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名古屋高等裁判所 昭和29年(う)348号 判決 1954年8月30日

控訴人 被告人 西岡友一 外三名

弁護人 森田和彦

検察官 神野嘉直

主文

本件各控訴は之を棄却する

理由

本件各控訴の趣意は被告人等四名の弁護人森田和彦の作成提出に係る控訴趣意書と題する書面に記載の通りであるから茲に之を引用するが之に対する当裁判所の判断は左の通りである

控訴趣意第一点について

先ず原審の昭和二十八年十月二十七日に於ける第一回公判期日の召喚状が被告人伊藤英雄及同恒川長信に対し夫々適式に送達されているかを本件記録に依り調査するに右被告人両名からは公判期日の請書も提出しておらず又同被告人等に対し其の他の召喚手続を採つた形跡を見受けられないよつて本件において被告人に対し適法な召喚手続が執られたかであるが右被告人等は当時原裁判所に近接する代用監獄である名古屋市中警察署に勾留中であつたのであるからその召喚手続は刑事訴訟法第六十五条第三項によつて行われ得るのであつて同項には裁判所に近接する監獄にいる被告人に対しては監獄官吏に通知してこれを召喚することが出来る旨規定するも通知の方式等については何等の定めがないから裁判所が各場合に付相当と認めるところに従い在監人呼出簿への記入電話其の他適宜の方法により前以て通知すれば足りるものと解するを相当とする只本件においては記録上叙上の如何なる方法によつて召喚手続を履践したか明かではないが前記第一回公判調書の記載により右各被告人が同期日に出頭したことは明白であり被告人本人が公判期日に出頭していること自体が右の如き召喚手続が行れたことを示すものと謂うことが出来る而してこの場合に於ては被告人等が監獄官吏から通知を受けた時を以て召喚状の送達があつたものと看做されるのである仮に右解釈を相当に非ずとするも記録によれば被告人伊藤英雄及同恒川長信は昭和二十八年十月二十七日に於ける第一回公判期日に出頭して居り右期日に於て何等の異議をとどめていないのであるから右被告人等は責問権を抛棄したものと見る外はないのであつて之に依つて訴訟手続上の違法が仮にあつたとしてもその違法は治癒されたものと謂うべきである次に被告人伊藤英雄及同恒川長信に付ては弁護人の選任なくして第一回公判期日が開廷され違法な審理手続が行われているかどうかを記録に依り調査すると第一回公判期日に於ては被告人等の人違でないかどうかを確める為の質問のみが行われ検察官は起訴状の朗読に入らず単に関連事件である被告人鏡味寿三外一名に対する賭場開張図利被告事件を被告人伊藤英雄外二名に対する賭場開張図利幇助被告事件に併合して審理されたい旨請求したのみであつて何等実体的審理が行われて居らず原裁判所は要弁護人事件の公判手続を遂行する為被告人伊藤英雄及同恒川長信の弁護人選任を俟つ旨を以て公判期日を続行し其の後第二回公判期日に於て右被告人両名の弁護人の出頭を得た上同弁護人から何等の申立もなかつたので前示両事件の併合決定を為したこと明白であつて之を以て不法に弁護権の行使を制限したものと謂うことは出来ない

