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名古屋高等裁判所 平成21年(ネ)390号 判決 2009年7月23日

主文

1  原判決を取り消す。

2  被控訴人は,控訴人に対し,189万円及びこれに対する平成19年8月22日から支払済みまで年6分の割合による金員を支払え。

3  訴訟費用は,第1,2審を通じ,被控訴人の負担とする。

事実及び理由

第1当事者の求める裁判

1  控訴の趣旨

主文同旨

2  控訴の趣旨に対する答弁

本件控訴を棄却する。

第2事案の概要

1  本件は,銀行である被控訴人に普通預金口座を有し,預金債権を有していた控訴人が,預金通帳を窃取され,無権限者に預金の払戻しがされたと主張して,被控訴人に対し,預金契約に基づき,払い戻された預金額相当の預金189万円及びこれに対する本件訴状送達の日の翌日から支払済みまでの商事法定利率年6分の割合による遅延損害金の支払を求める事案であり,被控訴人は,普通預金規定所定の免責約款による免責及び債権の準占有者に対する弁済の抗弁を主張し,その支払義務を争っている。

2  前提事実及び争点は,次の3において付け加えるほか,原判決「事実及び理由」中の「第2 事案の概要」の「1」及び「2」記載のとおりであるから,これを引用する。

3  当事者が当審において追加又は敷衍した主張

(控訴人の主張)

(1) 本件払戻請求書(2通)に顕出されている楕円形の印影3個は,本件盗難により同時に窃取された郵便貯金通帳の副印鑑に基づいて偽造された印章により顕出されたものである。

(2) 本件届出印影(丙9)と本件払戻請求書(丙7,8)の楕円形の印影2個(以下「本件払戻請求書の各印影」という。)とは,以下のように,多くの相違点があり,このような相違点は,押印時における着肉量,押圧力,押圧台等の使用条件の違いによって生じうる範囲内のものとはいえない。

ア 全体的に見て,本件届出印影は,円周線よりも文字の一本一本の線が相当程度太く,丸みを帯びていて,どっしりとした安定感があるが,本件払戻請求書の各印影は,本件届出印影と比較して文字の線が細くて丸みをあまり感じさせない。特に円周線がやや太いこともあり,円周線より文字の線が相当程度に太いという印象を受けない。

イ 本件払戻請求書の各印影は,「森」の中の左下側の「木」の第2画上下棒が大きく内側に曲がっているのに対し,本件届出印影は若干曲がっているに過ぎない。

ウ 本件払戻請求書の各印影は,「山」の第2画先端部分に傷跡のような細長い線又は点が第1画先端部分に向かって存在しているのに対し,本件届出印影には,そのような線又は点はない。

エ 本件届出印影は,「森」の中の右下側の「木」の第2画上下棒の先端部分と上側「木」の第4画とが明確に接着しているのに対し,本件払戻請求書の各印影は,ほとんど接着していない。

オ 本件払戻請求書の各印影は,「森」の第3画の払いが若干斜め左上に向かって伸びているのに対し,本件届出印影は,斜め左上に向かって伸びていない。

カ 本件払戻請求書の各印影は,「山」の第1画上下棒と第2画横棒の接触部分が上に向かってやや凹んでいるのに対し,本件届出印影には,そのような凹みは見られない。

(3) そして,仮に,上記の相違点が,押印状況により生じ得るものである場合には,実際に押印状況により生じているものかどうかを判断するために,印章を受け取ってその場で実際に何度か押して見比べる等の措置をとるべきであり,そのような措置をとっておれば,本件届出印影と本件払戻請求書の各印影とが同一の印章によるものといえないことが容易に判明したはずである。

(4) 本件において,被控訴人の照合事務担当者は,上記のような印影の相違点を見過ごし,印影の同一性を肯定したものであって,金融機関として期待される業務上の相当の注意をもって確認したとはいえない。

