名古屋高等裁判所 昭和37年(ネ)268号 判決 1963年7月30日
控訴人(申請人) 中村義則 外二名
被控訴人(被申請人) 茶清染色株式会社
主文
本件控訴を棄却する。
控訴費用は控訴人等の負担とする。
事実
控訴人等訴訟代理人は、原判決を取消す。被控訴人が昭和三六年一二月二七日控訴人らに対してなした解雇の意思表示の効力を停止する。被控訴人は昭和三六年一二月二八日以降毎月末日限り一ケ月につき控訴人中村義則に対し金一二、六〇六円、控訴人魚住逸登に対し金一〇、一七九円、控訴人松岡正義に対し金一二、五三七円の割合による金員を仮に支払え、訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とするとの判決を求めた。
被控訴代理人は主文同旨の判決を求めた。
当事者双方の主張並びに立証関係は、別紙各準備書面の外、原判決事実摘示のとおりであるから之を引用する。
理由
一、案ずるに、当審も原審の見解と同じく控訴人等に訴訟能力がないと判断し、その理由は次に附述する外、原判決説示のとおりであるから之を引用する。
二、附述の理由は次のとおりである。
(一) 労働基準法五八条、第五九条は共に未成年労働者保護の規定であり、右五八条一項、五九条の立法趣旨は、従来親権者又は法定代理人の中には、民法八二四条但書(旧民法八八四条但書)の規定があるにかかわらず、いわゆる悪徳な親権者等が未成年者の意向を無視して同人に代り雇傭契約を結び、その賃金を搾取していた事例があつたから、この弊風を除去するために未成年者に対し労働契約締結の自由を確保し且つ賃金をその手中に収めしめ、それに対する裁量的処理を委ねしめたものである。
(二) しかし未成年者に賃金請求のための訴訟能力が与えられたか更に労働契約自体の争訟についても訴訟能力が与えられているかの問題は、之等の点につき未成年者に訴訟能力を認めねば未成年者の賃金確保や、契約締結の自由性が没却されるか否かの立法趣旨から観察し、若し積極に解する必要がある場合には他の民事訴訟関係法条がそれを受け容れる解釈を採り得るか否かを訴訟なる制度に十分なる思いを廻らして検討しなければならない。
(三) そこで先ず労働基準法を見るに同法五八条一項は親権者等の未成年者に代る労働契約の締結を厳禁し未成年者の労働契約は未成年者が法定代理人の同意を得て(民法四条)自ら之を締結する旨を、同法五九条は親権者らが未成年者に代つてその賃金を受領することを厳禁し未成年者が独立して賃金を請求し得る旨を各規定し未成年労働者の生活権の確保を目的としたものであるが該労働契約より生ずる争訟及び賃金請求の争訟につき未成年者自身に訴訟能力を付与しなければその利益保護に欠けることになるとの見解は同法の規定ないし精神からして当然には出てこない。
(四) つぎに民事訴訟法をみるに同法四九条但書は未成年者が独立して法律行為をなすことができる場合はこれに関する争訟につき独立して訴訟能力を有する旨を規定しているが未成年者が労働契約を締結する場合には親権者等の同意を得なければならないことは前記のとおりであつて成年者と同様の行為能力を有せず又未成年者が賃金を請求することは法律行為でないから、これらはいずれも右但書にいわゆる未成年者が独立してなすことを得る法律行為に該当しない。このように観てくると未成年者が賃金請求、更に労働契約より生ずる争訟につき訴訟能力があるとは、船員法第八十四条は別として、民法、民訴の関係法条の文言の解釈上直ちに受け容れ難い。
(五) 更に、訴訟は紛争ある権利又は法律関係の具体的形成作用であつて、訴訟においては単なる事実の主張に止らずして、その法律的構成、及び立証の技術的展開が必要とせられ、原告となり或いは被告の立場に置かれて相当の時間と費用をかけた上で、なお必ず未成年者に勝訴の結果をもたらすものでないことは云うまでもない。
(六) 要するに訴訟は通常に生起する生活関係でなく、一つの重要な異常生活関係であるから、労働契約上の未成年者保護なる一般的考の下に、同情の行きつくところ未成年者に訴訟能力を認めることは、法条の明かな解釈から出れば格別、現行規定の仕方からは解釈し得ないものと解する。
三、よつて本件控訴は理由がないから之を棄却すべく、控訴費用の負担につき民訴八九条、九三条に則つて主文のとおり判決する。
(裁判官 坂本収二 西川力一 渡辺門偉男)
(別紙)
控訴人の準備書面(昭和三七年八月二九日付)
一、法定代理人の同意を得て労働契約を締結した未成年者は、当該労働契約に関しては成年者と同一の能力を有するものと解さなければ、不合理な法律的結果を生む。
1 法定代理人の許を離れて労働している未成年者は、自給自足の生活をしているのではないから部屋借りもしなければならず、新聞紙の購読もするであろう、この種の日常生活に伴う幾多の法律行為は、未成年なるが故に取消し得べきものと解するならば、これ等の法律行為の相手方の地位は不安定なものと言わなければならず、又未成年者もこれ等の法律行為は取消し得べき行為であるとの意思をもつて為すのではないのが通例であると言い得る。これ等の法律行為が取消さるべきものでないとする法的根拠は民法第五条によるとせば、随分廻りくどい法律の適用と言わなければならない。
2 未成年労働者が、労働組合に加入している場合、組合役員の選挙、使用者と組合役員との交渉に際しては如何なる事態が生れるであろうか。未成年者のみの構成の労働組合で、組合役員を選出したとすると、使用者が、団体交渉の場合に組合の役員は未成年者の役員選出につき法定代理人の同意を得ていないから有効な役員ではなく団体交渉に於て組合を代表する資格がないと主張したら、その結果は如何になるであろうか未成年労働者の組合役員選出行為の有効性の法的根拠を何処に求めたらよいだろうか。
二、労働基準法第五十八条及び同第五十九条によれば、未成年労働者を訴訟無能力とすることは違法であると考えざるを得ない。
1 同法第五十八条によれば、法定代理人は未成年者の労働契約締結に同意するか否かを決定する権限をもつのみで、労働契約締結後労働契約に介入し得るのは、同条第二項の場合に限定される趣旨と解され、未成年労働者が労働契約の解約の申入をする(民法第六二七条により)にも法定代理人の同意を必要とするものではないし、又使用者が未成年労働者を解雇する場合にも民法第九八条に反して使用者は未成年者に対して解雇の意思表示をすれば足りるものと解される。
現実に労使双方の未成年者の労働契約解約の申入は法定代理人によつて又法定代理人に対して為されていない。労働契約の運命が一切未成年労働者の意思に任されているにも拘らず労働契約の存否等に関して成年者と同一の能力を認めないことは条理上許さるべきではない。
2 労働基準法第五十九条は、当然の事理を注意的に規定したものである。労働契約締結の権限がないならば、法定代理人は労働契約の当事者ではない。労働契約に於て未成年労働者は労務提供については債務者であり、賃金請求については債権者である。
法定代理人は同法第五十八条第一項により使用者に対して未成年者の賃金請求の債権者ではないことは自明の理である。
従つて未成年労働者に賃金請求権があることの規定は、労働契約に関しては未成年者独自に法律行為を為し得ることを認める一の例示というべきものである。
三、船員法第八十四条第二項は船員法の適用を受ける以外の労働者にも準用されなければならない。
船員法の雇入契約は、労働契約と異質のものではない。労務の提供と賃金の支払を何れもその本質とするものである。雇入契約に於いては成年者とし、労働契約に於いてはそうでないとする格別の理由に見出せない。船員には、外国に於ける訴訟提起ということが特別扱いにする口実となるかも知れないが、航空路線の発達した現在に於いてかような理由は首肯できない。憲法に於いても法の下における平等を唱つている。雇入契約と労働契約において未成年者を差別する解釈は納得できない。
四、民法第九十八条により使用者が未成年労働者の解雇通知をその法定代理人に対して為すことは殆んどない。又未成年労働者の労働契約の解約申入を法定代理人がすることも殆んどない。この事実は社会通念に於て法定代理人の同意を得て労働契約を締結した場合、当該労働契約に関しては未成年者も成年者と同一の取扱をされているという法的確信が存在することを物語つているのである。
五、未成年労働者に訴訟能力を認めないことは、未成年労働者保護にならずに使用者保護になる。
1 具体的実例
原判決の引用した名古屋高等裁判所昭和三五年(ラ)第一七七号事件は、未成年労働者の退社届を未成年者の父親が未成年労働者の名にて使用者に提出したことに基く未成年労働者と使用者との間の労働契約の有効性についての仮処分申請事件である。未成年労働者に訴訟能力がないとすれば、未成年者が成年に達する迄訴訟を待たねばならない。或は原判決が言うが如く親権喪失の宣言の請求ということも考えられるが、手間、暇がかかつて未成年労働者は困惑するであろう。泣く子もほつておくと黙るということがある。解雇無効だとわめく未成年労働者も、訴訟に法定代理人の同意がなければ、裁判を求める訳にはいかぬとなれば、成年者になる二年、三年の間には泣きやむだろう。使用者は一片の解雇通知書で未成年労働者の解雇の不満の口をふさぐことができる、しかもその口実には、自己の利益ではなく、未成年の保護のために訴訟能力がないということが言い得る。
2 法定代理人の権利の濫用について、
使用者は、労働契約について未成年労働者の口を封じたい慾望に燃えていることは否定できないところ、必要の前に法則なしということもある。
未成年労働者が訴を起さないようにする為に使用者は手段を選ばぬだろう。人間は富貴や権力を握るとそれにより理性や知性がくもつていくというのが通常の例である。「偉なるかな顔回」という孔子の賞讃の辞に値する人間は少い。涜職の罪にしても、公職選挙法違反事件にしても大臣や国の最高機関の構成員が起訴されている。未成年労働者の法定代理人が使用者の策謀にかかつて、未成年者の訴訟提起に同意しないという事態になることは想像されないことではない。親が子を喰い物にする方法は、考えれば公職選挙法による選挙のやり方と同様に巧妙な手が考え出される。賃金等の目に見えるものによる喰い方と目に見えないもつと有効なやり方での喰い方がある。
特に最近では法定代理人と未成年労働者の年令、時代の相違による思想の距りがある。未成年労働者が所謂「アカ」になることを法定代理人は心配するだろう。「アカ」の息子や娘を持つた親は、自分自身の出世の妨げになるのではないかと悩む場合もあろうし、「アカ」の兄弟姉妹の結婚や就職にも障りが起きるではないかと憂うるのであろう。まして訴訟提起に同意するにおいては一層の非難を受けるかも知れないと考える。法定代理人に使用者から策謀が為される。未成年労働者の訴訟提起についての同意は遂に与えられないこととなる。思想、信条の自由は憲法に確保されているにも拘わらず、未成年労働者が「アカ」という理由で解雇される場合が多い。未成年労働者が訴訟で解雇の効力を争えないこととなると、憲法の個人の尊重の規定も空文ということになる。権利の濫用は異例のことだとしても、人間の善意のみを信じていれば、法律は不必要である。三権分立の制度にしても、民事訴訟法にしろ刑事訴訟法にしろ制度として権力や権利の濫用を防ぐ制度であることを想起すべきである。
