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名古屋高等裁判所 平成27年(お)5号 決定 2017年12月08日

主文

本件再審請求を棄却する。

理由

1  本件再審請求の趣意は再審請求書,再審請求理由補充意見書(1)から(6)まで(弁護人作成),意見書(請求人作成)のとおりであり,これに対する意見は意見書,同(2),(3),上申書(検察官作成)のとおりである。要するに有罪の言渡しを受けた亡A(以下「被告人」という。)を犯人と認めて有罪の言渡しをした確定判決に対し無罪を言い渡すべき明らかな証拠を新たに発見したというのである。

2  確定判決は「(罪となるべき事実)」として要旨次のとおり判示して被告人の犯人性を認めた。

被告人は,妻(B)と愛人(C)との三角関係の処置に窮し,両名を殺害して関係を一挙に清算しようと考え,昭和36年3月28日,居住地区の生活改善グループが公民館で行う懇親会で女子会員用にぶどう酒が出されることを察知し,これに農薬ニッカリンTを混入するときは,これを飲む妻と愛人を含む女子会員が死亡するかも知れないことを十分認識しながら,密かに同ぶどう酒にニッカリンTを混入し,これを飲んだ妻と愛人を含む5名を有機燐中毒により死亡するに至らせて殺害するとともに,これを飲んだ12名に有機燐中毒症の傷害を負わせたにとどまり,その余の3名はこれを飲まなかったため,15名については殺害するに至らなかった。

3  確定判決までに提出された証拠(更には当審までに提出された証拠)によれば,被告人の犯人性は揺るがない。

4(1)  本件はぶどう酒中に毒物の有機燐テップ製剤(茶畑等の害虫の駆除に用いられる農薬の一種。強毒性のテトラエチルピロホスフェート[TEPP]を主成分とする。)が混入されたことによって生じた事件である。混入は製造過程や流通過程ではなく(TEPPは加水分解速度が速く,それによって無毒化する[ゆえに農薬に適する。]ため,かかる過程での混入で本件のような事件は起こせない[販売時点に近接する流通過程での混入については,そのような事態をうかがわせる証跡は何ら存しない。]。),本件当日であることは証拠上明らかである。

(2)  本件当日,Dは酒屋で本件ぶどう酒を買い受け,E運転の車の助手席に乗ってF方前に至り,車に乗ったまま助手席窓からFの妻Gにこれを手渡した。Gは本件ぶどう酒をF方玄関小縁(上り框)の西端付近に置いた。被告人がF方を訪れ,Gが本件ぶどう酒を公民館に持って行くよう依頼し,被告人はこれを公民館に持って行った。本件ぶどう酒は公民館に持ち込まれてから懇親会に出されるまでの間,囲炉裏の間の流しの前に置かれていた。以上は証拠上明らかである。

(3)  有機燐テップ製剤が上記4(2)のいずれかの過程で混入されたことは明らかである。この間に何者かが密かに混入する機会があったかどうかについてみる。

F方に到着するまでの間は,DとEが行動を共にしていたことから否定される(DとEの共犯をうかがわせる事情はおよそない。)。Gの犯人性は否定される(本件ぶどう酒を飲んで死亡していること等から)。

そうすると,F方にあった際と公民館囲炉裏の間にあった際が問題となる(F方から公民館に運ばれるまでの間は,被告人とHが行動を共にしている[被告人も自認している。]ことから否定される[Hはぶどう酒を飲んで傷害を負った。被告人との共犯をうかがわせる事情はおよそない。]。)。