したがって,被控訴人の担当者が行った照合は,本件免責規定の要件を満たしておらず,被控訴人には過失があるから,債権の準占有者に対する弁済として有効な払戻しをしたとはいえない。

(被控訴人の主張)

(1) 控訴人が,本件届出印影と本件払戻請求書の各印影との相違点として主張するところは,押印時における着肉量,押圧力,押圧台等の使用条件の違いにより生じ得る範囲内のものに過ぎない。

(2) 控訴人は,印影の同一性を確認するために,その場で印章を受け取り,何度か押して見比べる等の措置をとるべきであったと主張するが,全く非現実的な主張である。

第3証拠

原審訴訟記録中の書証目録及び証人等目録並びに当審訴訟記録中の書証目録記載のとおりであるから,これを引用する。

第4当裁判所の判断

1  証拠による事実認定

原判決書5頁1行目の「印鑑」の次に「(丸印)」を,同頁8行目から9行目にかけての「本件届出印」の次に「(楕円形印)」を加え,同頁13行目の「本件届出印と慎重に照合し」を「本件届出印(等倍大)と照合し」と改めるほか,原判決「事実及び理由」中の「第3 争点に対する判断」の「1」記載のとおりであるから,これを引用する。

2  本件払戻請求書に押捺された印章(原判決書には「印鑑」と記載されているが,以下「印章」という。)について

前示のとおり,本件払戻しに際しては,払戻しに現れたDは被控訴人の照合事務担当者のEの面前で印章を取り出して本件払戻請求書に押捺しているが,控訴人は,本件預金通帳の届出印(本件届出印)を窃取されておらず,本件訴訟において本件届出印により顕出した印影を甲第4号証として提出している。そして,甲第4号証に顕出されている9個の印影,原審で相被告であった銀行(以下「原審相被告銀行」という。)の印鑑紙に顕出されている印影2個(乙4,5),原審相被告銀行における払戻請求書に顕出されている印影(乙3),原審相被告銀行が上記の印影を印鑑照合機により照合している状況を撮影した写真(乙9の1ないし8),被控訴人の印鑑紙に顕出されている本件届出印の印影(丙9),本件払戻請求書2通に顕出されている印影3個(丙7,8)によると,本件払戻請求書の各印影と本件届出印影とはその文字の骨格(印影の文字線の中心部分を連結することにより想定できる文字線)がほぼ一致していること,一見すると,「山」の文字が印象が極めて類似していることからして,本件払戻請求書に押捺された印章は,本件届出印の印影を用いて偽造されたもの(以下「本件偽造印」という。)と認められる(付言するに,古くから,写真の技術とエッチングの技術を用いる方法等により印影から印章を作成し印影を偽造することが可能であると指摘されてきた。そして,近時は,技術の進歩により,印影を写真的に撮影し,それを感光性樹脂に転写して印面の凹凸パターンを再現する方法,印影を拡大スキャンしてそれ自体を印稿として彫刻機により印章を作成する方法等もあると指摘されている。本件払戻しに際して使用された印章がどのようにして作成されたものであるかは不明であるが,本件預金通帳と同時に盗難にあった郵便貯金の通帳に副印鑑として本件届出印の印影が顕出されていたことからして,その印影を用いて作成されたものと推認できる。)。

3  本件払戻しが債権の準占有者に対する弁済として有効かどうかについて

本件払戻請求書の各印影と本件届出印影とが同一の印章により顕出されたものと判断した被控訴人の担当者の印鑑照合につき過失がなかったかどうかを判断するに,一般に,払戻請求書によって預金の払戻しが請求された場合,当該払戻請求書上の印影と届出印影とを照合するに当たっては,銀行の担当者は,金融機関としての銀行の照合事務担当者に対して社会通念上一般に期待される業務上の相当の注意をもって慎重に行うことを要し,銀行の照合事務に習熟している銀行員がこのような相当の注意を払って熟視すれば肉眼を持っても発見し得るような印影の相違が看過されたときは当該担当者に過失があるものと解するのが相当である。