3 未成年労働者に訴訟能力を認めることは、未成年者保護の観点から民事訴訟法上認められないとの考え方に対する見解について、
(イ) 労働契約に関しては法定代理人は全然現実的知識がない。
(ロ) 法定代理人は民事訴訟法の知識がないのが十中八、九の事例である。
(ハ) 訴訟の遂行は、本人が訴を提起するか、上訴するか、和解するか又は示談解決するかを決めることが通常の事例であり、現実の民事訴訟は弁護士の代理人によつて行われるのが大半である。「この事件は難しいから弁護士に頼んだらどうか」と当事者本人に親切な言葉をかける裁判官を見受ける。
法律の知識がなく、労働契約に関する争いの実情を知らない法定代理人が未成年者に代つて訴訟を遂行することが如何なる点に未成年者保護となるのか皆目分らない。未成年者は訴訟遂行の運命を最終的に決定する意思能力があれば、未成年者に訴訟能力を認めても不利益にならない。所謂松川事件においても複雑な事実について未成年者が被告人として攻撃防禦の行為をしているのである。
以上(イ)、(ロ)、(ハ)から未成年者の訴訟能力を認めないことは不合理であり、未成年者を保護することにはならない。
六、未成年者が結婚するには父母の同意を得なければならないが結婚した未成年者は成年に達したものとみなされる。この規定の理由は、婚姻の独立、夫婦の平等を完全に実現するためであると考えられる。法定代理人の同意を得て労働契約を締結した未成年者も、労資対等の地位の確保のため、法定代理人の監護及び教育を受けずに独立した生活を営んでいるのを保護するために労働契約に関しては成年者とみなしても支障がないものと考えるべきである。結婚は結婚届という形式で外部に明認されるが、労働契約についても労働によつて労働契約締結が外部に明認されるのであつて、第三者に未成年労働者の行為能力を認めることにより損害を受けない。
七、民法第六条第一項の営業概念は、同法第八二三条、第八五七条の職業概念より狭いから、職業の許可を受けたから直ちに民法第六条の営業の許可を受けたということができないという論議には賛成できない。営業にしろ、未成年者が独立して自己の責任において社会的に活動することであり、然も営業外の職業の概念は雇傭契約又は之に類似する契約に基いて為される職業であるということができる。かかる場合は、営業と異り投機性を欠き、賃金と労働力との単純な交換である。従つて未成年者が不測の損害を受けることは殆んどなく、又相手方或は第三者が損害を受けることも殆んどなく、未成年者の職業と営業を区別する実効がない。
よつて原判決の見解はことごとく失当である。
控訴人の準備書面(昭和三七年八月二九日付)
第一、労基法第五八条論
一、原判決は労働基準法第五八条の規定をもつて民事訴訟法第四九条但書に該当するという見解(名古屋高裁決定)について、<1>労基法第五八条の規定の趣旨が未成年者保護と親権濫用防止の為に設けられたからと言うだけでは未成年者に訴訟能力を認めたことにはならないこと、<2>労基法第五八条の規定が民訴法第四九条但書に該当するということは労基法の規定の文理解釈上無理であること、<3>満十五才位の未成年者はその思考判断力に於て未だ成熟しないものがあることは顕著であり訴訟行為の遂行の複雑性困難性を考えると労働契約上の争訟につき未成年者の訴訟能力を否定することが却つて未成年者を保護することになること、<4>親権濫用は異常の場合であるのみならずそれに対しては親権喪失宣言制度等の救済方法によるべきであり親権濫用を理由に未成年者に訴訟能力を与えることは妥当でないこと、<5>訴訟の実際に於て訴訟代理人に委任することが多いし弁護士の附添命令の活用等を考慮すればよいとの点を理由とする肯定説は法律論とは言えないこと等を理由に反対する。(尚原判決は冒頭に於て未成年者の訴訟能力に関する積極説、中間説、消極説の三説がある中で消極説をとるべきことを判示しているが原審名古屋高裁で取消された決定に於ては消極説ではなく中間説の立場をとつていたものである。)
二、然し乍ら右<2>の理由については全くの形式論、文理解釈論であり、原判決が右の如き文理解釈を為すのは原判決の自由であるが、そのことはただそれだけのことであり、文理上労基法第五八条民訴法第四九条但書の解釈について全く逆の解釈を為すことを禁じ得るだけの正当性を持つものではない。原判決が引用する東大労働法研究会労働判例研究、ジュリスト第二四三号八六頁も「労働基準法第五八条一項の規定の文言から、積極的に未成年者の訴訟能力を引き出すことはできないことからやはり本件の判旨に賛成する。」(傍点控訴人代理人)と言つているだけであり、文理的にも反対の解釈が成立し得る余地を充分に認めているのである。従つて原判決のあげる<2>の理由はそれだけで反対論を封じ去ることの出来る程強い根拠でないことは明白である。
三、次に原判決が実質論として挙げている点の批判の第一として、原判決の無能力者制度に対する理解の前近代性が指摘されなければならない。原判決は金科玉条の如く民法の無能力者保護の制度を揚言するが、民法の無能力者保護の制度は、こと貧乏人たる未成年者に対しては真の意味での保護の役割を果し得なくなつていることを原判決は一度でも考えたのであろうか。民法の無能力者保護の制度が精神能力の不完全な有産者保護の為の制度であり、無産の未成年者がみずからの力で生活の糧を獲得するための法律行為をなすに当つては、ほとんど実益のない制度であることに原判決は一度でも思いを至したであろうか(我妻栄民法総則民法講義I五五頁乃至五七頁、東大労働法研究会労働判例研究ジュリスト第一九七号八八頁参照)〔註一〕。
四、原判決は前記<4>の理由に於て「権利濫用は異常の場合であつて、かかる特別の場合のみを考慮して一般的に通常の権利行使の場合にも未成年者に訴訟能力を与えるというのは妥当でない」と言う。成程権利濫用は一般的には信義則上例外の場合であろう(民法第一条)。然し乍らことがらは民法第一条の解釈の問題ではなく労基法第五八条の解釈論である。そしてそこでは正に親権の濫用が真剣に憂られているのであつて、親権濫用が原則的なものと前提されてその対策が論じられているのである。その解釈論に於て親権濫用は異常の場合を前提することは、労基法第五八条の論理構造に相容れない異質の論理を持込むものであり、詭弁のそしりを免れないであろう。それは最早解釈論の域をこえるものであつて到底賛成できない。原判決の致命的の欠陥の第一点はここにある。未成年者の訴訟能力を考えるに当つての正しい最初の足がかりは民法第一条にもかかわらず、労基法五八条がこと未成年者の労働契約の締結に関する限り親権濫用の原則性を肯定していることの正しい把握に求められるべきである。正にそこでは例外が原則化しているのであつてこの事の正しい理解をよそにした立論は全て失当と言う他はない。
五、ここにこそ名古屋高裁決定が正当にも労基法第五八条の規定の趣旨が、未成年者保護と親権濫用防止の観点から未成年者に訴訟能力を肯定した根本的理由が存するのである。しかして労基法第五八条の立法趣旨は次のとおりである。「わが国における年少者の労働に伴う弊害の典型的なものとして、親が子に代り子の知らぬ間に使用者と契約を締結し多くの場合、親はその際使用者から前借をし、これを子が働いて得べき賃金と相殺することを認めたり、あるいは使用者が親の依頼を受けて子に賃金を支払うことなく親に送金するような事例が多くみられた。しかも年少者は容易に労働契約を解除できず、不当な労働条件のもとに長期間労働せざるを得ない状況にあつた。しこうして一般社会慣習の上からはこれを親孝行として美化し、法律の上からは親権の作用としてこれを合法化してきた。しかし親権の認められるのは子供の利益及び社会の利益のためであることはいう迄もないところであり、右の如き年少者の労働契約の締結のために親権を行使することは明らかに親権の乱用であるが、これを防止すべき労働法規は存してはいなかつた。」欠陥を補う為である(労働省労働基準局編著労働基準法下六三〇頁参照)。
六、原判決の特徴的な誤りの第二は原判決が実体的な権利関係の訴訟的実現の観点、換言すれば私法と民事訴訟の関係を全く無視していることである。兼子一民事訴訟法(一)有斐閣四頁が言うように「権利義務とは、私人間の生活関係を強制的に規律する具体的な法規範を意味するもので、これは究極的には国家の公権的判断である裁判に基いて一義的に決定されることによつて、その実在性が与えられるのであつて」私法的な権利の保障と訴訟追行権の保障とは密接不可分のものである。親権濫用の故に労基法第五八条によつて、実体法的側面に於て権限を制限されているものが、私法的権利の実現過程としての訴訟追行的側面(訴訟法)に於ては、制限された権限を復活すると考えるのは言われのない独断であり、労基法第五八条による制限にも拘らず民事訴訟法第四九条但書の適用を受けないと解するのは、法体系に於ける矛盾を肯定することに他ならない。然し乍ら現行法体系にはその様な矛盾は存しない。実体的な権利行使の面で親権濫用が憂いられなければならない者は訴訟追行の面でも同様の濫用(具体的には使用者とのなれ合いによる訴不提起若しくは子の意思に反する形での訴訟追行面におけるサボタージュ等)が懸念警戒さるべきである。重ねて言う。子を食い物にする親でも、訴訟だけは子の為に本気になつてやるだろうと言う保障は全くないし、我が国の法律には実体法に於ては権利を制限され乍ら、訴訟法に於ては制限された権限を復活すると言う法の矛盾は存しないと解すべきである。
七、原判決は民事訴訟法に於て未成年者の訴訟無能力の規定を設けたのは、一つに未成年者保護の趣旨に出ているとの一般論から未成年者を訴訟無能力者とすることが未成年者を保護する所以であると言うがとんでもない間違いである。ここでは論じられるべきは民事訴訟に於ける未成年者保護の為の訴訟無能力制度一般ではない。論じられるべきは実体法的に親権を制限されなければならない様な未成年者の労働契約に関する訴訟追行という特殊具体的な問題に関する訴訟能力の帰属主体である。しかして労基法第五八条によつて親権濫用が原則化している以上、未成年者の労働契約に関する訴訟追行に関しても同様に親権濫用が原則とさるべきであるとするのが法の論理である。この点に関し団藤重光刑法法律学講座三八一頁が横領罪について委託関係が不法であるために民法第七〇八条により委託者が返還請求権を有しないばあいについて、横領罪の成立を認める判例に対し「刑法の見地から目的論的に考えることが必要なのはもちろんであるが、民法上返還義務のない者に刑罰の制裁をもつて返還――少くとも処分をしないこと――を強制するのは法秩序全体の統一を破るものである。横領罪の成立は否定さるべきである」として異質の法である民法と刑法との関連に於ても、法秩序全体の統一に考慮を払つていることが注目さるべきである。そして、ここでは密接不可分(目的=労働法と手段=訴訟法)の関係にある労働法と訴訟法の問題であつて、この間の矛盾は認めることは正に法秩序の致命的な破壊であつて許されないところである。以上の如く民事訴訟法に於て未成年者の無能力規定を設けた理由が、未成年者保護の趣旨に出ているとの一事をもつて未成年者の労働契約に関する訴訟追行に於ても、親権者の訴訟追行に委ねるべきであるとするのは一般と特殊の間に於ける矛盾に目をおう形式論であり、その実未成年者の保護に反する立論であることは極めて明白である。
