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名古屋高等裁判所 昭和31年(う)726号 判決 1960年12月03日

本籍並びに住居

岐阜県美濃市極楽寺八百四十五番地

農業

梅田正生

明治四十二年一月一日生

右の者に対する尊属殺人、殺人被告事件について、昭和三十一年五月三十日岐阜地方裁判所が言い渡した無罪の判決に対し、原審検察官高橋雅男から適法な控訴の申立があつたので、当裁判所は、検察官吉安茂雄の出席のもとに、審理をし、次のとおり判決する。

主文

本件控訴を棄却する。

理由

検察官の本件控訴の趣意は、岐阜地方検察庁検察官高橋雅男名義の控訴趣意書に記載されたとおりであり、これに対する答弁は、弁護人塚本義明、同林千衛、同山田丈夫名義の答弁書に記載のとおりであるから、ここにこれを引用する。

右検察官の控訴の趣意は、原判決は、本件公訴事実について、犯罪の証明が十分でないとして、無罪を言い渡したが、その原判決は公訴事実中、藍見郵便局宿直室において、被告人の父梅田小兵衛、母しず、長男幸夫の三名が他殺により惨死した事実は認められるが、本件惨死が被告人の殺害行為に因ることを認める証拠として、被告人の司法警察員、検察官および勾留裁判官に対する自供調書と目撃証人古田定夫の証言があるが、前記自供調書の供述内容について、

(一)  被告人の自白内容は、一貫性を欠き、動揺し、また、符合しつつも、内容平板で、生彩に乏しく、確定的といえない。

(二)  被告人の脱出経路は裏出口から便所の方へ出て、南側板塀の入口から帰つたという点において、司法警察員の検証調書の記載事実と合致しない。

(三)  被告人の便所の蓋の点に関する供述は、不可解にして、疑問の残る供述である。

(四)  大便所窓からの侵入の自供は一応検証調書の事実に符合するが、その供述は、平板すぎて、なるほどと首肯せしめる供述があらわれてもしかるべきではないか。

(五)  殺りく行為に関する被告人の自供は余り簡単すぎる。

(六)  犯行後、宿直室南窓のカーテンを引いたという点に関する被告人の自供は、疑点の多い、不明瞭、不充分のものである。

(七)  手袋の点について、被告人は、軍手をはめたことを認めて、指紋を残さないようにするためであると供述しているが、侵入口の点、カーテンの点についての供述と比較し、不審を覚えさせる。

(八)  宿直室内の電灯落下の点に関する被告人の供述も、本件兇行犯人の供述としては、生彩を欠き、不明瞭である。

(九)  兇行に着用したと被告人が自供する黒色作業衣につき、その存在に疑が持たれ得る。

(十)  兇行に使用したと自供する日本刀についても、疑が存する。

(十一)  殺害の動機に薄弱なところがある。

(十二)  兇器、着衣等の埋没に関する被告人の供述も疑問なく採用に値するというものではない等と判示して、その任意性および真実性について、疑ありと認定している。また、目撃証人古田定夫の証言について、その内容を検討し、

(一)  同証人は第四回および第二十回の公判において、被告人梅田正生が宿直室南窓のカーテンを引くところを目撃した旨証言しているが、その内容において、第四回の公判の証言と第二十回公判の証言とは、多少相違し、ある点については強く表現し、ある点については弱く表現しているところがある。

(二)  宿直室の電灯覆が、いつ落下したか、不明であり、古畑種基鑑定人の鑑定によれば、古田証人の見たというところから、人の姿をその目鼻立ちまではつきりと見ることはできなかつたであろうが、人の顔や胴体、輪郭を割合はつきり浮き出して見ることができたと思われるとしているのに、証人は、被告人の目鼻立がはつきり見えた旨証言した。

(三)  原審裁判所の検証によれば、電灯の点ぜられたる場合においては、関係証拠上考えられる最良条件下においても、カーテンを引く人の存在は、現認できても、その人の識別は、古田定夫証言のように、決して、容易ではなく、浮き出して見える顔の輪郭、体の恰好等から識別をなすものとしても、その正確性に可成りの困難のあることが認められた等の理由を判示して、証人古田定夫の証言は、にわかに、措信できないと認定しているのである。

はたして、原判決認定のように、被告人の自白には、任意性および真実性に多分の疑があり、信用するに足りるものがないか、また、証人古田定夫の証言が、虚偽で、措信できないものであろうか。以下述べる理由により、決して、そうではない。原審は、被告人の自白調書には、任意性および真実性があり、且つ、証人古田定夫の証言を措信できるに拘わらず、これを看過し、採証を誤り、延いて、事実を誤認したものであると信ずるというのである。

よつて、その論旨に従つて、順次判断を示すこととする。(証言も証人尋問調書の記載も、単に証言又は供述と表示する。)

第一の被告人の自白調書の任意性と真実性に関する論旨について。

論旨一について。

論旨は、被告人の自白調書について、被告人は、公判において、警察員が無理な取調をし、両親や子供の死骸を掘り出して、見世物にすると言つたので、私は四十二歳まで育ててくれた両親や可愛い子供を見世物にされてはいかんと思つたので、自白するに至つたと述べているが、いやしくも、両親、長男を惨殺したという重大事犯について、全く身に覚えのない者が、警察吏員から、両親や長男の死骸を掘り出して、見世物にしてやると言われたこと位で、逮捕の翌日、自己の犯行であると詳細供述するものであろうか。また、侵入口や兇器、衣類等を埋没したり、焼却したり、投棄したと自供する場所へ検察官並びに警察員等を自ら案内して指示できるものであろうか。このようなことは、身に覚えのない、しかも、分別盛りの四十歳を越した者の到底なし得るところでないことは、何人と雖も、首肯せられるであろう。況んや、警察吏員は被告人を取り調べるに当り、少くとも、無理をしていない旨公判廷で証言しているのであるから、これらの点、被告人の自白調書の任意性、真実性を調査検討するに当り、充分考慮せられたいというのである。

この点については、原判決は、判示第四において、詳細に判示しているところであるが、その判断については、後に触れることとする。

論旨二の1について。

先づ、被告人の供述する脱出経路に関する点であるが、原判決は、この点に関して、被告人の脱出経路は、裏出口から便所の方へ出て、南側の板塀の入口から帰つたという点において、山本正松検証調書の記載事実と合致しない。証人後藤勝美、同梅田金重郎の各証言のように、いつも、閉つている北側高塀の扉が、当朝、開いていた。また、裏出入口から北側高塀の扉に向う草履様の血の足跡の示す事実を、被告人が右のように南側出入口を通つて帰つたと自供する故を以て、抹殺し去ることはできない。この点について、説明し、符合するような被告人の供述は何もないとして疑点を抱いて、判示している。

これに対して、検察官は、司法警察員山本正松の検証は、同検証調書に明らかなように、昭和二十五年四月二十七日午後一時より午後十二時までに行われたものである。そして、本件発覚当日、警察官の現場保存前に、可成り多数の者が兇行屋内に入つたことは、証人梅田次郎、同梅田彰、同梅田せき、同古田重介、同古田定夫の各証言によつて、明らかであり、特に、最初に、犯行現場である郵便局宿直室内に入り、被害者を抱きかかえたり、掛蒲団を動かしたりした梅田次郎と梅田彰、梅田せきは、いずれも、北側高塀の扉を通つて帰宅しているのであるから、裏出入口に向う草履様の血の足跡がついたと認められる。即ち梅田金重郎は、昭和二十五年四月二十七日午前六時三十分前後に、山羊乳を梅田正生方に持参するため、北側高塀の扉から入つて、裏出入口前コンクリート張りの通路を通つて、南側塀の出入口から、畑道を抜けて行き、その帰りがけに、郵便局の裏の小便所の蓋が半分位はずれて、小便所の瓶が半分位出ていたので、危いと思つて、その蓋をして行つた旨述べているが、コンクリート通路上に、草履様の血の足跡があつたことは述べていない。梅田金重郎は、第一発見者後藤勝美より時間的には早く、郵便局の裏庭コンクリート張りの通路を往復し、コンクリート張り通路上の便所の蓋の開いていることに気付いて、蓋までして来たに拘らず、血の足跡らしい異状な点は、現認していないし、これに関する何らの証言もない。後藤勝美も、この点に関し、異状があつたことを現認していない。従つて、証拠上、被害が発覚されてから後に、草履様の血の足跡が附着したものと認められるのであるから、同検証調書の記載事実と被告人の逃走経路に関する自白とが一致しないとしても、何ら被告人の自白の真実性を疑わしめるものではないというのである。

