大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

名古屋高等裁判所 昭和49年(ネ)157号 判決 1976年4月30日

控訴人

岸勇

右訴訟代理人

寺尾元美

外四名

被控訴人

学校法人 法音寺学園

右代表者

鈴木宗音

右訴訟代理人

花田啓一

外三名

主文

原判決を次のとおり変更する。

控訴人が被控訴人経営に係る日本福祉大学の教授(職員)の地位にあることを確認する。

被控訴人は、控訴人に対し九〇一万〇九七六円のよび内金二二五万二七四四円に対する昭和四七年四月一日から、内金二二五万二七四四円に対する昭和四八年四月一日から、内金二二五万二七四四円に対する昭和四九年四月一日から、内金二二五万二七四四円に対する昭和五〇年四月一日から各支払いずみにいたるまで年五分の割合による金員を支払え。

控訴人のその余の請求を棄却する。

訴訟費用は、第一、二審を通じ一〇分し、その九を被控訴人の負担とし、その余を控訴人の負担とする。

この判決は、控訴人において二〇〇万円の担保を供するときは、第三項に限り仮に執行することができる。

事実《省略》

理由

一原判決事実摘示第二請求原因一および二(一)の事実(ただし、教授会主流派の存在の点を除く。)は、当事者間に争いがない(なお、以下の説示において略語は原判決の用例に従う。)。

二<証拠>を総合すれば、左の事実を認定することができる。

1  教授会は、昭和四五年九月二四日控訴人に対し、冒頭の争いなき事実において説示したとおり退職勧告を行つたのであるが、これより先、同月一六日には学生自治会執行部が控訴人に対しその休職中の行状の反省についての公開質問状を発し、これに控訴人が回答するや、さらに同月二四日教授会に対し意見書を提出して控訴人の問題につき厳正な措置をとるよう要望していた。

理事会は、教授会から右退職勧告をした旨の通告を受け、九月二八日、控訴人に対し退職勧告を受諾するか否かを問合せ、翌二九日正午までに控訴人が文書による回答を持参出頭せず、退職願提出の意思がない場合には就業規則四四条を適用して懲戒に付する旨通知した。

これに対し、控訴人は九月二九日退職勧告の諾否については考慮中である旨の書面を島田人事部長に提出し、九月三〇日および一〇月一日の両日に亘り、島田人事部長、大沢事務局長(いずれも被控訴学園理事)および控訴人の間で交渉がなされたが、結局控訴人は一〇月一日教授会の前記退職勧告を拒否する旨の回答をなし、教授会はただちに同日付控訴人に対し右回答を撤回して退職勧告に従うべく、教授会は控訴人が爾今その構成員たる資格をもたないことを確認する旨通告した。

しかしながら、控訴人と理事会との間においては、控訴人の退職勧告拒否にもかかわらず紛争解決のためなお交渉を続行すべき旨の合意が成立し、被控訴人は、九月三〇日付で一〇月一日(一日間)の休職を、また、一〇月一日付で一〇月二日から一〇月三〇日まで(二九日間)の休職を発令した。そして、その後、控訴人と理事会を代理する学外理事との間に交渉が続行したが、右交渉においては、右学外理事が控訴人の任意退職を要求したに対し、控訴人は教授会がさきの退職勧告を撤回して控訴人に陳謝し、かつ、控訴人が退職する場合においては転職先を保障すべきことをもつて対抗し、結局右交渉は一〇月二七日決裂するにいたつた。

2  右決裂の結果、理事会側では前記大沢勝事務局長をして専ら控訴人との紛争処理の交渉に当らしめることとなり、まず一〇月三一日被控訴学園理事長室において、理事長鈴木宗音、大沢事務局長および控訴人の三名が出席して会議が開かれた(なお、この時点までの組合の動きとしては、九月三〇日における教授会の退職勧告を支持し、控訴人を非難する声明、一〇月八日における控訴人に対する質問書手交、一〇月二九日における「事実経過ならびに声明」の発表、一〇月三〇日における控訴人に対する警告書の手交、一〇月三一日における組合大会の控訴人に対する権利停止決議等が挙げられる。)。