八、以上のような理解に立てば名古屋高裁決定が、労基法第五八条の規定の趣旨が未成年者保護と親権濫用防止の為に設けられたことを理由に、未成年者に訴訟能力を認めるべきであるとしたことは当然すぎる程当然の帰結であり、「労働基準法第五八条の規定の趣旨が未成年者の保護と親権者の権利の濫用を防止するために設けられたものであることは、所論のとおりであるけれども、それだからと言つて、どうして右規定が未成年者に訴訟能力を認めたことになるのであろうか。その間十分の理由付けを欠くものと言わねばなるまい」原判決こそ「未成年者の行為能力の限定はその利益を保護する為であるから、能力の限定が未成年者にとつて不便不利益である時は、必ずしも原則を守るべきではない」(宗宮信次民法総論有斐閣二九頁)と言う判かり切つた論理に故意に目をつぶるものである。
九、労基法第五八条第一項は、親権者又は後見人が未成年者を代理して労働契約を締結することを禁止しており、当然の事乍ら同時に未成年者の労働契約解除権をも認めている(窪田隼人年少者労働有斐閣労働法講座第五巻一三三〇頁)。特に労基法第五九条は労働の対価である賃金について未成年者が独立に受領すべきもので、親権者等が代つて受領できないこととしていることも、労働契約における労働者側の最も重要な権利についての管理権を未成年者本人に認めているのである。かくして労働契約の存続そのものについては、第五八条第二項の場合以外には親権者の介入は排除されているのであつて、労働契約について未成年者の訴訟能力を認めるべきことは民訴法第四九条但書の命ずるところである。又船員法第八四条は「未成年者が船員となるには法定代理人の許可を受けなければならない。前項の許可を受けた者は、雇入契約に関しては成年者と同一の能力を有する」と定めているが、この規定は船員の生活は、主として海上の限られた船内で送られ行為の範囲は陸上労働者ほど広くないので、行為能力は雇入契約にかんして認めれば一応充分とした趣旨のものであつて、換言すれば船員法の右の規定は行為能力の範囲を陸上労働者よりも狭めたところに海上労働の特殊性に基く例外性が存するのであつて陸上労働者の労働契約上の権能についての前記解釈の妨げになるものではない。(兼子一未成年者の訴訟能力ジュリスト労働判例百選二二〇頁、後藤清未成年労働者の訴訟行為能力、判例評論三五号一二頁)
十、原判決は更に民訴法第四九条の解釈論に於て満十五才位の未成年者には、その思考判断力に於て未だ成熟しないものがあることから、訴訟遂行の複雑性、困難性を理由に未成年者の訴訟能力を否定すべきであるとして、この点については極めて即物的、具体的な考察を許しておき乍ら(前記<4>の前半)前記<4>の後半や前記<5>に於ては地位保全の仮処分申請等に於ては殆んど無意味の親権喪失宣言制度を揚言したり、訴訟の実際に於ては訴訟代理人に委任することが多いし、弁護士の附添命令等を活用すれば足りるとの肯定論を排斥するに当つて、右肯定説は法律論に非ずとして極めて抽象的形而上学的思考方法を取り入れるという厚かましい矛盾をおかしている。ここで問題とさるべきは生きた法の探究であり、就中本人訴訟に於ける未成年労働者と成年者若しくは老人との間における差異である。然る時実際の本人訴訟を前提とする限り、未成年者と成年者の能力の差異は五十歩百歩であり、むしろ近頃の若い者の方が主体性が確立されているだけに、訴訟に親しみ易いだけましだと言うべきである。いわんや、未成年者の労働契約に関する限り原判決の如き所謂、本人訴訟に限定して考える時は、訴訟の複雑性、困難性を理由とする親権者の訴提起、若しくは追行過程に於けるサボタージュ乃至は妥協こそが心配されるべきである。ともすれば親権者自身のことでもないし、会社のえらいさまににらまれたら、どうせ祿なことはないから少しでも金を沢山貰つて早く辞めさせた方が得だと考え勝ちな親権者に訴訟を委ねるよりは、一般的に近代法の権利義務の観念に立脚して具体的な労働の権利を追求し、使用者の不正を許さないとする不屈の精神に富む未成年労働者に訴訟を追行させることの方がどれ程か法の趣旨にそうところである。前記窪田年少者労働一三三二頁も単なる知能程度の差異による攻撃防禦方法の不手際であるなら、成年なるが故に常に未成年者より優れているとは限らないとしている。尚原判決はこの点について満十五才位の未成年者を判断の基準としているが、未成年労働者の中には満十九才十一カ月と二十九日の者もいることであるし、営業を許された未成年者の中に満十五才位の者がないとも言えないことであるし婚姻した女子未成年者は満十六才にして訴訟能力者となること及び訴訟の困難複雑性は労働争訟に限局される問題ではなく訴訟一般の問題であることを考えれば原判決の立論は余りにもかたよつた物の見方であると言うべきである。
第二民法第八二三条、第八五七条論
一、原判決は未成年者の親権者又は後見人が民法八二三条第八五七条の規定により子が職業を営むことを許可したときは、民法第六条第一項の営業を許可した場合に当るか否かをしきりに論議しているが、そのこと自体極めて無意味なことである。何故なら未成年者の親権者又は後見人が子に対し職業を営むことを許可したときは、民法第六条第一項をまつ迄もなく民訴法第四九条但書に該当すると解すべきだからである。
二、民訴法第四九条但書は民訴法第四五条と相俟つて、訴訟能力は原則として行為能力に準じて決定する旨定めている。かくして訴訟能力は訴訟能力一般ではなくあく迄も相対的なもの、(行為能力に相対的な特殊具体的なもの)である。換言すれば営業することを許された未成年者は、営業に関する訴訟についてのみ訴訟能力者となるのであつて(民法第六条)営業に関しない訴訟については依然として訴訟無能力者である。尚営業の許可自体が、そもそも何々業と云うように一種又は数種の種類を指定するを要し、一切の営業と云うような許可は、適法でないとされているのであるから未成年者営業者が訴訟能力を有するのは「一種又は数種の」許可された営業に関する限りに於てであつて営業一般について訴訟能力者となるのではない。
三、しかして右の如き場合に未成年者が能力者となる根拠は、法文に例えば能力者と看做すと言う表現が用いられているからではなく、あく迄も民法第六条の場合について言えば、一種又は数種の営業を営むことに対する許可自体によつて(婚姻をした未成年者について言えば婚姻と言う事実によつて)能力者になるのである。しかして一種又は数種の営業を許された未成年者は営業の開始だけではなく、その継続等営業そのものに関する一切の権利は勿論、営業の為に店舗を借入れ、使用人を雇入れるような準備行為、補助的行為等も営業に関する行為として未成年者単独で為し得るとされている。そして最早やここでは未成年者が能力者性を獲得する根拠が単に許可にあると言うだけでは全く説明がつかないことになる。無能力者制度は一言に言えば未成年者の保護の為の制度であるが、右制度は未成年者保護と取引の安全(取引の相手方の保護)と言う根本矛盾を内包している。未成年者保護の為には立法上、例えば民法第六条について言えば営業の開始を許された未成年者について、一定の重要な行為について更に親権者の同意を要するとすることも可能であり、場合によつては望ましいことでもある。然し乍ら民法がこのような取扱を許していないのは専ら取引の相手方保護の為である(我妻、民法総則五九頁(3)(ロ)参照)〔註二〕。即ち取引の相手方保護との調和が「能力者と看做」されることの実質的根拠なのである。取引の相手方保護の為の右の如き取扱は、単に営業を許された未成年者のみについての問題ではなく、会社の無限責任社員となることを許された未成年者についても、婚姻した(未)成年者についても同様である。然らば民法第八百二十三条等により未成年者が職業を営むことを許可された場合は取引の相手方を保護する必要は存しないだろうか。決してそうではなく、民法第八百二十三条等により未成年者が職業を営むことを許可された場合にも取引の相手方を保護する必要の存することは余りにも明白である。何故なら職業を営むことを許可された場合、未成年者は「通勤のためには交通機関を利用したり、オートバイに乗つたりせねばならぬのは当然であるし、勤務先によつては絶えず身の装いを新たにせねばならない。親の許を離れて勤務する労働者にいたつては、その勤務ならびにその基底たる日常生活の必要からの行為の範囲は一そう広いわけであつて、その行為能力を認める必要は婚姻した未成年者の場合と変りはない」(後藤清未成年労働者の訴訟行為能力十三頁、十四頁)従つて営業を許された未成年者の場合等と同様に、取引の相手方を保護する必要が存するからである。果して然からば民法第八百二十三条等の解釈上職業を営むことを許可された未成年者も又他の場合と同様、行為能力者となると解すべきことは当然である。
四、ここで問題になるのは、民法第八百二十三条等の場合には「成年者と同一の能力を有す」と言う趣旨の条文上の字句がないことである。然し乍ら法律の解釈はあく迄も目的論的に為されるべきであつて、単なる文理解釈に止まるべきではない。法の解釈に当つて特定の条文を無意味の冗文或は空文とする他仕方のない場合すら存することを想起すべきである。以上のとおり未成年者が民法第八百二十三条等によつて職業を営むことを許可された場合には、右許可があつたというだけで職業を営むことが、民法第六条に所謂営業に当るか否かを論ずる迄もなく、未成年者は能力者となると解すべきである。
五、仮にそうでないとしても民法第六条にいう「営業」と同第八二三条等に所謂「職業」とは原判決の言うごとく、必ずしも排斥し合う概念ではない。原判決は民法第六条に謂う「営業」とは商業又は広く営利を目的とする事業に限られるのであるが、「職業」の概念は広く継続的な業務をいい、営利を目的とすると否とを問わないものであつて、営業よりも広い観念である。従つて民法第八二三条、第八五七条により親権を行う者が未成年者に対し職業を営むことを許可したものということはできないとしているが形容矛盾である。蓋し職業を営利を目的とすると否とを問わない営業より広い観念だと解する限り、営業は職業の一種として職業の中に包含されることになり(同旨、我妻栄外親族法相続法コンメンタール二七五頁、末川博外民法総則物権法ポケット注釈全書一九頁等)職業の許可は当然に営業の許可を包含することになるからである。
