大判例

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名古屋高等裁判所金沢支部 昭和30年(う)40号 判決

記録に依れば被告人両名に対する昭和二十九年一月二十九日付起訴状に依る本件公訴事実は「被告人追分武三は北日本造船株式会社(旧名氷見造船株式会社)の社長であり、被告人追分豊作は右武三の実弟で、追分工業泊工場の経営責任者であるが、一、昭和二十六年一月下旬頃当時被告人武三が副社長兼工場長をしていた氷見造船株式会社が負債に追われ、而も事業不振のため之等の資金に窮したので、その頃より被告人等両名は、同会社工場の建物、機械、資財等に付、従来同会社が千代田火災海上保険株式会社との間に契約してあつた火災保険の外に、新な火災保険を付した上、右工場に放火して之等の保険金を詐取することを相謀り、同年三月十二日頃日産火災海上保険株式会社との間に、氷見造船株式会社取締役社長追分広作名義を以て、当時の富山県氷見郡氷見町―現在氷見市―加納四千六百四十二番地に所在する同会社工場木造瓦葺高平家建造船工場一棟及び之に附属する木造板葺平家建製材工場一棟に付、保険金合計二百万円の火災保険契約を締結してこれを保険に附し、被告人両名共謀の上、(一)同年三月三十日午后七時頃被告人豊作が同工場船造工場西側二階の物置場所に於て、同所に置いてあつた葭(茅簀類のもの)に新聞紙を接着させ、之に所携の燐寸を用いて点火し、建物に燃え移らせ、同会社所有の非現住建造物で保険に附してある同工場に放火し、同日午後八時三十分頃同工場建物の大半並に機械設備、資材等の一部を焼燬し、(二)同年四月初頃右工場等に於て被告人武三が千代田火災海上保険株式会社員北川重正、九産火災海上保険株式会社員堺誠等を始め、保険会社関係の調査員等に対し、右放火の事実を秘匿して、出火の原因が工場内の電気引込線の漏電に因るものである様に装うて説明し、その頃取締役社長追分広作名義を以て損害見積書を提出し、右保険会社関係人等をしてその旨誤信させ、因て同年四月十七日頃日産火災海上保険株式会社より、前記火災による保険金名義の下に、百十二万千八百三十七万円五十八銭を北陸銀行氷見支店宛受取人氷見造船株式会社指名小切手により送金させ支払を受け、同月二十四日頃千代田火災海上保険株式会社より同様保険金名義の下に、合計八十三万九千八百九十九円四十三銭を北陸銀行氷見北支店宛受取人氷見造船株式会社指名小切手により送金させ支払を受けて何れもこれを詐取し、二、其の後も前記造船工場等の事業が円滑に進まず、引続き資金に窮したので、昭和二十七年二月下旬頃より被告人等両名は、当時同町―現在氷見市―加納四千六百四十二番地に所在した氷見造船株式会社所有の社宅長屋建物等に付、火災保険契約を締結し之を保険に付した上、同建物に放火して保険金を詐取することを相謀り、同年三月十七日頃東京海上火災保険株式会社との間に、追分武三名義を以て右社宅長屋木造板葺平家建一棟に付保険金百万円及び同番地所在の被告人武三所有の住家木造瓦葺建物に付保険金三十万円合計百三十万円の火災保険契約を締結してこれ等建物を保険に附し、被告人両名共謀の上(一)同年四月二十二日午後一時頃被告人豊作が同社宅長屋の中央空屋内に於て同室と隣室斎藤繁雄方との境板壁に立てかけてあつた古襖戸の紙に所携の燐寸を用いて点火し、建物に燃え移らせ、前記氷見造船株式会社所有の現に人の住居に使用する長屋建物に放火し同日午後二時三十分頃同社宅長屋一棟を全焼し、更に附近の沢田清一が現に住居に使用していた木造小屋一棟に燃え移らせて之を全焼し、尚被告人武三の家族等が現に住居に使用する同人方住居建物にも類焼させてその屋根の一部を焼燬し(二)同年四月三十日頃右同所等に於て被告人武三が東京海上火災保険株式会社員川合徳次を始め保険会社関係の調査員等に対し、右放火の事実を秘匿して、出火の原因が同長屋居住の斎藤繁雄方子供の弄火によるものの如く装うて説明し、その頃被告人武三名義を以て損害見積書を提出し、右保険会社関係人等をしてその旨誤信させ、因て同年五月十二日頃東京海上火災保険株式会社より右火災による保険金名義の下に、合計百二十六万九千二百五十九円を北国銀行高岡支店宛受取人追分武三指名小切手に依り送金させ支払を受けて之を詐取したものである。」と言うにあるところ、原判決は、右公訴事実を確認するに足る証拠がないとの理由の下に該部分について、被告人両名に対し無罪の言渡をしたものであることを認め得る、

