和歌山地方裁判所 平成15年(ワ)421号 判決 2005年9月20日
原告
甲野花子
同訴訟代理人弁護士
山﨑和友
同
由良登信
同
岩城穣
同
岡田政和
同
中森俊久
被告
国
同代表者法務大臣
南野知惠子
同指定代理人
武部雅充
外10名
被告
乙原正一
同訴訟代理人弁護士
谷口曻二
主文
1 被告国は,原告に対し,58万8495円及びこれに対する平成12年7月31日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2 原告の被告国に対するその余の請求及び被告乙原正一に対する請求をいずれも棄却する。
3 訴訟費用は,原告及び被告国につき生じた費用の各10分の1を被告国の負担とし,原告及び被告国に生じたその余の費用及び被告乙原正一に生じた費用を原告の負担とする。
4 この判決の第1項は,本判決が被告国に送達された日から14日を経過したときは,仮に執行することができる。
事実及び理由
第1 請求の趣旨
1 被告らは,原告に対し,連帯して581万1040円及びこれに対する平成12年7月31日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告らの負担とする。
3 第1項につき仮執行宣言
第2 事案の概要
本件は,原告が,勤務先の会社で会議中にクモ膜下出血を発症した夫の労災申請の相談のために訪れた労働基準監督署の窓口で,担当者である被告乙原正一から,原告に労災申請を断念させようとして,労災申請は認められない旨誤った内容の教示をされた上,侮辱的言辞を浴びせられたため,うつ状態に陥った旨主張し,国に対しては国家賠償法1条1項,担当者個人に対しては民法709条にそれぞれ基づき,心療内科の治療費,慰謝料及び弁護士費用の賠償を求めている事案である。
1 前提事実(証拠の記載のない事実については当事者間に争いがない。)
(1) 当事者
ア 原告は,平成12年3月3日にクモ膜下出血を発症して倒れ,その後意識が戻らぬまま平成14年7月2日に死亡した甲野太郎(以下「太郎」という。)の妻であり,平成12年7月31日,太郎の労災申請の相談のため,新宮労働基準監督署(以下「新宮労基署」という。)を訪れた者である。
イ 被告国は,労働全般の安全,衛生及び労働条件の改善を図るため,厚生労働大臣をして労働行政を担当せしめ,また,被告乙原正一を雇用しているものである。
ウ 被告乙原正一(以下「被告乙原」という。)は,被告国に雇用されている国家公務員であり,原告が労災申請の相談に新宮労基署を訪れた当時,同署の第2課長であったが,現在は,和歌山労働局労働基準部労災補償課に在職している者である。
(2) 事故の発生
太郎は,原告の夫であり,長年,和歌山県東牟婁郡那智勝浦町のホテル中の島に料理長として勤務していたが,平成12年3月3日に勤務先であるホテル中の島の会議中にクモ膜下出血を発症して倒れた。同人は,同町内の病院に救急搬送された後,直ちに同町内の脳神経外科のある別の病院に転送されたが,その後意識を回復することはないままであった(なお,同人は,平成14年7月2日に死亡した。)。
原告は,入院中の太郎に付き添い,太郎の意識を回復させるために声をかけるなどしており,しばしば病院に泊まり込むこともあった。
(3) 窓口相談
ア 原告は,太郎の発症が過重労働によるものであると考えていたことから,労災申請の相談のため,平成12年7月31日午後4時ころ,入院先の病院の事務職員から紹介された新宮市内の窪田社会保険労務士の事務所を訪れた。同社会保険労務士は,太郎の勤務先であるホテル中の島と利害関係があるから相談に乗ることができないと述べ,新宮労基署に紹介の電話を入れた上で,原告に対して同署で相談を受けるように助言した。