六、この点について控訴人は民法八二三条等により、職業を営むことを許可された時は、民法第六条民訴法第四九条但書によつて訴訟能力を有すると解するのであるが、その文理的根拠は民法第八二三条第一項が「職業を営む」と言う表現を用いていること、同第二項が第六条第二項を引用していることからすれば、第六条の営業というのも職業を営むことの省略と解し得ないわけでもないことに求められるし(前記兼子一未成年者の訴訟能力参照)、実質的に考えても大判大正四、一二、二四民二一八七頁が四〇ケ月三〇〇円の給金をもつて抱えられる芸妓となることを民法第六条にいう営業と為していること、民法第六条が営業を許可された未成年者に営業に関し成年者と同一の能力を認めたのはその活動範囲の広いことにかんがみ、その活動を容易ならしめるためであつたが、今日の未成年労働者も又営業に従事する者以上に活動範囲が広まつていることを考えると民法第六条の適用範囲を他人の計算における事業に労務を提供するにすぎない労働者にも拡げらるべき理由は十分に具つているのである〔後藤清未成年労働者の訴訟行為能力(前記三に引用済)〕。
七、控訴人と同様の見解は労基法第五九条の立法趣旨に関する末弘博士(立案者の一人)の説明にも表れている。同博士は言う。「民法によると『営業を許されたる未成年者は其営業に関しては成年者と同一の能力を有す』(六条)るから親権者等の許可を得て労働者となつた未成年者は『営業を許された』ものとして、成年者と同様独立して賃金を受ける権利を有するとの解釈が成り立ち得る訳であるが、本条は端的にその趣旨を規定して未成年者が独立して賃金請求権を行使し得ること……を明らかにしたのである」と(末弘労働基準法解説法律時報通巻二一五号三三頁)。従つて未成年者が職業を営むことの許可を受けた場合は民法第六条に所謂営業の許可を受けたことに該当することは明白であり、原判決のこの点の見解も失当である。
〔註一〕 我妻栄民法総則五五頁乃至五七頁は次のように言つている。「無能力者制度は精神能力の不完全な者の財産を保護し、みだりに喪失しないようにする制度である。精神能力の不完全な無産者がみずから生活資料を獲得するために法律行為をなすに当つては殆んど実益のないものである。これらの者のためには労働立法その他の社会政策的立法によつて国家の積極的保護を必要とする、そしてかような制度が諸国において日を逐うて増加していることは顕著な現象である(労基法第六条以下参照)。精神能力の不充分な有産者を保護する無能力者制度は取引の安全のために制限され、精神能力の不充分な無産者を保護する社会政策的立法は次第に増加する。社会における法律関係は正常なる個人意思によってのみ、規律されるべきだとする近世法の大原則が既にその根柢をうごかされてきたことを察知し得るのではあるまいか。」
〔註二〕 同右五九頁(3)(ロ)は「法定代理人が営業を許すには、(a)営業の種類を特定することを要する。なぜなら、(i)種類を特定しない許可(いかなる営業を営むも妨げないというような許可)は未成年者保護の趣旨に反する。(ii)然し一箇の営業を更に制限して許すこと(学用品の小売を許可するが五百円以上の取引は法定代理人の同意を要するというようなもの)は、未成年者の営業的活動を牽制するだけでなく、取引の相手方に不測の災を及ぼす虞がある、」としている。
第三労働基準法第五十九条論
一、原判決は労働基準法第五十九条が「未成年者は独立して賃金を請求することができる。親権者又は後見人は未成年者の賃金を代つて受取つてはならない」と規定していることについて「賃金請求は厳格なる意味において法律行為ではなく、未成年者に対して実体法上の請求権を与えたものとは解し難い」としている。然し原判決のこの論旨は極めて形式的に、平面的に解釈しているものであつて不当である。
1 まず第一に、賃金請求という行為そのものは、厳格なる意味において法律行為ではないとしても、右労働基準法第五十九条の規定が、実体法上の賃金請求権を未成年労働者に与えたものと解しなければ同条項を中心とする親が子を喰い物にするという悪習を根絶するための未成年労働者の保護の規定の趣旨は完徹されず、一体何のための規定であるかということになろう。
2 次に右基準法の規定によれば、未成年者の親権者や後見人は未成年者の賃金を、未成年者に代つて受取つてはならないのであるが未成年労働者に、実体法上の賃金請求権が無いとすれば、原判決は代つて受取ることのできない親権者や後見人に請求権が与えられているとでも言うのであろうか。まさか、その様な趣旨を云わんとするものではなかろう。とすれば、賃金請求権を持つているのは一体誰であるのか。右基準法の規定よりすれば、当の未成年労働者以外には存在しないではないか。
3 第三に賃金は、飽くまでも労働の対価であり、従つてその賃金請求権は、労働契約の当事者であり、労働をした者である労働者が有するものであることは明らかである。
その労働者が実体法上の賃金請求権を有することについて、原判決は否定的見解を採ることになるのであろうか。そうでないとすれば、当該労働契約の当事者であり(労働基準法第五十八条第一項)、且つその労働をした者である未成年労働者が、如何なる理由でその労働の対価である賃金を請求する実体法上の権利を持つていない、若しくは与えられない、と言うことになるのであろうか。その理由は未成年労働者の保護のためであるとでも言わんとするのであろうか。元来働いた者が、労賃を受領するのが当然の事理であるのに、未成年者に対しては悪徳な親たちが、その当然の事理をわきまえないからこそ、当然のことを基準法が規定しているのである。切角のその当然の事理を規定している基準法を、原判決は誤れる未成年者に対する保護観から曲解しているものと言う外はない。
二、次に原判決は「実体法上の請求権を認められた場合は全て訴訟法上の請求権をも認められたものとは結論することもできない」とし、「労働基準法第五十九条前段の規定は同法第二十四条の賃金直接払の原則を、未成年者の場合につき注意的に規定したものにすぎない」としている。これは実体法と手続法とを全く形式的に分断するものであり不当である。
1 実体法上請求権を認められた場合、その請求権を実現するには、訴訟法上も認められるものとしなければ、実体法上の請求権を実現する方法が無い訳である。その請求を受ける者が任意に、請求に応ずるならとも角、そうでなければ、訴訟法上請求権が認められなければ実体法上の請求権は請求権を有している、という丈のことであつて何のことはない空中に向つて叫ぶことが出来る。という位のことに過ぎないことになる。
2 労働基準法第五十九条が、未成年者に対して、賃金を独立して請求し得る権利を与えた当然の結果として、未成年者に対して、賃金請求に関する訴訟能力を認めることは判例、学説の通説である。賃金請求に関する訴訟能力を認める以上は、未成年者が独立して、賃金請求訴訟をなし得る権利を認めたものであることは言うまでもない。
3 基準法の右規定が賃金直接払の注意的規定にすぎないとする原判決の論旨は全く右規定が、未成年労働者保護の中心の一つとなつていることを看過したものと言うべきである。注意規定どころか、右1、(イ)の如く、親が子を喰い物にする悪習を根絶するための中心規定の一つである。この点からしても原判決は基準法の解釈において、同法の趣旨とする未成年者保護の精神についての理解が不充分であるというべきである。
三、更に原判決は「基準法第五十九条の規定の解釈と訴訟の遂行を考慮するときは、右規定を以つて、訴訟法上の請求権を認めたものと解することはできない」とし「賃金請求についてのみの規定をもつて、労働契約から生ずる全ての争訟について訴訟能力を肯定するのは文理解釈の範囲を逸脱する」としているが、これは形式的な文理解釈にすぎない。
1 この点については労働基準法第五十八条とも関連するけれども、同条項が親権者及び後見人が未成年者に代つて労働契約を締結することを禁止し、基準法第五十九条が未成年者の独立賃金請求権を規定している趣旨は飽くまでも、未成年者が、自らの意思で締結した労働契約により、特定の使用者との間に継続的に労働契約を中心とする生活関係を営んでいる場合には少くともその生活関係を維持して行くために必要とする諸種の法律行為については、使用者に対する関係も含めて、法律上完全独立の人格者として遇することにより子供を自分の財産視する親権者後見人に対して未成年者を保護せんとするものであると解すべきである。
2 原判決は、基準法第五十九条のみをとりあげて、その規定するところは賃金請求のみであるという点を強調しすぎる余り、右五十九条を同法第五十八条との関連において、とらえ様としないのは、基準法の未成年労働者保護の趣旨を正しく解釈するものではないというべきである。
3 基準法第五十九条を同法第五十八条との関連において正しく解する限りは、労働契約関係について未成年労働者が独立して存することのできる行為の範囲は、基本となつている労働契約より流出した個々の部分的な権利行使である賃金の請求及び受領に止まらず、第五十八条の明記する労働契約の締結に始まり、その存続、その態様についての諸種の要求を使用者に対して主張すること、更に労働組合の結成に参加し、その中での諸種の活動を行うことにも及ぶべきであり、右の諸要求及び諸活動についての諸問題を裁判の内外を問わず、その解決について、独立して主張することが出来ると解するのが妥当というべきである。原判決は右の点を全く看過して基準法第五十九条のみの文理解釈ということで問題をずらしているか、そうでないとすれば形式的な文理解釈により自繩自縛に陥つているものという外はない。
4 更に、原判決は「訴訟の遂行」という点を掲げその結果の重大性及び訴訟行為の内容の複雑さを理由として、あたかも、未成年者の訴訟能力を否定することが、未成年者の保護になるかの如き論旨を述べているが、極めて表面的な形式的な立論という他はない。その理由はつぎのとおりである。
(1) 原判決は未成年者が思考判断能力に成熟しないことが顕著であるとしているが、これは原判決に関与した裁判所における極めて形式的な、独断的な主観的な「顕著」であつて、所謂、立証することを要しないという意味の「顕著」なるものではない。満十五才以上の未成年者は既に国家が必要にして充分であるとして決めている義務教育を終つており、一本立ちで社会生活を営むことが出来る能力を国家が承認している者であり、特に新しい民主主義教育を受けている結果、その人権感覚は明確であり、法的思考能力も充実しており「長い物にまかれる」式の封建的、権威主義的な、退嬰的な親よりもその主体性の確立において勝れている。このことこそが顕著ということのできるものである。だからこそ、基準法が、賃金請求及び労働契約について、親権者、後見人の介入を排除して、未成年者の独立の行為を是認しているのである。
