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名古屋高等裁判所 昭和30年(う)413号 判決 1956年4月19日

控訴人 被告人 端地整爾

弁護人 田村稔

検察官 神野嘉直

主文

原判決を破棄する。

被告人を懲役三年に処する。

原審に於ける未決勾留日数中百五十日を右本刑に算入する。

本裁判確定の日から五年間右刑の執行を猶予する。

押収に係る短刀一口(証第四号)は之を没収する。

原審及当審に於ける訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

弁護人田村稔の控訴の趣意は同弁護人作成名義の控訴趣意書及同補充書に記載する通りであるから茲に之を引用するが之に対する当裁判所の判断は次の通りである。

控訴趣意第一点について

被告人が刑事責任を科すべき殺意を有していたかどうかの点を除き原判示の如き犯行を為したことは原判決挙示の各証拠により明白である。而して論旨は被告人は本件犯行当時心神喪失の状態にあつたから本件は心神喪失者の行為として無罪である旨主張するのでこの点につき審究するに被告人の検察官に対する第一回乃至第七回供述調書並原審及当審の証人端地志かのに対する各証人尋問調書中の供述記載によれば被告人は原判示の如く昭和二十八年二月頃からヒロポンの施用を知り同年八月頃その中毒患者となり幻覚妄想等の症状を呈するに至つたので医療を受けると共にヒロポンの施用を中止した結果一旦治癒したが生来忍耐性乏しく家庭に居住するのを好まず同二十九年三月頃家出を為し其の後諸所を転々の上同年五月下旬姉隆子の結婚先である原判示松田静児方に至り同家に寄寓中同年六月五日頃塩酸エフエドリンの水溶液を自己の身体に注射しその結果中枢神経が過度に興奮し幻覚妄想を起し自己及端地一家が世間から怨まれて復讐されるが如く思惟して生甲斐なく感ずると共に厭生観に陥り先づ自己の身近におり日頃最も敬愛する姉隆子を殺害して自殺しようと決意し同月七日原判示の如く短刀を以て右隆子を突刺し同女を死に至らしめたことが明であるが被告人が右の如く隆子を殺害する決意をしたことが果してその自由なる意思決定の能力を有しないから右の如き決意をしたかどうかを考へると原審鑑定人医師今井泰清同中野啓次郎当審鑑定人医師三浦百重各作成名義の鑑定書並原審証人今井泰清同中野啓次郎に対する各証人尋問調書の各記載を綜合すれば被告人は生来異常性格者でヒロポン中毒の為その変質の度を増し本件行為当時は薬剤注射により症候性精神病を発しおり本件犯行は該病の部分現象である妄想の推進下に遂行されたものであつて通常人としての自由なる意思決定をすることが全く不能であつたことを認めることが出来るし以上の各証拠を信用出来ない事由は一として存在しないので被告人の本件犯行の殺意の点については法律上心神喪失の状態に於て決意されたものと認めざるを得ない。果して然らば本件犯行を心神喪失者の行為として刑法第三十九条第一項により無罪の言渡を為すべきか否かにつき更に審究するに薬物注射により症候性精神病を発しそれに基く妄想を起し心神喪失の状態に陥り他人に対し暴行傷害を加へ死に至らしめた場合に於て注射を為すに先だち薬物注射をすれば精神異常を招来して幻覚妄想を起し或は他人に暴行を加へることがあるかも知れないことを予想しながら敢て之を容認して薬物注射を為した時は暴行の未必の故意が成立するものと解するを相当とする。而して本件の場合原審証人西光一に対する証人尋問調書並被告人の検察官に対する昭和二十九年六月十七日附及同月二十五日附各供述調書の各記載に依れば被告人は平素素行悪く昭和二十八年一月頃からヒロポンを施用したが精神状態の異常を招来し如何なる事態となり又如何なる暴行をなすやも知れざりし為に同年八月以降之が施用を中止した処翌二十九年六月五日頃原判示西光一方に於て薬剤エフエドリンを買受け之が水溶液を自己の身体に注射したのであるが其の際該薬物を注射するときは精神上の不安と妄想を招来し所携の短刀(証第四号)を以つて他人に暴行等如何なる危害を加へるかも知れなかつたので之を懸念し乍ら敢て之を容認して右薬剤を自己の身体に注射し其の結果原判示の如き幻覚妄想に捉われて同判示日時前記短刀を以て前記隆子を突刺し因て同女を死亡するに至らしめた事実を認めることが出来るから被告人は本件につき暴行の未必の故意を以て隆子を原判示短刀で突刺し死に至らしめたものと謂うべく従つて傷害致死の罪責を免れ得ないものと謂わなければならない。従つて原判決が被告人の前記犯行を殺人罪とし当時被告人は心神耗弱の状況にあつたものと認定したのは証拠の価値判断を誤り採証の法則に反し事実を誤認した違法がありこの違法は判決に影響を及ぼすものと謂わなければならない。論旨は理由がある。

