名古屋高等裁判所金沢支部 昭和25年(う)120号 判決 1952年8月29日
控訴人 検察官 名越快治
被告人 大久保与四松
検察官 道前忠雄関与
主文
本件控訴を棄却する。
理由
検察官の控訴論旨は富山地方検察庁検事正検事名越快治の昭和二十五年三月六日附控訴趣意書に記載する通りであるからこれを引用する。
本件起訴状の記載並に原審における検察官の胃頭陳述及び立証の方向によれば、本件殺人の訴因は被告人と被害者川上ふでとの間の痴情に基く通常殺人の行為であることは明白である。然るに本件検察官の控訴論旨は右原審の方針を一擲し原審における諸般の証拠の内容を巨細に解剖して被告人の準強盗殺人を主張するものであつて、これはその訴訟法上適否の問題は兎も角本件事案における罪体と被告人との関係を証明すべき証拠に決定的な焦点を見出すことの困難な事実を物語るものである。左に記録に基き当審の見解を項を分つて説述する。
第一、事件の内容と経過の概要
昭和二十一年四月九日夜十時頃富山県下新川郡南保村長野の川上粂次郎方において同人が妻みちの附添いを受け泊病院に入院不在中留守居の老母ふで(六十九才)が孫の一康(六才)と共にそれぞれ手拭及び腰紐で絞殺せられ且つ同家は犯跡を蔽う為めの放火により翌十日午前一時頃出火して全焼した事実は論旨摘録の各証拠を綜合して明白である。
所管の泊警察は富山県刑事課の応援を得て犯人割出しに怨恨説、痴情説、物盗り説の三線の捜査方針を立てそれぞれの線につき捜査を進めたが、怨恨説には何らの根拠なく影を失い、痴情説も被害者の年齢、部落、近隣交友間の風評に鑑み犯人推定の端緒なく、最後の物盗り説特に地元及び近在の而識関係にある物盗り説に重点を定め鋭意当時頻発中の窃盗犯人の検挙に努めるうち、同村高畠山本半治の窃盗事犯を皮切にこれと別行動の同村南保の坂藤義雄及び森島寛司を主犯とする青少年窃盗団をそれぞれ検挙し、更に別途の糸口により被告人大久保与四松の窃盗を右窃盗団と前後して検挙し右三者のそれぞれにつき各自の窃盗事犯の取調を行う半面において、本件殺人放火の嫌疑事実の黒白を追求したところ先づ第一に検挙された山本半治においてこれを自白するに至つたが同人の自白は検挙の動機並に諸般の情況より完全に措信し得ないものであつたので嫌疑消滅して窃盗事件のみで落着したが前記窃盗団の主魁坂藤義雄は逮捕から十数日後の同年五月二十五日頃泊警察の留置場において劇薬を服毒して自決したので、同月四日頃以来当時の行政検束により留置され本件犯行のみか証明十分な窃盗事犯の事実すら否認し取調の難行していた被告人大久保に疑惑が集中するに至つた。
同人に対する捜査官憲の嫌疑は大要次の四点である。
(1)同人が事件前年の暮れ被害者川上方玄関から来客の女物洋傘の外同家のゴム靴及び地下足袋を窃取していること。
(2)五箇庄村二ツ屋の被告人宅と被害者宅とは別村ではあるが、中間に水田を隔てるのみの十五分位に達する距離にあり、水利や耕作の相隣関係上相互に明白な交渉の証拠があるのに被告人は右窃取の事実と共に被害者宅及び家人の認識を頑固に否認したこと。
(3)被告人が多年多数回に亘り知人や訪問先又は通り掛りの家の物を掠め取り、賍品を夥しく家中に蔵匿していた事実が判明し、盗癖の持主であることが立証せられたこと。
(4)事件当夜の不在証明が立たないと見られたこと。
右の諸点は本件犯罪が被害者方と面識ある物盗りの犯行と見る関係から云えば被告人の容疑を深めしめる理由となつたことは当然であり、厳重な追求の前にさしも頑強に否認していた前記事件前年の川上方の窃盗事実を承認すると共に更に追求せられ終に本件殺人放火の自白を行うに至つた。被告人が拘束された同年五月四日頃以降五十数日を経た同年七月初日頃の夜分署長近藤捨蔵氏のいわゆる精神訓話の結果であることは同証人の証言するところである。しかしその自白は被告人の友人大森春四郎なる人物から川上方に立派な桐の火鉢があると聞いて盗ろうと思い忍び込んだが婆さんに発見されて殺したとの主旨であつたが翌日調書作成の際飜され再び犯行を否認するに至つたので署長は再び精神訓話を与えたところ、今度は意外にも痴情殺の自供を行うに至つた。他方被害者方の家人や大森春四郎について調べてみても桐火鉢の一件は事実無根であることが判明したのみでなく、被告人宅を捜索して得た多数の賍物中被害者方の物件は一点も存せず、他に賍物処分など客観的資料は全く掴めない為め、被告人の自白の赴くままに追随をやむなくし昭和二十一年七月四日附大鋸清太郎作成の痴情殺の自白調書が成立した訳である。
右自白の内容は原判決掲記の通りでありその要旨は「実は自分は被害者川上ふでとは同人の夫が死んで(註昭和十二年死亡)一年程経つた頃から情交関係を結び人目を忍んで同人宅を訪ねるようになり、村の誰も知らぬ間に殆んど内縁関係にまで深まり屡々経済的援助も与えていたが昭和二十年四月頃に同人の息子粂次郎夫婦が東京から引揚げてくるに及んで情交が困難となりふでも自分の来訪によい顔をしなくなつた。昭和二十一年三月頃になつて粂次郎が泊病院に入院し同人の妻もその看病に行つていて、同人宅にはふで独りの日が多かつたがその頃ふでには他に情夫があることが分つたので私とふでとの間は気不味くなつていた。しかし同年四月六日頃行つて一回関係したことがある。本件犯行の同年四月九日の晩、私は山本候補の選挙事務所になつている同村の鍛治六平方で冷酒一杯に夕飯を振舞われ、午後七時半過頃帰宅したが、彼是午後九時過頃家族は就寝し自分は炬燵に仮睡している裡に、ふでに明日の選挙には山本候補に投票してくれるように頼んだり、又関係もして来ようと考え家族の寝入つたのを見すまし午後十時過頃家を出て田圃道を通つて同人の家へ行つた。入口の戸が開いていて真正面に囲炉裡の間の電気が見えた。粂次郎夫婦の不在を知つていたので安心して内へ這入つて行きふでの居る部屋に近寄つて見るとふでは寝て居りその傍に少し隔てて同人の孫の一康がすやすや眠つていた。自分がふでに「寝ているのか」と声をかけると同人は直ぐ起き返つて「誰かと思つたら貴方か」と云つたので明日の投票のことを頼んだ後関係を遂げようと思つて同人の傍へ寄り添つて行くと同人は「まだ早いではないか」と云つて何時もと違つて関係を拒むような素振りをするので自分も「何時もと様子が違つているぢやないか。誰か良い男がいるのぢやろう」などと云つて段々激しい言葉を応酬するに至つた。その内に自分も気がくしやくしやして来るし同人も何度も「どうでも勝手にしてくれ」と云い張るので始めは殺す心算ではなかつたが、「どうでもせえと云うのなら殺してやる。」と云つたところ同人は負けずに云いまくつてくるし自分としても引くに引かれず、傍にあつた腰紐様の紐をとつてこれを両手に持ち同人の頸を後方から一廻りしつつ前の方で紐の両端を持ちかえ、これを結ばずに絞める真似をした処尚更憤り立つて「さあ殺せ、さあ、殺せ」と頸を差し出すよちにしたので思わず知らず手に力が入つて同人は汚物を流しながら倒れた。私は驚いて紐を緩めたがそれから同人は何も言わないようになつた。そこで私は生き返らぬように其の紐をもう一度ぐつと結んで置いた。こうなるともう気が立つて傍に寝ている一康をこのままにして置いては自分の犯行が分つて来て都合が悪いと思つたので殺す気になり同人の枕下にあつた日本手拭で寝ている同人の頸を一廻り廻して絞めたところ同人は「ギャツ」と云つて死んでしまつた。斯様に二人も殺してしまつたのでほつと一息し、ふでの死体に布団を着せ一先づ茶の間を通つて玄関まで出たがこのままにして帰つたのでは後で都合が悪くなるのではないかと思案の挙句犯跡を眩す為には火事で二人が焼け死んだように見せかけるより外によい方法がないと決心し一康が煙に捲かれて死んだように見せかける為にその頭をふでの足の方にして死体の方向をかえその上に布団を被せ茶の間の囲炉裡の附近から燐寸を探し出し土間の下屋のあたりに置いてその燐寸で火をつけ火の燃える具合を見届けてから先に来た田圃道を後も振り返らずに帰宅したが時間は午後十一時過頃であつた」と云うのである。