第一事件発生の前後に亘る諸般の状況

第一章第一掲記の各証拠並に被告人武三に対する検察官作成昭和二十九年一月二十五日付供述調書の記載に依れば、(一)昭和二十六、七年当時、追分広作は追分工業株式会社並に氷見造船株式会社社長であり、被告人追分武三は氷見造船株式会社副社長であつて、富山県氷見郡氷見町加納四千六百四十二番地に所在する同社工場の独立採算制による事実上の経営者であり、被告人追分豊作は追分工業株式会社泊工場の独立採算制による事実上の経営者であつたこと、(二)追分広作は、多額の負債に困窮し、追分工業株式会社(泊工場を除く)は昭和二十五年暮頃より休業状態となり、被告人武三も造船業の不振に苦しみ、氷見工場の建物設備、資材は悉く債務の担保となり、造船の新規の註文は殆どなく、債権者の要求に依り止むなく加入した火災保険料の支払にも困窮する状態であり、しかも泊工場を経営する被告人豊作の能力を以てしては、広作、武三の窮状を到底救済するに足りなかつたことを各肯認するに足り、次に北川重正、里村勝次郎、堺誠に対する司法警察員並に検察官作成各供述調書の記載、………(中略)………を綜合すれば、(三)被告人武三は昭和二十五年夏頃より昭和二十六年一月下旬迄の間に、氷見造船株式会社社長追分広作名義を以て前後三回に亘り、千代田火災海上保険株式会社を相手方とし、前記氷見町加納所在氷見造船株式会社工場の建物二棟(建坪合計約四百六十八坪)及び機械工具等を保険の対象として、三口合計金額二百万円に上る火災保険契約を締結していたが、さらに昭和二十六年三月十二日氷見造船株式会社社長追分広作名義を以て、日産火災海上保険株式会社との間に、前記工場の建物(機械、資材を含まず)を目的とし、保険金額を二百万円とする新な火災保険契約を締結したこと並に被告人武三が昭和二十七年三月十七日東京海上火災保険株式会社との間に、富山県氷見郡氷見町加納四千六百四十二番地所在氷見造船株式会社社宅長屋(五戸建)一棟(建坪四十五坪)を保険の対象とし、保険金額を百万円とする火災保険契約及び同番地所在被告人武三所有の木造瓦葺住宅(建坪十五坪)を保険の目的とし、保険金額を三十万円とする火災保険契納を、いずれも自己の名義を用いて締結したことを各認め得べく、(四)昭和二十六年三月三十日午後七時頃前記工場の造船工場西側二階物置附近より出火し、同日午後八時三十分頃迄の間に同工場建物の大半及び機械、資材の一部を焼燬したこと、(五)右発火の原因が漏電その他電気施設の不備より生じたものでなく、また失火とも認められなかつた為、所轄警察署に於ては、最終的な事件処理を為さず、捜査継続中のものであつたこと、(六)昭和二十七年四月二十二日午後一時頃前記社宅五戸建長屋一棟中央部分の空屋とこれに隣接する斎藤繁雄方境界板壁附近より出火し同日午後二時三十分頃右社宅一棟を全焼し、附近に所在する沢田清一の居住する木造の小屋一棟に延焼してこれを全焼した上、被告人武三方居宅にも延焼して、その屋根の一部を焼燬したこと、(七)該火災の原因は子供の弄火によるとされたが、右は十分な捜査に基いたものでなく、当時司法警察員は子供が泣くため十分な取調べも出来ず、火災直前現場附近から子供が駈け出して行つたような足音がしたと言う聞込みから、前記のような推定を下したに過ぎなかつたこと等の諸事実を、司法警察員城田幸里作成報告書(記録第一一二四丁以下)………(中略)………に依つて肯定することが出来、さらに、(八)叙上火災の結果被告人武三が昭和二十六年四月十七日頃日産火災海上保険株式会社より保険金名義の下に金百十二万千八百三十七円五十八銭、同月二十四日頃千代田火災海上保険株式会社より同様金八十三万九千八百九十九円四十三銭の各支払を受け(以上工場関係)昭和二十七年五月十二日東京海上火災保険株式会社より保険金名下に合計百二十六万九千二百五十九円の支払を受け(以上社宅関係)たことは、前出保険関係各証拠の外押収に係る証第二十四号損害見積書二通………(中略)………に依つて明白である。

