの潜伏期間は長くとも35年程度であり,しきい値以上の線量の被爆がない限り放射線に起因する白内障は発生しないとの見解は否定され,放射線に起因して遅発性の白内障や早発性の老人性白内障が発症することが明らかになり,また,前記のような白内障にはしきい値の存在は認められないという知見が明らかになったと主張する。

これに対して,1審被告らは,P74論文について,遅発性白内障,早発性老人白内障ということ自体,いつを基準にして遅発なのか,早発なのか明確でないこと,このような白内障が放射線に起因して発生する機序が不明であることなどを根拠に,前記見解は単なる仮説以下の知見にすぎないと主張する。

そこで,それらの点について検討するに,平成6年に発表された放影研による第7報は,その調査対象者が継続的に健康調査を受検していた者であり,被爆からの時間の経過による健康異変の経緯を考慮することができる点や対象人数の豊富さなどからしても,基本的には信頼性の高い知見であったと評価することができるものであり,それにより示された,原爆投下後13年間に白内障発生に関する影響が衰弱したか消滅したものとの結果が得られたこと,老人性白内障のリスクが放射線被爆で増大しないことを示唆しているとの結果は,前記従来の知見に沿ったものであったことが認められる。ただ,この調査では,その調査結果の有効性については,老人性白内障患者の確認を含んだ詳細な調査をすることなどによって立証されなければならないとも指摘されていて,前記の調査結果は将来における調査によって変更の余地があることを指摘するとともに,その調査結果いかんによっては,放射線が老人性白内障の早期誘発,老人性白内障の型の変更,進行等に影響を与えている可能性があることを示唆していた。そして,その後に発表された第8報では,白内障の発生率と原爆放射線被爆線量との関係を調査した結果,白内障に有意な正の線量反応を認めたとの調査結果が明らかにされて,白内障の発症にしきい値がないことが示唆されるに至っている。また,P73論文でも同様の結果が得られるとともに,より若い受検者での水晶体混濁に対する放射線リスクの増加と長期の潜伏期間に伴う相対リスクの上昇を認めたとしており,これらの調査結果は第7報での調査対象者に12年間分の追跡期間を加え,約1万人の長期データを用いた結果,得られたものであるから,科学的な知見としては,十分な信用性を有するものというべきである。そして,P73論文とほぼ同時期に発表されたP74論文及び長崎医学で示された,放射線に起因して遅発性の白内障や早発性の老人性白内障が発症することや前記のような白内障にはしきい値の存在は認められないとの見解は,第8報及びP73論文の見解に沿うものであり,第7報が指摘した詳細な調査の結果,同報による知見に変更をもたらす新たな知見であると評価し得るものといえる。これに対し,1審被告らが立脚する放射線白内障に関する知見は前記平成4年ころの通説的な知見に基づくものであり,放射線白内障のしきい値が1.75シーベルトとされていることについても,前記のとおり1964年(昭和39年)ころまでの調査に基づく資料を前提としたものであり,その意味では限られた資料に基づくものであって,放射線白内障発症の原因についても,それまで考えられていた放射線による水晶体上皮細胞の細胞死ではなく,水晶体の上皮細胞のゲノム遺伝子変異による水晶体の繊維タンパク質異常が原因であるとの新しい知見が示されるに至っていることを勘案すると,1審被告らの前記知見が絶対的なものであるといえるかどうか極めて疑問であるといわざるを得ない。

1審被告らは,P74論文は後嚢下混濁は放射線白内障,皮質混濁は老人性白内障と一種の擬制をしているが,後嚢下混濁は放射線白内障のみに生じる特異な症状ではなく,老人性白内障にもみられる症状であるから,P74論文は失当である旨主張する。確かに,前記認定のように,老人性白内障の混濁は赤道部皮質や核に始まるもののみではなく,後嚢下に混濁を生ずるものもあることは1審原告らも認めるところである。しかし,P74論文が示しているところは,後嚢下混濁があれば全て放射線白内障であるということではなく,被爆者に生じた後嚢下混濁と被爆放射線量とは有意(P<0.001で)な関係があるということにあるのであるから,1審被告らの前記主張は理由がない。のみならず,前記のとおり被爆者の皮質混濁(老人性白内障)と被爆線量との間にも有意な関係が認められていることからすると,老人性白内障であるというだけでは,放射線被爆との関係を完全に否定することはできない。

1審被告らは,遅発性白内障や早発性老人性白内障というものはその定義が曖昧であると批判するが,前記認定の白内障の放射線起因性に関する知見の推移に照らすと,遅発性白内障とは,それまで被爆に起因する白内障の潜伏期間は,被爆から長くとも10数年程度で,それ以降は放射線の影響が減弱するか消滅するとされていた見解よりも長い潜伏期間の後に発症する白内障を指し,早発性の老人性白内障とは,一般的に,加齢が原因で高率に白内障が発症する年代である70歳以前に発症する白内障を指していると理解することができ,それ以上の厳密な定義がなされなければ,原爆症認定における白内障の放射線起因性の判断の際に考慮すべき科学的知見として一定の水準を有しないとし得るものでもない。

また,なぜこれほど長い潜伏期間を経た後に白内障が発症するのかという点についてその機序が不明であるとの批判については,P74論文自体このことを認めており,いまだその機序は科学的に説明できていないことは確かである。しかし,原爆放射線が人体へどのような影響を与えるのかという点についての研究は,時間の経過や研究の積み重ねよって,刻々と変化している未解明な部分が多分に残されている研究分野であって(このことは,これまでの放影研による業績報告の経過をみても明らかである。),研究や調査が進むに従って進化していくことが予想されているだけではなく,P73論文,P74論文及び長崎医学が明らかにした前記見解は,第7報の前記指摘からしても詳細な追跡調査が加わることによって科学的に想定され得た結果ともいえ,それまでに積み重ねられてきた調査結果から全く想定し得ないような特異な見解であるともいえないものである。したがって,現時点での知見を評価するには,各知見を並列的にのみ評価するのではなく,その変遷とその根拠をも考慮することが必要であり,このことは被爆者援護法制定の趣旨や原爆被爆者たちがいずれも高齢になってきていることにかんがみると重要であると考える。そして,原爆症について申請疾病の放射線起因性における因果関係の立証には,一点の疑義もないという自然科学的正確性が厳密に必要とされるものではないのであって,その判断は法律的判断として,その時点における一定の水準を有する科学的知見に基づき,社会通念上一般的に放射線によって当該疾患が発症したと認めることができるかどうかによるべきものであることは,前記判示のとおりであり,その意味での因果関係の有無の判断をするうえでは,上記自然科学的な機序の解明が不可欠であるとも認められないだけでなく,放射線に起因する遅発性白内障,早発性老人性白内障の発生機序を説明し得ていないという点をもって,原爆症認定における白内障の放射線起因性の判断の際に考慮すべき科学的知見として一定の水準を有しないと解することも相当とはいえない。

(4) 1審原告P1の白内障の放射線起因性

前記認定の1審原告P1の被爆線量及び前記白内障に関する知見を前提として1審原告P1に生じた白内障が放射性に起因するものと判断することができるかどうかについて検討する。

証拠(甲B2,乙B8)によれば,P68医師は,平成9年5月13日の初診時から,1審原告P1の主治医として同人を診察してきたが,1審原告P1の症状は,初診時から,水晶体の混濁が後嚢下に限局されており,平成14年6月15日の診察時には前嚢下にも混濁が認められたが,後嚢下の円盤状の混濁範囲が著しく大きく顕著であったこと,他方,皮質の混濁,核の混濁,色調等,老人性白内障に通例みられる所見がなかったことが認められ,そのため同医師は1審原告P1の白内障を原爆放射線に起因する放射線白内障と診断したことが認められる。

なお,1審原告P1の原爆症認定申請書に添付された同医師作成の意見書及びP69検査技師作成の健康診断個人票には,その混濁か所を前嚢下と記載する部分があるが,他方,1審原告P1のカルテ中,上記意見書の作成日付である平成14年6月15日の欄には,それが後嚢下であることを示す記載と,それに符合するカルテのスケッチがあること(乙B8),P68医師は,1審原告P1の両眼水晶体の後嚢下に限局された混濁を認めたことから,その初診時から放射線白内障の可能性が高いとして診察に当たってきた経過が明らかであること,これらに照らすと,その混濁部位を前嚢下と記載した上記の意見書等の記載は,誤記と認めるのが相当である。

