名古屋高等裁判所 昭和46年(ネ)278号 判決 1972年12月23日
控訴人 松本忠一
右訴訟代理人弁護士 山本政喜
同 生天目厳夫
同 楠本安雄
被控訴人 株式会社 十六銀行
右代表者代表取締役 高橋順吉
右訴訟代理人弁護士 下条正夫
主文
本件控訴を棄却する。
控訴費用は控訴人の負担とする。
事実
控訴代理人は、「(一) 原判決を取消す。(二) 被控訴人は控訴人に対し金五五〇万円およびこれに対する昭和四五年五月二八日から完済に至るまで年六分の割合による金員を支払え。(三) 訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決ならびに仮執行の宣言を求め、被控訴代理人は主文同旨の判決を求めた。
理由
一、控訴人が訴外市野敏郎において被控訴人(熱田支店)に対して普通預金債権金五五〇万円を有するとし、右預金債権につき東京地方裁判所から債権転付命令(以下本件転付命令という。)をえ、これが昭和四五年四月一八日被控訴人に送達されたことは当事者間に争いがなく、本件転付命令が訴外市野に同月二〇日送達されたことは≪証拠省略≫に徴して明らかである。
二、被控訴人は、本件転付命令の送達を受けた当時被控訴人の熱田支店に「市野敏郎」名義の普通預金五五〇万三、六三四円(以下本件預金という。)が存在したが、それは訴外永川吉郎が「市野敏郎」という仮空名義で預金したものであるから、本件転付命令によっては控訴人に移転するものではない旨主張する。
(一) そこでまず、本件預金債権の権利者について検討する。
≪証拠省略≫を綜合すれば、本件預金口座は訴外永川吉郎こと曹聖煥の申し込みにより同人のため昭和四四年一二月四日開設され、以後同人が自己所有の金銭を預け入れるのに使用してきたものであり、同人が本件預金口座の名義人として「市野敏郎」なる名称を使用したのは税金面を考慮してのことで訴外市野はこのことを知らなかったことが認められ、これに反する証拠はない。
してみれば、本件預金が訴外市野により、またはその代理人としての訴外曹によりなされた旨の控訴人の主張は採用できず、本件預金債権者は訴外曹であるといわなければならない。
(二) 次に、本件預金債権の名義人である「市野敏郎」と本件転付命令表示の債務者である訴外市野との同一性の有無であるが、≪証拠省略≫を綜合すると、本件転付命令に表示されている債務者であり被差押債権者である訴外市野の住所は「東京都大田区矢口三丁目七番二一号」で、これは同人の住民票に記載もされている実際の住所であること、他方本件預金口座に記載されている「市野敏郎」の住所は「名古屋市中川区松葉町二の四二」であるが、これは、同人が代表取締役となって(もっとも昭和四二年四月二〇日から一時その地位になかったことがある。)経営してきた訴外富士理研工業株式会社(以下富士理研という。)の昭和四二年六月三〇日以前の本店所在地であり、訴外市野において同年暮頃東京都内に転居する前個人の住所としていたこともあること、本件預金口座に「市野敏郎」名義が使用されたのは訴外曹においてかねてからの知り合いである訴外市野の氏名を借用したものであり、かつそれに使用される「市野」印もかつて訴外市野の使用していた印であることがそれぞれ認められ、これに反する証拠はない。
右のように、訴外市野の氏名に併せて過去のものとはいえ同人の住所をもって表示された本件預金名義人である「市野敏郎」は客観的にも訴外市野を指すものと認めるのを相当としし、これをもって仮空名義であるという被控訴人の前記主張は失当といわなければならない。
(三) したがって、本件転付命令は本件預金債権を目的としたものというべきである。
しかしながら、債権転付命令は差押債務者の権利に属するものとして存在する債権を執行債権の弁済に代えて差押債権者へ移転する以上の効力を有するものではないから、本件預金債権が前認定のように訴外市野に属さないのであってみれば、同人を差押債務者として発せられた本件転付命令はその実体的な効力を生じるに由ないものといわなければならない。
(四) なお、控訴人は、本件預金債権が訴外曹の権利に属することを理由として本件転付命令の効力を争うことは同人がこれに対し第三者異議の訴えをもってなすならば格別、被控訴人においてはなしえない旨主張する。