そして,銀行の照合事務担当者に対して社会通念上一般に期待される業務上の相当の注意がどのようなものであるかは,前示のような印章偽造技術の進歩やその悪用例の存否等とも関連するところ,副印鑑制度は,盗んだ通帳の副印鑑から印章を偽造し,払戻し書類にその偽造印章を押捺して預金を引き出すなどの不正引出事件が後を絶たないために平成15年頃までにほとんどの銀行で廃止されていたものであり,被控訴人においても,本件払戻しがされた平成19年4月24日の時点では廃止されていた。しかし,副印鑑制度がなくなった後も,副印鑑の顕出されている古い預金通帳を保存している預金者もあり,既存の印影を利用して印章を作成しそれを悪用するおそれがなくなったわけではない。

したがって,照合事務担当者としては,少なくとも次の3点を念頭において照合をする必要があるというべきである。第1は,既存の印影を写真撮影,スキャン等して印章が偽造された場合には,当該偽造印章により顕出された印影は,一見して元の印章による印影と極めて類似していること,第2は,重ね合わせ等により印影の文字線や円周線を比較するのみでは,両印影が異なる印章により顕出されたものであることを見抜くことは困難な場合があり,偽造印の文字線をやや細くする等の修正がされていると文字線の太さ(幅)の差を印肉,紙質,押捺の圧力等の押捺時の条件の差によるものと見間違いやすいこと,第3は,払戻請求書の印影に届出印影と差異がある場合において,それが印章の相違から来るものであるときは,当該印章により何度印影を顕出しても同一の差異が見られることである。

そこで,以上の点を前提として本件払戻請求書の各印影と本件届出印影とを比較するに,前示のとおり,被控訴人の照合事務担当者であったEは,印鑑照会機を用いて本件届出印影を表示した上,本件払戻請求書の印影を真ん中で半分に折り,画面上の本件届出印影に重ねたりして確認し,印影が一致すると判断している。しかし,上記の重ね合わせによる照合では,印影の文字線の骨格の比較に近くなり,偽造印章の文字線が実際よりやや細く修正されていると,印肉,紙質,押捺の圧力等の差によるものと見間違いやすいといえる。

したがって,印影の照合において,最も重要なのは,平面的な比較照合であり,その点を認識した上での照合がされておれば,印影の差が認識できたかどうかが最も重要となる。そこで,本件届出印影(丙9)と本件払戻請求書の各印影(丙7,8)とを比較すると,一見して,本件払戻請求書の各印影の「H」の「森」の文字線が本件届出印影の文字線より細いことが目につく。同時に,本件払戻請求書の各印影の「山」の方は,文字線が太い。そして,印影の円周線を見ると,本件届出印影の円周線は,明らかに「山」及び「森」の文字線よりも細いが,本件払戻請求書の各印影では,円周線が「森」の文字線とほぼ同じ太さであり,場所によっては,より太いように見えるところがある。しかも,その「森」の文字線は全体として細く,かつ,多くの線(特に上の「木」)が鮮明であり,文字線のかすれがほとんどない。そして,本件払戻請求書の各印影は,全体として鮮明であって,「森」についても,印章の文字線がそのまま表示されていると見られるものであり,印肉の付着が少なかったこと,印肉の付着が均衡でなかったこと,押捺に際して印章がずれたこと,印章の二重押しがされたこと,紙質が不良であることなど,印章の文字線が不正確となる要因があったことをうかがわせる特徴は見当たらない。また,本件払戻請求書の各印影を相互に比較対照すれば,共に上記の各特徴を備えており,一見して,両印影が同一の印章によるものであることが分かる。

以上指摘した本件届出印影と本件払戻請求書の各印影との印影相互の相違は,印影照合事務に習熟した者が相当の注意力をもってすれば,平面照合により容易に確認することができるものであるといえる。