一〇月三一日午前の会議においては、理事会は控訴人に対し一〇月三一日限り任意退職することを求め、一方、さきに控訴人の要求していた転職先の保障の点については譲歩する意向を示し、大沢において二、三の大学の名を挙げたりなどした。しかし、一〇月末退職については控訴人においてこれを拒否したので、結論は出ず、話合は同日午後零時半ころ一たん打切られ、被控訴人側では急拠常任理事会を開いて対策を協議した。

同日午後七時すぎ会議が再開され、その席上大沢事務局長は用意してきた念書の案文(甲第七号証の一)を控訴人に提示した。その内容は末尾添付別紙一のとおりであつた。これに対し、控訴人は、右案文には従来控訴人が被控訴学園に対し最大の眼目として要求している教授会の退職勧告の撤回並びに控訴人に対する陳謝が全く表現されておらず、転職先の保障についても昼間大沢の口にした大学の名の記載もなく、たんに「転職に協力」というだけでは満足できないとして、右案文に同意しなかつた。

しかしながら両当事者間においては、なお案文を練りなおし、協議を進めることとして、同日の会議を終了し、被控訴人は一〇月三一日付をもつて、一一月一日から同月三〇日までの間控訴人に休職を命じた。

なお、一〇月三一日の念書案文において被控訴人から提案された立会人は当初は念書の調印に立会うだけのものとして考えられ、もと日本福祉大学の教授であり、控訴人の友人でもある名城大学教授吉岡進が両名の合意の下に選定され、一一月上旬吉岡教授もこれを承諾した。

3  次いで、一一月一三日、大沢事務局長は、再度控訴人と交渉したが、この時も控訴人は退職勧告の撤回、教授会の陳謝が紛争解決の前提であると主張し、大沢理事長は教授会とは別個の機関であつて、教授会のした勧告を撤回したり教授会を陳謝させたりすることは不可能であると抗争し、同日も物別れにおわつた。

大沢は、事態が進行しないのに困却し、吉岡教授に面会し相談をもちかけたところ、同教授は、局面打開のため交渉の中に入つてもよい旨答え、その結果一一月二七日前記理事長室において、大沢、吉岡および控訴人の三名が会談した。

右同日大沢が席上に提出した念書案文(甲第七号証の二)の内容は、末尾添付別紙二のとおりであつたが、これに対しても控訴人はさきの案文(同別紙一)に比し修正はなされているものの、自己の主張の眼目である前記撤回・陳謝の件が何ら表現されておらぬと主張し、依然として対立はとけなかつた。かくて、会談は長時間に及んだが、結局吉岡教授から、控訴人は退職勧告の撤回・教授会の陳謝を紛争解決の前提とすることはやめ、念書および退職願中においてこれに対する自己の立場を表明するにとどめること、控訴人の右譲歩に対してはその代償として被控訴人は従来のように控訴人の転職先を斡旋するというだけでなくこれを保障すること、という案で妥結がなされた。控訴人、大沢は翌二八日早暁にいたつて、右吉岡教授の提案を受諾し、ただちに、念書(甲第七号証の三。その内容は末尾添付別紙三のとおり。)が作成された。右念書の第四項においては就職斡旋条項として「被控訴人は控訴人に適当な職場を最大の努力と責任をもつて斡旋することを約する」とのみ記載され、就職を保障するとの表現はとられていないが、これは、大沢事務局長から事柄の性質上斡旋先の意思を無視することは不可能であり、保障という文言は不適当であるとの意向が示され、これに従つたものであつた。しかし、右三名が、右条項の文言の下に表現しようとしたのは、控訴人が昭和四六年三月三一日までに被控訴学園を任意退職する代わり、被控訴人においてはそれまでに控訴人を責任をもつて適当な(一応満足しうるしかるべき)大学に転職させるということであつた。そして、右念書の調印の日は一二月三日と定められた。