次いで泊警察署に出張して被告人を取調べた富山地方裁判所検事局丹篤検事作成の同月七日附聴取書においては右自供を基礎とし更にこれを敷衍したふでとの間の情事の経過などについて述べ、特に昭和二十一年三月十五、六日頃とその後三日位の二回ふで方へ行つたところ、二回ともふで方の本家の川上庄三郎(註、明治十五年生れの老人で昭和二十一年六月二十五日病死)とふでが寝間の中で情交中の様子を思わせる間の悪い場面に出会わした旨の供述が附加されたのである。然るに被告人は翌八日朝の同検事の再度の取調には又々犯行を否認したが、同月十日予審判事渡辺門偉男の強制処分訊問には更に右と同趣旨の供述に立ち返つたのであつて、その後同月十二日附並に同月十七日附被告人に対する右検事作成の聴取書により被告人の右自白の細部に亘り修補訂正が加えられ被告人の取調を終了したのである。(註、川上庄三郎と鉢合せした年度が昭和二十一年から二十年に変更され、又絞殺用具の手拭と紐が前の供述と反対に訂正された)しかし同検事は右自白を補強する客観的証拠の不足を考察し上司の裁定を受け本件殺人放火を不起訴とし窃盗罪についてのみ被告人を起訴し事件処理を完了したのであるが偶々検察審査会法の施行に当り富山検察審査会は右事件の処理を不当とし本件を起訴すべきものとの意見を決定した結果富山地方検察庁は右意見を尊重して本件を原審に起訴しここに旧刑事訴訟制度における捜査特に被告人の長期に亘る行政検束中における自白を主要な証拠とする新刑事訴訟法上の裁判手続が展開されるに至つたものである。
第二、被告人と本件犯罪との関係証拠の検討
捜査官憲は被告人に対する容疑の理由として被告人の盗癖と被害者に対する面識、被害者方の前年の盗難について被告人がその犯人であること、被告人の不在証明の不成立、右面識と窃盗事実の極めて明白な事実を否認する態度をもつてし、本件を被告人の窃盗目的の犯行の目安で捜査を進めたが、何ら確証を得なかつたことは前述した通りであり、本件控訴論旨は右捜査官の見解に立脚し原審に現われた諸種の情況証拠を挙げて被告人の犯行を推定しようとするものであることも前述した。
さて、本件のような通常殺人罪を訴因とする公訴についての無罪の判決に対し強盗殺人を主張する控訴論旨は果して適法かどうかの疑問について考えると控訴の申立書及び控訴趣意書が適法期間内に提出され形式上検察官の控訴審に対する訴訟行為に何らの瑕瑾なく又実質的には本件殺人放火の基本事実の犯人として被告人を訴追し有罪の判決を求める点において検察官の行為は第一審と控訴審とを通じ一貫の目的をもつていると言うべきであるから右終局の目的を達する為めには必要な別個の訴因に属する事実を参考に主張して控訴審における真実発見を促し所期の原判決破棄の結果をもたらそうとする控訴理由を不適法として排斥することは適当でないものと云わなければならない。
そこで先ず論旨に従い本件被告人につき所論のような強盗殺人放火罪認定の能否を判断した後原審訴因における通常殺人の成否に言及することにする。
(一)強盗殺人放火罪の証拠について。
原審並びに当審において取調べた諸般の証拠を綜合すれば被告人はその地理的及社会的関係上被害者川上粂次郎の先代豊吉の頃から被害者宅を熟知し、ふで以下家人の様子を十分に心得ていた事実は証拠上地元民の何人も怪しまない顕著な事実である。そして被告人には検察官所論の如く盗癖があり、既往において川上方玄関から洋傘などを窃取した事実が明にざれるのである。しかも証拠上右の通り明白な事実を飽くまで被告人が否認した態度を併せ考えこれを後に触れるところであるが犯罪発生当夜の被告人の不在証明が成立しないとする考え方に結び付けた推理を進め前掲第一記載の近藤署長に対する被告人の物盗りを原因とする犯行の自白をこれに織り込めば本件犯罪を被告人の所為に帰する有力な推定が下されるようである。そこで当裁判所は右不在証明についての判断は痴情動機の犯行の考察とも関係するので別に項を設けて説くことにし先ず右推定の基礎となる被告人の自白の性質を検討しよう。近藤署長に対する右自白は夜分遅くの供述であつた為め調書の作成を翌日に廻したところ翌日忽ち翻され再び追求の結果一転して前記大鋸清太郎巡査部長作成の聴取書記載の如き痴情動機の自白が生まれ同自白が検事予審判事の尋問を通じて生成発展を遂げ被告人の自白としてその地位を確定するに至つた顛末に鑑みれば被告人の右物盗りの自白は深夜近藤署長と被告人の対席に突如として現われ瞬時に消えた一片の断雲の如き感があり、その任意性について無条件の信を措き難く殊に同自白は憲法の基本的人権の保障規定に適応すべく起訴前の逮捕の条件、拘禁の期間等を法定し、厳格な証拠法則の確立により合法的な身柄の拘束と取調方法の格遵を要求する新刑事手続法の下における自白とは異なり、旧刑事手続土犯罪捜査の実際において慣行せられ今日厳しく反省されている行政検束による留置中の然も検束後五十数日以上を経た後始めて為された自白であることをも考慮すればその証拠能力を否定する外ないものと認めるを相当とする。これ憲法第三十八条第二項、刑事訴訟法第三百二十四条第一項、第三百二十二条、第三百十九条などの法意に適合する判断と確信する。
なお又右自白はその内容において虚無の桐火鉢の窃取を目的とする虚偽の動機を陳述する点から云つてもその真実性について疑があり、他に被告人と事件とを連絡するに足る何らかの具体的な客観的証拠が求められない限り、たやすく犯罪証明の具に供するに堪えないものである。然るに本件の全資料によつて僅に立証されうるものは前記被告人と被害者間の面識関係、被害者方物件の既往における窃取行為並に被告人の盗癖など犯罪遂行の蓋然性に関する抽象的な主観的要素についての断片的資料のみであつて、しかも後記の通り犯罪発生の当夜における被告人の不在証明の不成立を断定すべき証明のない事実を併せ考えれば右自白は被告人につき犯罪成立を認定するに必要な補強証拠を具備することが出来ないものと云わなければならない。
なお被告人が明白な川上方の窃盗事実を頑強に否認すると共に地理的並に社会的に顕著に認められる川上方との面識関係についてすら否認した点について言及するに右は検察官所論の如く被告人の犯行であるからこそ、かくも白々しい否認をして犯行を匿す必要があるということにもなるが、又一面被告人の当審に対する弁明の如く被害者方の面識や窃盗の事実を認めると本件犯罪の嫌疑をいよいよ強めるから何もかも知らぬことにして通せば嫌疑を免れるとの単純低級な考えに基かないとも云えないのであつて、前記捜査当局の鋭い物盗り説の捜査方針にさらされ、身柄を拘束され、日夜厳重な取調に直面していた被疑者の心理としてありうべき自然の人情であるかも知れないのである。故にかかる被告人の態度を採つて被告人の犯行を推測せしめる資料とすることは本件全般の証拠関係に照らし危険な証拠の類推に陷るおそれがあるからこれを排斥しなければならない。
(二)痴情を原因とする殺人放火罪の証拠について