(4)  F方にあった際については,当日午後,I(Fの妹)が出産のためJ(Iの義母)と一緒に実家のF方に来た後,Jが帰るのを見送るため,I,G,Gの息子K(小学5年),L(小学3年)の5人でF方から出掛けるということがあったところ(証拠上明らかである。),本件ぶどう酒が届いたのがこの見送りに出掛ける前かそれとも見送りから戻って来た後かが重要である。届いたのが出掛ける前であれば,本件ぶどう酒はその後しばらくの間家人らの目に留まらない状態でF方に置かれていたと考える余地がないわけではなく,第三者による混入の機会が生じ得る。届いたのが戻って来た後であれば,第三者による混入の機会はなかったといえる。すなわち,戻って来た時点でF方にはM(Fの母。見送りに出掛けず家の掃除等をしていた。),N,B(Iらが戻って来る前からF方台所土間で懇親会の準備等をしていた。)が居たところ,そこにI,G,K,Lの4人が戻って来たわけである。本件ぶどう酒が置かれたF方玄関小縁(上り框)のある土間は台所土間と隣接し,当時間を仕切る3枚の格子戸のうち真中の1枚は開けられていたから,台所土間から本件ぶどう酒の置かれていた玄関小縁(上り框)が見通せる状態であった。Iらが戻って来るとさほど時間をおかずに被告人が訪れ,被告人がGの依頼に応じて本件ぶどう酒を持って公民館に向かった(以上の事実関係は証拠上明らかである。)。このような状況下では,GがDから受け取った本件ぶどう酒をF方玄関小縁(上り框)に置いた後F方で誰にも気付かれずに本件ぶどう酒に有機燐テップ製剤を混入するのは不可能といえる。

本件ぶどう酒の到着がIらが見送りに出掛ける前であったか見送りから戻って来た後であったかに係る証拠としてIの供述がある。Iは本件ぶどう酒の到着は見送りから戻って来た後であった旨供述している(F方を出,GとLが更に先までJを見送りに行く間,Kと魚屋で待ち,Gらが戻ると,魚屋で缶詰等を買い,F方に向かった。途中スクーターで往診に行く医師Oと会い,立話をするなどした。その後牛にリヤカーを引かせたPに会い,Lをリヤカーに乗せてもらい,Pと話しながらF方前まで行った。F方に着いて間もなく[Gが缶詰等を持って一旦F方に入り-Iは外に居た。-,すぐに出てくると],DがE運転の車に乗って来て,車の窓越しに本件ぶどう酒を含む酒3本を差し出したので,Gと一緒に受け取った旨)。

I供述は明確で一貫しており,うそをつく理由もない。見送りの経過はJ,L,P,Oの供述と合致し,見送りと本件ぶどう酒到着の先後関係はJ,M,Nの供述と整合する。信用性は十分である(D,E[本件ぶどう酒の受渡し状況についてI供述と合致する供述をする。]の供述中当日の行動経過の各場面の時刻を述べる部分は,同人らがいずれも特に時刻を意識して行動していたわけではなく,時刻の特定も確実な記憶や根拠に基づくものではないことが供述内容自体からも明らかであることからして,同人らの供述に依拠して時刻を特定することはできないというべきである。)。

以上によれば本件ぶどう酒がF方に到着したのはIらが見送りから戻って来た後と認められる。本件ぶどう酒がF方にあった際の有機燐テップ製剤混入の機会性は否定される。

(5)  本件ぶどう酒が公民館囲炉裏の間にあった際については,Hの供述がある(準備のためF方に行った。被告人が来て何か持って行く物はないかと尋ねると,Gが本件ぶどう酒等を運ぶように頼んだ。本件ぶどう酒等を持った被告人に続いて公民館に向かった。F方を出たところでNから食器等を乗せたお盆を持っていくよう頼まれて引き受けた。被告人は公民館に着くと本件ぶどう酒を囲炉裏の間の流しの下[向って右端]に置き,囲炉裏のそばに座った。会場の机が汚れていたので雑巾を取りにF方に戻った。被告人は一人公民館に残った。雑巾を取りに戻る時公民館の入口でQが電気工事をしているのを見た。F方から再び公民館に向かう途中Rと出会い,話をしながら一緒に公民館に向かった。公民館を出て戻って来るまでの時間は10分くらいだった。公民館に戻って来た時にはQは居なくなっていた。被告人は最初に公民館に来た時と同じように一人で囲炉裏のそばに座っていた。雑巾で机を拭くなどし,Rは囲炉裏の周りをほうきで掃くなどした旨)。