原判決は、この点について、次のように判示している。即ち、「本件発覚当日、警察官の現場保存前に、可成り多数の者が兇行屋内に入つたようである。しかし、証拠上、右コンクリート上の草履様の血の足跡が、そのために生じたことを示すものは、あらわれていない。また、これを考慮に入れても、藁草履をはいて出いたとう被告人の供述に従い、また、下駄上の血の足跡から見れば、便所の方に到るコンクリート張りの上に、北に向つた右血の足跡と同様の何らかの痕跡があつてしかるべきだと考えられる。それがない。また、特に、これをつけないように作為した旨の被告人の供述はなく、また、それを窺わせる証拠もない。」としている。原判決も認定しているように、警察官の現場保存の前に被害者小兵衛の弟である梅田次郎、その他の親戚の者や附近の者が、相当多数局舎屋内に入つたことは、証拠上、明らかである。しかし、証人梅田次郎、同梅田せつ、同梅田彰、同古田重介、同古田定夫等の各証言によれば、梅田次郎を除き、同人等は、履いて行つた下駄又は草履或は地下足袋を廊下の上り口で脱いで、屋内に入つたものであつて、しかも、兇行現場である宿直室の中まで入つて、自己の足に現場の血を附着させて、出て来たような状況は、少しも、認めることができない。ただ、梅田次郎は、素足のまま、屋内に入り、宿直室の中まで入つて、被害者を抱きかかえたりして、現場の血を足裏に附着させて、裏出入口から、屋外に出て、北側高塀の出入口を通つて出て行き、その通つた道筋に、特に、コンクリート張りの上に、血の足跡をつけたもので、このことは、証人梅田次郎の証言によつて、明らかである。証人梅田次郎の当審における証言によると、被害発覚後、警察官が現場に来て、現場保存をする前に、二十名位の者が屋内に入つたようであり、それらの者の中には、地下足袋や長靴或は草履を履いたままの者もあつたようであるが、それらの者は、廊下或は事務室に入つたが、兇行現場の宿直室の中までは入つていないことが認められ、一般社会の経験上、親族その他の身内の者ではない近隣の者や物見高い見物人が、血の海と表現されるような現場の血潮の中に足を踏み入れるようなことはないと推測されるので、右梅田次郎ら以外の屋内に入つた者が、血の足跡を附着させたものとは考えられないし、また、これを附着させたことを認めるに足る証拠は、全くない。裸足の血の足跡が梅田次郎の足跡であることについては、捜査当局が、当時、これを確認し、足跡の鑑定までして確定していることは、山本正松検証調書および証人山本正松、同井藤元三郎の各証言によつて、認められるところであるのに、その足跡と同様の状態において附着されていた草履様の血の足跡について、何故に、その確認をしなかつたのか。或は、その確認の方法、手段がなかつたのか。屋内に入つた者を調査して、その確認をすることが不可能であつたとは、いわれないであろう。捜査当局としては、右草履様の血の足跡は、本件兇行に関連のある痕跡として、認識していたのではなかろうか。従つて、山本正松検証調書に「コンクリート張りの上に、北側高塀の出口に向つて、極めて稀薄ではあるが、藁草履様の血の足跡があり、この開戸から出て行つたことが察知せられる。」と記載されているのを、検察官主張のように、兇行が発見された後に、現場に出入りした者によつて、つけられたものとは、必らずしも、認めることができないであろう。ただ、証人梅田金重郎、同後藤勝美の各証言によれば、検察官の主張するように、右コンクリート張りの通路上に草履様の血の足跡らしい異状を現認していないことは認められるが、山本正松検証調書にも、「極めて稀薄ではある」と表現されている程であり、証拠保全に全神経を集中して見分する警察官の認識から見ても極めて稀薄であるという程度の血の足跡であつたと認められるのであるから、梅田金重郎や後藤勝美としては、特にその部分に神経を用いて認識をする立場の者ではないので、それを現認しなかつたとしても、右のような藁草履様の血の足跡が、兇行発覚前には存在していなかつたとはいわれない。以上のような次第で、右コンクリート張りの上の藁草履様の血の足跡が、検察官の主張するように、兇行発覚後に附着したものと認定することは、困難である。却つて、右血の足跡は、本件兇行に関連のある痕跡といわなければならないであろう。そうであるとすれば、原判決が、被告人の送走経路に関する自白が、犯行現場における本件を特徴づける痕跡と符合せず、その自白の真実性に疑ありとした判示は、誤であるとはいわれない。

論旨二の2について。

それは、大便所からの侵入にあたつて、便所の汲取口の板戸をはずした旨の被告人の供述に関する疑問点である。

原判決は、被告人の司法警察員に対する第五回(原判決に第四回とあるのは、誤記と認める。)供述調書と検察官に対する第二回供述調書にあらわれている「汲取口の蓋」或は「汲取口の板戸」という言辞を、その構造上の観点と証人梅田金重郎の証言から考えて、小便所の蓋であると認めていることが、明らかである。また、昭和二十七年三月六日の検察官の検証調書には、検察官の主張するような、被告人の大便所の板戸をはずして侵入した旨の指示は、記載されていないが、検察官に対する第二回供述調書に、「前回の実地検証の際にも申したとおり、便所の汲取口の板戸をはずしてから入つた」旨供述しているので、このことから、被告人が、右検証に立会して、その指示をしていることが窺われるとすれば、梅田金重郎のこの点に関する供述を契機として、被告人の供述があらわれたという見方は、必らずしも、正当ではないであろう。従つて、原判決が、被告人がはずしたのは、小便所の蓋であると認定したことは、やや独断にすぎるきらいがあり、また、被告人のこの点に関する供述が、梅田金重郎の供述から誘い出されたのではなかろうかとの疑を持つたような判示をしている点は、当を得たものとはいわれない。しかし、原判決を仔細に検討すれば、原審は、大便所の窓から侵入する際に、音がしないようにするために、便所の蓋を開けて置くことがどうして必要なのであるか。被告人のこの点に関する供述が不可解であり、疑問があるという趣旨であろう。なるほど、大便所の窓から侵入するについて、はずした便所の蓋或は板戸が、小便所のそれであろうと、或は、大便所のそれであろうと、音がしないようにするために、何故開けて置く必要があるであろうか。経験則上、理解に苦しむところであることは、原判決の指摘するとおりである。ここで更らに、侵入経路について、検討して見よう。被告人の自白調書にあらわれているところは、裏道を通つて、局の裏の西側の板塀の上の板が便所の窓の下まで延びていたので、塀の上に昇り、板の上を這うようにして、伝わつて、大便所の窓の戸を開けて、そこから入つた、塀に昇る前に便所の汲取口の板戸をはずしてから入つたというのであつて、更らに、山本正松検証調書並びに同人および証人井藤元三郎の各証言によると、局南側の裏の西はずれの百合畑に草履様の泥の足跡があり、その足跡は、板塀の上に上つて、それから建物の方へ板塀の上の笠木の上を進み、大便所の中に到つたと認められるというのである。右のような侵入経路からすれば、便所の蓋或は板戸をはずすには、先づ裏道から、南側の板塀の入口を通り、局の裏庭に入り、便所の蓋或は板戸をはずして、再び南側入口から、外へ出て、更らに、その入口からやや西に離れたところから、板塀の笠木の上に上り、笠木の上を伝わつて、大便所の窓まで進み、そこから侵入するというような経路とならざるを得ない。何故に、そのような経路をとる必要があるであろうか。そのようにしてまで、便所の蓋或は板戸をはずす必要があるであろうか。また、如何なる必要から、便所の蓋或は板戸をはずして置くのか。この点について、被告人の自供中には、何らその理由を説明している点もなく、合理的に判断するに苦しむところで、原判決も、そのことを判示しているのであつて、その判示に、不当な点はない。

論旨二の3について。

原判決が、被告人の大便所窓口からの侵入の自供は、一応山本正松検証調書に符合するが、その供述は、平板にすぎる。もつと、具体的にその状況を述べて、なるほどと首肯せしめる供述があらわれてしかるべきではないかとしている疑問に対し、論旨は、被告人が、人をして首肯せしむるに足る供述をするならば、まことに幸いであるが、それ以上の供述をしないので、あるいは、平板であるかもしれないが、供述が強制できないところから、止むを得ないであろう。たとえ、平板であつても、大便所窓口から侵入し、つま立てして、宿直室まで廊下を通つて行つた旨を自供しているのであり、山本正松検証調書とも符合しているのであるから、細かい点について、供述が不足しているかも知れないが、自供そのものは、十分信用すべきものであるというのである。

被告人の侵入経路に関する自供は、原判決も判示しているとおり、平板にすぎることは、いなめない。便所内および便所前廊下の痕跡が、あまりにも乏しいことも、証拠上、明らかである。被告人が、先きには、つま立てして跡がつかないようにしたこともないと供述し、後には、つま立てしていたと供述を変えていることは、司法警察員に対する第五回と第十回の各供述調書によつて、認められる。ただ、それだけである。まことに、平板である。検察官が、供述を強制できないから止むを得ないであろうというのも、まことにそのとおりであろう。しかし、兇行に関連があると思われるような現場の痕跡について、捜査当局が意を用いるならば、供述を強制することができないことは勿論であるが、何らかの関連する供述を得られなかつたであろうか。被告人が、自己の犯行であることを悔悟して自供しているというならば、任意の供述を得ることも、また、これを得るための質問をなすことも、なし得たであろう。ともあれ、被告人のこの点に関する供述は、平板である。原判決が、この一点のみによつて、被告人の自供の真実性を否定したものでないことは、判決全体を通読すれば、諒するに十分であり、検察官主張のように、この点に関する供述のみによつて、被告人の自供全体について、その信用性を肯定することはできないといわなければならない。