そうすると,1審原告P1には,放射線白内障に特徴的な後嚢下の混濁の初発(放射線白内障の混濁が後嚢下に始まることについては争いがない。)や後嚢下の顕著な円盤状混濁が認められるから,それは放射線白内障を認めるについて積極の要素となり得るものと解される。そして,1審原告P1は,平成9年5月にP68医師の診断を受けた時点で,水晶体後囊下に混濁がみられたということからするとこの水晶体後囊下混濁が短期間に発症したとみるのは不自然であり,遅くともその初発は1審原告P1において,目がかすみ,物がみえにくくなったという平成2,3年ころで,同人が63歳前後ころであったものと認めるのが相当である。なお,1審被告らは,1審原告P1の白内障には後極部後嚢下にあって色閃光を呈する限局性の混濁若しくは後極部後嚢下よりも前方にある点状ないし塊状混濁がみられないことや,放射線白内障は進展しないが,同原告の白内障は進展性があるので放射線白内障ではない旨主張する。しかしながら,前記のとおり「原爆放射線人体影響1992」によれば,色閃光は原爆白内障の程度が微度の場合に細隙灯顕微鏡で混濁の表面をみるとみられることがあるというものであって,どのような場合にも必ずみられるというものではなく,また,同文献によれば混濁は微度から軽度,中等度,高度へと,また後嚢直下から前方皮質部分に進展することが認められることからして,1審被告らの前記主張は理由がない。

そして,第8報では被爆者の白内障発症率は線形の線量反応関係が認められたこと,被爆者の放射線被爆と水晶体所見の関係において,遅発性放射線白内障や早発性老人性白内障に有意な相関が認められたとする前記知見や,早発性皮質混濁と晩発性老人性後嚢下混濁についてはしきい値が存在しないと考えられるとする前記知見があり,その年齢には種々の見解があるが,一貫して,若年(おおむね20歳以下)被爆者は,放射線感受性が高いことが指摘され,第7報では,若年被爆者について放射線の影響が長く消えないことが示唆され,原爆被爆者のデータでは,15歳未満の放射線感受性が高いとされている。これらの知見に照らすと,被爆時の年齢が18歳の1審原告P1が63歳ころに放射線白内障を発症したからといって不自然とはいえない。

また,1審被告らは,1審原告P1の年齢からすると同人に発症した白内障は老人性白内障である旨主張する。確かに,前記のとおり50歳を超えると老人性白内障に罹患するものが増加し,70歳ないし80歳の高齢者になると多少なりとも全ての人にそれがみられるとされている。しかしながら,遅発性放射線白内障が存在することは前記のとおりであるから,年齢のみによって放射線起因性を否定することはできないというべきであり,さらに,仮に1審原告P1に放射線白内障の症状のみならず,老人性白内障の症状が発現していたとしても,皮質混濁(老人性白内障)と放射線被爆量との間にもしきい値のない有意な関係がみられたとの知見が示されていることからすると,1審原告P1に生じている白内障が放射線被爆と関係がないものとすることはできないというべきである。

そして,以上を総合して判断するに,1審原告P1は,前記認定のとおり,旧審査の方針で算出される線量よりは多量の線量を被爆しているものと推認されることに加え,1審原告P1が発症した白内障は放射線に起因する白内障の発現形態の特徴である水晶体後嚢下に混濁が初発していることや前記の最近の知見と照らし合わせると,同人の白内障は,加齢という要素が加わっていることを否定することはできないものの,その発症または進行に原爆による放射線が影響を及ぼした高度の蓋然性があるものと認めることができるので,同人の白内障を,原爆放射線による被爆に起因するものと判断するのが相当である。

(5) 1審原告P1の要医療性

1審原告P1は,前記認定のとおり,平成13年11月26日(74歳),右眼の白内障の手術を受けて眼内レンズを挿入したが,左眼の視力は0.01程度であり,現在も白内障の治療中であるというのであるから,要医療性が認められる。

(6) 結論

以上によれば,1審原告P1は,本件1審原告P1却下処分当時,原爆症認定申請の対象とされるべき白内障について,放射線起因性及び要医療性を具備していたものと認められるから,本件1審原告P1却下処分は違法というべきである。

2  1審原告P4について

(1) 1審原告P4の被爆状況等

証拠(甲C7,乙C1,1審原告P4,各項末尾に掲記の証拠)によれば,以下の事実が認められる。

ア 被爆前の生活状況,被爆状況及び被爆後の行動について

(ア) 被爆前の生活状況

1審原告P4は,大正▲年▲月▲日生まれの男性であり,広島で被爆した昭和20年8月6日当時20歳で,当時,広島の陸軍第2総軍司令部参謀部通信班に配属された。

(イ) 被爆状況

1審原告P4は,同日午前8時ころには,広島市大須賀町付近の兵舎(爆心地から北東に約1.5キロメートル)で睡眠を取るため,窓際の寝台に毛布を頭からかぶって横になったところ,毛布を通して足下の方に,白く赤みのある巨大な火柱が見え,巨大な火の玉に包み込まれるような感覚を受け,次の瞬間,爆風で飛ばされ,意識を失った。気がつくと,身体が兵舎の下敷きとなっており,耳鳴りがして外の音は全く聞こえなかった。何とか自力ではい出すと,右胸に1.5センチメートルほどの穴があいており,呼吸をするたびに血が噴き出し,左でん部からも出血し,後で顔にもけがをしていたことが分かった。倒壊した兵舎から外に出ると,薄墨のような色をした黒い雨が降ってきた。

(ウ) 被爆後の行動

1審原告P4は,その後,仲間とともに,同日午後2時か3時ころまで救護活動を行ったうえ,徒歩で東練兵場の前を通って指定された集合場所であるP78に移動し,同所で衛生兵らにでん部の傷からガラス片を取り出してもらい,右胸の傷口にも処置をしてもらった。

1審原告P4は,後記のとおり,被爆直後ころから体調不良であったが,被爆翌日の同年8月7日に休養を取り,翌8日から,同年10月下旬まで,命令に従って各部隊・施設間の軍事通信網作成の作業に従事した。1審原告P4は,この間,爆心地付近にあった中国軍管区司令部や,海に近い陸軍船舶司令部のほか,南方に位置する吉島飛行場,三菱造船所,爆心地よりやや西の福島町に至るまで,広島市内の焼け跡の中を通信回線を引く作業に従事した。広島市南方には比較的早い時期から作業に行っていたが,その際の通路は,爆心地付近が焼け野原であったため,西練兵場に沿った電車道を通って爆心地方面に入り,そこからさらに電車道に沿って南に歩いていった。作業終了後はP78に戻って野営したり,街中で就寝したりした。

イ 被爆直後に生じた症状等について

1審原告P4は,被爆当日,乾パン等を少し食べただけで吐き,吐血するような状態で,翌7日の夕方からは,下痢,食欲不振,倦怠感に襲われた。下痢は,血ばかりが出るような状況が1週間ほど続き,被爆の2,3日後からは,頭部,陰部及び眉毛の脱毛が始まり,ほとんどの毛が抜けてしまい,ぱらぱらと髪が残る程度であった。また,そのころ,腕,腿,胸,腹などに紫斑が現れた。下痢や吐き気は3週間ほどで回復したが,脱毛や紫斑は,広島を離れる10月下旬ころまで続いていた。

ウ 被爆前の健康状態並びに被爆後の生活状況及び健康状態

(ア) 被爆前の健康状態

1審原告P4は,被爆前,格別の病歴もなく,健康であった。

(イ) 被爆後の生活状況及び健康状態

a 1審原告P4は,同年10月下旬,大阪に引き揚げて1か月ほど滞在したが,その少し前から片耳が聞こえず,耳だれのようなものが出るようになり,その後耳だれは治まったが,片耳は聞こえないままで,耳鳴りが治まらなかった。

b 1審原告P4は,同年11月末ころ除隊となり,家族の疎開先の豊橋市に帰ったが,身体の倦怠感が強く,朝起きられない状態が続き,そのような状態は就職後も続いた。

c 1審原告P4は,昭和23年10月に結婚し,その後織物業を始めたが,朝起きるのがつらく,また,片方の耳が聞こえず,耳鳴りがする状態が続いていたため,一宮市のP81に通院したが,鼓膜が破れているとの診断を受け,その後の治療によってある程度鼓膜は再生したものの,耳鳴りはやまず,現在まで続いている。

