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名古屋高等裁判所金沢支部 昭和26年(う)647号 判決 1953年5月28日

控訴人 被告人 南達治

弁護人 三井三次

検察官 宮崎与清

主文

原判決を破棄する。

被告人を無期懲役に処する。

押収の証第八号(日本刀小一振)並に証第十一号の二(手斧一挺)はいづれもこれを没収する。

原審並に当審の訴訟費用は全部被告人の負担とする。

事実

被告人は

第一、大正九年頃二十一才にして松中千代野と婚姻し一子征一郎を為したが千代野は大正十二年病死したので当時前婚に破れて実家に出戻つていた七才上の深見みつと媒酌の婚姻をして同棲した。温順貞節な妻みつは献身征一郎の養育に当ると共によく被告人に仕え当初は幸福な家庭愛に包まれていたと見えた夫婦仲も逆縁の悲しさはみつの寄る年波と共に冷却し被告人は他に女を求めてみつを顧みないようになり終には夫婦間の情交すらいつしか絶止してしまつた。この間一、二の人妻に手を附けるなどの醜行もあつて、女癖のある被告人は曽つて爛蝶の源氏名で七尾の常盤遊廓勝田屋に出ていた本名みしと云う女を好いて通つたが同女は陸田三不見という男と結婚して七尾を去つてしまい、同女に惚れ込んでいた被告人に血涙を絞らせたのであつた。それから後の幾星霜、終戦によつて夫をソ聯に抑留され単身大陸から引揚げて来たみしが七尾市に来住しているのと偶然同市内に邂逅したのが奇縁となつて、旧交を暖めるうち深く情愛の渊に沈み絶ち難い愛慾の虜囚となり果て年甲斐も忘れて同女の情魂に没入するに至り毎夜の如く家を外に同女の間借りしている同市三島町橋向外次方表二階に赴きみしの許に宿泊するのが例となつたので妻のみつは数年来殊の外身体衰弱し肉体の精気を失つていたのと信仰に厚い同女の修養により被告人のこのような振舞にも格別世の常の吝気の色を見せることは慎んでいたものの内心の淋しい空虚を忍ぶ苦衷は近親知己の目にも映じて知る人々の同情の涙を誘つていた。一方被告人とみつが住んでいる家屋は被告人が昭和初年頃当時経営していた牛乳搾取業に失敗して債務の担保となり、一且は他人の手に沈んだのをみつの所持金で手許に回復した関係からみつの名義に登記せられていることとて被告人はみつに頭が上らぬことになつていたところ近年被告人が生業にしていた近江長岡にある長岡石灰工業株式会社の石灰販売の業務が順調に行かない為め、その頃北海道から送られて来た委託販売品の銀杏草を処分した十一万円余の金を右長岡石灰工業に対する取引代金の未払分の支払や自身の生活費に流用費消してしまつたので、銀杏草の委託者から厳しい支払の督促を受け代金横領の責を問われる苦境に立つに至り、日々の生活費を逐一計算して妻に渡す習慣を続けていた被告人はみつに対する家計費の支払にすら支障を来し、為めにみつはその日の小使にも窮する程になつた為め流石のみつも漸く日頃の被告人の行状や仕打に対する内心の苦悶や不満を表の色に現して被告人の勘気に触れることがあり被告人と論争の際は何かにつけ家の所有権を主張して被告人に抵抗するようになつたので被告人は頗るこれを不快とし、時折同女を手荒に押し仆したり死んでしまえと罵るなどして頓に夫婦の不和が激化して来たのである。

時偶々ソ連抑留のみしの夫の帰還が捕虜送還の終了を告げるソ連の声明によつて絶望視されるようになつたので、命に代えてもみしに恋い焦れている被告人は何としてでも同女と天下晴れて夫婦になりたいと思うにつけ同女の思惑に対してもみつの存在が障碍となると共に前記銀杏草代金の使い込みを苦慮して窮地に立つていた為め、いつそ一思いに妻みつを殺害して自宅に放火し、恰も強盗が押し入つて妻を殺され家を焼かれたように装えば右横領金弁償の責を免れるか少くとも支払の猶予を受け得られるだろうし、みしと夫婦になる希望も遂げられるものと思惟し、時恰も七尾市内に怪火頻発し最近には一夜に三ケ所から出火し何れも放火と見られるのに犯人が検挙されず市民間に不安の念が拡つているのを好機に右思案を実行しようと決意するに至つた。そこで被告人は昭和二十五年四月二十五日午後六、七時頃常よりも余分に飲酒して上機嫌を装いみし方に赴いて同女と就寝した上、夜中の至るを待つて時を移し翌二十六日午前二時半頃を計り、みしの熟睡を見届けて床を脱け出し寝巻を平常の洋服に着替え自転車をもつて自宅に到着し自宅前で自転車のハンドルに掛けて行つた外被を着けて身ごしらえを整えた上ひそかに屋内に忍び入り平常から裏のコンクリート土間の竈附近に置いてある証第十一号の二の薪割用の斧を取つて右手に構え奥八畳寝室に枕を玄関八畳室に向けて就寝中のみつの枕元に進み寄り物音に目醒めたみつが驚いて床上に身を起した背後からその頭部中央の個所に右兇器を打ち下ろしその頭骸骨に長さ約七、八糎深さ約四糎の脳内容に対する割創及び脳の裂傷を与えて其の場にみつを昏倒させ続いて茶の間の裏のコンクリート土間に積まれている薪木の上に置かれた杉葉にマツチの火を点火してこれを燃え上らせそこから茶の間の境の板塀に燃え移らせて放火しこの放火により人が現に住居に使用する同家屋並に隣家の川口藤若方住家一棟をいずれも全焼し且つその際の火焔をもつて前記の場所に瀕死の状態で昏倒しているみつを焼殺してその死体を同所に遺棄し、

第二、(イ)昭和二十一年六月十五日銃砲等所持禁止令施行の際刃渡り約五十糎の日本刀一振(証第八号)を所持しながら法定の許可申請期間を徒過し尓来法定の除外事由なく昭和二十五年四月二十五日頃までの間前記自宅の押入に蔵置して所持し、(ロ)昭和二十五年四月上旬頃から同月二十五日頃までの間法定の除外事由なく刃渡り約六十六糎の日本刀一振(証第九号)を前記自宅押入に蔵置して所持し、

たものである。

証拠

以上の事実中判示第一については前記控訴論旨に対する説明において各事実認定の為め援用挙示した該当諸証拠をもつて認定し判示第二の事実は原審が当該判示事実について挙示する証拠によつてこれを認定することが出来るから判示事実はその証明十分である。

法令の適用

被告人の判示所為中第一の殺人の点は刑法第百九十九条に放火の点は同法第百八条に死体遺棄の点は同法第百九十条に、第二の各所為は銃砲等所持禁止令第一条、第二条、銃砲等所持禁止令施行規則第一条第三号に該当するところ右の放火と殺人とは一個の行為で数個の罪名に触れた場合であるから刑法第五十四条第一項前段第十条により重い放火の罪の刑に従い、また銃砲等所持禁止令並に同施行規則は犯罪後の法令である銃砲刀剣類等所持取締令をもつて廃止せられたものであるけれども同新法の附則第三項によりその廃止後も行為時法である旧法の罰則規定を適用すべく以上の殺人を含む放火、死体遺棄並に銃砲等所持禁止令違反の各罪は刑法第四十五条前段所定の併合罪であるところ其の中の放火罪について当裁判所は所定刑中無期懲役を、銃砲等所持禁止令については所定刑中懲役刑を各選択するのを相当と認めるから結局刑法第四十六条第二項により没収を除く外は右併合罪中の一罪である放火罪の刑をもつて被告人を無期懲役に処するのみに止め他の罪について刑を科しない。しかして本件領置物中主文掲記の物件はそれぞれ本件の犯行の用に供し又はこれを組成したもので被告人の所有に属するものであるから同法第十九条等一項第一、二号並に第二項本文によりこれを没収し、訴訟費用は当審並に原審とも刑事訴訟法第百八十一条第一項により全部被告人の負担とする。

そこで主文の通り判決する。

(裁判長判事 吉村国作 判事 小山市次 判事 沢田哲夫)

理由

弁護人三井三次の主張は同弁護人並に被告人提出の各控訴趣意書に記載する論旨の通りであるからこれを引用する。

弁護人の論旨第一点について

本論旨は原判決援用の諸証拠の価値を批判攻撃し原審の事実誤認を主張するものである。

そこで当審は原審記録に現われた諸証拠を検討し尚当審の取調べた事実をも参照して原審認定の当否を判断する。

第一、事件の発生

昭和二十五年四月二十六日午前三時三十分頃七尾市字府中二部三十三番地の被告人方住宅コンクリート土間の十畳茶の間寄り飼料タンク附近に堆積した杉葉、松枝から燃え始めた火炎が右茶の間の境板に燃え移つて火災となり同家屋並に隣家の川口藤若方住家各一棟を全焼し、焼失跡の奥八畳寝室の箇所から被告人の妻みつの焼死体が頭部脳天に相当多量の出血を惹起したと認められる状況を示す外傷痕を蒙つて発見された事実は司法警察員守山嘉造作成の検証調書(記録第五十二丁)原審証人川口藤若(第百十一丁)川口ふゆ(第四九〇丁)の供述によつて明白である。

第二、事件が犯罪であることの証拠

本件当日の午前七時十五分から八時三十分に亘り被告人方焼跡に対して行われた司法警察員の検証において、物置場跡より証第十一号の一の斧(小)が、竈附近薪置場跡より証第十一号の二の斧(大)がそれぞれ発見された事実(前記検証調書第十五第十七項)に原審第八回公判調書中(記録第七百四丁裏以下)被告人の供述記載、原審鑑定人安田利治作成の昭和二十五年六月九日附鑑定書(五三四丁)同村上次男作成の昭和二十六年六月八日附鑑定書(千十八丁)並に鑑定証人村上次男に対する受命裁判官の尋問調書(千八丁)の各記載、証第十一号の二の斧の存在及び前記第一記載の情況を綜合すれば、昭和二十五年四月二十六日午前三時前後頃被告人方裏コンクリート土間にあつた証第十一号の二の斧を持ち出し、奥八畳の寝室において被告人の妻みつの頭部に打ち下ろして致命的な頭蓋割創を与え、同女を其の場に昏倒させた犯人が犯跡を蔽う為め兇器の斧を原状に復した上十畳居間の背後とコンクリート土間飼料タンクの間附近にあつた杉葉、松枝などの堆積に点火して放火し、同家屋外一棟を焼燬すると共にみつを焼殺したものであることを十分に推定することができる。

