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和歌山地方裁判所 平成12年(ワ)501号 判決 2004年3月02日

主文

1  原告らの被告和歌山市に対する請求をいずれも棄却する。

2(1)  原告A及び同Bの被告Cに対する主位的請求をいずれも棄却する。

(2)  被告Cは,原告A及び同B各自に対し,100万円及びこれに対する平成10年7月26日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

(3)  原告A及び同Bの被告Cに対するその余の予備的請求をいずれも棄却する。

3  訴訟費用は,原告らと被告和歌山市との間に生じたものは,原告らの負担とし,原告A及び同Bと被告Cとの間で生じたものは,これを25分し,その1を被告Cの,その余を原告A及び同Bの各負担とする。

4  この判決は,前記2(2)に限り,仮に執行することができる。

事実及び理由

第1当事者の求めた裁判

1  原告ら

(1)  被告和歌山市(以下「被告市」という。)は,原告Eに対し,1000万円及びこれに対する平成10年7月26日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

(2)  被告らは,原告A及び同B(以下「原告B」といい,原告Aと一括していう場合は「原告Aら」ともいう。)各自に対し,連帯して2500万円及びこれに対する平成10年7月26日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

(3)  訴訟費用は,被告らの負担とする。

(4)  仮執行宣言

2  被告市

(1)  原告らの被告市に対する請求をいずれも棄却する。

(2)  訴訟費用は,原告らの負担とする。

3  被告C

(1)  原告Aらの被告Cに対する請求をいずれも棄却する。

(2)  訴訟費用は,原告Aらの負担とする。

第2事案の概要

1  事案の要旨

原告Eは,平成10年7月25日に発生したいわゆる和歌山カレー毒物混入事件において,砒素化合物の混入されたカレーライスを喫食して翌26日に死亡した亡D(以下「D」という。)の妻であり,原告Aらは,Dと同じく同月25日に砒素化合物の混入されたカレーライスを喫食して翌26日に死亡した亡F(以下「F」という。)の父母であるところ,原告らは,被告市が設置する和歌山市保健所(以下「市保健所」という。)の職員らが,和歌山カレー毒物混入事件発生後の救命救急活動及び発生原因の究明活動に際し,情報の管理及び分析,原因究明,情報の開示並びに専門機関又は上級機関との連携において,果たすべき義務を怠ったため,D及びFに発症した病変の原因が判明せず,D及びFが適切な治療を受けることができなかった結果,D及びFが死亡したと主張して,国家賠償法1条1項に基づき,被告市に対し,原告Eにおいては,後記3(5)の原告らの主張アのとおり,損害合計3420万2587円のうち1000万円,原告Aらにおいては,後記3(5)の原告らの主張イ(ア)のとおり,損害合計各自4446万3849円のうち各自2500万円(被告Cとの連帯債務)及びこれらに対するD及びFの死亡の日である平成10年7月26日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求めるとともに,原告Aらは,Fがカレーライス喫食後に入院した被告Cが設置するC和歌山医療センター(以下「C医療センター」という。)の担当医師が,Fに対して実施すべき必要な救命救急措置を怠ったと主張し,被告Cに対し,民法715条1項又は診療契約の債務不履行による損害賠償請求権に基づき,主位的には,被告の担当医師の救急医療上の過失によりFが死亡したことによって生じた後記3(5)の原告らの主張のイ(イ)のとおり,損害合計各自4446万3849円のうち各自2500万円,予備的には,後記3(5)の原告らの主張イ(ウ)のとおり,被告の担当医師の前記過失により,Fが適切な治療を受ける機会を奪われ,相当期間の延命の可能性を奪われたことによる慰謝料請求権に基づき,各自2500万円及びこれらに対するFの死亡の日である同日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求めた(被告市との連帯債務)。

これに対し,被告市は,①市保健所ないしその職員らは,個々の私人に対する義務として原因究明活動を行うものではないから,被告市が,その義務違反により,個々の私人に対し,損害賠償義務を負うことはない,②和歌山カレー毒物混入事件発生直後の救命救急及び原因究明活動等において,市保健所の職員らがその義務を怠った事実はない,③市保健所の職員らに何らかの義務違反があったとしても,D及びFの死との間の因果関係に欠ける等と主張し,被告Cは,①Fに対するC医療センターの担当医師の治療に際し,何らの過失もない,②仮に,担当医師の治療に過失があったとしても,Fは,致死量の砒素を体内に摂取し死亡したのであるから,延命可能性に欠け,Fの死亡と担当医らの過失との間に因果関係は認められない等と主張し,争っている。

2  前提事実

以下の事実は,当事者間に争いがないか,証拠(甲1ないし5,13,14,17,乙1,4の1・2,7,9,丙1,6,8,47,53,54,59ないし61,63,72,証人G,同H,同I,同J,同K,原告E,同A,同B各本人)及び弁論の全趣旨により容易に認めることができる。

(1)  当事者等

原告Eは,D(昭和8年12月16日生)の妻であり,両者の間には,子が2名いた。

原告A及び同Bは,F(昭和57年7月1日生)の父母であった。

被告市は,市保健所及び和歌山市消防局(以下「市消防局」という。)を設置している。

被告Cは,和歌山市内にC医療センターを開設している。

(2)  事実経過の概要

ア 和歌山市園部第14自治会(以下「自治会」という。)は,平成10年7月25日,夏祭を開催し,同祭において,午後6時ころから午後7時ころまでの間,自治会会員らに対し,カレーライスが提供された。

Dは,前記カレーライスを喫食した後,気分不良を訴えたことから,L病院を受診し,同日午後9時4分ころ,救急車でM病院に搬送され,同病院に入院した。

Fは,前記カレーライスを喫食した後,嘔吐を繰り返すなどしたため,同日午後7時47分ころ,救急車でC医療センターに搬送され,同日午後8時30分ころ,同センター救急病室に入院した。

イ 市消防局は,平成10年7月25日午後7時8分ころ及び午後7時29分ころ,和歌山市園部所在のL病院近くの住宅において,嘔吐している病人がいる,夏祭での食中毒の模様であり,患者は大人,子供を合わせて10人程度である旨の119番通報を受けた。

市消防局は,市保健所生活衛生課食品衛生班長(以下「食品衛生班長」という。)に対し,同日午後7時45分ころ,夏祭会場でカレーライスを食べた人が嘔吐を繰り返し,隣接するL病院に殺到しており,救急車は市内の他の医療機関に搬送を繰り返している旨の連絡をした。そこで,市保健所は,同日午後8時10分ころ,食品衛生監視員2名を現場調査に,職員1名を市消防局に情報収集のために派遣した。

市保健所の所長であったHは,翌26日午前0時ころ,記者会見を行い,以下の内容の発表を行うとともに,その内容を記載した書面を記者らに交付した(以下「本件記者会見」という。)。

(ア) 標題 食中毒様症状の発生について

(イ) 発生年月日 平成10年7月25日午後6時ころ

(ウ) 発生場所 和歌山市内

(エ) 発症者数 平成10年7月26日午前0時現在60名(入院35名)

(オ) 症状 吐き気,嘔吐

(カ) 原因食品 調査中

(キ) 病因物質 調査中

(ク) 調査状況

平成10年7月25日午後7時45分ころ,和歌山市消防本部より,嘔吐等の症状を呈している者を市内数か所の医療機関に収容したとの連絡があった。

収容されている医療機関は,12施設であり,発症者は,市内で行われた「夏祭」に参加した者らである。

Hは,平成10年7月26日午前3時ころ,市保健所の職員らを一旦帰宅させ,自宅待機させることとした。

ウ Dは,平成10年7月26日午前0時ころ,血圧が低下し,同日午前0時42分ころ,意識が急速に低下するとともに,痙攣発作が発生するなどしたため,M病院の医師は,蘇生措置を施したが,Dは,同日午前3時3分ころ死亡した。医師は,D死亡時における死因を青酸化合物による中毒に起因する循環不全と診断した。

後日,Dの死因が,カレーライスに混入された砒素化合物による砒素中毒であると判明した。

エ Fは,平成10年7月26日午前7時50分ころ,最高血圧が50mmHg台に低下するとともに,息苦しさを訴えたことから,同日午前8時15分ころ,C医療センターの集中治療室に入室したが,同日午前8時30分ころ,瞳孔が散大するとともに対光反射がなくなり,全身にチアノーゼが広がるなどして危篤状態となり,同日午前10時16分ころ,死亡した。Fの死因は,同女の死亡当時,不明であったが,後日,カレーライスに混入された砒素化合物による砒素中毒であると判明した。

3  争点及びこれに対する当事者の主張

(1)  和歌山カレー毒物混入事件発生後の市保健所の職員らの対応が,適切な情報収集,判断及び情報提供について果たすべき任務を懈怠したものであり,国家賠償法上違法といえるか。

(原告らの主張)

和歌山カレー毒物混入事件は,12の病院が関与し,被害者数67名(入院患者53名,死者4名,外来通院14名)にのぼるものであった。そのため,市保健所の職員らは,同事件を災害医療として取り扱い,事件発生後の初期救急医療段階において,適切な情報の収集,判断及び提供を行うことが義務付けられていた。

しかしながら,市保健所の職員らには,和歌山カレー毒物混入事件における被害者らの救急救命活動及び原因究明活動に際し,以下に詳述するように,①情報管理,②情報分析,③原因究明,④情報の開示,⑤専門機関又は上級機関との連携の諸点において,その任務を懈怠した過失があるというべきである。そして,これらの任務懈怠により,和歌山カレー毒物混入事件の原因の判明が遅れた結果,その間において同事件の被害者らの治療が遅滞したことに照らすと,前記任務懈怠は,国家賠償法1条1項所定の違法なものと評価されるべきである。

ア 杜撰な情報管理

(ア) 和歌山カレー毒物混入事件は,前記のとおり,災害医療というべき大規模なものであるとともに,当初より夏祭会場のカレーを喫食した者が発症するという食中毒事故の疑いのある事件であることが判明していた。

したがって,市保健所の職員らは,患者が収容された全病院の担当医師らに対して患者らの状態を確認するとともに,遅滞なく食中毒の専門家に意見照会をすべきであり,さらに,患者に対して直接の聞き取り調査をする義務があった。

しかしながら,市保健所の職員らは,同事件発生後,患者を収容したと認知した2,3の医療機関に対して,電話連絡を入れたのみであり,また,その電話に応答した相手が医師であるかどうかの確認もせず,食中毒の専門家への問い合わせもせず,患者に対する直接の調査もしなかった。

(イ) また,市保健所の職員らは,平成10年7月26日午前0時以降,全く情報の収集を行っておらず,同日午前2時から午前3時にかけて,Dや同人と同様カレーを喫食して死亡した小学生が重篤な状態に陥っていることや,通常の補液では症状が改善しないことなどの重要な情報を得ることを怠った。

イ 不十分な情報分析

専門が外科医であるL病院の医師においてすら,平成10年7月25日午後9時10分ころの時点で,市保健所の職員らに対し,「食中毒にしては反応が早すぎる」との指摘をしており,市保健所の所長であったH自身も医師から,カレーを食べた直後や食後5分程度と反応の早さが普通でないので,「抗生物質を入れているんですが,いいでしょうか」との治療の相談を受けていた。また,和歌山県立医科大学救命救急センターのN教授(以下「N」という。)の報告書には,「嘔吐の発現はほとんどが5分以内であったが,30分以後に発症した症例もあった」と記載されている。このように,市保健所の職員らは,和歌山カレー毒物混入事件における被害者の大半が,カレーを喫食してから5分以内に発症していたという細菌性の食中毒事故であることと整合しない事実を十分認識していたのであるから,その原因調査においては,かかる可能性も考慮し,必要な調査を行うべきであった。

しかしながら,市保健所の職員らは,同事件の原因調査において,毒物中毒である可能性を探るような活動を何ら行わなかった。このことは,Hが,本件記者会見において,食中毒様症状の発生原因が,99パーセント細菌性の食中毒が原因である旨の発言をしていること,同月26日午前3時ころの時点において,市保健所の職員を自宅待機とさせていることからも明らかである。

ウ 原因究明の欠如

市保健所の職員らは,被害者らが12の医療機関に収容されたことを確知し,さらに,原因食材である可能性の高いカレー及び被害者らの吐物を検体として収集しており,直ちにその検体を検査して,和歌山カレー毒物混入事件の原因を究明すべきであったにもかかわらず,直ちにかかる検査をしなかった。

エ 適切な情報提供をせず安易に不要な情報を開示した過失

(ア) 市保健所の職員らは,平成10年7月25日午後9時35分ころ,O小児科から,患者に縮瞳が見られたという薬物中毒を裏付ける情報を入手し,また,同月26日午前1時ころには,患者の血液中からリンが多く出たとの薬物中毒を裏付ける情報を得たにもかかわらず,これらの情報を各医療機関に提供せず,M病院の医師らのDに対する治療及び被告Cの担当医師らのFに対する治療が適切に行われる機会を失わせた。

(イ) 前記イのとおり,和歌山カレー毒物混入事件が細菌性の食中毒であることと整合しない事情があったこと,患者の血中リンが高いので警察に連絡したとの大学病院からの報告があったこと,平成10年7月25日午後9時35分ころ,O小児科において患者に縮瞳が見られたとの報告があったことに照らすと,市保健所の職員らは,同事件について,薬物中毒の可能性があることを考慮し,通常の(細菌性の)食中毒にすぎないと誤解を与えるような広報活動をすべきではなかった。

しかしながら,市保健所の所長であるH及び幹部職員らは,同月26日午前0時ころから行われた本件記者会見において,「食中毒様症状の発生について」と題し,細菌性の食中毒である可能性が極めて高いとの発表を行い,同事件が,細菌性の食中毒事故であることを印象づける誤った情報を開示するとともに,患者の血中リンが高い旨の大学病院の報告,O小児科からの患者に縮瞳が見られたとの報告を無視して,有機リン系の毒物を原因とする中毒の場合に患者に見られる縮瞳の報告は,どの病院からもなかったとの虚偽の情報を一般に開示し,もって,各医療機関に誤った情報を提供した。

オ 専門機関又は上級機関との連携の欠如

保健所の所長は,届出その他の方法により事故発生を探知した場合は,直ちに関係職員をしてその応急処理に当たらせるとともに,速やかに都道府県,政令市衛生局等の上級機関に報告しなければならず,また,当初入手した情報が不十分な場合でも,それを完全に把握できることまで待つことなく,一応の情報として報告しておき,以後,調査等により状況が判明するに応じて,適宜報告を追加訂正していくことが必要であり,さらに,1事件当たりの患者数が50人を超えると思われる集団発生事例においては,厚生省(当時)生活衛生局長に同省食品保健課経由で電話その他の方法により報告する義務がある。和歌山カレー毒物混入事件においては,前記のとおり,傷病者数が67名にものぼることから,まさにこの義務を果たす義務があった。

しかるに,市保健所長であるHは,事態が収束したと即断し,平成10年7月26日午前3時には職員を帰宅させた。その結果,同日午前4時4分にファックスで送られたM病院における患者死亡の報告書を同日午前8時に至るまで放置することとなった。

(被告市の主張)

ア 和歌山カレー毒物混入事件が災害医療として扱われるべきであり,その場合,保健所が,個々の患者らに対し,適切な情報収集,判断,提供の義務を負うとの主張は争う。

原告らの主張する災害医療としての取扱いという点については,その法的根拠及び意味内容が不明確というほかない。

また,個々の患者の診断や治療方針の決定は,その患者を受け入れた医療機関が,直接患者を診察し検査を行い経過を観察するなどの方法により,傷病の診断及びその治療に必要な医療情報を収集した上で判断するべきものであるところ,保健所の業務は,地域保健に関する情報収集や企画,調整,指導が中心であり,個々の患者に関する医療行為に直接関与することはないから個々の私人に対する義務として,情報収集,判断,提供の義務を負うことはないというべきである。

イ 原告らの主張する情報管理,情報分析,原因究明,専門機関又は上級機関との連携に関する義務違反の主張は,市保健所の職員らの権限の不行使の違法を主張するものと解されるが,権限の不行使が原告らとの関係で国家賠償法1条1項の適用上違法とされるのは,当該権限の不行使がその許容される限度を逸脱して著しく合理性を欠くと認められる場合に限られる。

本件において,権限の不行使がその許容される限度を逸脱して著しく合理性を欠くとされるべき具体的な要件としては,①D及びFについて,入院先の医療機関において一定の治療処置がされれば救命し得たという因果関係が存在することのほか,②市保健所の職員らにおいて,事件の発生を把握した後,Dについてはその容態が急変した7月26日午前0時ころないし死亡した同日午前3時ころまでの時点において,Fについてはその容態が急変した同日午前7時50分ころないし死亡した同日午前10時16分ころまでの時点において,それぞれ死亡という具体的危険の切迫していることを知り又は容易に予見し得る状況にあったという結果予見可能性が存在したこと,③これを回避するための治療処置を行うに必要な情報を市保健所の職員らが当該時点において入手可能であったという結果回避可能性が存在しなければならず,かつ,④当該情報を市保健所の職員らがD及びFの入院先の医療機関に提供しなければ,当該医療機関においてその治療措置を行うことが困難であったという関係にあること,すなわち,市保健所の職員らが,その権限を行使しなければ死亡という結果発生を回避できなかったという関係にあることを要する。しかしながら,本件では,そのような事情は存在しないから,上記要件を満たすことはない。