叙上説示の如き次第であるから論旨に謂う第一回公判期日の開廷は違法であつてその違法は判決に影響あること明らかであるとの点は理由がない

同第二点について

共同正犯と従犯に関する観念及その区別に関する従来の判例理論は所論の通りであつて要するに共同正犯を以て論ぜられる場合であるか従犯と見られる場合であるかの区別の標準は専ら自己の犯罪を共同して実現する意思であつたか或は他人の犯行の実行を容易ならしめるだけの意思であつたかにあるのであるから単に被告人鏡味寿三が所論のやうに他の被告人等と交替で中盆の役割を担当し被告人西岡友一の偽に寺銭を徴収して同被告人から給金を貰つておつたとして之の事実からして直に賭場開帳図利の従犯を構成するに過ぎないものと推論し難く況や原判決挙示の各証拠即ち原審第四回公判に於ける被告人供述調書中被告人西岡友一の供述記載同被告人の検察官事務取扱及司法警察員に対する供述調書の各供述記載被告人鏡味寿三の検察官事務取扱に対する昭和二十八年十月十六日附供述調書に於ける供述記載及同被告人の司法警察員に対する第一回第三回供述調書に於ける各供述記載を綜合すれば被告人鏡味寿三は昭和二十七年十一月頃以来は親分である被告人西岡友一から賭場を開張する実行行為についての一切の事項を一任せられたので茲に被告人西岡友一と共謀の上原判示日時原判示の房屋を提供して賭場を開張して賭客を集め自己所有の賭具(第四乃至第六号)を使用し自己は中盆となつて博奕を為させ賭客から寺銭名義の下に金員を徴収し右金員は自己及親分である西岡其の他に分配していた事実が認められるので原判決が被告人鏡味に対し原判示第一、第二の(1) 第三の(1) の各事実を認定し之を賭場開帳図利罪の共同正犯に問擬したのは正当であつて原判決には所論のような違法の廉は発見されないから論旨は理由がない

同第三点について

然し乍ら苟も数人相協議して賭場を開帳し利を図ろうと企て右協議に基き相協力して賭場を開張した以上は例令其の中の或る者が右開張中に行われた賭博に際し終始出席しておらなくとも賭場開張罪の共同正犯たる責任を免れることはできないものと謂わなくてはならないのであるが原判決挙示の各証拠を精査すれば被告人鏡味寿三が原判示第三の(1) 記載の如く相被告人西岡友一及原審相被告人尾関誓等と共謀の上同判示の日時場所に於て賭場を開張し賭客を集めて寺銭を徴収して利を図つた事実を認めるに十分である即ち被告人鏡味寿三の検察官事務取扱に対する供述調書に於ける自分は昭和二十七年十一月二十日頃親分の西岡友一が検挙されて以来は同人の代理として博奕仲間との交際をしたり又其の他の用事をしたり時折賭場を見廻つて居り給金として寺銭から分け前を貰つていたが同年十二月十日頃親分が釈放になつてからも引続いて賭場開張の手伝をして居り昭和二十八年七月頃から親分に頼まれて尾関誓と共に中盆をやることになつた賭場は毎日午前七時頃から夕方迄と午後七時頃から午後十二時頃迄と其の後朝迄の三回に亘つて名古屋市中区天王崎町二十七番地と同区笠三ツ蔵町三丁目六番地の二ケ所で開張した同年九月二十八日午後六時半頃右天王崎町の賭場へ行くと尾関誓が居り余り出来ぬと云つたので自分は笠三ツ蔵町の方でやつてはどうかと云うと尾関はそこでやると云い自分に給金として百円くれた同日午後十時頃右賭場へ行くと尾関が中盆となつて客と賭博をやつていたが自分は十分位で外へ出て行き午前零時頃同所へ戻つて来たその時賭奕場の割れたことを知つた旨の供述記載と原審相被告人尾関誓の検察官事務取扱に対する供述調書中自分は昭和二十八年七月頃親分の西岡から頼れて中盆をやることになり鏡味寿三、伊藤若志と交替で中盆をやり客からカスリを取つた之は西岡や私共の給金になる自分は同年九月二十八日午後六時半頃鏡味寿三等と相談した上中区笠三ツ蔵町三丁目六番地のバラツク小屋へ変つて賭場を開帳することになつたのでお客四、五人と一緒にそちらへ行つた同日午後九時半頃十四、五人の客が集つたので自分が中盆となり丁半賭博をやつた寺銭は客に帰り銭を出したので結局百七、八十円あつた丈で鏡味はその場に居なかつたが寺銭の分前は同じ様に出すことになつていた旨の供述記載を綜合すれば被告人鏡味寿三が西岡友一、尾関誓等と賭場開帳図利を共謀し尾関が其の実行行為をなした以上賭場に終始出席していなくとも共同正犯としての責任を負うべく従つて原判示第三の(1) の如く相被告人西岡友一及原審相被告人尾関誓等と意思を通じて賭場を開張して利を図つた事実を認定するに十分であるから此の点に関する論旨は理由がない

