名古屋高等裁判所 平成2年(行コ)18号 判決 1994年9月26日
控訴人
渡辺亘子
右訴訟代理人弁護士
水野幹男
同
大脇雅子
同
岩月浩二
同
前田義博
同
松本篤周
被控訴人
名古屋西労働基準監督署長武田有
右指定代理人
泉良治
同
中湖正道
同
松本晴男
同
青山克之
同
戸本忠憲
同
荻町武文
同
伊藤守
同
古賀勇夫
同
金原正勝
主文
本件控訴を棄却する。
控訴費用は控訴人の負担とする。
事実及び理由
第一当事者の求めた裁判
一 控訴人は、
1 原判決を取り消す。
2 被控訴人が昭和五五年一〇月三〇日付けで控訴人に対してなした労働者災害補償保険法に基づく遺族補償給付及び葬祭料を支給しない旨の処分を取り消す。
3 訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。
との判決を求めた。
二 被控訴人は、主文同旨の判決を求めた。
第二事案の概要
本件は、控訴人が、タクシー運転手をしていた夫の死亡は業務上の事由によるものであるとして労働者災害補償保険法に基づく遺族補償給付及び葬祭料の支給を求めたのに対し、被控訴人において右の支給をしない旨の処分をしたので、その取消しを求めた事案である。原審は、請求を棄却した。
当事者間に争いのない事実、争点及び争点に関する当事者の主張は、次のとおり付加、訂正するほか、原判決「事実及び理由」欄の第二、第三に記載のとおりであるからこれを引用する。
一 引用部分の付加、訂正
原判決五枚目裏八行目「僅ずか」(本誌五六七号<以下同じ>7頁3段31行目)を「僅か」と、九枚目裏七行目「収って」(8頁4段2行目)を「収まって」と、同一三枚目裏九行目「一層大させるもの」(9頁4段4行目)を「一層増大させるもの」と、同一六枚目表七行目「VOI」(10頁2段16行目)を「VOL」と、同裏一一行目「指摘されている」(10頁3段6~7行目)を「指摘されるとしている」と、同二六枚目裏五行目「自分の休」(12頁4段30行目)を「自分の体」とそれぞれ改め、同二八枚目裏五行目「地区」(13頁3段29行目)の次に「(以下「西枇・新川地区」ともいう。)」を加え、同三三枚目表一行目「冠状動脈」(14頁3段7行目)から同二行目「多いが」(14頁3段10行目)までを「また、冠状動脈の硬化がそれ程進展していない場合においても、冠状動脈の攣縮による虚血性心疾患の発症例が稀ならず存在するが、それは、寒冷等によって血管が攣縮することにより内腔の狭小化をきたし、攣縮部位より末梢側に血流不足が生ずることがある場合である。この外」と、同一一行目「交番制」(14頁3段23行目)を「交替制」とそれぞれ改め、同裏四行目「会議」(14頁3段29行目)の次に記号の」を加える。
二 控訴人の付加主張
錠平は、長年月にわたるタクシー運転労働による動脈硬化に加え、狭心症発作を繰り返しながらも過酷な一昼夜交替勤務を継続した結果、虚血性心疾患たる狭心症を急激に増悪させ、一昼夜交替勤務の終了直前にも狭心症を発症し、その回復直後に行った洗車業務という寒冷作業が直接的な誘因となり、冠状動脈の攣縮(スパズム)を引き起こして心筋梗塞を発症させたものであり、心筋梗塞の発症と業務との因果関係については、<1>動脈硬化の増悪過程、<2>狭心症の増悪過程、<3>洗車作業という寒冷暴露による発作、の三つの過程のいずれにも業務起因性が認められるべきである。
1 錠平の心筋梗塞について
(一) 錠平は心筋梗塞発症の日の約一か月前の昭和五三年一〇月二五日ころ不安定狭心症を発症していた。同月二八日に錠平が尾関医師に訴えた二、三日前からの胃痛というのは、実は狭心痛であったのである。
狭心痛を発症した際には、先ず過労を避け安静を第一とすべきである。しかるに、錠平は、不安定狭心症を発症して治療と安静を必要とした心筋梗塞発症までの一か月間に二八五時間以上、直前一週間には七六時間以上の有害な深夜勤務を含む長時間実労働に従事したため、狭心症を急激に増悪させ心筋梗塞の発症に至った。したがって、錠平の死亡は業務に起因するものである。