イ 原告は,同日午後4時30分ころ,一人で新宮労働基準監督署を訪れた。同署では,同署の第2課長であった被告乙原と,補償主任であった丙山正二(以下「丙山」という。)とが,同署2階事務室のカウンターで原告に応対した。
原告は,被告乙原らに対して,太郎が会議中に倒れたこと,太郎の毎日の出勤及び帰宅時刻(午前6時に出勤して午前11時半までに帰宅し,午後1時半ころに再出勤して午後10時ころ帰宅する。),ホテル中の島の役員からコスト削減を厳しく要求されていたこと,そのため,コスト削減と料理の質の維持との両立に悩み,平成12年1月末ころからは会社を辞めたいと口にするようになっていたこと,人員削減のために月3回程度しか休暇を取れていなかったこと,職場では十分な時間がとれず,自宅で献立作成をせざるを得なかったことなどの事情を説明したが,被告乙原は,太郎の発症の前日及び前々日が休暇であったこと,定例会議中の口論は異常な出来事とはいえないこと,出勤及び帰宅の時刻についての原告の説明だけからでは太郎の労働時間を確認できないことなどを理由として,労災認定の見通しについて否定的な見解を示した。
窓口相談が終了したのは,午後5時の閉庁時間を過ぎた後であった。原告は,労災認定基準を解説したパンフレットを受け取って持ち帰ったが,申請書用紙の交付は受けなかった。
(以下,平成12年7月31日の新宮労基署における相談を「本件相談」という。)
(4) 労災申請
原告の長男である甲野一夫(以下「一夫」という。)の知り合いである岐阜県の高木洋社会保険労務士(以下「高木社労士」という。)が,平成12年9月20日に,原告に代わって,新宮労基署に太郎の労災給付の申請をした(なお,この申請は,主治医の休業期間の証明等の漏れがあったため,一旦返送され,平成12年10月4日に不足部分を補充した申請書が提出されたことで正式に受理された<証人丙山>。)。原告は,平成12年10月ころに,新宮労基署から申立書を作成するよう言われたため,申立書を少しずつ書き上げ,平成12年11月17日にこれを新宮労基署に提出した(甲18,23,原告本人)。
丙山は,申立書の記載内容について原告本人から聞き取り調査を行うため,新宮労基署に原告を呼び出した。原告は,平成12年12月20日午後1時過ぎころ,高木社労士とともに新宮労基署の2階事務室を訪れた。その後,1階会議室で,丙山が,高木社労士の立会の下で,原告から申立書の内容の聴き取りを行った(甲23,乙7,証人丙山,原告本人)。
新宮労働基準監督署長は,平成14年11月25日,太郎が,当時の認定基準において業務と発症との関連性が強いと判断される基準(1か月当たり80時間)を超えて,発症前の4か月間において月平均81時間39分の時間外労働を行っていることから,特に過重な業務に従事していたものと認め,太郎のクモ膜下出血が業務による発症である旨認定した(以下「本件労災認定」という。)。
なお,本件相談がなされた時期と本件労災認定がされた時期との間である平成13年12月12日に,脳・心臓疾患の労災認定基準が改正され,本件労災認定は改正後の認定基準に基づき判断された。
(5) 原告の受診状況
ア 原告は,平成12年9月11日に,日比記念病院で受診し,上気道炎と診断された(甲14)。
イ 原告は,平成13年2月7日に,日比記念病院で受診した。原告は,不眠や過呼吸があり,あたかも意識を失うような眠り方もする状態であって,低血圧症,不眠症,過換気症候群と診断され,セデコパン等の薬を処方された。同月13日にも同じ薬の処方を受けている(甲14)。
平成13年5月9日には,原告は,同年4月30日からの不調,同年5月3日から受診前日朝までの発熱などを訴えて,同病院で受診し,クラリス,トローチ,アクチットなどの投与を受けた。また,同月15日には,咽頭痛,倦怠感,咳などの症状で同病院で受診し,投薬を受けている(甲14)。