本件控訴論旨は痴情動機の自白をもつて窃盗動機を真因とする本件犯行を蔽いかくす被告人の奸策であると論ずるものであるから痴情原因の殺人罪の成否について考究する義務は当裁判所にないかの如くであるが、しかし本件公訴において形成され原審で訴求されている訴因は痴情原因の通常殺人罪であつて、本件控訴の申立は右訴因に基いて下した原審の無罪判決に対し為されたものであるから当裁判所はこの点についても審理並に判断を示す義務を有するものと認め次にこの点について一言を費すことにする。
被告人の右痴情による犯行の自白は前項第一記載の如く痴情のもつれから被害者の川上ふでを心ならずも殺害しその犯跡を蔽う為め孫の一康をも殺害の上放火したというのであり、被告人に対する警察官検事並に予審判事の各調書を通じ同趣旨の供述が一貫しているところである。
よつて検討するに、右供述中川上粂次郎の先代でふでの夫であつた豊吉が昭和十二年末頃死亡しふでが寡婦になつたこと、ふでの長男粂次郎夫婦が昭和二十年四月頃一子の一康を伴い都会を引揚げて帰郷しふでと同居するようになつたこと、昭和二十一年三月下旬頃粂次郎は泊病院に入院し妻みちがその附添いに行きふでの独居が多かつたこと、同年四月九日は衆議院議員選挙の前日であり、被告人は地元から立候補した山本松次郎の運動に一日を費して歩き廻り夕景右候補の選挙事務所になつていた同村の鍛治六平方で冷酒に夕飯の振舞を受け午後七時半頃一応帰宅したことは他の客観的証拠によつて十分に裏書せられるところである。しかし被告人の自白の根本的な基礎になつている被告人とふでとの間の情交関係の存在については川上ふでが殺害された当時六十九才の老人であつて昭和十二年夫と死別した当時既に六十才を数える老年であつたことに鑑み特に慎重な裏付証拠を要求するものと云わなければならないところである。然るに原審並に当審で取調べたあらゆる資料を綜合しても、前記書面の自白に示されているような痴情沙汰の原因となる両者間の性的関係の存在を確認しうる証拠は到底これを発見し得ないから右自白は被告人を断罪すべき十分な証明力を欠くものと云わなければならない。
第三、被告人の不在証明について
検察官は被告人の不在証明は成立し得ないことを主張するけれども反対に被告人の前記自白聴取書以外に被告人が犯罪の時刻に自宅にいなかつた事実を証明する資料も亦十分でないのである。これを更に記録について分析検討すると、鍛治六平方で被告人と同席した南茂源治は原審において、夕方薄暗い時分に夕飯に酒が出たところへ被告人が入つて来て同人も一杯だけ酒を呑み他の五六人の者と一緒に飯を食つた後三四十分して帰つて行つた旨証言し被告人の妻大久保さや、弟の妻で同居中の大久保伴なども原審並に当審で被告人が鍛治方に夕御飯をよばれて七時半頃に帰宅して老母に明日の投票の習字を教えたりしており、九時頃家族と一つ炬燵に入つて就寝した旨供述し、被告人の前記自白聴取書においても十時過ぎにふで方へ出かけた旨の犯行の部分を除いて右と同様の供述が認められるから本件犯罪の殺害時刻と認められる午後九時乃至十時における被告人の不在証明は、むしろ一応成立しない訳のものでもない。右に反する検察官援用の証人三凌猛巡査の証言は同人が捜査に従事中被告人から聞知したことの供述として「被告人は夕御飯を食べてから外出して十二時頃まで鍛治六平方にいたと云つたと思う」というだけの、あいまいな供述であつて到底前段証人らの供述を覆すだけの力がないのみか検察官主張の前記犯行時刻における被告人の不在証明不成立の根拠となる為には筋違いの供述でもある。即ち右三凌証言によれば被告人は所論の犯行時刻には鍛治六平方に居たと云うことになるに過ぎないからである。
尚お記録中犯罪発生当夜における被告人の不在証明に関係する証拠として当夜被告人方の博奕に寄り着いていた遊人の字田亀次郎(昭和二十三年死亡)に対する昭和二十一年八月二日附警察官の聴取書中「被告人が鍛治六平の家から帰宅した時間は午後の九時頃であつた」との供述記載と被告人方の隣人の山本つやに対する警察官の聴取書中「大久保が検挙されてから私は近所の者の挨拶として大久保の妻に慰めの言葉をかけたところ、妻は世間に対して恥しい。おとと(被告人)はあの晩遅く家へ帰つて来たというようなことをチラリと云つていたように記憶します」との供述記載があつていづれも、被告人の帰宅時刻が被告人に不利益に傾いているのであるが、しかし前者の供述は既に死亡者のもので公廷における反対尋問の機会を受けることのないことと、同供述者は供述当時被告人の盗癖により所持品について被害を受け且つその他の感情の対立から被告人方に寄り着かなくなつており被告人の窃盗を警察に訴えた者であることなどの事情に鑑みその供述の真実性について無条件の信を措き難いのみならず、仮に同供述の時刻をそのまま採用するとしても前記犯罪時刻と推定せられる午後九時乃至十時における被告人の所在を犯行現場に結び付ける為には相当の危険を伴う時間関係となるのである。次に右後者の供述は原審公廷における供述本人の証言により完全に否定されてしまつているのであつて、同証言を排して前記警察官に対する供述を信用すべき特別の状況も存しないし、そのようなことは証拠法上も許されないことである。
さて、被告人の不在証明に関する記録中の全資料は以上に尽きるのであつて、要するに被告人が本件殺人の犯行時刻と推定せられる時刻において、所在した場所が被告人の自宅以外の不明の場所であつたことを認めうる資料はないものと云わなければならないから検察官所論の不在証明不成立の主張は到底採用することが出来ない。
第四、その他本件に現われている参考資料について
前記第一の事件の経過の項に於て説述した坂藤義雄を首領とする南保村南保の青少年窃盗団の手口は当審の取調によれば大抵、夜分の八時から十時頃の時刻をねらい、時には夜半学校、土蔵、住宅などに忍び入り多種多様の財物を大量に窃取するのを常習とし人数は一回に二名から三名、時には単独に行動することもあり、賍物は多く坂藤方に運搬して同人の手より東京大阪方面に発送処分していたものである。右坂藤は特攻隊崩れの自暴自棄的な性情を具えその電気通信の知識を基礎に電気器具の使用に興味を持ち電熱器のコードの先を電燈のソケットに差し込み又これを取り外すことによつて起る電燈の明暗を利用し仲間と信号を交換して合図を行うなどの奇想を試みるなど大胆不敵な行動を取つていたが、本件犯罪の発生により窃盗検挙の警察の手入が厳しくなり前記の如く検挙せられその取調中かねて用意の薬品を服毒して謎の死を遂げた事実は本件犯罪又はその取調の経過と全然無関係の出来事としてこれを看却することを許さないように思われる。
本件放火の焼跡から昭和二十一年四月十一日予審判事の検証によつて証第四号ニクローム線一本、証第五号銅線一巻、証第六号碍子一個が発見押収されている事実に我々は注意しなければならない。川上粂次郎の生前における昭和二十一年四月十四日附検事聴取書中の供述によれば同人宅は電熱器やそれに使われるニクローム線などを所有し又は使用したことがないことが知られるのであるから、右物件の発見は犯人が、被害者両名を殺害後犯跡を蔽う為め放火を計画し、時間的にその逃亡の便宜を計る為め電熱器具の知識を利用し電熱の伝導体である右ニクローム線銅線電気碍子を適当に装置して可燃物に近寄せ自然の発火を準備し退去したものでないかとの疑問を呼び起すのであつて、若しこの推測が可能であるとすれば原審判決が、その無罪理由の重要な契機としている井上剛鑑定人の鑑定の結果から推定される殺害の時刻と出火時刻との間の著しい時間的間隔が十分に理解されるのである。果して然らば右の場合本件犯罪の容疑者として何人がその適格者であるかは自ら明瞭であつて少くとも電熱器具の使用に何らかの新知識を有するものとは認められない古風な田舎者の被告人がその適格を有しないことだけは云えようと思う。