故にこの点に関する弁護人の所論は理由がない。

第三、事件と被告人との関係の証明に関する諸般の証拠資料に対する検討

一、被告人の性格、素行、夫婦、家庭、情婦関係と資力並に生活状態等に関する情況資料について

原審第一回公判期日に提出された被告人の戸籍謄本並に本件家屋の登記簿謄本(記録第四十七丁、五十一丁)当審証人中村長作、南外栄、南征一郎に対する各証人尋問調書中の記載、原審第五回公判調書中証人川口ふゆ、水野ことの供述記載、原審第六回公判調書中証人中村長作の供述記載、原審第十回公判調書中証人樋爪登の供述記載、原審第三回公判調書中証人陸田みしの供述記載、原審第九回公判調書中証人東浜良朔の供述記載、岡田武に対する検察官作成の供述調書、梅谷由一に対する司法警察員作成の供述調書、吉田政雄に対する検察官供述調書(五三七丁、五五一丁)中の各供述記載、原審第一回公判調書中被告人の夫婦並に情婦関係に関する供述記載、被告人に対する司法警察員並に検察官作成の各供述調書(第一三一九丁、一四一〇丁)中経歴、資産、業務、家庭、夫婦並に日常生活、情婦関係に関する供述記載を綜合すると被告人は大正九年頃二十一才の時松中千代野と婚姻し一子征一郎を為したが、千代野は大正十二年病死したので同年乳呑児を抱えて困惑している被告人に同情した深見家の継母が偶々嫁先から出戻つていた継子のみつと被告人とを取り持つて婚姻させたのであるが、七才もみつが年上である為め、当初は幸福な愛情に包まれていたと思われる夫婦仲もみつの寄る年波と共に冷却に赴きその間主家の若主人の妻や友人の妻と情交して問題を醸したこともある被告人はかつて爛蝶の芸名で七尾遊廓に左褄を取り被告人と馴染を重ねる内陸田三不見と云う男と結婚して被告人から大陸に去つて行つた陸田みしが終戦後ソ聯に抑留された夫と別れ単身内地に引き揚げゆかりの七尾市に来住しているのと途上に邂逅して以来同女の宿所に足繁く通うようになり旧時の交情を復活するに及び被告人は中年を過ぎた年増とはいえ、綺量はよく、男優りの侠妓の風格をもつ同女の肌合に年甲斐を忘れて没頭するに至り事件発生の当時はその一年位前から殆んど連夜の如く同女の間借りしている七尾市三島町橋向外次方表二階の部屋に宿泊していた。妻みつは数年来殊の外身体衰弱し、肉体の精気を失つていたので、被告人のかような行状にも格別、世の常のようには吝気の色を見せることはしなかつたが、それは一つには同女の信仰深い諦観の精神と歌を詠み美しい筆蹟を綴る同女の、他人に対し行儀作法を守り愛想を心がけ自己の内心を抑制して見せまいとする忍耐の努力によつたものであることは時折親近知己に洩らしたその苦衷によつてこれを知るのである。更に一方被告人夫婦が住んでいる本件家屋は被告人が昭和初年頃当時営んでいた牛乳搾取業に失敗して債務の為め他人の手に一旦は帰したものをみつの所持金で手許に回復した関係からみつ名義に登記せられて今日に至つているのであつて、この点でも被告人は妻に頭の上らぬ事情になつていたのであるが最近は被告人が昭和二十三年暮頃から取引を始めていた近江長岡石灰工業株式会社の石灰販売の仕事が順調に行かず同社に対する石灰の未払代金の支払に苦しみ偶々北海道の岡部武から送られて来た委託販売品の銀杏草十六貫入三十八俵を処分しながらその代金十一万円余を右石灰代金に対する送金その他の生活費に殆んど流用した為め今度は右銀杏草の代金不払の苦境に立つに至り、日常の家計費を逐一計算して日々妻に手交する習慣を続けていた被告人からみつに対する交付金にも影響を及ぼしみつはその日の小使にも窮する程になつたので流石のみつも内心の愚知不満を表の色に現わすようになり、短気な被告人が出て行けと云えば、この家は自分の物だとみつが云い、立腹した被告人はみつを手荒に押し倒し死んでしまえと罵ることも日頃に起つていた事実が認められるのである。以上の事実は被告人と妻みつ間に伏在する相当深刻な葛藤を物語るに十分であり、かような夫婦間の状態はより大きな犯罪性に発展する危機をはらむものであることは吾人の常識並に経験則に照らして明白であると云わなければならない。

二、本件家屋の発火後、火災報知サイレンの吹鳴及常備消防到着前の時刻に丹前姿の被告人が自家の方へ向つて自転車を引いて行き自家の燃えるのを眺めそのまま立ち去つたのを見たという証拠資料について。

被告人は昭和二十五年四月二十五日夕刻ワイシヤツに証第十四号のネクタイを締め、チヨツキに乗馬ズボン背広上衣の上に証第二号将校用外被を着て高足駄に自転車という恰好で例の如く三島町橋向外次方表二階の陸田みしの許に赴き同夜相共に同所で就床した事実は被告人の第一回公判調書中判示服装などに関する供述記載、同人の第十一回公判調書中証第十四号ネクタイは同人所有のもので昭和二十五年四月二十五日締めていた旨の供述記載、原審第三回公判調書中証人陸田みしの供述記載、同人の当審第三回公判調書中の供述記載、証人藤橋亀吉の原審第五回公判調書中の記載(記録五百二十丁)によつて明白な事実であるところ被告人は本資料の示す時刻に丹前姿で陸田方から外出した事実を否定するものであるから左にこの点を糺明する。

(イ)原審第二回公判調書中証人中谷吉蔵の供述記載(一五八丁)によれば同証人は「私方の斜向いに田圃を狭んで南達治の家があり、近所ですから同人をよく知つております。南方の焼けたのは四月二十六日の午前四時十分程前でありました。私方三軒置いて隣りの松白さんのお母が火事だという声に目を覚ましそのままの服装で見神さんへ電話を掛けに行きました。その時南方の裏手で裏隣の川口方と近い所の屋根に火の手が見えました。三四回も呼んで見神の主人を起し起き出した主人に消防署へ電話を頼み掛け終るのを見て家に引き返し服装を装え家の前に出て見張りをしていました。この時は火勢も強くなつていたが南方の半分程までは焼けておらず川口方にも延焼はしていなかつた。私が服装を代えて表に出たときは既に南方の前の道路のところにも人が居り私の家の並びの通りにも十名位の人が出ていました。私の家の西仏寺側の隣家の三谷という家のお母さんが表へ出て寺の釣鐘を鳴らせと叫んでいるのを聞きましたが、この声を聞きつけた人が霊泉寺の釣鐘を鳴らしました。釣鐘を撞き終つて間もなくサイレンが鳴りましたが、この釣鐘が鳴り終りサイレンが鳴り始める一寸前に南達治が自転車を曳いて高下駄を穿き茶色がかつた丹前を着て自分の立つている前を通り自宅の方へ行くのを見ました。南は自転車を曳いて西仏寺の横小路から急ぎ足に走るようにして行きましたが自転車に何か乗せてあつたか否かそこまでは気付きませんでした。火事の炎で相当明るくそれが南達治であることは確然と判りました。同人の横顔を三米位離れて通る時見たのですが平生見馴れているので南達治であつたことを断定出来ます。私が南を見たのはまだ消防の来ない内ですがそれから間なもく消防が来ました。南は私の前を通り過ぎ山王湯の方へ出て行つたものと思うが詳しくは知りません。南を見た時お前の家が火事であるぞと言葉を掛けようとしましたが掛けませんでした。其の後二回目に又南を見たのですが、その時は国防色の乗馬ズボンに背広の上衣を着て高下駄を穿いて自家へ入つて行くのを見ました。お示しの証第三号丹前と私が先程見たという南の着ていた丹前の色合がよく似ていますが模様はどうであつたか分りません。南の姿を私が見て消防の来るまでの時間は大体十分位だつたでしよう。丹前姿の南を見た時外被は着ていません。着て居れば直ぐ判るし、又それでは丹前の色合が分りません。」と供述する。

(ロ)原審第三回公判調書中証人岩木千代子の供述は次のようである。

「私は南達治の顔を近所で朝夕顔を合せていますからよく知つて居ります。火事の声で目覚め起き出して野村さんの角の田圃を隔てて南方が一目で見れる所から火事を見ていました。その時は午前四時頃ではなかつたかと思う。四、五分野村方の角の所に立つている間に南達治さんが自転車を曳いて南方入口の道端のある電柱の所を山王湯の方へ行きました。服装は上張りの上に帯をしたような着物を着て居り色は茶の鼠色の黒みがかつたものであつたと思います。柄は分りません。其の後火事が鎮まつた時いつもの服装である洋服姿の南が玄関前の下駄箱を置いてある所にコツプの水に口付けて含嗽するような風をしているのを見ました。最初南の着物姿を見たのは五、六間の距離から見たのであります。着衣には証第三号のような袂がついていたと思います。」

(ハ)原審第三回公判調書中証人杉沢良の供述記載によると同証人は次のように供述する。

「霊泉寺の前の道路を真直ぐに抜けると、山王湯に出るのであつて、南の家はその途中にあり私ば近所ですから南と交際はないがよく顔は知つております。火事の声に目覚め私方と田圃を挾んだ直ぐ向いが火事であることを知り山崎の家へ見舞に走つて行く時南方入口辺に建つている電柱から一寸山王湯へ寄つた所で着物の着流しの南を見ました。自転車を曳いて停つていました。いつも見ている容貌の顔形であつたので南と思つた訳です。」

右(イ)乃至(ハ)の供述を綜合すると、出火後被告人は二回被告人方の火災現場に姿を現わしており、第一回は丹前の着流して自転車を曳いて通り第二回は平常見掛ける洋服姿なのである。そして右三名の証人以外に被告人の洋服姿を火事現場に見たと云う証人の供述は多数記録に散見するが、いづれも右中谷岩木両証人の供述の中の第二回の目撃に該当することが明白であり、この第二回と第一回との目撃を明白に区分して陳述する右両証人の供述は特に信頼に値するものというべく、同証人らは当裁判所の審理においても同様の供述を行つたがその証言の態度、言語、顔色に徴し、これを措信し得ない余地を寸毫も残さなかつたのである。故に右証人らの証言を虚偽迷妄なりと主張する弁護人の所論は理由がない。

そこで右認定の結果は宿所の橋向方を証第三号丹前姿で立ち出た被告人が市民に対する火災報知及び消防出動以前に我家の出火現場に到つて直ちに引き返し再び洋服に着替えて現場に到つた事実を肯定せざるを得ないのであつて、其の時間的関係の妥当は次の証拠によつて明にされるであろう。

1、原審証人川口藤若に対する尋問調書(百十一丁)中「南方のコンクリート土間の燃料が燃えているのを発見したのは午前三時半頃であり、直ちに南方を起したが返答なく一旦家へ引き返しそれから近所を起し消防署へ電話を掛けに行つて戻つて来ると最初土間に見た火焔の上方の屋根を中心にして其の周囲が火焔を上げて燃えており私方住家の南方に隣接した南寄りの部分にも延焼していた」旨の供述記載

2、原審第二回公判調書中証人政浦治良の「私は七尾市消防副団長であります。四時一寸前現場から一町位しか離れていない私方表通りを通る火事だという人声で目を覚まし現場へ駈けつけた。消防はまだ来ていないが、火は相当大きく奥の方にも廻つている様子であつた。消防が到着し消火が大分進んだ頃に洋服姿の南が来てそわそわした態度で奥の方にホースを向けてくれ箪笥の中に大事な物が入つている頼むと云いました。同人の火事場における態度は何となくそわそわして普通の火災の被害者の態度と違うものを感じ奇妙に思いました。完全に鎮火したのは私が現場到着の時刻と思う午前四時頃から一時間半程後でありました」旨の供述記載