ウ 原告は,平成13年7月下旬に,親交のあった小児科医師に紹介してもらった心療内科のある「くどう内科クリニック」に診察依頼の手紙を出し,同年8月18日に同クリニックで初めて受診した。原告は,同クリニックで「うつ病」及び「自律神経失調症」と診断され(甲2,以下,単に「うつ病等」という。),平成14年7月までは1か月に2回程度,同年8月以降は1か月に1回程度の割合で,同クリニックに通院して,カウンセリング及び投薬を受けている(甲15,16,原告本人)。
2 争点及びこれに対する当事者の主張
本件の争点は,① 窓口における原告に対する被告乙原の説明ないし言辞に違法性が認められるか,② 乙原の説明及び言辞と原告のうつ病等との間に相当因果関係が認められるか,③ 公務員である乙原個人に対する損害賠償請求の可否,④ 損害論である。
(1) 被告乙原の説明ないし言辞の違法性について
(原告の主張)
ア 被告乙原の言辞
原告は,被告乙原に対して,ホテル中の島の総務課長である丁川正三(以下「丁川課長」という。)から,労災申請の問い合わせをしたが申請が通る見通しがなさそうである旨聞いたことを伝え,申請が通らないのであればその理由の説明をしてほしいと求めたところ,被告乙原は,立ったまま原告に応対し,原告から事案の内容を聞かずに,「そんな話,初めて聞いたよ。何にも会社の方から手続は来ていないよ。でも,そんなことは手続してもらっても駄目です。まず労災は下りません。」と断言し,太郎がクモ膜下出血を発症した前日及び前々日に出勤していないことを聞くと,「それなら余計駄目です。」と念を押すかのようにして原告に労災の申請を諦めさせようとした。
さらに,被告乙原は,原告が太郎の長時間労働や仕事上のストレスについて詳しく説明しても,小指を立てながら「奥さんが知らないだけで,朝,ご主人は会社へ行ってきますと嘘をついて,どこか別のところへ遊びに行っていたかも知れませんよ。」と,太郎を侮辱する発言をしたり,原告が,涙ながらに,駄目でもいいから労災の申請をしたいことを伝え,自宅での太郎の献立作成を詳しく説明したことに対しても,「それは自分が勝手にやったことで,仕事ではない。休みに私用を自分勝手にしたことなど認められるはずはない。」,「前日,前々日が休みなので過労とは言えません。それで75パーセント決まってしまうので駄目です。」,「会社が何も言っていない以上,個人で請求できるものではありません。こういうことは会社が請求することであって,個人では駄目なんですから,会社に言ってください。もっとも,会社が請求してきても駄目ですけれどね。どうしようもないです。」と説明を付け加え,追い討ちをかけるように,「女だてらによう1人で来たね。あんたらみたいな人がいるから僕らの仕事が忙しくなるんや。もう来んといてや。」と言い放った。
イ 違法性
(ア) 誤った説明及び申請断念の説得
a 労働基準監督署職員のあるべき態度
労働基準監督署は,労働者と使用者に対して中立の立場にあるのではなく,使用者との関係において労働者を保護し,労働者の権利を守ることを本来的役割とする役所である。したがって,そこで働く職員は,労災補償の適用を求めて労働基準監督署を訪れる被災者やその遺族,家族に対し,その立場や気持ちを理解しようと努め,労働災害として認められるべき事件を1件でも誤って不支給決定とすることがないよう,専門家としての自覚的良心に基づいて被災者やその遺族,家族と向き合わなければならない。
労働者災害補償保険法第1条に定める同法の目的に鑑み,労災保険給付についての調査・判断を行う労働基準監督署の労災担当職員は,業務上の疾病に対する「迅速かつ公平な保護」「当該労働者への援護」を行う職責を負い,労災保険給付申請の相談に来た労働者やその家族に対しては,申請手続を正確に,理解できるように説明し,申請の援助をすることが求められているというべきである。
b 被告乙原の説明内容及び説明態度