また,同人は,昭和30年ころ,P82病院で結核性睾丸炎と診断され,睾丸を一つ摘出したが,摘出した睾丸からは結核菌は発見されなかった。それから1,2年後,被爆の際にガラス片で受傷した左でん部に腫瘍ができ,P100で腫瘍摘出手術を受け,その1年後,右でん部にできた同様の腫瘍の手術を受けた。

d 1審原告P4は,昭和60年ころから激しい腹痛を覚えるようになり,P83病院で精密検査を受けた結果,膵臓に10ミリメートルほどの腫瘍があることが判明し,平成10年の検査では,腫瘍が約20ミリメートルに,また平成16年の検査では約30ミリメートルに成長していた。

また,同人は,昭和62年,一宮市のP67医院で両眼白内障と診断され,昭和63年ころ,左眼が網膜剥離になりかけていたのでレーザーによる治療を受けた。その後,白内障が悪化したため,平成17年1月,左眼の手術を受けた。

さらに,同人は,平成10年ころから右肩に違和感を覚え,P83病院で,直径約2センチメートルの異物を摘出する手術を受けた。その後,右手にしびれが残り,箸やペンを落とすようになった。

1審原告P4は,平成11年,上記病院で,左下腿静脈瘤と診断され手術を受けた。

エ 原爆症認定申請と申請疾病

(ア) 原爆症認定申請及び申請書の記載

a 1審原告P4は,平成15年6月23日,原爆症の認定申請書の「負傷又は疾病の名称」欄に「のう胞性膵腫瘍」と,「被爆時以後における健康状態の概要及び原子爆弾に起因すると思われる負傷若しくは疾病について医療を受け又は原子爆弾に起因すると思われる自覚症状があったときは,その医療又は自覚症状の概要」欄に,被爆状況とその後の急性症状,耳鳴り,昭和60年ころに発症した膵臓の腫瘍(良性),昭和62年に発症した両眼白内障,昭和63年の左眼網膜剥離と記載して提出した(乙C1)。

b 認定申請書に添付された上記P83病院のP84医師による意見書には「のう胞性膵腫瘍」,既往症は「特になし」,「S60年より膵腫瘍にて経過観察中 膵腫瘍は放射能の影響によるものであることは否定できない」と記載されている(乙C2)。

c また,健康診断個人票には,「既往症」欄に「特になし」,「現症」欄に「左上腹部に持続性の痛みあり 圧痛を伴う のう胞性膵腫瘍による症状と考えられる」と記載されている(乙C3)。

(イ) 却下処分

1審被告厚生労働大臣は,平成16年5月12日付けで上記申請を却下する処分(以下「1審原告P4却下処分」という。)をした(甲C1の1・2)。

(ウ) 申請疾病について

1審原告P4は,上記認定申請をする以前にも下顎部に残る異物や白内障を理由に原爆症認定申請をしているが,いずれも却下された(原審における1審原告P4本人)。

そうすると,1審原告P4の申請疾患は,嚢胞性膵腫瘍(臨床上,膵嚢胞と同義とされている。)と解される。なお,1審原告P4は,同原告の正式な病名は分支型膵管内乳頭粘液性腫瘍(IPMN)であるとして,同疾病が申請疾病であるとしている。

その他に,1審原告P4の認定申請書には,両眼白内障及びそれによる左眼網膜剥離に関する記載があるが,原告P4は,上記のとおり,白内障について別途原爆症認定申請をして却下処分を受けており,本件の認定申請にはこれは含まれていない。

(2) 1審原告P4の被爆線量

前記認定の事実によれば,1審原告P4は,広島の爆心地から1.5キロメートルの距離にある兵舎の屋内で被爆したものであり,旧審査の方針別表9(広島)によると,初期放射線による被爆線量は0.5グレイ(50センチグレイ)とされ,また,建物による遮蔽を考慮して透過係数を0.7とすると,1審原告P4の初期放射線による被爆線量は0.35グレイ(35センチグレイ)と推定されること,1審原告P4には,原爆爆発後72時間以内に爆心地から700メートル以内の区域への入市や,広島市己斐地区又は高須地区に滞在又は居住した経過はないことから,同人の被爆後の行動による残留放射線は0グレイとなる。

しかし,旧審査の方針が依拠するDS86による初期放射線量が過小評価されている可能性に留意する必要があることは,1審原告P1の場合と同様である。また,1審原告P4は,原爆投下当日,胸,でん部に出血のある状態で,黒い雨に打たれ,その後も相当の期間,広島市内に留まって,通信手段敷設などの作業を行っていたというのであるから,誘導放射能や放射性降下物が身体や衣服に付着し,または体内に入ったことは十分に考えられ,誘導放射能や放射性降下物による相当量の外部被爆及び内部被爆をした可能性があり,旧審査の方針による残留放射線量は過小評価されている可能性がある。

そして,1審原告P4には,前記認定のとおり,吐き気,下痢,脱毛といった放射線による急性症状として説明することが可能な症状を発現し,その後も,被爆前は格別,健康状態に異常はみられなかったのに,被爆後,身体のだるさを感じるようになり,このような脱力感は相当長期間に及び,その後も,睾丸炎,でん部の腫瘍,白内障,左下腿静脈瘤などを発症するなど,被爆を境にして,健康状態は急激に悪化し,長期にわたって体調不良の状態が継続していることにかんがみると,1審原告P4の被爆量は,旧審査の方針で算定された被爆線量よりは多量の線量を被爆したものと推認するのが相当である。

なお,1審被告らは,1審原告P4に被爆に生じた吐き気,下痢,脱毛といった身体症状は原爆放射線に起因するものではないと主張するところ,前記主張を採用し難いことは,前記1審原告P1の場合と同様である。

(3) 1審原告P4の申請疾病の放射線起因性判断の問題点

1審原告P4は,自分はIPMNに罹患しているところ,同疾病は放射線起因性がある旨主張している。これに対し,1審被告らは,同原告が罹患しているのはIPMNではないとしてこれを争うとともに,仮に,IPMNであったとしても放射線起因性はない旨主張する。そして,IPMNは,旧審査の方針において放射線により確定的影響を受ける疾病であるとかあるいは確率的影響を受ける疾病であるとして原因確率が定められている疾病ではないので当該疾病に放射線起因性が認められるかどうかが特に問題となる。

(4) 1審原告P4のIPMNの放射線起因性

ア 申請疾病であるIPMNの病像等に関する知見

(ア) 内科学第8版(平成15年)(乙C5)の指摘

膵嚢胞は,膵液,粘液,血液,壊死物質などを内容として含み,嚢胞壁に覆われた嚢胞を膵内部あるいは膵周囲に形成する病変の総称であり,嚢胞壁に上皮成分を認めない仮性嚢胞と嚢胞壁内面が上皮に裏打ちされた真性嚢胞に分類される。

膵嚢胞の大部分が仮性嚢胞であり,真性嚢胞は約1割を占めるにすぎない。真性嚢胞は,先天性と後天性に分類され,後天性の真性嚢胞には貯留性,寄生虫性,腫瘍性がある。

仮性嚢胞の成因は膵炎によるものが最も多く,70ないし80パーセントを占める。それ以外の成因は炎症や外傷による膵管系の破綻で,膵液や壊死物質などが貯留し,周囲組織で被覆されて形成される。貯留性嚢胞は,腫瘍や炎症による膵管閉塞に続発し,膵液がうっ滞して徐々に生じる。一方,腫瘍性嚢胞の成因は不明である。膵囊胞全体の頻度は,入院患者の0.004ないし0.04パーセントとされる。

自覚症状としては,腹痛,悪心,吐き気,食欲不振が高頻度に生じ,発熱,黄疸,消化管出血などが認められる。他覚症状としては,上腹部圧痛,腫瘤触知が認められる。膵液の膵外漏出に伴い,腹水や胸水がみられる場合がある。腫瘍性嚢胞では,無症候の場合も多く,腹部腫瘤が唯一の症状の場合がある。

膵管内乳頭腫瘍では,十二指腸乳頭の開大と粘液の排出が特徴的で,膵管造影では主膵管や分枝膵管のびまん性の拡張がみられる。膵炎の経過中に持続する上腹部痛を伴い,腫瘤を触知する症例で,仮性嚢胞が強く疑われ,超音波,CTで内部構造の均一な腫瘤が認められれば,診断が確定する。無症候性の膵嚢胞は,腫瘍性嚢胞を疑い,隔壁の不整な肥厚や隆起が認められればその疑いが強まる。腫瘍性嚢胞の実質的診断は,嚢胞の性状や主膵管の拡張所見等から総合的に診断される。膵管内乳頭腫瘍や粘液性嚢胞腫瘍では良性・悪性の鑑別が問題になるが,必ずしも容易ではない。