第二被告人等の自白

被告人追分豊作並に被告人追分武三の捜査官憲に対する供述が、いずれも任意性を欠くものでなく、また、被告人武三に於て、累を他の兄弟に及ぼすことを虞れ、一部の事実を秘匿していると認められる部分を除けば、被告人両名の供述は、自己の体験を記憶に従つて、卒直に供述しているものと認め得ること、既に弁護人の論旨に対して判断した通りであるところ、さらに被告人両名の自白の中、前記昭和二十九年一月二十九日付起訴状による公訴事実に関連する部分を仔細に検討するに、事件発生後相当の年月が経過したため、供述者の記憶が若干薄らいだと認められる部分を除けば、これ等各供述はいずれもよく符合又は照応し、相互に補強証拠たる機能を果しているものであることを看取するに十分であり、また、その他の証拠によつて認め得る諸般の事情とも、よく適合するものであることを肯定せざるを得ない。以下にその所以を分説する。原判文を閲するに(イ)氷見造船株式会社工場に対する放火の自白に関し、(一)原審は「謀議の日時並に場所に関する被告人両名の供述が、著しく齟齬するから、被告人等の右自白は、いずれも信用し難い。」旨判示して、これを排斥して居ることを認め得べく、また記録を検討すれば、被告人追分豊作に対する司法警察員作成昭和二十八年十二月二十一日付供述調書並に検察官作成昭和二十九年一月十三日付供述調書中には、いずれも氷見造船株式会社工場に対する放火の事実に関し、「被告人武三との第一回目の謀議の時を昭和二十六年一月二十日頃、その場所を追分工業株式会社泊工場とし、第二回目の謀議の時を同年二月二十日頃、その場所を氷見町の被告人武三方とし、電話連絡をその間にさし挿み、第三回目の謀議の時を同年三月二十六、七日頃(武三上京の途中)その場所を右泊工場とする」趣旨の供述記載が各存在するのに対し、他方被告人追分武三に対する司法警察員作成昭和二十九年一月七日付供述調書中には、「被告人豊作との第一回の謀議の時を昭和二十六年三月十六日頃、その場所を前記泊工場とし、第二回目の謀議の時を同月二十日頃、その場所を氷見町被告人武三方とする。」(三月下旬上京したことをのみ供述し、その途中泊工場に於て第三回目の謀議をしたか否かについて言及するところがない)趣旨の供述記載が存し、さらに同人に対する検察官作成の昭和二十九年一月二十五日付供述調書の記載中には「被告人豊作との謀議の時期を昭和二十六年三月十五、六日頃、その場所を泊工場とする(その外、同月二十二日被告人豊作が氷見町の被告人武三方に来たこと、同月月末被告人武三が上京したことのみを供述し、第二回目第三回目の謀議について言及するところがない)趣旨の供述記載が存在することを認め得べく、以上の各供述を一見すれば、恰も被告人豊作と被告人武三の、氷見造船株式会社工場に対する放火の謀議に関する各供述は、相互に矛盾し牴触するものであるかの如き観がないでもないけれども、しかしながら、被告人追分豊作の検察官に対する昭和二十九年一月十四日付供述調書中「相談や打合わせをした月日は、大部前のことでもあり、これ迄述べた月日にも、多少間違いはあるかも知れないが、相談や打合わせをした事実は間違いない。」旨の供述記載からも推知し得る如く、被告人両名の謀議の日時に関する各自白の間に若干の相違があることは、事件発生後三年近い年月を経過した後に為された供述として、寧ろ当然のことであり、決してこれあるが故を以て、これ等供述の証拠価値を減少するものでないのみならず、被告人武三の供述中謀議に関する供述の一部欠如するが如きは、これを否認と言うよりは、寧ろ捜査官憲の追及不十分の結果と解するを相当とすべく、なお、被告人両名の供述を通じて認め得る右両者の謀議内容のよく相照応する事実を考慮に容れるときは、被告人両名の自白は決して原審の言うが如く、相矛盾して措信し得ないものでない。(二)原審は、「被告人豊作の司法警察員に対する自白と検察官に対する自白との間には、点火の際利用したと言う葭簀の置いてあつた位置について甚しい相違があり、また関係人の指摘する葭簀のあつた位置とも合致しない上、なお、発火点附近に葭簀のあつたことを否定するような証言も存在するから、被告人豊作の自白は措信し難い。」旨判示しているけれども、しかしながら、同人に対する司法警察員作成昭和二十八年十二月二十一日付供述調書中に、「以前に見極めて置いた二階階段より登つて見ると、武三の言つた通り、葭が七、八束位乱雑な状態で横たわつていたので、私は自宅から点火用として準備して行つた新聞紙に、所持して行つた燐寸をすつて火をつけ、その新聞紙で、さらに葭に点火したのである。」旨の記載がある外、同人の司法警察員に対する供述中には、葭簀の所在に関し特に具体的な記載部分がなく、他方同人の検察官に対する供述内容を検討するも、葭簀の位置に関し、右供述と牴触するものの存在を認め得ない。(同人に対する検察官作成昭和二十九年一月十四日供述調書中には、「火をつけに二階へ上つた時、上るとすぐ二階の左側の端の方へ行つて探すと、武三の言つた通り葭があつた。」旨の記載があるけれども、該供述はさきの司法警察員に対する供述と何等牴触しない。)ただ、司法警察員に対する昭和二十八年十二月二十一日付供述調書の末尾に添付された略図による葭簀の位置を、検察官に対する昭和二十九年一月十四日付供述調書の末尾に添付された略図のそれに比較するときは、前者の図示は、後者のそれと、稍その趣きを異にするような観がないでもないけれども、斯る錯覚が起る所以のものは、後者が比較的に正確な平面図であるに反し、前者は半ば立体的な一種の見取図であつて、しかも極めて杜撰なものであるがために外ならず、しかも右各図示内容を仔細に検討すれば、両者の間には、精粗の別こそあれ、本質的には何等差異あるものでないことを看取するに十分であり、また、証人高橋龍蔵(記録第六四一丁以下)同斎藤繁雄(記録第六〇四丁以下)同浜本友吉(記録第六九四丁以下)同中尾啓助(記録第六八四丁)に対する原審証人尋問調書の記載、当審受命判事の証人斎藤繁雄に対する尋問調書の記載に依れば、叙上氷見造船株式会社工場二階には、火災発生前、葭簀を巻いた束が相当数量、しかも発火点に近接した位置に所在したことを確認するに足る原審証人大西忠雄(記録第六二八丁以下)、同番匠善作(記録第六五二丁以下)、同茶谷豊太郎(記録第六六七丁以下)、同扇原武男(記録第六九九丁以下)、同新川常隆(記録第六七四丁以下)の各証言は、いずれも同工場に於て冬季期間中、葭簀の冬囲いを使用していたことをのみ認め、ただ、発火前右葭簀の東が同工場の階上に所在したか否かの点につき、明確な記憶がない旨供述しているに過ぎず、同工場の所謂二階とは、本来平家建である工場中央部西寄の梁に、根太を取付けた上板を敷いた約三十坪の部分を指称するものであり、同所は、作業上必要ある場合の外、平素工員も余り立入らない場所であること(該事実は、原審並に当審検証の結果、其の他前記証人等の供述によつて認め得る)を考慮に入れるときは、前記大西以下各証人の供述は、毫も叙上高橋、斎藤、浜本、中尾各証人の証言と牴触するものでない。