名古屋高等裁判所 平成4年(ネ)882号 判決 1993年5月25日
控訴人(被告)
安田火災海上保険株式会社
被控訴人(原告)
孫威
主文
一 本件控訴を棄却する。
二 控訴費用は控訴人の負担とする。
事実及び理由
第一当事者の求めた裁判
一 控訴人
1 原判決中、控訴人に関する部分を取り消す。
2 被控訴人の請求を棄却する。
3 訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。
二 被控訴人
主文と同旨
第二事案の概要
本件は、自賠責保険の保険者である控訴人が、本件交通事故の被害者である被控訴人に対し、同事故の加害者(加害車両の保有者)たる被保険者から被控訴人に対して支払わるべき同事故に基づく損害賠償金額は自賠法施行令の定める保険金の限度額に達しないとして、右限度額未満の金員支払をしたところ、被保険者から被控訴人に対して支払わるべき本件事故に基づく損害賠償金額は右保険金の限度額を超える旨を主張する被控訴人が、自賠法一六条一項に基づき、控訴人に対して、右法定限度額と支払ずみの金額との差額の支払を求めている事案である。
一 争いのない事実
1 交通事故の発生
(一) 日時 昭和六二年一一月三〇日午後三時二〇分ころ
(二) 場所 名古屋市中区栄五丁目二三―一六先交差点
(三) 加害車両 原動機付二輪車(名古屋市中村あ一一八四号)
運転者 早坂啓
(四) 被害者 被控訴人
2 被控訴人の受傷と後遺障害
被控訴人は、本件事故により左膝部等に傷害を受け、昭和六三年九月一日、左膝関節運動機能障害等の後遺障害を残して症状固定した。ところで、右後遺障害の程度は、自賠法施行令二条に定める別表障害等級の一一級に該当するものである。
3 被控訴人の右傷害分の損害
被控訴人は、右傷害により一二〇万円を下らない損害(但し、右傷害に起因する後遺障害に基づく損害を除く。)を受けた。
4 加害車両の保有者の損害賠償責任
早坂啓は、加害車両を自己のために運行の用に供する者である。
5 控訴人の自賠責保険契約締結
控訴人は、昭和六二年三月二九日、早坂啓との間で加害車両の自賠責保険契約を締結した。
6 控訴人の自賠責保険金の支払
控訴人は、本件事故に関し、被控訴人に対し、傷害による損害についての保険金として、先に自賠法施行令二条の定める最高限度額である一二〇万円を支払つたが、これとは別枠の後遺障害による損害についての保険金額は、被控訴人の前記後遺障害の該当障害等級一一級のそれが三一六万円と定められているところ、これまでにそのうちの一四四万円(逸失利益として一五万円、慰謝料等として一二九万円)のみを支払つた。
ちなみに、右支払に係る金額は、自賠責保険調査事務所が「自賠責保険査定要綱」及び「同実施要領」に定められた基準によつて決定した査定額であり、控訴人は、右金額を保険者の査定額として、被控訴人に提示してこれを支払つた。
二 争点
1 被控訴人の後遺障害による損害
被控訴人の前記後遺障害による逸失利益について、被控訴人が昭和六二年賃金センサスの女子労働者学歴計・四〇歳から四四歳までの平均賃金を基準として算出されるべきであると主張するのに対し、控訴人は、外国籍の被控訴人は本邦での就労が認められていない「親族の訪問」という短期在留資格(在留期間九〇日)に基づいて在日していた際に本件事故に遭遇したものであるところ、事故発生時点においては、被控訴人の就労が許可され長期間にわたり在留期間が更新されることの高度の蓋然性は認められなかつたのであるから、被控訴人指摘に係る右平均賃金をもつて被控訴人の基礎収入として、その逸失利益を算出するのは失当であると主張する。
2 自賠責保険調査事務所の損害査定を超える額の支払義務の存否
控訴人は、自賠責保険が強制保険であることにかんがみ、自賠責保険の現実的処理に当たつては、被害者らに対する公平な保障の実現と円滑な事業運営の確保とが要請されるところ、これらはいずれも統一的な損害査定とその結果の維持なくしては実現できず、被保険者はもとより、被害者もまた査定結果に拘束されるべきものであるから、仮に裁判手続等によつて被控訴人の後遺障害による損害が査定額を超えて認められるとしても、そのうちの自賠責保険調査事務所の査定要綱及び同実施要領に定められた基準に基づいてなされた損害査定の金額を超えるものについては、控訴人は被控訴人に対し支払義務を負担しないと解すべき旨主張し、被控訴人は、右主張を争う。
第三争点に対する判断
一 被控訴人の後遺障害による逸失利益
1 成立に争いのない甲第一八号証の一ないし一五、第一九号証の一、二、第二一、二二号証、第二四号証の一、二、第二七、二八号証、第三四号証の一ないし三、原審証人馮開華の証言及びこれにより真正に成立したものと認められる甲第九号証、第一五号証の一、二、第二〇号証並びに原審における被控訴人本人尋問の結果によれば、左記(一)ないし(四)の各事実が認められ、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。
(一) 被控訴人は、一九四四年(昭和一九年)六月一七日生まれの中国国籍の女性であり、中国蘇州大学物理学部を卒業して同国の江蘇廣播電視大学に技師、講師として勤務していたが、先に来日して三菱電気株式会社名古屋製作所に勤務していた情報物理の専門家である夫馮開華が交通事故により受傷したため、昭和六二年一一月二日、長女馮鍾琳(当時一三歳)を伴つて「親族の訪問」(4―1―4)の資格で来日し、夫の看病に当たつていた。
「親族の訪問」の資格は報酬を受ける活動に従事することのできない短期の在留資格である。