同第四点について

原判決に挙示する各証拠其の他原審で取調べた証拠を検討すると、被告人等の本件各犯行の動機、態様、被告人西岡友一を除く爾余の被告人等には夫々原判示冒頭記載の如き法定の累犯加重を為すべき前科がある事実、被告人等の前歴其の他諸般の事情を徴し原審が被告人等に対し夫々原判決主文記載の各刑を科したのは蓋し相当であつて控訴趣意書記載の如き事情を斟酌しても原判決の量刑が重きに過ぎて之を軽減しなければならないやうな資料がないので論旨は理由がない

其の外原判決には破棄しなければならないやうな事由はないから刑事訴訟法第三百九十六條に則り本件各控訴を棄却することとし主文の通り判決する

(裁判長裁判官 羽田秀雄 裁判官 小林登一 裁判官 石田恵一)

弁護人森田和彦の控訴趣意

第一点原判決は判決に影響を及ぼす重大な訴訟手続上の法令違反がある。即ち、被告人伊藤英雄、恒川長信に対する昭和二十八年十月二十七日の第一回公判は、被告人等に公判期日の召喚状の送達もせず且又、弁護人もないままに開廷して公判を為している。

右被告人両名に対しては、昭和二十八年十月十三日に、起訴状謄本と弁護人選任に関する通知並に照会書が送達されているが、公判期日の召喚状が送達されていない。そもそも公判とは検察官が起訴した被告人に対して、その有罪なるか無罪なるかを審理する為、被告人を召喚し、検察官にはその十分なる攻撃をさせ、被告人には弁護人と共に検察官の攻撃に対して十分な防禦の機会を与えんとするものである。然るが故に、刑事訴訟法第二七三条には、裁判長は公判期日を定め、公判期日には被告人を召喚しなければならず、公判期日は弁護人に通知しなければならぬと定められており、刑事訴訟規則第一七七条第一七八条には、公訴提起があつた時は裁判所は遅滞なく被告人に対して弁護人を選任できる旨及国選弁護人の選任を請求するかどうかにつき通知及び回答を求めねばならぬように定められ、被告人の回答がなく、弁護人も選任しないときには、直ちに国選弁護人を選任しなければならぬと定められ、被告人の防禦権を十分発揮させる為に、同規則第一七九条には、起訴状謄本の送達をする前には公判期日の召喚状の送達をすることは出来ない旨及び、第一回の公判期日と召喚状の送達との間には少くとも五日の猶予期間を置かなければならぬと定められている。そして又、弁護人が検察官側の用意している証人の氏名住居を知る機会又は証拠書類の閲覧の機会を与える場合に五日の余裕を置かねばならぬという規定さえもある。これはみな被告人の人権を侵害してはならないという憲法の精神で定められている規則である。然るに原審に於ては、被告人伊藤英雄が昭和二十八年十月十四日裁判所に対して「弁護人は選任する手続中」と回答し、恒川長信が、同日「自分は貧困により弁護人を選任することが出来ませんから国選弁護人の選任を請求します」と回答し、右回答は何れも同日裁判所に於て受領されているにも拘らず、裁判所は右両被告人に対して何ら弁護人を選任することなく、且又、公判期日の召喚状を送達することなく、同年十月二十七日に第一回公判を開廷しているのである。右公判期日に被告人が出頭したのは、勾留中であつた為に、拘置所の看守が被告人を法廷へ連れてきたに過ぎないと想像する外はない。然うして、右第一回公判に於ては、弁護人のないまま、被告人の人定質問を為し、検察官に対しては「本件に関連する被告人鏡味寿三、同尾崎誓に対する賭場開張図利被告事件は当裁判所井上判事係に於て繋属中であるからその事件を本件に併合して審理ありたい」という併合請求を為さしめているのである。他の被告人の事件を併合する事が本件被告人の権利を侵害しないかどうかについては、弁護人の判断が必要であり、右検察官の請求に対しては、当然専門家である弁護人の意見を聴くべき処であり、且又、弁護人としては意見を陳述する処であろう。然るにこの公判は弁護人が居ないまま開廷されているのである。即ち、被告人等は法治下の人間としての取扱いを受けていないのである。かかる違法は許されない。原判決は破棄さるべきである。