そうして見れば、被告人豊作の司法警察員に対する自白と検察官に対する自白とは、葭簀の所在に関し矛盾するものでなく、また関係人の指摘する葭簀の所在とも牴触するものでなく、葭簀の所在を否定する証拠も他に存在しないことが明かであり、これと異る原審の見解は、畢竟するに証拠の価値判断を誤つたものと言わざるを得ない。(三)原審は証人追分博司、同追分クサ、同追分幸子、同追分志つ子、同追分はつゑ等の供述を採用し、これによつて火災当日である昭和二十六年三月三十日に於ける被告人追分豊作の「犯行現場不在証明」の成立を肯定しているけれども、その内容を検討すれば明な通り、これ等証人は事件当時より三年余を経過した後、はじめて斯る点について取調を受けたものであり、その供述はいずれも不明確であつて、到底不在証明として採るに足るものでないこと、此処に改めて説明する迄もない。斯る不在証明を採用した原審の態度はまことに不可解であると言わねばならぬ。次に(ロ)氷見造船株式会社社宅に対する放火の自白に関し、(一)原審は、さきの工場に対する放火についての判示と同様に「謀議の日時並に場所に関する被告人両名の供述が著しく齟齬するから、被告人等の自白はいずれも措信し難い」旨判示してこれを排斥していることを認め得べく、また記録を検討すれば、被告人追分豊作の司法警察員に対する昭和二十八年十二月二十二日付供述調書には「第一回の謀議の時を昭和二十七年二月十六日頃、その場所を泊工場とし、第二回の謀議の時を同年三月十七日頃、その場所を被告人武三方とし、その後電話連絡を中にはさみ、第三回の謀議の時は同年四月十九日頃(被告人武三北海道方面に出張の途中)とする」旨の記載が存し、同人の検察官に対する昭和二十九年一月二十日付供述調書中には「第一回の謀議の時を昭和二十七年二月末頃第二回の謀議の時を同年三月中頃、武三より電話連絡があつたのを同月十七日頃とする外、第三回目の謀議の時、第一、二、三回各謀議の場所について前同旨の」記載が存在するのに対し、被告人武三に対する司法警察員作成昭和二十九年一月八日付供述調書中には「第一回の謀議の時を昭和二十七年四月二日頃、謀議の場所を泊工場とし、第二回目の謀議の時を同月十日頃、その場所を被告人武三方とする(四月十七、八日頃北海道方面に旅行したことを述べ、第三回目の謀議に言及せず)旨の記載が存し、同人に対する検察官作成昭和二十九年一月二十五日付供述調書中には「謀議の時を昭和二十七年四月十四、五日頃(草野部落の祭礼の際)、その場所を追分久松方とする(同月十八日頃北海道へ出張したことを述べるのみで謀議について言及せず)旨の記載が存することをそれぞれ認め得べく、以上の各供述を一見すれば、被告人両名の氷見造船株式会社社宅に対する放火の謀議に関する各供述が、相互に矛盾し牴触するものであるかの如き観がないでもないけれども、しかしながら、被告人両名の謀議の日時に関する各自白の間に、若干の相違があることは、事件発生後二年近い年月を経過した後に為された供述として、寧ろ当然のことであり、決してこれがため、これ等各供述の証拠価値を減殺するものでないのみならず、被告人武三の供述中謀議に関する供述の不十分であるのは、これを否認と言うよりは、寧ろ捜査官憲の追及不十分の結果と解するを相当とすべく、なお、右両名の謀議に関する供述内容の、互によく照応することを考慮に容れるときは、被告人両名の自白は、決して原審の言うように、撞着して措信するに足りないものでない。(二)原審は「出火当時、社宅中央の空屋の内部に、畳及び襖戸があつたかどうか不明であり、仮にあつたとしても、証人の供述によつて推測し得るその位置は、被告人豊作の供述によるその位置と甚しく相違するから、被告人豊作の自白は、にわかに措信し難いものである。」旨判示しているけれども、証人斎藤繁雄(記録第七六三丁以下)同津田すずい(記録第八一八丁以下)に対する原審証人尋問調書の記載、原審第三回公判調書中証人金子徳太郎の供述記載に依れば、氷見造船株式会社社宅は間口を二間宛とする五戸建一棟の長屋であり、各戸共十畳間一間及び押入、台所等より成り、中央の一戸は予てより空屋となつていけれども、その内部には襖戸及び畳が備付けられて居り、これ等襖戸及び畳は、空屋となつた後も、相当破損したまま修繕されることもなく、その内部に依然として存在したことを肯認するに十分である。尤も襖戸及び畳の存在した場所に関する各証人の証言は必ずしも一様でなく、或者は畳の一部が板壁に寄掛けられ、他は敷いてあったと言い、或者は畳と襖戸が空屋と金子方との仕切りに寄掛けられてあつたと言い、或者は畳と襖戸が空屋と斎藤方との境の板壁に寄掛けられてあつたと言つて居ることは、まことに原判示の通りであるけれども各証言内容を検討すれば自ら明かである如く、各証人の空屋内部観察の時期に、相当の間隔があることを思うとき、各供述間に叙上のような相違の存することは寧ろ当然であるのみならず、被告人豊作の供述(斎藤繁雄方との境界の板壁に寄掛けてあつたとするもの)によつて認め得る襖戸、畳の位置は、証人斎藤繁雄(記録第七六三丁以下)同東信夫(記録第七八四丁以下)同竹林重則記録第七九二丁以下に対する原審証人尋問調書の記載、証人桜井道也(記録第二〇四九丁以下)に対する原審受命判事の証人尋問調書の記載、司法警察員作成実況見分調書(記録第一一四〇丁以下)の記載に依つて認め得る発火地点とよく符合するから、出火当時社宅中央の空屋内部に、畳や襖戸があつたか否か不明でもなければ、その所在位置について証人の供述と被告人豊作の自供との間に矛盾がある訳でもない。原審は如何なる根拠により、空屋内部に畳、襖戸があつたか否か不明であると言い、又は出火現場が被告人豊作の供述と一致しないと言うのか、全く以て不審に堪えない。原判決の援用する証人竹林重則の供述の如きは、「実況見分当時(全焼後)空屋内部に、畳等が存在したかどうか、気が付かなかつた。」と言うに止まり、火災前空屋内部に、畳、襖の所在していたことを毫も否定するものでない。(ハ)最后に言及しなければならないのは、司法警察員の作成に係る検証調書(記録第一七八九丁以下及び第一七九二丁以下)である。これには、被告人豊作に於て、犯行当時の自己の行動と同一の行動を実演したところを、司法警察員が撮影した写真が添付してある。被告人豊作は原審及び当審に於て、「斯る写真が撮影されたのは、司法警察員の強制によるものである。」旨弁疏するけれども、強制によつて斯る写真を撮影することの至難なるは言う迄もなく、当審に於ける証人湯島力太郎、同竹林重則等の証言によつても認め得る如く、前記写真は、被告人豊作の自由意思に基く動作を撮影したものであつて、同被告人の弁疏は窮余の遁辞に外ならないと考えられる。従つて、被告人豊作の右弁疏は到底採用するを得ないものであると言わざるを得ない。以上(イ)(ロ)(ハ)の各項に於て、説示したところを綜合すれば、捜査官憲に対する被告人両名の供述は、互に補強証拠たる作用を営みつつ、その他の証拠と相俟ち、叙上公訴事実を肯認するに足る証明力を持つものであると言うことが出来る。