以上各項に説述したところの結論として本件犯罪を被告人の所為に帰するに足る証拠は十分でないので被告人に対し無罪の判決を与えた原判決はその理由とするところの是認し難いことは論旨の通りであるが結局その結論は正当であり検察官の本件控訴は理由がない。
そこで刑事訴訟法第三百九十六条により主文の通り判決する。
(裁判長判事 吉村国作 判事 小山市次 判事 沢田哲夫)
検察官の控訴趣意
原判決は事実誤認に基いて無罪の宣告を為したもので且理由不備の判決である。本件公訴事実は被告人は(一)昭和二十一年四月九日夜富山県下新川郡南保村長野五百三十四番地川上粂次郎方に於て同人の母ふで(当時六十九才)を手拭にて長男一康(当時六才)を細紐にて夫々相次いで絞殺し、(二)右殺害後同所に於て罪証湮滅のため同家に放火して右粂次郎所有の右住宅萱葺平家建一棟約二十四坪を全焼焼燬したものであると言うにあつて右公訴事実については後述の通り之を証明すべき証拠が存するに拘らず、原判決は被告人に対する公訴事実の直接証拠は自白のみであるとなし、その自白は補強証拠を有せず且鑑定の結果に反し信憑性に乏しいもので他に被告人の犯行を認めしむべき直接の証拠は存しないから無罪の言渡しをする外はないものであると為したが、之れ明らかに本件につき公判に顕出された全部の証拠中被告人のいわゆる自白のみを偏重しその供述を迪つて考えることに急なるの余り他に被告人の犯罪を認むべき証拠あるに拘らず、之を看過したものと言わなければならない。即ち原判決は「総て犯罪事実は証拠によつて認定されなければならない。」と冒頭し古来「証拠の王」と言われる自白は新憲法及びそれに基く新刑事訴訟法に於て厳格な制限が置かれ任意性なき自白の証拠能力のないこと、さらに裏附けとなる他の証拠がない自白はそれだけでは有罪とすることができないとの原則が法文に明記されるに至つたことを闡示し本件公訴事実につき被告人を有罪とするには右事実が証拠によつて認定できなければならず然もその証拠となるものが自白であるならば先に述べた厳格な制限に服さなければならない。而して本件に於て被告人が犯行を為したものと認め得る直接の証拠は正にその自白であり而もそれ丈なのであると断定し直ちに昭和二十一年七月四日附司法警察官大鋸清太郎作成に係る被告人聴取書(第四回聴取書)の内容を掲記してその証拠能力につき論じ前者は之を認め得るが後者については被害者両名に対する使用兇器につき自白と鑑定の結果とが逆になつていること、殺害放火の時間につき自白と鑑定の結果が一致していないことを指摘して結局本件に於て被告人の自白は充分な補強証拠を有しないことになるとともに他面から見れば被告人の自白は鑑定の結果に反することとなり本件の捜査に当つた証人島地林作及び同森伊作の各証言にも照し合せるときは右自白は凡そ信憑性に乏しいものと考えざるを得ない。而して更に進んで本件記録を精査し一切の証言を検討しても又物的証拠の一々に当つても到底被告人の本件犯行を認めるに足る直接の証拠を見出すことができないと説示しているのである。しかし乍ら、本件に於て被告人の捜査中に於ける供述調書(司法警察官三凌猛作成の第三回聴取書記録六三八丁以下、同大鋸清太郎作成の第四回聴取書同六六一丁以下、検事丹篤作成の聴取書六九〇丁以下、同第二回聴取書七四〇丁以下及び強制処分に於ける予審判事作成の訊問調書同七二四丁以下)は何れも公訴事実の一つの証明資料として提出されたものではあるが、決して該供述調書のみによつて公訴事実の全部を立証し得られるというのではなく又右調書中には一応犯行及びその原因に関する自白の部分は存在するもその中には原判決摘示の通り補強証拠を有せざるのみか、さらに鑑定の結果と相反する自白も写されあることは極めて明瞭であつて右調書の記載全部が原判決の所謂本件の直接証拠と看做すべき証拠ではないのである。検察官は右被告人の供述調書を刑事訴訟法第三百二十二条に則り提出し取調を求めたのであるが決してその供述全部が全面的に信憑すべき自白であるとし以て本件公訴事実をその調書記載の供述のみによつて認定し得るものとして取調を求めたのではないのであつて右供述調書の一部と他の証拠により公訴事実を認定しなければならないと主張したのである。然るに原判決は終始右供述調書の自白を全面的に取上げ之を本件の唯一の直接証拠であると為しその内容に於て部分的虚偽ありや否も調査せず、然もその供述内容が客観的事実たる被害者両名の絞殺用具の点に於てさらに被害と放火の時間的関係の点に於て齟齬している点を指摘して右自白は全部信憑力なしと断じ他に直接証拠はないから無罪を言渡すの外はないとしたのであつて之れ明らかに所謂自白を全面的にのみ取上げ之に誤られた判断であると言うべきであり他に本件を認定するに足る証拠あるを看過した失当であると思われる。
本件は被告人の所謂自白のみに捉われず具さに本件の各証拠を精査審按するならば被告人の自白以外の証拠によつて優に本件犯罪行為の実体即ちその日時場所相手方使用兇器及び方法等が確定せられさらにその犯行の動機並に之に結びつく当該犯人を認定し得る案件であると思料せられる。
殊に新刑事訴訟法に於ては当事者主義を採用し検察官に証拠調のはじめに証拠により証明すべき事実を明らかにするいわゆる冒頭陳述の義務を負わしめて居り右冒頭陳述においては証明すべき事実に付通常(一)罪体となるべき事実(二)犯行の情況に関るす事実、(三)情状に関する事実の三点につき明らかにせねばならぬがこの中罪体となるべき事実については必ず被告人の自白以外の証拠を提出してこれを立証するを要し、この立証が出来ねば被告人の自白があつても有罪とされないのであつて従つて裁判所の判決に於ても先づ基本的事実たる犯罪の存否に付証拠検討し罪体の成立を確定した上それが被告人の犯行なりや否やの判断に及ぶのが妥当であつて原判決摘示のように自白の証拠能力及び証明力に関する抽象論を先にして被告人の自白の線に沿うて事件を観察し罪体たる事実確定を全然しないのは本末を誤つた考え方と謂わねばならぬ。本件は次に援用する各証拠によつてその犯罪行為の実体が明瞭に確定し得る案件なのであるからこの点に於ける原審の審理不尽は判決に影響を及ぼすことが明らかであると思料する。
以上の見地に立ち本件の各証拠を按ずるならば、本件は昭和二十一年四月九日午後八時乃至十時頃迄の間に富山県下新川郡南保村長野五百三十四番地川上粂次郎方に於て同人及びその妻不在中同人の母ふで(当時六十九才)が証第一号の手拭で長男一康当時六才が証第二号の細紐で夫々絞殺せられ、然もその後右粂次郎宅が放火せられ、翌午前二時半頃全焼した事実が確定せられ、その犯人は右被害者と面誠ある物盗りであつて右現場に於て被害者に発見されたため之を殺害し然もその犯罪の証拠を湮滅する為同家に放火したものと推認せられるのである。
以下之を夫々証拠により説明することとする。先づ右被害者川上ふで及び一康が夫々絞殺せられたこと及び川上粂次郎方が放火により全焼した事実は何れも予審判事の検証調書(記録三二丁)鑑定人井上剛の鑑定書(同五四丁)川上粂次郎に対する司法警察官及び検事の各聴取書(同一一八丁及九六丁)証人川上みちの供述調書(一九七丁)並に証第一号焼残りの手拭、証第二号細紐の各存在に徴して之を認定することができる。特にその死因について右鑑定書に依ればふでは可成りに幅広き帯状の索状物、一康は暗褐色格子類似模様綿布の紐状索状物を以て夫々頸部を絞殺せられたものであり、その兇器は右検証調書及び供述調書に依り証第一号の手拭及び証第二号の腰紐であると認められるのである。