4  昭和四五年一二月三日、被控訴学園鈴木理事長、大沢事務局長、控訴人が、名城大学内の吉岡教授の研究室に参集したが、これより先、控訴人は一一月二七日の会談後、本件紛争において控訴人を支援してくれていた神戸在住の教え子たちに会い甲第七号証の三の念書について意見を求めたところ、同人から就職斡旋条項にはやはり被控訴人において転職の保障をする旨の文言を挿入しなければ危険であるし、被控訴人において約定を履行しない場合に備えて解除権を留保する条項を新設すべきであるとの忠告を受けていたので、右調印の席上右念書に右二点を付加するよう要求した。

これにより 同日における念書の調印は不能になり、所用のため鈴木理事長が中座したあと、控訴人、大沢および吉岡教授の三名の間で話合が再開されたが、転職先保障の点については大沢事務局長において、被控訴人が就職斡旋を行つても究極的には控訴人を受入れる大学側の意思によつて左右されるのであるから転職を保障するとの文言を挿入することはできないとの主張を堅持したので、控訴人もこれを納得し、解除権留保条項の点については、立会人まで選定して合意したことであるし、双方当事者とも約定に違反するようなことは考えられないからかかる条項は不要であるとの結論に達し、控訴人は右要求をいずれも取下げ、神戸の支援者たちには控訴人から了解をとりつけることになつた。ただし、同日の会談については、議事録(乙第二号証)が作成され、右議事録には、右二点のほか、当事者間において念書について問題が発生したときには円満解決をはかるため立会人をも含めて協議をするものとするとの了解事項が記載された。

5  以上のごとき曲折を経て、一二月六日鈴木理事長、控訴人および吉岡教授出席のもとに調印がなされ本件合意(乙第一号証の一)の成立を見たのであるが、その内容は結局別紙三の念書と同一である。そして、その席上において控訴人は、本件合意の第二項に定めるところにより日付欄を空白とする退職願一通を作成し署名捺印の上、吉岡教授にその保管を託した。右退職願の文面は、末尾添付別紙四記載のとおりである。なお、右同日、一二月三日の会談につき被控訴学園の事務当局が作成した議事録が清書されて両当事者および立会人の確認を受けた(乙第二号証)。

以上のごとき事実が認められ、<証拠判断省略>

二右認定の事実関係によれば、本件合意により、控訴人は被控訴人に対し昭和四六年三月三一日までに吉岡教授を通じて退職願を提出することにより大学を退職する旨の意思表示をする義務を負い、他方、被控訴学園は右同日までに控訴人を客観的に相当と認められる他の大学に教員として斡旋就職せしめるか、あるいは、斡旋先の意向、事情により転職が遂に成功しなかつた場合においても、客観的な第三者から見て控訴人も被控訴人からこれ程の斡旋の努力を払つてもらえば以て満足すべきであると認め得る程度の高度かつ誠実な斡旋の努力を尽すべき義務を負担するにいたつたものというべきである。しかして、本件合意の成立の過程にかんがみれば、控訴人の債務は被控訴人の債務に対しいわば対価というべき関係に立ち、被控訴人においてその債務を履行しないときは、控訴人はこれを理由として自己の債務の履行を拒み、または本件合意を解除する権利を有するものと解するのが相当である。

これに対し、被控訴人は、控訴人が昭和四六年三月三一日までに大学を退職することは、就職斡旋条項と関係なく確定していることであり、両者の間に法的関連はないと主張する。しかしながら前認定のように、控訴人と教授会(およびこれを支援する組合 学生自治会)との対立は極めて深刻なものであつたのであり、控訴人はいわばその人格と社会的生命をかけて抗争していたのであるから、吉岡教授の居中調停の席において控訴人がそれまでの自己の主張(勧告の撤回・教授会の陳謝の要求)を一応引込め任意退職を承諾するについては、まさにそれ相当の代償がなければこれに応ずるはずはないのであつて、この代償がとりもなおさず被控訴人の斡旋による転職の実現ないしこれと同等の斡旋の努力であつたわけである。従つて、任意退職条項と就職斡旋条項とはいわば「表裏一体」ないし「ワンセツト」の関係にあつたものといわなければならない。被控訴人は、教授会と別個の機関である理事会に対し教授会の勧告の撤回や陳謝を要求するのは不合理なことであるから、控訴人自らこの要求を取下げたのだという。しかしながら、控訴人の供述によれば、控訴人の認識としては、大学の教授会と被控訴人の理事会とは制度上は成る程別個の存在であるが、その主要構成員は同一人物である(本件交渉において控訴人の相手方となつた常任理事の大沢勝も、教授会において控訴人と対立した強力な論敵でもあつた。)から、理事会を通じて教授会に自己の意思を通じさせることは極めて容易であるというのであり、教授会が控訴人の要求を容れなければ、理事会に対し任意退職の承諾もしないという方針であつたことが窺われるから、被控訴人の主張するような理由で控訴人がその要求を取下げたとは認められない。結局被控訴人の前記主張は採用できない。