第三当審認定の事実

前記第一、第二項掲記の各証拠、その他原審並に当審証拠調の結果を綜合すれば、(イ)氷見造船所工場に対する放火に関する一連の事実として、(一)被告人武三が昭和二十六年一月下旬若しくは二月初旬頃被告人豊作を追分工業株式会社泊工場に訪れ、工場事務室に於て豊作に対し「借金で困つているが、金の融通はつかぬものだろうか」等と話し、農作が「自分の方も精一杯だ。」と答えると、さらに同人に対し「氷見の工場に保険をつけ、火をつけて燃やせば、保険金が取れるので、そうしようと思うが、手伝つて呉れんか。ばれるような心配はないと思う。」等と言い、保険金の詐取を目的とする放火行為について、豊作の協力を要請し、豊作がこれを承諾するや、被告人武三は「保険の方は自分が段取りする。火事の際、自分が居ては具合が悪いから、旅行をする。その留守に火をつけて貰いたい」等と言い、なお保険料の一部に充当するため、被告人豊作に対し金五万円程の融通方を依頼して辞去したこと、(二)被告人豊作は同年二月下旬若しくは三月初旬頃被告人武三より電話の連絡による招きに応じ、その翌日頃氷見町の被告人武三方を訪れると、被告人武三は同人方入口客間で豊作に対し「そのうちに保険をつけて旅行に出るから、その留守中三、四日も経つた頃、氷見へ来て工場に火をつけてくれ。工場の一部が板張りの二階になつていて、物置のように使つて居り、そこに葭の古い枯れたものが沢山置いてあるから、それに火を放ければ訳なく燃える。その二階の附近をモーターに通ずる動力配電線や電燈線が通つているから、うまく燃えれば漏電と言うことになると思う。工場には工員等が居るので、二階迄上らず、それとなしに下の方から行つて見れば、大体の様子が判るから、今の内に見て置いてくれ。」と言い、被告人豊作は言われる通り工場に行き、階下から二階の附近を見上げ、階段の様子等を見届けた上、被告人武三方に引返したこと、(三)その際被告人豊作は被告人武三に対し約束に従い、保険料の一部として金五万円を渡し、帰途、工場に往復する径路のうち、最も人目に付かない道筋として、本通りの橋を渡つてから、裏通りの細い道を迂廻して工場の入口に達する道を選び、その状況を見定めた後、泊町の自宅に帰つたこと、(四)被告人武三は同年三月十二日本章第一に判示した通り、日産火災海上保険株式会社との間に、保険金額を二百万円とする新な火災保険契約を締結し、保険料として金十数万円の払込をしたこと、(五)同月二十七日頃被告人武三は被告人豊作に対し、二十八日上京する旨電話を以て連絡したこと、(六)被告人武三は同月二十八日頃上京の途中被告人豊作を泊工場に訪れ同工場事務室に於て「これから東京方面に旅行するから、四日間位の間に火をつけてくれ」と話し、被告人豊作はこれを承諾し、なおその際、武三より豊作に対し、往復に利用すべき交通機関等について種々指示したこと、(七)被告人豊作は、放火の時期を定めるに当り、三十一日は支払の関係もあつて多忙であるし、四月に入つてからでは遅すぎると考え、結局三月三十日の夜を選んだものであつたこと、(八)被告人豊作は三月三十日午後三時頃工場より一旦帰宅し、新聞紙一枚位燐寸及び煙草をポケツトに入れ、家人に対しては、所用で富山に行つて来る旨告げ、泊発午後三時半頃の汽車に乗り、高岡駅下車、午後六時頃の氷見行のバスに乗り、午後七時十分前頃終点下車(終点より氷見造船株式会社工場迄の距離は、徒歩で六、七分位)橋を渡り裏通りから工場に行き、工場には監視人も当直も居らず、入口には戸も取付けてなく、出入は自由自在の状態であつたので、予て見定めて置いた場所に行き、階段を登つて二階に上り、暗いので手探りに配電線の加設してある柱の方に近寄つて行くと、僅かながら外部から洩れて来る光線によつて、板屑や船の型板が乱雑に置いてあり、建物の冬囲に使われる枯れた葭の長さ十尺位の束が七、八束位、乱雑に重ねてあつたのを見付けたので、新聞紙を出してまるめ、一束の葭の一方の端にこれを押付けるようにして置き、燐寸を取出して擦り、新聞紙に点火すると、火焔は葭に燃え移つたので、大急ぎで階段を下り駈足で元来た径路を通つて工場の外に出、裏通りよりバスの停留所に行くと、予想通りバスが発車しかけて居たので、それに飛乗つて、高岡駅に至り、高岡発午後八時十五分頃の汽車に乗り、泊駅に下車して午後十時半頃帰宅し、氷見工場の火災について、氷見から久松方に、約一時間前電話の連絡があつたことを、妻から聞知したこと、(九)翌日久松は氷見へ見舞に行つたが豊作は行かず、その後、氷見から戻つた久松から、火災の原因はどうやら漏電と言うことになるらしい旨聞知し、漸く意を安んずるに至つたこと、(一〇)被告人武三は約二百万円の保険金を受領したが、保険会社関係者を饗応接待するため相当費用を掛け、銀行に対する百四十万円位の債務の内入弁済として金九十万円を支払い、電気料、税金、健康保険料等の延滞分に約金二十三万円を、その他の諸払に金十万円を、各支