名古屋高等裁判所金沢支部 昭和32年(う)138号 判決
原判決挙示の証拠を綜合すれば原判示の事実、すなわち「被告人は原判示の日原判示自家用自動四輸車に東山昌道を同乗させて運転し、原判示時刻頃原判示踏切に差蒐つたのであるが、およそ自動四論車を運転する者は、此のような場合、踏切の手前で一旦停車し、左右の安全を確認した上、はじめて車を軌道上に乗入れるべき業務上の注意義務を負担しているにも拘らず、当時、たまたま遮断機が下ろされて居らず、踏切が開放されたままになつていたのを認めたので、その事だけで同所を安全に通過し得るものと速断し、踏切の手前で一旦停車せず、左右の安全を確認しないまま不注意にも踏切のほぼ中央部迄車を進出せしめた折柄、突如前方の遮断機が下ろされ、同時に左方から電車が進行して来るのを認めたのである。そこで被告人は突嗟の間に、電車との衝突を回避するには、此の際一刻も速やかに車を線路外に移動させるより外に方法がなく、それが為には遮断機を破損させても構わないと思惟し、車を其のまま進行させ、その前部を竹製の遮断棒に突き当てたので、押されて彎曲した遮断棒は、先端が受け柱から外れた瞬間、垂直に復原しようとする竹の弾力で前方に弾き、路傍に佇んでいた大坪真由美の顔面を強打、因て同女に対し原判示のような傷害を負わしめるに至つたものである。」ことを肯定するに十分であり、右の事実は、刑法第二百十一条前段所定業務上過失致傷罪の構成要件を、充足すると解すべきである。弁護人は「被告人が車の前部を遮断機に突き当てたのは、自己及び東山昌道の生命身体に対する現在の危難を避けるため、已むを得ざるに出た行為であり、従つて、被告人は傷害の結果に対し罪責を負うべきでない。」旨主張するので審案するに、刑法第三十七条第一項本文が、所謂「緊急避難」として、罪責を問わない行為を規定する所以のものは、畢竟するに正義及び公平の観念に基き、急迫不正の侵害に対する防衛としてではなく、正対正の利益考量の問題として、必要且已むを得ないと認められる限度内に於てのみ、他人の正当な利益を侵害して迄も、なお自己の利益を保持せしめようとするにあると思われる。従つて、この規定は、若し当該危難が避難行為者の不注意に因つて招来されたものであり、正義公平の観念上正対正の利益考量の問題として取扱うべきでないと考えられるような場合に迄、その適用範囲を拡大すべき規定でないと解すべきであろう。そこで、今、これを本件について見るに、既に前記の認定に依つて明らかなように、被告人は自己の不注意に因り、自己及び他人の生命、身体に対する現在の危難を招き、これを回避するため執つた行動に因つて、測らずも大坪真由美の身体を傷害したものであつて、従つて正義公平の見地よりすれば、被告人の本件行為は、自己の不注意な行為それ自体に因り、直接大坪真由美の身体に対し、本件のような危難の到来と何等の関係なく、一般の相当因果関係の限度内に於て、過つて傷害の結果を発生せしめた場合と、何等択ぶところがないと言わねばならぬ。そうして見れば此のような場合は、正対正の利益考量の問題としてこれを取扱うべきでなく、従つて刑法第三十七条第一項をこれに適用すべきでないから、論旨は、その理由がない。
(裁判長判事 高城運七 判事 沢田哲夫 判事 岩崎善四郎)