また、錠平の心筋梗塞発症の時刻は午前八時三〇分ころと見るべきであるが、仮に、そのころの症状が心筋梗塞ではなく、その前駆症状にすぎなかったとしても、その後に従事した寒冷作業である洗車作業が冠状動脈の攣縮を引き起こして症状を急速に増悪させ、心筋梗塞の発症を招いたものであるから、これまた、心筋梗塞の発症は業務に起因するものである。
(二) 錠平の心筋梗塞が、先天的な体質的素因に起因するものとはいえないことは、日米共同研究が、虚血性心疾患は先天的な体質的素因(遺伝)よりも後天的な食事、運動、環境など生活環境要因が重要であるとしていること、心筋梗塞の危険因子として、家族歴もしくは遺伝的要素をあげていないことによっても裏付けられている。
仮に、家族歴もしくは遺伝的要素が問題となるにしても、錠平にそのような家族歴はなく、また、錠平には、危険因子である高脂血症、高血圧、糖尿病の疾患もなかったから、錠平の心筋梗塞が家族歴もしくは遺伝的要素によるものであるということはできない。
(三) 服部真医師は、その論文「タクシー運転手の循環機能への負担、ならびに虚血性心疾患発症予測に関する研究」において、タクシー運転手群の虚血性心疾患の発症に関する相対的危険度は二・八三と有意に高く、血圧、コレステロール値、喫煙習慣、飲酒習慣、肥満度、尿糖値で訂正すると二・四二であったとしている。これも、錠平の心筋梗塞がタクシー運転業務に起因するものであることを裏付けるものである。錠平の冠状動脈硬化を増悪させ、心筋梗塞を発症させた最大の原因は、長期間にわたるタクシー運転業務に伴う精神的ストレス、肉体的疲労の蓄積である。
2 錠平の労働負担の過重性について
錠平の一勤務当たりの営業成績が極めて高水準にあり、従ってその労働負担が極めて重いものであったことについては、従前主張したとおりであるが、次のとおり付加主張する。
原判決が、錠平の一勤務当たりの平均走行距離が名鉄グループ各社の平均走行距離より低いことを錠平の労働負担の過重性を否定する理由の一つとしたが、<1>比較対象とされた名鉄グループ各社の数字は実働車一日一車当たりのものであり、運転者を基準とした一勤務当たりのものではないこと、<2>企業規模が大きくなるほど、成績が高くなる傾向がすべての指標において確認され、企業規模を捨象した比較は不適切であること、<3>隔日勤務形態と異なる勤務形態をとっている会社の実績を勤務形態の相違を捨象して比較することは不適切であること等、比較手法自体に問題がある。
労働負担を検討するにあたっては、実働車一台一日当たりの走行キロ数、平均売上高等の数値で比較しても、運転手一人当たりの労働負担を明らかにするものではなく、運転手一人当たりの運送収入により比較すべきものである。そして、運転者に注目した唯一のデータで、一か月当たりの数字と推測される運転手一人当たりの運送収入をみると、企業規模が大きくなるにつれて高額となる傾向があり、保有台数一〇〇台以上の規模の企業の数値が最高値を示しているが、それですら平均三六万二一六二円であるのに対し、小規模の企業に属する錠平の昭和五三年一〇月二一日から一一月二〇日までのそれは四四万五六四〇円にも及んでいる。これによっても、錠平の労働負担が過重であったことが明らかである。
3 被控訴人の主張する労災認定基準について
(一) 被控訴人の主張する脳・心臓疾患についての労災認定基準は、現在の財政収支状況からしても、余りに厳しく、これを大幅に緩和する必要がある。
(二) 被控訴人の主張する過重負荷の判断基準は、通常の日常業務に従事する同種・同僚労働者の健康人を基準としており、被災者本人にとって過重か否かという観点を欠落させるという誤りを犯している。
(三) 被控訴人の主張する過重負荷の判断基準は、過重負荷の判断の対象期間を「発症直前」に厳しく限定するという誤りを犯している。
4 最高裁判所第二小法廷平成六年五月一六日判決について