次に右殺害並に放火の日時及び放火の方法について詳述するに鑑定書に依れば本死体は何れも死後二日間を経過し且つ食後一、二時間の犯行なる旨記載されて居る。右鑑定の為の解剖は同年四月十一日に行われたことは同鑑定書により明かであり証人川上みち、川上竹次郎、近藤彌右衛門、近藤よし等の各証言によれば同年四月九日夕刻頃迄被害者両名とも生存していたことが窺知せられ、火災が翌十日朝以前であることと思い合せるならば両名とも九日の夕食後一、二時間内に殺害せられたと見るべきである。
而して茲に注目すべきは証人大森常次郎が同日午後八時頃に被害者宅を訪問しふでに面接していることである。そこで証拠により右九日の被害者ふで及び一康の行動を説明するに先づ証人稲村良作の供述(記録三二四丁)によれば「同証人が四月九日午前九時頃頼まれていた味噌をもつてふで方に赴いたところ、ふではモンペをはいて家の前の狭い畑になすを植える準備をして居り囲炉裡端でお握り一つ頂いて帰つたがその際前に洋傘や長靴がなくなつたこともあり気持が悪く家に居るのは嫌だと言つていた」との事で次いで証人川上みちは「自分はふでの嫁、一康の母であつて当時夫粂次郎が泊病院に入院中附添をしていたが九日の午後一時過ぎ泊病院から一康を連れて家へ帰り一時間程母ふでと話してから農業協同組合へ用事に行き更に家に帰りそれから午後四時頃一人で病院へ帰つたのであるがそのとき一康は近藤彌右衛門方の前で遊んで居た。私達が病院から家へ着いたときは母は野菜の色取りをして病院へ持つて行かうと思い、土間にいたのであるから服装は畠着物ではなかつた。又病院から家へ行つて直ぐ自分は着替えてその着物を家の西側にある木の繩にかけて干したのである」と供述し(一九七丁以下特に二一一丁以下)之に依ると被害者ふでは粂次郎入院中の泊病院へ野菜を持つて行くべく外出着に着替えていたこと及びみちが一康を連れて来たので行くのを思い止まつたことがうかがわれ、更に証人田中とよは「四月九日ふでが川原の畑で馬鈴薯を植える様にしているのを見た。昼前ふでは午後から野菜でも少し持つて病院へ見舞いに行つて来ようと思つているといつていたが午後遅くまで仕事をしていた。服装は短かい着物を着てモンペをはいていた」と述べ(三〇二丁以下)又証人近藤彌右衛門は「その日一康は病院から連れ帰られてから私方の前で私の子供と夕方薄暗くなる迄遊んでいたということをその後聞いた」と述べ(二四〇丁)証人近藤よしは「自分は右彌右衛門の母であるが、粂次郎方には婆さんと子供の二人より居らず此の日婆さんは黒いものを頭に被り黒い様な着物を着てモンペをはいて里芋を植える畠拵えをして居り坊やは日暮まで私方で遊んで居たので婆さんが迎えに来たのではないが私は坊やに婆さんが待つているから帰れよと云つて帰した」旨述べ(三一五丁)更に証人川上竹次郎の「自分はその日ふでが川原の畑へ仕事に行つていたと聞いたが午後六時半頃迄でないかと思う」旨の供述(二二五丁)及び証人川上みちの「平素夕食は子供が早く寝るので午後六時半乃至七時頃たべる」との供述之等を綜合するときは当日被害者ふでは嫁みちが来たので病院行を思い止まり、更に小川の川原にある畠に出て馬鈴薯を植える拵えをして居り暗くなる迄家に帰らず又一康も暗くなる迄近くの近藤彌右衛門方前で遊んで居たことが確定せられふで及び一康が帰宅したのは午後六時半乃至七時頃でないかと見られる。そして夕食をした訳けであるが此の場合帰宅後簡単に夕食の仕度をして直ぐ食事したとすれば恐らく七時乃至七時半には夕食を終えたであろうが前記の通りふでは当日一康の帰宅を予期せず且自分も病院行を予定していたので帰宅後更に飯を炊いたりする必要があつたとすれば、之に三十分や一時間を要したとも考えられ食事の終りは午後八時頃に及んだとも見られ鑑定の結果の食後一、二時間は四月九日の午後八時乃至十時頃と確認せられるのである。原判決は「春四月初旬頃の田舎の夕食事は通常如何に遅くとも午後六時乃至七時のものであることは経験則上明かであるから本件殺人犯行の時間はその日の午後八時乃至九時の間となるのである」と説示しているが叙上の各証言に徴すれば殺人犯行の時間は午後十時頃迄に達し得ることを看過したものということができる。尚証人大森常次郎は「自分は四月九日の晩長野部落の選挙の投票依頼の為廻りふで方へも八時過に立寄つたがふでは家に居り三遍程今晩はと呼んだら戸を少し開けて出て来たからかういう訳けで来たが宜しく頼むと云うとふでは判りましたと云つて居り、その際どんな着物を着ていたか記憶なく又一康が何処にいたか判らなかつた、そしてふで方を出てから川上竹次郎方へ行つた」旨供述し(三三〇丁)証人川上竹次郎は「同日夜八時頃自宅に大森常次郎が来て山本松次郎へ投票して呉れ、今、四郎右衛門(川上粂次郎方の呼名)へ行つて来たと云つたので皆居たかと聞くと常次郎は婆さんと小さい子が居り婆さんは短い着物でいた小さい子は囲炉裡のふちで寝ていたと云つていた」旨供述(二二七丁以下)するところであり之等の証言を更に考慮するときは夕食時間の遅くなつた証左であると思われ之を要するに本件殺人犯行の日時は四月九日午後八時乃至十時頃迄と相当幅の広い時間が考えられるのである。
次に放火の日時並に方法については予審判事の検証調書の記載証人山田武次(二七〇丁)外現場附近の各証人の供述に依れば大体十日の午前一時半乃至二時頃に右粂次郎方が一面の火となつて燃えているのが村人により発見せられたと見るべきである。尤も証人山本富之助は「当時山本松次郎候補者の選挙事務所を自宅に設けていたが、川上粂次郎方の火事のあつたとき事務所には未だ人がいて時計が十二時を打つと来ていた四、五人の者が帰ろう帰ろうと言つて煙草を一服喫んで無駄口を言つていたところ高島竹次郎が鐘が鳴ると言うので戸を開けて外を見たときには空は真赤であつた」と述べ(三五四丁裏)ているところである。而して前記証人川上竹次郎が「粂次郎方の火事は十日の午前一時半か二時頃と思うが寝ていると裏の方で火事だと二、三言叫ぶ声が耳に入つたので思わず裸のままで飛出して見た。同人方の後の杉の木に火がついていたので私は前の方から火が出たものと思う」旨供述して居る外附近居住の証人を以てしてもその放火地点並に放火時期について別段の証言をするものなく然も同家は全焼しているのであるから犯人が媒介物を使用する等特殊の方法を講じて放火し之を住宅焼燬の間に時間的隔りのあるよう作為したとしても之を明かにすることが出来ないが唯前記検証調書並に証人川上みちの証言によれば右粂次郎方は萱葺の所謂農家の構造の木造住宅であり然も屋内並に家の附近には極めて引火並びに延焼し易き藁、薪其の他の可燃物が存在し、且囲炉裡の傍には使用中のマッチがあり、そのマッチを使用するだけで容易に右屋内に於て放火しその全焼の目的を達し得られたのであるから放火の時刻は早くとも右の村人から覚知された三十分乃至一時間前と推認せねばならない。
而して茲に注目すべきは右放火は前記両名の殺害後に為された事実であつて、之は右殺害並に放火の時間関係の点より明かにして然も右鑑定書に「尚右の両屍体には絞殺後之を焼去らんと企てられたる証跡あり」と明記しある如く本件放火は殺害後同一犯人によりその屍体焼却の目的を以て為されたものであることは右解剖所見に依るのみでなく検証調書及び川上粂次郎の前記聴取書の各記載並に証人山田武次の供述に依り被害者両名の屍体の位置が故意に変えられてあつた事実更に殺害時刻は既に夜陰にして殺害犯人以外のものが別に放火を為したと認むべき特殊事情は全く存在せざる事情等から推して正に右被害犯人が犯跡隠蔽のため屍体諸共家を全焼し以て屍体焼却を図らんため放火したものと認められるのである。