さらに、被控訴人は、就職斡旋条項は法律上の拘束力をもたない神士協定であると主張する。しかしながら、本件就職斡旋条項は、控訴人の学者としての活動はもとより私的生活にも大きな影響を及ぼすものであること、前記念書の案文において同条項が別紙一ないし三から看取されるように逐次修正され、ことに最終案の成立にあたつて吉岡、大沢および控訴人の三名の大学教授が長時間に亘つてその頭脳を傾注協議したのはまさに右条項を法律的に有意義なものにしようと企図したことによるものであること、右条項が控訴人の大きな譲歩と引換えに獲得されたものであること等に照せば、これをもつて法律上何らの拘束力のない条項であるとなすことはできない。また、就職斡旋の結果は究極的には斡旋大学の意思に依存し、理論的には右条項によつて控訴人の転職を保障しえないものであるとしても<証拠>によれば、立会人吉岡としては本件就職条項の存在により控訴人の転職はおおむね可能であつて、本件合意に起因して本件のごとき争訟が発生するとは予期していなかつたというのであるし、控訴人としても被控訴人から充分納得し得る程度の斡旋の努力を払つてもらえれば所定期日までに他に就職できずして大学を退職する結果となつてもあきらめはつくわけであるから、理論上転職を保障しえないとの一事により右条項を法律上無意義でありいわゆる神士協定にすぎないと断ずべきものでもない。被控訴人の右主張もまた採用できない。

四次に、<証拠>によれば、控訴人は、昭和四六年三月三〇日被控訴人において就職斡旋条項に基づく債務を履行していないとして本件念書付箋の議事録(乙第二号証)記載の了解事項(前記二の4参照)に基づき、大沢事務局長、吉岡教授と協議したこと、そして、その席上控訴人は大沢に対しそれまでの被控訴人側の斡旋は本件合意の趣旨に沿わない不充分なものであるとし善処を要求したが、大沢はこれを否定して譲らなかつたので会議は決裂し、同日控訴人は書面をもつて被控訴学園理事長に対し本件合意を撤回する旨の意思表示をしたことが認められる。ここに控訴人のいう本件合意の撤回は法律上は契約解除をいうものと解されるので、以下被控訴人に右債務不履行があつたか否かを検討する。

<証拠>によれば左の事実を認めることができる。

1  被控訴学園においては、本件合意の成立前である昭和四五年一一月二日ころ、四国学院で開催された学会の席上、学監浦辺史をして今岡(淑徳大)西岡(東北福祉大)、岡田(四国学院)各教授に控訴人の転職について口頭で依頼せしめた(今岡教授には同月二二日のいわゆる会社ゼミの席上浦辺から再度依頼した。)。

2  本件合意成立後、被控訴人は控訴人との間に何の連絡もとらず 独自で斡旋の努力をしたが、その主なるものは末尾添付別紙五に示す内容の就職依頼状の発送であつた。被控訴学園では右依頼状をタイプライターで作製し、これを谷川貞夫(日本社会事業大)、佐口卓(早大)、今岡康一郎、中村藤太郎(いずれも淑徳大)、孝橋正一(竜谷大)、野々尾徳美(立命大)、岡村重夫(関西学院)、岡田藤太郎(四国学院)、立正大学の九か所にあてて(いずれも同文)発送したが、後日中村藤太郎から控訴人を採用できない旨の書簡が来たほか、何らの反応もなかつた。これに対し、被控訴人も再度発送先の意向を確めるというような措置はとらず、そのまま放置しておいた。