3、前記証人中谷吉蔵の証言中「南方の火事は午前四時十分前頃であつた。南の姿を見て消防到着までの時間は大体十分位であつたと思う」旨の供述部分

4、前記証人岩木千代子の証言中「野村さんの角から田圃を隔て、一目で南方の見えるところから南の火事を見ていた。午前四時頃と思う。それから四、五分経た頃南の和服姿を見た」旨の供述部分

5、原審第三回公判期日において取調られた七尾市常備消防部回答(記録二二七丁)中「現場消防到着時刻四時二十五分火災の火勢を防圧した時刻午前四時四十分、残火鎮滅時刻午前五時三十分」なる旨の記載

6、原審第十二回公判調書中証人荒橋重盛の「午前四時から五時頃の路上に障碍のない時刻において自転車の略通常の速力によつて測定せられた陸田みし方と被告人方附近までの各順路の所要時間は四分乃至五分位であり、全速力をもつてすれば略その二分の一に短縮しうる」旨の供述記載

以上を綜合すれば、二十六日午前三時半少し前頃燃料に点火せられて燃え始めた火焔が四時頃に至つて附近民家に知られる火災となつて屋根に燃え上つた後の午前四時十分頃被告人が丹前姿で自転車を携えて現場を通過すると直ぐ陸田方に引き返し洋服に着替えて再び四時三十分乃至四十分頃に火災現場に到つた時間関係を推定するに足るものと云うことが出来る。

果してそうとすれば、かような被告人の不審な行動は被告人が本件殺害放火の犯人であつて事後の首尾を懸念して犯行現場に立ち戻り様子を窺う犯罪者心理を前提としなければ、殆んど理解し難い現象と云わなければなるまい。

三、証第二号外被の血様汚斑について。

本外被は被告人が昭和二十五年四月二十五日夕刻陸田みし方に着用して行き尓来みし方に存在し同年五月一日みし方において警察官により押収されたものであることは原審第一回公判調書中被告人の供述記載、原審第三回公判調書中証人陸田みしの供述記載当審第三回公判調書中証人陸田みしの供述記載、原審第四回公判調書(三九一丁)中証人堀政次、島田重造の各供述記載を綜合して明白なる事実である。右外被には外見上諸所に大小諸種の形態の血痕様汚斑が附着しておるのであるが、被告人は原審並に当審において右のような汚斑は被告人の着用時には存在しなかつたから押収後の捜査過程に附着せしめた偽造証拠である旨主張し弁護人も亦これに和しているから先づこの点を検討するが、然し、このように押収時を基準にして汚斑附着の有無を検討する場合に若しその結果が積極であれば、即ち汚斑が押収時に附着していたことになれば、被告人の着用時には附着していなかつたことを自認する被告人がその最後の着用時であると主張し且つ証拠によりその着用事実の認められる昭和二十五年四月二十五日の夕刻以後、外被の押収された同年五月一日に至るまでの間に附着したことになることを注意すべきである。

そこで押収時の外被の状態に関する証人の供述を見ると、次の通りである。

(1)消極資料

これに当るものは証人陸田みしの供述以外に存しない。

(イ)同人の原審第三回公廷の供述要旨(二八〇丁)お示しの外被を拡げて見たことがあるがその左袖と腰の所に血が着いていたようなことは気が着かなかつた。押収時に刑事はそのことについて何も語らなかつたが、其の日か翌日かに外被に血が着いていたかどうかを問われたことがある。

(ロ)同人の原審第六回公廷の供述要旨(六一七丁)刑事が捜査に来た時南のものはないかと問われたので最初にワイシヤツ等を渡し最後に外被があると云つて私が出して渡した。それで刑事は外被を拡げて見ていたが、何も云わず、不審に思つて見ている様子もなかつた。先回(註第三回)法廷で見た外被の汚点は押収時に私も刑事の傍からのぞいて見たが着いていなかつたように思う。

(ハ)同人の当審第三回公判における供述要旨

警察官は私が外被を渡したら四人程して拡げて見ていたが何も云わず二三日してから私を呼んで血が附いていたことを知らぬかと再三聴き私が知らぬと云うと、非道い奴、計画的にやつたなあと云つた。お示しの外被は私が見た時には血痕なんかついていなかつた。私は警察の人が拡げて見ている後から見たのである。刑事達は十分位表をかえし、裏を返して見ていた。その後二三日して本当に血が着いていたのを知らぬかと云つたので血が着いているなら見せてくれと云つたが見せてくれなかつた。恐らく警察官の誰とは云えんが故意に着けたものと思う。

(2)積極資料

(イ)原審第四回公判における証人堀政治の供述要旨。

令状を示して南達治の所持品の有無を尋ね陸田の提出した「ネクタイ」「カラー」各一本と「ワイシヤツ」「軍隊用外被」各一着を押収した。最初ワイシヤツは表通に面した窓の外側に乾してあつたのを陸田が外して呈示したし、ネクタイとカラーは茶の間の衣桁にかけてあつたのを陸田が外して私共に渡してくれた。そしてこの外に南の所持品がないかと尋ねたら陸田は思い出したように階段の方から外被を持つて来て渡してくれた。私は傍にいる陸田に南の物かと確め名前でも書いてないかと思い拡げて見ると「南ひろし」と書いてあつたと思う。そして拡げた途端左前膊と腰の辺に当る部分に血痕の附着していることを発見したのである。左前膊の血痕は比較的濃いところと洗つたように薄くなつているところがあり腰の辺の血痕は血沫を浴びたような状態となつていた。陸田には何も説明しなかつたが、しかし陸田の顔を一寸見た瞬間同人の目が一寸緊張したように感じたのでこれは何か関連があると見てそのまま押収して来た。外被の血痕は誰の目にも直ぐ判る状態であつた。押収物件は直ぐ刑事課長に提出し状況を報告した。刑事課長は外被を見て鑑定の必要があると云つていた。陸田の緊張した有様を報告すると刑事課長は陸田を呼んで見なければならぬと申していた。陸田の緊張したのを見て黙つていたのは、私の経験からそのような場合は却つて説明や追求を避けるべきであると考えたからである。

(ロ)右同公判における証人島田重造の供述要旨(四一二丁)。

昭和二十五年五月一日午後五時頃私と茶谷、黒川両部長堀刑事の四人で陸田方に押収捜索に行つた。その状況は「先づ家主の家内に陸田の在宅を確めた後同家の表二階の二室を借りている陸田の部屋に上り令状を示して南達治の所持品を預つているかいないかを尋ねたところ、陸田は、あの掛軸とこの人形の他にはこれ位のものであると云つて表窓の外側の枠に洗濯して掛けてあつたワイシヤツ一枚と衣桁に同じく洗つてかけてあつたカラーとネクタイを各一本出して来た。それから同人は階段の附近から軍隊用の外被を一着持つて来てこれも南の物であると云つて大和風呂の置いてある同人の居間の所にいる私達のところへ持つて来た。私達は直ぐそれを拡げた途端外被の左上膊と腰の辺りに血液の附着しているのを発見して、私、茶谷、堀の三人で指示しながら見ていたが、陸田も傍に居るので私が同人の顔を一寸見ると同人の様子が変つたように見受けた。」

以上の供述を対照すれば、(1) の証拠は第一回は極めて、あいまい消極的な供述であつたものが順次積極性を増し当審の最終回には極めて明瞭に血様斑の附着を否定し警察の故意による附着であるとまで断定するに至つた動揺的な供述の経過から見ても信憑力が微弱であるのに反し(2) の各供述は趣旨一貫明瞭且つ合理的であり、血様斑の附着部位に関する供述も証第二号外被における血様斑附着の主要部位の特徴と一致し十分にこれを措信するに足るから右外被の血様斑はその押収時に存在したものと認めるのを相当とする。然らば前記の理由によつて、同汚斑は昭和二十五年四月二十五日夕刻から同年五月一日午後五時頃までの間に何らかの事件により、あるいは何人かの作為によつて附着したものということになるのであるが、かかる汚斑を人為的に附着せしめることはその技術上の困難は兎も角として、そのこれを附着せしめる必要と人物について殆んど、これを本件の周囲に求める可能性がないものである以上、右は右期間における何らかの事件殊にその期間の着用者の際会した事件によるものと推断せざるを得ないのである。

そこで進んで右血様斑の性質に関する原審並に当審における鑑定の諸結果を見るとその資料は鑑定施行の日時順に次の通りである。但し(2) と(3) は鑑定開始日時は同一。

1、鑑定人安田信行の鑑定自昭和二十五年五月一日至 同年 同月十七日

(イ)同鑑定人の鑑定書=記録六五八丁-

(ロ)証人安田信行の原審第六回公判調書中の供述記載=五九六丁-

(ハ)証人井上剛の原審証人尋問調書中の供述記載=一、一九七丁-

2、鑑定人古畑種基の鑑定=自昭和二十五年八月二十五日 至同年十月三日

(イ)同鑑定人提出の鑑定書=八〇三丁-

(ロ)同人に対する鑑定証人尋問調書=七五九丁-

(ハ)同人提出の尋問事項に対する回答=七七〇丁-

(ニ)同人提出の中館氏鑑定書に対する批判=七七五丁-

3、鑑定人中館久平の鑑定=自昭和二十五年八月二十五日 至同年十二月十六日

(イ)同鑑定人提出の鑑定書=八一五丁

(ロ)同人に対する鑑定証人尋問調書=七八五丁-

4、鑑定人村上次男の鑑定=自昭和二十七年五月二十三日 至昭和二十八年一月三十一日

同鑑定人提出の鑑定書=当審記録中

右鑑定1乃至3の中

1はa、血液であること、b、人血であること、C、A型であることを証明し

2は血液の証明を否定し、

3は「血痕らしい」二十二個の汚斑を証明した上其の内六個の人血斑を証明し、

たものであつて、各鑑定の結果に対立若くは食い違いを生じたので当審は各記載の鑑定人に対し1乃至3記載の凡ての関係書類並に証第二号外被、証第七号外被の片布三点(先行の鑑定人により切り取られたもの)の現品を提供し右1乃至3の各鑑定結果を批判し且つ新に同様事項の鑑定を行うこと及び他の二点の事項の鑑定(この点については後に融れる)を求め4記載の鑑定の結果を得たものであるが、それは総丁数三百四十三丁にのぼる鑑定書に収録せられる精密な対象の検査及分析の手続並に綜合の論理の総決算であつて、これによれば2及び3の鑑定はいづれもそれぞれの持つ欠陥によつて真実性に乏しく1の鑑定をもつて、措信価値の比較的高度のものであるとする。当裁判所は右鑑定の結果を事理に適する極めて合理妥当なものとして傾聴するものであるからこれによつて支持せられる1の(イ)安田信行作成の鑑定書並に其の補充資料である同(ロ)及び(ハ)の各証人の供述記載を事実認定の証拠に採用しうる有力な科学的根拠を得たことに意を強くするものである。何となれば、この1の鑑定の結果が本件諸般の状況に適切に妥当すると考えられるからである。このようにして証第二号外被の汚斑はA型の人血が附着して出来たものであることが明かとなり、原審鑑定人安田利治作成の鑑定書第五「屍体の血液型に関する検査」の項記載(第三五一丁)によつて知られる被害者みつの血液A型と一致する血液によつて生じたものとなつたのである。然るに、被害者は昭和二十六年四月二十六日午前三時前後頃証第十一号ノ二の斧をもつて犯人に頭蓋を打たれ多量の出血を伴う割創を受けて昏倒し次で犯人の放火による火災で焼死したことは前記第二項において認定したところである一方本件外被の汚斑附着の機会が昭和二十六年四月二十五日夕刻から同年五月一日午後五時頃までに起つた何らかの事件特にその着用者により着用の状態で起つた事件によつてもたらせられたものであることも先に推定した通りであるからこの条件の下に考察すると、本件外被の着用に最も親近な関係人である被告人が、これ亦被告人に最も親近な関係人である被害者の流血に外被を着用して接触した機会に汚斑の原因となつた血液に附着されたものと考える推理の蓋然性が成立する。しかもこの場合記録によつて被告人が午前五時前後頃火災現場に赴いたまま警察に抑留され再び本件外被を着用することがなかつたことの明な事実を右条件に加算して考察するときは、いよいよ右蓋然性は強く緊張して来る筈である。そこで更に進んで右汚斑附着の原因となつた事件は何であるかについて審究すると、その附着の状況、汚斑の部位形態などから推究して如何なる成因が考えられるかについて前記4の鑑定者は凡ゆる個所の多数の汚斑について精密な観察の目を光らせた上次のように記述する。「これらの汚斑につき一元的な成因は考え難い。次の四つの原因からなる可能性が考えられる。