ウ 以下のとおり,市保健所の職員らに原告らが主張するような過失はない。

(ア) 情報管理について

a 市保健所の職員らは,事件が発生した平成10年7月25日の午後9時30分ころまでに,患者らが搬送された医療機関及びその人数をほぼ把握し,12の当該医療機関すべてに繰り返し連絡を取り情報収集に努め,翌26日午前0時ころから行われた本件記者会見までの間に,各医療機関に対してほぼ3ないし4回の連絡を取っていた。また,同月25日午後10時過ぎ以降は,当該医療機関の医師らからも情報を収集していた。

b 市保健所の職員らは,平成10年7月25日午後9時30分ころ得られた患者の縮瞳という情報を他の医療機関に確認したり,翌26日午前1時ころ,和歌山県立医科大学附属病院の医師から血中リンが検出されたので警察に連絡したとの報告を得たので,同病院の他の医師及び看護婦に確認をしたりしており,毒物中毒の可能性についても配慮していたし,同日午前0時以降も同日午前3時ころまで,情報の収集,管理を励行していた。

c ある患者について食中毒を疑った場合に,どのような治療処置をとるかは当該患者を直接診察してその症状や検査所見を把握している医師が最も的確に判断できることであり,摂食状況やその後の症状発現の経過等もその医師が患者や家族から聴取することにより,直接かつ正確に把握できるのであるから,市保健所の職員において,食中毒の専門家への問合せないし患者への直接の調査は,この時点では必要なかったというべきである。

(イ) 情報分析について

a L病院医師の発言は,「嘔吐が多いし,潜伏期間が非常に短いように思われるが,食中毒であろう」との趣旨であり,通常の細菌性の食中毒を否定する趣旨のものではない。

また,市保健所の所長であったHは,原告らが引用する発言の後に,「反応が早すぎるとお互い思っていましたが,30分後や1時間後,最長で2時間後とバラつきがあり,毒物とは確信できない状態でした」と述べていたのであり,和歌山カレー毒物混入事件が発生した当時,Hにおいて毒物中毒の可能性を疑っていなかったとの原告らの主張は誤りである。

b 原告ら引用にかかるNの報告書は,和歌山カレー毒物混入事件から相当期間を経過した後の調査結果に基づいて作成されたものであり,これをもって同事件発生時点における判断の適否を論ずることはできない。

c 嘔吐などの症状の発生にばらつきがあることは,市保健所においても医師からの情報収集により把握していたことであり,市保健所においては,そのような事情も踏まえて,細菌性食中毒以外の原因も念頭に置いて情報の収集と伝達を行っていたのであるから,原告らの主張は,理由がない。

(ウ) 原因究明について

a 市保健所の職員らは,平成10年7月25日午後8時30分ころ,自治会が開催した夏祭会場及びその近郊において,カレールー,ご飯,おでん,食べかけの発泡スチロール容器,合成樹脂のスプーン等を採取するとともに,L病院の医師から受診者の吐物の提供を受け,翌26日午前3時30分ころ,これら検体を検査のために市衛生研究所に搬入しており,迅速に検体の収集及び検査の依頼をしたのであるから,原因究明活動は迅速にされていたというべきである。

b 平成10年7月当時,和歌山市衛生研究所において可能な検体検査は,細菌学的なものに限られていたのであり,また,特定の毒物が原因であるとの検査結果は,相当の期間の経過後にしか確定することができないものであり,現に,和歌山カレー毒物混入事件において,砒素が原因物質であると判明したのは,同年8月2日の時点であった。したがって,市保健所の職員らにおいて,同事件発生後直ちに,その原因が毒物中毒であるとして原因を究明することは不可能であり,原告らの主張はその前提を欠く。

(エ) 情報の提供ないし開示について

a 市保健所の職員らは,患者に縮瞳が見られたとの情報を,患者が収容されていた12の医療機関に対して伝えるとともに,各患者に縮瞳が生じていたかを問い合わせた。

また,患者の血中からリンが多く検出されたとの情報を得たのは平成10年7月26日午前1時ころであったところ,既に有機リン中毒に見られる患者の縮瞳が認められなかったことを確認済みであった上,Hは,念のため,その情報の元である和歌山県立医科大学附属病院の医師に連絡し,患者に縮瞳が認められないとの情報を提供したところ,同医師から特にそれ以上の情報提供もなかった。そして,和歌山カレー毒物混入事件の原因物質は,砒素化合物であったから,患者の血中からリンが多く検出されたとの情報は,結果的にみても,誤りであった。

b Hら市保健所の職員は,本件記者会見における情報の開示に際し,通常の食中毒と断定せず他の原因も疑っており,その情報の収集にも努めていたからこそ,「食中毒様症状」と説明したのであり,提供した情報は,その時点で判明した限りで正確に公表しており,情報提供に関して違法性も過失もない。

(オ) 専門機関又は上級機関との連携について

市保健所の所長が,平成10年7月26日午前3時ころ市保健所の職員らを一旦帰宅させたことは,職員の自宅に電話連絡ができるシステムとなっていたことに照らすと,その後の市保健所における対応に特段の支障を来すものではなかった。

(2)  市保健所の職員らに任務懈怠が認められる場合,その任務懈怠とD及びFの死亡との間に因果関係があるか。

(原告らの主張)

市保健所の職員らにおいて,前記(1)の原告ら主張のとおりの任務懈怠がなく,適時,適切な情報収集,分析及び判断を行い,M病院及びC医療センターに対し,適時・適切な情報を提供していれば,Dについては,同人が同病院に入院した平成10年7月25日午後9時の時点で,Fについては同女が同センターに入院した同日午後7時47分の時点で,当然に薬物中毒の蓋然性も示唆されたはずであり,入院当初から集中治療室又はこれに準ずる施設,機器を具備した治療を受けることができ,その結果,適時・適切な薬剤投与など生命維持に必要な措置がされたことは明らかであり,同人らの生存し得た蓋然性は極めて高い。したがって,同人らの死亡と市保健所の職員らの任務懈怠との間には,相当因果関係があるというべきである。

また,仮に,上記のような因果関係が認められないとしても,少なくとも,市保健所の職員らの前記過失により,同人らが適切な治療を受ける権利を侵害されたことは明らかである。

(被告市の主張)

ア 原因が砒素であるか食中毒菌であるかにかかわらず,D及びFをはじめとする和歌山カレー毒物混入事件の被害者らのように急激な消化器症状を呈し,さらに循環障害,呼吸障害などを併発するショック症状に対する救急処置は,基本的には共通であり,患者の診察治療に当たっている医師としては,患者の循環,呼吸状態や全身状態を観察しつつ,これに応じた救急措置を講じていくものである。この場合,患者の治療に必要な情報は,当該患者を診察している医師がその症状経過に応じて最も直接かつ正確,迅速に得られるのであり,保健所から提供を受けなければ治療上支障となるような情報はほとんどない。もし,原因物質が特定の毒物であることが明らかになっている場合には,それに応じた解毒剤,拮抗剤を使用することが有効な場合もあろうが,その場合でも,当該薬剤を使用したからといって当然に救命が可能となるわけではなく,効果の如何は,当該物質の種類,摂取量,摂取後の時間的経過等によって異なる。同事件において,原因物質が砒素であることは,多くの日数と検査を経て初めて明らかになった情報であり,同事件当日において市保健所の職員らが入手し得た細菌性等の単なる食中毒ではなく,毒物中毒が疑われるといった程度の情報は,ショック症状に対する救急救命治療に当たり,ほとんど意味を持たない。したがって,市保健所から適切な情報提供がなかったために本来講じられるべき治療措置が講じられなかったというような関係は認められない。このことは,本件記者会見によって,D及びFの治療方針が決定されたり変更されたという事実が窺われないことからも明らかである。

イ 前記(1)の原告らの主張のうちオの過失については,この時死亡したと報告のあった患者が,D本人であるから,同人の治療との間に因果関係がないことは明らかである。

(3)  C医療センターにおけるFへの治療に際し,担当医師に過失があったか。

(原告Aらの主張)

C医療センターにおいてFの治療を担当したGには,Fの治療に当たり,以下のとおり,①血圧及び脈拍の管理に関する過失,②ショック状態の管理に関する過失,③代謝性アシドーシスの管理に関する過失があるというべきであるから,Gの使用者である被告Cは使用者責任(民法715条1項)を負うべきである。また,被告CとFとの間には,診療契約が成立していたものというべきところ,被告Cの履行補助者として,Fの治療に当たっていたGに過失がある以上,信義則に照らし,被告Cに診療契約上の債務不履行があったというべきである。

ア 血圧及び脈拍の管理に関する過失

(ア) Fの平成10年7月25日午後7時47分のC医療センター外来受診時における血圧(血圧については,以下,特に断りがない限り,収縮期血圧-拡張期血圧とする。)は,82-37mmHg,1分間当たりの脈拍数が89回であり,また,Fのみが重症であったとして同センターに救急車で搬送され,消防局からの連絡では,Fの血圧が105mmHgであるとの報告がされていた。

同センターにおいて,Fに対して,外来受診の段階で,補液(点滴)2リットルを24時間で入れるよう指示がされた。

同日午後8時30分の時点で,Fの血圧は,114-68mmHgとほぼ正常値を示したが,脈拍は1分間当たり120回と安静状態としては異常に高い数値を示した。

Fの血圧は,翌26日午前0時の時点で98-60mmHgであったが,同日午前1時35分の時点で74-40mmHgと低下した。そこで,Gは,看護師に対し,Fに対する点滴を全開にして落とした。

Fの血圧は,同日午前1時50分の時点で,収縮期血圧78mmHgと上昇を示した。この時点で,Gは,点滴速度を1時間当たり60mlに減らした。

その後,Fの血圧及び1分間当たりの脈拍数は,同日午前2時20分において,70-0mmHg,120回,同日午前3時において,74-40mmHg,120回,同日午前4時において,70-不明mmHg,96回,同日午前5時において,66-20mmHg,脈拍数不明と推移し,同日午前6時において,Fの血圧は,60-20mmHgと低血圧の状態であり,このころ,Fはふらついている状態であった。

(イ) このように,患者の最高血圧(収縮期血圧)が70mmHg台である状態が長時間継続している場合,医師は,患者に対し,点滴を急速に投与し,それによって血圧がどう変化するかを確認の上,血圧が上昇するという改善が見られればこれを継続し,血圧に変化がない場合には,カテコラミン等の昇圧剤の投与を検討すべきである。そして,Fは,収縮期血圧が継続的に70mmHg台と低く,また,下痢が継続していたのであるから,担当医師であるGは,Fの血圧低下の原因を水分の不足にあると推測し,Fに対し,大量の輸液負荷を行って1時間当たりの尿の出方と血圧の変動を確認した上,昇圧剤の投与を検討すべきであった。

(ウ) しかしながら,Gは,平成10年7月26日午前1時50分の段階で,収縮期血圧78mmHgといまだ低血圧の状態にあったFに対して,前記(ア)のとおり,点滴の投与量を1時間当たり60mlに減らし,その後Fの収縮期血圧が50ないし70mmHg台と低い値で推移したにもかかわらず,特段の処置もせず,同日午前6時の時点で収縮期血圧60mmHgと異常な低血圧となり,ふらついていたFに対して,単に血圧が低いからだとのみ説明し,同女の血圧が50-20mmHgと低下し,脈拍数が124となった同日午前7時50分に至るまで,特段の措置をとらず,その経過を観察するにとどまった。

イ ショック状態の管理に関する過失

(ア) 何らかの原因により血管床とそこを流れる循環血液量のバランスが崩れたいわゆるショック状態を放置すれば,全身組織に酸素や栄養素が行き渡らず,死に至ることもある。そこで,医師としては,患者がかかるショック状態に至らないよう監視し,ショック状態に陥ったときは,これを解消するため,患者の容態管理をする義務がある。

(イ) そして,このショック状態のうち,出血性ショックやFのように強度の下痢と嘔吐により体内の水分が大量に失われ,その結果血管内の水分量が減少し循環血液量が減少している出血性ショックと同様の病態については,ショック指数により簡便にショック状態にあるかどうかを判断することができる。これは,1分間当たりの脈拍数を収縮期血圧の数値で割った数値によりショック状態にあるかどうかを判断する方法であり,その数値が,概ね0.5±0.3程度であれば正常,正常値以上1.0未満であれば軽症,1.0以上1.5未満であれば中等症,1.5以上2.0未満であれば重症,2.0以上であれば最重症と判断されるものである。

(ウ) Fの平成10年7月25日午後8時30分の時点における状態は,前記ア主張のとおり収縮期血圧114mmHg,脈拍数1分当たり120回であり,ショック指数は1.052と中等症のショック状態を疑うべき状態にあったものである。しかしながら,Gは,Fのこの状態を正常であると誤診し,Fの容態管理を怠り,その後,前記ア(ア)のFの脈拍数及び収縮期血圧値から見ると,Fのショック指数が,翌26日午前0時には1.22,同日午前1時35分には1.89,同日午前1時50分には1.53,同日午前2時20分には1.71,同日午前3時には1.62,同日午前4時には1.37と推移し,いずれも中等症ないし重症のショック状態を疑うべき所見を示していたにもかかわらず,何らの処置も施さず,かえって,点滴を全開にして幾分症状が緩和した同日午前1時50分の時点で,点滴の量を1時間当たり60mlに減少させ,その後,特段の措置をとらず,Fを放置した。

ウ 代謝性アシドーシスの管理に関する過失

(ア) Fは,C医療センターに到着した直後の平成10年7月25日午後7時55分,動脈血ガス分析検査を受けた。その結果は,血液のpHは7.293と酸性側に傾き,重炭酸イオン値は19.4mEq/lと低値であり,他方,血中酸素,二酸化炭素分圧は正常であった。

(イ) この検査結果によれば,Fは,何らかの代謝性の異常により,血液が酸性に傾く代謝性アシドーシスの状態にあると評価できた。Fの担当医師であるGは,上記検査結果に前記ア(ア)のとおり,Fの血圧と脈拍の関係が異常であったことを併せると,再度あるいは断続的に動脈血ガス分析を行い,Fがアシドーシスの状態にあるかどうかを観察し,これが継続する場合には,これを解消する治療をする義務があった。

(ウ) しかしながら,Gは,FがC医療センターに入院した平成10年7月25日午後8時30分以降集中治療室に搬入される翌26日午前8時10分ころまでの間,動脈血ガス分析検査を行わず,もって,Fの代謝性アシドーシスが悪化するのを放置した。

(被告Cの主張)

原告Aらの主張は争う。

なお,Fが救急車でC医療センターに搬送されたこと,Fが当時16歳であったことに照らすと,Fと被告Cとの間には,診療契約が成立したものとみることはできず,いわゆる緊急事務管理(民法698条)が適用され,その緊急性にかんがみ,注意義務が緩和され,悪意又は重大な過失がない限り,不法行為による損害賠償責任を負わないというべきである。

ア 血圧及び脈拍の管理に関する過失に対する反論

(ア) C医療センターにおいて,Fに対し,外来受診の初療段階で,P医師が,ポタコールR500ミリリットルの点滴を全開で開始し,注射用蒸留水100ミリリットルで抗生物質ホスミシンS2グラムの側管投与を行った。Pは,初療室から救急病室にFを移動させる間にも,Fに対し,2度目のポタコールR500ミリリットルの点滴投与を開始した。Fが同センターに入院した後の平成10年7月25日午後10時ころ,2本目のポタコールRの点滴投与が終了したことから,Gは,救急補液(点滴)2リットルを24時間で入れる(1時間当たり約83ミリリットル)という方針(Gは,同日午後8時30分のFの入院時に方針を決定し,看護師らに指示した。)で,引き続き,①フィジオ3号500ミリリットル,②ソリタT3500ミリリットル,③フィジオ3号500ミリリットル,④アミカリック500ミリリットルの点滴を,Fが集中治療室に入室する翌26日午前8時15分ころまでの間に投与した(このことは,Fの診療録上,既に投与した薬剤等を記載する熱表《丙1の35頁》の記載からも明らかである。)。すなわち,同月25日午後7時47分ころから翌26日午前8時15分ころまでの約12時間に,Fに対し,輸液6本3000ミリリットルと注射用生理食塩水等3本300ミリリットルの合計3300ミリリットルが点滴投与された。

そして,その間,Gは,同日午前1時40分ころ,Fの血圧が,70-40mmHgと低下していたことから,点滴の速度を全開とし,同日午前1時50分ころ,Fの血圧が78-46mmHgと上昇したことから,点滴の速度を1時間当たり200ないし250ミリリットルとし,この点滴速度は,Fが集中治療室に入室するまで維持された(Gが,同日午前1時50分ころ,Fの点滴速度を1時間当たり60ミリリットルに減らしたとの点は,否認する。)。