而して本件殺害並に放火の日時は前述の通り殺害が九日の午後八時乃至十時頃で放火が翌十日の午前〇時半乃至一時頃と認められ其の間二時間半乃至五時間位の間隔はあるが此の間隔のあることは何等前犯行が同一犯人の手によつて為されたとの認定を妨げるものではない。犯人が殺害行為後一旦其の場を退去したけれども間もなく其の犯跡たる屍体の模様や被害の発覚が案ぜられる余り程経て再び其の場所に立越し之を窺うということはよく経験されるところで本件も犯人が殺害後一旦其場を退去したるも更に右の時間を経て再び被害者方に立帰り犯跡隠蔽の手段として本件放火を決意敢行したと認められる案件である。
果して然らば右放火は殺人の爾後に之に附随して為されたものであつて、本件の真相を究明する鍵は右殺人行為にあり然もその原因動機に存すると確信するのである。
而して本件は屋内に行われた犯行であり、然も夜陰田圃の中に孤立し老婆と幼少の孫との二人きりの農家内における犯行なることを他に反証なき限り犯人が他から屋内に忍び込んでの犯行と認めざるを得ないのである。後記の通り本件犯罪の捜査に当つた警察官が夫々証言する如く本件のような殺人には通常痴情、怨恨及び物盗りの三個の原因動機が想定されるのである。然しながら痴情及び怨恨についてはその被害者側が犯行の誘発につき重要な役割を占めて居り被害者の年令、性格、素行、交友関係等を仔細に捜査し検討するときは大体その犯人の割出しが可能であり少くとも痴情怨恨に基くものなることの推定が出来るのである。然るに本件捜査に従事した所轄泊警察署長近藤捨蔵、同司法主任大鋸清太郎、同刑事角井清作及び県刑事課主任島地森作、森伊作、三凌猛は証人として其の捜査の経過を証言しているが何れも被害者側から痴情怨恨の線が出なかつたと述べ被害者方附近在住の証人等も右と同様にすべて之を否定しているところであり、殊に痴情の点については被害者川上ふでの年令が当時六十九才の老令であつた点から見て特別の事情なき限り否定し去らるべきものであろう。本件は警察官である右各証人の証言にある通り結局物盗りが原因動機の犯行であり然も当初から殺意ありと見るよりも寧ろ該犯人が金品窃取のため侵入した際被害者ふでの覚知するところとなり之を殺害し其の後放火したものと見るのが事案の最も妥当な見方であり然もかような犯人が六十九才の老女を殺害したのは一に平素顔見知りの間柄即ち面識関係があつたため覚知せられた以上自らの保身のためには殺害するも止むを得ずと突嗟に決意したに出でたものと推認せられるのである。かように認定をすればその屍体を焼却し罪証の湮滅を企てたることも了解せられるところであるのである。単なる痴情関係に基く殺害ならばその後に罪科なき無心の孫までも殺害し然もその死体の存する家屋に放火すると言うことはわれわれの経験上思考し得ざるところであり又怨恨にしてもそれ程の犯人があるならば当然捜査線上に姿を現わし来る筈であつて、犯人を物盗りとするときに於て初めて斯かる残忍な犯行を承認し得るのである。
当時被害者川上粂次郎居宅内には窃盗の目的となる金目のものが相当に存在していたことは証人川上みちの証言に「自分等が川崎市から引揚げて来たときには十八行李の荷物があり調度品もぜいたくなものがあつて村民は洋服箪笥が珍らしくて見に来たものもあつた」旨の供述(二一七丁裏)によつても明らかである。
尚犯人が物盗りであるとの認定の一根拠として痴情又は怨恨に基く犯行とすれば、恐らく説明のつかない現場から程遠くない大森伊作方附近田圃に放置されていた川上みちの着物の点も理解されるのである。前記検証調書によれば火災後川上粂次郎方から約百二十米北東方の大森伊作方前田圃に袷着物一枚放置されていた旨の記載があり証人川上みちは「川上竹次郎方に屍体運搬後誰かが着物が田圃に落ちていると言つたので其処へ行つて見ると私の袷着物が袖畳みにして落ちて居り、それは九日に病院から一康を家へ連れて来たときに着て来たもので私はそれを家の西側にある木と木との間へ藁繩が張つてありそこへ西側の方へ襟を向けて裏を出して掛けておいて之を始末するのを忘れて病院へ行つたのであるが此の着物が大森伊作方の南側の田圃に四ツ位に袖畳にしてあつたのである。着物を掛けていた繩は燃え、それを張つて居た木も焦げていたので皆はおかしいと言つて居り、つまり焼けるべきものが焼けずに居た物盗りであるかも知れん又普通なら家人は出口の方へ逃げて居るかもしれないのにおかしいと言うのである。」と供述し(二〇三丁以下)更に証人近藤久太郎は「着物が落ちていた現場は粂次郎方から五箇庄村へ行く通り道にある。着物は田圃道から投捨てた程度の所にあり、之は本道へ行く途中捨てたものと考えた。当時田圃は、未だ鋤き起してなく自由に歩け、大森伊作方の電燈でその道を人が通ると見える筈で裏を通つて行くと言うことも考えられる。川上ふでは着物を外に置き放しにする人ではなくその日ふでが畠から帰つて来れば着物は目につく場所に掛つていたのである。その着物は多く盗んだ中の一部と思うが私としても之丈けは何うして捨てたのであろうと思つた」旨の供述(二六〇丁裏以下)があり之等を綜合すれば川上みちが干し忘れた着物をふでが畠から帰つて取込み袖畳みにして屋内に入れておいたのを犯人が盗み出し右大森伊作方前小道又は田圃を通行の際故意に放棄又は遺失したものと認められるのである。
此のようにして本件は叙上各証拠により物盗りに基因するものと認められ然もその犯人は被害者と面識関係あるものと推認されるのであつてその犯人として警察必死の捜査の結果被告人大久保与四松が検挙せられたのであるが同被告人こそ本件の真犯人であり同人以外に犯人があり得ないことをさらに証拠によつて説明しなければならない。
先づ被告人大久保与四松は右犯罪現場から徒歩約二十分を要する隣村部落に居住し被害者川上ふで方附近の地理を熟知し同女と面識ありたりと認められるのみならず窃盗の常習的敢行者であつて本件より約半年前の昭和二十年十一月二十四日頃に右川上ふで方から洋傘外二点を窃取した事実があるのである。
次に被告人の被害者との土地的関係及び面識関係については被告人は公判廷に於て被害者ふでに会つたこともなく全然知らなかつた旨弁疏する(第二回公判調書)も被害者方附近居住の証人等は何れも被告人と被害者が田圃の水あての関係から面識あつたと思われる旨証言しているところである。即ち証人近藤久太郎は「大久保は、二つ村のお宮の辺に田を持つているのであるが夏の渇水期にふで方の西側の方の道を通つて川上竹次郎方の附近にあるお宮を通り竹次郎方の辺にある水取入口へ来ていたと思う。ふでの夫豊吉が居た当時私方所有の田を小作させていたがその水取入口が大久保と同一箇所であるので二人は顔を合わせていたと思われる。当時ふでが私に大久保が自分に当てている水を裏の方から来て自分の田の方の取入口へ入れている。それであの田では水が当らないから耕作するのが嫌だと云つて居た」旨(二六三丁)証人川上竹次郎は「当時大久保は私方の裏手の川(川上粂次郎方の近所)へ水を当てに来ていた。水を当てに来る関係からふでや粂次郎を知らないことはないと思う」旨(二三一丁)証人近藤彌右衛門は「大久保が田圃の水を上げに来たときに私方の前の川附近で見受けることもあつた」旨(二三九丁)証人近藤すぐるは「私は大久保を近藤方へ来てから知つているが被告人が水をあてに上の方(川上の近所)へ来ていたと母から聞いている」旨(二四六丁裏)証人近藤よしは「私方は川上粂次郎方の近所であつて同人方へ行くのに私方の前を通ると近道であるが大久保が田の水あてに行くのを見て又孫右衛門さ(大久保の通称)が水を見に行く又水口を止めて行くぞと噂をしていた。川上ふでも当時又孫右衛門が水を止めに行くと言つていた」旨(三一四丁)夫々供述しているところである。尚田の水の関係については被告人自身も公判廷で後記の窃盗の動機の弁解として供述した際「川上方の前の川が私方の田の方へ来ているのであるがその水を見に行つたときに持つて来た」旨(二一六丁)述べているのであつて農村に於て斯かる間柄にある被告人と被害者との間に相互の面識関係の存在を推認するに難くないと思料されるのである。