3  立正大学は被控訴学園の鈴木理事長の出身校であるということで、昭和四六年一月同理事長および大沢事務局長が上京して同大学の森永教授を訪問して控訴人の転職の依頼をしたが、同大学では新規に控訴人クラスの教員を受け入れる財政的余裕はないということでこれまた成功しなかつた。

4  同年三月四日被控訴人は吉岡教授に対し右2、3に述べたような斡旋をしたことおよび結果について報告した。

5  同年三月、熊本短期大学において社会福祉学、社会学の教員を公募していることが判明したので、被控訴人は同月一七日右大学に控訴人を推薦し、右大学の泉助教授外教員一名の面接を受けられるよう仲介した。しかし、同月二五日右大学側の都合により選考が延期され、控訴人の採用は実現しなかつた(なお、控訴人が右大学に選考上必要な書類を提出しなかつたということはなく、若干不足分はあつたが、選考に支障はなかつた。控訴人が採用されなかつたのは書類の不提出によるものではない。)。

6  現在、大学教員の就職の成否については、就職希望者の研究、教育能力もさることながら、これと就職先大学の教授との間の個人的諸関係が大きな影響をもつものとされている。従つて、就職を希望するについては、直接相手方のもとに出向いて懇篤な依頼をするのが通常であり、タイプライターで打つた簡単な手紙を発送した程度では充分な成果は期待しがたいものである。

7  なお、控訴人は、公的扶助論のほか、社会福祉概論、社会保障概論、社会問題、経済学などの講義を担当する能力があり、転職先として考えられる大学は三〇余校にのぼるものである。

以上のような事実を認定することができる。

本件において、被控訴学園の斡旋により控訴人が他大学に転職することができなかつたことは明らかであるが、かかる場合においても、被控訴人は、「客観的にみて、被控訴人からこれ程の斡旋の努力を払つてもらえれば控訴人も以て満足すべきであると認め得る程度の高度かつ誠実な斡旋の努力」を尽したのでなければ、本件就職斡旋条項に基づく債務を履行したといえないことはさきに述べたとおりである。そこで、この見地から被控訴人のなした就職斡旋の努力を評価してみるに、当裁判所は右認定の被控訴人の斡旋行為をもつてしては、いまだ本件就職斡旋条項による債務を履行したものとはいえないと判断する。先ず、浦辺教授の学会の席上における就職依頼は、本件合意成立前控訴人が任意退職に応ずるか否か予断を許さなかつた頃になされたものであり、かつ、これについての大沢証言は伝聞であつて依頼の内容についても何ら明らかにするところがなく、その効果において疑問なしとしないものである。次いで、本件合意成立後も、被控訴人は、控訴人と全く連絡をとらず、独自に斡旋を進めているが、これでは全国各地大学の教授と控訴人との間のいわゆるパーソナル・コネクシヨンについての情報は充分ではなかつたものと考えられる(なお、この点については控訴人の方からも被控訴人に対し斡旋について連絡をとつた形跡がなく、この意思不疏通は本件念書成立直前までの両者のはげしい対立感情に起因するものと考えられるが、本件合意により法律上第一次的には被控訴人において控訴人の転職につき保障に準ずる義務を負つているのであるから、まず、被控訴人の方から連絡をとるのが信義則の要求するところであるといわなければならない。)。また、本件合意成立後においても、被控訴人側で積極的に人を派して就職の依頼をしたのは立正大学一か所のみであり、その余は別紙五に見られるような簡単な内容のタイプライター書きの依頼状を発送したに止まり、これがいわゆる梨のつぶてに終つた後も何らの処置もとつていない。これら依頼状の発送は、ほとんど成果を期待しえないものであつたと認められる。最後の熊本短期大学については、被控訴人は同大学の公募に対して被控訴人に対して推薦し、これを面接者の一人に加えるよう仲介の労をとつたものにすぎない。これらの事情を彼此総合して判断すれば、控訴人の転職について被控訴人がある程度の努力を払つたことは間違いないにせよ、いまだ本件就職斡旋条項に基づく債務を履行したものとはいえないとするのが相当である。