第一群 この外被の着用者が左袖口が略左ポケツト部にあるような姿勢にて立つ時に、広い部分に多量の血液を附着する物体(又は人間)が左側から来て外被の左前膊上部に強く押しつけられ、その為に左前膊上部に厚く濃く血液をつけ、左ポケツト部や夫から下、裾に近い処までは夫に比較すると薄く、淡く血液を移したであろうと考へられる。

第二群 この外被の着用者が立つ時、左ポケツト部よりはそんなには離れない場所で、夫よりは少し上で恐らく夫よりは少し左の処で可成り多量の湿潤せる血液を附着せる物体(人間が何物かに、可成りの速度で衝突し、その為めに血液が飛び散り、大して大きくはない速度で外被の後左の背バンドの下の部分、左袖の後の袖章の上や左袖の内側の袖口に近い部分に当り、一部は外被の後右の左下隅に近い処に当つたのでもあろうと考えられる。

第三群 証第二号外被の襟の頸部左(着用した場合には左側頸部の略中央の処)の汚斑は着用者が立つときに、何らかの原因によつて頸部の前左から略水平に飛んで来て附着したと考えられる。

第四群 証第二号外被の右前の裏側の裾に近い汚斑は着者のズボンの膝頭の血液が移されたと考えられる。

又原因が三つから成る可能性も考えられる。即ち右に述べた原因が四つある成因に於ける第二群の左ポケツト部よりは少しく左、且つ少しく上の処で血液の飛び散る」源が「血液を多量に附着した物体(人間)が左前膊上部に当る」ことと合して一つの事柄である可能性であつて、即ち「この様な物体(又は人間)が大きな速度で衝突し、血液を飛び散らす」可能性である。ここに挙げた原因の四つなる可能性と原因の三つなる可能性とは最も考え易い成因であると考えられる。

所云「返り血」に関連して之らの汚斑の成因を考えると、その中では外被の襟の項部左の汚斑にその可能性が最も多い。外被の後左の背バンドから下の多数の汚斑が「返り血」であることを否定はせぬが「返り血」なる文字で表現すべき積極的な根拠は少いと考えられる。その他の汚斑は通常用いられる「返り血」なる文字では表現し難いものと考える。「之らの汚斑を生ぜしむる意志」に関連して成因を考えると、通常の事象の範囲内で考えるならばこの外被の着用者の意志によらずに出来たであろうと考へる。しかし襟の項部左の汚斑、右前の裏側の汚斑を除外して、「血液を附着せる人間」又は「血液を附着せる物体を操る人間」についてはこの様な否定は成立せぬと考えられる。なお外被が着用されぬ時期に意識的にこの様な汚斑を生ずる可能性も否定はされないと考える。但し描く様にしては之らの汚斑悉くを作ることは可能性であると考える。」

右の記述のうち、第四群記載の判断は当裁判所で本鑑定者に批判を求めた前記2及び3の鑑定の対象には証第二号外被と並んで弁護人から被害者みつの屍体の運搬に当つた木村勇次郎着用のズボンの膝に附着した屍体の血液を証明しうるか否かの参考鑑定を求めて提出された当該乗馬ズボン(証第十号)が含まれ且つ当裁判所も同ズボンに対し同様の鑑定を求めてこれを何らの説明を加えずに本鑑定者に交付した為めに当然惹き起されうべき誤謬であることを明にしなければならない。しかしこのことが誤りであつたからと云つて本鑑定人のその余の鑑定の結果に何らの実質的影響を及ぼす関係がないから右第四群を除外した形でそのまま事実の認定に使用しうるのであり、むしろ原審証人木村勇次郎(三一六-)の供述によつて認められる屍体の血液の着いた証第十号乗馬ズボンの膝頭から証第二号外被の汚斑と同性質の汚斑を証明した鑑定の結果は高く本件に評価さるべきである。果してそうだとすると、証第二号外被の汚斑はそのこれを着服して立位の状態にある人間(犯人)が血液を多量に保有する人間(被害者)に左横から衝突せられた際直接に血液を附着せられ、又はその際飛散した血液が飛び着いて生じたものの外少数の「返り血」即ち刄傷の際傷口から奔出又は飛散する血液と認められるものによつて惹き起されたものと推定する可能性が成立するのであつて、この考察の結果を既に認定の前記諸事実に当てはめるときは被告人が昭和二十六年四月二十六日午前三時前後頃当夜宿泊していた陸田みし方から外被を着用して自宅に赴き奥八畳の寝室において証第十一号の二の斧をもつて立位又は坐位にある妻みつの頭蓋を打ち割りその際みつの昏倒する上体が被告人の左腕前膊外側及び左ポケツト部位に衝突して被告人の外被に同女の流出飛散する血液が附着したものと考える蓋然性が頗る濃厚になるものと云わなければならない。そこで被告人が右時刻頃陸田みし方を離れ自宅に赴いた事実があり得るかが次の重要な問題となつて来るからこの点に関し陸田みしの証言内容を中心に左に関係証拠を検討することとする。

四、被告人の不在証明の成否につき陸田みしの供述を中心とする関係証拠の検討-被告人が事件発生の前後に夜中陸田みし方から外出したか否かの考察。

この問題については被告人は消防自動車の出動の音を聞いて火災を知り寝巻を洋服に着替え自転車で自宅に向うまで陸田方から一歩も外出したことはないと主張するのである。被告人が洋服姿で自宅の火事現場に行つていたことは証拠明白で問題はないが、その前にみし方から一回乃至二回、外出した事実があるか否かが問題となるのである。この問題のうち、事件発生後、消防自動車の到着前に自転車を曳いた丹前姿の被告人が火焔を吐き出している自家を窺いそのままみし方に去つた事実については既に前記二の項において認定したところであるが、尚おこの事実を被告人と同室に枕を並べていた情婦のみしの側から眺めて見ると共に、更に事件発生時の被告人の外出を推認しうべき資料の有無を同女の供述を中心にして検討するのが本問の課題である。

1原審第三回公判調書が記載する証人陸田みしの供述中本間に関係する部分の供述は次の通りである。

-南は私が金沢(みしの養家先)や氷見や(みしの夫の郷里)泊(みしの郷里)などへ行つて月の内半分以上もいない日の外は大てい毎日のように来て居り大抵午後六時過ぎか七時頃に来て朝七時頃に帰つておりました。夕食は南が自宅で済まして来て、朝は私のところで食べることもあり食べないこともありました。四月二十六日南方の火事の日も前日の夕方から来て泊つていました。来た時刻は確か六時か七時頃かと思います。南の酒の量は知りませんが私の所へ来るときは晩酌をして来ますがその晩も晩酌をして来て居り何時もより機嫌がよかつたのです。そして私の何時も食べたいと云つていた田螺を持つて来てくれ、私は家に砂糖がないと云つたら南は自転車で飴を買つて来てくれました。そこで私は田螺を煮ていたがその日私は前日泊へ行つての帰りの汽車で羽咋まで立ち続けていたので疲れており、田螺の煮えるのを待つておれずに睡たいと云つたところ南は床を敷いてくれました。私の借りている橋向方表二階の二室は階段を上つた手前の部屋が四畳半でこれや茶の間にして大和風呂など置いてあるし、その奥の六畳間を寝室にしてある。そこに南は床を二つ敷きました。枕を茶の間の方にして私は北側の壁の方に南は道路側に寝ました。寝た時間は夜の十時頃かと思う。私はその時一且床へ入つたが頭が痛むのでノーシンを呑みに茶の間へ出たのですが又、大和風呂に田螺を炊きかけてあつたので火を適当にいけて床の中へ戻つたのです。南はこの間に寝巻に着換えて床に入りました。二人が床についてから私はずつと睡つてしまいました。それからどれ位の時間眠つたか知りませんが目が覚めて御不浄に行つて来ました。その時南は飲酒の為めか胸をはだけて寝ていたので私は風邪を引くと思い胸を掻き合わせてやりました。その時南はぐうぐう眠つていました。言い残しましたが、私が最初床に入る時悪寒がして寒いと云つたら南は丹前を出して私の掛ぶとんの上にかけてくれてありました。話は戻りますが私が御不浄から帰り南の寝巻の胸を掻き合わした仕草で南は目を醒ましたので私はどうしたのか寒いのかと云つて私も寒かつたので南に温めて貰う積りでその床へ入つて行き寄り添つて南の体に抱きついたところ、南は「今日は温和しく寝んか」と云つたのです。つまり、関係をせずに寝ようということです。それから暫くして南は御不浄へ行くと云つて行つた筈であります。私はそのまま眠つて行きました。どれだけの間眠つたか知りませんが、南が床の中へ入つて来たのに目が覚めたのです。何時出て行つたのか気付きませんでしたが御不浄か何処かへ行つて来たのでしよう。その時の時間は判然り分らんが多分夜中でしよう。南は夜中に二度も不浄へ行くこともありますが、又行かない時もあります。私は神経過敏で大抵は南の不浄に気付くのですが、その日だけは疲れていたので気付かなかつたのです。南がふとんを捲つて床へ入つて来たのに目を醒ました私は「何処へ行つて来たのか」と聴いたら、南は「便所へ行つて来た」と云いました。それから目が醒めてしまつたので色々話をしていて自然と抱き合い関係しました。どちらから先というわけでもないですが、私も暫く南と関係しなかつたので南も情交したい気でいると思い南の陰茎を弄つたところ、勃起したので関係したのですが、南の陰茎を持つた時冷かつたので「冷いね」と云つたら御不浄へ行つて来たと云いました。