H供述は明確で一貫しており,うそをつく理由もない。N(HがF方から公民館に向かう時,風呂敷入りの茶碗等を託した。ちょうどその頃被告人がF方を出て行き,玄関に置いてあった酒がなくなっていた。5分から10分くらいしてHが戻り,雑巾を持って再び出て行った旨),Q(公民館の玄関辺りではしごを掛け,10分くらい電線を引っ張り直す作業をした。作業の間被告人とHが公民館に来た。被告人は酒瓶を抱えるようにして持っていた。二人はそれほど間をおかずに来たと思う。

その後Hが公民館を出て行った。被告人は公民館の中におり,作業中他の者が公民館に入ることはなかった旨),R(Hと出会い,一緒に公民館に向かった。公民館には囲炉裏の間に被告人が一人で居た。囲炉裏の周りをほうきで掃くなどした旨)の供述とよく整合している。信用性は十分である。

この点被告人は公判で「本件ぶどう酒等を持ってHと一緒にF方を出た。途中Rと出会い,HはRと話をしながら歩き,自分は同人らより先に公民館に入った。公民館に着いた時は誰も居なかったが,自分が着いてからHらが到着するまで1分もかからなかった。公民館でQが電気工事をしていたかどうかはっきりしない。F方に行く前,牛の運動で倉庫の作業場の前を通った時,Hが(公民館の方に)上がって行くのを見た。」旨供述する(すなわち,Hが2回目に公民館に向かった際同道した[Hが1回目に公民館に向かっていた際は自分は牛の運動をさせていた]とするものである。)。しかし,被告人の供述するHと被告人の行動経過はH供述のみならず上記N,Q,R供述に明らかに反している(Nらの供述はいずれも被告人のHとの同道はHが1回目に公民館に向かった際の出来事であり,Hが2回目に公民館に向かった際には被告人との同道はなかったとするものである。)。被告人供述に沿う供述をしている者はいない(Nは第5次再審請求原審で「HがF方から公民館に出掛けた後,自分が便所に行った際,被告人がF方前を子牛を引いて行くのを見た。」旨供述するに至ったが,同供述が信用できないことは第5次再審請求原審決定[第二の二2(二)],同異議審決定[第二の五2(1)]が正当に説示するとおりである。)。被告人の公判供述は信用できない。

以上によれば被告人はHと共に公民館に来てからHがF方に戻り再び公民館に来るまでの約10分間一人で公民館囲炉裏の間に居たと認められる。HとRが公民館に来てから後については,同人らが公民館に居合わせたほか,間もなく順次多数の者が公民館に集まってきて囲炉裏の間やこれに隣接する懇親会場の間に居たもので,当時間を仕切る障子は1枚分くらいが開かれ,会場の間から囲炉裏の間の本件ぶどう酒が置かれていた流しの前辺りがよく見渡せる状況にあった(以上は証拠上明らかである。)から,その際の有機燐テップ製剤混入の機会性は否定される。そうすると,本件ぶどう酒に有機燐テップ製剤を混入する機会となり得たのは,本件ぶどう酒が公民館に運び込まれてからHが一旦F方に戻り再び公民館に来るまでの間被告人が約10分間一人で囲炉裏の間に居た時間帯だけであり,それ以外に有機燐テップ製剤混入の機会はなかったと認められる。

5(1)  捜査段階の自白がある。

(2)ア  自白に至った経過は第7次再審請求異議審決定第2章第4の3(2)ア(ア)説示のとおりである。

イ  身柄拘束前の任意調べで犯人と自供した(昭和36年4月2日。同自白は犯行に至る経緯・動機,使用毒物,犯行準備状況,犯行状況,証拠隠滅工作等の全般にわたる概括的ではあるものの詳細で矛盾なくまとまった内容のものである[上記5(2)ア決定「別紙 供述調書」参照]。これら全てが同月2日午後7時過ぎから翌3日午前1時40分頃までの間に供述され,供述録取書も作成された。)。それまでに特に強制が加えられたといった状況はうかがわれない(被告人も自白を強要されるような状況があった旨の供述をしていない。)。本件のような重大事犯について特段の強制もなく自白した以上,任意性に問題がないことはもとより,信用性も高いと考えられる(更には,同月3日記者会見が行われ,犯人と認めた。捜査関係者以外の者に対するもので,自白の任意性,信用性を支える事情といえる。)。その後起訴当日(同月24日)に至るまで(同月21日一旦自白を撤回したがその直後再び自白に戻ったほかは)約20日間にわたり自白を維持した。