第二点原判決は判決に影響を及ぼす重大な事実の誤認がある。即ち、被告人鏡味寿三に対して原判決は判示第一、第二の(1) 、第三の(1) 事実につき夫々賭場開張図利の共同正犯と認定しているが、之は幇助であつて正犯ではない。以下、各項目に分けて論証する。そこで、まず共同正犯とはいかなるものを云うか。幇助との相違は何かにつき論ずる。

(一)正犯と幇助 通説となつている学説判例によれば、刑法第六十条の共同正犯の要件は、まず第一に「二人以上共同シテ」とあり、それは二人以上の責任能力者が相互に相補充し合うという認識を持つている事、即ち相互に共同加工の意思を持ち、その理解を有している事並に現実に共同加工の事実を必要とし、第二に「共同して犯罪を実行」とあつて、実行そのものが、各共犯者によつて分担せられている事、即ち実行分担という要素が必要なのである。然うして第二の実行分担という問題は、判例に於て、その必要なき場合を認めてきているのであつて、「謀議による共同正犯」即ち「共謀共同正犯」なる考え方が存在しているのであるから、まずその点について考えたい。原判決にも「共謀して」という文句が書かれているので、或はこの共謀共同正犯という考え方に立脚しているのではないかと思われるからである。共謀共同正犯というのは、理論的には大部分の有力な学者が認めておらない考え方であり、理論的に我が国の刑法が可罰的犯罪類型に該当する行為を為した者即ち犯罪を実行した者を処罰する趣旨であるが為に、謀議を為して、集団的に一個の犯罪を計画して然も時にはその中の最も重大な地位にある者が計画のみなして、実行は他の人間にやらせたという場合には、その計画者が事実上首謀者であるにも拘らず実行者の教唆又は幇助という従犯としてしか処罰出来ないという事実を何とか防止して、国家的見地からそれを正犯として罰したいという要求から発生してきた考え方なのである。従つて元来謀議を為しており、意思的には完全に犯罪に参加している者を処罰する目的を有するものであつて、近時、次第にその拡張解釈が行われ、智能犯のみならず実力犯にも適用して、実行行為としては見張しかしていない者に対しても共謀の事実があれば、それを以て共同正犯の責任を負わしめるというのである。これ、判例の今日まで一貫せる態度である。然も判例の云う処によれば、「共謀」とは「数人相互の間に共同犯行の認識があることをいう」(最高第二小、昭24・2・8)とあり、又、「共同加工の意思即ち犯意の連絡があると認め得る場合であり」、予め通謀した事実は必要でない(最高、第三小法、23・12・14・仙台高、第一刑、24・12・20)と云われているのである。かくして、最早刑法に規定してある「幇助」という犯罪は有名無実、その存在の理由を失つたと云つてよい結果になつてきているのである。然し作ら、幇助犯は刑法上に現存している筈であり、又幇助を以て処罰せられる者も現存しているのであつて、正犯で処罰せられるか幇助で処罰せられるかが単に検察官によつて正犯で起訴されるか幇助で起訴されるかの一方的な事務処理の仕方で決定せられているのを放置する事は、基本的人権を尊重する憲法の建前から云つても許されない処である。依つて、判例の中から、比較的わかり易い表現のしてあるものを選び出して考えたい。「数人が相協力して各々自己の犯罪を実現する意思をもつて犯罪を行うもので、正犯者各自の行為は自己の為にすると同時に、他の正犯者のために奉仕し、又他の正犯者の行為は、これを自己の犯罪を実現するために利用するものである。」(東京高、第十二刑、25・3・4)右によつて、前述の「共同犯行の認識」とか「共同加工の意思即ち犯意の連絡」というのは「自己の犯罪を実現する意思」でなければならぬ事が明確されるのである。然らば、本件はどうかと云うと、西岡被告を除く他の被告はすべて自己の犯罪を実現する意思を以て本件犯行を為したものではないのである。即ち、被告人等渡世人の社会に於ては誰でも自由に賭場を開張し得るものではなく、親分と乾分又は若衆と呼ばれる者の間に一定の権力関係があり、秩序が存在しているのであつて、所謂仁義とか義理とかの権力に結びついた道徳律が現存し、参考人鈴木明治郎の供述調書、西岡被告の供述調書又は他の被告の供述によつて明かである通り、伸ノ町の費場所と称せられるものは、以前鈴木明治郎が親分として絶対的な賭場開張図利の権限を持つていた処であり、それを西岡被告が譲り受けて以後は、西岡の権限に属する場所とせられたのであり、西岡被告の供述書にある通り、同人が「伸ノ町の若の盆と称して、若衆を使用して賭場を開張し、そのカスリをとつていた」のであり、又、同人の云う如く「私がこの費場所を預つている以上私が開張して若衆にやらしておる事になつているのでありますから家に寝ていてもそのカスリは私の処へ入つてくるのであります」というのであつて、賭博場にする為にバラツクを天王崎町に買入れ、又若衆を使用して、その給金を支払つて開催されたものである。従つて、西岡被告にとつては自己の犯罪であるが、他の被告にとつては自己の犯罪ではなく、親分西岡の行つている開帳図利の行為に対し、その容易に行われ得るように幇助したものである。判例は尚、次の如く親切に説明したものがある。(東京高、第十二部、24・12・22)「数人が各々自己の犯罪を実現する意思を相通じ互に他人の行為を利用して共同して犯罪を実現するものであるが、従犯は、他人の行為を利用して自己の犯意を実現させる意思なく、他人の犯罪を幇助ずる意思を以て実行行為以外の行為を以てこれを幇助するもので、両者区別の標準は専ら自己の犯罪を共同して実現する意思であつたか或は他人の犯罪を幇助するだけの意思であつたかにある。」と云うのであつて、これらの判例の理論を整理してみると、共同犯行の意思を連絡し相通じて実行行為を為した者は問題もないが、実行行為を為さなくても自己の犯罪を実現する意思を以て相補充し合い、利用し合う場合には共同正犯である。と云うのである。然うして、他人の為に実行行為を為す場合、例えば人に頼まれて殺人を犯す場合が、これでは幇助になつてしまうので、そこで続いてかう云つている。「この場合、他人の犯罪か自己の犯罪かという区別は単に他人のため或は自己の為というのと異なり実行行為を離れて観念することはできないので、他人のためにしたのでも実行行為をすれば即ち自己の犯罪なのである。」-と。