(イ) Gは,看護師に対し,Fの初療時の収縮期血圧が82mmHgであったところ,Fが16歳の女性であり,平時でも収縮期血圧が80ないし90mmHg台であっても珍しくはなく,一方,収縮期血圧が20mmHg以上降下した場合にはショックの診断基準としての血圧低下に該当することから,Fの収縮期血圧が60mmHg以下になったら,連絡するよう指示したところ,平成10年7月26日午前6時ころ,Fの収縮期血圧が60mmHgとなったため,看護師からの連絡を受け,Fを診察した。同日午前6時ころ現在のFの状態は,ふらつきはあるものの,意識清明で腹痛,吐き気,下痢はなく,表情はなごやかであり,F自身前日より楽になったと話していた。そこで,Gは,Fの状態を,血圧は低いものの全身状態が改善傾向を示していると判断し,血圧も今後改善傾向に向かうと考えたものであり,このFの全身状態を配慮して,原告Aら主張のような説明をし,経過観察としたものである。

Gは,このような状況においても,Fの血圧の降下には注意をしており,このころ,Fに対し,心電図モニターを装着した。

(ウ) FがC医療センターに入院した当時,Fの症状の原因は,毒素型細菌性食中毒であると考えられており,その治療としての輸液量については,嘔吐や下痢等で失われた水分量と電解質の補充を目的とするものであるところ,前記(ア)のとおり,Fに対し,12時間で3300ミリリットルの点滴投与が行われたことは,通常人の12時間当たりの必要水分量900ないし1000ミリリットルを2300ないし2400ミリリットル上回るものであり,これは高齢者であれば,輸液過剰による心不全のおそれすらある程の投与量であるから,Fに仮に高度な水分喪失があったとしても,十分に対応できる量であったということができるし,Fが集中治療室に入室した時点でされた血液検査によれば,水分喪失によるナトリウム濃度の異常値への上昇は認められないこと,Fの死後の剖検において,循環血液量の減少を示す腎尿細管壊死の所見が認められなかったことに照らすと,Fに循環血液量の低下がなかったことは明らかである。

また,健康な成人女子の24時間平均尿量は1200ミリリットルであり,1日尿量が400ミリリットル以下に減少した状態を乏尿というところ,Fは,C医療センター初療から平成10年7月26日午前6時ころまでの約10時間の尿量は,700ミリリットルであり,輸液管理による水分バランスは十分にとれていたということができる。

他方,Fの心拍数は,概ね1分間当たり120回と頻脈であったが,病的な頻脈とは,1分間当たり150回以上の場合であること,食中毒の場合,入院治療,嘔気,嘔吐,下痢症状などによる心理的圧迫に起因する交感神経の緊張に起因して脈拍が早くなることがあることに照らすと,Fが頻脈であったことから,直ちに,Gにおいて,Fの脈拍ないし血圧の管理を怠ったとみることはできない。

以上によれば,Gは,Fに対し,輸液療法により,適切な血圧管理をしていたというべきである。

イ ショック状態の管理に関する過失に対する反論

以下のとおり,Fは,被告病院入院中において,ショック状態にはなかったから,Fがショック状態にあったことを前提とする原告Aらの主張は,その前提を欠き理由がない。

(ア) ショックの原因はさまざまであり,心原性ショックを除いては,明確な診断基準はなく,また,ショックの診断に当たっては,血圧低下だけでなく四肢脱力,寒冷,顔面蒼白,冷汗,体温の下降,細小で頻数の脈拍,チアノーゼ,意識障害などを総合的に判断すべきであり,さらに最新のショックの定義においては,出血性ショックを除き,血圧低下や心拍出量減少が除かれているところ,Fには,平成10年7月26日午前4時に下肢脱力様の症状が,同日午前5時には橈骨動脈の微弱が生じているものの,寒冷,顔面蒼白,体温低下などの症状はなく,集中治療室に入っても意識は清明であるといったショック症状に反する所見も見られたから,Fをショック状態にあったとみることはできない。

(イ) 原告Aらは,ショック指数によりFがショック状態にあったと主張する。しかし,同指数は,昭和42年ころ,出血性ショックの指標として導入されたものであるが,血圧と脈拍のみで判断する極めて大まかでかつ不正確なものであり,ショックを前記(ア)のとおり総合的に判断する現在の医療の臨床ではほとんど用いられていない。

(ウ) 現在,医療機関において一般的に使用されている観察指標(ショックスコア)によれば,Fの状態は,平成10年7月26日午前1時50分の時点で非ショックであり,その後同日午前6時までは非ショック,軽症又は中等症ショックの状態であった。そして,同日午前7時50分の時点において初めて中等症ショックの状態になったのであり,Gが,重症のショック状態にあったFを放置していたとはいえない。

ウ 代謝性アシドーシスの管理に関する過失に対する反論

血液ガス分析検査は,採血時に強い痛みを伴うことから,必要性もないのにむやみに実施すべきではないものであるところ,Fに対して,平成10年7月25日午後7時55分ころに実施された血液ガス分析の結果(pH7.293,重炭酸イオン19.4)は,正常値よりはやや低いものの,補正を要するpH7.2未満,重炭酸イオン12未満の状態には至っていなかった。また,代謝性アシドーシスの特徴的な臨床症状は,意識障害及び過呼吸又は頻呼吸であるところ,Fは,翌26日午前7時50分ころ,頻呼吸ないし呼吸苦の症状を発現する以前は,正常な呼吸をし,意識清明であり,この全身状態から見ても,特に血液ガス分析検査を繰り返し行う必要はなかったというべきである。

(4)  被告Cの担当医師らの過失とFの死亡,治療機会の喪失との間の因果関係

(原告Aらの主張)

ア 主位的請求

被告Cの担当医師らが,平成10年7月25日午前8時30分以降,Fに対し,動脈血ガス検査を行わず,Fの代謝性アシドーシスの状態を放置するとともに,Fが入院当初からショック状態にあったにもかかわらず,これも放置し,さらに,翌26日午前1時50分から同日午前7時50分までの間,Fの血圧が低い状態にあり,ショック状態が進行していたにもかかわらず,これも放置し,その容態管理を怠った過失により,Fは,集中治療室に入室した同日午前8時15分ころの時点では,手遅れの状態となっており,その結果,Fは,同日午前10時16分ころ,死亡するに至ったのであるから,被告Cの担当医師らの過失とFの死亡との間には,相当因果関係が認められるというべきである。

被告Cは,Fが致死量の砒素を摂取したことを理由として,被告Cの担当医師らの過失とFの死亡との間の因果関係を否認するが,砒素の致死量は,あくまで動物実験から推定されるものにすぎず,急性砒素中毒患者の予後は,砒素の摂取量のみでは推定するのは困難であり,初期治療の遅れも予後に大きく影響することに照らすと,致死量の砒素の摂取のみで,因果関係を否定することはできず,かえって,砒素の排出が不十分であったという被告Cの担当医師らの治療の結果を裏付けるものということができる。

イ 予備的請求

仮に,被告Cの担当医師らの過失とFとの死亡の間に因果関係が認められないとしても,Fは,担当医師らが前記(3)の原告Aらの主張のとおり,医療水準にかなった治療を行うべき義務を怠ったことにより,適切な治療を受ける機会を不当に奪われ,また,適切な治療を受ければ生じた相当期間の延命の可能性も奪われたものであり,その結果,F及び原告Aらは,強い精神的苦痛を受けたというべきである。

(被告Cの主張)

致死量の亜砒酸(砒素化合物)を摂取した場合,仮に治療に際して亜砒酸の摂取が判明している場合であっても救命できない症例がほとんどであるところ,Fの血中砒素濃度が致死濃度の約2倍,肝臓における砒素の蓄積濃度が致死濃度の約6倍,左腎臓における砒素の蓄積濃度が致死濃度の約28倍となっていることからも明らかなように,Fは,致死量をはるかに超える亜砒酸を摂取したことにより,心筋障害が発生し,これにより,チアノーゼ,低酸素血症,諸臓器の高度のうっ血をきたし,毒作用による多臓器不全により死亡したものである。

したがって,被告Cの医師らの治療行為とFの死亡との間に因果関係は存在せず,延命可能性もなかったというべきである。

(5)  損害額

(原告らの主張)

ア 原告Eに生じた損害

(ア) Dの損害と相続  合計2720万2587円

a D死亡による逸失利益  2290万5174円

b 葬儀費用  150万0000円

c 死亡慰謝料  3000万0000円

d 小計  5440万5174円

e 相続  2720万2587円

原告Eは,Dが死亡したことにより,Dの上記損害合計5440万5174円を法定相続分(2分の1)に従い相続した。

(イ) 原告E固有の損害  合計700万0000円

a 原告E固有の慰謝料  500万0000円

b 弁護士費用  200万0000円

(ウ) 合計  3420万2587円

(エ) 請求  うち1000万0000円

イ 原告Aらに生じた損害

(ア) 被告市に対する請求

a Fの損害と相続  合計各3546万3849円

(a) F死亡による逸失利益  3942万7698円

(b) 葬儀費用  150万0000円

(c) 死亡慰謝料  3000万0000円

(d) 小計  7092万7698円

(e) 相続  各3546万3849円

原告Aらは,Fが死亡したことにより,Fの上記損害合計7092万7698円を法定相続分(各2分の1)に従い相続した。

b 原告Aら固有の損害  合計各900万0000円

(a) 原告Aら固有の慰謝料  各500万0000円

(b) 弁護士費用  各400万0000円

c 合計  各4446万3849円

d 請求  うち各2500万0000円

(イ) 被告Cに対する主位的請求

前記(ア)と同じ(被告らの連帯債務)

(ウ) 被告Cに対する予備的請求  各2500万0000円

仮に,Fの死亡と被告Cの担当医師らの過失との因果関係が認められないとしても,前記(4)の原告Aらの主張イのとおり,Fは,担当医師らが,医療水準にかなった治療を行うべき義務を怠ったことにより,適切な治療を受ける機会を不当に奪われ,また,適切な治療を受ければ生じた相当期間の延命の可能性も奪われたものであり,F及び原告Aらは,精神的苦痛に基づく損害を被ったのであり,これを慰謝するに足りる慰謝料の額は,原告Aら各自につき2500万円(Fにおいて発生した損害賠償請求権を相続したものと原告Aら固有の損害の合計額)を下るものではない。

(被告市及び同Cの主張)

原告らの主張は争う。

第3争点に対する判断

1  認定事実

(1)  前提事実(2)に加えて,証拠(甲3ないし5,13,14,17,乙1,2,4の1・2,5ないし9,丙1,6ないし8,13,14,15の1・2,19,20の1・2,21ないし23,43,47,53ないし63,72,証人G,同H,同I,同K,同Q,同J並びに原告A,同B及び同E各本人)及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実が認められる。

ア 和歌山カレー毒物混入事件の発生及び市保健所,市消防局等の対応等

(ア) 自治会は,平成10年7月25日,夏祭を開催し,同日午後6時ころから7時ころまでの間,夏祭の会場において,自治会員ら夏祭に参加した者に対し,カレーライスが提供された。

市消防局は,同日午後7時8分ころ,夏祭会場の近隣にあるL病院南側の住宅の近所において,嘔吐している病人がいるので,救急車の出動を要請する旨の119番通報を受け,救急車を出動させた。

市消防局は,同日午後7時29分ころ,自治会開催の夏祭において,食中毒が発生した模様であり,大人と子供が10名程度嘔吐している旨の119番通報を受け,救急隊を出動させ,8名を3つの医療機関に搬送した。市消防局の救急隊は,同日午後7時40分ころには,5名を2つの医療機関に,同日午後7時41分ころには,3名を1つの医療機関に,同日午後7時47分ころには,5名を1つの医療機関に,それぞれ搬送した。

市消防局は,同日午後7時50分ころから同日午後8時30分ころまでの間に,救急告示病院である16の医療機関に対し,傷病者の受け入れについて協力を要請し,市消防局の救急隊は,同日午後7時53分ころ,3名を2つの医療機関に搬送した。市消防局は,同日午後7時59分ころ,L病院に約30名の傷病者がいるとの連絡を受け,市消防局の救急隊は,同日午後8時ころ,10名を3つの医療機関に,同日午後8時1分ころには,4名を1つの医療機関に,同日午後8時15分ころには,4名を1つの医療機関に,同日午後8時24分ころには,2名を1つの医療機関に,同日午後8時28分ころには,2名を1つの医療機関にそれぞれ搬送し,同日午後9時4分までに,発症した全ての傷病者について,医療機関への搬送を完了した(夏祭で提供されたカレーライスを喫食して,発症した者のうち救急隊が搬送した患者は合計50名であり,自ら医療機関を受診した者も17名いた。)。

(イ) 食品衛生班長は,平成10年7月25日午後7時45分ころ,市消防局司令室から,自治会の夏祭の会場でカレーライスを喫食した者が嘔吐を繰り返し,隣接するL病院に殺到し,救急車が和歌山市内の医療機関に繰り返し患者を搬送している旨の電話連絡を受け,これを所長であるHをはじめとする関係職員に連絡した。関係職員らは,順次市保健所に集合し,大阪府泉佐野市に居住するHも同日午後9時すぎころ,市保健所に到着した。

食品衛生班長(食品衛生監視員)及び食品衛生監視員1名は,同日午後8時10分ころ,現場調査に出発し,同日午後8時30分ころ現場に到着し,調理方法,調理場所,食材の仕入れ状況等の調査を行い,鍋内のカレールー,炊飯器中にあったご飯,おでん,食べかけの食品の入った発泡スチロール容器,合成樹脂製のスプーン等を検体として採取し,L病院の院長からカレーライスを喫食した者にのみ,喫食後短時間で嘔吐,吐き気の症状が発現し,発熱はないとの聞き取り情報を入手するとともに,受診者の吐物の提供を受けこれを採取した。

また,別の食品衛生監視員1名が,同日午後8時10分ころ,情報収集のために,市消防局に向けて出発した。

(ウ) 市保健所の職員らは,平成10年7月25日午後8時50分ころから,市消防局が患者を搬送した医療機関のうち判明した分(当初3ないし4施設)に対し,電話で状況を聞き取る調査を開始し,医療機関に対し,患者の氏名,年齢,住所及び病状をファックスによって知らせるよう依頼した。この当時,医療機関においても,患者の氏名などが把握されておらず,市保健所は,当初,搬送された患者の数に関する情報を得ることしかできなかった。市保健所は,これ以後,繰り返し,患者が搬送された医療機関(市保健所は,最終的には12の医療機関に患者が搬送されていることを確認した。ただし,自ら医療機関を受診した者もいたため,実際に患者を診療したのは,13の医療機関であった。)に電話で,情報収集を続け,同日午後11時30分ころまでの間に,各医療機関に対し,概ね3回ないし4回問い合わせを行った。当初の電話聞き取りにおいては,各医療機関とも,医師が患者の治療で繁忙であったことから,医療機関職員から回答を得るにとどまっていたが,2ないし3回目の電話聞き取りにおいては,担当医師から情報を入手できるようになった。

市保健所の職員は,同日午後9時10分ころ,L病院の院長から,電話で患者の状況についての聞き取り調査を行い,①患者数が約70名,②カレーライス喫食中から嘔吐を呈した者もいる,③血圧低下を呈した者もいるが,特に重症者はおらず,ステロイドを使う必要のある症例もない,④現時点では,4名の患者に対し点滴投与をしており,他の患者は,救急車で搬送された,⑤カレーライスを自宅に持ち帰って喫食した者もいる,⑥症状としては嘔吐が多いし,潜伏時間が非常に短いように思われるが,食中毒であろうとの回答を得た。市保健所の職員は,このころ,和歌山市福祉保健部長に概況を報告した。

市保健所の職員は,同日午後9時13分ころ,最重症者が搬送されることとなっているC医療センターに対し,電話で情報収集を行い,①受け付けられた患者は9名であり,そのうち1名(F)は,当初意識がやや朦朧とした状態に見えたもののすぐに会話ができるようになったが,念のため入院となった,②その余の8名の患者は,入院せず,外来診療となった,③患者全員がカレーライスを喫食しており,酸味がしたとのことである,④大人は喫食後1時間で嘔吐,吐き気,2時間後に下痢を発症しており,小児は喫食後20ないし30分で,同様の症状が出ている,⑤いずれの患者にも発熱はない,といった情報を得た。

市消防局で情報収集をしていた食品衛生監視員が,同日午後9時30分ころ,①救急搬送された患者が46名であるが,自ら受診した患者も存在する,②同日午後9時30分時点における救急患者の搬送先は10か所であり,受診者数は49名である,との情報を得て,市保健所に戻った。

市保健所は,O小児科から,同日午後9時35分ころ,ファックスで,患者の1人に縮瞳が見られ,その患者を和歌山県立医科大学附属病院に搬送したとの連絡が入った。市保健所の職員らは,有機リン系の毒物による中毒事故の可能性があることを考慮し,確認のために,同日午後9時40分ころまでに,患者が搬送された12の医療機関に対し,縮瞳の見られた患者が出たとの情報が入った旨を伝えるとともに,患者に縮瞳が生じていないかを問い合わせたところ,同日午後10時ころまでに,和歌山県立医科大学附属病院を含む全医療機関から,患者に縮瞳が生じていなかったとの回答を得た。