ウ  自白内容は当然極刑が予想される重大殺人事件の犯人というもので,うその自白をしたというのであれば,それをするだけのよほどの理由があってしかるべきところ,公判(更には第5次再審請求審)での被告人の説明はそのようなものとして到底納得できない(Bが犯人と思っていたが,Bが犯人と断定されることについてつらい感情を持っており,更にBが犯人と新聞報道されたと聞いて自供する気持ちになった。Bが犯人とすれば原因を作った自分が悪いと考え自責の念に駆られた。自分が農薬の在りかを教えているところ,取調官から幇助犯として同罪と言われ責任を感じたなどというものである。)。

(3)ア  ①混入有機燐テップ製剤として「ニッカリン」を用いたとする点は,被告人は昭和35年8月頃ニッカリンT(100cc瓶入り)を購入している(証拠上明らかである。)ところ,この事実と符合する(ニッカリンTは有機燐テップ製剤である。なお,本件後ニッカリンTは被告人方から発見されなかった。)。②ニッカリンを竹筒に入れて運んだとする点は,被告人方に竹筒を作るのに使ったという竹鋸(目に竹屑が付着)があったもので,この事実に支えられている。③宴会前に公民館囲炉裏の間で細工をしたとする点は,もちろん上記4の犯行の機会性に係る認定と整合する。④同間で本件ぶどう酒の栓を開けてニッカリンを入れたとする点(囲炉裏の火挟みで王冠を突き上げて取り[その際王冠の上に巻いてあった巻紙も一緒に切れて落ちた。],残った金蓋[内栓]を歯を使って開けたとする。)は,(本件ぶどう酒は四つ足替栓の上に耳付き冠頭がかぶさり,その周りに封緘紙が貼られていたところ)同間及びその周辺で耳付き冠頭,四つ足替栓,封緘紙片が発見され(耳付き冠頭の耳がめくれ上がっておらず,封緘紙が二つに千切れ,四つ足替栓に歯型様の痕があった。),囲炉裏には火挟みがあったもので,この事実と整合している。⑤自白に係るニッカリン(T)注入量は本件で発生した結果を招く量として十分であることは科学的に明らかである。⑥金蓋だけをし直したとする点は,宴会直前の(最後の)開栓者は(後記8(4)アのとおりFかDかの争いはあるが,いずれも)開けた栓は一つだけと供述していることと符合する。⑦囲炉裏で竹筒を燃やしたとする点(Hが持って来た柴を囲炉裏で燃やし,竹筒も共に焼いてしまったとする。)は,Hの持って来た柴を被告人が囲炉裏で燃やした旨の供述に支えられている。更には⑧犯行動機(上記2の確定判決判示同旨)に関しては,Bとの夫婦仲が相当に悪化し,Cと不倫関係にあったことは既に地域でも噂に上っていた状況にあったことが指摘できる。

イ  自白に特に不自然不合理はない。

ウ  自白は一貫している(一部曖昧な個所がある[ニッカリン注入時とHの公民館出入り状況,Hが持って来た物,公民館の机がきちんと並べられた状況等]けれども,自白の根幹部分[犯人性,動機,使用毒物,犯行準備状況,犯行状況,証拠隠滅工作等]の信用性を揺るがすようなものでないことは明らかである。)。