最高裁判所第二小法廷は平成六年五月一六日、公務上外の因果関係の判断基準である相当因果関係の内容について画期的な判断を示した。この判決においては、公務と急性心筋梗塞の発症との因果関係の有無が先ず問題とされ、それが否定できないものである以上は、他に急性心筋梗塞を発症させる危険因子があったとしても、それが有力な原因であることが確定できなければ、公務起因性を認めようとするものである。本件においても、タクシー運転労働による過重負荷と錠平の急性心筋梗塞との因果関係が否定できないことは勿論のこと、早朝の洗車業務による寒冷暴露と急性心筋梗塞との因果関係も否定できないことも明白であるところ、原判決が錠平の心筋梗塞の発症原因として挙げている錠平の年齢、体質的素因(遺伝)、喫煙習慣はいずれも急性心筋梗塞の有力な原因とは到底確定できないものである。したがって、本件においても業務と急性心筋梗塞との間の相当因果関係の存在は肯定されるべきである。
三 被控訴人の主張
1 錠平の心筋梗塞について
(一) 控訴人は、錠平が昭和五三年一〇月二五日ころ不安定狭心症を発症していた旨主張するが、これを認めるべき証拠はない。仮に、控訴人主張のように、錠平が過去に狭心症の発作を起こしていたものであるとすると、錠平が尾関病院で治療を受けた昭和五三年八月五日の胃炎にも狭心痛の疑いが生じる。仮に、右八月五日の胃炎も狭心痛であるとすると、冠状動脈のアテローム性硬化が既に相当程度に進行していたことの証左となり、いわゆる血管の攣縮ではなく、自然的な経過により業務に従事していない安静時でも心筋梗塞を発症したことを推定させる結果となる。
結局、錠平の心筋梗塞は、体質的素因を中心に、加齢、喫煙等いくつかの要因が競合して自然的経過の中でたまたま営業車の洗車中に発症したのに過ぎないものであって、業務との相当因果関係は認められない。
(二) 虚血性心疾患の発症について業務起因性が認められるためには、被災労働者が発症直前ないし一週間前に通常の所定業務と比較して特に過重な精神的・肉体的負荷であると客観的に認められる業務に就労していた場合でなければならず、右期間内の業務が日常の所定業務の範囲内である限り、業務起因性を認める余地はない。
仮に、錠平が心筋梗塞発症の一か月前からアテローム性動脈硬化の進行により狭心症の症状を呈していたとしても、その間の錠平の業務が日常の所定業務の範囲内である以上、業務によって動脈硬化を急激に著しく増悪させられたものということはできない。
2 錠平の業務の過重性について
(一) 錠平の発症直前ないし一週間前の業務がその日常業務に比較して特に過重な業務であった事実はなく、また、一昼夜交替勤務と心疾患との因果関係については明確な結論が得られていないから、錠平の死亡が業務によるものとはいえない。
(二) 錠平の仕事量が訴外会社のタクシー運転手の中で多かったとしても、そもそもタクシー運転業務は、通常の業務負荷を超えるといえる範疇にはない。また、他社のタクシー運転手と比較しても業務が過重であったとまではいえないから、錠平の仕事量が通常の刺激を超えた過重なものとはいえない。また、企業規模が小さくなるにつれてタクシーの走行キロ数、平均売上高等が低下する傾向があるとしても、それは企業規模の大きい会社ほど乗務員の定着率が高く営業能力が高いことによるものと解するのが相当であり、錠平の労働量が過重であったことを示すものではない。
3 労災認定基準についての控訴人の主張について
(一) 控訴人が、現在の厳しい過労死の労災認定基準を緩和すべきであるとの提言がなされている旨指摘する経済企画庁経済研究所編集の「働き過ぎと健康障害」(経済分析第一三三号)中の研究試論は、研究所員の個人的な研究試論であって労基法施行規則三五条・別表第一の二、九号の法解釈を展開したものではなく、専ら政策論としての提言をしているに過ぎず、これをもって現行認定基準を批判することは的外れで失当である。
(二) 控訴人は、被控訴人の主張する過重負荷の判断基準が被災者本人にとって過重か否かという観点を欠落させるという誤りを犯している旨主張するが、職業性包括疾病として業務起因性が認められるためには、職業性疾病に準じて当該業務に内在する有害因子・危険の現実化として疾病が発症したものと認められる場合でなければならず、当該業務に内在する有害因子・危険の現実化として心筋梗塞が発症したものと認められる場合とは、業務上異常な出来事に遭遇したとか、あるいは日常業務に比較して特に過重な業務に就労した事実が発症前に存在し、そのことが基礎疾患である動脈硬化などの血管病変をその自然的経過を超えて著しく増悪させたと考えられ、しかも、病状の出現までの時間的経過が医学経験則上、妥当とみなされる場合に限られるのであり、特に過重な業務の有無は当該業務が同僚労働者又は同種労働者にとって過重か否かによって判断されるべきことである。