Hは,同日午後10時ころ,①同時点において患者60名のうち35名が入院している,②各医療機関とも重症者はいない,③診療中の医師の話によれば,食中毒のようだが発症時間が短い,といった概要を電話で和歌山市長に報告した。また,Hは,そのころ,医師の1人から,患者の症状は,ブドウ球菌によるものと思われるが,ブドウ球菌の産生する毒素であるトキシンに対して抗生剤を投与しているがそれでよいか,との質問を受け,トキシンには抗生剤は効果がない旨の回答をした。

(エ) 市保健所の職員らは,新聞記者らから情報提供の要求が強くなるとともに,新聞記者らの取材活動により調査活動等に支障を来すようになったことから,平成10年7月25日午後11時30分ころ,会議を開き,翌26日午前0時30分から記者会見を実施することを決定した(その後,本件記者会見を同日午前0時に繰り上げて実施することとした。)。

市保健所の職員らは,そのころ,記者会見を実施するに際して,再度確認のため,患者らが搬送された12の医療機関に対し,電話で問い合わせを行ったところ,①重症者はいない,②原因は食中毒と思われるとの回答を得た一方,③一部の医療機関からは,食中毒にしては嘔吐の発現する時期が早いとの指摘があった。そこで,Hらは,記者に対する発表の内容として,食中毒事故発生時に通常用いられる食中毒ないしその疑いとの表現は使用せず,食中毒様症状との表現を使用することを決定した。

Hほか3名の市保健所職員並びに和歌山市衛生研究所の所長及び衛生微生物班長は,同日午前0時ころ,本件記者会見を行い,以下のaないしhのとおりの発表を行うとともに,その内容を記載した書面を記者らに交付した。Hは,本件記者会見において,反応が早いのでもし食中毒なら黄色ブドウ球菌の加熱に強い毒素と考えられ,99パーセント食中毒と思われるが,1パーセントは食中毒であることに納得していないと述べた。また,同市衛生研究所の所長は,本件記者会見において,黄色ブドウ球菌が産生する毒素エンテロトキシンについて説明するとともに,現時点においては原因を確定することはできないと説明した。

a 標題 食中毒様症状の発生について

b 発生年月日 平成10年7月25日午後6時ころ

c 発生場所 和歌山市内

d 発症者数 平成10年7月26日午前0時現在60名(入院35名)

e 症状 吐き気,嘔吐

f 原因食品 調査中

g 病因物質 調査中

h 調査状況

平成10年7月25日午後7時45分ころ,和歌山市消防本部より,嘔吐等の症状を呈している者を市内数か所の医療機関に収容したとの連絡があった。

収容されている医療機関は,12施設であり,発症者は,市内で行われた「夏祭」に参加した者らである。

(オ) 市保健所の職員らは,平成10年7月26日午前1時ころ,新聞記者から,和歌山県立医科大学附属病院の医師が,警察に対し,患者の症状が毒物によるものである疑いがあると連絡したとの情報を得た。そこで,Hは,同病院の医師に電話で問い合わせたところ,同医師から,患者の血中からリンが多く出たので,一応警察に届けたとの説明を受けた。Hは,同医師に対し,現時点において,他の医療機関から食中毒以外の情報は入っていないこと,患者が搬送された12の医療機関全部から,患者には,有機リン系の毒物中毒に特有の症状である縮瞳が認められなかったとの回答を得ていることを伝えた。その後,市保健所に,同病院の医師らから,同様の情報が入ってくることはなかった。

(カ) 警察官が,平成10年7月26日午前1時ころ,市保健所に来所し,食品衛生監視員が採取した検体を見分した。市保健所は,同日午前2時10分ころ,警察官から,食材仕入先のスーパーマーケットから収去してきた牛肉の検査依頼を受け,牛肉を預かった。食品衛生監視員が採取した検体及び警察官から預かった牛肉は,同日午前3時30分ころ,検査のため,和歌山市衛生研究所に搬入されたが,警察から同研究所の所長に対し,同日午前7時ころ,電話で,患者(D)が死亡したことから検体をそのまま保管するようにとの指示があった。

(キ) Hは,平成10年7月26日午前3時ころ,新しい動きや情報もなく,安定した状態が続いたことから,職員全員を一旦帰宅させ,早朝から出勤させ,調査に当たらせることとし,H自身も和歌山市内に宿泊することとした。

(ク) M病院の医師は,平成10年7月26日午前4時4分ころ,市保健所に対し,患者(D)が,黄色ブドウ球菌によるエンテロトキシンショックで死亡した旨の報告をファックスで送付した。市保健所の職員らが,この報告を認識したのは,同日午前8時ころのことであった。

Hは,同日午前7時20分ころ,和歌山市長への報告のために市役所に赴いた際,市保健所の生活衛生課長から死亡者が出たらしいとの不確実情報を携帯電話で受けた。そこで,Hは,最初に重症者(F)が入院したC医療センターに電話で問い合わせたところ,Fは元気で,楽になったとベッドで起きあがっている,重症や死者があったとすれば,明け方から何度か電話がかかってきたR病院であろうとの回答を得た。Hは,引き続きR病院に電話で問い合わせたところ,今2名の患者が重篤な状態にあるとの情報を得た。Hは,その直後,同市長との会見の際,Dが死亡したとの情報を得た。

市保健所は,R病院から,同日午前7時35分ころ,53歳の患者男性が,同日午前7時54分ころ,10歳の患者男児が死亡したとの連絡を受けた。

市保健所は,同日午前8時30分ころ,患者が入院している医療機関に,職員を派遣し,患者の症状等の状況調査を開始した。和歌山市衛生研究所は,同日午前8時40分ころ,警察からの要請で,搬入された検体のうち,吐物,使用済み発泡スチロール容器,合成樹脂製スプーンを警察に任意提出する一方,その余の検体について検査を開始した。

市保健所は,同日午前10時ころ,和歌山県警が検体から青酸を検出した旨の速報がテレビで放映されたとの情報を得,職員を和歌山県和歌山東警察署に派遣し,患者の吐物から青酸化合物の反応が出たことなどが記載された報道用のメモを入手した。

市保健所は,同日午前10時30分ころ,C医療センターから,入院中のFが血圧低下等の突然の病状変化により死亡したとの連絡を受けた。そこで,市保健所の職員は,関係医療機関に対し,同日午前10時55分ころ,症状の急変が起こり得ること,青酸化合物が検出されたらしいことなどについて,ファックスで緊急に情報を提供し,同日午前11時30分ころ,S情報センターから取り寄せたシアン中毒に関する情報をファックスで送付した。

(ケ) 市保健所の職員らは,平成10年7月27日,医療機関を訪問し,患者の病状,状況等を調査した。

和歌山市衛生研究所が,同日検体を検査したところ,黄色ブドウ球菌,セレウス菌の毒素は検出されなかった。

市保健所は,同年8月2日午後3時58分ころ,和歌山県警察捜査本部から,警察庁科学警察研究所の検査の結果,検体から砒素が検出されたとの連絡を受けた。市保健所の職員は,各医療機関に対し,同日午後4時5分ころ,電話で検体から砒素が検出されたとの連絡をするとともに,S情報センターから砒素についての情報を入手し,それを関係医療機関にファックスで送付するなど,情報を提供した。

イ M病院におけるDに対する診療経過等

(ア) Dは,平成10年7月25日午後6時ころ,夏祭会場で提供されたカレーライスを喫食したところ,気分不良を呈し,同日午後6時40分ころ,帰宅し,原告Eに対し,体調の不良を訴えた。

Dは,その後,原告Eが付き添い,L病院に行ったが,同病院は,既に多数の患者で混雑しており,原告Eは,救急車でM病院に搬送され,同日午後8時55分ころ,同病院に到着し(ただし,救急車の搬送記録には,同日午後9時4分到着と記載されている。),同日午後9時ころ,同病院に入院した。Dの入院時の状態は,顔色不良,嘔吐はなく,腹痛があり,血圧76-40mmHgで低下傾向と認められ,末梢循環不全が認められた。M病院の医師は,Dを食中毒と診断し,点滴等で症状の改善を図るという治療計画を立て,Dに対し,点滴投与を開始した。

(イ) DのM病院入院後の状態は,平成10年7月25日午後9時30分ころには,血圧86mmHg,吐き気はなく,胸のつかえる感じがあると訴えており,同日午後10時ころには,血圧106-50mmHgで吐き気はなく,少し活気が出てきたが,その後,漸次血圧が低下し,同日午後11時ころには,血圧が70-測定不能mmHgとなり,下肢にチアノーゼが発現し,意識は清明であるものの目を閉じており,四肢末梢に冷感を呈するようになったが,吐き気はなく,腹部膨満感が軽度に認められたことから,バルーンカテーテルを挿入したが,尿の流出は認められなかった。Dの翌26日午前0時ころの血圧は,80-50mmHgであったが,そのころから,血圧が低下し,バルーンカテーテルを挿入し直したものの,尿の流出はなかった。

(ウ) Dは,平成10年7月26日午前0時42分ころ,意識が急に低下するとともに痙攣発作を発現し,心室頻拍等を呈し,呼吸が停止した。M病院の医師は,Dに対し,挿管,心マッサージ,強心剤の投与等の蘇生措置を行ったが,Dは,同日午前3時3分ころ,死亡が確認された。

M病院の医師は,Dの死亡直後,Dの死因を黄色ブドウ球菌の産生する毒素エンテロトキシンによるショックであると診断したが,同日中に死因を青酸化合物による中毒に起因する循環不全とする死亡診断書を作成し,同日作成された和歌山県立医科大学法医学教室医師作成の死体検案書にも,死因はシアン中毒と記載された。

後日実施された剖検の結果,Dの血液1グラム中には,1.2マイクログラムの,胃内容物1グラム中には109マイクログラムの,肝臓組織1グラム中には20.4マイクログラムの,左腎臓組織1グラム中には8.3マイクログラムの砒素が含有されていることが確認された。

ウ C医療センターにおけるFに対する診療経過

(ア) Fは,平成10年7月25日午後6時40分ころ,夏祭で提供されたカレーライスを喫食し,遅くともその1時間後までに,嘔吐及び吐き気の症状を呈し,1人だけ重症であったため,同日午後7時33分ころ,C医療センターの集中治療室に救急車で搬送されることとなった。救急隊員は,同日午後7時37分ころ,Fが食中毒の疑いのある患者であり,心肺停止状態で心肺蘇生中であると同センターの救命救急センター着信専用電話に連絡したが,同日午後7時42分ころ,Fは心肺停止状態ではなく,血圧が105mmHgである旨の連絡をした。連絡を受けた看護師は,この情報を同センター初療室で受入準備をしていた関係者に連絡した。

Fは,同日午後7時47分ころ,C医療センターに到着し,救急隊員は,同日の集中治療室の当直医であるPに対し,現場には20ないし30人の食中毒患者がおり,全員が夜店でカレーを食べたと報告した。Pは,救急隊員から,Fが心肺停止の状態にはなく,心肺蘇生措置を受けていないことを確認した。

なお,C医療センターは,F以外にカレーを喫食して食中毒様の症状を呈した患者9名を治療したが,F以外は,治療後軽快して,入院することなく帰宅した。

(イ) Fは,C医療センター到着後初療室に運ばれた直後の状態は,脈拍1分間当たり89回とやや頻脈気味,血圧82-37mmHg(Pは,Fが10代の女性であることから,正常の血圧と判断した。),意識は清明で,心音,呼吸音とも特記事項はなく,瞳孔径は約3ミリメートルと正常で両側とも対光反射が認められた。Pは,右手に静脈ルートを確保した上で,ポタコールR(輸液)の点滴投与を開始した。Fは,このころ,血液ガス分析検査を行うために動脈血を採取された。Pは,Fがこのころ嘔吐したことから,吐物を膿盆で受けた(Pは,その後,この吐物を細菌検査に出した。)後,口腔内吸引を実施し,胃洗浄を排出洗浄液が透明になるまで実施し,併せて,尿道バルーンを留置し,ラシックス(利尿剤)1アンプルを点滴投与して,強制利尿を行い,胃洗浄終了後は,酸素マスクにより,1分間当たり5リットルの割合で酸素を投与した。

Fに対する血液ガス分析の結果は,pHが7.293,HCO3-が19.4,PCO2が40.2,PO2が101.7,B.Eが-6.5,カリウムが2.88であった。なお,Fに対する血液ガス分析検査は,この後,平成10年7月26日午前8時20分ころまで実施されなかった。

Fは,同月25日午後8時30分ころ,救急病室南館2階202号室に入院し,内科当直医(G)が診療を担当することとなった。

(ウ) Fの平成10年7月25日午後8時30分ころの入院時における状態は,体温36.6度,脈拍1分間当たり120回,血圧114-68mmHg,酸素飽和濃度98,意識は清明であり,吐き気と嘔吐がみられ,脱水症状の疑いがあった。Gは,Fがカレーライスを喫食して約1時間後から,急激に激しい吐き気,嘔吐を呈するとともに,腹痛,全身倦怠感が発現し,下痢も呈していた一方,Fが平熱であったこと,カレーライスを喫食した者が同様の症状を呈していたとの情報を得ていたことから,Fが黄色ブドウ球菌による食中毒であると診断し,排泄を促進するため,鎮痙剤ブスコパン(下痢止めの作用がある。)の使用は控え,外来診療時の尿量が200ミリリットルあり,ポタコールRの点滴に反応して血圧が上昇していたことから,ポタコールRの点滴投与が終了する同日午後10時以降,①フィジオ3号(輸液)を500ミリリットル,②ソリタT3(輸液)を500ミリリットル,③フィジオ3号(輸液)を500ミリリットル,④アミカリック(輸液)を500ミリリットルそれぞれ6時間毎に持続点滴で投与することとし(24時間で2リットルの輸液を持続点滴で投与することとなる。),抗生物質ホスミシンSを1日2回2グラム投与することとし,看護師に対し,Fの血圧が60mmHg以下となった場合,医師を呼ぶよう指示した。

看護師のIが,外来診療の際にFに装着されたバルーンカテーテルから,尿200ミリリットルを捨て,入院後の尿量を測定することとした。

Fは,同日午後8時40分ころから下痢を呈し,水様茶色の便がみられたが,腹痛は訴えなかった。

(エ) Gは,原告Aらに対し,平成10年7月25日午後9時ころ,原因は,黄色ブドウ球菌による食中毒と思われ,約1週間程度で退院できると思われる,命に別状はないとの説明をした。

(オ) Fは,平成10年7月25日午後9時30分ころには左下肢に,同日午後10時には右下肢に,こむら返りが発現した。Gは,Fのこむら返りの原因として,脱水に起因する代謝異常による低カルシウム血症の疑いがあったことから,こむら返りが発現した都度,Fに対し,カルシウム剤であるカルチコール5ミリリットルを点滴注射又は静脈注射した。

Pは,Hから,O小児科からの連絡で患児1人に縮瞳が認められるとの情報が入ったので,C医療センターで治療中の患者に縮瞳が見られないか確認されたい旨の照会を受け,同日午後10時ころ,Gに報告した。Gは,そのころ,Fに縮瞳が認められないことを確認した。

(カ) Fの平成10年7月26日午前0時ころの状態は,脈拍が1分間当たり120回,血圧が98-60mmHgであり,下痢は持続していたものの血便は出ていなかった。Fは,このころ,倦怠感はあるものの少し楽になった旨述べていた。

Kが同日午前1時35分ころ訪室した際のFの状態は,血圧が74-40mmHgと低下し,脈拍数が1分間当たり140回であり,嘔吐は消失していた。Kは,Fの血圧が,同日午前0時ころ測定された血圧と比較して低下していることから,準夜勤の看護師のリーダーであったT看護師に報告し,TからGに連絡するよう指示を受け,Gに連絡した。

Fが,同日午前1時40分ころ訪室したIに対し,腹痛を訴えたので,Iは,看護師詰め所にいたGに対し,その旨を報告した。Gは,Iに対し,鎮痛剤ペンタジンを筋肉注射するとの指示をした。Iがペンタジン注射に先立ちFのバイタルサインを測定したところ,脈拍が1分間当たり120回,血圧が70-40mmHg,SPO2が95であったことから,訪室したGに対し,Fの血圧が低い旨の報告をした。Gは,Fに対するペンタジンの筋肉注射を中止し,点滴の投下速度を全開にした。C医療センターに入院した後からこの時点までの間のFの尿量は,200ミリリットルであった(Fの外来受診時から入院までの尿量450ミリリットルと合わせた,C医療センター受診時以降の総尿量は,650ミリリットルであった。)。

(キ) Gが平成10年7月26日午前1時50分ころ訪室した際のFの状態は,脈拍数が1分間当たり120回,血圧が78-46mmHg,SPO2が98であった。そこで,Gは,点滴の速度を落とし,診療録に,「点滴60/mlへ」,「静脈血管より2l/日」と記載したが,この時訪室していた看護師のQは,点滴速度の変更につき看護記録に何らの記載もしなかった(なお,Gがこの時点で点滴の速度をどの程度に落としたかについては,後記(2)イで詳述する。)。また,Gは,このころ,Fに投与する抗生物質をホスミシンSからファーストシン1グラムを生理食塩水100ミリリットルで1日3回静脈注射するように変更し,このころ,Fに対し,ファーストシンを投与した。