南はお酒を沢山飲んで来たときは夜中に腸をこわして便所へ二度も行くことがあるので、その晩も何時もより機嫌よく酒もよけいに飲んでいるから多分お腹でも悪くして便所へ行つて来たものと思つてそれ以上は聞かなかつたのです。もつとも南のその時の陰茎は普通より元気がない方と思いましたが、しかし酒を飲んだときは元気がないのです。それで私は「何と云う元気がない、奥さんと関係して来たんだろう」と冗談を云いました。南は「馬鹿なことを云うな今迄云うた通り家では絶対に出来ないのだコンクリをしてある様なものである」と云いました。情交を済ましてから二人とも目をさまして床の中で話をしていました。先程来のことを積んだり崩したり同じことを話していたのです。そのうち南はお茶を飲むと云つて茶の間へ出たように思います。茶の間へ出ましたが、茶を飲んだのか、煙草を喫つていたのか、床の中にいる私には戸が締めてあり屏風が立ててあるから南の様子は分らなかつたのです。それから自動車ポンプの音がしたように思います。それから南は又火事やと云つて下へ降りて行くし私も御不浄に下へ降りたところ同居人の誰れかが玄関に出ていましたので私も一寸火を見て不浄に行き再び表へ出た時通行人が山本病院の裏が火事だというので私も南に急いで行かねばいかんと云つて急がせますと南は二階へ上つて洋服に着替えて急いで火事場の方へ行きました。南の性慾は余り強い方でもありません。南の関係している時間は普通の人よりも長い方であります。長いというのは勃起するまでに暇がかかるのであります。南に布団を捲られて目が醒めてから火事を知るまでずつと眠らないでいました。検事には関係してから四十分位してポンプの出動する音を聞いたと述べましたが時計を見た話でないので四十分かどうか分らぬが大分長い時間でありましたからそう思うと申したのであります。橋向方の表にはその晩(四月二十五日)鍵はかけてなかつたのであります。しかし、ふとんを捲られて目が醒めた時にはその前に戸の開く音はしませんでした。其の時私は熟睡して居りましたから眠つていて戸の開く音が聞えなくとも不思議ではありませんが、橋向方の表戸は開閉に音を立てる戸ですから眠つていても私の頭に響いて目が醒めます。南が関係してから茶の間へ茶を飲みに出て行つた時にも表の戸が開くのを聞きません。その時南は決して外へ出ていません。

2、原審第五回公判調書中証人藤橋亀吉の供述(五二〇丁)

-私の処は家主と私らを入れて四世帯同居して居ります。私は単身で表店の間の四畳半の部屋を使つています。南は二階にいる陸田みしのところへ月の内半分位も来られ大抵夕方頃来ましたが帰る時刻は判然りお答え出来ません。表は硝子戸で鍵をかけることもあり掛けない時もあります。開閉の具合は重く響きますが、耳は普通に聞える私はこの頃良く眠れるので戸の音に目が醒めることもあれば判らないこともあります。二十五日の夕七時過に南は来たように記憶しています。その晩私は九時半か十時頃に寝ましたが南はその時居たように思います。其の後火事だと云つて表へ南が出て来るまで続いて二階にいたかどうか分りません。

3、原審第十五回公判調書中証人島田重造の供述記載(一二二五丁)

-外被を発見押収する前の事ですが、南達治の足取りついて当人の泊つた陸田方の裏側を調べたのであります。陸田のいる橋向方の裏から出入りするには北陸配電側の塀を越さねばならぬことになつているのですがその辺を見たところその塀に自転車を引き上げた様な跡が出来ていたのです。それで押収してある南の自転車を見たところ肥手が壊れていたので部品が附近に落ちていないか調べたが見つからなかつたのです。又塀の下に高下駄の跡が三箇程残つていたのを見ました。塀の高さは私の背丈よりも一尺位も高いものでありましたが塀の配電会社側に当る外側に電柱が置いてありましたからこれを足場にして自転車を引き上げれば楽に越す事が出来る状況にありました。塀についている傷跡というのは自転車の前車輪と後車輪に取り付けてある心棒とペタルによるものと思われるものであり陸田方側の塀の内側についていたのであります。尚お他に肥手かブレーキによつて出来たような傷もついていました。私はこれによつて正しく犯人は被告人であると直感しました。多年の捜査の経験からそのように感じたのであります。

そこで右各供述を綜合して考えると先づ1の陸田みしの供述の中で注目されるのは被告人とみしが午後十時頃各別の床に就寝したが途中尿意に目醒めたみしが不浄から帰つて被告人の床に入つて同床し、そのまま再び睡眠に入つて後、熟睡中のみしが外から床に入つて来る被告人にふとんを捲られて目を醒ましたまでの経過不明のある時間中被告人が床中に不在であつた事実及びその際目を醒ましたみしが被告人と関係しようとして陰茎を握つたところ冷えて普通より元気がなかつた事実が証明されることである。みしは右について、被告人が不浄に行つていたというからその通りと思う。又酒を余計に呑むと腸を壊す癖があるから不思議にも思わなかつた旨の弁明をするが、被告人の床を出たこと、不在の間の経過時間などは熟睡の為め知らなかつたという同人が行うこの種の弁解は何程の措信価値もないと云わなければならぬ。して見れば、目を醒ましたみしが関係をしようとして被告人の陰茎を手にしたところ冷くひえて力がなかつた事実と照らし合わせ被告人の不在は戸外の冷気中に外出していた為めではないかを推察せしめる一資料となる資格を具えるに十分であり、その時刻につきみしは「多分夜中でしよう」とのあいまいに陳述するが、他方同人は検事の許で被告人との情交終了から火事を知るまでの経過時間につき約四十分位と述べた旨陳述し且つ其の間の時間の経過は相当長かつた旨自認するところから推定すれば先に認定した消防自動車出勤時間の午前四時二十五分から四十分を逆算し且つ情交所要時間十分乃至二十分を考慮して算出される午前三時二十五分乃至同三十五分頃がみしのふとんを捲られて目ざめた時間に相当することになるから被告人はそれまでの或る時間戸外に出ていたという関係を推定せしめる十分合理的な根拠が成立する。次に前記陸田みしの供述中注目される点は、「被告人が情交を終つて茶の間へは出たが、床中に残つた同女と茶の間を隔てる戸が閉つて居り、屏風も立ててあるので、被告人が茶を飲んだか、煙草を喫つていたか知らない」という供述部分である。即ちここでみしは被告人が自己の身辺から離れて視界の外に出ていたこと、及びその間の動静が分らないある時間の存在を認めているのである。もつとも同人は其の間表の戸の開く音を聞かなかつたから決して被告人は其の間に外出はしていないと弁解するけれども、茶の間に居てそこから決して出ていないと云う程の積極性をもつ自信のある供述の趣旨は汲み取れないのである。(もつとも当審の供述にこの点を積極的に強調するに至つたが措信できない)。して見ると、被告人は右の間に第二回目の外出をしていたのではないかの推察の可能性が生れて来るのであつて、その時間関係についてみしの供述によれば「茶の間へ出て行つたが何をしているか様子不明であつた。その内消防自動車出動の音がして南が又火事だと云つた」という風に述べられて居るだけで、右にいわゆる「その内」の意味する時間の長さは不明であるが何程の間の時間でもなかつたとの趣旨に取るのがこの場合に合理的であると考えられるにしても、その経過時間を少くとも五分乃至十分位に取つても差支えがないと思われる。そうするとこの時間は先に認定した、みし方と被告人の自宅附近との間の自転車による通常の往復時間に大体相当するから、この間に被告人がみし方と自宅附近を往復することが可能となり、従つて右の時間は既に認定した被告人が丹前姿で自宅の火災現場を通過した時の外出に相当することが十分に推認されるのである。

以上の推理に対しみし方の表戸の開閉音を問題にして同宿人の覚醒と注意を招かずには外出が不可能であるとの主張があるけれどもこの点については前記2の藤橋亀吉の供述がある程度の解決を与えているのであつて、同人は相当の老人ではあるが耳も普通に聞え又表戸に最も近い階下の部屋に就寝しながら、表戸の開閉に目覚めぬことのあることを供述し同居人に覚られずに表戸から外出することの可能をある程度に立証しているのである。更に司法警察員島田重造の前記3の供述は被告人が橋向方の裏口を利用して外部と出入したのではないかの推測を可能ならしめる形迹を証明しているのであるから、右の反対主張は頗る無力のものといわなければならない。

以上のことを要約すると、「被告人が丹前姿で自転車を曳いて火災の現場を通過した」との前記認定事実は陸田みしの供述によつてもこれを覆されないのみか却つて同事実の側面を補強する一根拠を加えたものであると云うこと、並に被告人が事件発生の午前三時前後頃の時刻に相当するある時間陸田みし方から外出していた事実推定の一根拠が提供されるのである。

五、証第十四号ネクタイの存在

本ネクタイは原審第十一回公判期日に検察官から証拠物として取調を請求せられて許容せられたものであつて其の証拠調において被告人は自己の所有物であること、昭和二十五年五月二十五日これを着用してみし方へ行つたものであることを認めたものである(九〇五丁)が、事件の発生後みしによつて洗濯せられ衣桁にかけてあつたところを同年五月一日押収せられたものである。(前出証人陸田みし-二七二丁-堀政次、島田重造の各供述参照)

ところで本ネクタイを検査した金沢大学法医学主任教授井上剛は同人に対する受命判事の尋問調書中(一一九八丁)要旨次のように供述する。

-お示しのネクタイは確か昭和二十五年十一月一日、金沢地方検察庁七尾支部検事佐々木巖の嘱託を受け検査したものであります。併しこのネクタイはその時初めて手にしたものでなくこの事件発生直後国警石川県本部鑑識課で鑑識課員が他の証拠物と共に検査に従事している際行つて行たものであります。私が、佐々木検事の委嘱を受けて検査したのはこのネクタイに一箇所だけ残つていた血痕らして汚斑(鑑識課で検査しなかつた部分)についてでありますが、その結果はネクタイの前面(巾の広い方)下端に近い部分に小豆大より稍小さい汚斑がありましてその部分について行つた血痕の予備試験及高山氏試薬による血痕の本試験に於て陽性を示し、それが明に血痕である事が確認出来たのであります。その結果は即日佐々木検事に電話で回答しておきましたが、正式の鑑定嘱託の手続ではないので別に書類による鑑定の報告をしなかつたのであります。尚おその際血痕が小さい為めにそれが人血であるかどうかの点までは十分に確めることが出来なかつたし、その血液型の点についても検査不可能と認め実施致しませんでした。その検査した血痕の部分はネクタイの繊維を少し切り取りましたので小さい破損が残つている筈であります。

これによると、証第十四号ネクタイには陸田みしの洗濯から洩れた血痕が附着していたことが明になるのであり、この血痕は小量の為め人血であるか否か、及び血液型の検査は不能に帰したとは云え、前記証第二号外被と全く同一の条件の下に同一の所有者によつて着用せられ同一の条件の下に保管押収された事実に鑑み、外被の汚斑と同一の条件と機会により附着したものと認めるのを相当とするからこれを人血にしてA型血液の附着したものと推断して誤りがないと云わなければならない。果してそうとすれば、汚斑附着の際において外被が着用せられたのは丹前を着した上ではなくてネクタイを締めた服装即ち洋服の上からでなければならないことは当然に推定しなければならないことである。そうなれば本件ネクタイは証第二号外被の存在と並んで本件犯行を被告人の行為に結び付ける有力な資料であるのみならず、次に検討する被告人の自白における服装-丹前姿-の供述を虚偽として覆し洋服を着た犯行と認定せしめる重要な資料ともなるのである。

六、被告人の自白を記載した書面の検討

被告人の自白調書の任意性の問題については弁護人は別に論点を設けて主張するからここではその真実性の問題について検討する。

被告人の自白を記載した書面は三通ある。被告人の昭和二十五年五月四日附上申書(記載一三七八丁-)と、同日附司法警察員守山嘉道作成の被告人の第四回供述調書(第一三八一丁-)及び同月五日附司法警察員黒川甚五郎作成の被告人の第五回供述調書(一四一〇丁-)である。先づ左にその各要旨を摘記して見る。