よつて爾余の論旨に対する判断を省略し刑事訴訟法第三百九十七条第三百八十二条に則り原判決を破棄するが本件は原裁判所及当裁判所に於て取調べた証拠により当裁判所に於て直に判決するに適するものと認めるから同法第四百条但書により当裁判所に於て判決する。

罪となるべき事実

被告人は三重県立木本中学校を中途退学してから自宅に於て農業の手伝を為していたがその頃不良の徒と交友し昭和二十八年二月頃からヒロポンの施用を覚へ同年八月頃その中毒患者となり幻覚妄想等の症状を呈するようになつたので医療を受け且ヒロホンの施用を中止した結果一旦治癒したが生来忍耐性乏しく同二十九年三月頃家出を為して名古屋市に到り叔父の営む製函業を手伝つていたが永続せず同年五月十二日頃津市に赴き刃渡約十三糎の白鞘短刀一口(証第四号)を買求め之を携帯して諸所を転々の上同月二十二、三日頃姉隆子(当時三十年)の結婚先である熊野市井戸町八百九十四番地農業松田静児方に到り農業の手伝を為して暫く同家に寄寓中同年六月五日頃ヒロポンを施用する時は再び幻覚妄想等の中毒症状を起し或は所携の前記短刀で他人に暴行等危害を加へることがあるかも知れないことを予想し乍ら敢て之を容認して同地で入手した塩酸エフエドリン粉末〇、二五瓦位を水溶液として三回に分けて自己の身体に注射した結果中枢神経の過度の興奮を招来し之が為ヒロポンの残遺症状を急激に誘発して幻覚妄想等を起し端地一家が世間より怨まれて復讐されるが如き幻覚妄想に捉われ極度の厭生観に陥り自由なる意思決定を為す能力を喪失した意識状態の下に先づ姉隆子を殺害し自己も亦自殺しようと決意し同月七日午前一時三十分頃同女の居室に這入り所携の自己所有の前記短刀を以て就寝中の右隆子の頭部背部等を数回突刺し同女をして胸部の貫通切創を伴う刺創に因り間もなく同所に於て死亡するに至らしめたものである。

証拠

証拠の部に左の証拠を追加する外は原判決と同一であるから茲に之を引用する。

追加する証拠

一、当審鑑定人医師三浦百重作成名義の鑑定書

一、当審証人端地一善端地志かの松田静児西光一片岡千鶴子に対する各証人尋問調書

法律の適用

法律に照すと被告人の判示所為は刑法第二百五条第一項に該当するから所定刑期範囲内に於て被告人を主文第二項掲記の如く量刑処断し同法第二十一条に則り主文第三項掲記の如く未決勾留日数を本刑算入を為し情状刑の執行を猶予するを相当と認めるから同法第二十五条第一項に則り主文第四項掲記の期間右刑の執行を猶予して主文第五項掲記の物件は本件犯行に供した物件で被告人以外の者の所有に属しないから同法第十九条第一項第二号第二項に則り之を没収すべく原審及当審に於ける訴訟費用は刑事訴訟法第百八十一条第一項本文に則り被告人をして之を負担させることとし主文の通り判決する。