Gは,これ以降,同日午前6時ころまでの間,Fの病室を訪室しなかった。

(ク) Fの平成10年7月26日午前2時20分ころの状態は,血圧70-(0)mmHg(丙64,65及び証人Jによれば,拡張期血圧0とは,貧血などにより心拍出量が増加し,血流速度が速くなっている状態では,しばしば発生する状態であることが認められる。),脈拍数1分間当たり120回,酸素飽和度は94であり,ジュースとポカリスエットを飲んだ後,嘔吐をしたものの,下痢は止まっており,腹痛,吐き気の主訴はなかった。

Fの同日午前3時の状態は,血圧74-40mmHg,脈拍1分間当たり120回で,下痢はしていなかった。

Fは,同日午前4時ころ,携帯用トイレに降りようとした際,足が立たなくなってしまったと訴えた。この時のFの血圧は収縮期血圧が70mmHg(拡張期血圧の記載はない。),脈拍数1分間当たり96回,酸素飽和度96であり,名を呼ぶと開眼し,会話はできる状態であり,着用していたおむつに黄白色の水様便が付着していた。

Fの同日午前5時ころの状態は,血圧が66-(0)mmHgであり,Fが吐き気及び便意を訴えることはなかった。

Gが同日午前6時ころにFの診察をした際,Fの意識は清明であり,嘔吐はなく,腹痛,吐き気,便意の訴えもなかった。Fの体温は,36.5度,血圧は60-20mmHg,呼吸数は1分間当たり18回,酸素飽和度は95であり,入院後の総尿量は500ミリリットル(同日午前1時40分ころ以降この時点までの尿量は,50ミリリットル)であり,おむつに透明水様便が付着していた。Fは,やや頭が重いと述べるも,前日よりは少し楽になったと述べ,表情もやや出てきていた一方,ベッド上で座ると,ふらつきが生じ,意識消失様となっていた。Gは,F及び付き添っていた原告Bに対し,ふらつくのは血圧が低いからである旨の説明をした。Gとともに訪室していたJは,このころ,Fにモニターを装着した。同日午前6時49分時点における心電図検査の結果,洞性頻脈とST部の低下(虚血状態を示す。)が認められた。

Fは,同日午前7時50分ころ,Jに対し,C医療センター受診後初めて呼吸困難を訴えた。Fの血圧は,50-20mmHgに低下し,心拍数1分間当たり124,呼吸数1分間当たり28回と頻呼吸の状態となり,酸素飽和度は92と低下した。Jは,Gに連絡するとともに,Fに酸素マスクを装着し,1分間当たり3リットルの酸素投与を実施した。Fは,この時点で吐き気はなく,会話はしっかりできていた。Gは,Fに黄色ブドウ球菌によるエンテロトキシンショックが発生した疑いがあると判断して,Pに連絡を取り,同日午前8時15分,FをC医療センターの集中治療室に収容した。

同日午前8時10分ころ,Fに黄土色の下痢便が認められた。

(ケ) Fは,集中治療室に入室した平成10年7月26日午前8時15分ころの時点では,質問に対しては全て返答していたものの,呼吸苦を強く訴えた。聴診の結果,呼吸音は正常であった。移床の際,Fの全身が薄い赤紫色になっていた。

同日午前8時20分ころ,Fに対し心電図モニターが装着され,洞性頻脈及びST部の低下が認められた。このころ,Fの血圧は測定できない状態となり,四肢末梢にチアノーゼが認められ,酸素飽和度は80ないし90台であり,動脈血液ガス分析の結果は,pHが7.286,PCO2が25.5,PO2が135.5,HCO3-が11.8と代謝性アシドーシスが認められたため,その補正のためにメイロンを側管より投与した。Fのチアノーゼが悪化してきたことから,気管内挿管が実施された。

Fの状態は,同日午前8時30分ころ,チオペンタール及びマスキュラックスを投与しつつ気管内挿管を実施し,マスク換気を行ったことから,換気は良好であったものの,チアノーゼは全身に広がっていた。Fは,気管内挿管時,胃の内容物(緑黄色,水様)を少量嘔吐した。Fは,気管内挿管後,瞳孔が散大し,対光反射もなくなった。気管内挿管後の動脈血液ガス分析の結果は,pHが7.319,PCO2が44.6,PO2が180.6,HCO3-が22.2と換気は良好で,代謝性アシドーシスも改善していた。

Fは,同日午前9時ころ,徐脈を呈した(心拍数が1分間当たり100回から60回になった。)後,心室頻拍が発現した。そのため,心臓マッサージを開始し,同日午前9時6分には,カウンターショックの処置を3回行ったところ,Fの心拍が再開し,血圧も60台になった。しかしながら,Fは,同日午前9時25分ころ,再度徐脈(心拍数1分間当たり20回台)を呈し,心臓マッサージ及びカウンターショックの処置を2回行ったが,血圧が出なかったため,一旦蘇生措置を中止し,Fを家族と面会させることとした。

同日午前9時43分ころ,家族と面会中,Fの心拍がわずかに再開したため,心臓マッサージを再開し,カウンターショックの処置を行ったが,血圧が出ることはなく,同日午前10時10分ころ,蘇生措置を中止し,同日午前10時16分,Fの死亡が確認された。

(コ) Fの死亡時における解剖の結果,全身諸臓器に高度のうっ血が存在した。また,Fに対する剖検の結果,Fの血液1グラム中には1.1マイクログラムの,胃内容物1グラム中には0.6マイクログラムの,肝臓組織1グラム中には12.7マイクログラムの,左腎臓組織1グラム中には5.6マイクログラムの砒素が含有されていたこと,組織検査の結果,Fには腎尿細管壊死の所見は認められない一方,心筋変性が著明に認められた。

(2)ア  前記(1)ウ(エ)ないし(ケ)認定のとおり,Fが入院した後の平成10年7月25日午後9時ころ,Gが原告Aらに対し,Fの病状について説明し,その後,GらC医療センターの医師及び看護師が,Fの治療を継続し,F及びその父母である原告Aらがその治療に対し何らかの異議を述べたことを窺わせるに足りる証拠がないことに照らすと,Fの親権者(父母)であった原告Aらと被告Cとの間には,遅くとも,同日午後9時ころの時点において,Fの診療につき,黙示の診療契約が締結されたものと認められる。

これに対し,被告Cは,Fが救急車でC医療センターに搬送されてきたこと,Fが当時16歳であったことに照らすと,Fと被告Cとの間に診療契約が締結されたものとみることはできず,緊急事務管理が適用され,その結果,被告Cは,悪意又は重過失がない限り,不法行為による損害賠償責任を負わないというべきであると主張する。

しかしながら,被告C主張の上記各事実は,診療の当初において,診療契約が締結されたものではなく,緊急事務管理により診療がされたことを基礎付ける事実とはなり得るものの,前記認定の原告Aらと被告Cとの間の黙示の診療契約の締結を覆すものということはできず,他に前記認定を覆すに足りる証拠はない。

イ  前記(1)ウ(ウ),(カ),(キ)認定のとおり,Gは,平成10年7月26日午前1時40分ころ,Fの血圧が70-40mmHgと低かったことから,点滴の投下速度を全開とし,その10分後の同日午前1時50分ころ,Fの血圧が78-46mmHgと上昇したことから,点滴の投下速度を落としたところ,Gは,その際,「点滴60/mlへ」とFに対する点滴の速度を1時間当たり60ミリリットルに調整したと窺われる記載をしていること,Gが,Fが同月25日午後8時30分ころC医療センターに入院した当初においてGの定めたFに対し24時間で合計2リットルの輸液を持続点滴により投与する(1時間当たり約83.3ミリリットル)という治療計画を,再度前記点滴速度と窺われる記載の右隣の処置欄に記載していることからすれば,Gが,Fの血圧低下に対応して,同日午前1時40分から同日午前1時50分までの間にFに対する点滴速度を全開(丙53,証人Gによれば,概ね30分ないし40分で500ミリリットルの点滴投与がされることになると認められる。)とし,その結果,Fの血圧が再度上昇したことから,当初の治療計画であった24時間で2リットルの輸液を持続点滴で投与するという当初定めた治療計画を再度確認する(証人G)とともに,この計画に実際の点滴投与量を近づけるために,1度は速めた点滴速度を当初計画していた点滴速度よりも若干遅い1時間当たり60ミリリットルに点滴速度を落としたものと推認される。

これに対し,被告Cは,Gが,同日午前1時50分に点滴速度を操作した際,点滴の速度を1時間当たり200ないし250ミリリットルにしたと主張する。そして,証拠(丙1,47,54,61,証人G,同J)中には,被告Cの上記主張に沿うGの証言部分並びにかなり速い速度で点滴が投与されていたとのJの陳述記載及び証言部分,診療録中の「点滴60/mlへ」との記載は意味不明な誤記であるとのGの陳述記載及び証言部分があるとともに,診療録の熱表(丙1の35頁下段)の同日の欄にはソリタT3500,フィジオ3号500,アミカリック500との記載があるところ,この熱表は実際に投与された薬剤を記載するものであり,熱表の同日の記載についても,Jが処方箋(なお,Jは,丙61添付の処方箋は診療録の記載を基にして同日当時の処方箋を再現したものであると証言している。)の記載に基づき,実際にFに投与された輸液をFが集中治療室に入室するころに記載した旨のGの証言部分,Jの陳述記載ないし証言部分があり,さらに,Fに対する治療に関する診療報酬明細書(丙47)には,ソリタT3500ミリリットル,フィジオ3号500ミリリットル及びアミカリック500ミリリットルがFに投与された旨の記載がされているところ,診療報酬明細書は,C医療センター業務課が処方箋の投薬された薬剤の記載に基づき作成されたものであること,薬剤の投与につき,看護師詰め所に置いてある薬剤を取り出し,病室に持ち出して投薬を実施するに当たり,看護師2名が薬剤名を確認して,処方箋にチェック印を付けているとのJの陳述記載及び証言部分が存在する。

(ア) しかしながら,診療録(丙1)上,Gが点滴速度を1時間当たり200ないし250ミリリットルにしたことを窺わせるに足りる記載はない上,被告Cは,当初(平成14年9月10日の本件第8回弁論準備手続期日において陳述された同日付け第3準備書面),Gが点滴の速度を落とした事実はないと主張し,Gの陳述書(平成15年3月14日付け,丙54)にも同旨の記載がされており,Gの平成10年12月28日付け検察官面前調書(甲17)にも,同年7月26日午前1時40分に点滴速度を全開とした後,その速度を落とした旨の供述記載はされていないところ,Gは,平成15年4月15日の本件第2回口頭弁論期日に実施された証人尋問において,点滴の速度を1時間当たり200ないし250ミリリットルに落としたと従前の供述ないし陳述から変遷した証言をするに至り,証言内容が従前の陳述記載から変遷した理由について原告代理人から尋問されたにもかかわらず,明確な回答をしていないことに照らすと,点滴速度を1時間当たり200ないし250ミリリットルに落としたというGの前記証言部分は,信用することができない。また,昭和59年5月に医師免許を取得し,平成3年6月以降U病院(当時の名称)に勤務していた(丙54)経験ある医師のGが,診療録に合理的な理由もなくおよそ無意味な誤記をするとはにわかに考え難く,まして,他の患者に対する診療内容を記載した(丙54)とは到底考え難いから,この点に関するGの陳述記載ないし証言部分も,同様に到底信用することができない。

そして,Fに対する点滴の速度が速かった旨のJの陳述記載及び証言部分も,Jが,Fに対する点滴の交換状況や確認した点滴の速度など診療録に記載されている以外の事項については,覚えていないと証言しているにもかかわらず,同じく診療録ないし看護記録に明確な記載のないFに対する点滴の投下状況に限って詳細に覚えているのは不自然であり,にわかに採用することができない。

(イ) 次に,熱表の平成10年7月26日の欄には,ソリタT3500の記載の下には,午前0時から午前6時までという趣旨の記載が,フィジオ3号500の記載の下には,午前6時から午前12時までという趣旨の記載が,アミカリック500の記載の下には,午前12時から18時(午後6時)までという趣旨の記載がされ,それぞれ線で抹消されたかに見える記載がある。この点につき,Jは,Fが集中治療室に入室した同日午前8時15分ころ,処方箋から熱表に実際に投与した薬剤を転記した際,誤って診療録の医師指示表(丙1の41頁)から処方箋の備考欄に転記されていた各輸液の投与予定時刻を誤って記載したものであり,記載後すぐに気付いて線を引いて抹消したものであると証言するが,平成2年4月以降C医療センターで勤務し,同年5月に看護師免許を取得し,平成10年7月26日の病棟の深夜勤看護師のリーダーとして稼働していた(丙61,証人J)Jが,合理的な理由もなく実際に投与した薬剤を記載すべき熱表欄に実際の投与時刻とは異なりまだ到来していない投与予定時刻を記載するとは考え難いから,前記Jの証言部分はにわかに採用することができない。

そして,たとえ熱表が実際に投与された薬剤を記載すべき欄であったとしても,いまだ到来していない投与予定時刻とともに記載された輸液が現実に全てFに投与されたとみることもできないから,熱表の平成10年7月26日欄の記載もにわかに採用することができない。

(ウ) 最後に,診療報酬明細書(丙47)及び処方箋の記載についてみると,まず,丙61添付の処方箋は,証人Jによれば,診療録の熱表記載をもとにして再現したものであることが認められるところ,前記(イ)説示のとおり,診療録の熱表の記載が採用できないことに照らすと,前記処方箋の記載も採用することはできない。

また,前記(ア),(イ)説示のとおり,Jの陳述記載ないし証言記載はにわかに採用することができない部分が多いこと,丙47が,原告らがGが輸液の量を調節したことの過失を主張した平成14年6月21日の本件第7回弁論準備手続期日の後である同年9月10日の本件第8回弁論準備手続期日において提出されていること,証拠(丙1,47,53,54,証人G)によれば,Pは,FのC医療センター初療時において,500ミリリットルのポタコールRを2本Fに対して点滴投与し(ただし,診療録上は,本数の記載はない。),Fが,平成10年7月26日午前8時15分ころ集中治療室に入室した後に,前記ポタコールRが4本が使用されている(ポタコールRを合計6本使用)ことが認められるにもかかわらず,診療報酬明細書(丙47)にはポタコールは合計5本使用されたとの記載があり,実際のポタコール使用量と齟齬していること,前記(1)ウ(キ)認定のとおり,看護師(Q)が同日午前1時50分にされた点滴速度の変更を看護記録に記載していなかったことからすると,同日の深夜勤務の看護師であるQ及びJは,同日午前1時40分にGがした点滴速度を全開にする措置がその後も継続していたと誤認し,実際の投与時刻よりも早い時刻に輸液を持ち出すなどし,その際,処方箋に輸液を使用した旨の誤った記載をした可能性も否定できないこと,以上の事実関係に照らすと,前記診療報酬明細書の記載もまたにわかに信用することができない。

そして,他に,前記認定を覆すに足りる証拠はない。

2  争点(1)(市保健所の職員らの過失ないし国家賠償法上の違法行為の存否)について

(1)  情報管理の過失の点について

ア 原告らは,市保健所の職員らは,患者が収容された全病院の担当医師らに対し患者らの状態を確認するとともに,遅滞なく食中毒の専門家に意見照会をし,さらには,患者に対し直接聞き取り調査をすべき義務があったにもかかわらず,これらの義務を履行せず,2,3の医療機関に対し電話連絡を入れたのみであり,このような行為は,国家賠償法上違法な任務懈怠である旨主張する。

しかしながら,市保健所の職員らが,医師への照会をしなかったとの点については,これを認めるに足りる証拠はなく,かえって,前記1(1)ア(ウ),ウ(オ)認定のとおり,市保健所の職員らは,平成10年7月25日午後9時30分ころから午後11時30分ころまでの間に患者が搬送された各医療機関に対し概ね3ないし4回にわたり問い合わせを行い,2ないし3回目からは各医療機関の医師から直接事情を聞いており,現に同日午後9時30分ころに入手した患者の縮瞳の情報についての情報を提供しつつ,各医療機関において縮瞳を呈した患者がいないかの照会をしていたのであるから,医師への照会をしなかったとの原告らの主張は理由がない。

また,現に発症して医療機関において治療を受けている患者に対する調査を行うことは,患者に対する治療の妨げとなったり,治療現場を混乱させることとなるおそれが高いのは明らかであり,同日時点において,患者に対する直接の聞き取り調査をしなかったのはむしろ相当であったというべきであり,このような調査をしなかったことをもって,市保健所の職員らに国家賠償法上違法な任務懈怠があったということはできない。

さらに,原告らの主張する食中毒の専門家の意義が明らかでないことは措くとしても,患者を担当している医師に照会すれば,患者の現在の症状,検査所見及びこれらから推測される原因については,通常の場合,相当程度明らかになるし,原因食材の喫食状況についても,患者の家族や患者自身から事情を聞いた医師らから確認をとることは,通常の場合,十分可能であるから,市保健所の職員らにおいて,食中毒の専門家に意見照会をしなかったことが,国家賠償法上違法となるような任務の懈怠であるということはできない。