1、被告人の上申書(被告人の自筆原文のまま)

-上申書、私は二十六日午前弐時三十分頃三島町陸田方表玄関より自転車で乗り出し自宅に到着表玄関より入ろうとしましたが鍵がかかつて居りみつを起して内に入りました。みつは自分の寝床に座りこんな夜中にムタムタと何をしてあるくのか夜が明けてから帰ればよいことにと申しましたので何をしてあるこうとよけいな事だ自分の家に帰るのに何が遠慮もいらないと申しますと自分の家と申すが私の家なのだ、指一本ふれて呉れるなと申しますので其後二三回争い茶棚の横に有りました「コテ」を持ち頭部を打つて元の座に直りましたが、少しも物を言わないので行つて見ますと虫のいきでしたので「コテ」を隣室へほり込み犯跡をくらます為薪に火をつけ陸田に帰り二階のバケツの水で外套を洗い床に入りました其時時間は三時二十分頃と思います出た時と同じく表玄関より入りました右南達治(指印)昭和二十五年五月四日七尾警察署長殿。

2、第四回司法警察員に対する供述調書

-本日上申書をもつて申上げた事実は真実でありますので只今からこの事実について詳しく申し上げます。この上申書を書くまでは何うも世間に申訳がなかつたので申上げ難かつたのであります。私が妻みつと結婚したのは二十七年前で見合結婚であります。年はみつの方が七才上の愛のない結婚でありました。それでも私には先妻の子供征一郎があつてその子供をみつはよく育てて呉れました。私は支那事変に応召し解除になつて帰還してから暫くして同女が余り年を取つているので嫌気が差し夫婦関係を私の方から断ち左様なことで二人の間に溝が出来て来ました。陸田みしは同人が七尾の新地勝田屋に商売していた昭和九年頃から一年半許り通つた女で私は同女を好いていたのであります。ところが同女は陸田三不見という人と、結婚してしまいました。それから私は勤先の樋爪の若婦人と深い仲に陥つたのですがそれが分り昭和二十一年頃同家に出入を禁じられました。ところが多分昭和二十三年九月頃陸田みしと七尾の町でひよつこり出会つたのが亦縁となつて同人のところへ遊びに行くうち再び関係を結ぶようになりました。昨年四月頃からは同女が七尾にいる時は殆んど夜泊り込むようになりました。それで、みしとこのようになつてからはみつがとくに邪魔になつて来て対立が激しくなりました。ところがソ聯からの最後の引揚げがあつたのにみしの夫は終に帰らないことが分つたので私は同女に一緒に暮そうということになつたのですが、そうなればどうしても妻みつが邪魔になつて来て同女はいよいよ激しく口論するようになりました。すると同人はこの家は自分のものだから指一本触れさせんということを申すようになつたのです。そこで私はみしと一緒になる為にみつを除くことを考えその機会を待つていたところ丁度、先般海陸運送の火事やら大和、町郡町、川原町の火事が引き続いて起り放火の噂であるのに犯人が挙らないというので私はこの機会を利用した方がよいと考えるようになりました。と同時に先日申し上げてあるように北海道よりの銀杏草の代金六万六千円位を費い込みその代金を四月二十五日に金沢から集金したら北海道へ支払することになつていたことも合致していよいよ四月二十五日邪魔者のみつを除きその使込の六万六千円の支払を延期するのみか陸田と全く同棲しよう。みつを殺して家に火を放けて丁度強盗が入つてみつを殺して火を附けたようにしようと考えたのであります。それで四月二十五日にはいつもは焼酎一合しか飲まないのでありますが焼酎二合と焼酎とぶどう酒のカクテル一合を飲んで陸田みしの家にいつものように行つたのですが同人には何知らぬ顔をして却つていつもより朗かな顔をして私の決意を見せないように努めたのであります。陸田の家へ行つたのは午後六時半頃で午後九時半頃陸田と二人寝ましたが私はその晩思い通りに決行しようと思つていたのでみしが情交を求めたが何うしても酒に酔うた為めか勃起しなかつたのであります。処がふと、小便したくなり目が醒めたのでありますが私の考えでは、「もう午前二時半頃だなあ、丁度陸田は眠つて居るし時間も丁度よい」と思つたので布団の上にあつた丹前を着て「やつて来よう」と思つて下に降りて雨下駄を履いて私の自転車が玄関の処にあつてそれに外被がハンドルに掛けてあつたのでそれを掛けたまま自転車をもつて玄関から出て玄関の戸を閉めて自宅へ走つたのです。家の前で自転車を下り丹前では不便だつたので持つて行つた外被を着たのであります。実は家に何か道具があると思つたので殺す道具は持ちませんでした。それから玄関を開けて見ると中から鍵が掛けてあつて開かないので戸を叩いて四五回呼びました。すると、みつは目をさまして起きて来て中から玄関の戸を開けてくれたのであります。そして私は黙つて中に入つたのであります。すると同人は奥の八畳間の寝床の方へ歩きながら私に対し腹立たしげな声で「こんな夜中に何ムタムタと歩くか、」と詰つて寝床の枕元の処に入口を後向けにして座つたのであります。それで私は「人あ何して歩こうと何構うことがある」と反問すると「丹前ども着込んで人の家へ来んと夜が明けてから来れやよい」と云うたので私は「自分の家に来るのに何遠慮するか」と申すと同人は「何い、自分の家ちうことが何処にある、これや私の家やから勝手なことを云うてくれるな」と申してその後二三口論したのですが、私は玄関入口の八畳間の茶棚の横に置いてあつた焼ごてが目についたのでそれを右手に取つて本人の直ぐ後まで寄つてその焼ごてで力まかせに頭に一撃を加えたのです。すると同人はバタツと倒れたのであります。そしてものを云わず静になつたのであります。それでびつくりして直ぐ引返して玄関の間から茶の間の方の廊下を通つて茶の間の入口から戸棚の方へ向けて持つていた焼ごてを抛り込んだのであります。それで私はみつは死んだなあと思つたのであります。それでそこを見ないで茶の間の台所へ降りる口から降りて竈の横の箱の中からマツチの小箱一個を取り出し茶の間の裏の元牛の飼料を入れてあつたセメントのタンクの横に積んである杉葉に火を附けたのであります。杉葉の上に薪の枝が大分積んであつたのでそれに燃えつけば茶の間との仕切りの板に移つて火事になる自信があつたのでそのまま土間を通つて玄関を出たのです。陸田の家へ帰つて玄関から入り二階へ上る間へ来て見ると持つて来た外被に血がべつとり着いていたのでびつくりして二階に汲んで来てあつた馬穴の水で外被の袖や何か血の附いたところを洗つて二階の板の間の隅に放り込んで置いたのであります。それで直ぐ丹前を脱いで布団の上に置いて陸田の床へ入つて寝ようとしたら陸田が目を覚まして情交を求めたのでこれに応じてから起きて火鉢のところへ行つてお茶を飲んでいたのであります。処がしばらくすると、自動車ポンプの音がしたので私は「又火事だ」と云つて下に下り外に出てから再び二階へ上つて洋服と着かえて自転車に乗つて現場へ掛けつけましたがその時は消防も来た後で家は大部分燃えてしまつていました。何うも年甲斐もない女の為め又少しの金の為にこんな大それたことをして全く世間の人や死んだみつに申し訳ありません。

3、第五回司法警察員に対する供述調書

私は前回お調の際申し上げた様な犯行を決意し去る二十六日の午前二時四十分頃妻みつの許へ行つたのですが、其の際表入口から入ろうとしたが内鍵が掛つていて戸が開かぬのでみつみつと呼んだが中々答えぬので戸を叩いたところみつは漸く起き出て来て表入口の戸を開けてくれたので直ぐそこから入り犯行後表入口から出たのですが其の際表入口の戸を全部締めて来たか又少し開けて来たか何分あわてていたので確な記憶がないのであります。

右三通の書面を綜合すると被告人は昭和二十七年前亡妻の遺子征一郎を抱え、後妻みつと結婚したが同女が七才も年上であつたので次第に嫌気が差し、支那事変から帰還して以後は殆んど夫婦間の情交を絶止したこと、終戦後かつて七尾の遊里で馴染んだ陸田みしと偶然七尾市内にめぐり逢つたのが縁で往時の関係を復活し同市内に間借りしている同女の許に殆んど毎夜の如く泊り込むようになり同女に対する情愛をいよいよ深めるに伴い妻みつとの間は益々疎隔し家庭内の風波を強くするに至つた。偶々ソ連抑留のみしの夫の帰還が送還終了のソ聯声明によつて絶望視されるに至るとみしに恋い焦がれている被告人は同女と天下晴れた夫婦になりたいと思うにつけては妻みつの存在が障碍であると共に他方被告人は北海道から販売の委託を受けた銀杏草の代金を使い込みその支払の資金に窮迫していた為め、いつそ一思いに妻みつを殺害して自宅に放火し恰も強盗に襲われて妻を殺され家を焼かれたかのように装えば右代金の支払猶予を受け得られると共にみしと夫婦になる希望が遂げられるものと思惟したところ偶々七尾市内に怪火頻発し最近は一夜に三ケ所から出火しいづれも放火と目されるのに犯人が検挙されていないので、この際右思案を実現する好機会と考え、いよいよ其の実行を決意した被告人は昭和二十五年四月二十五日午後六七時頃常よりも余分に飲酒して上気嫌を装いみし方に赴いてみしと就寝したが、夜中に犯罪実行を企図している被告人はその夜みしの情交の要求を拒絶して時を移し翌二十六日午前二時半頃みしの熟睡を見すまして床を起き出し丹前を着たまま橋向方表玄関を開けて自転車で乗出して自宅前に到着し同所で自転車のハンドルに掛けて行つた外被を丹前の上に着服し、表玄関戸を叩いてみつを呼び起し、鍵を外させて屋内に入つたこと、みつが被告人の夜中の帰宅を怪しみ被告人をとがめたことから口論となり、「自分の家に何時帰宅しようと何の遠慮があるか」「自分の家と云うことがどうして云えるか、これは私の家だから勝手なことをいうてくれるな」その他の二三の口争の末被告人は茶棚の横に置いてあつた焼ごてが目に着いたのでこれを右手に取つて奥八畳寝室の寝床の枕元に背を向けて坐しているみつの直後に迫り力任せに頭上に一撃を加えたところみつは右倒しにバタリと仆れて虫の息となつたので、吃驚した被告人は焼ごてを抛ち竈の横のマツチを取り出して元の飼料タンクの横に積んである杉葉薪の枝に火をつけてから表玄関を出て陸田方に逃げ帰つた旨の犯行の縁由、動機、内容に関する諸事実が述べられているのである。そこで考えるのに右の事実中、犯行の際の被告人の服装と兇器の二点は既に認定判示したことで明な通り前記客観的な証拠と相容れないので被告人が故意又は己むを得ず虚偽を陳述したものと考える外はなくその他の事実は犯行直接の動機に関する被告人の内面的心理経過の点を除いて、悉く既に認定した客観的事実又は前顕の本件各証拠によつて確認されるか又はその可能性の推定されるものばかりである。只しかしここに頗る疑問視されるのは犯行を決意した被告人が兇器も持たず表玄関の戸を叩いて犯行の相手である妻みつを何回も呼び起し鍵を外させ空手で屋内に入つて行き妻と激しく口論したと云うことである。原判決は本件の起訴事実に従い被告人の前記自白内容を兇器の点を除いてそのままに援用して事実を認定判示し次のように書いている。