論旨二の4について。

論旨は、原判決が、本件の殺りくが徹底し、且つ、残酷であるのに、その殺りく行為に関する被告人の自供は、余りに簡単にすぎはしないかと判示しているのを非難し、原判決が要求し、若しくは、期待するような殺りく行為の詳細を自供することが、犯人として当然であるのか、相当興奮し、激情にかられたため、無我夢中であつたと供述するだけではすまされないであろうか。それだけの供述であつても、検証調書および医師の鑑定書とを綜合判断して、十分殺りく行為の証明は、できないであろうか。被告人が、兇行時、異常な激情と興奮の中にあつたことは、経験則上考えられるところである。従つて、その自供が、比較的簡単であるからといつて、真実性を疑わしめるものではないというにある。

しかし、原判決も疑問としているように、被告人の自供は、あまりにも簡単であり、あまりにも不自然であると思われるふしがある。被害者小兵衛の動作、これに対する被告人の動作、更らに、しずおよび幸夫の動作、これに対する被告人の姿勢動作などについて、原判決も指摘しているように、もつと生彩のある情景があらわれてしかるべきではあるまいかという疑点がないわけではない、原判決も、被告人の自供に、右のような点についての供述がないからといつて、被告人の供述するような内容では、犯行が不可能であるとか、全くの虚偽であるとか、断定し切れるものではなく、被告人の自供調書を検討し、各証拠と比照して、右の諸点について、疑問を生ずるというのであつて、本件殺りくが徹底し、且つ、残酷であり、財物的被害が認められないことから生れた怨恨説の線を被告人に対する嫌疑に結びつけたことを不当であると判示しているものではない。原判決の判示するところに不当なかどがあるとはいわれない。

なお、原判決も一言触れているので、少しく触れてみたい点がある。即ち、被告人自供のように、室内に点灯あり、被告人は、何等覆面も変装もしていなかつたというならば、小兵衛は、侵入者が正生であることに気がついたか否かという点である。被告人の自供調書を通じて、被告人は、別に覆面をした覚えがないと述べている。本件兇行当時、宿直室内の電灯が点灯していたことは、原判決も認定しているとおりであり、その認定に誤がないことは、後にも触れるところであるが、兇行当時の点灯は、被告人が室内に入つた後に点灯した旨の供述は、何処にもあらわれていないので、被告人が裏道を通つて、南側板塀の入口から、局内に入る当時から、点灯されていたものといわなければならない。宿直室内におる者が小兵衛、しず、幸夫の三名であることは、被告人としては、十分知悉していたのであるから、その宿直室に侵入して兇行を行なうとすれば、その三名の内の誰かから、被告人であることを気付かれることがあるのではなかろうか。気付かれずに終るであろうか。たとえ、気付かれたとしても、騒がれずに、これを屋外の者に察知されずに、三名ともに、殺害を完全に遂行し得ることを期待し得たであろうか。もつとも、宿直室の出入口は、一か所であることが明らかであるから、その出入口に立ち塞がることによつて、室内の者が室外に脱出することは困難であろうが、殺害を完遂し、しかも、その脱出を完全に防ぐことは、容易ではないと考えられないか。本件においては、三名の殺害が完遂されているのではあるが、当初からそれが期待できたか否かについては、疑なしとしない。裏道を通つて行つた被告人は、室内の点灯を気付いていたことは、十分察知されるのに、何故に、覆面などして、自己を隠す手段、方法を採らなかつたのであろうか。疑なきを得ない事柄である。

論旨二の5について。

原判決は、本件犯行に特有な所為の一として、茶箪笥の左小抽斗が、兇行時、外にあつて、血潮を浴び、且つ、刀痕を受け、その後、血のついた五十銭札、紙片が入つて、元に納められている点を指摘している。論旨もまた、この小抽斗が、いつどんな機会に引き出されたかということは、確かに、本犯行に特有な所為であることを認め、この点に関し、被告人は、父が小抽斗を開けようとして、手をのばして、抽斗へ手をかけているところを斬りつけた旨自供しており、それを元とおり入れたことについては、何ら説明が得られないので、その理由は、明らかではないが、小抽斗を入れてきたことも最終的には自供しているのであるから、その供述は、原審が疑う程不自然なものではないというのである。

原判決は、右のように、本件犯行に特有な行為の一として、茶箪笥の左小抽斗が、兇行時、外にあつて、血潮を浴び、且つ、刀痕を受け、その後、血のついた五十銭札、紙片が入つて、元に納められている点を指摘し、この点に関する被告人の自供が、昭和二十七年三月十九日の検察官に対する第二回自供調書作成時には、茶箪笥の抽斗を犯行後閉めたかどうか、全く記憶がないと述べ、翌二十日の司法警察員に対する第十一回自供調書作成時には、犯行後、出てくる時に、抽斗を納めて出たことについては、記憶がはつきりしていると述べて、その供述が、確定的ではなく、内容に不一致、不自然さがあると判示しているのである。検察官の主張するように、前後の供述の不一致は、前の供述の不備、不一致等について、後に補充的、訂正的な意味で供述することに因つて生ずる。このような供述の補充、訂正のあることは、捜査上当然起ることであるから、前後の供述が不一致であるからというて、その供述のすべてを信用できないというべきではないことは、そのとおりである。原判決も指摘しているように、被告人は、兇行発覚後行われた山本正松の検証に立ち会つていて、右小抽斗に関する特異な状況を知つていたのであるから、右のような自供の不自然さに疑問を抱くこともあり得ることである。原判決が、特に疑問としたのは、右小抽斗に関する特異な状況について、被告人自からの何らの説明をも得られなかつた点である。被告人が、これを納めたという記憶がはつきりしているならば、それは、何故であるか。有意識的と認めざるを得ない特有な行為について、記憶していてよい筈であるというのである。その点について、何らの供述も得られず、また、その説明を求めたような形跡も、全く窺われない。原判決が疑を持つたことは、当然であるといわなければならない。

論旨二の6について。

原判決は、更らに、本件犯行に特有な一つの所為として、宿直室南窓のカーテンを指摘している。即ち、犯行当時には、宿直室南窓のカーテンは、開かれたままになつていて、犯行後、犯人によつて、そのカーテンが引かれたということである。このことは、本件犯行における最も特異の状況として、捜査当局の関心事であつたろうし、兇行発覚後、行われた山本正松の検証の際にも、明確にあらわれていた事実である。被告人は、右検証に立ち会つて、このことを十分承知している筈である。この点に関する被告人の自供は原判決にも判示してあるように、最初は、窓の幕は、その時のままで別に引かなかつた旨を述べ、その後、幕を引いたか、引かなかつたか、覚えがない。引いてあつたとすれば、あるいは、引いて出たかも知れないと変り、更らに、幕の「カン」の辺を左手で持つて、東から西へ、横向きで引いたとなつている。被告人の自供の変化は、何故であろうか。検察官は、捜査員が、被告人の任意の供述をそのまま録取した証左であると主張する。その主張をそのとおり受け入れられるであろうか。捜査員は、カーテンに関する特異な状況を解明することに関心を持つていた筈であるし、被告人もその特異な状況を十分承知していた筈であるから、被告人の当初の幕を引かなかつた旨の供述に対し、何らの疑問を持たなかつたとはいわれまい。事実に符合しないその供述に対して、これを符合させるように供述を強制し得ないことは勿論であるけれども、その符合しないことを指摘して、反問し、或は、発問することあるべきは、想像に難くないところであろう。単に、任意に供述するままを録取したとして、済まし得ないのではなかろうか。更らに、犯行後、犯人がカーテンを引いたのは、何故であろうか。決して、無意味ではあるまい。犯人のみが知り得るところであり、それを述べ得るのである。被告人が最後に幕を引いたと自供したのであるから、それは如何なる理由によるものであるかの供述があり得べきであるのに、被告人の供述中には、これを窺わしめるものがない。のみならず、これを明らかにしようとした捜査員の意図も、少しも、窺われない。また、カーテンには、何処にも何らの痕跡もとどめられていない。そのカーテンを引いた時の状況について、被告人の自供と証人古田定夫の証言との間に、原判決の指摘するような不一致があり、そのために、原判決も判示するような疑問が生ずることも、そのとおりであるが、被告人の自供にあるような引き方にせよ、或は証人古田定夫の供述するような引き方にせよ、犯人は、手をもつて、カーテンを引いたことが明らかであるから、何らかの痕跡がカーテンに附着してしかるべきではなかろうか。殊に、犯人が、犯行後、逃走の除に、裏出入口の板戸の施錠をはずして、その板戸を開けるについて、板戸の桟などに指頭によつて印象されたと思われる血液を附着させている状況から考えてみると、それより前にカーテンを引いた時に、何故に、血液の痕跡を附着させなかつたであろうか。まことに、判断に苦しむところである。被告人の自供中にも、カーテンを引くときに、ことさらに、血液の附着を妨げるような特別の配慮を払つたような供述も認められない。疑問の残る点である。