即ち、共謀共同正犯の理論を以てすれば、たとえ、犯罪そのものは実行していなくてもそれを正犯として処罰するという事になつて、ここに従犯は総て正犯となるという誤りが生ずる事となり、それを救う為に、共謀の意思を自己の犯罪の為と他人の犯罪の為と分類して、尚且、他人の犯罪の為と云えば、主観説をそのまま受けついだ事となつて他人の為ならば実行行為を為してもそれは幇助という従来の学者の非難が、そのまま該当する処から、再び「実行行為」という概念を持ち出してきたものである。これをわかり易く云えば、被告人鏡味寿三は中盆をやつたのであるから、これが幇助と云えるかという事である。

原判決では伊藤英雄、伊藤清磨、恒川長信を実行行為の分担をしていないという事で、幇助としているのであるから、つまり、この三人の被告並に鏡味、尾関も含めて、給金を貰つてやつていた連中は、共謀共同正犯の理論に従つても、他人の犯罪の為に行為したもので、自己の犯罪の為に行為したものでないと認めているのである事がわかるのである。従つて鏡味、尾関の両名が共謀とせられたのは結局実行行為の分担という要件、共謀共同正犯論をとる判例の理論からは他人の為の犯罪としても実行行為を為したものかどうかという問題になつてくるのである。従つて前述の如く、共同加工の意思の外に実行行為の分担という問題は、この共謀共同正犯の理論に於て、同時に之を検討しなければならぬ事となり、従つて又、実行行為を論ずる為には、個々の犯罪類型について夫々その構成要件を論じなければならぬのである。