前略 妻美津を殺害して自宅に放火し、恰もその所為は外部から押し入つた強盗の仕業であるかのようにしなそうと決意し昭和二十五年四月二十六日午前二時半頃右情婦みし方に居た被告人は同所を立ち出で妻美津の所有名義となつている同市字府中二部三十三番地の自家に赴き外から就寝中の美津を呼び起して自宅内に入り自己は玄関八畳の部屋に居て奥八畳の座敷寝床の上で後向きに坐つて居た美津と口論の上同日午前三時過頃自家薪木割用斧(証第十一号の二)を以て美津の背後から同女の頭部中央の個所を殴打して云々。

しかしこのようなことが時刻、周囲の状況並に事物の性質上普通実際に起りうることと思われるだろうか。被告人方は山中や野原の一軒家ではない。原審並に当審の検証調書並に司法警察員の検証調書の示す通り被告人方裏側(東側は)に隣家川口藤若方の住家が近接し被告人方表側(西側)にある奥八畳寝室並にその北に隣る玄関八畳の部屋から測つた場合でもその間の距離は何程でもないし、川口方住家の直ぐ北側に順次近隣の住家三棟が互に軒を接しているから大声を発し叫声などが上れば忽ち近隣に聴取されるおそれは十分であり殊に深更二時半の寝静つた時刻には尚更のことであるから被告人がこれらの事情を顧慮しないで、表玄関戸を叩いてわざわざ殺す目的のみつを呼び起し、しかも兇器も持参しない空手のまま、数言を費して妻と口論した後始めて裏のコンクリート土間へ行つて竈附近にある薪割りの斧(証第十一号の二の斧の所在は先に認定したところである。)を持ち出して来て妻に打ち掛かるようなことは通例考えられない行動と云わなければならない。もつとも被告人の屋内に入る際凡ゆる個所に鍵がかかり且つ他に侵入可能の方法が考えられない場合ならばあるいは已むを得ず右のような行動に出ることは考えられるが、前掲被告人の供述によれば、他の場所の鍵の有無、侵入方法の存否などについて、何ら考慮することなく直ちに表玄関口の戸を叩いたというのであるから右はまことに不自然な供述であり且つ不可解な行動と見なければならないのである。しかも原審並に当審の証人川口藤若は其の夜は前日から消防署の勤務を休んで感冐気味で寝ていたので目が冴え勝ちでおちおち眠られず、二三十分置き位に目を醒ましていたが、隣家に何の物音も聞かなかつた。三時半頃ゴウツと何か軟い物が燃えるような物音が聞えたので、寝床から飛び起きて竈のところの硝子のはめ込みを通して南方の内部を見ると同家の茶の間の後ろの飼料タンクのある附近に巾六七尺の火が燃えていた旨供述するし、同人の妻川口ふゆも原審並に当審において、その夜も近頃の怪火騒ぎで心配でグツスリ眠つたこともないような状態であつたが隣家の南方に何の物音も感じなかつた旨供述していることから見て一層被告人の右供述は虚偽の自白であるように思われる。故にこのような供述をそのまま証拠に採用した原審の事実の認定は犯罪の遂行方法に関する事実を誤認したおそれがある。そこで進んで、被告人の侵入方法従つて犯行の経過は別にあるのではないかについて証拠を検討するのに司法警察員作成の検証調書の記載によると被告人方表玄関口(西向の家屋でその北端寄りに出来ている)から屋内北側を真直に裏側竈、薪置場、流し元。飼料タンクなどのある裏側コンクリート土間に通じている土間廊下の外側面に硝子戸六枚の入つた窓があり、それには都合三ケ所の施錠の設備があるが、その内東方の二ケ所は完全に施錠がしてあるけれども西方の玄関入口に寄つた一個の施錠は外れていたこと、そしてその状態のみでは被害者が施錠を忘れたものか侵入者が外したものかを決定することは出来ないが、同所の錠が他の二ケ所のものに比較して黒く爛つて居ることが認められるので火災時には外れていたことだけは確実であることが認められるのである。亦当審施行の検証調書の記載並に当審証人川口藤若の供述記載によれば、被告人方には尚お北側東端寄りに裏出入口があるし、東側の川口宅と隣接する裏側は高さ五尺五寸位の板塀があるだけで、それを飛び越せば直ちに屋内コンクリート土間に入ることが出来た状況が認められる。尚お又原審証人川口ふゆは南の奥さんは「私の家へ何しに盗人が来るものか、戸締りもせんわいね」と云つて戸締をしない時があると云つていた旨供述する。そして本件当夜仮に表玄関には被告人の云う如く錠がかかつていたものとするも右の裏口に戸締りがあつたという資料は少しもないのである。これらの証拠によつて知られる事実を綜合して考えるならば、被告人が最も秘密に事を遂行しなければならないその犯行を表玄関から戸を叩いて数回妻を呼び起し更に数回の口論を演じた上で実行することは考えられず、必ずやその侵入口は前記検証調書記載の窓口か、あるいは右裏口の戸を極めて静かに音を制しながら開いて入つたか、あるいは又その際生じる若干の音をなおも恐れた場合には前述裏側板塀を注意深く乗り越えたかのいずれかであり、このようにして屋内に侵入した被告人は前記コンクリート土間の竈附近に置いてある証第十一号の二の斧を取つて右手に持ち奥八畳寝室に於て枕を隣室の玄関八畳に向けて就寝中のみつの枕元に忍び寄りその物音に目醒めたみつが驚いて床から刎ね起きようと身を起したところを背後から頭上に力任せの一撃を浴びせたものと認定するのが最も吾人の経験則及び本件の状況に適合すると云わなければなるまい。

尚おここで、被告人が何故前記のような侵入の方法、兇器並に犯行時の服装について虚偽を陳述したかということについて一考察を附加するに被告人は昭和二十五年五月四日その上申書を執筆する日の前日まで本件犯行を否認し続け橋向方の同居人の男や平素被告人と風呂屋で顔を合わす某などに容疑を転嫁すべく努めていたが、後述亀野少年(当時十四才)が被告人がその者の犯行に装おうとした放火事件の犯人として検挙せられてその自白を行つたことを知るや、本件犯行も同人の犯行である旨強弁して容易に自白を行わなかつたが一方客観資料の捜査が次第に進行し前記諸般の物的並に人的の資料が蒐集せられて被告人はいよいよ窮地に立つに至り終に屈して、前記上申書を執筆提出すると共に引き続いて行われた司法警察員守山嘉道の取調にその詳細の内容を陳述するに至つた。これが前記の供述調書なのである。以上の事実は原審証人守山嘉道、井原秀隆、垣内太吉、(以上第十四回公判調書)島田重造(第十五回公判調書)の各供述によつて認められるのである。ところで被告人は前記各証拠の圧力の前に一応は屈して自白をすることになつたものの出来るだけ犯情の軽からんことを望む被告人心理から、犯行の動機を何か突発的な激情の所産のように言いこしらえることを考えた結果前記上申書に記された侵入方法、兇器、犯行の内容に関する虚偽の自白が生れたものであると考えられるのである。然るに被告人は続いて司法警察員守山嘉道の取調に直面した際に一つの困難に逢着した。それは右の上申書を見れば分るように被告人は何故陸田方から深夜自転車を乗り出して自宅に到つたかの説明を態と抜かして置いたかである。然るに今、その理由を追求せられ説明に窮した被告人は終に其の計画的犯行である事実を吐露しなければならなくなつて、その旨を自白したが、しかし尚お先に上申書に記した虚偽の陳述に未練を残す被告人はその侵入方法、兇器、犯行の方法についての先の虚偽の供述のみはそのまま維持し到底譲るところがなかつた。前記証人守山嘉道はこの点について次のように供述している。「私はそれまでの捜査の過程から焼ごてを用いたと云うことはおかしいと思い左様ではないのではないかと聞いたが何処までも焼ごてだと云い張つていたのです。」

次に被告人は何故犯行時の服装を丹前と供述したかについて考察すると既に認定した通り被告人は近所に住む前掲中谷吉蔵外二名によつて丹前姿で自宅の火災現場を自転車を携えて通過した姿を目撃されているのであり、この事実の聞込みが本件捜査の過程に重要な一段階を劃したものであることは当然なところである。そしてこの事実は前記物証の外被の血痕と共に被告人の自白を促す有力な圧力となつたこともたやすく推察されることである。そこで、当時いまだ前記証人井上剛による証第十四号ネクタイの血痕の発見並にその検査が行われていなかつた捜査の段階では、目撃者の供述する被告人の服装がそのまま犯行時の被告人の服装と誤認されるのは自然であつて、この捜査官の誤解が少しでも犯行に関係のある事実を匿そうとする被告人の心理と迎合した結果がかかる虚偽の供述を生み出したものと推定することは決して事実から離れるものではないと考えられる。

以上の理由により被告人の供述は右の虚偽の供述と認められる点を除き凡て客観的証拠によつて裏書されるか少くともその可能性について諸般の情況資料により補強されるものばかりであるから、その真実性は充分に保証されたものということが出来る。

そこでこの第三項に記述した諸般の証拠の検討の結果を綜合した結論として被告人は本件犯罪の主体であることを確認するに十分であり、只原審判決が犯罪実行の方法に関する前記のような認定をしたのは犯罪遂行形式の蓋然性に関係する事実を誤認したものであつて同誤認は判決に影響があるものと認めるから、原判決はこの点で破棄を免れない。

只最後に尚お一点附陳すべきことがある。それは当時年齢既に五十年に達する思慮分別の円熟した被告人が、何故かような無暴の行為をしたかということである。当裁判所は本件の動機と為されるものと犯行の内容及び結果とを照らし合わせ亦被告人の言語、態度、人物、証人に対する補充尋問、裁判所に対する供述や主張に示される頭脳の働きなどを観察して当初は本件は被告人の犯行ではあつても起訴状の訴因並に原判決が示すような動機に出た計画的犯行ではなく、被告人の上申書に記すような偶発犯行ではないであろうかと一応考えて見たことを告白する。そして本件につき事実の取調をするに際してもこのような角度から証拠や事実を眺める態度を忘れなかつたのである。しかし結局本件では前掲予謀犯としての諸証拠を覆し偶発犯を認定するに足る資料は終に発見することができなかつた。被告人が同衾中のみしの床から抜け出し深夜自宅に到つた事実を予謀犯と見ないでは説明するに足る証拠は終に出て来なかつたからである。結局本件は恋は思案の外の俗諺を地で行つた中年者の恋の末路と一生の破滅を描く一面悽惨な、他面において哀切極まりのない人生悲劇史の一幕であるのであろう。