(4)  以上のとおりであるから,被告人の捜査段階の自白は十分信用できる。

6  被告人は捜査段階当初(自白に至る以前),公判でB犯人説を唱えている(Bの犯人性は同人が本件ぶどう酒を飲んで死亡していること等から否定される。当初Bが囲炉裏の間でしゃがんで本件ぶどう酒に何かを入れるのを見たと言っていたところ,後にはしゃがんでいるのを見ただけだとなり,更に後にはそれもうそとした。)。そのようなうその供述をした理由について何ら納得できる説明をしない。このように人を犯人に仕立て上げるうその供述をしたのは犯人として罪を逃れたいとの思いに駆られたものと考えることができる。

7  以上によれば被告人の犯人性は優に認められる。

8(1)  本件再審請求の新証拠は別紙のとおりである。

(2)  新証拠①から④まで,⑩から⑭まで,⑳,㉑,㉖

ア  混入有機燐テップ製剤に係るものである。被告人がニッカリンを混入したと自白し,被告人はニッカリンTを購入していたところ,本件で用いられた有機燐テップ製剤はニッカリンTではなかったとする主張に係るものである(この主張は自白の信用性を揺るがそうとするものである。)。

イ  本件で混入された有機燐テップ製剤がニッカリンTとして矛盾はない。

本件当時d研究所が行ったペーパークロマトグラフ試験の結果,事件検体(飲み残しの本件ぶどう酒)についてRf値0.94(TEPPに相当),0.48(ジエチルホスフェート[DEP。TEPPの加水分解物]に相当)のスポットが検出され,対照検体(対照試験のため本件ぶどう酒と同じぶどう酒[三線ポートワイン]に市販のニッカリンTを入れたもの)について同じRf値のスポットが得られた。

ここから本件で混入された有機燐テップ製剤はニッカリンTとして矛盾はないとされたものである。なお,対照検体についてはRf値0.58に薄いスポットが検出された。

このRf値0.58のスポットはトリエチルピロホスフェート(TriEPP。ニッカリンTの含有[微量]成分ペンタエチルトリホスフェート[PETP]の加水分解物)のそれである。上記d研究所の試験ではエーテル抽出が行われており,TriEPPはエーテル抽出されない。したがって,対照検体から出たTriEPPのスポットは検体に含まれていたTriEPP由来のものと考えることはできない。ニッカリンTの成分PETPはエーテル抽出されやすいところ,抽出されたPETPがペーパークロマトグラフ試験の展開[物質の分配・分離]過程で加水分解されてTriEPPが生成され(ペーパークロマトグラフ試験の展開過程では加水分解が起きる蓋然性が高い[濾紙や溶媒,発色剤には水分が含まれている。]。),これが検出されたものと考えられる。すると事件検体からは出ず対照検体だけから出た理由が問題となるが,これはニッカリンT混入後の時間経過の長短(PETPが加水分解するに足りるだけの時間経過の有無。反応速度は非常に速い。)によって科学的合理的に説明可能である(事件検体では混入後試験[抽出]までの時間経過[3月28日午後8時頃事件発生,d研究所でペーパークロマトグラフ試験に付されたのは早くとも翌29日]の中で加水分解してしまったのに対し,対照検体では抽出までに全量完全に加水分解するほどの時間経過がなかったことによるものと考えられる。)。

ウ  新証拠①,⑳,㉖は,模擬ぶどう酒(エタノール12mlと水88mlを混合したもの)に新ニッカリンT(報告書作成者が合成したもの)を添加し,エーテル抽出したもの(PETPも抽出されている。)についてペーパークロマトグラフ試験を行ったところ,TriEPPのスポットが出なかったとするものである(上記8(2)イの「抽出されたPETPがペーパークロマトグラフ試験の展開過程で加水分解されてTriEPPが生成され・・・,これが検出された」との考えを攻撃するものである。)。