(三) 控訴人は、被控訴人の主張する過重負荷の判断基準は、過重負荷の判断の対象期間を「発症直前」に厳しく限定するという誤りを犯している旨主張する。しかし、労基法施行規則三五条・別表第一の二、九号の法文解釈によれば、職業性包括疾病としての業務起因性が認められるためには、職業性疾病に準じて当該業務に内在する有害因子・危険の現実化としての疾病が発症したものと認められる場合でなければならない。しかして、現在の共通の医学的知見によれば、虚血性心疾患についてはその発症と業務との関連について医学経験則上、発症前一週間よりも前の業務が右疾患の急激で著しい増悪に関連するものとは判断し難いとされているため、たとえ発症前一週間より前に過重な業務が継続していても、通常、右時期における過重な業務と発症との関連を認めることはできないとされているのであり、現行の認定基準は労基法施行規則三五条・別表第一の二の法文解釈と右の医学経験則に基づいて策定されたものであり、業務起因性の判断基準として合理的である。
4 最高裁判所第二小法廷平成六年五月一六日判決について
右最高裁判所判決が、業務起因性に関し相当因果関係説の立場に立っていることは明らかであり、控訴人の最高裁判決の解釈には誤りがある上、右判決の事例は日ごろ慣れていない激しい動作を行った直後に発症したものであるのに対し、本件は全く通常の業務遂行の過程で発症したもので、事案の性質を異にするというべきである。
第三証拠関係
原審及び当審の各証拠関係目録記載のとおりであるから、これを引用する(略)。
第四当裁判所の判断
(以下において、書証の成立に関する記載のないものは、成立について争いのない(原本の存在成立とも争いのないものを含む。)ものである。)
当裁判所も、錠平の死亡が業務に起因するものと認めることはできないと判断するものである。その理由は、以下のとおりである。
一 まず、<1>錠平の経歴及び業務内容等、<2>錠平の勤務状況と同僚等のそれとの比較、<3>錠平の健康状態等、<4>心筋梗塞(心筋梗塞発症の機序等及び錠平の心筋梗塞)についての認定判断は、次のとおり付加、訂正するほか、原判決「事実及び理由」欄の第五の一ないし四に記載のとおりであるから、これを引用する。
1 原判決三七枚目表八行目「各証言、」(15頁2段16行目の(証拠略))の次に「当審証人伊佐川順吉の証言」を加え、同四一枚目裏二行目から次行にかけての「休養した」(16頁2段24行目)を「勤務しなかった」とそれぞれ改め、同四四枚目表二行目末尾(17頁1段20行目)の次に行を改めて「なお、当日の気象状況としては、午前九時の気温が摂氏一〇・四度、北の風〇・五メートルで、一一月末日ころの天候としては特に寒冷なものではなかった。」を加え、同六行目「二万五二三〇円」(17頁1段25行目)を「二万八二三〇円」と、同八行目から次行にかけての「約二八パーセント」(17頁1段28行目)を「約二五パーセント」と、同四七枚目表二行目「収っている」(17頁4段16行目)を「収まっている」と、同四八枚目裏一一行目「二万三二六〇円」(18頁2段10行目)を「二万三六二〇円」とそれぞれ改める。
2 同五〇枚目裏六行目(18頁4段2行目)及び八行目(18頁4段6行目)の各「七月」をいずれも「一一月」とそれぞれ改め、同五一枚目表一行目末尾(18頁4段11行目)に「いわゆる家庭医として、昭和四九年以降錠平の診療に当たってきた尾関医師は、錠平の右主訴とこれに対する診察結果から、錠平が当時心臓疾患に罹病しているとの疑いは持たなかった。」を加え、同五二枚目表五行目の末尾(19頁1段20行目)に行を改めて、「以上のとおり認められる。」を加え、さらに行を改めて、以下のとおり加える。
「なお控訴人は、昭和五三年一〇月二八日錠平が尾関医師に訴えた胃痛は、実は狭心痛であり、そのころ既に不安定狭心症を発症していたものである旨主張し、服部真作成の(証拠・人証略)には、右主張に沿う記載及び供述がある。