腫瘍性囊胞は,悪化する場合があるので,切除が原則である。良性の可能性が高い病変に対しては,膵局切除などの縮小手術が施行されることもある。腫瘍性囊胞は,浸潤性膵管がんに比較して予後良好な腫瘍とされているが,浸潤や転移を伴うものは,切除不能な場合もあり,予後不良である。

(イ) 「膵嚢胞性疾患について」(乙全94号証,浜松医科大学第2外科のホームページ)の指摘

膵嚢胞性疾患とは,膵臓に嚢胞(様々な液体の入った袋状のもの)ができた疾患であり,以前は仮性嚢胞が大部分を占めていたが,近年の画像診断の発達により,腫瘍性嚢胞の発見が増えている。

膵嚢胞性疾患は,非腫瘍性と腫瘍性のものに分けられ,非腫瘍性のものとしては,仮性嚢胞,貯留嚢胞,先天性嚢胞,膵リンパ上皮性嚢胞が,腫瘍性のものとしては,漿液性嚢胞腫瘍,粘液性嚢胞腫瘍,膵管内乳頭粘液性腫瘍などがある。このうち,膵管内乳頭粘液性腫瘍(IPMN)は,粘液を産生する膵管上皮が乳頭状に増殖した膵管内腫瘍であり,膵管内に粘液が充満するため,膵管がブドウの房のように拡張するのが特徴である。高齢の男性に多くみられ,主膵管型と分枝膵管型に分類される。悪性例はしばしばみられ,膵がん全体の数パーセントを占める。いわゆる膵がんよりは予後良好とされ,治療としては,腫瘍が小さい場合は経過観察することもあるが,基本的には手術をする。

(ウ) P85ほか「膵嚢胞性病変の鑑別診断のポイントは?」(平成16年,甲C4)の指摘

膵管内乳頭腫瘍は,粘液貯留による主膵管拡張や分枝膵管の嚢胞状拡張などの所見を呈する比較的予後の良い膵上皮性腫瘍である。

一般的には,主膵管型,分枝型,混合型の3類型に分類されているが,外の膵嚢胞性疾患との鑑別を要するのは分枝型膵管内乳頭腫瘍である。

膵管内乳頭腫瘍の臨床的特徴は,平均67歳と比較的高齢の男性に多発しており,随伴性膵炎,膵管との交通,膵管内進展を認めるが,被膜を認めないことが多い。また,画像上の特徴は,主膵管型膵管内乳頭腫瘍においては,CT,超音波内視鏡検査(EUS)などで主膵管の著明な拡張を認めることができ,内視鏡的逆行胆管膵管検査(ERCP)では,主膵管内の粘液が確認され,粘液分泌によるVater乳頭の開大と粘液の流出が確認されれば診断は確定する。

分枝型膵管内乳頭腫瘍は,拡張した分枝膵管の集簇で,ブドウの房状の形態と表現される辺縁凹凸のある腫瘍である。嚢胞の形態的には分葉状で不整型を呈し,膵管壁に乳頭状の粘膜増生を伴うものが多い。特に粘液性嚢胞腫瘍の鑑別に重要である膵管との交通の有無の判定には,ERCPが必要とされることが多い。

この他の嚢胞性病変として最も多くみられるのは仮性嚢胞であり,これは単房性であることが特徴である。

(エ) P86「粘液嚢胞性腫瘍(MCN)と膵管内乳頭粘液性腫瘍(IPMN)」(平成17年,甲全69号証)の指摘

IPMNには,病理学的に過形成から腺腫,異形性,上皮内がんから,進行がんなど広範囲な組織型が含まれている。中には病理学的診断のかなり難しいものも含まれ,構造異型,細胞異型等による腫瘍・非腫瘍の診断や良悪性の診断が困難であることも稀ではない。主膵管の拡張を主体とする主膵管型と,膵管分枝の拡張を主体とする分枝型に2大別され,悪性度を主膵管型と分支型とで比較すると,主膵管型に悪性のものが多く約80パーセントは悪性である。分枝型では,上皮内がんや腺腫が有意に高率に認められ,悪性の頻度は20パーセントである。治療方針としては主膵管型は80パーセントが悪性なので手術適応となり,分枝型では壁在結節のあるものや,径が3センチメートルを超えるものが手術の適応となる。すなわち,分枝型の約20パーセントががん,約60パーセントが経過観察の対象となる。

イ 1審原告P4の罹患している疾病はIPMNか

前記のとおり,1審原告は自分が罹患している疾病はIPMNである旨主張するのに対し,1審被告らは同原告の膵臓病変は良性の仮性嚢胞である旨主張するので,まずその点について判断する。

前記認定したところによれば,膵嚢胞性疾患とは膵臓に嚢胞ができた疾患であり,非腫瘍性のものと腫瘍性のものに分けられ,非腫瘍性のものとしては仮性嚢胞,貯留嚢胞等があり,腫瘍性のものとしては粘液性嚢胞腫瘍,膵管内乳頭粘液性腫瘍(IPMN)等があること,IPMNは粘液を産生する膵管上皮が乳頭状に増殖した膵管内腫瘍であり,膵管内に粘液が充満するために膵管がブドウの房のように拡張するのが特徴であるとされる点については確立した知見といえる。

そして,証拠(甲C2,6)によれば,1審原告P4は,昭和59年11月13日,P87病院で被爆者検診を受けたが,このころには既に左腹部から左背部に痛みがあり,昭和60年1月,P83病院において主治医であるP84医師によるCT,超音波,ERCPなどの検査を受け,主膵管と交通する膵嚢胞(15×10ミリメートル)と診断され,膵酵素(血清アミラーゼ,エラスターゼ1)や腫瘍マーカー(CEA,CA19-9)の上昇は認められないものの,脂肪分の多い食事や過食をした後に症状が増強することから,慢性膵炎の定義には合致しないが,慢性膵炎としての治療を開始することになり,膵嚢胞については,画像診断検査による経過観察となったこと,その後も腹痛などの自覚症状は持続していたが,服薬により軽快傾向にあったこと,平成4年2月4日,P83病院においてP84医師によるEUSを受けたが,その結果,同人の膵嚢胞が多房性であることが判明し,同月10日に実施したERCPの結果,嚢胞の大きさが25×18ミリメートルと増大傾向にあることが認められたため,粘液性膵嚢胞腺腫が疑われたこと,EUSでは,壁在結節や主膵管拡張は認められなかったが,悪性化の可能性があるとして,同医師から手術を勧められたが,1審原告P4の希望により引き続き経過観察となったこと,P84医師は,平成4年ころは1審原告P4の膵嚢胞を粘液性膵嚢胞腺腫(MCTまたはMCN)と考えていたが,当時,同疾病と膵管内乳頭粘液性腫瘍(IPMTまたはIPMN)とが混同されており,その後,両者が明確に定義されて過去の症例が見直されるようになったので,改めて1審原告P4の膵嚢胞について鑑別をした結果,1審原告P4が高齢の男性であること,嚢胞が多房性であること,主膵管との交通が存在していることなどから分枝型膵管内乳頭粘液性腫瘍(IPMN)であると診断したこと,以後,定期的にCT,ESUを実施して経過観察を継続しているが,平成17年9月の時点まではサイズの変化や壁在結節の出現,主膵管拡張などの変化は認められていないことが認められ,これらの事実からすると,1審原告P4の罹患している疾病はIPMNであると認められる。

これに対し,1審被告らは,1審原告P4のCT像からは多房性の病変は認められず,1審原告P4の膵嚢胞はIPMNではなく非腫瘍性の仮性嚢胞であると主張し,P88医師もCT像からは多房性であると判断することはできない旨供述する(乙C4,7,原審における証人P88)。しかし前記証拠によれば,P84医師は,CT像による検査では分かりにくいが,その後,当時新しい検査方法であったEUSを実施し,その結果同原告の膵管部の病変は多房性であることを確認しており,確かにEUS検査の際に取得した写真によればそれが確認されることからすれば,CT像のみに基づく前記P88証言は採用し難く,1審被告らの前記主張は理由がない。

ウ IPMNの放射線起因性に関する知見

IPMNに関する文献をみると,前記のとおり平成3,4年ころまでは,IPMNと粘液性嚢胞腫瘍(MCN)とが混同されるなどしていたため,膵嚢胞性病変の鑑別診断についての文献は種々存在するものの,IPMN自体が放射線に起因するものであることを直接示す知見は見当たらず,また,膵嚢胞を含む腫瘍性嚢胞について放射線との有意な関係を示す疫学的知見も見当たらない。

しかしながら,IPMNと放射線起因性の関係についての直接の知見がないからといって,それだけで起因性が否定されるわけではなく,その他の知見や資料に基づいてIPMNに放射線起因性が認められるかどうか検討しなければならない。そこで,以下,検討する。