ペーパークロマトグラフ試験は,展開溶媒の組成,濾紙の性状,共存物質,試験場所の温度・湿度,試料の滴下方法,展開時間,容器内の蒸気圧(気密容器の中で行っているものの内部の蒸気圧が一定にならない。),乾燥条件等の僅かな違いによって異なる結果(分離,移動,発色等)を生じ得るものであるところ,当時の試験器具等は既に入手不可で,条件,操作方法の詳細も分明でない。このような状況下,ある器具等を用い,ある条件の下ある操作方法により再現を試みたところで,よしんばその結果同様の結果が得られなかったとして,そのこと自体何の意味も持たない(かかる再現実験をいくら重ねたところで無意味である。新証拠④は新証拠①試験の点滴量,点滴方法の適切さをいうもので,上記の論にとって何の意味も持たないものであり,新証拠㉑は,新証拠⑳,㉖でTriEPPのスポットが出なかったのは,PETP,TriEPPが極めて微量で,ペーパークロマトグラフ試験の検出限界を下回っていることによると推定されるという[すなわち,この実験によって上記8(2)イにいう機序で生成されるTriEPPはペーパークロマトグラフ試験の検出限界を下回ることが明らかになったとし,したがって対照検体にTriEPPのスポットが出たのは別の機序で存在したTriEPP-後記塩析で抽出されたTriEPP-由来のものとする論を支えるものとするものであろう。]けれども,対照検体投入のニッカリンTの量[PETPの量],投入後の静置時間は不明であり,そもそもペーパークロマトグラフ試験の検出限界も不明なのであって,およそ十分な根拠を有する論でないことが明らかである。)。上記8(2)イで述べたとおり,PETPはエーテル抽出され(現に新証拠①,⑳でも抽出されている。),ペーパークロマトグラフ試験の展開過程は加水分解が起きる蓋然性が高く,一方,PETPの加水分解速度は非常に速いのであって,同所の説明は十分な科学的合理性を有している。新証拠①,⑳,㉖は「本件で混入された有機燐テップ製剤がニッカリンTとして矛盾はない。」との論をおよそ揺るがすものでない。

エ  新証拠②,③は,新証拠①と同様,模擬ぶどう酒に新ニッカリンTを添加したものを,ここでは塩析(塩化ナトリウムを飽和状態まで加えること[これによりエーテル抽出されにくい物質のエーテル抽出効率を高めることができる。])の上エーテル抽出し,ペーパークロマトグラフ試験を行ったところ,TriEPPのスポットが出たとするものである(塩析をすればTriEPPが抽出され,ペーパークロマトグラフ試験でそのスポットが出ることを示したもので[新証拠④,⑩から⑭までは新証拠②,③試験の適切さをいうもので,新証拠②,③から離れて独立の価値を有するものでない。],本件当時も塩析が行われたはずであり,塩析をすればTriEPPが抽出されるから,事件検体からTriEPPのスポットが出ず対照検体から出たのは,正に前者にはTriEPP[その加水分解前物質のPETP]が含有されておらず後者には含有されていることを示している,すなわち事件検体と対照検体の混入・投入物は別物だ[事件検体の混入物はニッカリンTではない]ということを示しているとする論を支えるものである。)。

そもそも本件当時塩析が行われたことをうかがわせる証跡は何もない。行われたはずだとすることの関連で事件検体と対照検体とでペーパークロマトグラフの試験結果が異なっていることが挙げられているけれども,この点は上記8(2)イのとおり事件検体の混入物もニッカリンTとして科学的合理的に説明がつくのである。新証拠②,③(更には④,⑩から⑭まで)は「本件で混入された有機燐テップ製剤がニッカリンTとして矛盾はない。」との論をおよそ揺るがすものでない。

(3)  新証拠⑤

ア  複製した本件ぶどう酒瓶24本を用い,耳付き冠頭を火挟みで突いて開栓する実験を行ったところ,本件耳付き冠頭の変形(切れた先端部分が重なった状態になるなどしているという。)は再現できなかったとするものである(火挟みで王冠を突き上げて取ったとの自白の信用性を揺るがそうとするものである。)。

イ  耳付き冠頭を火挟みで突き上げて開栓する場合,力の入れ具合や方向(例えばねじる力の加わり)といった条件いかんで本件耳付き冠頭の変形が生じる可能性は十分にあるというべきである(そもそも被告人が行ったという開栓方法自体詳細は分明でない。)。かかる再現実験をいくら行ったところで無意味である。