被控訴人は、控訴人が教授会との紛争を記載した暴露的文書を広範囲に配布したため被控訴人の斡旋行為を進めるにつき大きな障害になつたと主張するが、原審における控訴人の供述によれば、控訴人において右文書(甲第二号証)の配布をしたのは昭和四五年一〇月一九日ころのことであると認められ、右は本件合意成立以前に属するから、本件就職斡旋条項の合意にあたつては、被控訴人は右文書配布の事実を考慮に入れていたものと考えられる。従つて、被控訴人は、今更右事実をもつて控訴人を非難することは許されないのであり、右被控訴人の主張は失当である。

よつて、被控訴人には本件就職斡旋条項に基づく債務の不履行があり、前認定のように三月三〇日の協議の席上爾余の斡旋を被控訴人から拒否されて本件契約解除の意思表示に及んだ以上、右意思表示は有効であり、本件合意はこれによつて解除されたものといわなければならない。

五<証拠>によれば、被控訴人が、昭和四六年三月三一日控訴人に対し願により職を解く旨記載した辞令を交付したことが認められ、右辞令が本件合意中の任意退職条項に基づき発令されたものであり、爾来被控訴人が控訴人を日本福祉大学の教授として取り扱つていないことは弁論の全趣旨により明らかである。しかしながら、右に説示したとおり、本件合意は控訴人により有効に解除されたものであるから、右任意退職条項の存在を前提とする右退職発令もまた無効であり、控訴人は現に右大学の教授たる地位を有するといわなければならない。そして、被控訴人が控訴人の地位を争つていることは明らかであるから、控訴人のその余の主張について判断するまでもなく(控訴人はその主張について一応順位を付しているかのようであるが、裁判所がこれに拘束されるものではないことは多言を要しない。)、控訴人の地位確認の請求はこれを正当として認容しなければならない。

被控訴人は、これに対し、控訴人は昭和五〇年四月西九州大学の専任教授に就任しており、二個の私立大学においてそれぞれ専任教授の地位を占めることは許されないから、控訴人には本訴につき訴の利益がない旨主張する。そして、当審における控訴人の供述によれば、控訴人は昭和五〇年四月西九州大学の専任教授に就任し社会福祉学の講座とゼミナールを担当していることが認められる。一方文部省の定めた大学設置基準一〇条によれば、私立大学においては専任教員の地位の兼任は許されておらず、教員は一つの大学に限り専任教員となることができることは控訴人において明らかに争わない事実である。しかしながら、右規定は文部省の所管する監督行政上の規整であつて、これがただちに学校法人との間の雇傭の法律関係に影響を及ぼすものと解すべきではない。すなわち、控訴人は本訴において日本福祉大学の教員たる地位の確認を受けた場合二個の大学の専任教授たる地位を占めることになるが、この場合いずれの大学の教員たる地位を解消するかは控訴人の選ぶところにまかされているのであつて、右文部省令の規定は控訴人が西九州大学の教授たる地位を取得した反面として、日本福祉大学教授たる地位を喪失せしめるというまでの効力を有するものではない。されば、控訴人は依然として本訴により日本福祉大学の教員たる地位の確認を求める法律上の利益を有しているのであり、被控訴人の主張は採用できない。

また、被控訴人は、控訴人において自ら右大学教授の地位にとどまるをいさぎよしとしない旨宣言しながら、本訴において正にその地位にあることの確認を裁判所に求めているのは不当であると主張する。なるほど、<証拠>(別紙四)によれば、控訴人が本件合意の任意退職条項に基づき退職の際被控訴人に提出すべきものとして吉岡教授に託した退職願には被控訴人主張のごとき文言が記載されていることが認められる。しかしながら、右のような事実があるからといつて、控訴人がただちに前記大学教員の地位を放棄したことにならないのはもちろんであるし、そもそも右退職願自体がまだその効力を発生していないことは既に述べたところから明らかである。ましてや、控訴人が教授会ないし被控訴学園にいやし難い悪感情を懐きながら、なおその職にとどまろうとしたところで、それは法律以外の精神生活の領域で問題となりうる事柄にすぎないものであり、控訴人の法律上の地位に影響を及ぼすものではない。よつて右被控訴人の主張も理由がない。