(二)賭博場開張図利罪の概念と特質(大審昭、15・9・26)「賭場開帳ノ罪ハ賭博場ヲ開張シテ利ヲ図リタル行為ニ関スルモノナルヲ以テ苟モ偶然ノ輸贏ニ関シ財物ヲ以テ博戯又ハ賭事ヲ為ス設備ヲ為シ因ツテ財産上ノ利益ヲ獲得セントスルモノハ賭場開張罪ヲ以テ論スベク現ニ其ノ賭博場ニ於テ博戯又ハ賭事ヲ為シタル者アルト否トハ之ヲ問フノ要ナキモノトス。従テ賭博行為ニ著手シタルコトヲ前提トスル所論ハ排斥セサルヲ得ズ」という判例がある。更にわかり易い最近の判例では、

(最高、第二小法、昭24・6・18)「賭場開張の罪は、利益を得る目的をもつて、賭博を為さしめる場所を開設する罪であり、その利益を得る目的とは、その賭場に於て賭博する者から寺銭、または手数料等の名義をもつて、賭場開設の対価として、不法な財産的利得をしようとする意思のある事をいう。(最高、第一小法、昭25・9・14)「賭場開張図利罪は自ら主宰者となり、その支配の下に賭博をさせる一定の場所を提供し、寺銭入場料等の名目で利益の収得を企図することによつて成立する」この判例及び、明治以来今日までの沢山の判例で確定されてきている賭場開張図利罪の構成要件は利益の収得を目的として、賭博を為す場所を設ける事なのであり、現実にそこで賭博を為した者があるか否かを問わず、現に利益を得たかどうかを問わず、又、現に賭博者を誘い召集したかどうかを問わないのである。従つて、本罪は、実行行為というものが、現実に賭博を為し利益を得た、即ち寺銭(カスリ)を収得した事なのではなくて、賭博を為すべき場所を設けた事が実行行為となり、それに、利益を得んとする主観的違法要素が加わつていればよいという事なのであつて、これが、他の窃盗とか強盗とかの犯罪類型と全く異なつておる一大特色なのである。

(三)鏡味被告の行為は幇助である。この者の行為は所謂「中盆」といわれる事なのであつて、それは、賭客が集ると、その客の中から誰か一人が親となつてサイコロを壺に入れて振り、それをふせるのであり、それに対して中盆は「張つた張つた」と声をあげて客が金をかけるように勧誘するのである。そして丁へ張つた者と半へ張つた者との賭金が一致したら、そこで「勝負」と声をかける、すると親になつている者が、壺を開け、出ているサイコロの目で丁か半かが決まり、中盆は負けた者の金を勝つた者へつけてやり、又、一、六の半と二、六の丁の時に、勝つた者のとるべき金の五割を寺銭として取つて、寺箱の中へ入れるのである。そして親分からは給金を貰うのであり、寺銭のわけ前を貰うのではないのである。この行為は、前に述べた賭場開張図利罪の構成要件には全然該当していないのである。

即ち、この中盆は何回でも交替するものであり、現に被告らも交替してやつているのであり、見張などをしていた者でも、交替してやる事もあるのである。寺銭をとるではないか、それが図利だと云われるかも知れないが、前に述べた構成要件として利益を計る意思は主観的違法要素として主宰者に具つているべきものであり、鏡味は自分の懐へ入れる為に寺銭をとつていたのではなく、それは主宰者である親分の懐に入るべき金であり、ただ客から受けとつて箱の中へ入れるという行為をしていたに過ぎない。

従つて、天王崎町や笠三ツ蔵町に於て賭博場を開設した時を以て既に既遂となり完全に犯罪の成立している賭博場開張図利罪に対し、それを容易ならしめたものであつて、この鏡味の行為は、他の伊藤両名と恒川被告と同様に、「他人の犯罪を幇助する意思を以て実行行為以外の行為を以つて之を幇助したもの」という従犯の要件に完全に該当するのである。然らば、何故鏡味寿三、相被告人尾関の両名が、西岡親分と共謀という事で、共同正犯として起訴せられたのであるか。