(4)  新証拠⑥,⑦

ア  ⑥は本件ぶどう酒の王冠は自分が抜いたとする従前の供述が絶対的に間違いないとはいえない旨の記載があるFの警察官調書(昭和36年4月12日付け)である。⑦は公民館で発見された日本酒の王冠7個の傷痕にDが捜査段階で歯で開栓した王冠の傷痕と同一の特徴を有するものは認められないとするものである。いずれも本件ぶどう酒を宴会直前に(最後に)開栓したのはFではなくDとする主張を裏付けようとするものである(⑦は,Dが歯で栓を開けたのがぶどう酒だったか日本酒だったかはっきりしない旨の供述もしているところから,Dが開けたのは日本酒ではなかった[したがってぶどう酒であった]ことを立証しようとするものと思われる。最後の開栓者がFかDのいずれであるかは上記4(5)の犯行の機会性に係る証拠状況にぶつかるものではなく,被告人の自白の信用性を揺るがすものでもない。⑥,⑦は被告人の有罪認定に何ら影響しない。)。

イ  ⑥の記載内容は上記8(4)アのとおりであり,従前供述を覆す趣旨のものではない。Fは以後も従前供述と同旨の供述を一貫してしている。これと整合するSらの供述もある。他方Dの供述は,要するに歯で開栓したが,それが本件ぶどう酒だったというはっきりとした記憶はなく,他の者が言うのであればという程度のものにすぎない(ギザギザが付いていたともいうが,本件ぶどう酒の栓の特徴[ギザギザはついていない。]と明らかに異なる。お前が開けたと言われたという関係者の供述も曖昧である。)。⑦は目視及び写真で検討した結果を述べるものにすぎず,作成者も十分な正確性を期し得ないと自認するとおり,その証明力には限界がある。

最後の開栓者はFとする供述の信用性は揺るがない。

(5)  新証拠⑧,⑮から⑱まで,㉕,㉗,㉘

ア  ⑧は,複製封緘紙にカルボキシルメチルセルロースナトリウム(CMC)糊だけを塗布した試料とこれに再現フエキ糊(本件当時の成分を再現)を重ねて塗布した試料について経年変化を再現して肉眼観察,写真撮影,色差測定を行った結果後者の資料についてのみ本件封緘紙に見られる変色が認められたことや,本件封緘紙に一部糊の盛り上がりが認められることからして,本件封緘紙にはCMC糊に加えてそれ以外の糊が付着している可能性が高いとするものである。⑮は,本件封緘紙片大について赤外線吸収スペクトルを測定した結果,裏面にCMCの外ポリビニルアルコール(PVA)の付着が判明したとするものである。⑯から⑱まで,㉕は本件当時PVA糊「ゴーセノール」,「フエキ糊スーパー」が製造販売されていたことに係る証拠である。㉗は㉘のため弁護人が「ゴーセノール」を入手したことに係る証拠であり,㉘は⑮の補足。いずれも本件封緘紙裏面にはCMC糊とPVA糊の2種類の糊が付着していたもので,真犯人が本件ぶどう酒の封緘紙を一度剥がして開栓し,有機燐テップ製剤混入後PVA糊を使って封緘紙を貼り直したことが裏付けられたとするものである。

イ  ⑧については長い時間の経過(事件発生から⑧の実験まで約54年)があるのである。本件封緘紙の変色や盛り上がりはこのような経過の中様々な環境条件の下種々の要因が重なり合って生じたものと考えられるのであって,かかる実験等からそのいうような結論を導き出すのは合理的でない。実験方法に多大の疑問がある(経年変化を再現すべく紫外線照射,米酢の噴霧・塗布を行っているけれども,かかることで本件封緘紙の変化をもたらしたものと同様の影響を試料に与えたことになるのかの検証がおよそなされていない。再現実験として意味をなさないとさえいえる。)。⑮,㉘については,CMCの外PVAが付着しているとする封緘紙片大の裏面のスポットのスペクトル図とCMCとPVAとを塗布した紙のスペクトル図とを比較対照してみても,その形状はかなり異なっており,前者のスペクトル図がPVAの存在を示しているとは考え難い(⑯から⑱まで,㉕,㉗は⑮,㉘が意味を持たなければ意味を持たないものである。)。