六進んで給与および慰謝料請求について判断する。既に述べたように控訴人は現に被控訴学園の教員たる地位を有するものであるところ、被控訴人においてこれを認めず控訴人の就労を拒否していることは弁論の全趣旨から明らかである。してみると被控訴人の就労拒否には正当な事由ありということができないから、控訴人は民法五三六条二項本文により被控訴人に対し賃金請求権を有するものである。

<証拠>によれば、被控訴学園においては給与を原則として毎月二五日その月分を支払うことになつており、控訴人の昭和四六年三月当時の本俸は一二万〇九〇〇円であつたこと、また賞与は毎年七月二五日および一二月二五日の二回支給されており控訴人の昭和四五年中における賞与の合計額は八〇万一九四四円であつたことが認められ、右認定に反する証拠はない。

してみると、被控訴人は、控訴人に対し昭和四六年四月一日から翌四七年三月三一日までの給与並びに賞与合計二二五万二七四四円(賞与については昭和四五年の例によつて計算する。以下同じ。)およびこれに対するその履行期の後である昭和四七年四月一日以降支払ずみにいたるまで民法所定年五分の割合による遅延損害金を、昭和四七年四月一日から翌四八年三月三一日までの前同額の給与並びに賞与およびこれに対するその履行期の後である昭和四八年四月一日以降支払ずみにいたるまで前同率の遅延損害金を、昭和四八年四月一日から翌四九年三月三一日までの前同額の給与並びに賞与およびこれに対する履行期の後である昭和四九年四月一日以降支払ずみにいたるまで前同率の遅延損害金を、昭和四九年四月一日から翌五〇年三月三一日までの前同額の給与並びに賞与およびこれに対する履行期の後である昭和五〇年四月一日以降支払ずみにいたるまで前同率の遅延損害金をそれぞれ支払う義務がある。

控訴人は、さらに、被控訴人の本件就職斡旋条項に基づく債務の不履行による損害賠償(慰謝料)の支払を求めているが、控訴人は、被控訴人の右債務不履行を理由として本件合意を解除し、任意退職条項による退職提出義務を免れ、その結果日本福祉大学教授の地位を保有し、これに伴い給与の支払をも受け得るようになつたのであるから、控訴人には右債務不履行により何ら損害が発生していないというべきである。よつて、控訴人の慰謝料請求は失当として排斥を免れない。

七以上説示のとおりであるから、控訴人の本訴請求は、控訴人の地位確認および給与・賞与並びにこれに対する遅延損害金の支払を求める限度においてこれを認容すべく、その余は失当として棄却を免れないものである。よつて、原判決を主文記載のとおり変更し、訴訟費用の負担につき民訴法九六条、九二条本文、仮執行の宣言につき同法一九六条の各規定を適用して主文のとおり判決する。

(宮本聖司 川端治 新田誠志)

別紙一

念書

甲 学校法人法音寺学園

理事長 鈴木宗音

乙 岸勇

右両当事者間の雇傭関係上の紛争について、このたび合意が調つたので後日のため本書二通を作成し、各一ずつを所持するものとする。

一、乙は、甲経営にかかる日本福祉大学を昭和四十六年三月三十一日をもつて退職する旨申し出で、甲はこれを認めた。但し、乙において右期日までに他職に転ずる場合は、転職の直前退職するものとする。

二、右退職の意思の表明として、乙は、本日、期日欄白地の退職願一通を作成し、署名捺印の上、立会人    に交付した。

右退職願は前項記載の退職に際し、立会人において相当日を記入の上、甲に提出するものとする。

三、右退職にいたるまで(最長期昭和四十六年三月三十一日まで)甲は乙に対し現在の給与額の支払いをなすものとする。但し、その間乙は休職措置を適用されることに異議はない。