それについて、次々と逮捕され、次々と起訴され、最後に西岡被告が起訴せられた本件の経過を述べて以て参考に供したい。

即ち、八月六日の事件については、鏡味が独りで、自ら開張したと主張して、西岡親分には全然追求の手は延ばされず、無事に鏡味のみが起訴せられて、この事件は解結してしまつたのである。処が、九月二十八日に再び賭場が割れて、最初のうちは伊藤英雄が直ちに自ら開張図利の主張を為し、一応、捜査もその時逮捕せられた賭客に対して伊藤英雄が開張して中盆をやつていたかという線に進められたのであつたが、お客達の供述によつて鏡味や尾関の名前が出、伊藤英雄では責任者として駄目だという事になつて、ここに鏡味と尾関が出頭して起訴される事となつたのである。処が、お客全部の供述からこの仲ノ町の若の盆というのは西岡友一の盆であり、西岡がこの一帯を費場所として預る親分である事が明白な事実となつて現われ、且、前の親分であつた鈴木明治郎の供述によつて西岡友一に跡目を譲つた事、そして西岡が開帳して寺銭を徴収している事が明確にされた為に、警察も、それのみの原因でなく、他にも色々事情があつた様子であるが、遂に最後まで追求する事となり、西岡被告もそれならば、他の被告達を救う為に、責任をとろうとして出頭し、十一月七日に至つて、全部の犯罪事実について起訴されたのである。全被告について、五回にわたつて起訴されてきたのであるが、西岡被告が起訴された以上は、鏡味、尾関の正犯としての起訴は、幇助に変更されて然るべきものと思われるのであるが、それを以前に起訴されたままで、この裁判を受ける事となつたのである。若し、一番最初に西岡被告が起訴されていたら、恐らく鏡味尾関の両名は、起訴されなかつたが、又は、他の三名の者と同様に幇助で以て起訴されたのではなかろうかと思うのである。以上述べた様に、原判決が被告人鏡味寿三に対して共同正犯を以て認定したのは事実誤認であるから破棄されなければならない。

第三点原判決は被告人鏡味寿三に対して、判示第三の(1) の事実につき証拠なくして有罪と認定した違法があり、破棄を免れない。即ち判示第三の(1) の事実につき、被告人鏡味寿三に対して賭場開張図利罪と認定しているが、判決に表示してある全証拠を精査するも同人が昭和二十八年九月二十八日午後八時頃より翌二十九日午前零時頃迄の間、賭博場に於て開張図利を為したという証拠がない。被告人は賭博場に於て親分である相被告人西岡友一の為に、何かの手伝いをしなければ給金は貰えないのであるが、当夜は、客に来ていて逮捕された者、又その他の関係人の供述を見ても被告人鏡味が、中盆の役をしたとか、その他手伝いをしたという事実はない。同人は他へ用事があつて外出したままの留守中の事であつて、全然関係をしていない。証拠なくして有罪とする事の違法なるは論ずるまでもない。よつて原判決は破棄を免れない。