(2) 訴訟一般においては、種々の抗弁が出されて複雑な関係が生ずることもあるという点については別に争うところではないが、そうだからと言つて、いやそうであるからこそ未成年者を含めて、所謂本人訴訟というものを裁判所が歓迎していないことが顕著である。裁判所は、本人が出頭すると、極力弁護士を代理人として委任して訴訟遂行をする様にすすめているのが実情である。従つて極めて簡単な、法律上も事実上も争いのない事件以外は殆んど全部が弁護士である代理人によつて訴訟の遂行がなされている。この事実を原審は顕著な事実として認めていないのは不当であり、余りにも表面的な判断の仕方であるといわざるを得ない。この点については未成年者の関与する訴訟についても全く同様である。
(3) 更に原判決は、種々の抗弁が出されて訴訟関係が複雑になるということを極力主張し、未成年者の能力をもつてしては訴訟の追行に不安なきを期し難いとしているが原判決のこの論旨は、諸種の抗弁が出されて訴訟関係が複雑になるのが、恰も未成年者の関与する賃金請求訴訟或は解雇無効確認請求の訴訟にのみ特有のものであるかの如き主張である。そしてそのことのみを理由として労基法第五十九条前段の規定が、未成年労働者に訴訟能力を与えたものと論断することはできないとしている。未成年者の関与する訴訟のみが、特に複雑であるということは、全く根拠のない主張であり、このことをもつて、未成年者に訴訟能力を認めることは妥当でないとしているのは不当極まる主張であると言わざるを得ない。原判決の論法は、未成年者の訴訟のみが特に複雑であると前提し、その前提に立つて、不当にも、一般的に、未成年者の訴訟能力を否定しようとしているものであり、誤魔化しの論理というべきである。
四、原判決は「未成年者に例外的に訴訟能力を認めた民事訴訟法第四十九条但書の趣旨が成年者と余り変りのない法律行為の可能な未成年者を予定していることに鑑みるときは云々」として未成年労働者は成年者と余り変りのない法律行為をする能力を持たないものとしている様である。
1 この点については、未成年者に対する営業及び職業の許可の点と関連して、労働基準法第五十八条を中心とする陳述において詳細に論じているとおりであり、未成年労働者が成年者と余り変りのない法律行為をすることができないものと断定することは不当であり、右3(イ)において陳述した如く、未成年労働者が労働契約関係を含めて社会生活関係の中で諸種の法律行為を行つていることは顕著な事実であり、この諸種の生活関係の中において未成年労働者は成年者と全く変らない法律行為を行つているのである。
このことに鑑みるときは、原判決の判断が不当なものであることは明らかである。
2 原判決は、賃金請求や受領は法律行為ではない、民訴法四十九条但書は成年者と変りのない法律行為の可能な未成年者を予定している。従つて未成年者の法律行為でない賃金請求については民訴法四十九条但書の適用はないという形式的な三段論法を駆使して、右(イ)に述べた事実を不当に黙過しているものというべきである。
第四、
一、原判決は未成年者は労働契約より生ずる争訟につき、すべて訴訟能力を有しないものであるとし、法定代理人に対し訴訟能力の欠缺を補正することを命じ所定期間内に右補正命令に応じなかつたから本件申請を却下した。しかしながら、原判決の未成年者に訴訟能力なしとし、法定代理人に代理権あるとする原判決の見解は明らかに誤りである。
二、民事訴訟における訴訟能力及び無能力者の法定代理は特別の規定のない限り民法その他法令に従うものとする(民訴法第四五条)。これは、訴訟能力は民法、労働基準法、船員法等実体法上の行為能力に関する規定によるとする趣旨である。従つて未成年者が実体法上行為能力ないとされる事項については訴訟能力もなく、反対に実体法上行為能力がある事項に関しては未成年者も訴訟能力を有するのであり訴訟無能力者の訴訟行為の代理は民法等実体法の定める法定代理人がなすのであり、何人が法定代理人であるか、その代理権の範囲内容等は全て実体法の規定による(但し、法定代理人の同意権は特別規定なる民訴法第四九条本文により否定される)のであり実体法上の法定代理人であつても実体法上代理権が制限される場合には、訴訟法上の法定代理人たり得ないのである。この行為能力、訴訟能力、法定代理の実体法と訴訟法の関連性、統一性は民事訴訟が実体法上の権利の実現の過程であり又法秩序法律制度の統一性の理念からも当然首肯できるところである。
三、ところで、原判決は、未成年者は労働契約に関する争訟につき訴訟能力を有せず法定代理人が代理すべしと主張するが一右原判決の見解が誤りであることにつき、未成年者が労働契約に関し行為能力者であり訴訟能力を有することは別に詳論するので、ここでは未成年者の労働契約に関する事項につき親権者後見人等の法定代理人は実体法上法定代理権を欠くものであつて、従つて訴訟行為についても法定代理人たり得ないことを論証し原判決の誤りを明らかにする。
原判決は、未成年者に労働契約に関する訴訟に訴訟能力ありとする名古屋高等裁判所の決定(昭和三五年一二月二七日決定)に対し、種々反論を試みているが、右反論は全く当を得ないひとりよがりの議論に過ぎない。右名高裁決定は懇切丁寧に「労働契約の締結は未成年者保護と親権者の権利濫用の防止の立場から満十五才以上の未成年者が自らなすべきで親権者又は後見人は代つてなすことが出来ないところであるから満十五才以上の未成年者は労働契約に関する訴訟を自ら有効になすことが出来る」と判示しているにも拘らず、原判決は「労働基準法第五八条の規定の趣旨が未成年者の保護と親権者の権利濫用を防止するために設けられたものであることは所論のとおりであるけれどもそれだからと言つてどうして右規定が未成年者に訴訟能力を認めたことになるであろうかその間十分の理由付けを欠く」とか「右労基法の規定の文理解釈上は無理」「右規定の趣旨から未成年者に訴訟能力を認めたと解することも相当でない」「満十五才位の未成年者はその思考判断能力において未だ成熟していないことは顕著な事実であるから、かかる未成熟者に訴訟能力を与えることが果して未成年者保護になるであろうか……却て訴訟無能力者とすることが未成年者を保護する所以である」と論じているが右は、右名高裁決定の判示の最も重要な部分である未成年者の労働契約に関する行為能力及び法定代理人の代理権の欠缺と未成年者訴訟能力との実体法と訴訟法との統一性関連性の説明を、故意に、不注意かこれを看過し、自己に都合の良い主題を選び出し、ひとりよがりの勝手な議論を展開しているに過ぎないのであり到底他を納得せしめ得る反論となり得ないものである。
四、未成年者が労働契約を締結すること及び右に附随する事項につき法定代理人は代理してこれをなす権限(代理権)を有しない。
民法は未成年者を行為無能力者とし、親権者又は後見人が未成年者を代理してなすことができるものとしている。しかし民法の右の原則は、その後に制定された労働諸法規により変更された(この点に関し民法と労働諸法規は一般法、特別法の関係にある)。
船員法は成文を以つて明確に解決している、即ち船員法第八四条は「未成年者が船員となるには法定代理人の許可を受けなければならない、前項の許可を受けた者は雇入契約に関しては成年者と同一の能力を有する」と定めている。この「成年者と同一の能力を有する」とは未成年者は行為能力者であり法定代理人の代理権は消滅することを意味する(我妻民法総則六〇頁)。一般の未成年者の労働関係について労働基準法は、未成年者の行為能力につき直接明文を以つて規定していない。それは労働基準法が国家的取締法規の性格の強い法律であるが故に未成年者の能力につき明文を備えないというだけであり同法の中の未成年者に関する規定より未成年者の能力に関する労働基準法の規整は十分に知ることができる。同法第五八条第一項は親権者又は後見人が未成年者を代理して労働契約を締結することを禁止しておりこれは労働契約につき親権者後見人の法定代理権を否定する趣旨であることは明らかであり、又同法第五九条は労働の対価である賃金について未成年者が独立に受領すべきもので親権者等が代つて受領できないものとしている。賃金の受領は厳格な意味での法律行為の代理ではないが労働契約における労働者の最も重要な権利についての管理権を未成年者本人に認め親権者等の代行を認めないものであり、先の労働関係の最も基本である労働契約の締結に関し法定代理人の代理を許さないことを合せ考えれば未成年者の労働関係につき労働基準法は法定代理人の代理権を認めていないものである(我妻前掲六四頁)。一般に未成年者の法定代理人は同意権と代理権を有しているのであるが、労働関係に関しては法定代理人は同意権は別として、代理権は労働基準法により消滅させられ代理する権限を有しないものである。この労働関係における法定代理人の代理権の制限は単に労働契約の締結賃金の受領に限られるものでなく、労働契約に附随して生ずる問題、即ち労働契約存続中の転勤等種々の労働条件(契約内容)の変更、或は契約の消滅(労基法第五八条第二項は親権者等に解約権を与えているが、これは保護者としての固有の権限であり法定代理権の行使ではない)、労働組合への加入健康保険、厚生年金保険の加入(強制適用事業以外の事業主は労働者の同意を得て申請する健保法第一四条厚生年金法第一〇条)等労働関係の全般につき親権者等の法定代理権は存在しないのである。
五、民事訴訟法は未成年者の訴訟能力につき第四九条本文は「未成年者、法定代理人に依りてのみ訴訟行為を為すことを得」と規定しているが右規定は同条但書に該当する場合を除いて全てにつき法定代理人が訴訟に関し代理する旨を定めたものではない、即ち法定代理人の定義概念それ自体、それは実体法(民法)に依るものであり、従つて実体法上法定代理人の代理権が制限される場合(例えば民法第八二六条利益相反行為)には、右第四九条本文があるからと言つて法定代理人は訴訟上代理人となることはできない、換言すれば法定代理人であつても実体法上法定代理権が制限される場合には訴訟上代理人とならない。このことは民事訴訟法第五六条の存在からも容易に首肯できるものである。労働関係に関し未成年者の法定代理人の法定代理権が実体法上存在しないことは前述したとおり明らかである。従つて未成年者の労働関係の訴訟につき、仮りに民訴法第四九条但書に該当しないとしても、親権者等の法定代理人に訴訟上の法定代理権は認められないところとなる。即ち実体法上において代理権のない法定代理人は訴訟法上も代理権はないのである。この点においても原判決が法定代理人が訴訟法上の法定代理人であるとし補正を命じたことは誤りであつた。仮りに百歩譲つて原判決の未成年者は労働関係訴訟につき訴訟能力がないとするのが正しかつたとしても、原判決は法定代理人に補正を命ずるべきでなく何等の方法で特別代理人を見付けてそれに補正を命ずるべきであつた(民訴法第五六条は被申請人被告の場合であり他に本件の如き場合特別代理人を選任する規定手続は存しない(利益相反は、民法八二六条、家事審判法第九条、同規則六七条))。未成年者の労働関係の訴訟につき親権者等の法定代理人が訴訟法上法定代理人たり得ないし、又この場合特別代理人を選任する規定も手続も存在しないのであり未成年者の労働関係については法定代理人は何処にも存在しないのである。