出し、尚火災に罹つた工場の修理費に金五十万円位費消し、兄広作に対し金二十万円を贈与し、(これについて広作と武三とが激論したこと既述の通り)被告人豊作に金五万円を返済し、以上によつてその全部を費消してしまつたので、手許は依然として苦しく、銀行から再び金三十万円を借りなければならなかつたことを認めるに足り、また(ロ)氷見造船株式会社社宅に対する放火に関する一連の事実として、(一)被告人武三は昭和二十七年二月頃、造船業が不振であつて債務が増加する一方であつたので、その打開策として漁業を経営しようと考え、その資金を調達するためには、さきに成功した氷見造船株式会社工場に対する放火と同様、同社社宅を保険に入れ、該建物に放火して保険金を詐取しよう思い立ち、その頃被告人豊作を泊工場に訪れ同工場の事務室に於て「俺のところに、工場の社宅の長屋があるが、家賃も払わぬし、工場に勤めているのは一人丈けで、他は辞職して他所に勤めているのに、家丈は明けてくれず困つているから、この長屋に火をつけ、保険金を取ろうと思うが、手伝つて呉れんか」と申向け、被告人豊作はこれを承諾し、なお被告人武三は被告人豊作に対し保険料として少し金を用意してくれる様依頼して辞去したこと、(二)同年三月中旬頃被告人武三より電話の連絡があり、被告人豊作は被告人武三方を訪れ、同人方入口客間で放火の方法に関する相談をしたこと、(三)その際被告人武三は、被告人豊作に対し「長屋は五世帯で、真中の一戸が空屋となつて居り、襖戸の古い破れたのや古畳が立て掛けてあるから、それに火を点ければ、すぐ燃える。晩になると住んでいる人も居るから具合が悪い。昼間長屋の人は、女も全部仕事に出て留守になるから、人の居らぬ様子を見て火をつけたらよかろう。そのうち、社宅に保険を付け、適当な時に旅行するから、その留守の間に来て火をつけてくれ」と話し、被告人豊作はこれを承諾し、保険料の一部として金五万円を武三に渡したこと、(四)被告人豊作は長屋の位置、状況を大体知つていたので、此日特に長屋の様子を見に行くようなことをせず、話を聞いた丈けで帰宅したこと、(五)三月十七日頃の夜被告人武三より保険契約を締結した旨の電話連絡があつたこと、(六)被告人武三は同年四月十九日頃北海道方面へ出張する途中被告人豊作を泊工場に訪れ、同工場事務室に於て被告人豊作に対し「これから北海道へ旅行するから、四日程経つた頃社宅の長屋に火をつけてくれ」と話したこと、(七)被告人豊作は四月二十二日、工場設備の部分品購入のため富山へ行く旨家族に告げ、握飯弁当を用意して午前七時半頃自宅を出発、七時五十分頃の汽車に乗り高岡駅に下車、氷見行のバスに乗り、午前十一時頃終点下車、一旦社宅附近迄行つたが、昼食に帰る者があつては具合が悪いと考えて引返し、社宅の前を流れる上庄川対岸の、氷見漁業組合連合会魚市場附近の、堤防に砂利の積んである個所に行き、天気もよかつたので砂利の上に腰をおろし、所携の握飯を食べ、遥かに川を隔てて社宅附近の状況を望見しつつ時機を覗い、昼食のため社宅に帰つた者も、再び外出したらしい様子を見届けた上、河岸を迂廻して社宅裏側に廻り、午後一時十分前頃錠の掛つていない裏出入口の板戸を開けて、五戸建長屋中央の空屋に入り、裏口側より向つて右隣り(斎藤繁雄方)との境の板壁に立掛けられてあつた古畳と襖戸の傍に行き、襖戸の破れた紙に所携の燐寸を擦つて火を点け、燃え上るのを見て直に裏口より戸外に飛出し、駈足で元来た裏通り迄出、裏通りからバス停留所に行き、午後一時発車のバスに乗つて高岡駅に行き、午後三時頃の汽車に乗り午後五時頃泊駅に下車して帰宅したこと、(八)被告人豊作は帰宅するや否や妻から、「氷見社宅が火事で燃えたことを、氷見から電話で知らせて来たと、一、二時間前本宅(久松方)から知らせがあつた」旨聞知し、翌日久松は見舞に行つたが、被告人豊作は行かなかつたこと、(九)被告人武三は五月中旬百二十数万円の保険金を受領したが、保険会社関係者に対する饗応接待費に相当額を費消した上、自宅の修繕費に約五万円を支出し、漁業捲網事業に約五十万円を投資し(該投資は失敗に帰した)残額約七十万円は、被告人豊作の信用を増大せしめる目的で、一時これを北陸銀行泊支店の追分広作名義の預金口座に振込んで置いたが、その後順次これを支出し、被告人豊作から借用した保険料を返済する意味で、該口座に約七万円位を残したのみで、その余は全部被告人武三に於て支出費消してしまつたことを肯認するに足り、以上によれば昭和二十九年一月二十九日付起訴状による公訴事実は、全部その証明が十分であると言わなければならぬ。そうして見れば、これと異る見解に立脚し叙上昭和二十九年一月二十九日付起訴状掲記公訴一、二の各事実につき、犯罪の証明なしとした原判決は証拠の内容を適確に把握せず、又は証拠の価値判断を誤り、その結果、事実を誤認するに至つたものに外ならず、その誤りは判決に影響すること勿論であるから、原判決は破棄を免れない。