原告の本件相談における相談内容は,太郎が発症前に相当な長時間労働に従事していた上,自宅でも献立造りをしており,その業務は相当過密であって心理的ストレスも強かったことをうかがわせるものであった。
この相談内容を前提とすれば,当時の認定基準によっても,太郎のクモ膜下出血が業務上の災害であることを十分認定されうるものであり,少なくとも,窓口相談段階で,労災としての認定は難しいとして否定的な対応をすることは許されないものであった。
それにもかかわらず,被告乙原は,原告に対し,業務量(労働時間,労働密度),業務内容(作業形態,業務の難易度,責任の軽重など),作業環境(暑熱,寒冷など)など,業務の過重性の評価の要素とされている事項について何ら説明しなかった上,認定基準について誤った解釈を前提として,原告の相談内容に対して逐一反論するような形で,太郎の労災申請が認められない理由を挙げ,否定的な見解を断定的に述べた。
c 小括
このように,被告乙原は,原告から,必要な情報提供を受けながら,労災認定基準について,本来必要な説明を行わず,逆に明らかに誤った説明を行った上,本件事案の調査以前から,原告に対して否定的な見解を断定的に述べ,申請を断念させるべく説得し,その権利行使を不当に妨げようとしたものであり,これらは違法な行為というべきである。
(イ) 打撃的・侮辱的対応
被告乙原は,立ったまま原告に威圧的に応対し,原告の必死の訴えに対して,小指を立てながら「奥さんが知らないだけで,朝,ご主人は会社へ行ってきますと嘘をついて,どこか別のところへ遊びに行っていたかも知れませんよ。」と,太郎を侮辱した上,「奥さん女だてらによう1人で来たね。あんたらみたいな人がいるから僕らの仕事が忙しくなるんや。もう来んといてや。」と言い放って原告を追い返すという対応をした。
このような対応は,それまでの被告乙原の否定的,断定的な対応と相まって,原告に対して計り知れないショックを与えた。
このような被告乙原の打撃的・侮辱的対応は,違法な行為というべきである。
(被告らの主張)
ア 一般的な窓口相談に対する対応
本来,労災保険制度上,請求書が提出された場合には,負傷・疾病に応じた認定基準等における確認事項を調査した上で,所轄労働基準監督署長が保険給付の請求原因となった負傷・疾病が業務によって発生したものか否かを判断して決定することになるが,労働基準監督署窓口において相談者から「自分の場合にはどうなるのか」との質問があった場合には,対応している職員が「あなたから聞いた話では」との前置きを付した上で,相談者から寄せられた限られた情報を前提に,担当者として労災となりうる,若しくは労災の認定は困難であるなどとの見通しを事実上述べている。その際,最終的には労働基準監督署長が判断するため,「最終的には,請求書が提出されて,私どもで必要な調査をした上で決定しますが」と付け加えている。
要するに,職員のこのような意見の開陳は,あくまで相談者が労災請求を行う際の一つの参考意見を提供しているに過ぎないものである。
イ 被告乙原の説明内容
(ア) 被告乙原の言辞
被告乙原は,原告に対して,原告が主張するような断定的な説明を行ってはいない。
被告乙原は,その当時の脳・心臓疾患の認定基準説明用パンフレットを示しながら認定基準について説明を行い,業務上外の判断を行うのに必要な事項を,原告が説明した限りにおいて確認し,認定基準に照らして,相談を受けた職員としての参考意見を述べた上で,原告に対し,請求するか否かは請求人が判断することであること,請求があれば調査をしてから総合判断して監督署長が決定する旨説明したものである。
(イ) 説明内容の適切性
被告乙原が本件相談において,原告に対して,労災として認定されない可能性が高い旨を説明したのは,本件相談当時の認定基準によれば太郎の発症は業務外と認定すべき事案であったからに過ぎず,何らかの悪意をもってしたものではなく,また,誤った説明をしたものでもない。