六、未成年者の労働契約に関するものについては特別法たる労働基準法により法定代理人の代理権は消滅し、法定代理人は未成年者の労働関係の訴訟につき代理すべき資格を有しない。従つて労働契約に関する訴訟については未成年者自身が完全な訴訟能力者であり(菊井、村松コンメンタール一六七頁)原判決の誤りは明らかである。
控訴人の準備書面(昭和三八年一月二三日付)
一、すでに詳論したとおり、未成年労働者に労働契約上の権利ないし地位に関する訴訟能力を否定する見解は理論上実際上誤りであることは明白であるが、念のため昭和三七年一〇月一九日付被控訴人準備書面に反論し、控訴人の主張を補足する。
二、被控訴人は前記準備書面三、においてまず労働基準法第五八条を根拠とする見解の誤つていることは、明白としているが何がゆえに控訴人見解を誤りとするのか全然不明である。その前段に「右の労働基準法の規定(同法第五八条のこと)は労働契約に関して未成年者が親権者から独立して自由に契約締結能力を有することを規定したものでない」といい、これをもつて未成年労働者の解雇争訟等についての訴訟能力を否定する理由づけとする意でもあるようであるが、本件で問題となり控訴人の詳論してきたのが契約締結能力でなく、正に訴訟能力自体であることは余りにも明らかであり被控訴人の主張はいささかも論証されていない。
控訴人は締結された労働契約上の権利ないし地位についての争訟(とくに本件のごとくその使用者による解除という労働契約及びこれに伴う法律、生活関係の死命を制する法律行為に対する訴権の行使)につき立論しているのであり、労働契約を未成年者が親権者の許可なくして自由に締結できるかどうかという議論をしているのでなく、本件でこの点が問題となつていないことは明瞭であつて、被控訴人の主張は理由づけを欠くばかりか、全く的はずれという他はない。
三、そもそも近代市民法は封建的身分から解放されたすべての人を自由平等な独立の人格者として取扱い、およそ他人の労働を利用する関係をそれらのものの間の自由な契約として把握するものであつた。すなわち労働力を商品として売買するところに資本制社会の本質があるのに対応して、他人の労力を利用する関係は法的には売買や賃貸借と同列の財の交換関係=債権関係と考えられたのである。しかし資本主義経済の発達に伴い、大企業組織とおびただしい賃金労働者群が輩出するにおよんですべての事情は一変してしまつた。独立対等者間の自由な契約という雇用の法形式のもとに展開された現実は、これと全く異なり、雇用は事実上資本に従属する賃金労働者が生活上やむなく締結せざるをえない不自由な契約へと転化してしまつた。このような過程で女子及び未成年の労働力も大量に工場制のなかへ組入れられてゆき酷使の弊害は目に余るようになつた。とくに未成年者の雇用に関しては、親が子の代りに事業主と労働契約を結び、子に代つて賃金を受取る身売りに近い悪弊が横行し目に余るようになつた。
この弊を除去し一旦親が働くことを許可した以上未成年者に自らの手で働き自らの手でその対価たる賃金を受領し、労働契約上の権利を独立して行使し、その地位を独立して有することを認めたのが労働基準法であり、民法の未成年者に関する各規定はここに適用を排除、修正されるに至つたのである。
学者はいう「労使関係に適用せられる法規範はますます深く市民法上の契約を規律する法規範と異つてくるようになつた。例えば
(1) 行為能力に関する市民法上の法規範は、未成年者の利益のために法により明示的に斥けられ、労働関係においては未成年者自身が広い行為能力を与えられて、契約当事者として登場するようになつた(民法四条、八二四条、八五九条の原則に対する労働基準法五八条参照)。」(弘文堂、講座労働問題と労働法5賃金、労働条件と労働基準法第五章九労働契約外尾健一、二六五頁)
ここでは未成年者自身が労働契約を締結し、親権者は代理権を行使することは許されず、締結した労働契約及びこれに伴う一切の法律関係につき独立して完全な行為能力を具えるのであり(五八条二項はこれに附加された保護規定である)、したがつて民訴法第四九条但書により労働契約締結以後その解除(又は終了)にいたるまでの一切の法律関係につき訴訟能力を有するのである。
四、労働基準法第五九条は同法第五八条と相まつて、前記のように親による子の身売りに近い悪弊が見られた点にとくに着目し、中間搾取いわゆるピンハネの禁止及び未成年労働者自身の利益保護の観点から、歴史的に顕著な具体的事実について未成年労働者の独立の地位と親その他による介入禁止(親権が濫用されるから)を明確ならしめたものと解すべきである。
五、職業と営業の関係については原判決の誤れる見解のくり返しに過ぎず多言を要しないが、職業と営業の機械的、形式的分離と同様に未成年の財産保護とその監護教育的見地をその各々に分離してあてはめることの誤りを指摘するに止める。
何とならば営業についても、たとえばバー・アルサロの類のいわゆる風俗営業については、当然に監護教育的見地から親権者の許可が制約されうるであろうし、職業についても労働が苛酷で未成年者の肉体の労働力を消耗しつくすというような場合に、その職業を許可しないというのは客観的に財産保護の見地が働いているといいうるからである(無産者にとつては労働力が唯一最大の財産である)。
いずれにせよ遠隔の都市における労働が一般化し労働生活が多様複雑化した現在、職業を営業と切り離し異別視すべき理由は行為能力―訴訟能力につき存在しない。
六、現在労基法適用事業場で働く一八才未満の年少労働者は、百三十五万一千人にのぼり、総労働者数の六・五%を占めている(青少年白書昭和三七年版一四八頁)、これによれば未成年労働者の総数は二百万人をこえ、全労働者数の一〇%にもあたる比率を占めることが推定される。
しかして、これら未成年労働者の大多数が「今どきの若い者」どころでなく主体性と権利意識をもつてその職場の労働に、労働組合活動にきわめて重要な役割を果し、社会と職場の矛盾に目を向け、不正な資本の攻撃と闘つている。
未成年者保護、親権の濫用防止をいうならば原判決のごとく口の先の語り合せのような形式論(しかも既述のような多くの矛盾憧着がある)でなく、現時における未成年労働者の真の保護、親権の危険性を考慮した歴史的社会的合法則性ある法解釈の態度を取るべきであり、金権に抗して前進しようとする未成年労働者の生活と考え方の実態を法廷の場においてもとくと見るべきである。
控訴人は原判決に右の観点が全く欠除し、未成年者保護と親権行使についての把握が本末顛倒し、その結果労基法民訴法の誤つた解釈に陥つていることを指摘して原判決の破棄差戻を求めるものである。
控訴人の準備書面(昭和三八年四月四日付)
一、被控訴人は、昭和三七年一〇月一九日附準備書面二項において民事訴訟法第四九条を厳格に解釈して、未成年者が労働契約を締結する場合の如く、契約締結に際して、親権者等の許可を要するとされる場合は、独立して法律行為を為すことを得る場合に該当しないから、未成年労働者は訴訟無能力者であると断定されているが誤りである。
二、ここで問題になるのは、契約締結に当つて許可を必要とされる場合に、尚独立して法律行為を為すことを得る場合と云い得るか否かという分類上若しくは形式上の問題ではなく、未成年者の労働契約締結に当つては何故に一般の場合と異つて、親権者等の代理権行使が制限されなければならないかということであり、(労働基準法第五十八条の立法趣旨であり)或る事柄について実体法上代理権行使を禁止されなければならない者に、その事柄についての訴訟については代理権行使を認めても、実体法上の代理権行使禁止の趣旨が没却される恐れはないかという点である。
三、この点についての控訴人の見解は既に詳論したとおりであり、繰返し述べないが被控訴人がこの点について答えない限り被控訴人の見解は形式論理の域を出でず、法の正しい解釈としての説得力を有しないものである。
四、被控訴人は更に親権者のもつ営業の許可権は未成年者の有する財産保護の見地からする規定であり、職業の許可権は未成年者の監護教育的見地からする規定であるから、後者の許可は当然に前者のそれを意味するものではないと主張される。しかしながら、職業に対する許可が監護教育的見地から為されるか否かの前に、今日の社会に於て職業がしかく、営業と相容れないような異質なものか否かが先ず問題とされるべきである。しかして、この点については後藤清教授の指摘される通り、現在の社会に於ては営業と職業は完全に重なり合うに至つているのである。地獄の沙汰も金次第だとの諺は古くから言いならわされているが、近頃ではいまどきの者はドライだと感歎される程、世間の人特に未成年者は勘定高く「財産保護の見地」に合目的的に行動するようになつているのである。このことは職業と営業との間に今日に於ても厳然たる相異があるにも拘らず、人間の方が一方的に営業的になつて来たことをいみするのではなく、資本主義社会に於ける物神崇拝性が早くから指摘されていた如く(山中教授は民法の最端緒法範疇としての「人」の概念を「人」とは「物」の魂たり手足たる存在だと説明されている。山中康雄市民社会と民法、日本評論新社)人間が働きかける対象の面に於て全てが営業的になつている為である(職業の営業化)。したがつて今日の社会に於て職業に対する許可はそれが未成年者の監護教育的見地を重視されて為されると否とに拘らず、同時に職業のもつ営業的側面を無視しては決して為されないのであるから、営業の許可と職業の許可を全く異質的なものとして悛別する被控訴人の主張は全くの形式論であり、社会の実態に故意に目を蔽うものである。
五、被控訴人は更に労基法第五十九条によつて賃金請求のみについて、訴訟能力を認められているとしても労働契約一般に関して訴訟能力を認められたものとするのは根拠がない主張だと述べる。しかしながら、法の解釈は全体的見地に於て為されるべきであり、右規定は労基法第五八条等の規定と相まつて、労働契約に関する未成年者の独立的行為権を前提にした上で特に労働契約上労働者にとつて最も重要な賃金請求について注意的に規定したものと解すべきであるから、右規定を根拠にして、労働契約一般に関して訴訟能力を認めたものでないとするのは謬論である。
控訴人の準備書面(昭和三十八年五月二十八日付)
一、被控訴人の主張の如く、未成年労働者の労働契約に関する訴訟能力を否定する立場を取る時、同じく労働契約の締結当事者でありながら、船員の場合には訴訟能力者とみなされるのに反して、陸上労働者の場合には訴訟能力を否定されるという矛盾(くいちがいの根拠)を一体どのように説明されるのだろう。しかも、雇入契約の性質については、労働契約以上に多くの理論的な問題が論議されているのであり、雇入契約に関する訴訟の方が陸上労働に関するそれよりも一層追行上の困難が予想されるのであるから、同じ能力を有する者が、偶々海上労働を選択したという一事をもつて、或は海上労働の特殊性というだけの理由で、右違いを説明することは到底できないというべきである。このいみにおいても、被控訴人の主張の誤りは明白である。