四、右退職にいたるまで、乙は甲に対し、日本福祉大学の管理運営について何らの誹謗をなさないことを約し、甲は乙に対し、乙の転職に協力することを約する。

昭和四十五年十月三十一日

別紙二

念書

甲 学校法人法音寺学園

理事長 鈴木宗音

乙 岸勇

右両当事者間の雇傭関係について、このたび合意が調つたので後日のため本書三通を作成し、各一通ずつを所持するものとする。

一、乙は、甲経営にかかる日本福祉大学を昭和四十六年三月三十一日をもつて退職する旨申し出で、甲はこれを認めた。但し、乙において右期日までに他職に転ずる場合は、転職の直前退職するものとする。

二、右退職の意思の表明として、乙は、本日期日欄白地の退職願一通を作成し、署名捺印の上、立会人吉岡進に交付した。

右退職願は前項記載の退職に際し、立会人において相当日を記入の上、甲に提出するものとする。

三、右退職にいたるまで(最長期昭和四十六年三月三十一日まで)甲は乙に対し現在の給与額の支払いをなすものとする。但し、その間乙は休職措置を適用されることに異議はない。

四、右退職にいたるまで、乙は甲に対し、日本福祉大学の管理運営について誹謗をなさないことを約し、甲は乙に適当な職場を誠意をもつて斡旋することを約する。

昭和四十五年十月三十一日

別紙三

念書

甲 学校法人法音寺学園

理事長 鈴木宗音

乙 岸勇

甲、乙は、乙に対する教授会の退職勧告をめぐる雇傭関係について協議をかさねてきた。

乙は教授会に対し退職勧告の撤回と陳謝をつよく要求してきた。また今後もあくまで、要求しつづけるであろう。

しかしながら甲の誠意を認めて、不本意ながら当面の事態の円満な解決をはるべく決意をした。甲も乙の誠意を認め、両当事者間に次の通り合意が調つた。よつて後日のため、本書三通を作成し、甲乙および立会人各一通ずつを所持するものとする。

一、乙は、甲経営にかかる日本福祉大学を昭和四十六年三月三十一日をもつて自発的に退職する旨申し出で、甲はこれを認めた。但し、乙において右期日までに他職に転ずる場合は、転職の直前退職するものとする。

二、右退職の意思の表明として、乙は、本日期日欄白地の退職願一通を作成し、署名捺印の上立会人吉岡進に交付した。

右退職願は前項記載の退職に際し立会人において相当日を記入の上甲に提出するものとする。

三、右退職にいたるまで(最長期昭和四十六年三月三十一日まで)甲は乙に対し現在の給与額の支払いをなすものとする。但し、その間乙は休職措置を適用されることに異議はない。

四、右退職にいたるまで、乙は甲に対し、日本福祉大学の管理運営について誹謗をなさないことを約し、甲は乙に適当な職場を最大の努力をもつて斜斡することを約する。なお、甲は斡旋経過について立会人に対し、定期的に報告するものとする。

昭和四十五年十一月三十日

別紙四

退職願

私は、硬直した姿勢をもつて管理体制を強化し、かくして研究・教育の自由なふん囲気を自ら破壊し、本学を荒廃にみちびきつきつつあるとしか思われない教授会に、その一員として席をけがすことをいさぎよしとしない。

よつて今回本学を退職することを決意しここに退職願を提出します。

昭和 年 月 日

日本福祉大学教授

岸勇

法章寺学園理事長

鈴木宗音殿

昭和四十五年十二月十日

別紙五

殿

学校法人法音寺学園

理事長 鈴木宗音

常任理事 浦辺史

今年もはやくれようとしておりますが、寒さの折からおかわりありませんか。

さて、このたび友人の岸勇君が来春三月をもつて本学園を退職することになりましたので、貴学において社会福祉関係科目の教員採用の際は是非とも同君を候補者のひとりにご留意たまわりたくお願い申し上げます。

なお本人は社会福祉概論、公的扶助、社会保障経済学等の科目が担当できますが参考のために教育研究業績を同封いたします。

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例