特に,平面照合の重要性を認識しておれば,印影を最初に見たときの印象(美感を含む。)が重要であり,そのような基本的な意識の下に本件届出印影と本件払戻請求書の各印影を比較対照すれば,本件払戻請求書の各印影の「森」の文字線が本件届出印影の文字線より細いことに容易に気付いたはずである。そして,その点に気付けば,上記のように文字線と周囲円について各印影を比較対照するはずであり,本件払戻請求書の各印影と本件届出印影との差異が,紙質,押印時における着肉量,押圧力,押圧台等の使用条件の違いによるものではなく,印章そのものの相違によるものであることに気付いたはずである。特に,本件届出印影との比較の後,本件払戻請求書の各印影を相互に比較し,それらの類似性が顕著であることに気付けば,本件偽造印を手にとって,その印面を確認するとともに,本件偽造印を本件払戻請求書に押捺することにより,その印影とも比較対照すれば,本件払戻請求書の各印影と本件届出印影との差異が印章の差異によるものであることに気付いたはずである(被控訴人は,その場で印章を受け取り,何度か押して見比べることが全く非現実的であると主張するが,印鑑照合に必要であれば適宜行うべきであり,本件においても,特段の支障があったとは認められない。)。

ところが,被控訴人の照合事務担当者Eは,証人として,当初,本件払戻請求書(2通)に誤って「H」の丸印が押されていたので,押し直された印影(楕円形)については,本件届出印影と念入りに対照した旨供述するが,その対照の仕方については,印鑑照会機に映し出された本件届出印影(等倍)と本件払戻請求書の印影を横に並べて見比べた後,本件届出印影の上に本件払戻請求書の印影を重ねた上透かして比較照合して,印影全体の大きさなどを見比べ,その後,払戻請求書の印影を半折りし,それを印鑑照会機に当てたまま,右半分を動かしたり,左半分を動かしたりして,全体の大きさ等を確認した旨供述するが,印影の文字線の太さの差異については,異なる印章によると判断するほどの差異はなかった旨供述している。そうすると,被控訴人の照合事務担当者が,印鑑照会機上での重ね合わせによる照合を重視していたことは明らかであり,半折りしての照合も,文字線及び周囲円の骨格の比較をした程度のものであったものと認められる(なお,前示のとおり,本件においては,I調査役が印鑑照会機を用いて二重チェックをしているが,Eと同じような方法程度の照合であったものと推認できる。)。

そうすると,本件払戻請求書の各印影を本件届出印によるものと判断した被控訴人の照合事務担当者には過失があるというべきであり,被控訴人の担当者が本件払戻請求をしたDを正当な権利を有する者と信じたとしても,本件免責規定にいう「相当の注意をもって照合した」とはいえず,また,そのことに過失がなかったものということはできないから,本件払戻しは,債権の準占有者への弁済として有効とはいえず,控訴人の預金債権を消滅させ得るものではない。

なお,本件において被控訴人は,本件届出印影の印鑑票そのものではなく,それを印鑑照会機に映し出したものと比較照合しているが,証拠(丙5の1,2)によると,被控訴人の印鑑照会機は,朱色を表示することはできないが,本件届出印影の前示の特徴を把握できる程度に鮮明に表示する機能を有するものと認められるので,上記の比較対照の方法の差異は,上記判断を左右するものではない(仮に,被控訴人の印鑑照会機が届出印影の特徴を十分把握できるものでないとすれば,そのような印鑑照会機により照合することに過失があるということになる。)。

第5結論

以上判示したところによると,控訴人の本件請求は理由があり,これを棄却した原判決は相当ではないから,これを取り消した上,本件請求を認容することとし,訴訟費用の負担につき民事訴訟法67条2項,61条を適用して,主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 岡久幸治 裁判官 嶋末和秀 裁判官 鳥居俊一)

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