イ 原告らは,市保健所の職員らが平成10年7月26日午前0時以降,何ら情報収集を行っていなかったのは,国家賠償法上違法な任務懈怠である旨主張する。

しかしながら,同日午前0時ころから同日午前3時ころまでの間については,市保健所の職員らが何ら情報収集を行っていなかったとの原告らの主張を認めるに足りる証拠はなく,かえって,前記1(1)ア(オ)認定のとおり,Hは,新聞記者から入手した和歌山県立医科大学附属病院の医師が警察に対し患者の症状が毒物によるものである疑いがあると連絡したとの情報に基づき,同医師に電話で問い合わせ,同医師から患者の血中にリンが多く出たので一応警察に届けたとの回答を受けたのに対し,現時点において他の医療機関から食中毒以外の情報が入っていないこと及び患者が搬送された12の医療機関全部から患者らに縮瞳は認められなかったとの回答を得たとの情報を伝えているのであり,市職員らが同日午前0時ころから同日午前3時ころまでの間,情報収集を行っていなかったとみることはできない。

他方,前記1(1)ア(キ),(ク)認定のとおり,市保健所の職員らは,同日午前3時ころに一度解散となり,それ以降R病院から患者が死亡したとの連絡を受けるまでの間,特段の情報収集活動を行ってはいなかったと推認される。

しかしながら,証拠(乙2,証人H)によれば,市保健所の職員が不在のときに市保健所に電話がされた場合,緊急の場合は和歌山市役所の宿直の警備員に架電するよう案内する旨のカセットテープが流され,同市役所の宿直に架電された場合,宿直から市保健所の生活衛生課長又は生活衛生班長に連絡されることとなっていたことが認められる。これに,前記1(1)ア(エ),(カ),(キ)認定のとおり,市保健所の職員らは,同月25日午後11時30分ころ以降,患者が搬送された12の医療機関に対し電話で問い合わせを行い,①重症者はいない,②原因は食中毒と思われる,③一部医療機関からは食中毒にしては嘔吐の発現が早いとの情報を入手し,翌26日午前1時ころ,前記のとおり,和歌山県立医科大学附属病院で治療を受けている患者の血中からリンが多く検出されたとの情報を入手した以降,医療機関等から特に新しい情報が入ってくることはなく,同日午前3時ころの時点では,状況が比較的安定していたということができることを併せると,同日午前3時の時点において,患者らに重症者がいるとの連絡はなく,状況が安定しており,事態が急変する蓋然性はそれほど高くなかった上,市保健所の職員が帰宅して不在となった場合でも,緊急の場合,同市役所経由での連絡方法が存在していたことに照らすと,市保健所の職員らを,同日午前3時の時点で一旦解散させ,帰宅させたHの措置が,国家賠償法上違法であるとまではいえないというべきである。

(2)  情報分析の過失の点について

原告らは,①L病院の医師が食中毒にしては反応が早すぎる旨指摘していたこと,②Hが医師からカレーを食べた直後や食後5分程度での発症と早く,抗生物質を入れているがそれでよいのかという治療についての相談を受けたこと,③Nの報告書には,嘔吐の発現はほとんど5分以内であったが,30分以後に発症したものもいたとの記載があることから,市保健所の職員らは,患者の大半がカレー喫食後5分以内に発症していたという細菌性の食中毒事故と整合しない事実を認識していたにもかかわらず,毒物中毒の可能性を探るような活動を何ら行わなかったのは,国家賠償法上違法な任務の懈怠である旨主張する。

しかしながら,前記1(1)ア(ウ)認定のとおり,L病院の医師の指摘は,症状としては嘔吐が多く,潜伏時間が非常に短いようにも思われるが,食中毒が原因であろうというものであり,細菌性の食中毒を否定する趣旨のものではないこと,Hが医師から受けた質問は,患者の症状は黄色ブドウ球菌によるものと思われるが,同菌の産生するトキシンに対し抗生物質を投与して良いかというものであること(乙1中の雑誌「公衆衛生情報」の写し中には,原告ら主張に沿うHへの会見記事が掲載されているが,証人Hによれば,Hは,この会見の際,資料を見ることなく回答したことが認められることに照らすと,その記載内容はにわかに採用することができない。)に照らすと,原告ら主張のうち,前記①,②の点は,細菌性の食中毒事故と整合しない事実とまではいえない。また,甲8及び弁論の全趣旨によれば,Nの報告書は,和歌山カレー毒物混入事件発生後相当期間が経過した後に作成されたものであることが認められるから,この報告書をもって,平成10年7月25日ないし同月26日当時において,市保健所の職員らが食中毒事故と整合しない事実を認識していたということはできない。したがって,原告らの主張は,その前提を欠くものというほかない。

また,市保健所の職員らが,毒物中毒の可能性を探るような活動を行わなかったことを認めるに足りる証拠はなく,かえって,前記1(1)ア(ウ)認定のとおり,市保健所の職員らは,同月25日午後9時35分ころ,患者の1人に縮瞳が見られたとの情報を得て,各医療機関に対し,患者に縮瞳が見られないかを確認するよう照会していることに照らすと,市保健所の職員らにおいて,縮瞳の原因となり得る有機リン系の農薬による集団中毒の発生の可能性も視野に入れて情報収集を行っていたことが容易に推認される。

よって,原告らの主張は,いずれにしても採用することができない。

(3)  原因究明の懈怠の点について

原告らは,市保健所の職員らが,原因食材の可能性が高いカレー及び被害者らの吐物を検体として採取したにもかかわらず,それを直ちに検査しなかったことは国家賠償法上違法な任務の懈怠であると主張する。

しかしながら,前記1(1)ア(カ)認定のとおり,市保健所の職員は,平成10年7月26日午前3時30分ころ,食品衛生監視員が採取した検体及び警察官から預かった牛肉を,検査のため,和歌山市衛生研究所に搬入したところ,証拠(乙1,証人H)及び弁論の全趣旨によれば,平成10年7月当時,同市衛生研究所には細菌学的検査を行う設備しか設置されていなかったこと,平成10年当時,全国の地方衛生研究所の2割程度にしか質量分析機能のついた高速液クロマトグラフは設置されておらず,食中毒事故の原因となった化学物質を探索することは困難な状況にあったこと,殊に未知の原因物質を探索することは,臨床症状から原因物質を絞り込んで探索するのかしらみつぶしに分析をするかといった方法の選択など困難な問題があることが認められ,これに,前記1(1)ア(ク),(ケ)認定のとおり,同市衛生研究所は,同月26日午前8時40分ころ,警察に検体の一部を任意提出し,警察庁科学警察研究所がその検体から砒素を検出し,市保健所に連絡したのはその1週間後の同年8月2日であったことを併せると,仮に食品衛生監視員が検体を収集した同年7月25日午後8時30分ころの時点で,直ちに分析を開始したとしても,市保健所及び同市衛生研究所の施設(さらには国内の約8割に相当する地方衛生研究所においても)では,和歌山カレー毒物混入事件の原因物質である砒素化合物を検出することは不可能であった上,仮に警察庁科学警察研究所と同等の設備を有していたとしても,原因物質の特定に1週間程度要すると推認されるから,市保健所の職員ら及び同市衛生研究所の職員らにおいて,同日ないし翌日中といった短期間に,同事件の原因物質を究明し特定することは不可能であったといわざるを得ない。

したがって,原告らの主張は,およそ不可能な原因究明調査を行う義務を市保健所の職員らに課すこととなり,採用することができない。

(4)  情報提供ないし情報開示の過失の点について

(ア) 原告らは,市保健所の職員らが,平成10年7月25日午後9時35分ころ,O小児科から,患者に縮瞳が見られたという薬物中毒を裏付ける情報を入手し,また,同月26日午前1時ころには,患者の血液中からリンが多く出たとの薬物中毒を裏付ける情報を得たにもかかわらず,これらの情報を各医療機関に提供しなかったことが,国家賠償法上違法な任務の懈怠であると主張する。

しかしながら,市保健所の職員らが患者に縮瞳が見られたという情報を患者が搬送された医療機関に提供しなかったことを認めるに足りる証拠はなく,かえって,前記1(1)ウ(オ)認定のとおり,Hは,C医療センターの医師であるPに対し,O小児科からの連絡で患児1人に縮瞳が認められるとの情報が入ったので,同センターで治療中の患者に縮瞳が見られないか確認をするよう依頼していることからすれば,前記1(1)ア(ウ)認定のとおり,市保健所の職員らが患者が搬送された他の医療機関に対し,縮瞳の認められる患者の有無を照会した際,縮瞳の見られる患者がいたとの情報を前記医療機関に提供したと推認されるから,患者に縮瞳が見られたという情報を各医療機関に提供しなかったとの原告らの主張は採用することができない。

他方,前記1(1)ア(オ)認定のとおり,Hは,患者の血中からリンが多く出たとの情報に対し,その情報源である和歌山県立医科大学附属病院の医師に連絡し,その真偽を確かめるとともに,他の医療機関から食中毒以外の情報は入っていないこと,患者が搬送された12の医療機関全部から,患者には有機リン系の毒物中毒に特有の症状である縮瞳が認められなかったとの回答を得たことを伝えてはいるものの,市保健所の職員らは,患者の血中からリンが多く出たとの情報を他の医療機関には伝えていない。しかしながら,証拠(乙9,丙16,30,証人H)及び弁論の全趣旨によれば,その理由は,有機リン系の農薬中毒の場合,患者に縮瞳が発現するところ,前記のとおり,12の医療機関に搬送された全患者につき縮瞳が認められなかったことに照らし,原因物質が有機リン系の毒物である可能性が極めて低く,他の医療機関に提供すべき情報とはいえなかったからであることが認められ,このような経緯に照らすと,市保健所の職員らにおいて,患者の血液中からリンが多く検出されたとの情報を提供しなかったとしても,国家賠償法上違法と評価される職務の懈怠があったということはできない。

(イ) 原告らは,市保健所の職員らは,和歌山カレー毒物混入事件が,カレーの喫食から発症までの時間的間隔が短いという細菌性の食中毒であることと整合しない情報や患者に縮瞳が見られた,患者の血液中からリンが多く検出されたといった情報を得ていたことに照らすと,同事件の発生原因として毒物中毒の可能性があることを考慮して,同事件が細菌性の食中毒であると誤解を与えるような広報活動をすべきではなかったにもかかわらず,Hら市保健所の幹部職員らは,本件記者会見において,同事件が細菌性の食中毒でることを印象付ける誤った情報を開示すると同時に,患者に縮瞳が見られたという報告はどの病院からもなかったとの虚偽の情報を一般に開示し,患者の治療に当たっていた医師らに誤った情報を与えたのは,国家賠償法上違法であると主張する。

しかしながら,前記1(1)ア(エ)認定のとおり,本件記者会見の内容は,「食中毒様症状の発生について」という表題で,原因食品及び病因物質は調査中であり,現時点においては原因を確定することはできないというものであり,専門家である医師において患者の発症の原因が細菌性の食中毒であると誤信したり誤信を強めたりするとは到底考えられない(なお,Gは,Fの治療中において,本件記者会見の内容を認識していなかった《証人G》。)。したがって,本件記者会見により,医師に誤った情報が与えられたとする原告らの主張は採用することができない。

また,前記1(1)ア(ウ)ないし(オ)認定のとおり,市保健所の職員らの照会の結果,患者が搬送された12の医療機関全てにおいて,患者に縮瞳が見られなかったとの報告がされたこと,本件記者会見に先立ち再度各医療機関に確認をしたところ,一部医療機関から嘔吐の発現が早すぎる旨の指摘はあったものの,原因は細菌性の食中毒と考えられるとの回答を得ていたこと,患者の血液中からリンが多く検出されたとの情報は,本件記者会見後の平成10年7月26日午前1時ころに得られたものであることに照らすと,本件記者会見がされた時点において,患者の発症の原因が細菌性の食中毒であると判断することが誤りであったということはできず,また,患者の縮瞳が否定されたと発表しても誤りであったということはできない。

さらに,そのような状況においても,前記1(1)ア(エ)認定のとおり,Hらは,本件記者会見において,食中毒様症状であり,原因物質,病因物質は調査中であり,原因を現時点で確定することはできない,反応が早いので,食中毒であるとすれば,原因は加熱に強い黄色ブドウ球菌の毒素であると考えられる,99パーセント食中毒であると考えられるが,1パーセントは食中毒であることに納得していないと,細菌性の食中毒であると断定した発表は行っていないことからすれば,本件記者会見におけるHらの発表内容に国家賠償法上違法と評価できるような誤りがあったとはいえない。

以上によれば,原告らの前記主張は,いずれにしても理由がない。

(5)  専門機関又は上級機関との連携の欠如の点について

原告らは,市保健所の所長であるHが,事故発生を探知した後速やかに都道府県,政令市衛生局等の上級機関に報告し,その後調査等により状況が判明するに応じて適宜報告を追加訂正する義務があり,かつ,和歌山カレー毒物混入事件(被害者数67人)のように被害者が50人を超えると思料される場合には,厚生省(当時)生活衛生局長に対し,事故について報告する義務があったにもかかわらず,事態が収束したと即断し,平成10年7月26日午前3時ころ,職員らを帰宅させ,M病院から同日午前4時4分ころファックスで送付された患者(D)死亡の情報を放置したのは,国家賠償法上違法な職務の懈怠である旨主張する。

しかしながら,専門機関ないし上級機関との連携を欠いたとの点は,食品衛生法等の法令に違反する余地はあるとしても,それが直ちに,原告ら,D又はFとの関係において,国家賠償法上違法なものに当たるものということはできない。

また,Hが同日午前3時ころ,職員らを帰宅させた点については,前記(1)イ説示のとおり,その時点において,状況が安定していたことや市保健所の職員らが帰宅した場合でも,緊急の場合,和歌山市役所の宿直の警備員を経由して,連絡を取ることが可能であったことに照らすと,国家賠償法上違法とまではいえないといわざるを得ない。

なお,証拠(甲5,証人H)及び弁論の全趣旨によれば,M病院からファックスで送付されたD死亡の情報の内容は,黄色ブドウ球菌によるエンテロトキシンショックにより死亡者が発生したというものであることが認められるところ,上記情報では,患者の身体状況等が明らかとなっておらず,仮にこのような情報を各医療機関に提供したとしても,それにより,各医療機関の医師における個々の患者に対する治療法に影響を及ぼすとは考え難いといわざるを得ない上,前記認定のとおり,カレーに混入されていた毒物が砒素化合物であることからすれば,Dがエンテロトキシンショックにより死亡したとの情報は,結果的に誤った情報であるというほかない。

したがって,D死亡の情報が結果として各医療機関に送付されるのが遅れたとしても,前記Hの対応が国家賠償法上違法ではないとの前記認定判断を覆すことはないというべきである。

(6)  小括

以上のとおり,被告市が設置する市保健所の職員らに原告らが主張するような国家賠償法上違法というべき任務の懈怠ないし過失は認められないから,その余の点について判断するまでもなく,原告らの被告市に対する請求はいずれも理由がない。

3  争点(3)(被告Cの担当医師の過失の存否)について

(1)  血圧及び脈拍の管理に関する過失について

ア 証拠(甲10,15,丙50,証人G)及び弁論の全趣旨によれば,1分間当たりの脈拍数が,収縮期血圧(最高血圧)の数値を上回る状態が継続するのは,そのことにより直ちにショック状態ないしその疑いがあるといえるかは措くとしても(この点については,後記(2)において詳述する。),身体に悪影響を及ぼすことから,収縮期血圧を1分間当たりの脈拍数よりも大きな数値となるよう補正すなわち血圧を上昇させる措置をとる必要があること,輸液を点滴投与することが,血圧を上昇させる方法の1つであること,輸液を点滴投与したにもかかわらず,血圧が上昇しない場合には,患者の全身状態を診察した上で,点滴投与する輸液の量を増加させるなど血圧を上昇させるための方策を考える必要があることが認められる。

これを本件についてみると,前記1(1)ウ(カ)ないし(ク)認定のとおり,Fの収縮期血圧及び1分間当たりの脈拍数の関係は,平成10年7月26日午前0時ころには,収縮期血圧が98mmHgであるのに対し,1分間当たりの脈拍数が120回,同日午前1時35分ころには,収縮期血圧が74mmHgであるのに対し,1分間当たりの脈拍数が140回,同日午前1時40分ころには,収縮期血圧が70mmHgであるのに対し,1分間当たりの脈拍数が120回,同日午前1時50分ころには,収縮期血圧が78mmHgであるのに対し,1分間当たりの脈拍数が120回,同日午前2時20分ころには,収縮期血圧が70mmHgであるのに対し,1分間当たりの脈拍数が120回,同日午前3時ころには,収縮期血圧74mmHgであるのに対し,1分間当たりの脈拍数が120回,同日午前4時ころには,収縮期血圧が70mmHgであるのに対し,1分間当たりの脈拍数が96回,同日午前7時50分ころには,収縮期血圧50mmHgであるのに対し,1分間当たりの脈拍数が124回と,ほぼ一貫して1分間当たりの脈拍数が収縮期血圧の数値を上回る状態にあったから,Fの診療を担当していたGは,Fの血圧を上昇させるのに必要な量の輸液を点滴し,それでも血圧が上昇しない場合には,Fの血圧を上昇させるための何らかの手段を講ずるべき注意義務があったというべきである。