次に被告人は証拠として押収された別件の被告人に対する窃盗被告事件記録が、雄弁に物語る通り被告人は昭和九年三月頃から昭和二十一年四月頃迄の間三十数回に亘つてその居宅附近部落等二十数ケ所で衣類時計洋傘靴類勝手用具類等八十数点を窃取したものであつて(同記録三七七丁判決参照)その犯罪回数と被害者並に被害物品の夥多とその反覆累行された事跡とは被告人の盗癖とその犯行の常習性を明かに認め得るところである。尚その他に被告人方が当時賭博者の定宿であつたことは被告人の妻大久保さやの証言(三三七丁)証人山本富之助の供述(三五二丁)及び宇田亀次郎に対する司法警察官聴取書の供述記載(七七二丁)並に被告人自身昭和二十年二月賭博罪で処罰されている事実(右窃盗記録前科調書)によつて之を認めることができる。
かように被告人は盗癖を有し附近部落で反覆して物品を窃取していたのみでなく本件被害者方に於ても昭和二十一年十一月二十四日其の居宅に侵入し玄関内側にあつた川上粂次長所有のゴム半長靴一足地下足袋一足及び同人の弟川上きくゑ所有の洋傘一本を窃取しているのである。(証人川上みちの供述並に右記録判決及び司法警察官作成の第三回被告人聴取書参照)かような被告人の性格並に前歴と本件捜査の経過及びその過程における被告人の態度こそわれわれに本件の犯人は正しく被告人であると言うことの確信を与えるところなのである。
本件の捜査は事犯発生後約三ケ月に亘つて続けられ証人近藤捨蔵同島地林作同森伊作同三凌猛及同角井清作等の証言によれば事件発生直後、即時に捜査本部を開設し近藤泊警察署長以下泊署員約三十名県刑事課員約十名が捜査に専従し当初捜査方針として犯行の動機を物盗り痴情怨恨の三と想定し夫々捜査を進めたが被害者側の捜査から次第に物盗りの容疑が濃厚になり尚犯人がいわゆる流しで旅の者であるか又は附近の住民であるかについては死体焼却のために放火するのは普通流しには考えられないところであるが然し買出人其の他の入村者又は事件後の離村者についても綿密に捜査したことが推知される。
即ち警察としては全力を挙げ且全智を傾けて捜査したのであるが最後に被告人には他に相当回数の窃盗容疑があり本件犯行の疑も濃厚であつたので五月四日検挙し泊署に留置の上取調を為したところ当初警察で証拠確実として取調べた数件の窃盗事犯に対しても被告人は之を否認し証拠をつきつけねば自供せず殊に被告人方から押収した多数の賍物についても自発的にその犯行の顛末を供述することなく凡て警察の方でその被害附けを為し被害事実を明らかにした上で被告人の取調をなさねばならずその労苦は並大抵ではなかつた。然も被害者及その被害事実が判明した為め被告人は漸く犯行を自供したのであるが然も自供に際しても殊更に被害物品の所在した場所等を実際とは異る場所等を述べ又は単に保管していたのだと弁解しながら供述する等後日に備え且捜査官として更に捜査の労を重ねしめたことが窺知される。斯様な捜査の経路の後、一応被害の判明せる窃盗事犯の自供は得られたが唯本件被害者川上ふで方における昭和二十年十一月中旬の洋傘長靴地下足袋の窃盗については被告人は極力最後迄否認し当日は家から出ていないとかそれらは富山駅前の店又は東岩瀬土方飯場で入手したと強弁し警察官をしてその裏打捜査を為さしめそれが嘘言であるとの反証を挙げられ初めて川上ふで方の玄関から之を盗んで来たことを認めたのであるがそれを認めてその犯行の顛末を自供したその直後近藤署長の取調に対し物盗りを動機とする本件殺人並に放火の犯行を自白したものである。この捜査経過は前記被告人に対する窃盗被告事件記録により之を証明することを得るが同記録中の被告人に対する司法警察官作成の昭和二十一年六月二十五日附第二回聴取書(二丁乃至十丁迄)に於て他の窃盗事実を取纒めて供述し居るに拘らず本件被害者方の窃盗の分には全く触れて居らず次の同年七月一日附同第二回聴取書(五一丁乃至六四丁)に於て始めてこの窃盗事実を供述しているのである。即ち右第二回聴取書に依れば(五七丁裏)「私は今日の日迄川上四郎右衛門の家(川上粂次郎方のこと)へは一度も行つたこともない又盗んだこともないと強情に頑張つて居たが日は確り憶えはなく昨年十一月末頃であつたろうと思われるが晩の九時半頃に家を出て小川の堤防下から二ツ村のお宮の横を通つて南保村長野の近藤竹次郎の背戸(裏)を通り川上四郎右衛門へ行つて様子を見ると寝ていたようであつたので静かに玄関入口の戸を開けて玄関の縁先の処においてあつた女持洋傘一本ゴム半長靴一足、地下足袋一足を盗んで元来た道を通つて家に帰つたのである。尚私が川上四郎右衛門へ行き帰りに通つた道は田圃の細い道であるが私が若い頃から田圃の水を引取りに何時も通つているので良く知つて居り又絶対に人に見付けられる心配がないから此処を通つたのである」と述べて居り之を同記録中の川上粂次郎の盗難始末書(九五丁)の日附が同年四月十一日であると対照すれば被告人が如何にその取調の当初よりこの窃盗事犯を否認弁解して来たかが推知せられ全く否認弁解の余地なきに至りたることを自覚し始めて自供するに至つたことが認められる。
而して被告人は右川上粂次郎方の窃盗事実を認めた後日ならずして近藤署長の取調に対し本件殺人放火は自分が犯したものであることを認めたのであるが証人近藤捨蔵は「記録四八九丁)「本件の捜査中自分も署長としての責任上から大久保与四松の取調にも当つたが七月初旬自ら取調をしたとき始の間は否認して居たが結局申訳けなかつたと云つて自供した。その自供概要は九日の晩十時頃迄家で仮睡して居りそれから川上粂次郎の家に桐の火鉢がある事を思い出し之を盗んでやろうと思い晩十時頃家を出て裏道から川上方へ行つたのである。家に忍び込んであちこち探している中に被害者のふでが眠つていたのが眼を覚した。それで発見されては大変と思い傍の手拭でふでを絞殺し更に傍に眠つて居た長男をも細紐様のもので絞殺したのである。之は大変なことをしたと屍骸に対し手を合せて瞑想し玄関迄は何も盗らずに出たが此の儘では犯罪が明るみに出るおそれがあるので放火を決意し囲炉裏附近にあつたマツチで土間の藁二、三束に火を附けて燃え上るのを見届けて家へ帰つたと陳述した。此の取調は晩の八時から十時か十一時頃迄であつたので一応打切り翌日かその翌日大久保が犯行を否認し出したと聞いたので私は誠に意外に思い更に本人の取調に当つたのである。すると大久保は同年七月四日附司法警察官大鋸清太郎作成の第四回聴取書記載の通りの盗情関係に基く犯行の自白をしたのであるとの証言をして居る。即ち被告人は近藤署長に先ず物盗りに因る犯行を自白しながら更に痴情関係に因る犯行なりとその原因動機を変更したことが認められる。