(ア) 1審原告P4は,IPMNは悪性腫瘍と類似性を有する疾病であり,膵がんに類似した特性を有しているので,膵がんと放射線との関係を類推してその放射線起因性を認めるべきである旨主張するので,その点について検討する。

確かに,前記認定したところからすると,IPMNの中には,病理学的には過形成から腺腫,異形成,上皮内がんから進行がんなど広範囲なものが含まれており,IPMNのうち1審原告P4の罹患している分枝型膵管内乳頭粘液性腫瘍は主膵管型のものよりは良性のものが多いがそれでも20パーセントが悪性のものであるとの知見などに代表されるように,IPMNには良性のもののみならず悪性のものまで含まれるという点においてはほぼ確立した知見ということができる。

これに対し,1審原告P4は,IPMNは,WHO分類による,組織学的分類によると,良性と悪性の「境界」に分類されていることやIPMNは前がん病変であることを根拠に,1審原告P4のIPMNは悪性の腫瘍であり膵臓がんに似た性質があることから,膵臓がんと放射線との関係を類推して,放射線起因性を検討すべきであると主張する。

そして,証拠(甲C3,11)によると,平成8年のWHOの膵外分泌腫瘍の組織学的分類による悪性度において膵管内乳頭粘液腺腫は「良性」に,細胞が中程度異形性を有する膵管内乳頭粘液性腫瘍は「境界」に,膵管内乳頭粘液がんは「悪性」に分類されていることが認められるが,同分類によっても「境界」と分類されるのは細胞が中程度に異形成を有するIPMNであり全てのIPMNではないこと,平成12年に定められた我が国における膵腫瘍の組織型分類(膵癌取扱い規約・最終案)によると,上皮性腫瘍は外分泌腫瘍,内分泌腫瘍など6種に分類され,外分泌腫瘍は,さらに,漿液性囊胞腫瘍,粘液性膿瘍腫瘍,膵管内腫瘍,異形過形成及び上皮内がん,浸潤性膵管がん,腺房細胞腫瘍の6種に分類され,IPMNは,膵管内腫瘍の中に分類されていること,各腫瘍は,腺腫とがんに分類され,がんはさらに,非浸潤性と微小浸潤性に分類されることが認められるが,IPMNを含む膵管内腫瘍については腺腫やがんに分類されていないことが認められ,IPMNが「境界」に分類されるという見解は一つの見解としてはあり得るとしても,膵腫瘍に関する悪性度及びその分類について病理所見を重視する我が国において,確立した知見といえるかどうかについては疑問がある。

また,1審原告P4が主張するように,IPMNが前がん病変であるとの知見(カレント・メディカル 診断と治療,平成15年,甲C5)や,膵がん,IPMN,膵管内腫瘍由来の浸潤がんの生物学的相違を考察することを目的に,術前未治療の膵がん14例,IPMN23例,前記浸潤がん4例につき,抗cyclinB1抗体(以下「抗体1」という。),抗14-3-3σ抗体(以下「抗体2」という。),抗p53抗体(以下「抗体3」という。)を用いた免疫組織化学法により蛋白発現を検討したところ,膵がんでは,抗体1は14例中5例,抗体2は全例で発現陽性,抗体3は14例中6例で発現陽性,IPMNでは,抗体1は23例中3例,抗体2は23例中14例で陽性であったが,抗体3は全例で陰性,また,前記浸潤がんでは,抗体1は4例中1例で,抗体2は全例,抗体3は4例中1例で陽性発現したことが認められ,抗体3の蛋白発現異常は膵がんにおける腺腫がんの後期に起こる変化であると考えられる一方,抗体1,抗体2の蛋白発現異常は発がん段階の初期に起こることが考察されたとの指摘(Canncer SciennceVol.95・平成16年・甲C11資料1)もある。しかしながら,前記知見を総合しても,IPMNの中には悪性のものも含まれているとの知見は確立したものであるということができるが,各種のがんとは異なり,IPMNが全て悪性であるとか,IPMNは良性のものであっても必ず悪性化してがんに変化していくとか,IPMNは膵臓がんと連続的な関係にあるというような知見が確立しているとかあるいは有力であるとまでは認め難く,前記蛋白発現異常の点についても,IPMN全てについて異常が認められるわけではない。

そして,IPMNは一般的には良性腫瘍とされていることや,仮に,WHOの前記組織学的分類にしたがってIPMNが悪性と良性の「境界」に属するという見解に従ったとしても,「境界」とされるのは前記のとおり細胞が中程度異形性を有する膵管内乳頭粘液性腫瘍(IPMN)の場合であるところ,1審原告P4の病変に組織学的検査によって細胞に中程度異形性が認められることを示す証拠はないこと,同人の主治医であるP84医師が昭和60年に1審原告P4を初診して同人に膵囊胞が存在することを確認して以降,平成17年までの約20年間,定期的に種々の検査をするなどして経過を観察してきたものの現時点においては悪性を示唆する所見を認めないとの診断をしていることからすると,1審原告P4のIPMNは良性の可能性が相当高いものと認められる。したがって,1審原告P4の罹患しているIPMNは悪性の腫瘍であり膵がんに似た性質を有するから膵がんあるいは上皮性腫瘍と放射線との関係を類推して判断すべきであるとの1審原告P4の主張は採用し難い。

(イ) 次に,1審原告P4は,IPMNが良性のものであるとしても,良性腫瘍にも放射線起因性が認められるから,大腸ポリープなどの放射線起因性との比較検討によって,1審原告P4のIPMNに放射線起因性が認められると主張するので,以下検討する。

a 良性腫瘍と放射線起因性に関する知見

まず,良性腫瘍と放射線起因性に関する知見としては次のようなものがある。

Ⅰ 成人健康調査第6報(昭和61年)(甲C9で以下「第6報」という。)の指摘

リンパ,造血系を除く全がんの場合と同様,良性腫瘍については,線量とともに有病率が増加する所見が得られた。被爆線量が200ラド以上の群では,有病率が0ラド群の2倍に達している。年齢別にみると,線量の増加に伴う増加はどの群でも観察されるが,被爆年齢時10歳代及び20歳代では一貫性が高い。

良性腫瘍は女性に圧倒的に多く(有病率は男性の3ないし4倍),子宮筋腫が女性の良性腫瘍の6割近くを占め,増加傾向は最近の周期に著しい。年齢別では,被爆年齢時10歳から29歳のものに関連性が最も強い。胃良性腫瘍のほとんどは胃ポリープで,症例数が比較的多く,ことに,男性では2,3の周期では約半数を占め,広島で,ごく最近の周期に線量に伴って軽度の増加がみられるが,長崎ではその傾向はない。性差は明らかではないが,年齢別には,示唆された線量との関連では,最若年者に限定されている。しかし,剖検例では,放射線による影響は観察されていない。脂肪腫は,男性にあっては胃ポリープに次ぐ頻度を有し,合併すれば,良性腫瘍の大部分を構成し,女性にも比較的頻度が高い。被爆線量に伴う増加傾向は最近の何周期かにみられるが,他の良性腫瘍ほど明白ではない。

ヒトの良性腫瘍と放射線の関係は,マーシャル住民の放射性降下物による甲状腺のアデノーマ(腺腫),原爆被爆者においても唾液腺の良性腫瘍の増加などが指摘されている。今回の解析によって,全般的な所見としてはがんと同一であったことは注目に値する。しかし,これらの腫瘍が良性であるという性質上,大多数は臨床診断のみに終わってしまうため,真の腫瘍か否か確実性に欠けるなど,様々な問題点を有するが,一般的な傾向は観察し得ると考えられる。腫瘍登録による発生率の調査もこの結果を強く裏付けるものであるが,登録そのものが不備なため,検出のバイアスを否定し得ない。良性腫瘍と子宮筋腫については,なお検討中であるが,バイアスだけでは説明できない有意差があるといえる。いずれにしても,放射線の催がん性,催腫瘍性の見地からは重大な知見である。