(二) その後、被控訴人は、昭和六三年七月二五日から平成二年七月二四日までの間、名古屋大学の外国人共同研究員として同大学工学部情報工学科の研究室において「コンピューター応用及び自動制御に関する研究」を行つた。それに伴い、昭和六三年八月一一日、被控訴人の在留資格は「技術」(4―1―8)への変更が許可され、在留期間も一年となり、就労することが可能となつたため、被控訴人は、昭和六三年八月二〇日からPCプリント株式会社にアルバイトとして勤務し、同年中には二三万三六八五円の、翌平成元年中には五三万六七五九円の、各給与所得を得た。
(三) 被控訴人は、前記共同研究終了後の平成二年七月二八日、PCプリント株式会社との間に同月三〇日から月額給与二八万円の約束で稼働する旨の労働契約を締結したが、本件事故に起因する後遺障害により充分な稼働ができないため、同年一〇月一八日、月額給与を一五万円とし、欠勤分は控除する旨の労働契約を改めて締結し、以来現在まで勤務を継続し、平成二年中には八〇万二三四六円の、翌平成三年中には二四六万三五一六円の、各給与を得た。
(四) 被控訴人夫婦は、それぞれ在留期間の更新を続けて本邦滞在を継続し、長女馮鍾琳及びその後来日した長男馮鍾揚(一九六九年一二月生まれ)と一家四人揃つて生活しているものであつて、中国の国内情勢等に徴し、現在のところ被控訴人には帰国する意思がない。
2 しかして、右事実によれば、症状固定の当時その年齢が四四歳であつた被控訴人は、症状固定の時期からなお六七歳までの二三年間の稼働が可能であると推認されるところ、前記後遺障害がなければ、その資格、能力からみて少なくとも同年齢の女子労働者の平均賃金と同額の収入(昭和六三年度の賃金センサスの産業計・企業規模計・学歴計・女子労働者の平均賃金は、四〇歳から四四歳では二七五万三四〇〇円、四五歳から四九歳では二七二万一五〇〇円、五〇歳から五四歳では二六九万三四〇〇円、五五歳から五九歳では二七四万九五〇〇円、六〇歳から六四歳までは二六二万九一〇〇円、六五歳からでは二四四万〇三〇〇円)を得られたものと認められ、右後遺障害により労働能力の二〇パーセントを喪失したと認めるのが相当であるから、逸失利益の現価をホフマン方式により求めると、次のとおり七五六万七三九五円となる。
<1>2,758,400×0.2×0.9528≒524,418
<2>2,721,500×0.2×(5.1336-0.9528)≒2,275,881
<3>2,698,400×0.2×(8.5901-5.1336)≒1,861,947
<4>2,749,500×0.2×(11.5363-8.5901)≒1,620,115
<5>2,629,100×0.2×(14.1038-11.5363)≒1,350,042
<5>2,440,300×0.2×(15.0451-14.1038)≒459,410
合計 7,567,395
なお、控訴人は、症状固定の時点において認められる事情のみから将来の蓋然性を判断し、それに基づき逸失利益を算定すべきである旨主張するが、逸失利益の認定としては、生起未定の将来の事実につき推定を重ねるよりもその後現実化した事情を基に損害を算定することの方が少なくともその限度では正確妥当であることが明らかであるから、右主張は採用できない。
また、控訴人は、被控訴人が近い将来本国に帰国することもあり得るとして、日本における同年齢女子労働者の平均賃金取入を基礎に長期間にわたるべき被控訴人の将来の逸失利益を算定するのは相当ではないと主張するが、もともと蓋然性の認定は必ずしも他の可能性の存在を否定するものではなく、ことに本件においては被控訴人が今後長期間にわたり在留期間の更新を継続して本邦内で稼働する見通しが強いと認められること前説示のとおりであるから、被控訴人の帰国の可能性が全く否定できないことの一事をもつて右の認定・判断を左右するに足りるものでないことは勿論である。
以上に説示したところによれば、被保険者である早坂啓が被控訴人に対して賠償すべき被控訴人の右後遺障害に起因する損害額は、前記自賠法施行令の定める保険金額三一六万円から既ら控訴人が被控訴人に支払つた金額である一四四万円を控除した残額である一七二万円を下回らないことが明らかである。
二 自賠責保険調査事務所の損害査定を超える額の支払義務
自賠責保険調査事務所の査定要綱及び同実施要領に定められた基準に基づく損害査定の効力はその性質上当然に保険者に及ぶものであつて、保険者が、当該査定に係る金額を支払うべき拘束を受けることについては異論がない。しかしながら、右査定基準は、大蔵大臣の認可を受けているものであるとはいえ、直接的に法律上の根拠を有するものではないのであつて、これが自賠法の明文によつて認められている被害者の保険者に対する直接請求権を法的に拘束するまでのものとは認められない。したがつて、査定基準は、被害者と裁判所を法的に拘束するものではなく、この点についての控訴人の主張も採用できない。
三 結論
以上によれば、控訴人は被控訴人に対し、後遺障害による損害についての保険金の残額一七二万円及びこれに対する訴状送達の日の翌日である平成三年四月二〇日から完済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払義務があり、これを認容した原判決は相当であつて、本件控訴は理由がない。
よつて、本件控訴を棄却することとし、控訴費用の負担につき民訴法九五条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官 服部正明 林輝 猪瀬俊雄)