(6)  新証拠⑨

ア  四つ足替栓上の傷痕が被告人の歯牙により生じたと,あるいは被告人の歯牙によるものと類似すると判定した鑑定書について,手法の不正確不適切をいい,結論は誤りとするものである。

イ  指摘の鑑定書が立証しようとする事実(四つ足替栓上の傷痕が被告人の歯牙によるとの事実)は上記2から7までのとおり被告人の犯人性の認定に用いられていない。⑨は何ら意味を有しない。

(7)  新証拠⑲

ア  被告人の自白に従い30名で犯行準備過程の再現実験を行ったが,成功裏に遂行できた者はおらず,被告人の自白には再現実験をした者がその過程で体験した主観的経験の報告が著しく欠如しているか全くなく,架空の話とするものである。

イ  自白に係る犯行準備が可能なことはその内容からして疑問はない(確定判決までに提出された証拠中の再現実験による検証等もある。)。⑲のような再現実験が客観的意味を持つとは考え難い。本件証拠に照らして被告人の自白が信用できることは上記5のとおりである(その他被告人の犯人性を基礎付ける事情は上記4,6のとおり)。かかる証拠状況を離れて自白内容自体を心理学的観点から検討してそのいうような結論を導くなどという一面的な見方はおよそ与し得るものではない(自白である以上指摘のような主観的経験の報告が語られるはずだ[またそれは調書に記載されるはずだ]との論は何ら根拠を有しないもの[自白には種々の態様のものがある。]というほかはない。⑲は前提を欠いているともいえる。)。

(8)  新証拠㉒

ア  被告人が実は無実であったが,本件のような自白をするに至ったというアナザーストーリーは心理学的視点から検討して十分成り立つ可能性があるとするものである。

イ  ⑲について述べたとおり,本件証拠に照らして被告人の自白が信用でき,その犯人性が優に認められることは上記4から6までのとおりである。かかる証拠状況を離れてそのいうようなアナザーストーリーが成立し得るなどといってみたところで意味がない(その展開する論自体上記5(2),6の供述経過に照らして無理があるものというほかはない。)。

(9)  新証拠㉓,㉔

ア  本件封緘紙片大の発見場所に係るものである。主として当該場所の撮影写真の証拠資料発見報告書(昭和36年3月30日付け)と検証調書(同年4月22日付け)各添付のものの違いを根拠に(㉔は前者添付の写真撮影を担当した当時の捜査官に対する弁護人の面談聴取の報告である。「同じ場所とはちょっと違うように見えます。」と話したとするものである。)本件封緘紙片大の発見場所は確定判決認定の「公民館の囲炉裏の間東北隅の片開き戸の取付箇所より約56cm東南方の壁際」ではなかった可能性があるとするものである(囲炉裏の間で封緘紙を剥がして本件ぶどう酒にニッカリンTを混入したとの事実認定を揺るがそうとするものと思われる。)。

イ  本件封緘紙片大は同年3月30日警察官によって発見された(その顛末を記載したものが上記8(9)アの報告書)。発見場所の特定に意味があるのは同報告書だけである(その後の検証はこの特定を前提に当該場所を見分したものにすぎない。)。同報告書の場所を特定する記載,添付図面上の特定地点は確定判決の認定場所と同一である。本件封緘紙片大の発見場所が確定判決の認定どおりであることは明らかである(指摘の発見場所の撮影写真は壁際の土の堆積状況や畳のへりの状況等が異なっているけれども,その間の二十数日間にかような状況変化をもたらす何らかの手が加えられたものとみるのが合理的である。)。

9  以上のとおりであるから新証拠は刑訴法435条6号所定の無罪を言い渡すべき明らかな証拠に当たらない。本件再審請求は理由がない(刑訴法447条1項適用)。

名古屋高等裁判所刑事第1部

(裁判長裁判官 山口裕之 裁判官 出口博章 裁判官 大村陽一)

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