しかしながら、服部真の右の記載及び供述は、同人が、昭和五三年一〇月当時の錠平の状態を直接診察した結果に基づくものではなく、錠平の死亡当日の症状等から遡って一〇月二八日ころの症状は心筋梗塞の前駆症状である狭心痛であるとの推論を加えているものに過ぎないうえ、錠平の家庭医として錠平の従前からの健康状態を熟知し、かつ一〇月当時の錠平の症状を直接診断した尾関医師が、原審において証言した際、錠平の一〇月当時の症状と心筋梗塞発症当日の症状の違いを具体的に述べて、右胃痛が狭心症に基づくものであることを明確に否定していることと対比すると、それだけでは、前記記載及び供述を採用して、控訴人主張事実を認めることはできないというべきである。もっとも、尾関医師がその後控訴人代理人の依頼により作成した補充意見書(<証拠略>)によれば、尾関医師は、『昭和五三年一一月二三日心筋梗塞にて死亡された前に同年一〇月二八日より日を変えて数回おこった心窩部痛は当時私は胃疾患そのものと信じてゐまして各種胃の検査もしました。然し私の経験としまして急に胃痛等の訴へにより夜間緊急往診をした所一見して胃の疾患ではなく心電図等の検査の結果も心疾患(狭心症又は心筋梗塞)であった方もありました事を考へれば現在私の考へとしては渡辺錠平さんの昭和五三年一〇月二八日、同一一月七日、同一七日の胃部痛の訴へも狭心痛であったのではないかとも考へられる可能性があるかもしれません。』としていることが認められるが、極めて婉曲な表現を用いているものの、従前の証言内容、(証拠略)の作成経緯及びその表現内容から見て、尾関医師が、錠平が当時狭心症に罹患していたこと自体を認めたものではなく、単に、当時そのように疑診する余地が全くなかったかと問われれば、その余地が全くなかった訳ではないことを、求められるまま補充意見書に記載したものに過ぎないものと解せられるから、これまた、控訴人の右主張を裏付ける確証とはなりえないというべきである。そして、他に控訴人の右主張事実を認めるに足りる証拠はない。
また、控訴人は、錠平が死亡前日から当日にかけて、狭心症発作を繰り返しながら過酷な一昼夜交代勤務を継続したものである旨主張するが、これを窺わせるに足りる証拠はない。
そこで、以上の錠平の死亡前日までの健康状態を総合すると、錠平には、一般に狭心症や心筋梗塞の基礎疾患とされている高血圧症、高脂血症、糖尿病、高尿酸血症、肥満等の症状はなく、また錠平が、動脈硬化症、狭心症等心疾患又はこれに関連する疾病で治療を受けたことも、死亡前にはなかったことが認められる。」
3 同五三枚目表九行目「冠状動脈」(19頁2段1行目)から同裏五行目末尾(19頁2段11行目)までを、「冠状動脈の内腔の狭窄又は閉塞の主な原因は、一般に<1>アテローム性動脈硬化にあるといわれているが、<2>冠状動脈が狭窄ないし閉塞の症状を示すに至らない程度のアテローム性動脈硬化に血栓形成や冠状動脈の攣縮が合併して起きる場合も多いといわれ、また、<3>単に冠状動脈の攣縮による機能的狭窄のみで発症する場合もあるとされている。ところで<1>のアテローム性動脈硬化は、加齢による自然的経過によって進展することが避けられないものであるところ(通常の健康人においても、冠状動脈の主な枝の内腔狭窄度は四〇歳代では平均二五ないし四〇パーセント、五〇歳代では三五ないし四五パーセント、六〇歳代では四〇数パーセントから七〇パーセントに達しているといわれている。)、心筋梗塞等の虚血発作を起こすためには、安静時においては冠状動脈の狭窄度が九〇パーセント以上、労作時でも七五パーセント以上とされていることからすれば、四〇歳代では、一般に前記の自然的経過を超えたアテローム性動脈硬化の増悪があってはじめて、前記<1>の原因のみによる心筋梗塞は起こり得ることになる。そして、前記<1>の原因のみによって起こる心筋梗塞症は、一般に高血圧症、高脂血症等の基礎疾患から狭心症を発症し、それから心筋梗塞症に移行することが多いとされている。」と改める。
4 同五四枚目裏三行目「ものもある」(19頁3段8行目)の次に「ほか、比較的重要な危険因子とそうでないものとがある」を加える。