しかしながら,前記1(1)ウ(カ)ないし(ケ),(2)イ認定のとおり,Gは,同日午前1時40分ころ,Fの血圧が70-40mmHgと低下したことから,Fに対して行っていた点滴投与の速度を1時間当たり約83.3ミリリットルから全開(30分ないし40分で500ミリリットルであるから,1時間当たりにすると750ないし1000ミリリットルとなる。)に速めたものの,同日午前1時50分ころ,Fの血圧が78-46mmHgと上昇したことから,点滴投与の速度を1時間当たり60ミリリットルに落とし,その後,同日午前6時ころまでの間,Fの病室を訪室することなく,そのままの速度で輸液の点滴投与を継続させ,同日午前6時ころにFの病室を訪問した後も,特に点滴の量を調整することなく,同日午前8時15分ころにFが集中治療室に入室するまでの間,前記の速度のまま点滴投与を継続させることにより,Fの血圧を上昇させるための十分な措置をとらず,Fをして,1分間当たりの脈拍数が,収縮期血圧(最高血圧)の数値を上回る状態が継続させ,Fの身体に悪影響を及ぼした過失があるというべきである。

イ(ア) 被告Cは,Gが,平成10年7月26日午前1時50分ころ,Fに対する輸液の点滴の速度を1時間当たり200ないし250ミリリットルに落としたことを前提として,GのFに対する輸液の量は,不適切なものではないと主張するが,前記1(2)イの認定に反し,その前提を欠くものというほかなく,採用することができない。

(イ) 被告Cは,輸液量が不足して脱水症状が進行している場合には,血清ナトリウム値が濃縮されて高値となるとともに血液濃縮によりヘマトクリット値が上昇すべきところ,Fが平成10年7月26日午前8時15分ころに集中治療室に入室した際の血清ナトリウム値は137(正常値135以上150以下)と正常であり,ヘマトクリット値は46.7パーセントと正常であるし,Fの剖検の結果をみると,Fに腎尿細管壊死の所見はないから,脱水症状ないし血管内水分量の喪失による循環血液量の低下は進行しておらず,輸液量は十分であったから,Gに過失はないと主張し,証拠(丙54,証人G)中には,前記主張に沿うGの陳述記載及び証言部分がある。そして,前記1(1)ウ(コ)認定のとおり,Fの剖検結果には,腎尿細管壊死の所見は認められない。

しかしながら,丙48によれば,生体から主として水分が失われた場合,血清ナトリウム濃度が上昇し,逆に,水の欠乏量相当以上にナトリウムが失われた場合に血清ナトリウム濃度が減少する一方,検査上ヘマトクリット値が上昇することが認められ,これによれば,水分と同時に相当量のナトリウムが失われた場合には,血清ナトリウム濃度及びヘマトクリット値に大きな変動は生じないと推認されるから,Fが集中治療室に入室した際の血清ナトリウム値及びヘマトクリット値が正常範囲内にあったとしても,直ちにFが脱水症状になかったということはできない。また,証拠(丙46,証人G)及び弁論の全趣旨によれば,砒素中毒に罹患した場合,腎尿細管壊死は,血管内水分量の喪失による循環血液量の低下により2次的に生ずることが認められ,これによれば,循環血液量の低下と腎尿細管壊死との間には,時間的な離隔があるということができるから,Fに腎尿細管壊死の所見が認められないからといって,直ちにFが脱水症状にはなく,輸液量が適正であったということはできないといわざるを得ない。

そして,G自身が,Fの症状からすれば,1時間当たり60ミリリットルの点滴投与量では不足していたことを自認している(証人G)こと,前記1(1)ウのとおり,同日午前1時40分ころ以降同日午前6時ころまでの約4時間20分間のFの尿量が50ミリリットルと少ないこと(詳細は,後記(ウ)で詳述する。)に照らすと,輸液量は適正であり,GにFの血圧ないし脈拍の管理に関して過失がなかったとする被告Cの主張は採用することができない。

(ウ) 被告Cは,1日の尿量が400ミリリットル以下の状態を乏尿というべきところ,Fが平成10年7月26日午前7時50分ころまでショック状態ではなかったから,重症ショック状態におけるように1時間当たりの尿量ではなく,6時間尿量,12時間尿量,1日尿量が目安とされるべきであるということを前提として,FのC医療センターに搬送された同月25日午後7時47分ころから同月26日午前6時ころまでの約10時間の尿量は,700ミリリットルであり,乏尿の状態であったとはいえず,Fに対する輸液管理による水分バランスは保たれているから,Fの脈拍及び血圧の管理に当たり,Gに過失はなかったと主張する。そして,丙70には,前記被告Cの主張に沿うC医療センター第3外科部長兼救急部副部長Vの意見記載があり,丙66によれば,健康な成人女子の24時間の平均尿量は1200ミリリットルであり,尿量が1日当たり400ミリリットル以下に減少した状態を乏尿と,1日当たりの尿量が100ミリリットル以下の状態を無尿といい,いずれも腎機能が急激に低下した急性腎不全のときに現れる症状であることが認められる。

しかしながら,Vの前記意見記載を裏付けるに足りる客観的な証拠はない上,後記(2)説示のとおり,Fは遅くとも同日午前1時50分ころの時点において,中等症以上のショック状態にあった疑いがあると認められるから,被告Cの主張ないしVの前記意見記載を前提としても,6時間ないし24時間当たりの尿量を基礎としてFの状態を診断するのは相当ではないといわざるを得ない。そして前記1(1)ウ(カ),(ク)認定のとおり,Fの尿量が,同月25日午後8時30分ころから同月26日午前1時40分ころまでの約5時間10分間では450ミリリットル(1時間当たりの尿量は,約87ミリリットルであり,1日当たりの尿量に換算すると約2088ミリリットルである。)であった一方,同日午前1時40分ころから同日午前6時ころまでの約4時間20分間では50ミリリットル(1時間当たりの尿量は約11.5ミリリットルであり,1日当たりの尿量に換算すると約276ミリリットルである。)と尿量が減少し,1時間当たりの尿量からすれば乏尿の状態にあったこと,Fの下痢,嘔吐の状態は,カレーライス喫食の約1時間後から継続しており,下痢及び嘔吐の症状が同日午前1時40分ころの前後で大きく変化したとは窺われず(弁論の全趣旨),Fの乏尿状態の原因が下痢や嘔吐であるとはいえないことに照らすと,Fに対し輸液管理により水分バランスが保たれていたとはいえないから,Fの血圧ないし脈拍管理に当たり,Gに過失がなかったとする被告Cの主張は採用することができない。

(エ) 被告Cは,Fは,1分間当たりの脈拍数が120回ないし140回と頻拍傾向にあったものの1分間当たり150回以上の病的な頻脈ではなかったこと,食中毒事故の患者の場合,入院治療,嘔気,嘔吐,下痢症状などによる心理的圧迫に起因する交感神経の緊張によって脈拍が早くなることがあることに照らすと,Fが頻脈状態にあったからといって,直ちにGにおいて,Fの脈拍ないし血圧の管理に当たり過失があったということはできないと主張する。そして,丙70には,前記主張に沿うVの意見記載がある。

しかしながら,前記ア説示のとおり,Fの1分間当たりの脈拍数が収縮期血圧を超えているのを補正する必要がある以上,Fの頻脈状態が病的であったか,Fの頻脈状態に交感神経の緊張の影響があったかという点は問題ではないといわざるを得ない(このことは,前記1(1)ウ(カ)認定のとおり,GがFの血圧低下に対し,点滴速度を全開とし,Fの血圧を上昇させようとしたことからも明らかである。)。したがって,被告Cの前記主張は,採用することができない。

(オ) 被告Cは,FのC医療センターにおける初療時の血圧が,82-37mmHgであったところ,Fのような10代の女性の場合,平時において,収縮期血圧が80ないし90mmHg台ということは珍しいことではないこと,ショック状態の診断においては,収縮期血圧110mmHg以下の場合には,20mmHg以上の血圧下降を血圧低下の基準とすることから,Fの平時の収縮期血圧を初療時の82mmHgとみて,ここから約20mmHg低下した60mmHg以下となった段階で,医師を呼ぶよう指示したGの措置は誤りではないと主張し,Gが,平成10年7月26日午前1時50分ころにFの診察をした後,同日午前6時ころまでの間,Fの状態を観察しなかったことに過失はないかのような主張をする。そして,証拠(丙51,53,54,61,70,証人G)中には,被告Cの主張に沿う部分が存在する。

しかしながら,前記1(1)ウ(ア)認定のとおり,救急隊員から,FがC医療センターに搬送される際の平成10年7月25日午後7時42分ころ,Fの収縮期血圧が105mmHgであった旨の連絡がされていることに照らすと,Fの平時の収縮期血圧を82mmHg前後とみることに合理性があるかどうかは疑問がある上,前記1(1)ウ(カ),(キ)認定のとおり,Fの血圧が,翌26日午前0時ころには98-60mmHgであったのが,同日午前1時35分ころには74-40mmHgと収縮期血圧において20mmHg以上低下し,同日午前1時40分ころにおいては,70-40mmHgと収縮期血圧がさらに低下しており,Gが,点滴投与の速度を全開とした後の同日午前1時50分ころにおいても,78-46mmHgと同日午前0時ころと比べると,収縮期血圧において20mmHg低下した状態にあったこと,同日午前1時35分の時点でKが,同日午前1時40分の時点でIが,それぞれGに対し,Fの血圧が低い旨報告していたこと,同日午前1時40分の時点において,G自身がFに対する点滴の速度を全開としたことに照らすと,遅くとも,同日午前1時50分以降においては,Fの収縮期血圧が60mmHgに至るまでは医師に対する報告が不要であるとした措置は合理性を失っていたと推認されるから,この措置が適切であることを前提として,同日午前6時ころまで,Fの状態を自ら観察しなかったGにおいて,Fの血圧及び脈拍の管理について過失があったといわざるを得ず,被告Cの前記主張は採用することができない。

(2)  ショック状態の管理に関する過失について

ア 証拠(甲10,15,丙32,49ないし51,67,70,証人G)及び弁論の全趣旨によれば,ショックにつき以下の事実が認められる。

(ア) ショックとは,心拍出量の低下又は血管の虚脱のため,生体が代謝機構を動員しても,重要臓器に十分な血流が得られず,次第に生体機能が悪化して,重要臓器に不可逆的変化を生ずる状態のことであり,臨床症状として,低血圧,頻脈,皮膚の蒼白,発汗,末梢のチアノーゼ,過呼吸,意識障害,乏尿がみられる。

(イ) ショックは,原因によって分類されているところ,循環血液量減少を原因とする血液量減少性ショックないし乏血性ショックとは,出血,火傷,下痢等により血液,血漿成分,細胞外液の急速な喪失が起こり,血管内容量が減少して,心拍出量が保てず,急激な循環不全に陥った場合を指し,出血性ショックがその典型例である。

(ウ) 血液量減少性ショックの診断基準として広く利用されているショックスコアは,収縮期血圧(100mmHg以上なら0点,80mmHg以上100mmHg未満なら1点,60mmHg以上80mmHg未満なら2点,60mmHg未満なら3点),1分間当たりの脈拍数(100回以下なら0点,100回を超え120回以下なら1点,120回を超え140回以下なら2点,140回を超えれば3点),過剰塩基(以下「BE」という。マイナス5以上プラス5以下なら0点,プラスマイナス5を超えてプラスマイナス10以下なら1点,プラスマイナス10を超えてプラスマイナス15以下なら2点,プラスマイナス15を超えれば3点),1時間当たりの尿量(50ミリリットル以上なら0点,25ミリリットル以上50ミリリットル未満なら1点,0ミリリットルを超えて25ミリリットル未満であれば2点,0ミリリットルであれば3点),意識状態(清明なら0点,興奮による軽度の応答の遅延があれば1点,著明な応答の遅延があれば2点,昏睡状態なら3点)の点数の合計が,0ないし4点であれば非ショック,5ないし10点であれば軽症及び中等症ショック,11点以上であれば重症ショックであるとするものである。なお,ショックの診断基準においては,血圧低下は必須の条件となっており,一般的には,収縮期血圧90mmHg以下をショック診断の基準としているものの,平時の収縮期血圧が150mmHg以上の高血圧患者では短時間のうちに60mmHg以上の血圧降下を,平時の収縮期血圧が110mmHg以下の場合は,20mmHg以上の血圧下降を血圧低下の基準とするものとされている。

心機能の荒廃がみられないショック発生初期においては,ショックの診断基準ないし重症度の評価方法として,ショックスコアのほか,1分間当たりの脈拍数を収縮期血圧で除した指数でみるショック指数も用いられており,指数が1ないし1.5であれば中等症のショック,1.5ないし2であれば重症のショックであるとされる。

(エ) 血液量減少性ショックに対する治療は,それが出血性ショックであれば輸血が,重篤な下痢による体液量の減少であるときは,輸液によるとされている。

イ 前記1(1)ウ(カ)ないし(ク)認定のFの状態に前記ア(ウ)のショックの各診断基準を適用する(Fが,以下の時間帯において,心機能の荒廃を呈していたことを認めるに足りる証拠はない。)と,Fの平時の血圧は明らかではないものの,平成10年7月26日午前0時ころの収縮期血圧98mmHgと比較すると,同日午前1時35分以降の収縮期血圧は,いずれも20mmHg以上低下した数値であり(被告Cは,F初療時の収縮期血圧82mmHgを平時のものとみても問題ない旨主張するが,前記(1)イ(オ)説示のとおり,採用することができない。),同日午前1時40分ころにおいては,収縮期血圧70mmHg(2点),1分間当たりの脈拍数120回(1点),意識清明(0点),尿量はF入院後この時点までの尿量450ミリリットル(1時間当たり平均約87ミリリットル)を基礎とすると(0点),BEの値が明らかでないものの,ショックスコアによれば,3点以上ということになり,BEの値次第で,非ショック又は軽度ないし中等度のショックと診断される一方,ショック指数によれば,120÷70≒1.7となり,重症のショックであると診断され,同日午前1時50分ころにおいては,収縮期血圧78mmHg(2点),1分間当たりの脈拍数120回(1点),意識清明(0点),尿量は明らかではないが,同日午前1時40分ころ以降同日午前6時ころまでの尿量50ミリリットルを前提とすれば1時間当たりの平均約11.5ミリリットル(2点),ショックスコアによれば,5点以上ということとなり,BEの値に関係なく軽症ないし中等症のショック状態と診断される可能性がある一方,ショック指数によれば,120÷78≒1.5と中等症ないし重症のショック状態にあると診断され,同日午前2時20分ころにおいては,収縮期血圧70mmHg(2点),1分間当たりの脈拍数120回(1点),意識清明(0点,ただし,以下の時間帯における診療録及び看護記録の記載中,Fの意識状態について触れられたものは存在しない。),尿量は前記のとおり同日午前1時40分ころ以降同日午前6時ころまでの尿量50ミリリットルの平均を前提とすれば1時間当たり約11.5ミリリットル(2点),ショックスコアによれば,5点以上となり,BEの値に関係なく軽症ないし中等症のショック状態と診断される可能性がある一方,ショック指数によれば,120÷70≒1.7と重症のショック状態にあると診断され,同日午前3時ころにおいては,収縮期血圧74mmHg(2点),1分間当たりの脈拍数120回(1点),意識清明(0点),尿量は前記のとおりとすれば1時間当たり約11.5ミリリットル(2点),ショックスコアによれば5点以上となり,BEの値に関係なく,軽症ないし中等症のショック状態にあると診断される一方,ショック指数によれば,120÷74≒1.6と重症のショック状態にあると診断され,同日午前4時ころにおいては,収縮期血圧70mmHg(2点),1分間当たりの脈拍数96回(0点),意識清明(0点),尿量は前記のとおりとすれば1時間当たり約11.5ミリリットル(2点),ショックスコアによれば,4点以上となり,BEの値次第で非ショック又は軽症ないし中等症のショック状態と診断される一方,ショック指数によれば,96÷37≒1.4と中等症のショック状態にあると診断されることとなる。

以上によれば,Fは,遅くとも同日午前1時40分以降ショックスコアによれば,非ショックと診断される可能性もある一方,前記(1)イ(ウ)説示のとおり,これ以降尿量が減少することから,軽症ないし中等症のショック状態にある疑いが高まるということができる一方,ショック指数によれば,同日午前1時40分以降一貫して中等症ないし重症のショック状態にあったと診断されるから,Fは,遅くとも同日午前1時50分以降においては,中等症以上のショック状態にあった疑いが強く存在するというべきである。

したがって,Fの診察を担当する医師としては,血液ガス分析検査によりBEの値を明らかにする(丙1)などして,Fがショック状態にあるかどうかを厳密に診断し,Fがショック状態にあると診断されれば,輸液の点滴量を増加させるなどショック状態の解消のために必要な治療をすべき注意義務があったというべきである。

