名古屋高等裁判所 昭和28年(ネ)383号 判決 1954年12月17日
控訴人(原告) 北原慶造
被控訴人(被告) 岐阜労働者災害補償保険審査会
主文
本件控訴を棄却する。
控訴費用は控訴人の負担とする。
事実
控訴代理人は原判決を取消す、被控訴人が昭和二十四年十月十一日付を以て為した控訴人は訴外北原行夫の死亡による遺族補償費金二十万六千三百八十円を同人の配偶者北原あきえに支払うべき旨の審査決定を取消す。訴訟費用は第一、二審共被控訴人の負担とするとの判決を求め、被控訴代表者は控訴棄却の判決を求めた。
当事者双方の事実上の陳述は左記主張の外は原判決事実摘示と同一であるから之を引用する。
控訴代理人の陳述
本件訴は国に北原行夫の死亡による遺族補償費を支払う義務があることを主張し此点に於て被控訴人の審査決定には違法があるという趣旨である。
(証拠省略)
理由
昭和二十四年一月十二日恵那貨物自動車株式会社付知営業所の運転手北原行夫が業務上の自動車事故により死亡したこと、大井労働基準監督署長は同年五月十四日付を以て北原行夫の配偶者北原あきえの請求にかかる遺族補償費、葬祭料の支払については控訴人を労働基準法、労働者災害補償保険法(以下単に労災保険法と略称する)に所謂使用者又は保険加入者と認めて控訴人に対し労災保険法第十八条を適用し控訴人が重大な過失により保険料を納付せず、事故発生後に至り漸く納付したとなし右北原あきえの請求する保険給付の全部を支給しない旨の決定をしたこと、控訴人は右決定に異議ありとして岐阜労働基準局保険審査官の審査を請求したところ同年六月十六日同審査官は控訴人の右申立を認めぬ旨の決定をしたこと、控訴人は更に被控訴人に対し審査請求を為したところ被控訴人は同年十月十一日付を以て控訴人主張の如く控訴人は北原行夫の配偶者北原あきえに対し遺族補償二十万六千三百八十円を支払うべき旨の決定を為しその決定が同月二十六日控訴人に送達されたことは当事者間に争がない。
而して労働者災害補償保険審査会は保険給付に関する決定即労災保険に関し政府が保険給付を為すか否か及支給額に関する決定の当否を審査するのみであつて進んで事業主に対し補償の責を負担させる権限を有するものでないことは労災保険法第三十五条の趣旨に照し明らかである。従て被控訴人が前認定のように控訴人に対し北原行夫の遺族補償費二十万六千三百八十円を同人の配偶者北原あきえに支払うべき旨の決定を為したのはその権限を逸脱した違法があるように一応見えるが、本件遺族補償費葬祭料等労働者の業務上の死亡による補償についてはその使用者は労働基準法により之が補償を為すべき義務があると共に労災保険法の給付があれば労働基準法の補償義務を免れる関係にある。それに本件審査請求は保険受給権利者が為したのではなく、使用者である控訴人が申立てた関係等に照し乙第十号証の審査決定書を通覧すると右決定は主文と理由の区別が明確を欠き主文の趣旨並理由の説明また適切でない憾があるけれどもその趣旨とするところは要するに本件遺族補償費及葬祭料は国に於て給付すべきであるとの控訴人の異議申立に対し国は葬祭料のみを給付するが遺族補償費は給付しない。事業主である控訴人が之を支払うべきであると云うことを表示したものと解し得られるから右審査決定は控訴人の審査請求の一部を認容し他を排斥した処分であると解するのが相当であつて被控訴人の権限外の処分なりと解するのは妥当でない。而して右審査決定は労災保険法に基き貨物自動車運送事業に於ける労働者災害補償保険関係の成立を前提として同事業に従事中発生した北原行夫の死亡に因る保険給付請求に関するものであるから右の保険関係の成立がなければ本件保険給付請求の問題を生ずる余地なく、また控訴人は右北原行夫の業務上の死亡に対しては国に遺族補償費の支払義務あることを主張し自ら利害関係人として被控訴人に対し審査請求を為したものである以上、前記事業に関し事業主たる控訴人と国との間に労災保険法に基く保険関係の成立を前提としなければその主張を維持し得ないこと亦明瞭である。従つて本訴に於て控訴人が右保険関係の不成立を主張することは自ら訴の利益なきことを自認し主張自体で請求の理由なきことを表明する結果となるから控訴人は保険関係の不成立を前提とする主張を為し得ないものと謂うべきである、依て控訴人が労働基準法第七十九条、第八十条に所謂使用者、労災保険法第十八条に所謂保険加入者でないこと並本件事業が控訴人と訴外三浦喜三郎外三名の協同事業で控訴人個人の事業ではないとの各主張は何れも採用することはできない。(尤も控訴人が使用者であることは後記認定の通りである)