しかし、転付命令の実体的無効とは転付の目的となった債権が転付命令にもかかわらず執行債権者に移転しないことの謂にほかならず、転付命令そのものの執行手続上の違法とはかかわりないから、第三者債務者において右無効を主張して差押債権者に対する弁済を拒絶できるのは当然のこと(弁済した場合、民法第四七八条により準占有者に対する弁済として有効とされることのあるのは別問題である。)というべきである。したがって、控訴人の右主張は採用できない。
三、しかして、控訴人は「本件預金債権が訴外曹に属していたとしても、外観責任の法理により本件預金債権は控訴人に転付されたものとして取り扱うべきである。」旨主張するので、この点につき検討する。
(一) ≪証拠省略≫によれば、被控訴人は本件預金口座開設に当り、預金者が訴外曹であり、「市野敏郎」が偽名であることを知悉していたことが認められ、これに反する証拠はない。
そして、訴外市野名義の本件預金口座は本件預金債権の帰属者が同人であることを示すものというべきである。
そのように、預金者が銀行の了知のもとに他人名義で口座を開設し、預金をなしたときは、預金者および銀行はともに、民法第九四条第二項の類推適用(民事においては法規定の類推適用が許されることはいうまでもない。)により、右預金債権が右名義人に属しないことをもって、これにつき法律上の利害関係を有するに至った善意の第三者に対抗することができないと解するのを相当とする。
被控訴人主張のように、たとえ被控訴人において「市野敏郎」が訴外市野の名称であることまでは知らなかったとしても、また本件預金口座の存在および内容が一般に公開されるものでないとしても、そのことは右のように解する妨げとなるものではない。けだし、預金者本人のでない名義であることを知っていた以上、それが実在する他人の名義であることの可能性は当然予想できるところであるから、そのことを知っていたかどうかにより負うべき責任に差異を設けるべき理由はなく、また、前叙の虚偽の表示ないし外形に信頼した第三者を保護すべき要請はなにも権利関係の公示制度に由来するものでないからである。
(二) 控訴人は本件預金債権の名義人である訴外市野の債権者として前示のように本件預金債権の転付を受けたものであるから、これにつき法律上の利害関係を有するに至ったというべきである。
控訴人が被控訴人に対し振り込みをすると詐言を用いて本件預金口座の存在を聞き出したことは当事者間に争いがない。被控訴人は、このことを理由に控訴人に対しては前叙の第三者としての保護を与えるべきでない旨主張する。
しかし、虚偽の表示ないし外形を信頼したことにより保護されるべき第三者はその者に対して右表示ないし外形の伝達することがそれにより責任を負うべき者において予想しまたは通常予想される第三者であれば足り、右第三者において右表示ないし外形を直接認識すると、なんらかの伝達手段により間接的に認識するとは問わないものと解すべきである。
しかして、債権者が債務者の取引銀行を調査するのは経験則上通常の事柄に属し、かつその手段として前示程度の詐言を用いたことはいまだ著しく社会的相当性を欠くものとはいいえないから、訴外市野の債権者である控訴人は前叙の保護を与えられるべき第三者に該当するというべきであり、被控訴人の前記主張は採用できない。
(三) そこで、控訴人が本件預金債権の訴外市野に属することを善意で信じたかどうかにつき検討する。
≪証拠省略≫中には、控訴人は善意であった旨の供述があるが、たやすく信用できない。かえって、次のとおり控訴人は善意ではなかったと認められなくはない。すなわち、
≪証拠省略≫を併せ考えれば、控訴人は昭和四五年三月二七日東京法務局所属公証人本位田昇から訴外市野を債務者とする金銭消費貸借契約公正証書の作成を受け、これを債務名義として同年四月七日東京地方裁判所に本件預金債権の差押命令を申請して同日これを得、次いで同月一七日本件転付命令を得たものであること、右公正証書には、控訴人が昭和四四年六月三日訴外市野に対し、金五〇〇万円を、弁済期は昭和四五年四月三日、利息は年一割五分の割合により毎月限りその月分を支払うなどと定めて貸渡した旨の記載があり、右差押えの執行債権とされたのは右貸金元金五〇〇万円およびこれに対する昭和四四年八月四日から昭和四五年四月三日までの間の利息金五〇万円であることならびに控訴人が前示のように被控訴人から本件預金口座の存在を聞き知ったのは同年三月下旬であるが、右公正証書の作成を受けたのはその後のこととなること(このことは当事者間に争いがない。)がそれぞれ認められる。