5 同五四枚目裏七行目「その大部分」(19頁3段14行目)から同一〇行目末尾(19頁3段18行目)までを、「錠平の血圧及びコレステロール値がいずれも平常値の範囲内にあったこと、従前心疾患又はそれに関連する疾病で治療を受けた経緯のないこと、及び錠平の心筋梗塞の発症が急激であったことを考えると、錠平の発症の機序を前記3<1>のアテローム性動脈硬化のみによって発症したと限定することは相当でなく、前記<2>(冠状動脈のアテローム性硬化に血栓形成や冠状動脈の攣縮の合併)の場合である可能性も高く、また<3>(単に冠状動脈の攣縮による機能的狭窄)の場合である可能性も全く否定することはできないというのであるから、錠平の心筋梗塞発症の機序が前記三場合の何れであるかを特定することはできないことになる。」と、同五五枚目表五行目「心筋梗塞」(19頁3段26行目)から同六行目末尾(19頁3段28行目)までを「心筋梗塞の発症時期は、錠平が同僚の森良秋に病院に連れて行くように頼んだとされる昭和五三年一一月二三日午前九時四五分ないし一〇時の少し前ころと見るべきである。」とそれぞれ改める。
二 業務起因性について
1 労災保険制度は、業務上の事由又は通勤による労働者の負傷、疾病、障害又は死亡に対して迅速かつ公平な保護をすることを目的とするものであるから(労災保険法一条)、労災保険給付を行うためには、労働者の前記災害と業務上の事由又は通勤との間に相当因果関係の存在を要することはいうまでもない。
これを本件の死亡原因である心筋梗塞の場合に当てはめて考えてみると、心筋梗塞は、その基礎疾患である冠状動脈硬化が長期の時間的経過の中で徐々に進行増悪することによって発症することが多く、かつ、それが加齢とともに自然的経過の中でも進行するものであること、そして、その増悪の原因としては単一の原因によることはむしろ稀で、本人の体質的素因に加えて食事・運動・環境等の生活環境上の各種要因(その中には、ストレス及び疲労等の労働上の負荷も含まれるが、それのみで発症することはない。)が複雑に係わって増悪発症するものであること、他方、およそ心身に対して何らかの負荷(ストレスや疲労)を与えない労働は存在しないことを考えると、単に労働上の負荷があったという一点だけを理由としては労災保険制度の救済の対象とはならないと考えられること、労基法施行規則三五条・別表第一の二、九号の法文解釈上、職業性包括疾病としての業務起因性が認められるためには、職業性疾病との均衡との観点から、職業性疾病に準じて当該業務に内在する有害因子・危険の現実化としての疾病が発症したものと認められる場合でなければならないこと、等の諸点を考慮すると、現行制度の下において、心筋梗塞の場合につき、長期間にわたる労働負荷の業務起因性を肯定するためには、<1>心筋梗塞又はその基礎疾患である冠状動脈硬化が自然的経過を超えて進行増悪し、発症したものであること、<2>労働が客観的にみて通常より特に過重であったこと、<3>そしてそのことが、症状の自然的経過を超えて増悪したことの主な原因となったこと、の三条件を充足することを要し、心筋梗塞の基礎疾患を有する者が、勤務中にたまたま心筋梗塞を発症した場合などはこれに含まれないと解するのが相当である。
そこで、以下においては、前記の判断基準に基づいて、錠平の死亡につきその業務起因性の有無を検討する。
2 控訴人は、この点について、まず、錠平のタクシー運転手としての労働実態が、他のタクシー運転手に比して、極めて過重であった旨主張し、これを認めなかった原判決の判断を種々論難するが、当裁判所も控訴人の右主張は採用できないと判断する。その理由は、原判決五七枚目表五行目(20頁1段26行目)から同五九枚目裏四行目(20頁4段10行目)までに記載のとおりであるからこれを引用する。