而して被告人に対する右司法警察官大鋸清太郎作成の聴取書(六六一丁)同検事聴取書(第一乃至第三回)(六九〇丁、七四〇丁)及予審判事の訊問調書(七二四丁)を仔細に検討するときは被告人は先ず司法警察官に対しては原因動機をふでとの痴情関係に変更したるも尚単に同女の態度の冷淡なる点を憤慨したその余り本犯行に及べる旨述べたのに止まるに対し検事聴取書に於ては同女との情交関係につき事細かに説明した上右ふでに既に情夫川上庄三郎があり之迄二回程情夫と行き遭つたこと、従つて犯行当夜にふでに対しその事をも責めたことに供述を発展して居り予審判事には更に強く確言し更にその後検事には右の川上ふで方で川上庄三郎に行遭つた日時につき裏附を得られない点を指摘されるやその日時を一年前に遡らせながらも之を確言しているのである。川上庄三郎は以前相当の後家荒しであつたことは証人角井清作の供述(第三回公判調書五〇四丁以下)により認め得るも当時中風に罹病し同年五月死亡したことは記録中の死亡証明書により明らかであるのみならず一方被害者ふでとの情交関係を確認する証拠はないのである。かような被告人が一旦物盗りの原因動機による本件犯行を自供したるも調書作成が遅れたため翌日になつて更に痴情関係による犯行と之を変更自白したということは右各証拠に依り明白なのである。被告人は本件発生後二十五日にして検挙せられ引続き留置取調を受けたのであるが何が故に被告人は警察官である各証人が挙つて言うようにその窃盗事犯を証拠があるに不拘極力否認弁解し然もその後それを自供しながらも更に川上粂次郎方の窃盗事実を頑強に否認したのであろうか。それは当時既に警察は本件について物盗りの線で附近部落の盗癖ある者を続々捜査本部に召喚し取調を為していたので被告人も本件の容疑者として検挙せられたものであることを察知して居り従つて右殺人放火の犯行を隠蔽せんが為先ず取調を受けた窃盗事犯についても予め極力否認弁解に努め殊に本件と同一被害者の川上粂次郎方の洋傘外二点の窃盗事犯については極力頑強に否認したことが窺われるのである。然し乍ら警察の撓ゆまざる合理的捜査の結果之を包みかくすことが不可能となつて該窃盗事犯を自白するやさらに引き続き本件についても自白せざるを得なくなり遂に近藤署長に対し物盗りによる殺人並放火の顛末を自供したのである。然るに調書の作成が翌日に延期された為又々犯行を否認しさらに追及されて今度は痴情関係に基く犯行なりと動機を変更して供述したのである。尤も被告人の右の物盗りによる犯行の自供にある盗もうとしたという対象物の裏附が出来なかつたことは証人近藤捨蔵同角井清作の供述により認められるが之も前記窃盗事犯取調の際に表現せられた被告人の取調に対する特異性格から推してその供述内容の矛盾を理解し得られるところである。被告人に限らず本件の如き所謂重大犯罪の犯人は捜査官乃至裁判官の取調に対し結論的に刑事責任を自認しながら罪を免れん為め犯行の方法過程等に於て事実と相違した供述を故意に為し以て後日に備えることのあることは吾人の屡々経験するところなのである。而して被告人の供述は更に之を痴情関係に再変したが之れ全く罪を免れんとし或は其の情を軽からしめんと企図し併せて他日の防禦に備えんが為めしたとしか考えられないところである。
かように本件捜査の経路を仔細に検討するならば本件捜査官の被告人の聴取書並予審判事の訊問調書はその調書中の供述内容が有力なる情況証拠として被告人の有罪の認定に資するのである。斯かる性格の被告人に対し夜陰農村の一軒家で敢行した事件につき犯行の全部につき真実そのままの自供を得ようとしても到底その目的を達し得ないことは自然のことである。唯警察の撓ゆまない熱意によつて被告人は自ら被害者宅に侵入して本件犯行を行つたことを自認せざるを得なくなつたことを注目すべく此の被告人が少くとも犯行の為被害者方居間に入つたことを合理的に認めたのであるから被告人の供述調書中被告人が当日の夜家人が寝てから自宅を出て被害者川上粂次郎方に立入つた旨の供述記載は本件認定の証拠に採用し得べく又殺害並放火の所為は前記の通り被告人の供述以外の証拠によつて確認し得る客観的基礎事実によつて優に認定することを得るのである。もつとも被告人が当夜右犯行時刻に現場に在らざること即ち不在証明がなされるならば被告人を本件の犯人と認定する余地はなくなる。そこで被告人は公判廷で当夜自宅にいた旨陳述し弁護人又被告人は当日終夜在宅し当時中風の母と共に就寝その介抱を為していた旨主張し証人大久保さや(被告人の妻)同大久保みさ(被告人の娘)及同大久保伴(被告人弟の妻)は何れも之に符合する供述を為しているが大久保さやに対する検事聴取書(七七八丁)及宇田亀次郎に対する司法警察官聴取書(七七二丁)によれば何れも右証人の証言は措借し難きのみでなく被告人の妻大久保さや及び大久保伴は何れも当夜被告人と別室にて寝て居り午後九時以後の被告人の行動については之を知る由がないこと並びに大久保さやは事実被告人が当夜家に居たかどうか之を知らなかつたことが認められ且証人柳沢伊之助の供述(三七三丁)によれば当時被告人の母は中風ではあつたが人が始終附添うて居なければならないと云う程の不自由さではなかつたことが認められる。
被告人の当日の行動については証人山本富之助(三五二丁)同鍜治六平(三六二丁)及同南茂源治(三七九丁)の各供述に依れば被告人は本件の起つた当日は翌十月に施行の衆議院議員選挙に際し自村から立候補した山本松次郎の為附近部落の知人方へ戸別訪問を為し帰宅後夕刻選挙事務所たる山本富之助方を訪ねて同人に報告した上鍜治六平方に赴き夕食の振舞を受けて退出したことが認められ然も証人南茂源治は被告人が薄暮の頃に鍜治六平方へ来て約四十分間居つて帰へつた旨述べているのである。而して証人大久保さやは被告人が午後六時半頃帰宅した旨供述して居るけれども当時被告人方に常時出入し食事もしていた宇田亀次郎は被告人が鍜治六平方から帰宅したのは午後九時頃であつたと述べて居り(宇田亀次郎に対する司法警察官聴取書(七七二丁)証人角井清作の供述(五一四丁参照)然も帰宅後は食事もせず唯母に対し翌日山本候補に投票すべくその氏名文字を教えた丈けで一家就寝したことが認められる。前記の如くその就寝後の被告人の在宅については之を確認すべき証拠はないのであるから結局被告人の当夜の行動中大体午後七時半頃より九時頃迄及九時半頃以後翌朝五時頃迄の間其の自宅に在宅した点は証拠によつて確認せられないものと謂わなければならない。然も被告人は本件捜査中に於て自らの不在証明として当夜十二時頃迄鍜治六平方に居て帰らなかつた旨弁解していたこと証人三凌猛の証言(四二九丁裏)によつても明かで如何に被告人が本件犯行の責を免れるべく作為したかが推察されるのである。
以上の次第であつて本件記録及各証拠によれば被告人は強盗殺人放火、死体損壊等の犯行に及んだものと認められるに拘らず検察官が起訴状に掲げた公訴事実は単に殺人放火に過ぎず精密を欠いたことは当を得ないと謂うべきであるが新刑事訴訟法による公判手続に於ても殺人として起訴せられた事件が審理の結果尊属殺又は強盗殺人の如き加重犯と認めらるる時は訴因及罰条の変更を要するに止り公訴自体の効力に消長を及ぼす筋合はないから裁判所は殺人の動機目的等につき起訴状の記載が失当であるとの一事によつて真実発見の任務より免責せらるるものではない。従つて原判決が本件の如き重大事犯に関し本趣意書に援用した有罪の各証拠あるに拘らず輙く犯罪の証明なしとして無罪の言渡をしたのは審理不尽及び事実誤認であつて破毀を免れぬものと思料する。