しかして、右執行債権について、控訴人は、「訴外市野が代表取締役をしていた興和石油の資金不足による苦境を救うため、興和石油より資力のあった訴外市野に対し、昭和四四年一月頃から同年三月末頃までの間に、興和石油振出の手形、小切手と引き換えに貸渡した小口の金銭合計金一一五万円および同年四月一〇日同人に貸渡した金三八五万円の合計額が右貸金元金五〇〇万円である。」旨主張する一方、当審(第二回)において「訴外市野に対し、昭和四四年三月頃から同年六月頃までの間に小口で貸渡した金銭の合計額金一六五万円および同年六月に貸渡した金三八五万円の合計額金五五〇万円が執行債権である。ただし、右金額には利息も含まれている。」旨本人として供述し、その間にくい違いがみられる。のみならず、右主張によれば、興和石油の資金に充てる金銭を個人的に資力がある故に訴外市野に対し金銭を貸与するにもかかわらず、興和石油の手形、小切手を(担保としてと解される。)受取り、訴外市野からは担保を徴した様子が窺えない。それに、控訴人の主張によれば、「その頃興和石油所有の山林二筆を担保に、控訴人が債務者となって他から金二、〇〇〇万円の融資を受けて、その融資金を興和石油に廻すこととした。」旨主張し、これに添う≪証拠省略≫もあるが、そうとすれば、一層、控訴人が興和石油でなく訴外市野に右金銭を貸渡した理由が納得しがたい。なお≪証拠省略≫によれば、訴外市野は昭和四三年一一月二一日から昭和四四年七月二七日まで興和石油の取締役および代表取締役を退任していたことが認められる。
さらに、控訴人は、「興和石油が昭和四四年五月三一日手形の不渡事故を起し倒産したので、訴外市野に対するそれまでの貸金を一本化して公正証書を作成することについて同人の承諾を得て、同年六月三日準消費貸借契約を締結したうえ、同人から公正証書作成に必要な同人の委任状等の交付を受けた。」旨主張する。それにもかかわらず、控訴人において公正証書の作成を放置していたことについて、控訴人の主張するところはたやすく肯じがたい。
また、控訴人が訴外市野名義の預金等を調査した動機として、控訴人は、「興和石油の倒産は偽装であると聞いたからである。」旨主張する。そして、原審および当審(第一、二回)において控訴本人は、「富士理研の旧取引銀行が名古屋市熱田区内にあったことを思い起して同区内の銀行に問い合せた末、本件預金口座の存仕を聞き出した。」旨供述する。しかし、興和石油の偽装倒産ということから富士理研の旧取引銀行に訴外市野名義の預金があると控訴人が推理し、それが適中したというのはできすぎた感がするのを否めない。それは、前認定のとおり訴外市野は昭和四二年暮に東京都内に転居しており、富士理研も、≪証拠省略≫によれば、昭和四二年七月一日本店を名古屋市内から福井市内へ移転し、さらに昭和四五年一月これを東京都内に移転していたことが、そして≪証拠省略≫を綜合すれば、控訴人は右事実を知悉していたことがそれぞれ肯認できるのであってみればなおさらである。
その他、弁論の全趣旨により認められる、控訴人と訴外市野とが極めて親密な関係にあったことならびに≪証拠省略≫により認められる、訴外市野は東京都内に転居する前、訴外曹に二、三度自己の名義を貸したことがあり、本件預金口座に使用された印章も訴外市野において訴外曹に対し使用を許諾して貸与したものであること(≪証拠判断省略≫)を彼此綜合すれば、控訴人は訴外市野ではなく興和石油に対し貸金債権等を有していたものであり、その回収を企図して、本件預金債権が訴外市野に属しないことを知りながら、同人と意を通じて、同人を債務者とする前示公正証書の作成を受けたうえ、本件預金債権の差押え、転付命令申請に及んだものと推認され(る。)≪証拠判断省略≫
(四) そうとすれば、訴外曹および被控訴人は本件預金債権が訴外市野に属しないことをもって控訴人に対抗できるというべきである。
四、以上のとおり、本件転付命令は無効であり、本件預金債権は控訴人に移転せず、かつ被控訴人はこれをもって控訴人に対抗できるのであるから、控訴人の請求は理由がないものというべきである。
よって、叙上と趣旨を同じくする原判決は結局相当で、本件控訴は理由がないから、これを失当として棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第九五条、第八九条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 布谷憲治 裁判官 福田健次 豊島利夫)