論旨二の7について。

つぎは、犯行時着用の手袋に関する点であり、被告人は、当初、手袋をはめて行かなかつた旨供述し、その後、それを認める自供となつており、しかも、昭和二十七年三月十八日の第十回司法警察員に対する供述調書においては、黒木綿の局へ配給になつたズボンのポケツトに手袋があつた旨述べて、翌同月十九日の第二回検察官に対する供述調書では、作業衣の上衣のポケツトに手袋があつた旨述べ、一致を欠いており、更らに、その翌同月二十日の第十一回司法警察員に対する供述調書において、軍手の拇指と人差指との間がほどけていたという供述になつていることは、原判決の指摘するとおりである。この点について、原判決は、被告人の自供が、否定から肯定へ変化し、更らに、裏出入口の錠前の金具に附着していた繊維に関する解明に一致させるように変化しすぎているのではなかろうかと疑問を抱いている。これに対し、検察官は、被告人の自供調書には、細部において、不十分、不一致の点のあることは認められるが、大綱においては、少しも、変化していないこともまた認められ、手袋が入つていたポケツトは、作業衣の上衣かズボンかの点について、供述が変化しているが、少くとも、作業衣のポケツトに入つていたことが認められるであろう。また、捜査員は、被告人が当初手袋の点につき否認していたので、現場検証の結果、手袋をはめて行つたのではないかと判断し、この点についての取調をなした結果、被告人が任意に自供するに至ることは、通常一般に行われているところであり、何ら不審を覚えしむるものではないであろうというのである。手袋の点に関する被告人の供述が、原判示のとおり変化し、また、附加されていつたことは、まさに、そのとおりであり、被告人の自供によれば、軍手をはめたのは、指紋を残さないようにするためであるというのであるから、周到な一つの準備として、有意識的な行為であり、たやすく、記憶を欠き得るものではなかろうというのが、原判決の判示するところである。しかし、原判決が、被告人の自供の変化に、あまりにも、関心を払いすぎたのではなかろうかとも考えられ、検察官の主張するように、供述の不備、不十分を順次解明して、取調を進めることは、通常行われる捜査の方法であろうと考えられるので、検察官の論旨が納得できないこともない。しかし、兇行発覚後行われた検証において、すでに犯人と結びつけ得るような指紋が検出されなかつたことは、捜査当局において、熟知していたところであるから、被告人のこの点に関する当初の否認の供述に対し、何らの疑問をも抱かなかつたとは考えられない。その当初の供述は、昭和二十七年三月一日の第一回検察官に対する供述調書の記載である。その後、前記のように、三月十八日の供述調書に至るまでに、何回かの捜査当局の取調において、その疑問の解明に意を払つたことを窺わしめるような点が全くない。論旨に、被告人が否認していたので、現場検証の結果、手袋をはめていたと判断し、その事実を調査し、被告人が自供するに至つたというのは、これをそのまま、納得することはできない。

論旨二の8について。

論旨は、原判決が、電灯落下の点に関する被告人の供述も、本件兇行の犯人の供述としては、不明瞭、不十分にして、生彩を欠き、可成り疑点を容れる余地が存すると判示していることを非難するものである。

原判決も判示するとおり、宿直室の電灯が落下した時期が何時であるかは、被告人の自供以外の証拠からは、確定することができない。被告人の自供調書によれば、犯行を終つて、出てくる時に、あわてて、ぶつかつて、落したものと思うというのである。そして、原判決も、兇行中には、電灯は、それより高い位置、おそらく通常使用される位置にあつたものと考えられ、落ちた時に消灯したであろうことの公算が大であると判示しており、山本正松検証調書および同人の証言から考えても、落下時に消えたものと認定する外はないであろう。そこで原判決は、犯人であれば、電灯落下の模様、その状況、室内の暗転、或は、照明度の変化等について、印象に止めて、記憶があるべきであり、被告人の供述は、犯人としての供述としては、不明瞭、不十分で、生彩を欠くというのである。あるいは、理窟の上からは、そのようにいわれるかも知れない。しかし、その供述の不十分や生彩を欠くの故をもつて、深い疑点を容れるには当らないともいわれないことはない。証人古田定夫の証言中にある硝子戸にぶつかるような音がしたということと、電灯落下との間に、何らかの結びつきがあるのではないかという原判決の疑点は、検察官所論のように解するのが相当ではあるまいかと思う。即ち、古田定夫は、原審第一回検証調書添付第二見取図によつて認められるように、五十六尺以上離れた距離にある自宅室内から、硝子戸にぶつかるような音を聞いたのであるから、その打撃は、相当に強いものであることが想像されるのに、本件の電灯覆および電球には、破損の形跡がないところからして、古田定夫の聞いた音が電灯落下の音と結びつくとは、到底考えられないところであるというべきであろう。仮りに、古田定夫の聞いた音が電灯落下と結びつくとすれば、その落下の時に電灯は消灯し、宿直室内は、暗黒となつたであろう。そうであるとすれば、古田定夫が自宅から出て、局の方をながめたとしても、宿直室の異状に注意を向け得たであろうか。宿直室を目標として、四つ這いになつてまで、接近して行くようなことをしたであろうか。宿直室内の人が南窓のカーテンを引くのを見るようなことがあり得たであろうか。古田定夫の証言を全面的に否定するならば格別、然らざる限り、音と電灯落下を結びつけることは、到底できないであろう。

論旨二の9について。

論旨は、原判決が、兇行に着用したと被告人が自供する黒色作業衣一着が存在したか否かに関する疑点に関するものである。

被告人が、兇行に際して、黒色の作業衣を着用した旨述べたことは、被告人の司法警察員に対する第一回並びに検察官に対する第一回の各供述調書によつて、明らかである。押収にかかる証第十一号の作業衣が公判に顕出されたのは、昭和二十七年四月十七日の原審第一回公判期日であり、証第四十八号の作業衣が顕出されたのは、昭和二十八年十二月四日の原審第二十一回公判期日であることは、記録上、明らかであるが、その内一着は、福井一二三から提出されたものであるようである(原判決も、それを認めており、検察官の主張も、それであり、証人福井一二三も、供述している。)が、それが、証第十一号である(原判決の認定、証人福井一二三の証言)か、或は、証第四十八号である(原審第二十一回および第二十三回公判の被告人の供述)か、にわかに、断定し難い。また、他の一着は、梅田百合子から提出されたと検察官は主張するが、これを認める証拠はない。本件において、関係人より提出されたと思料される証拠物について、それに関する捜査当局の領置調書が全く存在していないことは、その提出者およびその日時を明確にできないうらみがあり、それがために、検察官の主張している被告人が捜査員から作業衣を示されたという時期と被告人の自供の時期との前後が必らずしも、明確には判定できない。しかし、本件において、重要な点は、被告人方に、犯行当時、作業衣が三着あり、その内の一着を被告人が兇行に際して使用し、その後、焼却されたのであるのか、或は、二着しか存在しなかつたのか、ということである。この点に関する被告人の供述、証人梅田百合子および証人後藤勝美の各証言は、原判示のとおりであつて、いずれも、二着であるというのである。原判決が疑を持つたのは、証人山田清の証言である。その証言の内容が、検察官主張のように第十五回公判においては、確定的であつたが、第二十五回公判に至つて、不確定になつている。原判決は、検察官の主張するように、証人山田清の原審第十五回公判の証言を採らずに、同証人の原審第二十五回公判の証言を採つているものではなく、右第十五回公判の証言が、その後の右第二十五回公判の証言によつて、その信憑力に疑を持つたことを判示しているのである。証拠の証明力は、その自由なる心証によるべきものであつて、検察官の主張するように、証人山田清の右第十五回公判における証言がより信憑性があると断定することはできない。更らに、当裁判所における昭和三十五年六月二十三日の証人調においては、同人が修繕した服は、証第十一号のような服で、これと同じような修繕をしたことを証言している。従つて、原判決が、山田清が修繕して、事件後被告人方で着用されているのを見たことがないという黒色服は、証第十一号にあたるのではないかという原判決指摘の疑は、益々濃くなつたといわなければならない。結局、犯行当時、被告人方には、作業衣が三着あり、その後、一着が見当らなくなつたという事実は、証拠上、否定されなければならなくなり、被告人のこの点に関する供述、即ち、兇行に着用して血を浴びた黒色作業衣は、翌朝岡の上の林の中に埋没し、その後、発掘して、焼却したという供述を補強する証拠は存しないこととなり原判決がその自供に疑を持つたことは、まことに、そのとおりであるといわなければならない。