二、尚この点について、未成年船員が陸上の未成年労働者よりも高度の判断能力を有するものではないことは認めながらも、今日甲船を下船して翌日乙船に乗船する場合に、遠隔の地にある法定代理人の同意を得ることが殆んど不可能であるという海上労働の特殊性から、船員法においては公認制度(公認手続)を設け、陸上の未成年労働者に対する法定代理人の保護並びに労基法第五十八条第二項所定の行政官庁の保護に替えているとの独自の前提を設けた上で、控訴人の所論(船員法第八四条が船員以外の労働者に準用されるとの主張)を失当とする見解がある(名古屋高裁昭和三七年(ネ)第二六号事件における被控訴人の主張)。
三、思うに、右立論(公認制度が陸上未成年労働者に対する法定代理人の保護並びに労基法第五十八条第二項所定の行政官庁の保護の代替物であるとの立論)が成立する為には、公認制度が雇入契約の効力を左右できる権限(例えば、陸上未成年労働者の法定代理人の契約締結同意権、若しくは契約解除権に匹敵するような力)を持つていなければならないことは当然である。
四、しかるに通説は右公認の効力について、証明説を取つているから、右見解はこの点において、既に理由がないといわなければならない。即ち、通説は公認の効力について、次のように説いているのである。
(1) 別所成紀、海事法規解説改訂版、海文堂、一三四頁「雇入契約の公認とは、雇入契約の成立・終了・更新(法律関係の存続期間が満了したとき、その期間を延長すること)又は変更があつたこと、及びそれが適当且つ適法なものであることを行政官庁が証明することをいう。」中略。「然し、公認は、雇入契約の効力とは関係がない。」「従つて例えば雇入契約が実際上締結されているときは、たとい公認を受けていなくても、船員は、労務を提供する義務を負い、給料その他の報酬を請求する権利を有し、又、その期間は乗船履歴に算入されることになる。これに反したとい公認を受けていても事実上雇入契約が締結されていないときは、反証を挙げてこれを覆すことができるのである。」
(2) 同旨、山戸嘉一、船員法―解説と研究―、海文堂、一二三頁。
五、以上の如く、公認制度に雇入契約の効力を左右する力がない以上(船員法第一〇一条所定の必要な処分も雇入契約の効力を左右するものではない)、右主張は根底から崩れ去るものである。又実質的に見ても、公認制度が、右主張の如く、今日甲船を下船して翌日乙船に乗船する急場の法律行為について、法定代理人の同意を得ることが出来ない時間的ギヤツプを埋めるものであるとすれば、速かろう悪かろうのスラングを援用する迄もなく、その効果に期待することは出来ないのであり、到底未成年労働者の労働契約締結に対する保護の役割を果し得るものではない。
六、更に、公認手続の実際を見ても、船員法第三八条に「行政官庁は、雇入契約の公認の申請があつたときは、その雇入契約が航海の安全又は船員の労働関係に関する法令の規定に違反するようなことがないかどうか、又当事者の同意が充分であつたかどうかを審査するものとする」とされていることからも明らかなとおり、公認制度の目的は、(1)雇入契約が法令に違反するのでないか否か、(2)合意が存したか否か、の二点の審査につきるのであるから、右公認制度と、(労働契約が法令に適合していることを前提にした上での)職業選択の場における未成年労働者の財産保護を目的とする無能力者制度とは全く異質の制度といわなければならない。両制度の異質性は無能力者制度が、契約締結における保護(同意権)の問題(契約締結自由、職業選択自由の制限の問題)であり、比喩的に言えば、契約を締結すべきか、すべかざるかの問題であるのに対し、公認制度においては契約を締結したか否かの問題であつて、契約を締結すべきか否かは完全に未成年者の自由意思に委ねられており、未成年船員の財産の保護自体は全く考えられていないところに端的に表われている。
七、しかして、右主張によつても、前述の如く、未成年船員と陸上の未成年労働者とは判断能力の点において変りはないとせられるのであるから、労働契約締結について、陸上の未成年労働者と海上のそれとを、区別して取扱うべき理由は全く存しないことになる。
八、よつて、被控訴人の主張こそ失当である。
被控訴人の準備書面(昭和三七年一〇月一九日付)
未成年労働者の訴訟行為能力について
一、結論から云えば被控訴人は原判決の判旨に賛成するものである。
原判決の分類する通り従来この問題については
(1) 未成年者は労働契約から生ずる凡ての訴について訴訟行為能力を有すると云う考え方
(2) 賃金請求に限り訴訟能力を認める考え方
(3) 凡て訴訟能力を否定する考え方
の三説がある。
二、ところで訴訟行為能力の問題であるが、これは勿論裁判と云う場合において如何なる者に訴訟能力を認め、訴訟行為を適法有効になさしめるかと云う問題であるから、本来それは訴訟法独自の見地に立つて決定せらるべき問題であるが、現行法は実体法の規定によつて未成年者と雖も独立して法律行為を為すことを得る場合には訴訟能力を有する旨の規定(民事訴訟法第四九条)を置いているところから一層問題を紛糾させているきらいがある。
さて、そのことはともかくとして、右規定によつて未成年者が労働契約及びこれに関連する各種の問題について独立して法律行為を為し得る場合があるかどうかが本件では明らかにされなければならない問題なのである。
三、前記(1)の全面的に訴訟能力を認める見解は労働基準法第五十八条、同法第五十九条の規定が民事訴訟法第四九条但書に該当するとして労働基準法第五十八条、第五十九条を根拠とするものと、未成年者の親権者又は後見人が、民法第八二三条、第八五七条の規定により未成年者が職業を営むことを許可したときは、民法第六条第一項営業を許可した場合に当り民事訴訟法第四九条但書に該当するとして右民法の規定を根拠としている。
ところで労働基準法第五八条は「親権者又は後見人は未成年者は代つて労働契約を締結してはならない」と規定した所以のものは未成年者を食いものにする封建的悪徳の親から未成年者を保護せんがためのものであることは明白であるが、この規定によつても単にその法定代理人がその無能力者のための代行権を禁じたに止まり、未成年者をして労働契約について行為能力を認めたものではない。
未成年者が労働契約を締結するには親権者又は後見人の許可を要することはいうまでもないことである。右労働基準法の規定の意味は親権者又は後見人は未成年者を代理して(法定代理も任意代理も含む)労働契約を締結してはならないというのである。
然して未成年者が労働契約を締結するについては民法第八二三条によつて親権者の許可を得ることが必要であり、この許可なくしてなされた労働契約は右労働基準法第五十八条第二項の解除とは別に民法第四条によつて取消し得ることとなる。従つて右の労働基準法の規定は労働契約に関して未成年者が親権者から独立して自由に契約締結能力を有することを規定したものでない。
以上の通りであるから労働基準法第五十八条を根拠とする見解の誤つていることは明白である。
ところで、労働契約締結につきこの許可を得たときは未成年者は民法第六条に云う所謂営業を許されたときに当るから労働契約の問題に関しては全面的に訴訟能力を有するとする前記の見解が検討されなければならない。
民法第八二三条の親権者の職業許可権の意味するところは未成年者保護の趣旨から出ていることは多言を要しないが、問題となるのはここに云う職業の許可と民法第六条に云うところの営業の許可との差異である。
営業というのは勿論営利を目的とする事業であるのに対して、職業とは広く継続的な業務を云い、営利を目的とすると否とを問わないから職業は営業より広い観念である。
然して親権者のもつ営業の許可権は未成年者の有する財産保護の見地からする規定であり、職業の許可権は未成年者の監護教育的見地からする規定であるから、この両者は実質的に立法上の立場をも異にした部面からしてなされた規定である。これを同列において職業の許可があつたからといつて直ちに民法第六条によつて行為能力を取得するものと考うべきではない。
次に労働基準法第五十九条を根拠として未成年者に訴訟能力を認める見解は、労働基準法第五十九条の規定は未成年者に実体法上の賃金請求権を認めたのみならず、訴訟法上の賃金請求権をも認めたものだと主張するが、賃金請求が厳格な意味において法律行為でなく、従つて民事訴訟法第四九条但書の独立して法律行為をなすことを得る場合に劣らぬことはもとより右労働基準法の規定は賃金直接払の原則を未成年者の場合についても徹底させる趣旨であるに止まるものであるから実体法上の請求権を認めたことをもつて訴訟法上の請求権を認めたものであり、訴訟法上の請求権を認められたことは即ち訴訟能力を認めたことになると即断して良いか何うか疑問である。然して仮りに右規定によつて賃金請求のみについて訴訟能力を認められているとしても労働契約一般に関して訴訟能力を認められたものとするのは根拠のない主張である。ここから賃金請求についてのみ訴訟能力を認める中間説が主張せられることとなつている。
ところで右労働基準法第五十九条の規定は有効な労働契約の存在を前提として適用せられるべき規定である。
その立法の趣旨は親が子供を喰いものにする弊害防止にあるのであるから、右に述べた範囲に適用せられれば目的を達し得るところであるし、右の如く解することによつて親権(法定代理)に関する民法の原則と右労働基準法の規定の意味とを合理的に調和させ得ると考える。
然らざれば解雇無効を前提とする賃金請求訴訟等については、この規定を根拠とする中間説は論理的に説明出来ない問題を含むこととなる。
四、以上の次第であるので本件控訴人等に訴訟能力ありとする見解は採ることが出来ない。
控訴人等の本件控訴は速やかに棄却さるべきである。
【参考資料】
仮処分申請事件
(名古屋地方昭和三七年(ヨ)第一四六号 昭和三七年六月一一日判決)
申請人 篠原国勝 外三名
被申請人 茶清染色株式会社
主文および事実<省略>
理由
申請人らが未成年者であることは当事者間に争いのないところである。
そこで未成年者に本件訴訟行為をなす能力があるか否やについて考察する。
労働契約より生ずる争訟について未成年者に訴訟能力があるか否やについては、学説及び下級裁判所の裁判例において種々見解を異にして争われているところであるが、その見解を大別すると全ての労働契約より生ずる争訟について未成年者に訴訟能力を認める積極説と、全てこれを否定する消極説と、賃金請求に限り訴訟能力を認め、その他の労働契約上の争訟についてはこれを否定する中間説とが存在する。