次に控訴代理人は仮りに控訴人が本件事業の事業主であるとするも故意又は重大な過失によつて保険料の納付を怠つたものでないと主張するから案ずるに成立に争のない甲第二号証同第五号証、原審証人中神市三、西村栄吉、今枝補佐の各証言、原審並当審に於ける控訴本人の供述の一部を綜合すれば控訴人は昭和二十一年十二月初貸切貨物自動車運送業を営む訴外恵那貨物自動車株式会社から事実上独立し之が営業の免許を受けることなく同会社付知営業所の名義を使用し貨物自動車二台を所有し、自動車運転手北原行夫等を使用し貨物自動車による運送業を経営していたこと、従て控訴人は労働基準法第十条の使用者に、労災保険法第六条の事業主に、その事業は同法第三条の強制適用事業に各該当し、同法第六条により昭和二十二年九月一日右労災保険法が施行されると同時にその事業につき国との間に保険関係が成立したことが認められる。然るに控訴人は爾来本件業務上の事故が発生した昭和二十四年一月十二日に至るまでの間右保険法第二十八条に於て事業主に要求されている概算保険料算定基礎報告書を提出しないのみならず概算保険料を法定期間内に納付しなかつたことは控訴人の明らかに争わないところである。依て控訴人の右保険料の不納付が労災保険法第十八条に所謂故意又は重大な過失による怠納に該当するか否かを考察して見るに、成立に争のない乙第一号証乃至第七号証、同第十一号証乃至第十四号証、原審証人西村栄吉、杉田皆次、今枝補佐、中神市三の各証言を綜合すると、昭和二十二年六月頃から同年八月頃までは所管官庁である岐阜県教育民生部保険課に於て、同年九月一日以降は岐阜労働基準局並その管下の各労働基準監督署に於て労働基準法並労災保険法の趣旨及その手続等を各事業主に周知せしめるため、控訴人の事業場のある付知町を含めて岐阜県下各所に於てポスターを役場其他の場所に掲示し、昭和二十二年七月十日から同月十二日まで、労災保険法施行期日延期に関してと題し新聞広告を岐阜タイムス、岐阜新聞、中部日本新聞岐阜版に順次掲載し、其頃控訴人を含む各事業主に個別に労災保険法施行期日延期に関する通知書を発送し、また各事業主を集めて所管事務係員による巡回説明会同展覧会の開催(付知町に於ては昭和二十二年十月二十三日同町付知小学校で説明会を開催し控訴人にも之が通知を為し同人の娘で事務員をしていた北原かよが之に出席し係員の説明を聴取した)右各法規の解説をしたパンフレツト並その法規集を各事業主に配布(控訴人の娘北原かよにも「最も解り易い労災保険法とその解説」なるパンフレツト一部が配布された)する等の方法によりその周知徹底方を促したことが認められるから労働者を使用し強制加入事業を営み労災保険法施行規則第二十九条により事業主として労働者に該法令を周知せしめる義務を負う控訴人としては前記関係官庁の啓蒙宣伝により労災保険法の趣旨を当然知つていた筈であり、少くとも僅かの注意さえ払えば之を容易に知り得べかりし筈であつたに拘らず漫然之を放置し本事故発生に至るまで前記の如く概算保険料算定基礎報告書はもとより之が保険料納付を懈怠したことは控訴人に故意に非んば重大な過失があつたものと認めざるを得ない、尤も政府は保険加入者が概算保険料に関する報告をしないときは政府の調査により算定した概算保険料を期限を指定して保険加入者に納入を告知しなければならない(同法第二十八条第四項同法施行規則第二十一条)ことになつており、本件につき所管行政庁が右手続を為した形跡は認められないから行政官庁として労災保険法の施行につき万全の策を講じたとは謂えないけれどもこれを以て控訴人の前記懈怠の責任に影響を及ぼすものと為し得ないことは勿論である。右認定に反する原審並当審に於ける控訴人の供述部分は措信しない他に右認定を左右するに足る証拠は何等存しない。而して本件事故は控訴人が保険料を怠納した期間中に生じた事故であることは明瞭であつて斯る場合には労災保険法第十八条に依れば政府は保険給付の全部又は一部を支給しないことが出来ると規定している。右規定の給付制限の範囲並限度は政府の自由裁量に属し特に裁量権の濫用(裁量権の限界超過)と認められない限り行政庁の裁量に一任され裁判所は之を審判の対象と為し得ないものと解するのが相当である。本件に於て被控訴人が北原行夫の業務上の死亡による保険給付請求について右裁量権に基き諸般の事情を斟酌して葬祭料につき保険給付を為し遺族補償費につき給付しない旨の決定を為したことについては裁量権の濫用と認むべき事由は毫も存しないから被控訴人が労災保険法第十八条の規定を適用して前記決定を為したことは固より適法であると謂わなければならない。
控訴代理人は更に控訴人は本件事故により車両を破損し莫大な損害を受け、而も右事故は控訴人の責に帰すべからざるものであるし且つ前例に依れば本件事故の様な事情にあるものは政府に於て遺族補償費を支給して来たものの如くであるから右の事情を参酌し政府に於て右遺族補償費を支給すべきであるに拘らず之を排斥した被控訴人の決定は著しく不当であり違法であると主張するけれども前認定に於て説明した通り労災保険法第十八条の場合の給付制限の範囲限度は特に裁量権の濫用と認められない限り行政官庁の自由裁量に一任されその当不当については裁判所の審査の対象とならないし且つ控訴人主張の様な事情が存するとしても尚裁量権の濫用があるとは認められないから控訴人の右主張は理由がない。然らば控訴人の本訴請求はその理由がないものと謂うべく従て原判決が控訴人の本訴請求を排斥する理由は相当でないけれども他の理由によりその請求を排斥した点は結局正当であるから本件控訴は理由なく棄却すべきである。
仍て民事訴訟法第三百八十四条第二項第八十九条第九十五条を各適用し主文の通り判決する。
(裁判官 中島奨 石谷三郎 県宏)