論旨二の10について。

論旨は、被告人が兇行に使用したと自供している日本刀に関する点である。(原判決および論旨の中にあらわれている被告人の弟収の軍刀(証第十六号)と槍の穂先(証第十七号)は、いずれも判断に関係ないものと認められるので、これを論外とする。)

原判決も判示しているとおり、被告人が兇行に使用したと自供している日本刀については、被告人は、兇行の翌朝、岡の上の林の中に兇行時の着衣とともに埋没し、その後、発掘し、長良川堤において、折断の上、同川中に投棄したと供述し、その後、捜査員において、被告人自供の投棄現場を入念に捜査したようであるが、遂に、これを発見するに至らなかつたものであつて、現在、全く存在しないものであることは、明らかであり、論旨もこれを肯定している。また、兇行後、被告人方から捜査当局に提出され、原審公判に顕出された日本刀が三振あること(証第十五号の一ないし三)も、また、明らかなところである。ところで、日本刀に関する被告人の供述は、司法警察員に対する第四回および第五回並びに検察官に対する第二回の各供述調書にあらわれているとおりであつて、刃渡り一尺五寸の黒鞘一本、刃渡り一尺八寸の黒鞘一本、刃渡り一尺位の黒鞘と茶鞘一本宛の四本で、右一尺五寸の黒鞘が本件兇行に使用したものであり、他の三本は、事件後、警察に差し出したというのである。更らに、被告人の第八回司法警察員に対する供述調書、或は、原審第二十三回公判における供述によれば、被告人は、本件兇行当時、前記日本刀の全部について、その存在を知つていたのではないことが窺われる。また、日本刀の供出に関する被告人の供述を検討してみると、検察官に対する第二回供述調書においては、一本も供出したことはないとなつているが、原審第二十三回公判においては、供述したかどうか知らなかつたとなつている。そこで、梅田次郎の証言および被告人方の刀剣供出に関する証拠を検討してみることにする。証人梅田次郎の証言は、原審第三回公判においては、被告人方にあつた日本刀は、四本位で、終戦後供出したのは、一本か二本位となつており、第十九回(第二十回とあるのは、誤記と認める。)公判においては、たしか四本であり、供出したのは一本であつた旨の確定的証言に変わつていることは、原判決の判示するとおりであり、当審における証言も、右後者の供述の範囲を出でない。また、武儀地区警察署長の刀剣類回収等に関する公文書の調査についてと題する書面および刀剣供出証明書(証第二十二号)によると、証人梅田次郎の証言する供出の事実が認められることは、原判決も判示するとおりである。ただ、右武儀地区警察署長の調査書添付の刀剣供出人名簿の番号十六に、梅田小兵衛から小刀一本が供出された記載がされて、それが抹消されている点に関する疑問である。証人梅田次郎は、当時部落会長で、右供出の世話をした者であるが、同人の原審および当審における各証言によつても、この点を解明するに由なく、その他の関係証人の証言によつても、遂に、その事情を解明することができなかつたことは、原判決も判示し、また、論旨も認めているところである。検察官は、右抹消の事実をもつて、梅田小兵衛が日本刀一本を供出したが、それが戻されたことになると主張されるが、右刀剣供出人名簿の番号十五に、梅田小兵衛から脇差古刀一本が供出された旨の記載が残つており、証人梅田次郎の証言を考え合わせると、梅田小兵衛からの日本刀一本供出の事実は、これを抹殺することができないのであろうと思われる。以上の各事柄を彼此検討すると、被告人の検察官に対する第二回供述調書にあらわれている一本も供出したことはないという供述を、検察官主張のように、そのまま、真実なりとして、肯定するには疑なきを得ない訳である。検察官の所論中にある被害者三名に対する医師田内久の鑑定しているところと、被告人の兇器に関する供述とは、ほぼ一致するとの主張は、被害者殺害に使用された兇器が日本刀のような刃器であるとの鑑定と、被告人が日本刀を使用したとの自供との関連性をいうものとすれば、それのみで、被告人の供述の真実性を肯定することができないことは、詳しく論ずるまでもない。結局、原判決が、兇器の発見に至らないことから、直ちに、被告人の自供を否定的に解することはできないとしながらも、被告人が兇行に使用したと供述する日本刀の古刀一本が架空の存在になるのではないかとの疑を持つたことを、誤であると判断するには至らない。

論旨三について。

所論は、原判決が、その第三の二において、犯行の動機、原因に関する点について、判示するところに対するものである。論旨は、本件の動機、原因と被告人の心情は、被告人をとりまいていた梅田家の家庭環境と、それに基く雰囲気とを、記録にあらわれている関係証拠の全体を通じて洞察することにより、動機は、必ずしも、薄弱でないことが認められ、被告人は、両親の信頼を完うし難い性行の人物であり、むしろ、被告人の長男幸夫がよくできて、被告人の両親の信頼と情愛を独占し、被告人は、相当の年配となりながら、実際の生活面では、自己を中心とした生活環境を作り得ず、その存在が、家庭環境において、極めていびつ型になつて、これが日常生活における一種のゆがみとなり、しかも、長年月の間に潜在的に累積されて、内攻的爆発の危険性を蔵していた情況にあつたことが認められるというのである。

原判決は、父小兵衛が厳格な人であり、母しずが勝気な口やかましい人であつたこと、梅田家には、旧家として、生活に封建的な色彩があつたことは窺われるとし、被告人が、若年の折、厳格な父から折檻されたことはあるが、それが当時まで続いていたということには疑問があるといい、また、近隣の未亡人との関係や美濃町の飲食店の女の問題で、父から叱責されたことがあるとしても、それは、親から叱責さるべき事実があつて叱責されたのであり、本件事犯に接着した出来事ではなく、それが時を経て、子たる被告人の怨恨となり、親子関係を破滅に導く一因となり得るか、直ちに、肯定に割り切れるものとは思われないと判示し、更らに、父母の被告人に対する過去の仕打ちが、仮りに、被告人の供述するとおりであつても、その状態が、本件犯行当時に近ずくにつれて、いよいよ、昂まつていつたという事情は、被告人の自供にすらないと判示したところであつて、その判示を誤とするかどは認められない。論旨にある被告人の長男幸夫が被告人の両親の信頼と情愛を独占しているという点であるが、幸夫が二十才になつたら郵便局長を譲れという話は、原判決も、これに疑を持つており、当時幸夫は、いまだ十五歳の中学生であり、これをもつて、幸夫の父である被告人が両親を憎悪して、殺害に至るまでの一因となり得るや否やも疑問である。梅田家の財産である株券や貯金が一部幸夫の名義になつていたことは認められ、また、本件事犯の直前に買い求めた不動産が幸夫名義に登記されたことは、証拠上明らかであるが、父祖伝来の不動産は、まだ小兵衛の名義になつており、梅田家の財産が、被告人の管理から離れて、幸夫に集中していたと認められないことも、原判示のとおりである。被告人が相当の年配になりながら、実際の生活面では、自己を中心とした生活環境を作り得なかつたとの所論は、前記のような封建的な色彩のある農村の旧家としては、止むを得ないことであると考えられるので、家庭環境において、極めていびつな型になり、日常生活における一種のゆがみとなつているというのは、当らないといわれるのではないだろうか。更らに、論旨は、この種の事犯は、必ずしも、特定の深怨、忿怒、爆発的激昂のみを直接の動機、原因として、行われるものとは断定し難く、永い間累積され、追いつめられた環境から、その息苦しい圧迫感が、潜在内攻して、これに堪え切れなくなり、これに反撥して、自己本位の生活環境へ脱したいという慾望または執着が、何かの機会を得て、他に方法を考えることもせず、比較的無雑作、無反省の中に、常軌を逸した重大な惨虐殺害行為にでて、解決を図るものであり、これを他より正常な理論乃至常識を以てしては、到底、説明若くは理解できないことがあることを、人間生活と人間心情の複雑微妙な動きの中に、犯罪現象の実相として、看破しなければならないというのである。