第四、亀野少年の犯行である旨の主張について。

既に見たように被告人がそれに装うとして自身の犯行の動機とした怪火の中の昭和二十五年四月二十一日頃の三ケ所の放火は少年亀野隆(当時十四年)が検挙せられて同人の単独犯行であることが判明した。被告人は同人が本件の犯人でもあると主張して来たのである。当裁判所はこの主張に対して何らの予断をも排して十分に検討を加えることにし、原審の同少年に対する尋問及び供述記載が不十分であつたので、直接同少年を当公廷に喚問して同人の家出の動機、素行、性格、行状などを始め、家出後の足取り、前記三件の放火の動機並に心理について詳細な直接審理を行い同人の言語、態度、特に急所の尋問に際しての顔色、表情、などを注視し、且つ陳述の趣旨並に内容の鮮明度を十分に配慮をもつて観察判断した結果同人は決して本件の犯行に関聯のないものであることを確認し得たのである。この点に関し原審の取調べた諸証拠及当審の取調べた証人下原千代の供述の中に如何にも右亀野少年が本件に何らかの関連があることを暗示する如き供述が含まれているけれども、これらの証言の大部分は亀野少年と監房を共にした犯罪の容疑者又は刑事被告人の行うあいまいで片言的な伝聞証言に過ぎないから措信出来ず又当審の取調た下原証人は亀野少年の放火の被害者であること及び同人の供述中亀野少年の逮捕時の場所、動静並に逮捕者などについての他の証拠との矛盾などに照らし同証人の行つた本件事件発生時の午前三時半頃亀野らしい少年が同人方前の街路を走つて来て同家の角に立ち停り暫くしてもと来た方向へ引返して行つた旨の供述及び同人からその旨聞知したという原審証人清水勇次郎の供述は措信しない。尚お念の為め附言すれば、亀野少年の放火の性質並に動機は極めて単純であつて、野事の手伝を懶けて父親に叱られた為家を逃げ出し七尾市内を徘徊して遊び廻つた揚句深夜一件の被害者方の小屋に入つて焚火中誤つて小屋の藁に火を移して火事となつたので逃げ出し、後は自暴自棄の悪戯的心理に駆られるに任かせ引き続き通りがかりの他の二件の被害者方住家の軒先にあつた可燃物に火を放けた行為であつて何れも未遂に終つた事件であるのに本件は住家内に押し入つて奥の寝室に寝ている家人を手斧を振つて惨殺して強盗を装い放火した事案であり、犯罪の性質並に軽重に著しい懸隔があるのでこの点のみから云つても僅か十四才の少年特に当審の観察したように同年輩の少年よりも遥かに小柄で且つ格別の兇悪性の認められない亀野少年のような少年の行為とは到底認めうるものではない。

以上の理由により犯人は被告人ではなく亀野であるとの弁護人の論旨第一点の主張はすべて理由がない。

論旨第二点について。

本論旨は前記第三の記載の書面に記載された被告人の自白は強制拷問その他の不法な圧力によつて引き出されたものであるから任意性を有せず従つて証拠に採用できないものであるとの主張である。

しかし前記第三の六においての虚偽自白の原因に関する説明で示したように当初は他人に犯罪の転嫁を策し犯行の否認を続けていた被告人が終に自白を為すに至つた動機は捜査の進歩に伴う客観的資料の蒐集に圧迫され弁解の方途も立たなくなり終に自白に追い込まれたものであつて、原審証人守山嘉道、茶谷盛岡、井原秀隆垣内太吉、黒川甚五郎、島田重造、源内勇雄、坂田芳男、柴田政太郎らの供述によれば被告人が原審で泣訴し弁護人がこれに同調するような強制、拷問、虐待の行われた事跡がないのである。むしろ前記証人井原秀隆の供述によれば被告人は警察職員の取調に対し傲岸不遜の態度を持して却つて取調者を手こずらせていたものであり、当裁判所が本件審理を通じて観察した被告人の押しの太い体躯と険のある強靭な性格の印象に鑑みても右証人の供述の真実であるべきことが肯けるのである。而して右のように事実を否認していた被疑者が真正な客観的証拠の圧力に屈して犯罪事実の全部又は一部に関し自己に不利益な供述をすることは決して強制による自白とは云うことが出来ない。次に捜査中陸田みしから被告人に対する弁当の差し入れを禁止し被告人から栄養を奪い肉体並に精神の衰弱を計画して被告人を自白に導いたものであるとの主張が行われるが、しかし前記証人らの供述によると、陸田みしが被告人に差し入れた物品の中にヘヤピン二本が混入されていたことがあつた為め、それ以来しばらくみしの差し入れを禁止したことがあるに止まり右は自殺要具その他の物件の授受を避止する配慮から出たものと認めるのを相当とし所論のような不法の害意を推定すべき何らの証拠がない。何故ならば、弁当の差し入れを止めても、規定の官給食は十分に支給されたものであることは右証人らの供述によつて明かであるからである。

そこで弁護人の本論旨も理由がない。

論旨第三点について。

本件には既に見た通りの諸般の客観的証拠が存在するから被告人の自白が唯一の証拠である場合に該当しない。論旨は理由がない。

論旨第四点について。

原審検察官は本件公訴を提起するに当り訴因に含まれる兇器を被告人の自由に基いて焼ごてと表示したけれども右は審理の経過に従い証第十一号の一並に同号の二のうち何れかの斧であるべきことの推定が強くなつて来たので、検察官は原審第八回公判期日において、右二者の斧と証第一号焼ごての内いづれのものが本件犯行の兇器として適切かの鑑定を求めることによつてその結果を本件の兇器決定の資料に供すべき目的で所論鑑定の申請をした趣旨であることは右期日の公判調書の記載に照らして窺いうべきところである。故にこれを兇器決定の目的を有しない単なる「参考観察」に過ぎないとは云うことが出来ない。又証第十一号の一、二の各斧は本件犯行現場の焼跡から発見されたものであるところ公判審理の進行に伴いその内のいづれかが本件犯行の兇器に関係するものとの推定が生じて来たことは右の如くであるので、原審検察官は既に第六回公判期日において右の趣旨を陳述して訴因中の「焼ごて」を「手斧」に変更することの許可を求めてこれを許された上、右二挺の斧の内の何れかが本件犯行の兇器であることを立証趣旨としてこれら二挺の斧の証拠調を原審に請求していたが許否留保となつていたことは右期日の公判調書により明白であり、而して原審はその第八回公判期日に至り右留保にかかる二挺の斧の取調を決定して其の取調を行い原審に提出させたことは右期日の公判調書が示すところであるから右二挺の斧は証拠物として提出されたものでないとする弁護人の主張は全くいわれがない。而して二挺の斧の内のいづれかが犯罪の兇器である旨を主張して其の決定を他の資料による裁判所の裁量に委ねる趣旨で証拠物として提出することは何ら違法ではない。この所論も理由がない。

論旨第五点について。

当裁判所は前記論旨第一点に対する説明に示した理由により原判決を破棄し更に被告事件について判決しようとするものであり、其の際所論神野正隣の鑑定書を採用する意思並に必要を有しないから本論旨に対する説明をしない。

論旨第六点について。

本論旨についても右同様の理由によつてこれが判断を省略する。

以上により弁護人の論旨に副い本件に関する凡ゆる争点並に被告人側の主張に対する判断を終了したのであつて従つて被告人の控訴趣意書記載の主張についても自ら解答が与えられた訳であるからこれに対し重ねて論説の必要はない。

さて、原判決は前記第三項記載の理由によつて破棄を免れないので刑事訴訟法第三百九十七条第四百条但書を適用して原判決を破棄し当裁判所において次の通り被告事件について判決する

弁護人三井三次の控訴趣意

第二点原審は被告人の自白上申書及自白調書を証拠として採用せられたるも第一点(九)に於て詳論せる如く被告人の自白は警察官の拷問強制に依り為されたるものなる事明白なり。然らば右警察官の行為は人権蹂躙にして憲法第三十八条第二項に依り証拠となす能わざるものを証拠と為したる違法あり。又刑事訴訟法第三百十九条第一項の規定により証拠と為すことを得ざるものを証拠と為したるものにして採証法則の違反あり(昭和二二年(れ)第六二二号同二六年八月一日最高裁大法廷判決乞御参照)。

故に原判決は憲法及法令に違反し其の違反は判決に影響を及ぼすべきものなること明かなるを以て破棄を免れざるものと確信す。

第四点検察官は第六回公判に於て(十一月二十四日)本件犯行の兇器は従来焼ゴテと主張したるも右焼ゴテに加えて新たに斧二挺を証拠として提出せられたり(右斧の提出は当時東京大学古畑博士の鑑定は裁判所に到着しおり焼ゴテは成傷と合致せざる旨鑑定ありたるに依り狼狽の余り提出されたるものなることは前述の如し)。

申請の要旨は「本件兇器は手斧(尤も本件犯行に使用されたものは次の兇器のうちの一つである)であることを証明する為、証第十一号ノ一及二ノ手斧を提出す」というに在るを以て弁護人より右申請に異議を申立たり然るに原審は一応留保せられたるも第八回公判に於て之れを採用せり。

然れ共刑事訴訟法(以下刑訴と略称す)第二百九十八条第一項には検察官は証拠調を請求することを得とあり刑訴第三百六条第一項には検察官の請求に依り証拠物の取調を為すに就きては裁判長は之れを示す事を要することもあり。

然るに検察官の請求は二挺の斧にして其の内の何れかが証拠なりと云うに帰着するを以て二挺の内何れなりや証拠として決定なきものなり。

然らば前記法条に照すも原審は被告人に示すべき証拠は不明にして之れを示す能はざるものと言わざるを得ず然して刑訴第三百十七条に依れば事実の認定は証拠に依り刑訴第三百十八条により右証拠の証明力は裁判官の自由なる判断によるとあるを以て裁判所は提出せられる証拠(証拠として確定せるもの)に付其の証拠の価値判断を為し其の取捨選択権を自ら行う権利を有するのみにして裁判所が二挺の斧のうち何れかを自ら証拠として決定し之が価値判断を為し取捨選択を行う権利を有するものにあらず。若し然らずとせんか裁判所は自ら証拠を提出し自ら価値判断を為すと同様の結果を生じ裁判所は検察官の仕事を兼務することとなる。又例え金物屋に殺人事件発生し検察官より証拠として金物店に存在する総ゆる刃物を証拠物として提出し裁判所は其のうちより自己の意に適したるものを採用して其の価値判断を為す事も可能なるべし。豈斯くの如き理あらんや。然して第八回公判廷に於ける検察官の陳述によれば、「鑑定として本件犯行の兇器について是迄の鑑定の結果に徴すれば斧ようなものであるとの事であるから焼ゴテと斧といづれを以て敢行する可能性があるか怎うかを力学的に観察する必要を認めるから該兇器並安田利治作成の鑑定書に基いて云々」とあるを以て検察官の斧提出の趣旨は証拠としての提出に非らずして斧と焼ゴテと何れが可能性ありやを力学的に観察する必要上提出したるものなれば参考程度のものと云わざるを得ず、仮に斧の提出は証拠調請求なりとするも尠くとも鑑定申請は参考的観察の為のものなる事明白なり、然らば証拠たる斧と参考の村上教授鑑定書とは如何にして結付き得るや。

然らば原審は斧(然も二挺の斧のうち最も可能性薄き斧)と村上教授の鑑定書を共に採用したるは採証の法則を誤りたるものにして(寧ろ予断を抱き無理にても有罪にせんとしたる如き観を与えしむ)右法令の違反は判決に影響を及ぼすべきものなるを以て此点に於て到底破棄は免れざるものと確信す。

(その他の控訴趣意書は省略する。)

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