なお,太郎の発症が業務上の発症と認定されるに至ったのは,本件相談後に認定基準が改定され,疲労の蓄積が労災認定の重要な要素として考慮されることとなったためである。
すなわち,本件相談当時の認定基準では,① 業務に関する異常な出来事に遭遇し,あるいは,② 日常業務に比較して,特に過重な業務に就労したことにより,明らかな過重負荷を発症前に受けたことが認められることを要件としており,②については,a まず第一に発症直前から前日までの間の業務が特に過重であるか否かを判断し,b これが特に過重であると認められない場合でも発症前1週間以内に過重な業務が継続している場合には,この間の業務が特に過重であるか否かを判断し,c 発症前1週間より前の業務については,この業務だけで血管病変等の急激で著しい増悪に関連したとは判断しがたいが,発症前1週間以内の業務が日常業務を相当程度超える場合には,発症前1週間より前の業務を含めて総合的に判断することとされており,疲労の蓄積は考慮されていなかった。
被告乙原は,原告の相談内容によれば,① 太郎が発症したのは,毎月の定例の会議中であって,太郎が相当規模のホテルの調理場の総責任者として献立について追及されることは,日常業務の中で往々にしてあることと認められるから,業務に関する異常な出来事に遭遇したものとは認めがたく,② 太郎は,a 発症当日は出勤後通常業務である調理の業務を行った後に当該会議に出席しており,b 発症1週間以内の業務について料理長としての通常業務であり,また発症前日及び前々日が休暇であったことから,日常業務に比較して特に過重な業務に従事したとは認められないと判断して,原告に対して,労災申請は難しいと説明したものである。
本件の事故に関し,新宮労働基準監督署長が本件労災認定をするに際しては,新認定基準に基づいて,長期間の荷重負荷について調査した結果,発症前2か月間ないし6か月間における1か月当たりの平均時間外労働時間数が,発症前4か月平均において81時間39分であったことや,太郎が調理部門の統括的地位におり,自ら調理業務を行いながら当部門の統括管理を行う責任の立場にあったことなどから,特に過重な業務に従事したと認め,業務上による疾病と認める旨の判断をしたのであって,旧認定基準の下でも労働災害として認定される余地が十分にあったわけではない。
ウ 打撃的・侮辱的対応
被告乙原は,原告に対して,原告が主張するような打撃的,侮辱的な説明を行ってはいない。太郎の労働時間についても,被告乙原は,原告に対して,勤務先に確認してみないと分からない旨述べたに過ぎず,小指を立てながら,太郎が仕事と偽って遊びに行っていたのではないかなどと述べたことはない。
また,被告乙原は,原告に対して,立ったまま応対したという事実はない。
(2) 相当因果関係について
(原告の主張)
ア 本件相談以前の原告の状態について
原告は,本件相談までは,太郎の付添介護を続ける一方で,丁川課長に労災申請を依頼したり,社会保険労務士と連絡を取って労災申請手続をしようとするなどしており,ストレス反応もなく,うつ症状も生じていなかった。
なお,この当時,原告には,意欲や気力の低下,疲れやすさ,倦怠感,厭世感,思考力の減退,不安,心配,不眠,多彩な身体症状が認められ,適応障害に罹患していた可能性は否定できない。しかし,これは当時原告が置かれていた状況に照せばやむをえない症状であり,これをもって原告の脆弱性を示すものとは言えない。
イ 本件相談後の原告の状態について
(ア) 本件相談直後の原告の状態
原告は,本件相談直後に,一夫に電話をしているが,当初は電話口で泣いているだけで,パニックになっているような感じで何を言っているか分からない状態であり,少し落ち着いたところで徐々に被告乙原の言動について話し始めたが,その話の最中にもすぐに泣き出し,会話にならないくらい興奮していた。