結論から言えば、当裁判所は右三説のうち消極説を採るものである。以下その理由を説明し、他の説に対する批判を述べることにする。
未成年者等の行為無能力者の訴訟能力については、民事訴訟法第四九条に規定せられているところであるが、同条は「未成年者及禁治産者ハ法定代理人ニ依リテノミ訴訟行為ヲ為スコトヲ得、但シ未成年者カ独立シテ法律行為ヲ為スコトヲ得ル場合ハ此ノ限ニ在ラス」と規定している。その規定からみれば、民事訴訟においては未成年者は原則として訴訟無能力者であり、ただ例外的に但書に該当する場合に限り訴訟能力を有するものであることは明白である。
そこで未成年者の労働契約より生ずる争訟につき、右但書に該当し未成年者が訴訟能力を有すると認められる場合があるかどうかが問題となる。
この点につき、積極説を採る論者は、先ず労働基準法第五九条の規定をもつて民事訴訟法第四九条但書に該当するという。論者は労働基準法第五九条の「未成年者は独立して賃金を請求することができる」という規定は、未成年者に実体法上賃金請求権を認めたのみならず、賃金請求の訴訟法上の請求権をも認めたものと解すべきであり、またかく解することにより法定代理権の濫用を防止せんとする労働基準法の趣旨が貫徹されるのであるから、未成年者に対し労働契約上の争訟につき一般的に訴訟能力を与えたものであるという。しかしながら、右規定の賃金請求は厳格な意味において法律行為ではないので、必ずしも未成年者に賃金請求の実体法上の請求権を与えたものと解し難いのみならず、実体法上の請求権が認められた場合は全て訴訟法上の請求権をも認められたものと結論することもできない。労働基準法第五九条の規定の解釈と訴訟の遂行を考慮するときは(此の点については後に中間説に対する批判において詳述する)、右規定をもつて訴訟法上の請求権を認めたものと解することはできない。なお且つ、賃金請求についてのみの規定をもつて、労働契約から生ずる全ての争訟について訴訟能力を肯定するのは文理解釈の範囲を逸脱するものというべく、また賃金請求が例示的規定であると解すべき根拠も乏しい。
従つて、労働基準法第五九条の規定をもつて民事訴訟法第四九条の但書に該当するとの見解は採ることができない。
次に労働基準法第五八条の規定をもつて民事訴訟法第四九条但書に該当するという見解がある。この見解は名古屋高等裁判所第二部の採るところ(昭和三五年一二月二七日同部決定。労働関係民事裁判例集第一一巻第六号一五〇九頁所載)であり、同裁判所は当裁判所の上級審であり、殊に右決定は当裁判所の未成年者に訴訟能力なしとして仮処分申請を却下した決定(昭和三五年一〇月一〇日決定。労働民事裁判例集第一一巻第五号一、一一三頁所載)を取り消して差し戻した裁判であるから、右見解についてここに一言触れざるを得ない。
右名古屋高等裁判所の決定は「労働基準法第五六条第一項と第五八条とを対比すると、労働契約の締結は未成年者保護と親権者の権利の濫用の防止の立場から満十五才以上の未成年者が自らなすべきで親権者又は後見人は代つてなすことが出来ないところであるから満十五才以上の未成年者は労働契約に関する訴訟を自ら有効になすことが出来ると解する(民事訴訟法第四九条但書)」と判示している。
判文が右の如く至極簡単であつて、何故労働基準法第五八条の規定が民事訴訟法第四九条但書に該当するか(判文によれば、労働基準法第五八条の規定は民事訴訟法第四九条但書に該当すると明言していないが、判文の末尾に括弧して民事訴訟法第四九条但書を掲記しているところからみると右但書に該当するとの見解に立つものと認められる)、その理由を詳細に知る由もないが、労働基準法第五八条の規定の趣旨が未成年者の保護と親権者の権利の濫用を防止するために設けられたものであることは所論のとおりであるけれども、それだからと言つてどうして右規定が未成年者に訴訟能力を認めたことになるのであろうか、その間十分の理由付けを欠くものと言わねばなるまい。労働基準法第五八条の規定が民事訴訟法第四九条但書の規定に該当するということは右労基法の規定の文理解釈上は無理であり(同説、東大労働法研究会労働判例研究。ジユリスト第二四三号八六頁所載)、また右規定の趣旨から未成年者に訴訟能力を認めたものと解することも相当ではない。右名古屋高等裁判所の決定は満十五才以上の未成年者に対し労働契約に関する訴訟能力を認めるのは当該未成年者の保護になるという見解と見受けられるが、満十五才位の未成年者はその思考判断力において未だ成熟しないものがあることは顕著な事実であり、かかる未成年者に訴訟能力を与えることが、果して未成年者の保護になるのであろうか、民事訴訟法において未成年者の訴訟無能力の規定を設けたのは一つに未成年者の保護の趣旨に出ている。未成年者の保護は、労働契約の締結その他労働条件等については労働基準法により考えなければならないと共に、訴訟の提起、追行については民事訴訟法の観点より考慮すべきものである。訴訟行為は種々の攻撃防禦の方法を伴い、その遂行は複雑にして困難であり、訴訟の結果は当事者に重大な利害を及ぼすものである。それだからこそ民事訴訟法は未成年者の訴訟無能力制度を設け、思考判断力において未成熟な未成年者が自ら訴訟に関与することを原則として禁じ、法定代理人をして未成年者に代つて訴訟をなすことにしたのである。この趣旨からすれば、労働契約上の争訟につき未成年者に訴訟能力を否定するのは未成年者保護の趣旨に反すると結論することはできないのみならず、却て訴訟無能力者とすることが未成年者を保護する所以であると言わなければならない。
ただ、右の如く未成年者を訴訟無能力者とするときは、親権者が親権を濫用して未成年者のために訴訟を提起しない場合に未成年者の保護を欠くから親権濫用防止の趣旨において未成年者に訴訟能力を認むべきであるとの反論がある。成程右の如き場合には未成年者の保護に欠けるところがあることを否定することはできないが、権利濫用は異常の場合であつて、かかる特別の場合のみを考慮して一般的に通常の権利行使の場合にも未成年者に訟訴能力を与えるというのは妥当でないのみならず、親権濫用については親権喪失の宣言を請求する等の救済方法も存するから、親権濫用の場合を強調して未成年者に全般的に訴訟能力を認めるのは相当でない。
なお、ある積極論者は、未成年者に訴訟能力を認めても、実際には訴訟代理人に委任することが多いであろうし、また本人訴訟をなすときは民事訴訟法第一三五条の規定を活用して、本人の陳述禁止、弁護士の附添命令を発することにより未成年者の保護に欠けるところはないというが、これは法律論とは言い難い。右前段は弁護士強制制度を採つていない我が国においては法律上未成年者の保護に欠けると論断せざるを得ず、また後段の如く論ずれば未成年者の訴訟無能力制度そのものが不用となるであろう。
右の如く労働基準法第五八条は我が国において親が子を食いものにするという封建的悪習が残存するに鑑みて、未成年者保護のために親権者等が未成年者に代つて労働契約を締結することを禁じた趣旨であるに止まり、未成年者に訴訟能力を与えたものではないと解すべきであり、前記名古屋高等裁判所の決定には到底賛同することはできない。
次に、未成年者の親権者又は後見人が民法第八二三条、第八五七条の規定により子が職業を営むことを許可したときは民法第六条第一項の営業を許可した場合に当り、民事訴訟法第四九条但書に該当するとの説について批判する。
民法第六条にいう「営業」とは商業又は広く営利を目的とする事業に限られるのであるが、「職業」の概念は広く継続的な業務をいい、営利を目的とすると否とを問わないのであつて、営業よりも広い概念である。従つて、民法第八二三条、第八五七条の規定より親権を行なう者が未成年者に対し職業を営むことを許可したからといつて直ちに同法第六条の営業を許可したものということはできない。すなわち、民法第六条により営業を許可せられた者は自己の計算において事業をなすものであつて、営業許可がなされる場合には一応当該未成年者が取引その他法律行為をなす能力があるか否やを勘案し、その能力があると認められるときに許可を与えるのが一般であるから営業を許可された未成年者に成年者と同一の訴訟能力を与えても未成年者の保護に欠けるところはないと言えよう。しかし、労働契約は単に被用者として他人の計算における事業に労務を提供してその対価を得るという関係に過ぎないから、そのような職業に就くことの許可を営業許可の場合と同一視することは相当でない。両者を同一視して当該未成年者に成年者と同一の訴訟能力を認むべしとする結論は当然には導き出すことはできない。
以上により労働契約より生ずる争訟につき、民事訴訟法第四九条但書に該当するものとして未成年者に訴訟能力を認めんとする積極論は全て理由がないものというべく、右但書に該当するものと認むべき規定は存在しないから同条の原則に基き未成年者は訴訟能力がないものと論定すべきものである。
更に進んで中間説について批判を加える。
この説は労働基準法第五九条前段に「未成年者は独立して賃金を請求することができる」旨の規定を根拠とし右は賃金請求につき未成年者に実体法上の請求権を認めたのみならず、訴訟法上の請求権をも認めたものであるという。しかしながら前記の如く右第五九条にいう賃金の請求や受領は厳格な意味において法律行為ではない。未成年者に例外的に訴訟能力を認めた民事訴訟法第四九条但書の趣旨が成年者と余り変りのない法律行為の可能な未成年者を予定していることに鑑みるときは厳格な意味の法律行為に限らざるを得ない。また実際論からいうも、賃金請求訴訟といえども、相手方より弁済、相殺、時効等の抗弁が提出されることはもとより、賃金請求の前提となる労働契約そのものの効力が争われることがある。ことに解雇の有効無効が争われるような場合には、訴訟関係は複雑化し、未成年者の能力をもつてしては訴訟の追行に不安なきを期し難い。また、この中間説を採るときは、解雇無効を原因とする賃金請求訴訟において解雇無効確認の請求を併わせて求めればこの分につき訴訟能力を欠き、賃金請求のみを求めれば訴訟能力を有することとなり、その実態は同一でありながら訴訟能力の有無を生じ不徹底たるを免れない。
かように考えると、労働基準法第五九条前段の規定を目して未成年労働者に賃金請求の訴訟行為能力を与えたものと論断することはできない。右規定は同条後段の規定と相まつて労働基準法第二四条の賃金直接払いの原則を特に未成年者の場合につき反面から注意的に規定したに過ぎないものと解すべきである。
従つて、賃金請求に限り未成年者に訴訟能力を認める見解も失当というの外はない。
以上によつて当裁判所は未成年者は労働契約より生ずる争訟につきすべて訴訟能力を有しないものとの見解を採り、これに従つて本件申請人らの法定代理人に対し訴訟能力の欠缺を補正すべきことを命じたのであるが、所定期間内に右補正命令に応じなかつたから本件申請を不適法として却下すべきものとし、申請費用につき民事訴訟法第八九条を適用し、主文のとおり判決する。
(裁判官 伊藤淳吉 村上悦雄 渡辺一弘)