第四点原判決は量刑不当であつて破棄されねばならぬ。凡そわが国は世界各国に比し、極めて広範囲にわたつて賭博関係の処罰を為している。その有罪者は全有罪者中の多数を占め、検挙されなかつたものも加えれば違反者の数は想像もつかぬ程多いのである。これ、賭博行為は人種の差を問わず、人間性の自然である事を示している。一方、現下の状態を視るに、政府都道府県が自ら「競馬」「競輪」の主催者となり、国民をして金銭を賭けしめ、その中から一定の割合の金銭を徴収して、賭場開張図利と本質的に何らの異なることなき行為を為し、又、「宝くじ」の宣伝これ努めて国民をして之に金銭を投ぜしめ射倖心、投機心を煽つている現状である。然かも街中いたる処でパチンコ屋が営業を許され、一般大衆が連日連夜、相当多額の金銭を賭けている。競輪、競馬で財産を無くして自殺した記事は屡々新聞に見られるのであり、又、法廷に於てもパチンコが原因で犯罪に陥つたという者もよく見るのである。かかる事実を背景として本件を考えねばならない。市内各所に開張せられている他の賭場に於ては一晩に何万という寺銭があるという盛んな現今、この仲ノ町の若の盆と称せられていた本件賭場は、費場所の範囲から云つても極めて小さなものであり、一人一回の賭金が、十円からかけられるというのであつて、全くのコヂキ博ちと云つてよいものであり、集つてくる連中も、まさにその辺のルンペン同様の者が多く、金を沢山持つた素人のいはば博ちなど知らなくて済むお客をひつばり込むなどという事は全然なく、本当に好きなその道の連中が、僅かな金を持つてきて、パチンコをするのでも知れた程の金でゆつくり楽しまうと思つてやつてくるという性質のものであつたのである。従つて、寺銭と云つても、一晩にせいぜい数百円か、多くて千円か二千円の僅かなものである。然も国家が賭博を罰する趣旨として、とかく賭博が他の犯罪の温床となる虞れがあるという理由が存するのであるが、本件に於ては、ささやかな賭場を開いて、好きな連中を遊ばせると共に僅かな寺銭を得ているに過ぎないものであつて、逆に、一銭の金もなくいはばすつかり喰いつめてしまつて明日からは窃盗でも犯すより生きる方法がないと云つた様な人間でも、西岡被告は飯代を与えて置いてやるといつた、いはば犯罪を未然に防ぐような結果すら現出している位であり、又、世間では親分子分とか、博ち打というと、往々にして傷害とか暴行、恐迫とかの犯罪を背後に予想しかちであるが、本件被告らには全然その様な事がなく、ただ単に賭博から生じた金で生活するというだけの人間であつたのであり、いわゆる町のダニとかネオンの虫とか云われている連中とは全然類を異にしているのである。(一)被告人西岡友一 右の者については一応親分と云われているのであるが、その子分と云うべき数人の連中との間にも別に講談や浪曲でせるような親分子分のサカズキをかわすなどという事はなく、頼つてきたり賭場へ遊びに来て一銭もないから置いてくれと云つた連中を面倒をみていてやる、そのうちにそういう人達が仲間からは若衆と見られるようになつたという種類のものであつて、賭博以外に他の犯罪を犯すという事もなく、近所の評判もよい人間である。然うして、本件に於ても、大金を儲けたという事もなく、調書によつて明かである如く、僅かな金を得て、それをも、自分の為ばかりに使うというのではなくて、生活に困つた連中の面倒をみてやつていたのである。普通賭場開張図利では親分が自分から出て来て刑を受けるという事は余りない事なのであるが、西岡被告は自分が責任を負うべきものであつて、他の被告人等は自分が使つていた者であるから責任はないと云つているのである。(二)被告人鏡味寿三 右の者は、前述の如く、西岡親分の身代りに出頭した事が原因で起訴されてしまつたのであつて、然も西岡被告も起訴されて、鏡味被告の所期の目的は水泡にきしたのである。同人には六人の子があり、長男は工員として通勤していた処、胸を悪くして入院中であり、財産とて何もなく、やつと西岡親分の処に居て、その手伝いをする事によつて、かろうじて生活を維持する事が出来たのである。今度は西岡被告も服役せねばならず、家族の者は非常に生活に困窮する事となるのである。然も判示事実のうち一件は無罪、他は幇助罪と認定さるべきものである。(三)被告人伊藤英雄 右の者は、賭博場に出入するようになつてからまだ数ヶ月もたつていないもので、賭博に関する前科もなく、妻と十二才の子供と三人暮し、財産とては何もなく、賭博場の下足番や見張をしたりして僅かな賃銀を得てやつと生活しているものである。改悛の情も顕著である。(四)被告人恒川長信 右は、以前脳を病み、普通人の仕事も満足に出来ない有様で、妻子五人の生活を維持する為に、戦後、賭場の見張をするなどの手伝いをして、やつと僅かな小使銭を得ていたものである。財産は全然無い。以上の情状を見るに、原判決の被告人等四名に対する量刑は重きに過ぎて妥当でない。殊に鏡味被告の懲役六月は相被告人尾関誓に対する懲役四月に比し不当である。よつて原判決はこの点を以て破棄さるべきものと思料する。

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