(裁判長判事 小林登一 判事 栗田源蔵 判事 石田恵一)

弁護人田村稔の控訴趣意

一、原判決には事実の誤認があつて其の誤認が著しく判決に影響を及ぼすから破棄を免れざるものと信ずる。原審は被告人の本件犯行当時の精神状態につき心神耗弱の状態にあつたものと認定して居るがこれは誤りであつて犯行当時に於ては被告人は心神喪失の状況に在つたものである。即ち鑑定人今井泰清及び同中野啓次郎の各鑑定書の記載によればその鑑定の結果は何れも犯行当時の被告人の精神状態は心神喪失の状況であつたとあり原審が被告人が心神耗弱の状態にあつた点に関し採用したる鑑定人中堀正の鑑定書の記載を見るも直ちに以て心神耗弱の状況にあつたと断定するには早計である。まして本件は殺人の動機が認められないのであつて動機なき殺人罪を認むるには他の場合なら兎に角被告人の心神状態が問題である以上被告人が犯行当時是非善悪の判別が無かつたと解するが正当であると思ふ。

二、原判決は刑の量定が重きに失するから破棄さるべきである。

原審は被告人に対し三年の実刑を科した。然し乍ら原審の判示の内容に依つても仮に心神耗弱なりしとしてもその程度は頗る高度のものである。従つて実刑を以て望むは余りに酷である。よろしく刑の執行を猶予して然るべきであると信ずる。

補充趣意

一、趣意書中事実の誤認の点であるが即ち原審は被告の本件犯行当時の精神状態は心神耗弱状態にあつたと認定しその認定の根本的基礎証拠として鑑定人中堀正の鑑定意見を採用し鑑定人中野啓次郎同今井泰清の意見を排斥しておる。依つて右三名の鑑定書の記載内容につき検討するに中堀鑑定人は被告が西光一より譲渡され静注せし薬剤をヒロポンと断定してその上に立ちて鑑定して居る。然るに右薬剤はヒロポンに非らずして塩酸エフエドリンであつた。従つてこの点に於て既にこの鑑定意見は採用するに由なし。又原審証人としての同人の証言も自己の鑑定書の内容について自己の意見を述べたに過ぎずしてこの薬剤がエフエドリンでありし場合には一切ふれていない。

原判決はその理由に於て被告が塩酸エフエドリン粉末〇、二五を適宜水溶液として三回に分けて自己の身体に注射した結果中枢神経の過度の興奮を招来しこの為めヒロポンの残遺症状を急激に誘発し幻覚を生じ之に伴つて被害妄想を起し云々と判示して居るが之は今井、中野両鑑定人の鑑定内容の記載にもとづくものであつて中堀鑑定人はエフエドリンを体内に注入したるものとの事実に於て鑑定していない。それに拘らずエフエドリンを使用せし点は今井、中野両鑑定人の鑑定の基礎を採用しその結果被告人の犯行当時の精神状態に及ぼしたる結果即ち犯行当時の被告人の精神状態の鑑定結果は中堀鑑定人の鑑定意見を採用したる矛盾がある。かかる矛盾が原審が被告人の犯行当時の精神状態を心神耗弱と誤認したるものと云わざるを得ない。