しかるに,前記1(1)ウ(イ),(キ)ないし(ケ),(2)イ認定のとおり,Gは,同日午前1時50分ころ,Fに対する輸液の点滴速度を1時間当たり60ミリリットルにまで落として輸液の量を減らした上,同日午前6時ころまで,Fの病室を訪れることなく放置し,その後もFが集中治療室に入室する同日午前8時15分ころまで,血液ガス分析検査を行わず,点滴の量も増加させなかったのであるから,Fが中等症以上のショック状態に陥っている疑いがあるにもかかわらず,これを管理することなく放置した過失があるというべきである。

ウ(ア) 被告Cは,ショックの原因はさまざまであり,心原性ショックを除いて明確な診断基準はなく,その診断に当たっては,血圧低下のみならず,四肢脱力,寒冷,顔面蒼白,冷汗,体温下降,脈拍,チアノーゼ,意識障害などを総合的に判断すべきところ,Fには,寒冷,顔面蒼白,体温低下といった症状は発現せず,意識は集中治療室に入ったころにおいても清明であったというショック症状に反する所見も見られ,Fをショック状態にあったとみることはできないから,原告Aらの主張は前提を欠くと主張する。

しかしながら,前記ア(ウ)認定のとおり,ショックを診断する基準として,ショックスコア及びショック指数(ショック指数の基準としての妥当性については,後記(ウ)のとおりである。)があり,この基準によれば,前記イ説示のとおり,Fは少なくとも中等症以上のショック状態に陥っていた疑いがあるといわざるを得ないから,仮にショック状態と相反する所見が認められたとしても,直ちにショック状態の管理をする必要性が消滅することにはならないというべきである。

したがって,被告Cの主張は,採用することができない。

(イ) 被告Cは,最新のショックの定義からは,出血性ショックを除き,血圧低下や心拍出量減少が除かれていると主張し,血圧低下及び心拍出量の低下のみでショックの有無を判断する原告Aらの主張は誤りである旨主張する。そして,丙67には,被告Cの前記主張に沿う記載がある。

しかしながら,丙67によれば,最新のショックの定義から,血圧低下や心拍出量減少が除かれたのは,血圧低下が顕著でなく心拍出量増加のみられる感染性ショックが問題視されるようになったからであることが認められるところ,前記ア(イ)認定のとおり,下痢等による血液量減少性ショックは,出血性ショックと同様,循環血液量の減少がショックの原因となるものであるから,出血性ショックと同様血圧低下や心拍出量の減少がショック状態の要素となるといわざるを得ない。

したがって,被告Cの主張は,採用することができない。

(ウ) 被告Cは,ショック指数は血圧と脈拍のみで判断する極めて大まかでかつ不正確なものであり,ショックの診断につき諸症状を総合的に判断する現在の医療の臨床ではほとんど用いられていない旨主張する。そして,証拠(丙70,証人G,同I,同K,同Q,同J)中には,前記主張に沿う意見記載及び証言部分がある。

しかしながら,平成14年4月5日に改訂版第6刷が出版された救急看護に関する文献及び平成13年5月10日に発行された医学文献(丙50)において,ショック指数がショック状態の診断ないし重症度の評価に当たっての簡易な指標として紹介されていることに照らすと,これに反する前記意見記載ないし証言部分は採用することができない。また,前記イ説示のとおり,被告Cが医療機関において一般的に使用されているとするショックスコアによっても,Fが平成10年7月26日午前1時50分以降軽症又は中等症のショック状態にある疑いが強く存在したことに照らすと,仮にショック指数が現在の臨床現場で使用されていないとしても,前記イの認定判断を覆すには足りないというべきである。

(エ) 被告Cは,現在医療機関において一般的に使用されているショックスコアによれば,Fの状態は,平成10年7月26日午前7時50分の時点において,初めて明確にショック状態にあると判断されたのであるから,Gが重症のショック状態にあったFを放置したとはいえないと主張する。

しかしながら,前記イ説示のとおり,ショックスコアによっても,Fは,同日午前1時50分以降,ショック状態にあった疑いが強く存在しているのであり,そのような状況において,ショック状態にあるかどうかをより厳密に診断し,ショック状態にあると診断された場合には,それを解消するための治療をすべき注意義務を果たさなかった点がGの過失と評価されているのであり,明確なショック状態であったかどうかは必ずしも問題とはならないから,被告Cの主張は,前提を異にし,採用することができない。

(3)  代謝性アシドーシスの管理に関する過失について

ア 証拠(甲10,丙52,68ないし70,証人G)及び弁論の全趣旨によれば,代謝性アシドーシスについて,以下の事実が認められる。

(ア) 代謝性アシドーシスとは,血漿重炭酸イオン(HCO3-)が減少して血液の酸性度が高まる,すなわちpH(正常値は,7.38ないし7.42)の値が低下する病態をいい,各種ショック,重症の外傷,各種中毒,熱中症,腎不全,糖尿病,下痢などに起因して発生し,血液のpHの値が7.2以下で心収縮力の低下,末梢動脈の拡張,血圧低下,不整脈,肺浮腫,意識障害が生じるとされる。

(イ) 代謝性アシドーシスの診断は,①意識障害,低血圧,不整脈,肺浮腫があるか,②過呼吸又は頻呼吸があるか,③腎疾患の既往歴,乏尿,タンパク尿,貧血,高血圧,眼底異常,BUN及びクレチアニンの高値があるか,④ショック,菌血症はあるか,⑤下痢をしていないか,⑥薬剤を服用していないかなどが基準とされている。

(ウ) 代謝性アシドーシスに対する治療法は,原因疾患の治療が主体であり,血液のpHの値そのものを是正する治療は緊急時又はアシドーシスの程度が,血液のpHの値が7.10以下,HCO3-の値が10mEq/リットル以下と高度の場合に限り,この場合,とりあえずpHの値を7.20,HCO3-の値を15mEq/リットル前後まで上昇させ,それ以降はアシドーシスの再悪化を防止する程度のアルカリ剤投与にとどめ,原因療法を主体とすべきであるとされる。

イ 前記1(1)ウ(イ)認定の事実及び証拠(甲10,丙1,53,70,証人G)によれば,Fの平成10年7月25日午後7時55分ころにおける血液ガス分析の結果は,pHの値が7.293,HCO3-の値が19.4mEq/リットルと軽度の代謝性アシドーシスの状態にはあるものの,直ちに血液のpHの値を補正をする必要のある状態ではなかった。

しかしながら,前記1(1)ウ(キ),(ク)認定のとおり,Fは,翌26日午前1時50分から同日午前6時までの間,意識は清明であったものの,断続的に下痢の症状が発現し,収縮期血圧が60ないし78mmHgと低く,血圧低下傾向にあったこと,前記(1)イ(ウ)説示のとおり,同日午前1時40分ころから同日午前6時ころまでの間の尿量は50ミリリットル(1時間当たりの平均尿量は,約11.5ミリリットル)と乏尿状態ということができること,前記(2)イ説示のとおり,Fが,遅くとも同日午前1時50分ころ以降中等症以上のショック状態に陥っていた疑いが強く存在したことからすれば,Fは,遅くとも同日午前1時50分以降,同月25日午後7時55分ころにおける軽度の代謝性アシドーシス状態よりも代謝性アシドーシスが進行していた疑いがあったということができる。そして,このような状況において,Fの担当医師であったGは,前記(2)イ説示のとおりショックの診断をするための検査と併せて,Fに再度血液ガス分析の検査を実施するなどして,Fの代謝性アシドーシスの状態が補正を要する状態になっていなかったかどうかを確認する義務があったというべきである。

しかしながら,前記1(1)ウ(イ),(キ)認定のとおり,Gは,同月26日午前8時20分ころに至るまで,Fに対し,血液ガス分析検査を実施せず,また,同日午前1時50分ころから同日午前6時ころまでの間,Fの病室を訪問することなく,これを放置した過失があるといわざるを得ない。

ウ 被告Cは,代謝性アシドーシスの特徴的な臨床症状は,意識障害及び過呼吸又は頻呼吸であるところ,Fは,平成10年7月26日午前7時50分ころまでは正常な呼吸をし,意識清明の状態であったのであり,このような全身状態からみても,特に血液ガス分析検査を繰り返し行う必要はなかったと主張する。そして,証拠(丙70,証人G)中には,被告Cの前記主張に沿うGの証言部分及びVの意見記載がある。

しかしながら,前記ア(イ)認定のとおり,臨床症状としての意識障害及び過呼吸又は頻呼吸のほかにも,診断の指標となるべき事項は存在し,臨床症状のみで直ちに血液ガス分析検査をする必要がないといえるかは疑問である上,Vの意見書(丙70)によれば,ショック状態下では,末梢循環不全のために酸の産生が増加し,代謝性アシドーシスを来すことが認められるところ,前記(2)イ説示のとおり,Fは,遅くとも平成10年7月26日午前1時50分ころ以降,中等症以上のショック状態に陥っていた疑いが強く存在したのであり,これに伴い代謝性アシドーシスが進行した疑いも生ずるということができるから,単に外部的な臨床症状やバイタルサインのみでなく,より精密に代謝性アシドーシスの有無について,検査をする必要があったというべきである。

よって,被告Cの主張は,採用することはできない。

(4)  小括

以上のとおり,C医療センターにおいてFの診療を担当したGには,Fの脈拍及び血圧の管理,ショック状態の管理並びに代謝性アシドーシスの管理のいずれについても過失があったというべきである。

4  争点(4)(被告Cの担当医師の過失とFの死亡との間の因果関係)及び(5)(損害額)について

(1)  主位的請求について

原告Aらは,前記3説示にかかるGのFに対する診療過程における脈拍及び血圧の管理,ショック状態の管理並びに代謝性アシドーシスの管理に関する過失とFの死亡との間には,相当因果関係が認められると主張し,甲10には,Gが適切な対症療法を実施していれば,Fを救命することはできたと原告Aらの主張に沿う医師Wの意見記載が存在する。

しかしながら,丙74には,致死量の砒素を摂取した場合には,救命ないし延命をすることはできない旨のWの証言記載がある一方,Wの意見書(甲10)には,砒素の致死量やFがカレーライスを喫食したことにより摂取した砒素の量,Fの死亡後の剖検におけるFの体内への砒素の残留の程度や組織検査の結果について考察した記載は存在しないから,Fの救命可能性に関するWの前記意見記載はにわかに採用することができない。

また,前記1(1)ウ(コ)認定のとおり,Fの死亡当時における諸臓器には,高度のうっ血があり,Fに対する剖検の結果,Fの血液1グラム中には1.1マイクログラムの,胃内容物1グラム中には0.6マイクログラムの,肝臓組織1グラム中には12.7マイクログラムの,左腎臓組織1グラム中には5.6マイクログラムの砒素が含有されているところ,証拠(甲17,丙43)によれば,正常人の血液1グラム中の砒素含有量は,0.001ないし0.016マイクログラムであり,平均は0.007マイクログラム,正常人の肝臓組織1グラム中の砒素含有量は,0ないし0.092マイクログラムであり,平均は0.033マイクログラム,正常人の左腎臓組織1グラム中の砒素含有量は,0ないし0.068マイクログラムであり,平均は0.011マイクログラムである一方,砒素中毒死亡者の血液1グラム中の砒素含有量は0.6ないし9.3マイクログラムであり,平均3.3マイクログラム,砒素中毒死亡者の肝臓組織1グラム中の砒素含有量は,2.0ないし120マイクログラムであり,平均29マイクログラム,砒素中毒死亡者の左腎臓組織1グラム中の砒素含有量は0.2ないし70マイクログラムであり,平均15マイクログラムであることが認められ,これによれば,Fの血液,肝臓組織及び左腎臓組織中の砒素含有量は正常人の最大値を大きく上回ること,組織検査の結果,Fには腎尿細管壊死の所見は認められない一方,心筋変性が著明に認められ,また,証拠(甲8,9,丙20の2,24ないし26,41,46)によれば,急性腎尿細管壊死が,血管内水分量の喪失による循環血液量の低下により2次的に生ずること,砒素を摂取したことの効果として,心筋変性による心筋障害に伴う心室細動などの重篤な心機能への病変が生じ死亡することがあることが認められる。これらの事実によれば,Fは,前記3(1),(2)のとおり,脱水ないしショック状態にあったとしても,その悪化により,腎尿細管壊死が発生する前の段階で,心筋変性に起因する心筋障害による循環機能障害の結果死亡したものと推認されるから,GがFに対し適切な量の輸液を投与するなどして,脱水症状ないしショック状態を改善したり,代謝性アシドーシスの管理を実施したとしても,砒素に起因する心筋変性,心筋障害によって死亡した可能性は残るというほかない。

したがって,前記3説示のGの過失とFの死亡との間に,相当因果関係を認めることはできないから,その余の点を判断するまでもなく,原告Aらの被告Cに対する主位的請求は理由がないといわざるを得ない。

(2)  予備的請求について

ア 証拠(甲8ないし10,18,乙1,丙25,26,41,42,71,74,証人G)及び弁論の全趣旨によれば,砒素の致死量は200ないし300ミリグラムとされ,砒素化合物である亜砒酸の致死量は70ないし180ミリグラムとも100ないし300ミリグラムともいわれているものの,致死量の算定は,動物実験の結果から推定されるものであり,必ずしも明確なものではない上,砒素の服用量のみで砒素中毒の予後を推定することは困難であり,初期治療の遅れ等の要因も予後に影響するとされており,砒素服用後の死亡例においても,砒素摂取後死亡までの時間は事例により異なり,また,砒素を10グラム服用した者の救命例が存在したり,和歌山カレー毒物混入事件の被害者の中には,カレーライスを喫食したことによりカレーに混入された100ミリグラム以上の亜砒酸を摂取したにもかかわらず,死亡しなかった者が4名存在すること,急性砒素中毒の場合であっても薬物性ないし細菌性の食中毒の場合であっても,中毒症状に対する治療においては,中毒症状の原因物質の影響がなくなるまでの間において,全身管理を行うことにより,呼吸,循環等の生命の維持や臓器障害を食い止めることが必須であることが認められる。

上記認定の事実に,前記3説示のとおり,Fの診療を担当したGにおいて,Fの脈拍及び血圧の管理,ショック状態の管理並びに代謝性アシドーシスの管理といった全身管理に関する事項のいずれについても過失があったと認められることを併せると,Gにおいて,適切にFの脈拍及び血圧の管理,ショック状態の管理並びに代謝性アシドーシスの管理がされていれば,Fが,実際に死亡した平成10年7月26日午前10時16分の時点において,なお生存していた可能性が存在するものと推認される。

これに対し,被告Cは,前記(1)認定にかかるFの解剖及び剖検の結果を根拠として,Fに対し,輸液量を増量するなどの治療をしたとしても,Fの延命の可能性はなかった旨主張し,丙74には,これに沿うかのような,Wの証言記載がある。

しかしながら,Fの解剖及び剖検の結果は,Gにより適切な治療がされなかった結果生じたものにすぎず,それ自体,Fの延命可能性に関する前記推認を左右するものではないというべきである。また,Wの前記証言記載は,砒素による致死的な病変が生じた場合には,それ以降対症療法を施したとしても,延命の可能性はないという趣旨であり,Wの証言記載全体を見れば,砒素による致死的な病変が生じていない段階であれば,期間は不明確ではあるが,延命の可能性はいまだ存在する趣旨のものであることは明らかであるから,被告Cの主張を採用することはできず,他に,前記推認を覆すに足りる証拠はない。

イ 生命を維持することが人にとって最も基本的な利益であることからすれば,医療水準にかなった医療が行われていたならば患者がその死亡の時点においても生存していた可能性があることもまた法によって保護されるべき利益であるというべきであり,Fは,Gの前記3説示の過失により,前記ア認定のとおり,法によって保護されるべき利益を侵害され,相当程度の精神的苦痛を受けたということができる。Fのこの精神的苦痛を慰謝するに足りる慰謝料の額は,200万円とみるのが相当であり,Fの父母である原告Aらは,このFの被告Cに対する慰謝料請求権を法定相続分に従い2分の1ずつ取得したから,被告Cに対し,各自100万円の損害賠償請求権を有することとなる。

ウ なお,このような生存可能性の利益の侵害は,患者の遺族につき固有の慰謝料請求権が認められる患者の生命侵害(民法711条)とは,質的に異なるといわざるを得ないから,Fにおいて生じた前記慰謝料請求権とは別に,原告Aら固有の損害として,不法行為による精神的苦痛に対する慰謝料請求権を認めることはできないというべきである。

5  結論

以上の次第で,原告らの被告市に対する請求はいずれも理由がなく,原告Aらの被告Cに対する主位的請求もいずれも理由がない一方,被告Cは,原告Aら各自に対し,民法715条1項に基づき,原告Aらの予備的請求にかかるいわゆる期待権侵害による精神的苦痛を慰謝するための慰謝料100万円及びこれに対するFが死亡した日である平成10年7月26日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金を支払うべき義務がある。

よって,原告らの被告市に対する請求は棄却し,原告Aらの被告Cに対する主位的請求は棄却し,予備的請求については,上記認定の限度で理由があるから認容し,その余は理由がないから棄却することとして,主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 礒尾正 裁判官 秋本昌彦 裁判官 成田晋司)

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