原判決も、この点について、人の心には、通常の判断を以て、窺知し得ないものがあるから、被告人自供の動機、原因から、被告人の自白する殺意が生まれてくることも、必ずしも、不可能ではないと考えられると判示しており、検察官の所論の認容される場合もあることは、これを否むことができない。しかし、被告人の心情が、長年月の間に潜在的に累積されて、内攻的爆発の危険性を蔵していた情況にあつたという所論は、前記の認定に徴して、たやすく、肯定し難いところであろう。本件当時における被告人の妻百合子の病状が、可成り重態であつたことは、認められ、また、当日被告人の三男正が過まつて手を骨折し、その治療を受けて帰つた後の当夜の母しずの言動が、可成り激しかつたことも、認められるのであるが、それだけの理由によつて、父母を殺害する決意を起さしめると考えることは、原判決もいうとおり疑問があり、また、原判決のいうこれが口火を与えるような緊迫した事情が先行していたか、或は、論旨にいう累積された内攻的爆発の危険性を蔵していたかについては、これを肯定するに多分の疑問ある情況の下においては、当夜、とつさに、激情を爆発させて、本件のような重大な惨虐的殺害行為に至る機会を与えたものとするには、なお、納得し難いものが残るのではなかろうか。本件事件後における妻百合子の病気治療費の支出、貯金、株券等の処分費消が、被告人の犯行の動機に関する自供内容を是認させる情況事実であるというが、妻の病気治療のための費用の支出が多類であつたからというて、これが被告人の自供する動機を裏付けるものとはいい難く、父を相続したことに基く相続税等の支払は、止むを得ない事柄であつて、その他に検察官の所論にある本件発覚当時(昭和二十五年四月二十七日)を境として、被告人の生活態度に、異常な差異があることを認めしめるものがあるとはいわれない。

論旨四について。

所論は、原判決が犯行前後の行動について判示している点を非難するものである。即ち、原判決が昭和二十五年四月二十六日被告人就床までの行動については、司法警察員、検察官に対する供述調書において、被告人の自供するところは、当審の供述とも、関係証拠とも、大体符合する。その内、動機、原因については、前述のとおりであり、その余の行動については、本件犯行に必須不可分のものとは考えられず、この点の被告人の供述が大体正確であるということを以て、本件犯行に関する供述が真実なりとの結論を引き出すことはできないと判示しているところであるが、論旨は、犯行以外の点は、まことに真実なる自白である。供述調書は、一体をなしているものであるから、その一部分だけが任意性を疑わしめる虚偽の自白であるとは考えられず、犯行に関する自白部分とその余の自白部分とは、決して、不可分に考えるべきではないというのである。

しかし、原判決は、犯行以外の点をすべて真実なりと判示しているのではなく、犯行の動機、原因に関する部分の自供に疑問の存することを指摘していることは、その判示するとおりであり、これに対する検察官の論旨に対する判断は、前記のとおりである。およそ、同一人の供述調書の任意性、真実性は、不可分に考えるべきであるとの所論には、にわかに、肯定し得ないものがある。同一の供述調書の中には、これを肯定すべき部分もあり、また、他の部分には、これを否定すべきものがあることは、経験上、明らかなところである。所論中に、原審が同一供述調書の犯行部分の自白だけは任意性がなく、その余の部分は任意性があると考ている点を諒解に苦しむというのがあるが、原判決は、供述調書の任意性を判示しているのではないこと、その判文に徴して、明らかであるから、その所論は、当を得ない。

その1について。

所論は、原判決が、兇器、着衣等の埋没に関する被告人の自供を、そのまま、すべて疑問なく、採用に値するというものではないと判示している点に対するものであつて、犯罪時より二年に近い歳月が経過しているため、兇器、衣類等は、現在していないので、たとえ、被告人が自供しても、その自供には、なお一抹の疑問が存するところではあるが、その供述内容の重要部分が客観的事実と符合するならば、被告人の自供は、一応真実性ありといい得るであろうというのである。

被告人の埋没に関する司法警察員および検察官に対する各供述は、原判決および論旨に指摘しているとおりであり、また、証人古田定夫の原審公判における証言も、原判決および論旨に指摘しているとおりである。被告人の自供するような岡の上の林の中の行動については、これを現認した者がないので、被告人の自白を補強するものはないが、被告人が古田定夫方の前を通つた旨の自供は、証人古田定夫の証言によつて、補強し得るといい得ることは、原判決も判示するとおりである。原判決は、被告人の自供する長着およびビクに関する疑点を指摘している。着ていた長着が、縞であつたか絣であつたか、また、持つて行つたビクを持つて帰つたか置いて来たのかという点について、被告人の供述が変化していることは、原判決の判示しているとおりであり、その変化が、目撃した証人古田定夫の証言に合致するようになつていることも、原判決の指摘するとおりであるが、被告人の供述の変化は、それだけではなく、帽子の点に関しても、司法警察員に対する第一回供述調書では、黒スキー帽をかぶつていたと述べたのが、検察官に対する第一回供述書では、帽子はかぶつて行つたかどうか覚えがないという供述に変化しており、証人古田定夫の証言では、被告人は帽子をかぶつていなかつたという供述であつて、その間の変化や矛盾は、原判決のように疑問を抱けば、抱き得るところであるが、検察官の主張するように、自供の重要部分が客観的事実と符合するならば、その自供は、一応真実性があるといい得るであろうとの論旨も、あながち排斥し得ないとも考えられる。しかし、原判決も判示しているように、前記の判断に示した黒色作業衣および兇器の存否に関する疑点の外に、埋没穴の存否に関する疑問を加えて、考え合せると、被告人の埋没に関する自供が誤なき真実であると断定しきることができないという判示は、これを排斥し去る心証には、いまだに至ることができない。ここで、埋没個所に関する所論について、検討することとする。所論には、兇器等を岡の上の林の中に埋没したという点は、にわかに、措信できないかも知れないが、昭和二十七年三月六日の検察官の埋没個所附近の検証の際、被告人はこれに立会して、自ら埋没した個所を指示しているというのである。被告人が指示した岡の上の林は、被告人家の所有地であるから、司法警察員および検察官に供述したその林の中を指示することは、容易であろう。しかし、その指示した個所が、埋没穴に客観的に適合しない状況にあつて、確定的なものではなかつたので、その後、昭和二十七年三月十六日行われた司法警察員の検証によつて、被告人が指示した個所から北西一米五十糎の地点に、発掘した穴の存在と多数の籾殻が散乱していることを発見し、その穴が埋没穴であると、捜査員によつて、変更して認定されるに至つたものである。被告人は、その後の取調において、これを是認した供述をしているが、その現場に立会して、現認指示していないことは、原判示のとおりであり、所論も認めているところである。この第二の穴に散乱している籾殻は、どんな事情によるものであろうか。検察官は、兇行に使用した着衣を焼却するために、籾殻を持参した旨を供述しているので、その籾殻であるというのである。なるほど、被告人の司法警察員に対する昭和二十七年二月二十九日付第二回供述調書には、兇行に使用した着衣を焼却するために、籾殻を持参したことは、供述しているが、その籾殻を埋没穴を発掘する際に、こぼしたという供述はない。しかし、その後の取調において、同年三月十七日付司法警察員に対する第九回供述調書では、岡の上の畑の甘藷を掘つて、跡が地ならししてあるので、そこに叺の中の藁を最初出し、それから叺の籾殻を叺をさかさまにして、あけたのであるが叺の底をたたいて、籾殻を全部出したことは確認しておらず、そして、衣類や日本刀を埋めて置いた雑木林の中に入り、掘り返して、衣類、日本刀を、叺を掘つた口元まで引き寄せて入れた、その掘り返しに行つた時、籾殻がこぼれていたことには気つかずにいたが、叺の中の籾殻を全部底からたたき出して行つたのではなく、私が衣類や日本刀を入れる時、こぼしたかも知れないが、現在記憶はないとなつており、同月十八日付司法警察員に対する第十回供述調書では、叺に籾殻を入れて、甘藷畑へ持つて行き、叺の上に入れて行つた藁を出し、籾殻を叺から半分出して置いて、その半分籾殻の入つた叺を持つて、岡の上の林の中に埋めてある衣類や刀のあるところの左上に置き、刀と衣類を出して、叺を引き寄せて入れる時、籾殻があかつて、穴の辺へ落ちたので、それを、そのまま、埋めたので、穴の中に籾殻が入つてしまつたと思うと変り、更らに、同月十九日付検察官に対する第二回供述調書では、籾ぬかは、最初畑に半分以上あけてから、叺に籾ぬかを入れ、林の中の衣類や日本刀を埋めて置いたところを掘り返し、衣類等を叺に入れて、畑に持つて来て、衣類を燃した、叺を穴の掘つたところ持つて行つたので、叺の中に籾ぬかが入つていたから、その附近に籾ぬかがこぼれたかも知れないといつている。右のような供述の変化は、前記の三月十六日の司法警察員の検証に符合させるように補正されているのではなかろうかとの疑問を抱くのである。更らに、原判決の認定しているように、岡の上の林の中には、自然蔓が生えていること、第二穴からもその蔓が生えていること、岡の上の林の中には籾殻を捨てることもあり、その附近から籾殻が発見されていること等から、第二穴が埋没穴であると断定し得ない状況にある。また、第二穴に散乱していた籾殻が何時頃のものかについては、証拠上、不明であることも、原判示のとおりである。そして原判決が、第二穴は、岡の上の林の上の道路傍から約五十糎内側の位置にあり、被告人が埋没したという頃には、林は伐採され、目星しい草木の茂りも乏しい状態であつたことが窺われるから、伐採されて、しかも、道路傍の人目につき易い第二穴が、本件兇器等の埋没穴であるかどうかには相当の疑問なしとしない。そして、証拠上、他に被告人の自供するような埋没穴の存在は、不明であると認定したことが不当であるとはいわれない。