ただし、原判決五八枚目表四行目「年間総上高」(20頁2段25行目)を「年間総売上高」と改め、同裏三行目末尾(20頁3段9行目)の次に行を変えて、「名古屋タクシー協会作成の名古屋タクシー協会所属の会社についてなされた昭和五二、五三年度のタクシー輸送実績一覧表、昭和五二年一一月から同五三年一一月までの各月の輸送実績調べ、車両規模別輸送実績調べ、名古屋タクシー協会所属各社別の輸送実績調べ(<証拠略>)の数値によって算出すると、タクシーの営業成績は企業規模が小さくなるにつれて低下する傾向が認められるところ、錠平所属会社は一七台保有の小規模であるから、これを考慮にいれると錠平が小規模の会社に所属しながら営業成績をあげていることにはそれなりの工夫や努力、まじめな性格で勤務に励んでいることが窺えるものの、錠平の勤務について認定したその勤務状況が前記のとおりであることに照らすと、これが直接錠平の業務自体の過重であることを示すものとはいえない。」を加え、同五九枚目表七行目(20頁3段29行目)から一〇行目(20頁4段3行目)までを削る。
3 次に、控訴人は、タクシー運転という労働形態は、労働者に精神的ストレスの長期反復負荷を、また、その勤務形態の不規則性は疲労の蓄積を労働者にもたらす性質のものであって、このことが、錠平の冠状動脈硬化を自然的経過以上に増悪させ、遂には心筋梗塞発症の原因となったものである旨主張し、控訴人の援用する服部真の研究報告(<証拠略>)、同人作成の意見書(<証拠略>)の各記載及び同人の当審における証言中には、タクシー運転という勤務形態そのものが、直接心筋梗塞発症の原因となるかのごとき見解を述べる部分がある。しかしながら、同人の行った実態調査の被対象者数そのものが、右の結論を出すについて十分なものであるかについて疑問があるうえ、その調査範囲も石川県内に限られており、気候風土及び勤務条件の異なりうる他地方にも直ちに右の結論を及ぼしうるかについてこれを肯定するに足りる証拠はない。また、前記証拠によれば、この種の研究は未だ緒についたばかりであることが窺われるところ、同人の見解が医学界一般の支持を受けるに至っていることを認めるに足りる証拠もない。
また、服部真の前記意見書の記載及び同人の当審における供述中には、本件につき、錠平の心筋梗塞は業務が有力な原因となって発症したもので、錠平は業務上の死亡と判断されるべきであるとの意見を述べる部分があるが、右意見は、同人の前記見解を前提としたものであるうえ、同人の見解には、当裁判所の前記認定とは異なり、錠平の喫煙習慣については喫煙本数を少なく判断し、錠平の年齢が四二歳であることから加齢の要素は考慮すべきでないとしてこれを除外し、家族歴からの危険因子はないとする等、条件を独自に設定したうえで前記の結論を出している点が見られることなどを考慮すると、錠平の業務が直接その心筋梗塞を発症させたとする前記見解は採用の限りではない。そして、他に、右主張事実を認めるに足りる証拠はない。
そうだとすると、タクシー運転自体の業務起因性につき、これを肯定する研究は未だ確定的評価を得ていないとした、原審の判断は結局相当であって控訴人の右主張は理由がない。
4 また、控訴人は、本件において、錠平には労働負荷以外に、他に危険因子が認められない以上、錠平のタクシー運転業務とその疾病との間に関連性があることは明らかであるとし、右の程度まで関連性が明らかにされれば、錠平の右疾病について労災保険法上の業務起因性を肯定すべきであるとも主張する。
しかしながら、錠平に喫煙、加齢、運動不足(勤務中の運動不足は、勤務外において本人の自助努力により補われるべき性質のものであって、特段の事情がない限り、右の運動不足は労災認定につきこれを肯定する要素とはならないというべきである。)の危険因子があったことは前記認定のとおりであるうえ、この種疾病の性質に鑑み、本件において、その他の体質的素因(個体差)や環境因子がまったく存在しないとは医学的に断定することはできないというべきである。
この点について、控訴人は、(証拠略)から窺われる錠平の親族の死亡年齢、原因から、錠平には遺伝的素因は存在しない旨主張するが、右の点を考慮したとしても、それだけで、遺伝的素因の存在が否定されるものではなく、また、錠平個人の遺伝的素因以外の体質的素因(個体差)の存在が否定できるものではない。
そうすると、錠平に労働負荷以外の危険因子がなかったことを前提とする控訴人の前記主張は、その前提において既に失当というほかはない。