よつて検察官の控訴はその理由があるから、刑事訴訟法第三百九十七条第三百八十二条に則り、原判決を破棄した上、同法第四百条但書に従い次の通り判決する。(第三章参照)

第三章結論(罪となるべき事実)

被告人追分武三は氷見造船株式会社(社長は実兄追分広作)工場(富山県氷見郡氷見町―現在氷見市―加納四千六百四十二番地所在)の独立採算制による事実上の経営者であつて、同社がその名称を北日本造船株式会社と変更した後は、その社長に就任した者であり、被告人追分豊作は追分工業株式会社(社長は実兄追分広作)泊工場の独立採算制による事実上の経営者であるところ、

第一 昭和二十五年暮頃実兄広作は事業の失敗により多額の債務を負担し、その経営に係る追分工業株式会社(被告人豊作の経営する泊工場を除く)は、殆ど休業状態となり、他方、被告人武三の経営する氷見工場も、造船の新規の註文は殆ど無く工場の建物、設備、資材は悉く債務の担保となり、債権者の要求に依り止むなく加入した火災保険料の支払にも困窮する状態に陥入り、しかも泊工場を経営する被告人豊作の能力を以てしては、広作、武三の窮状を到底救済するに足らなかつたので、被告人武三は、此の際相当まとまつた額の資金を入手し、これによつて自己並に兄広作の窮状を打開するため、氷見造船株式会社の工場を、従来千代田火災海上保険会社との間に契約してあつた三口合計金二百万円に上る火災保険の外、さらに新な火災保険に附した上、これに放火して、保険金を騙取しようと企てるに至り、被告人豊作にその旨を諮つてその同意を得、斯くして右両名は昭和二十六年一月下旬頃より同年三月下旬頃迄の間、数回に亘り、富山県下新川郡泊町(現在朝日町)平柳所在追分工業株式会社泊工場事務室又は同県氷見郡氷見町(現在氷見市)加納所在被告人武三方居宅等に於て、その時期並に方法等について謀議を凝らし、その間被告人武三は保険料の一部を被告人豊作より借受け、同年三月十二日日産火災海上保険株式会社との間に、氷見造船株式会社長追分広作名義を以て、富山県氷見郡氷見町加納四千六百四十二番地所在、同会社所有の木造瓦葺高平家建造船工場一棟及びこれに附属する木造板葺平家建製材工場一棟(建坪二棟合計約四百六十八坪)につき、さらに新に保険金合計二百万円の火災保険契約を締結し、右謀議の結果に基き、

(一) 被告人武三は同年三月二十八日頃上京して、放火の嫌疑を掛けられないような状況を故意に作出し、被告人豊作は、被告人武三の留守の時期を選んで同月三十日午後七時頃右工場に到り、造船工場二階物置場所に於て、同所に置いてあつた葭簀を巻いた束に持参の新聞紙を接着させ、所携の燐寸を用いて新聞紙に点火し、火焔を葭簀から建物に燃え移らしめ、以て人の住居に使用せず、また人の現存しないところの、氷見造船株式会社の所有に係り、且火災保険の目的物件となつていた同工場に放火し、同日午後八時半頃迄の間に、同工場の建物の大半並に機械、資材の一部を焼燬するに至らしめ

(二) 被告人武三は同年四月初旬頃右工場等に於て、千代田火災海上保険株式会社員北川重正、日産海上保険株式会社員堺誠等を始め、保険会社関係の調査員等に対し、右放火の事実を秘匿して、出火の原因が工場内の電気引込線の漏電に因るものである旨、虚構の説明を為し、その頃取締役社長追分広作名義を以て損害見積書を提出し、右保険会社関係人等をしてその旨誤信させ、因て同年四月十七日頃日産火災海上保険株式会社をして、前記火災による保険金名義の下に、北陸銀行氷見支店宛、受取人を氷見造船株式会社とする指名小切手を以て、自己の預金口座に金百十二万千八百三十七円五十八銭を払込ましめ、同月二十四日頃千代田火災海上保険株式会社をして、同様保険金名義の下に、北陸銀行氷見北支店宛、受取人を氷見造船株式会社とする指名小切手を以て、自己の預金口座に金八十三万九千八百九十九円四十三銭を払込ましめ、その頃該金員の支払を受けてこれを騙取し

第二 其の後も前記造船工場の事業が円滑に進まず、益々債務が増加する許りであつたので、被告人武三はその打開策として、捲網を使用して漁業を始めるより外ないと考え、その資金を調達するため、氷見造船株式会社の社宅五戸建長屋一棟を火災保険に附した上、これに放火し保険金を騙取しようと企てるに至り、被告人豊作にその旨を諮つてその同意を得、斯くして右両名は昭和二十七年二月中旬頃より同年四月中旬頃迄の間、数回に亘り叙上追分工業株式会社泊工場事務室又は被告人武三方居宅等に於て、その時期並に方法等について謀議を凝らし、その間被告人武三は、保険料の一部を被告人豊作より借受け、同年三月十七日東京海上火災保険株式会社との間に、自己の名義を以て、富山県氷見郡氷見町加納四千六百四十二番地所在氷見造船株式会社社宅木造板葺平家建(長屋五戸建)一棟(建坪四十五坪)に付保険金額を百万円とし、同番地所在の被告人武三所有の木造瓦葺居宅一棟(建坪十五坪)に付保険金額を三十万円とする合計金百三十万円の火災保険契約を締結してこれ等の建物を保険に附し、右謀議の結果に基き