その2について。

所論は、兇器、着衣等の処分に関する部分についての非難であるが、原判決も、着衣等は、被告人自供のような焼却が可能であり、日本刀は、被告人供述のような方法で、二本に折ることが、その可能性が全然ないとはいえないであろうと判示している。所論は犯行後二年近く経過しているので、兇器、着衣等は、存在していないが、被告人は、着衣等を焼却したと称する場所を指示しているし、投棄した場所および折断した場所まで、具体的に、被告人自ら、指示し、その場所も実在しているのであるから、積極的補強証拠のないものということはできないというのである。

しかし、被告人が焼却したと称して指示した場所には、何らの痕跡もない。また、被告人が切断したと称して指示した場所にも、何らの痕跡がなく、投棄したと指示した地点にも、それを発見することができなかつた。被告人がそれらの場所を指示することは、容易であろう。そこに何らかの証跡が存在していたならば、積極的補強証拠となり得ることは、論のないところであるが、何らの証跡の存在しないのに、その場所が存在することのみによつて、積極的補強証拠となり得るやについては、たやすく肯定することができない。事例を挙げるまでもないと思料されるが、例えば犯人が財物を窃取して来たと称する家屋が現存するからというて、その家屋に財物の被害なき限り、その窃取の供述を補強し得ないことは、見易いところである。原判決も、痕跡の発見に至らないことが、直ちに、被告人の自供を否定することにはならぬが、さりとて、積極的に補強支持することにもならぬと判示しているところであり、これを非難する所論は、当らないといわなければならない。

最後に、検察官は、被告人は、犯行後、長男幸夫には、無ざんに思つたから、蒲団をかぶせて来た旨を供述しているが、この点は、梅人梅田次郎、同梅田せき、同梅田彰の各証言とも符合している事実であり、本件犯行に特有な所為であることを考えれば、供述の真実性を認めるに足る重要な事実である、と主張する。

なるほど、被告人は、検察官に対する第一回供述調書において、幸夫を見て、無ざんに思つたから、幸夫だけは、蒲団をかむせて帰つて来たような記憶がある旨を供述しており、証人梅田次郎、同梅田せつ等の各証言は、その状況に符合している。被害者幸夫の死体に蒲団がかぶさつていたことは、兇行発覚後、現場に赴いた被告人は、これを現認しているかも知れない。その状況は、本件犯行に特有な事柄の一であり、被告人の供述が、これを理由づけ得られないことはない。しかし、この一事柄のみで、被告人の自供が、すべて、真実性ありとは断定できない。ここで、飜つて、冒頭の論旨一について、触れることとする。先きに示したように原判決は、その第四において、この点について、判示している。

即ち、確かに、被告人の自白には、検察官の主張を首肯させる嫌疑の存することは、否定できない。殊に、自己が、父母および長男を殺害したか否かの事実につき、果して身に覚えなき者にして、被告人供述の如き取調状況においても、その肯認が可能であろうかという疑は、濃厚であるというている。まことに、そのとおりであろう。しかし、被告人の自白調書にあらわれている種々の疑点について、原判決が判示したことに対する検察官の所論に対して、当裁判所もその判断を示したように必ずしも、その主張のように氷解したとはいわれない。原判決が、被告人の取調状況に関する供述が、すべて、作為された虚偽とは断じ難く、被告人の自白は任意性に疑ありとして、その証拠能力が排除され得るものとは、即断し能わぬにしても、その真実性につき、やはり疑ありと感ぜざるを得ない。即ち、被告人の自白は、真実ではなかろうかという嫌疑と併存して、これまで述べてきた犯行の成否にも触れる諸点およびそれに附随する諸点に関する諸疑問が、抹殺し能わざる心証として、依然残るのであると判示しているところは、当裁判所も、これを否定し得ないところである。

第二の目撃証人古田定夫の証言に関する論旨について。

論旨が、証人古田定夫の証言は、被告人の供述調書の任意性いかんに拘わらず、本件犯行の点白を決する重要なキーポイントであるというていることは、まさに、そのとおりである。原判決も、証人古田定夫は、原審公判において、一貫して、右兇行の当夜、兇行現場たる右宿直室のカーテンを被告人が引くのを現認したというのである。宿直室南窓のカーテンの状況、カーテン外側の硝子戸への血痕飛抹附着の事実から、仮りに、被告人がそのカーテンを引いた事実が真ならば、被告人は、その当夜、兇行現場にいたことになる。深夜、両親、長男の殺害せられた現場に被告人がいて、血痕の附着している硝子窓のところにカーテンを引いて行つたとすれば、被告人は、いかに犯行を否認するも、それは虚偽であろうと判示しているところである。

古田定夫と梅田正生との関係については、古田定夫は、平素、梅田正生に対し、諸般の恩義や義理合いを感じてこそおれ、証拠上も、事実上も、同人に対し、反感や悪意を有していたと疑うべき何らの事情、理由もなく、また、経済的な関係、例えば、金銭貸借、小作関係といつたものも認められないことは所論のとおりである。古田定夫の人物については、証人須田四朗が証言しているところは、学力のない、朴訥な人で、社会事情に無知で、判断力は乏しいが、嘘をいうような人ではない、正直で、悪こすいというようなことはないというの外、注意力が乏しく、観察が粗漏であると思うというのである。

検察官が、関係証拠を検討するについて、識別する者の視力に注意しなければならないというていることは、そのとおりである。鑑定人古畑種基は、本件について鑑定を命ぜられるにあたり、先ず、古田証人の視力を検定し、同証人は、正常な視力であることを、その鑑定書に記載してある。所論は、原審裁判官は、自己の視力を基準として、識別の正確性を判断し、可成り困難があることが認められるとしているが、その前提として、裁判官の視力を正確に検診し、証人古田定夫と同等またはそれ以上の視力の持主であることを明らかにし、しかる後に、識別の正確性を判断しなければならないというているが、原審裁判官の視力が、証人古田定夫の視力より劣つているとでもいうのであろうか。原審において、鑑定人古畑種基の鑑定以後に行われた昭和二十八年八月十九日の第九回検証並びに昭和二十九年四月十五日の第十回検証において、検察官は何故、原審裁判官の視力を問題にしなかつたのか。また、当審において、昭和三十二年六月八日行われた検証に際しても、それを問題にしなかつたのか。裁判官の識別の正確性の判断が、検察官のそれより劣つているとでもいうのであろうか。裁判官が認識し、検証調書に記載されている識別が、検察官のそれより劣つているというならば、何故に、その理由による再検証を請求されなかつたのか。裁判官の視力が、証人古田定夫の視力に劣らないものであるかも知れない。検察官のこの点に関する非難は、根拠のないものといわなければならない。