Ⅱ 「原爆放射線の人体影響1992」(平成4年,乙全14,乙32)の指摘

原爆放射線が多くの部位の悪性腫瘍の発生を増加させるということは,広く認められた事実であり,今なお,様々な角度からの研究が続けられている。一方,放射線と良性腫瘍の関連については,現状では,その研究成果は極めて乏しく,はっきりした結果は得られていない。これは,良性腫瘍が致命的な疾患ではなく,研究の動機づけが難しいことや,疫学的な研究を行う際にも把握率という重大な問題があるため,確固たる研究が実施しにくいという事情があるためである。放射線ががんの発現に及ぼす主要な機構としては,遺伝子の傷害が考えられているので,良性腫瘍においても,放射線が同様の作用を及ぼすことは十分に考えられる。放影研では,第6報において,初めて良性腫瘍の有病率の解析を行い,放射線量に伴って良性腫瘍の有病率が有意に増加したことなどを確認しているが,上述のとおり,良性腫瘍の疫学的研究は,その把握率が大きな影響をもつため,その解釈は難しい。しかし,成人健康調査では一定の基準で診断を行っているため,その信頼性は高いと思われる。このように原爆放射線によって良性腫瘍の発症も増加していることが示唆される結果となっているが,良性腫瘍のみられる臓器や組織は様々であり,比較的高頻度にみられる臓器の良性腫瘍は,消化管ポリープ,子宮筋腫,卵巣腫瘍である。

以上のとおり,原爆被爆者における良性腫瘍についての研究は,いろいろな実施上の問題があるため困難であるものの,そのような中で行われている研究成果によって,子宮筋腫や卵巣腫瘍など一部の良性腫瘍については,放射線被爆との関連が示唆されてきている。しかし,これを確認するためには,さらなる検討が必要である。良性腫瘍のあるものは,悪性腫瘍との関連も強く,正常から悪性への過程とも考えられるので,放射線による腫瘍発生の機構を検討するうえでも,被爆者における良性腫瘍の研究は重要であると思われる。

b 検討

以上を前提に検討するに,第6報では,良性腫瘍の有病率について解析が行われ,放射線による有意な増加が確認されたとの報告がなされていることは前記認定のとおりである。しかしながら,前記結果について,一般的傾向は観察し得るとしながらも,同報自体,これらの腫瘍が良性であるという性質上,大多数は臨床診断のみに終わってしまうため,真の腫瘍か否か確実性に欠け,把握率という点で問題点を有すること,腫瘍登録数等の不備なため,検出のバイアスを否定し得ないとしていること,良性腫瘍のみられる臓器や組織は様々であるところ,被爆者に比較的高度にみられる臓器の良性腫瘍は,消化管ポリープ,子宮筋腫,卵巣腫瘍であって,IPMNは,個別にその発症と放射線との関係が研究,検討されている疾病ではないこと,これまで膵臓の嚢胞性腫瘍と放射線との関連性を指摘した報告等は発表されていないこと(原審における証人P88),組織の放射線感受性は,細胞分裂頻度の高いものほど高いとされており,これを「最も高い」,「高度」,「中等度」,「かなり低い」,「低い」という5段階に分けて評価すると,細胞分裂頻度の低い膵臓上皮放射線感受性は「かなり低い」と評価されていること(「放射線の基礎医学第10版」平成16年初版・乙全90)などに照らすと,本件全証拠によっても,IPMNが良性腫瘍であり,良性腫瘍に放射線による有意な増加が認められることを根拠として,IPMNに放射線起因性を認めることは困難である。

(ウ) また,1審原告P4は,放射線起因性が認められている副甲状腺機能亢進症を発症した可能性が高く,前記症状が原因で,高カルシウム血症を発症し,これがIPMNの症状に影響を与えている可能性が考えられ,副甲状腺機能亢進症が1審原告P4のIPMNに影響を与えていることは否定できないと主張する。

そこで,検討するに,証拠(甲C11の資料6,7,乙C12の1,2)によると,高カルシウム血症とは,血清カルシウム値が正常上限を超える血清カルシウム値をみる場合をいい,臨床検査の場合,正常値は8.8から10.4ミリグラムパーデシリットルとされていること,高カルシウム血症と診断されるためには,相当程度,数値が正常上限値を超えていることを要すること,血清カルシウム値が10.3ミリグラムパーデシリットル以上であれば,高カルシウム血症を疑い,10.5ミリグラムパーデシリットル以上であれば,確実であるという医学書もあること,1審原告P4の血清カルシウム値は,昭和60年2月9日に10.5ミリグラムパーデシリットル,平成5年9月22日に10.7ミリグラムパーデシリットル,平成19年9月19日に9.5ミリグラムパーデシリットルであることが認められる。以上によると,昭和60年と平成5年には,臨床検査の場合の正常値を超えているものの,平成19年には正常値の範囲内にあり,血清カルシウム値が相当程度,正常上限値を超えているとは認め難い。

この点について,1審原告P4は,腹痛を訴えており,膵炎に罹患していたとし,同人の膵炎は高カルシウム血症による症状であると主張する。

しかしながら,証拠(甲C11の資料8)によると,高カルシウム血症の症状として,血中カルシウム値が12ミリグラムパーデシリットル以上になると,ガストリン分泌亢進により胃酸分泌亢進を,さらに消化性潰瘍や膵炎を合併することがあるものと認められるとの説明がなされているところ,1審原告P4の血中カルシウム値が前記値を超えたことを認めるに足りる証拠はないから,1審原告P4の前記主張は採用し難い。

また,1審原告P4は,膵炎を発症していた場合,血清カルシウム値が低値を示すことが指摘されているところ,1審原告P4は膵炎発症後に血清カルシウム値が正常値を示したとも考えられ,これによれば,同人は,副甲状腺機能亢進症である疑いが高いと主張する。

しかしながら,1審原告P4は,前記認定のとおり,昭和60年ころには激しい強い腹痛を訴えて,P83病院への通院を開始して,精密検査の結果,膵臓に嚢胞があることが発見されているというのであるから,膵炎を発症したのであるとすれば,その時期は,昭和60年ころか,これに近接した時期であったものと推認される。したがって,1審原告P4が膵炎を発症したのであれば,その発症時期と推認される昭和60年ないしこれと近接した日時に,同人の血清カルシウム値は,低下して正常値を示すものと考えられるところであるが,1審原告P4の血清カルシウム値は,昭和60年2月のみならず,平成5年9月の検査でも,正常値の範囲を超えた値を示していたのに対し,平成19年9月には正常値の範囲内となっているのであるから,1審原告P4が膵炎に罹患したと考えられる時期と血清カルシウム値との関係は整合していない。そのうえ,証拠(甲C11の資料6)によれば,平成19年9月19日における同人の副甲状腺ホルモン(PTH-1)の数値は,基準値の範囲内に収まっていることが認められるので,同人の副甲状腺機能は正常であるものと認められる。したがって,1審原告P4の前記主張も採用し難い。

この点について,P48医師は,1審原告P4が甲状腺組織について腺腫,過形成及びがんを有していた可能性が高いとする(甲C11)が,これを裏付けるような,1審原告P4の医学的な検査所見は本件証拠上見当たらないことに照らして,前記P48医師の見解は,採用の限りではない。

これに対し,1審原告P4は,同人には血清カルシウム値が高値とともに血清リン値が低値であることが認められ,血清リン値が低値を示す病態としては,副甲状腺機能亢進症が強く疑われるから,同人は副甲状腺機能亢進症である可能性が高いと主張する。確かに,同人の昭和60年2月9日及び平成19年9月19日の検査結果によると,血清リン値が正常値を下回っていることは認められる(甲C11の資料6,乙C12の1)。

他方,証拠(甲C11の資料8)によると,原発性甲状腺機能亢進症の診断をするに際に考慮すべき要素として,第1に高カルシウム血症の発症,すなわち実測カルシウム濃度に一定の補正を加えた補正カルシウム濃度が10.2ミリグラムパーデシリットルを超えること,第2に血中PTHが高値を示すこと,その他として,軽度の低リン血症などがあげられているが,前記のような症状が現れる機序として,腸からのカルシウム吸収が上昇することに起因して血中カルシウム値が上昇,リン値が下降すること,副甲状腺におけるPTHが上昇することに起因して,一つには骨吸収が上昇し,それに起因して血中カルシウムの上昇などを誘発し,あるいは腎におけるリンの排泄を上昇させて,腎でカルシウムの再吸収が上昇し,それに起因して血中カルシウムの上昇などを誘発するものと認められる。したがって,甲状腺機能亢進症の診断には,少なくともPTH値が上昇していることを要するというべきである。しかしながら,前記認定のとおり,平成19年9月19日の検査結果では,同人の副甲状腺機ホルモン値(PTH値)は正常の範囲内にあり,前記のとおり,同人の血中カルシウム値も高カルシウム血症の発症を基礎づける程度の高値を示すものとも認められないこと,他に同人の副甲状腺機能に異常があることを裏付ける検査所見も見当たらないことに照らすと,1審原告P4の前記主張は,同人が副甲状腺機能亢進症であるという点において前提を欠くもので,採用の限りではない。