さらに,原告は,本件相談当日の夜に,妹である戊谷葉子(以下「戊谷」という。)に電話をしているが,その様子があまりに異常であったため,心配した戊谷が原告方に駆けつけるほどであった。また,戊谷が原告方に駆けつけたのは午後10時30分ころであったが,原告は食事も取らず,落ち着かない状態であった。
(イ) 本件相談後の原告の状態
a 身体症状
本件相談後,原告には,食欲不振,嘔吐などの症状が現れた。
また,原告は,夢の中で被告乙原の顔が現れ,自分の泣き声で目覚めるなど,不眠に悩まされるようになった。原告の妹である戊谷は,原告が怖くて一人で眠ることができないと訴えるため,原告方に泊まりに行くこともあった。
b 対人恐怖
原告は,本件相談後,次第に人と会うのが怖くなり,知人から声をかけられることさえ怖くなった。そのため,来客を恐れて自宅のチャイムのコンセントを抜いて鳴らないようにしたり,在宅中も電話を留守番電話にして,誰からの電話かを確認してから電話に出ていた。
c 平成12年12月20日の聞き取り調査の際の状況
原告は,新宮労基署から聞き取り調査のために呼出しを受けていたが,一人ではどうしても同署に行くことができない状態であったため,高木社労士に付き添われて同署を訪れた。
同署の2階事務所を訪れた原告は,被告乙原と目が合った際,急に恐怖でふるえを感じ,丙山から勧められた椅子に座ろうとしたが椅子からずり落ちて床にへたり込んでしまった。さらに,原告は,被告乙原を指さしたまま,うめき声のような声を出すことしかできなかった。
また,聞き取り調査のために同署の1階会議室に移動する際にも,原告は,高木社労士に支えてもらわないと移動できない状態であった。
d くどう内科クリニック受診前ころの状況
原告は,平成13年7月下旬に「くどう内科クリニック」に出した診察依頼の手紙や,本件訴訟代理人弁護士に出した手紙の中で,労災申請時の労働基準監督署の対応が心に残り,怖くて労働基準監督署に行けなくなってしまい,弁護士や家庭裁判所調査官にも労災申請に関する話をしようとすると声が出なくなることや,不眠,対人恐怖がある旨記している。
ウ 小括
原告は,本件相談後,以上のように,情動不安定,興奮,悪夢,フラッシュバック,回避症状,食欲不振・嘔吐などの身体症状,不眠の症状の存在がうかがわれるところ,これらは本件相談前には見られなかった症状である。
なお,原告は,本件相談前に適応障害に罹患していた可能性が否定できないが,上記の本件相談後の症状は,適応障害の症状では説明のつかない状態であって,強い心理的衝撃を受けた際に見られる症状である。
エ 被告国の主張に対する反論
(ア) 受診の遅れの原因
一般に,精神疾患においては病感や病識が少なく,専門医への受診が遅れることがよくあるところ,特にうつ病の場合には,内的な精神運動抑制や,抑うつ思考により生じる微小感や罪業感といった精神症状により,病気の自覚や受診の決断が遅れることがよくある。
(イ) 対人恐怖
対人恐怖は対象によって恐怖の程度が変化し,また時間によっても程度が変化するものであって,ある一時期に原告が太郎の仕事先や友達に会っていたことをもって,本件相談後からの異常な対人恐怖がなかったということはできない。
(被告国の主張)
ア 原告が本件相談以前にうつ病を発症していた可能性
原告は,太郎がくも膜下出血で倒れて入院して以降,原告の日記の記載を前提としても39日間,病院に泊まり込んで太郎の看病をするなど,非常にストレスの強い状況下にあった。また,本件相談後も,太郎の労災申請に関する一夫との行き違いや,太郎の友人の使い込みなど,日常の中で様々な事柄でストレスを感じていた。
このような中で,原告は,意欲や気力の低下,疲れやすさ,倦怠感,厭世感,思考力の減退,不安,心配,不眠,多彩な身体症状を自覚していたのであり,これは混合性不安抑うつ障害を呈していたものと考えられる。