又中堀鑑定人の鑑定書に依れば同人が心身喪失と断定することに対して一点の疑義を抱く理由として(1) 犯行時意識が清明であつたこと、急性薬品中毒等では幻覚妄想等と共に意識障碍が現れその為め又一層是非弁別の能力も障碍されるのであるが端地の場合意識の障碍が全然認められないと論じて居るが之がそもそもの誤りである。蓋し中堀鑑定人の鑑定は被告人が注射したる〇、二五の薬品をヒロポンなりと断定しての鑑定であるから急性薬品中毒の場合の症状を論じておるが之はエフエドリンであつてヒロポンではない。従つて今井、中野両鑑定人所論の如く又原判決判示の如くエフエドリン〇、二五を注射した結果中枢神経の過度の興奮を招来しこの為めヒロポンの残遺症状を急激に誘発し幻覚を生じたのが事実であるから中堀氏の所論の如く急性薬品中毒では意識障碍が現われるとの点は急性中毒でなく残遺症状が出た場合には当てはまらない。又中堀氏は(2) 端地が意志薄弱気分易変症の異常性格者であり過去に於て高度のヒロポン中毒に罹患し現在もヒロポンに対する嗜癖の存在が認められ且つ注射の薬剤はヒロポンを主成分とすることは殆ど間違いなくヒロポン注射により今後故意に犯行が繰返される憂れのあることを喪失と断定出来ない理由として居るが之は何等理由とはならない。即ち注射の薬剤はヒロポンではなかつたことヒロポン注射に依り今後故意に犯行がくりかへさる憂れありと云つて居るが故意とは何んぞや即ち鑑定人が敢へて故意なる字句を使用したことは鑑定人の鑑定結果たる心身喪失に非らずして耗弱なりしとの結論に立脚したる議論であるから論ずるに足らない。又同鑑定人は(3) に於て自供「自分は死んだら世間の人に抗議が出来んやろうと思つて自殺を思い止つた」ことを初め注射直後から友人或は義兄実姉に対し何故悪口を言われるか又復讐され様としているかと繰返し尋ねた事実より幻聴妄想に対し懐疑的批判的であつたことはヒロポン中毒の一ツの特長とされているが責任能力を論ずる場合に分裂病の際の絶対的な妄想観念に比して多少差別をつけるべきでないかと思ふと述べて居るがかかる意見が正しきものとすればヒロポン中毒の場合絶対的に心身喪失の状態が起り得ないことになる。

又被告人の場合犯行直前には多少懐疑的批判的の余地があつたとしても中毒症状は急激に上昇して居つたのであるから直ちに以て被告人の精神状態が尚犯行時に懐疑的批判的の状態にあつたとは言へない。又同人は(4) に於て自供「短刀がなかつたら殺さなかつたと思ふ」より短刀の存在は彼の殺意決行をある程度助長したものと思われると述べて居るが之は被告人が正常の精神状態に立ちかへつてからの自己の判断を述べたものであつて心身喪失の状態になかつたことの判定理由とはならない。要するに中堀氏の鑑定は他の二人の鑑定に比し著しく医学的でなく学理をはなれたる自己の想像を交じへたものであつてこの想像的の最後の鑑定結果を原審は採用して居るのである。依つて証拠として採用するに足らない。

以上論ずる処に依り原審が中堀鑑定人の鑑定結果に依存し事実の認定をなしたるは明らかに採証の法則を誤つた結果事実の誤認を招来したものであつて犯行当時の被告人の精神状態は完全なる心身喪失の状態であつたとの中野、今井両鑑定人の鑑定結果が正しきものであると断ぜざるを得ない。依つて破棄を免れざるものと信ずる。

二、再鑑定の申請

(1) 両鑑定人とも被告人の意志薄弱等の異常性格に中毒症状が加り分裂症状を呈したと断じ乍ら中野啓次郎鑑定人は意識清明であつても妄想のまま行動することがあると断じ中堀鑑定人は被告人の犯行当時の心神状態を心神喪失の一歩手前だと鑑定しその根拠を被告人の意識清明であつた点に於いて居るが両鑑定人とも意識清明であつた点は認めながらこの様に結果が相違して居る点に関し再鑑定を求める。(2) 今井、中野、中堀三鑑定人の犯行時の被告人の精神状態についての鑑定結果の何れが正しきかを本件記録一切の証拠を参考として鑑定を求める。

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