5 さらに、控訴人は、錠平が心筋梗塞の発症の約一か月前の昭和五三年一〇月二五日ころに不安定狭心症を発症し、過労を避け安静を第一とすべきであったのに、心筋梗塞発症までの一か月間に二八五時間以上、直前一週間には七六時間以上の有害な深夜勤務を含む長時間実労働に従事したため、狭心症を急激に増悪させ心筋梗塞の発症に至ったのであるから、錠平の死亡は業務に起因するものである旨主張する。
しかし、控訴人主張のころに錠平が不安定狭心症に罹患したと認めるに足りないことはもちろん、そのことの故に勤務時間・態様の軽減を要する旨の医師を診断を受けていたとも認められないことは前記認定のとおりであるから、控訴人の右主張は、その前提において失当である。
6 また、控訴人は、錠平の心筋梗塞発症の時刻を午前八時三〇分ころと見るべきであり、仮に、そのころの症状が心筋梗塞ではなく、その前駆症状にすぎなかったとしても、その後に従事した寒冷作業である洗車作業が冠状動脈の攣縮を引き起こして症状を急速に増悪させ、心筋梗塞の発症を招いたものであるから、これまた、心筋梗塞の発症は業務に起因するものである旨主張する。
しかし、錠平の心筋梗塞発症を午前八時三〇分ころと見ることはできないことは前記のとおりであり、前駆症状の出現した後の洗車作業が寒冷作業であってこれが錠平の冠状動脈の攣縮を引き起こして症状を急速に増悪させ、心筋梗塞の発症を招いたとする点については、前記のとおり洗車作業が勤務日における通常の日課であって、特に過重な労働に従事させたものではないこと、当日の気象状況が異常なものではなく、寒冷暴露という程度には至っていなかったものであること、錠平の心筋梗塞が洗車作業のどの段階で発症したかどうかも不明であることに照らすと、洗車作業が心筋梗塞の急性発作の誘因となったとまでは認めることはできない。
なお、控訴人の主張中には、錠平の心筋梗塞の発症・死亡は、要するに、錠平に対する過重な労働負荷が主因となったと見るべきであるとの主張を包含すると解せられるところ、錠平の死亡前一年間の労働が、他のタクシー運転手と比較して特に過重であったとは認められないこと、死亡前日から当日にかけての勤務が平常の勤務に比して特に過酷であったとは認められないことは、前記認定のとおりであるから、右の主張も採用することはできない。
7 なお、錠平が死亡直前の勤務において業務に関連する何らかのアクシデントに巻き込まれたか否かの点については、当裁判所も、原審同様これを認めるに足りないものと判断する。その理由は、原判決六〇枚目裏二行目(21頁1段7行目)から同一〇行目(21頁1段18行目)までの説示を引用する。
また、訴外会社の従業員に対する健康管理に杜撰な面があることは認められるものの、これが錠平の心筋梗塞の発症に影響していたとは認めることができないことについては、原判決六一枚目表一行目「確かに」(21頁1段20行目)から同六行目末尾(21頁1段28行目)までの説示を引用する。
8 以上検討したところによれば、錠平については、冠状動脈のアテローム性硬化及び心筋梗塞の促進因子としてその体質的素因を中心として加齢、喫煙習慣その他の要因が競合していたことが認められるところ、これに加えて、同人にタクシー運転業務そのものによる労働負荷の存在は認められるとしても、右負荷が同人の健康に及ぼした影響の程度は明らかではないというべきであるから、冠状動脈のアテローム性硬化が、自然的経過を超えて徐々に進行増悪し、遂には心筋梗塞の発症をみるに至ったとしても、同人に対する労働負荷がその主たる原因となっていたとは認めることができない。
三 したがって、その余の点について判断するまでもなく、錠平の死亡が業務上の事由によるとは認められないとして控訴人の請求に対し遺族補償給付及び葬祭料の支給をしない旨決定した本件処分は適法であり、控訴人の本訴請求は理由がない。
第五結論
よって、控訴人の本訴請求を棄却した原判決は相当であって、本件控訴は理由がないから棄却することとし、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法七条、民訴法九五条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 渡辺剛男 裁判官 菅英昇 裁判官 筏津順子)