進んで証人古田定夫の供述するような状況で、人の現認識別が可能であるかどうかの所論について、検討することとする。原審においては、第三回、第六回、第九回、第十回に亘つて、検証し、その結果、電灯の消えたときは、何らの現認識別は、不可能であり、電灯の点ぜられた場合においては、関係証拠上考えられる最良条件(宿直室内に、当時の状況下、二〇ワツト或は四〇ワツトの電灯が平常使用されていた位置にあつたとする場合)下においても、カーテンを引く人の存在は現認できても、その人の識別は、古田定夫証言のようには、決して、容易ではなく、浮き出して見える顔の輪郭、体の恰好等から識別をなすものとして、その正確性に可成りの困難のあることが認められたと判示している。検察官は、原審の昭和二十九年四月十五日の第十回検証において、証第六号の電灯傘に二〇ワツトの電球をつけた場合は、室内の人物を概ね識別でき、古田定夫もこの程度の明るさであつたといい室内のモデルについて、眼鏡をかけているかどうかを古田証人をして、その証言どおりの状態から識別させて実験した結果、古田定夫証人は、六回中五回まで正確に現認識別している重要な証拠資料があるというのである。原審第十回検証調書には、検察官主張の条件の下における現認識別の結果として、被目撃者の顔の輪郭、体の恰好は認められる、被目撃者を見なれている人には、その者を判別することができる旨が記載されていて、検察官主張のような単純な識別可能をいうているものではない。なお、被目撃者が眼鏡をかけているかどうかについての古田証人の識別が、六回中五回正確であつたことは、そのとおりである。検察官はこの証拠資料を重視していないと主張するが、原判決は、右の検証の結果をも判断の資料としていることが明らかである。鑑定人古畑種基の昭和二十七年十一月二十五日付鑑定書にある当夜月光の外、宿直室内に証第六号の電灯の覆をつけて、二〇ワツトの電灯がつていたとすれば、証人古田定夫が見たという局南の柵ぎわから、人の姿を、その目鼻立ちまではつきりと見ることはできなかつたであろうが、人の顔や胴体の輪郭を割合はつきりと浮き出して見ることができたことと思われる。従つて、古田証人が、この被目撃者の顔や姿をよく熟知していたのであれば、この輪郭から、その人を識別することは、不可能ではない。電灯覆が宿直室北側の敷居附近の上にあつた場合でも、ほぼ同様であるとの鑑定の結果は、原判決にも引用してあるところであり、これを判断の資料としていることも明らかである。そして、兇行当夜、宿直室内が消灯していたならば、証人古田の現認証言は、月光下の目撃としても全く不可能のことを内容とするものであること、また照明が前記最良条件下にあつたとしても、カーテンを引く室内の人物を現認識別することは、不可能ではないが、その証言のように容易、且つ、明確なものではないことが認められると判示している。なお、前記の当審における検証の結果によれば、原審第十回検証調書記載と同一条件下の現認識別として、正面向きの人物は、輪郭のみが、南側窓の格子、硝子戸の桟とともに、真黒く見えるだけで、目鼻立ちや眼鏡をかけているかどうかは判らず、真正面から見る右黒い輪郭のみでは、人物の識別は困難である、横向きの人物は、眼鏡や鼻の出つ張つた影が写り、平素見なれた人であり、しばらく眺めれば、大よそ、人物の識別できるとなつている。原判決は、証人古田定夫の原審第四回および同第二十回の各公判における証言内容を詳細挙示している。そして、右証言中、梅田正生の目、鼻、口も見えたというような点は、最良条件下においてすら、にわかに、措信することはできないと判示している。検察官は、第二十回公判における古田証人の証言は、その尋問がなされた経緯を検討すれば明らかなように、弁護人の微に入り細に亘る尋問を受け、追いつめられるような結果の証言である。弁護人から質問され、目鼻立ちまでわかつたかといわれて、それに答えているのであつて、証人のいわんとするところは、正生であることがはつきりわかつたという点が主眼で、顔の部分を一つ一つ取り出して、見えたか否か尋問を受ければ、当然見たと答えるに至るであろう。かく証言したからといつて、被告人を見たという証言まで、措信できないものであろうかというのである。なるほど、証人古田定夫のこの点に関する証言は、検察官主張のような経緯によるものであろう。そうだとすれば、弁護人から問いつめられた結果による供述であつて、果して、真に古田証人が現認した識別であるかどうか、疑問を抱くことにならないであろうか。原判決は、証人古田定夫の第四回公判と第二十回公判の証言を比照検討して、その間にも変化相違のあることがわかる。正生がカーテンを引くのを見たという点では一貫しているが、供述には、強くなつた点と弱くなつた点が認められる。後の証言において、正生確認の度が強くなつてきている。目、鼻、口も、はつきり見えたというのである。そして、更らに、宿直室に向つて這つて行く前に、ちらと人影を見たので、這つて行つた旨供述する。更らに、一方、最初に聞いた声、正生の服装について、先に確言したことが、単なる推測、或は、不明瞭なものと供述が変つてきている。部屋内の照明度については、証言が一層不明瞭となつてきていると判示している。証人古田定夫については、当審においても、昭和三十二年六月十八日と昭和三十五年五月九日および同月十日に亘つて、尋問している。その供述内容についても、右原判示と同様に不明確であり、輪郭だけで判つたか、目鼻立ちまではつきり見たかとの問に対しては、見た瞬間に正生と判つたと供述する程度である。本件発生後二年の歳月が流れ、第四回と第二十回公判との間にも、一年余の時の経過があり、当審における尋問はその後三年余、そして、更らに、三年近くを経過している。従つて、検察官のいわれるように、同一内容の証言について、時間的経過と共に、記憶が薄くなることもあり得るであろうし、前後の証言に多少強弱のあらわれることも止むを得ないところであろう。原判決が最初の認識が、二年の歳月の間に、事件につき流れる風評により、有識無識の間に、変貌しはしなかつたか、果して誤りなく、保存され続けたであろうかと判示している点について所論は、古田証人は、兇行当夜、硝子戸に何かぶつかり、人声が聞こえたので、起き出して、最初郵便局の表を望見し、何人も存在しないので、宿直室窓際まで這つて行き、正生のカーテンを引くのを現認した後、引き返し、証人と同時に起き出した妻古田まさ子に、自宅便所前で会つた際、直ちに、正生がいた旨を述べていることが認められるというのであり、証人古田定夫、同古田まさ子は、検察官主張のような供述をしていることが明らかであるから、原判決のいうようにカーテンを引いたのが正生であると認識したという古田定夫の認識が変貌したと見るのは当らないのではないかと考えられる。所論には、原判決が、古田証人は、第四回公判において、初めて梅田正生を当夜宿直室内で、カーテンを引くのを見た旨証言しているように判示しているかのようにいわれているが、そうではなく、原判決は、同証人は、被告人の逮捕に至るまで、再三にわたり、司法警察員、検察官に参考人として、取調を受けている、これらにおいて、同証人は、物音を聞いて屋外に出たことしか述べていない。即ち、同証人の正生現認の供述は、被告人逮捕、自供後あらわれて来たのであると判示している。更らに、所論には、第四回公判前である昭和二十七年三月五日、古田定夫は、検察官から、当時美濃町警察署において、参考人として、取調を受け、第四回公判の証言内容とほぼ同一内容の供述をしているのであり、ついで、同月六日、武儀地区警察署において、岐阜地方裁判所裁判官から、刑事訴訟法第二百二十七条に基く、起訴前の証人尋問を受けた際にも、同様の証言をしているのである。原審は、この点を不問に付しているというているが、その趣旨が、古田定夫が、原審第四回公判前においても、検察官等の取調の際に、梅田正生を見たという供述をしているということにあるならば、前記のように原判決は、第四回公判において、初めて供述したという趣旨ではないのであるから、何ら非難すべき筋ではない。いずれにするも、古田定夫の被告人目撃の供述は、被告人が犯行を自供した後であることは、記録上明らかであつて、その理由について、論旨にも摘示してあり、原判決も判示してあるところであり、原判決はかかる心理もあり得ることであり、そこに虚偽があると看取し能わないというており、その判示も諒とし得るところである。論旨中に、山本正松検証調書添付の図面中、宿直室南側の麦畑内に、藁草履様の足跡が記載されていて、古田定夫が、麦畑内を這つて行き、柵際で、被告人のカーテンを引くのを見たと供述し、その目撃場所に、ほぼ該当することが、明らかとなつたので、古田証言は、右検証調書中の、麦畑内の藁草履様の足跡の存在と符合しているので、この点は、古田証言につき、一層の信憑性を強める結果となるという点があるが、山本正松検証調書に記載されている麦畑内の足跡の位置は、古田定夫の目撃場所とほぼ該当するどころか、相当の距たりのある個所であることは、右検証調書添付の図面、原審第三回検証調書添付第三見取図、証人山本正松および同古田定夫の各証言によつて、疑を容れる余地のない程明らかなところであり、論旨は、採ることができない。結局、証人古田定夫が、被告人のカーテンを引くのを見たという認識が、虚偽であるか否かが重要な点であるという検察官の所論が、問題点である。この点に関し、原判決は、証人古田定夫が、ことさらに、虚偽を述べているとの心証は、いだき得ないし、同人は、当夜のカーテン引き人物が、正生に間違いないと確信しているとしても、その主観的判断が、そのまま客観的真実を示しているものとは、にわかに、措信し能わぬ心証に達すると判示している。そして、その前提とし、古田証人がその証言において、正生と小兵衛が喧嘩しているのではないかと思つて、這つて見に行つたと述べている点も、カーテンを引く人の現認前、既に或る予断成心が作用していなかつたかを思わせないことはないというている。証人古田定夫が、宿直室内のカーテンを引く人物を現認したという供述は、前に示したようなカーテンの状況からして、これを虚偽といい得ない心証を抱き得るとしても、その人物は、被告人に間違いないとの供述が、客観的事実と符合するか否かは、別個の問題である。原判決がいうておる古田定夫の予断成心の作用の疑問、同人の注意力および観察力に関する前記の須田四朗の証言、前に示したような検証および鑑定の結果、その他被告人の自供にあらわれている諸疑問点などを考え合わすと、原判決の前示の結論を覆えすまでの心証には到り得ないといわなければならない。

以上検察官の論旨について、それぞれ、判断を示したのであるが、これを綜合すれば、原判決が、本件において、被告人の起訴前の自白には、その真実性につき、決して、無視され能わぬ疑が存し、目撃証人古田定夫の証言も、たやすく、措信することはできず、その他右自白を補強して、右疑を抹消し去り、或は、独立して、被告人の犯行たることを明白ならしめる決定的証拠は、存在しないものと認めざるを得ないと判示しているところは、相当であつて、事実の誤認はない、従つて、検察官の控訴の趣意は、その理由がないといわなければならない。

よつて、刑事訴訟法第三百九十六条により、本件控訴を棄却すべきものとし、主文のとおり判決する。

(裁判長判事 高橋嘉平 判事 伊藤淳吉 判事 木村直行)

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