以上より,1審原告P4の前記主張は採用し難い。

(5) 総合判断

ア 1審原告P4は,IPMNと放射線との関連性に関する知見が十分とはいえなくとも,同人の被爆当時の年齢,被爆線量等や遺伝子の傷害という観点からその発生機序が合理的に推認され,がんとも一定の類似性が認められるIPMNを発症していることなどを総合的に判断することによって,放射線被爆が1審原告P4のIPMNの発症や促進に影響を与えていることは優に認められると主張する。

確かに,旧審査の方針においてもこのように原爆放射線起因性に係る肯定的な科学的知見が立証されておらず,原因確率を設けていない疾病についても,そのことに留意しつつ,なお当該申請者に係る被爆線量,既往歴,環境因子,生活歴等を総合的に勘案して,個別にその起因性を判断するものとしているので,その観点に立って検討するに,まず,上記の観点から総合判断をする場合にも,前記判示のとおり申請疾病と原爆放射線との間の法的因果関係の立証の程度は,単に申請疾病と原爆放射線との間に関連性がある蓋然性が認められるという程度では足りず,その間に高度の蓋然性が認められなければならないものであることが前提となる。そして,1審原告P4がIPMNの放射線起因性を裏付ける知見ないし事実として種々主張する点については,前記のとおり確かに同原告の主張に沿う知見が存在することも認められるが,それらについてはそれぞれ前判示のような問題点があることに加え,IPMNは放射線被爆がなくても発症し得る疾病であり,前記認定のとおり男性の高齢者(平均発症年齢67歳)に多く発症する疾病であること,1審原告P4が発症したのも60歳になった昭和59年ころであって前記平均発症年齢とも大きく矛盾しないことなどを合わせ勘案すると,前記認定のように1審原告P4の被爆線量は旧審査の方針により計算されたものよりも多いことが認められることや,IPMNについてはそもそも知見が少なく,最近になってようやく病像が少しづつ明らかになってきており,今後の研究によっては,放射線との関係が明らかになる可能性があることを考慮に入れても,いまだ1審原告P4の罹患しているIPMNと原爆放射線との間に因果関係があることが高度の蓋然性をもって立証されたものとは認め難いといわざるを得ない。

イ また,1審原告P4は,1審被告厚生労働大臣が定めた新審査の方針では,一定の被爆状況にある被爆者については,悪性腫瘍等の一定の疾病についての申請があった場合には,格段に反対すべき事由がない限り,当該申請疾病と放射線との関係を積極的に認定するというものであり,同人については新審査の方針が定める被爆距離に関する要件が満たされていることから,このような事実は1審原告P4の申請疾病に放射線起因性を肯定する1要素であると主張する。

確かに,新審査の方針は,爆心地から一定の距離の範囲内で被爆した者や一定の条件を満たす入市被爆者について,一般的に放射線起因性が推認される悪性腫瘍(固形がんなど),白血病,副甲状腺機能亢進症,放射線白内障(加齢性白内障を除く。)及び放射線起因性が認められる心筋梗塞についての申請がある場合には,格段に反対すべき事由がない限り,前記の申請疾病と被爆した放射線との関係を積極的に認定するとしている。

しかしながら,新審査の方針においても,当該申請疾病についての放射線起因性を原爆症認定の要件としていることに変わりはないものであり,原爆症の認定においては,申請者の申請疾病ごとにその放射線起因性を判断するという制度は維持されているものである。したがって,申請者が,新審査の方針の定める爆心地からの距離以内の地点で被爆したという要件が満たされている場合であれば,当該申請疾病が前記のような一般的に放射線起因性が認められている疾病以外のものであっても,当然にその申請疾病の放射線起因性を肯定する趣旨であるとまでは解されず,また,当該疾病と原爆放射線との関係が否定できない限り当該疾病と原爆放射線との因果関係を肯定することを定めたものとも解されない。したがって,この点に関する1審原告P4の主張も採用し難い。

(6) 結論

以上によれば,1審原告P4は,本件1審原告P4却下処分当時,原爆症認定申請の対象とされるべき疾病について,放射線起因性を具備していたものとは認めるに足りないから,本件1審原告P4却下処分は適法というべきである。

第81審原告らの1審被告国に対する損害賠償請求について

1  本件各却下処分の違法と国家賠償法1条1項の違法性

(1) 本件訴訟において,原審は,1審被告厚生労働大臣が,1審原告P2に対してした原爆症認定申請却下処分(以下「本件1審原告P2却下処分」という。)及び1審原告P3に対してした原爆症認定申請却下処分(以下「本件1審原告P3却下処分」という。)をいずれも違法であるとして取り消し,本件1審原告P1却下処分及び本件1審原告P4却下処分は適法であると判断したところ,1審原告ら及び1審被告らがいずれも敗訴部分を不服として控訴をした。その後,1審被告厚生労働大臣は,1審原告P2について,新審査の方針によって平成20年6月18日,本件1審原告P2却下処分を取り消し,原爆症認定処分がなされ(甲D29),また,平成21年8月11日,1審原告P2及び1審原告P3に対する控訴を取り下げたので,同人らに対する原審の判断が確定した。そして,当裁判所は,1審被告厚生労働大臣が,1審原告P1に対してした本件1審原告P1却下処分は違法であるから取消しを免れないものと判断し,1審原告P4に対してした本件1審原告P4却下処分は適法であると判断するものである。

そうすると,1審原告P4の1審被告国に対する誤って却下処分をしたことを理由とする損害賠償請求については,その余の点について判断するまでもなく理由がないことに帰する。

(2) 次に,1審被告厚生労働大臣は1審原告P2及び1審原告P3に対する控訴をいずれも取り下げているから,当裁判所は本件1審原告P2却下処分及び本件1審原告P3却下処分の適法性については判断をしないが,本件1審原告P2却下処分,本件1審原告P3却下処分及び本件1審原告P1却下処分については,結果として,違法な処分であったことに帰する。しかしながら,行政機関が行った行政処分が,前提事実の誤認や処分要件を欠くために違法と判断されて当該処分が取り消され,これによって,仮に,申請者の権利ないし利益を害することがあったとしても,そのことから直ちに当該行政処分が国家賠償法1条1項が定める違法な処分であったものと評価すべきものではなく,当該行政機関が資料を収集し,これに基づき前提事実及び処分要件を認定,判断するうえにおいて,職務上通常尽くすべき注意義務を尽くすことなく漫然と行政処分をしたものと認められるような事情がある場合に限り,当該行政処分は国家賠償法1条1項の定める違法な処分との評価を受けるものと解するのが相当である(最高裁平成5年3月11日第1小法廷判決)。

そして,前記(付加訂正後の原判決)認定のとおり,1審被告厚生労働大臣は,1審原告P2について,平成9年6月3日付けで本件1審原告P2却下処分をし,これに対する異議申立てに対して,平成15年1月9日に異議申立却下処分をし,1審原告P3について,平成15年2月3日付けで本件1審原告P3却下処分をし,1審原告P1について,同年1月28日付けで本件1審原告P1却下処分をしている。

したがって,前記各却下処分が,国家賠償法1条1項により違法と評価されるかどうかを判断するためには,被爆者援護法11条1項に基づく認定に関する権限を有する1審被告厚生労働大臣が,前記却下処分をするに際し,職務上通常尽くすべき注意義務を尽くすことなく,漫然と前記各却下処分をしたものであるか否かについて判断しなければならないことになる。

2  1審原告らは,1審被告厚生労働大臣には,平成12年最高裁判決などで確立した司法判断を尊重すべき義務があったのに,1審原告らの原爆症認定申請に対して,重大な欠陥があることが明らかであった旧審査の方針を,その欠陥を知りながら,あるいはこれを知り得たのに,機械的に適用して申請を却下したこと,行政手続法5条1項が規定する審査基準を定めることなく,1審原告らに対する申請却下処分をしたこと,また,同法8条1項が規定する却下処分に対する理由の付記をしなかった点で違法であるとして,各却下処分によって1審原告らが被った精神的苦痛に対する損害を賠償すべき義務があると主張するので,以下検討する。

(1) 1審原告らは,1審被告厚生労働大臣は,平成12年最高裁判決及びいわゆるP101訴訟判決(平成12年▲月▲日大阪高等裁判所判決)で確定した司法判断に従う義務がある旨主張し、前記各判決においてはDS86や一定線量以上の放射線を浴びないと人体に影響がないというしきい値理論に基づく原爆症認定行政が非科学的、かつ、不合理であるとされたにもかかわらず、旧審査の方針においても抜本的な改革を行わなかったのは、前記義務に違反したものであるとする。