(一) 被告人武三は同年四月十九日頃北海道方面に旅行して、放火の嫌疑を掛けられないような状況を故意に作出し、被告人豊作は被告人武三の不在の時期を選んで同月二十二日午後一時十分前頃前記社宅長屋に至り、裏口より中央の空屋内部に立入り、板壁に寄掛けてあつた古畳及び襖戸の傍に行き、襖戸の張紙の破れた部分に、所携の燐寸を擦つて点火し、襖戸より順次古畳及び板壁に火を燃え移らせ、同日午後二時三十分頃迄の間に、斎藤繁雄方外四世帯が居住する、氷見造船株式会社所有の前記社宅一棟を全焼し、また附近の沢田清一方居宅(木造小屋)一棟をも全焼し、さらに被告人武三方居宅屋根の一部を焼燬するに至らしめ

(二) 被告人武三は同年四月三十日頃氷見造船株式会社工場事務所等に於て、東京海上火災保険株式会社員川合徳次を始め保険会社関係の調査員等に対し、右放火の事実を穏匿して、出火の原因が同社宅居住の斎藤繁雄方子供の弄火に依るものの如く、虚構の説明を為し、その頃被告人武三名義を以て損害見積書を提出し、保険会社関係人等をしてその旨誤信させ、因て同年五月十二日頃東京海上火災保険株式会社をして、右火災による保険金名義の下に、北国銀行高岡支店宛、受取人を追分武三とする指名小切手を以て、同銀行に於ける自己の預金口座に、金百二十六万九千二百五十九円を払込ましめ、その頃該金員の支払を受けてこれを騙取し

第三 追分広作は昭和二十八年七月頃には殆ど破産に近い状態に陥入り、債権者の要求に依り、被告人武三に於て兄広作の債務の一部(金百万円)を引受け、債権者との間に示談を成立させ、辛うじて一時を糊塗した程であつたが、他方武三に於ても、造船業は愈々不振であり、捲網漁業もまた失敗に帰し、叙上百万円の引受債務を弁済し得る見込み全く無く、斯くして同年夏頃より追分広作、武三、豊作等の兄弟は、広作及び武三の経済的危機を打開する方策について、憂慮の内に種々意見の交換を行い、就中被告人武三は、事業を機業に転換すべき旨の意見を主張して居たところ、同年十月中旬追分広作が所用のため東京より富山県に来り、富山県下新川郡五箇庄村(現在朝日町)の長兄追分久松方に宿泊した際、被告人両名は同所に広作を訪れ、打開策について種々協議の末、此処に右三名は、追分工業株式会社泊工場の建物、設備、資材を火災保険に附した上、火を放つてこれを焼燬し、保険金名下に領得した金員の一部を以て織物工場を作り、残余を広作並に武三の債務の弁済に充てようと企てるに至り、先ず差し当り、保険料調達責任者を被告人豊作、放火の実行担当者を被告人武三とし、なお、放火の方法等に関する具体的な事項は、被告人両名の間で取決めることを申合わせ、被告人両名はその後同年十一月上旬頃迄の間、前後数回に亘り、追分工業株式会社泊工場事務室、被告人武三方、高岡市古城公園等に於て放火の時機、方法、場所等に関し謀議を重ね、その間、被告人武三は被告人豊作より保険料を借受け、同年十月三十一日頃上京、実兄追分由次郞の協力を得て、同年十一月四日富士火災海上保険株式会社との間に、実兄久松の名義を以て、富山県下新川郡泊町平柳二百九十六番地所在追分工業株式会社泊工場(建物の所有名義は追分久松、追分武三、追分豊作の共有)第一工場の建物木造板葺二階建、建坪二階十二坪、階下七十六坪五合)営什機械、野積木材等につき合計二百五十万円、第二工場の建物(木造棟高杉皮葺平家建、建坪六十二坪)、営什機械、資材製品等につき合計四百五十万円、二口合計七百万円の火災保険契約を締結し、右謀議の結果に基き被告人豊作は同年十一月十日頃右第二工場建物内の電気モーター用配電線の取付けてある柱の中間附近並に桁(通称胴差)及び支杖(通称頬杖)等に石油を塗布し、そのあたりにあつた鉋屑をまるめて石油を滲み込ませ、右柱附近の古板材置場附近に置き、後日被告人武三が来て放火する際、放火し易いように準備をした上、翌十一日頃岡山県方面へ旅行に出発して、放火の嫌疑を掛けられないような状況を故意に作出し、被告人武三は被告人豊作の不在の時期を選んで同月十三日午後七時過頃右第二工場に至り、右建物内にあつた鉋屑若干を携えて右古板材置場に上り、豊作の準備して置いた鉋屑と共に、右の鉋屑を前記柱及び支杖附近に置き、所携の燐寸を擦つてこれに点火し、火焔を鉋屑から同工場建物に燃え移らせ、以て人の住居に使用せず、また人の現存しないところの、前記三名の共有に係り、且火災保険の目的物件となつていた右第二工場(木造棟高平家杉皮葺)一棟に放火し、因て前記柱附近より屋根裏にかけ約二坪の範囲を焼燬したものである。

(裁判長判事 成智寿朗 判事 沢田哲夫 判事 山田正武)

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