上記2つの訴訟の確定判決は,いずれも旧審査の方針が平成13年に定められる以前の却下処分に関するものであり,確かに,各判決の理由中で,1審被告国が主張の根拠としたDS86による被爆線量の評価及びしきい値は絶対的なものであるとはいえず、それらを機械的に適用することは相当ではない旨を説示しているところがある。しかしながら,両判決はDS86線量評価システム及びそれを前提とするしきい値理論とを全体的に否定したものではなく、一定の問題点を含みながらもそれなりに信頼に足りるものであると認めているものであるとともに、平成12年最高裁判決は,爆心地から2400メートルの地点で被爆し,爆風で飛んできた瓦が頭部に当たり,頭蓋骨陥没骨折等の傷害を受けた長崎原爆の被爆者が,右半身全片麻痺及び頭部外傷を申請疾病として原爆症認定申請をした事案において,放射線起因性があるとした福岡高等裁判所の判断を是認し得ないものではないとした事案であり,また,平成12年▲月▲日の大阪高等裁判所判決は,爆心地から1800メートルの地点で被爆した広島原爆の被爆者が,肝機能障害及び白血球減少症を申請疾病として原爆症認定申請をした事案において,放射線起因性があるとした原審の判断を支持した事案であって,いずれも,個別具体的事件における放射線起因性について判断を示したものであり、原爆症認定審査における一般的な審査基準を示したものではない。

したがって、1審原告らの前記主張は前提を欠き,採用できない。

(2) 次に,1審原告らは、DS86及びこれを前提とする原因確率論には重大な欠陥があり、1審被告厚生労働大臣はこれを認識し、あるいは認識し得たにもかかわらず,旧審査の方針においてこれを適用したのは違法であると主張するのでその点について検討するに、旧審査の方針における原爆放射線の被爆線量の算定基準となっているDS86にはそれが理論的な計算に基づくものである点において自ずから限界があるのみならず、残留放射能や放射性降下物の評価についても問題点があり、その計算値が,少なくとも,爆心地から1400メートル以遠においては,実測値より過小評価となっている可能性があることは前記認定のとおりである。

しかしながら,申請疾病の原爆放射線起因性を判断するについては申請者の被爆線量を考慮に入れなければならないことは当然のことであって、旧審査の方針策定時において、DS86あるいはこれを前提とするDS02よりも優れた線量評価体系は存在しなかったものであり、それ自体問題点を含みながらも優れた知見であり、それなりの信頼性があることは否定し難いものである。また、原因確率の点についても,放影研による長年の疫学調査の結果と寄与リスクに関する当時におけるP51論文等の高度な知見に基づくものであって、これについても前記のとおり問題点がないではないが、相当な合理性があるものといえる。したがって、旧審査の方針が、原爆症認定に際して申請者の原爆放射線の被爆線量を推定し,これを審査の方針の定める原因確率表に当てはめ,当該申請者の申請疾病の原因確率を算出したうえ,これを一つの目安とし、参考として、当該申請疾病など原爆放射線起因性に係る高度の蓋然性の有無を判断するという方式を取ったからといって、国家賠償法上,直ちに違法性があるとまではいうことはできない。したがって,この点に関する1審原告らの主張は理由がない。

(3) さらに、1審原告らは,1審被告厚生労働大臣は,旧審査の方針を機械的に適用して1審原告P2らに対する却下処分を行ったと主張し、その根拠として医療分科会における1件当たりの審査の時間の短さや認定件数の少なさを指摘する。

そこで,検討するに,証拠(甲全156,220,乙全194)及び弁論の全趣旨を総合すると,平成8年ないし平成11年当時の医療審議会においては,審議会は年4ないし5回の頻度で開催され,各審議会において1日(5時間程度)当たり,約70ないし80件の原爆症認定申請について審議がなされていたこと,また,平成13年度から平成17年度までの審査総件数3655件のうち,原因確率10パーセント未満のもので原爆症に認定された案件は2件にすぎないものと認められる。しかしながら,証拠(乙全38,194)によれば,審議会ないし医療分科会では,放射線医学等の専門家が関与し,事務局が準備した一定の資料及びこれに加えて然るべき書類の提出を求めるなどして,これらの資料に基づいて,疾病についての専門の委員が事前に検討をしたうえ,審議会や医療分科会の審議がなされていたことが認められ,審議会等における審議の時間やその結果のみで,当時の原爆症認定申請に対する審査が形式的,機械的になされていたとの事実を推認するに足りず,本件全証拠によっても,これを認めるに足りる証拠はない。

(4) また,1審原告らは,行政庁が行政手続法5条1項が規定する審査基準を定めなかったことを国家賠償法1条1項の違法行為の根拠として主張するのでその点について検討する。

原爆症認定申請について審査するに当たり,行政手続法5条1項所定の審査基準が存在しないことについては,当事者間で争いはない。

ところで,行政手続法5条1項が行政庁に対して申請に対する処分の審査基準を設定することを義務付けている趣旨は,それによって行政庁による行政処分を公正,適正なものとし,その判断過程の透明性の向上を図り,また被処分者にとっても,処分を受けることができるかどうかの予測を容易にして便宜を図るところにあると解されるから,そもそも,当該許認可等の性質上,個々の申請について個別的,具体的な判断をする必要があるものであって,法令の定め以上に具体的な基準を定めることが困難であるような場合には,同条1項所定の審査基準を定めることを要しないと解すべきである。

これを原爆症認定申請に対する審査についてみるに,原爆症認定における放射線起因性及び要医療性については,医学的知見,疫学的知見等を基に,高度に科学的及び専門的な判断がなされるのであり,かつ,その判断はその性質上,個々の申請について個別的,具体的になされる必要があるのであって,それについて被爆者援護法10条1項の規定以上に具体的な基準を定めることは困難であるといわざるを得ないものであるから,行政手続法5条1項所定の審査基準を定めることを要しないと解するのが相当である。

したがって,本件各処分に行政手続法5条1項違反があるということはできず,1審原告らの前記主張を採用することはできない。

(5) さらに,1審原告らは,国家賠償法1条1項の違法行為の根拠として,1審被告厚生労働大臣が本件拒否処分をするについて行政手続法8条1項が規定する拒否処分の理由付記をしなかったことを挙げるので検討する。

行政手続法8条1項が,行政庁において申請により求められた許認可等を拒否する処分をする場合に,当該処分の理由を申請者に示すことを義務付けている趣旨は,それによって行政庁が慎重に判断をすることを求め,その判断の公正性や妥当性を担保して恣意的な判断を抑制するとともに,処分理由を申請者に知らせることによって,不服申立てに便宜を与えることにあると解される。

これを本件についてみるに,本件における却下処分の通知書に記載された処分理由は,放射線起因性の要件を示したうえ,例えば,1審原告P3については「先般,疾病・障害認定審査会において,申請書類に基づき,貴殿の被爆状況が検討され,そのうえで貴殿の申請に係る疾病の原因確率(疾病等の発生が,原爆放射線の影響を受けている蓋然性があると考えられる確率をいう。以下同じ。)を求めました。そこで,この原因確率を目安としつつ,これまでに得られた通常の医学的知見に照らし,総合的に審議されましたが,貴殿の申請に係る疾病については,原子爆弾の放射線に起因しておらず,また,治癒能力が原子爆弾の放射線の影響を受けてはいないものと判断されました。」(甲A1の2)と記載され,他の1審原告らの通知書にもほぼ同様の記載がなされていることが認められ(甲B1,甲C1の2,甲D4),その各記載から,医療分科会において,被爆状況,医学的知見を基にした検討がされたこと,申請疾病については放射線起因性の要件が認められないと判断されたこと,1審被告厚生労働大臣が,医療分科会の答申を受けて却下処分を行ったことを知ることができるので,上記の程度の理由の記載があれば,行政手続法8条1項の前記趣旨を満たすものといえ,同項に違反するということはできない。したがって,1審原告らの前記主張は採用できない。

3  よって,1審原告らの1審被告国に対する国家賠償請求はいずれも理由がない。

第9結論

以上より,1審被告厚生労働大臣のした1審原告P1に対する本件1審原告P1却下処分は,違法な処分であるから,これと結論を異にする原判決を取り消し,1審被告厚生労働大臣のした本件1審原告P1却下処分を取り消し,1審原告P1のその余の控訴及びその余の1審原告らの控訴はいずれも理由がないから,これを棄却することとして,主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 高田健一 裁判官 尾立美子 裁判官 上杉英司)

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