また,一般に,抑うつ状態の比較的特異な症状として,焦燥がしばしば顕著になることがあるとされているところ,一夫は,工藤内科クリニックの医師に対し,原告が太郎が倒れてからは被害的ないし攻撃的になっていた旨話している。
このように,原告は本件相談以前に,既にうつ病等を発症していた可能性がある。
イ 本件相談以後の原告の症状の推移
原告は,平成12年10月10日から約1か月かけて,太郎の仕事先や友人など何人もの人に直接話を聞いて労災保険の申立書を作成しているのであるから,本件相談後に極度の対人恐怖状態にあったものではない。また,原告は,本件相談後半年以上経過した平成13年2月になるまでは不眠,吐き気,食欲不振で受診していないのであって,体調変化といっても原告自身が病気とは気付かない程度のものであったものと考えられる。
このように,原告には,本件相談直後からうつ病の症状が出現していたという事実は認められず,また本件相談以前にうつ病を発症していたものとしても,本件相談を経て特にその症状が悪化したというものでもない。
ウ 小括
以上によれば,仮に被告乙原の相談対応に違法性があったとしても,それと原告のうつ病等の発症との間には相当因果関係はないと言うべきである。
(3) 被告乙原個人に対する損害賠償請求の可否
(原告の主張)
ア 公務員個人に対する損害賠償請求の可否
国家賠償法には公務員個人の責任が否定される旨の明文の規定はないところ,公務員個人の責任を否定することは,民法上で法人の機関個人(民法44条)や被用者(民法715条)に直接責任が認められていることとの均衡を失する。また,加害公務員に故意又は重過失のある場合には,国家賠償法1条2項により国又は地方公共団体の求償権が認められているのであるから,このような場合には,公務員個人の責任を認めても,公務員の職務執行を萎縮させるおそれもない。さらに,被害者の被害感情や,国家賠償法の適用を受けない外国人被害者が公務員個人の責任を追及できると解されていることとの均衡をも考慮すれば,少なくとも,故意又は重過失による不法行為の場合には,公務員個人は不法行為責任を免れないと解すべきである。
イ 被告乙原の故意又は重過失
被告乙原は,原告が,脳出血で倒れて植物状態になっている夫の付添介護で心身共に疲労し,生活も困窮している状態であることを知りながら,さらに,必死の思いで保護を求めて労働基準監督署に相談に来て,真剣に夫の労働の状況や発症の状況を訴え続けていることを知りながらも,原告に申請を断念させるために虚偽の説明をし,原告や太郎を侮辱し,相談も保護も断ち切ったものである。
被告乙原は,それを聞かされる原告がどれほど深く落胆し,精神的に傷つくかを十分に分かっていたものであるから,原告の損害発生について故意があり,少なくとも少しの注意をすれば予見できたものであるから重過失は免れない。
ウ 小括
したがって,被告乙原は原告に対して不法行為責任を負うと言うべきである。
(被告乙原の主張)
公務員がその職務を行うについて,故意又は過失によって違法に他人に損害を与えた場合であっても,公務員個人はその責めを負わない。
(4) 損害論
(原告の主張)
ア 治療費等 28万1040円
原告は,平成12年7月31日の被告乙原の言動により,その直後から食欲不振,嘔吐,不眠という身体症状と対人恐怖症という神経症状の両方に悩まされることになり,通院治療により以下の費用を支出した。
(ア) 日比記念病院 7760円
(イ) くどう内科クリニック 6万5610円
(ウ) ほほえみ調剤薬局(薬剤費) 20万7670円
イ 慰謝料 500万円
原告は,平成12年7月31日の被告乙原の言動により,その直後から食欲不振,嘔吐,不眠という身体症状と対人恐怖症という神経症状の両方に悩まされることになり,平成13年8月末ころにはうつ病と診断されるに至り,通院治療を継続している。
また,上記の被告乙原の言動は,太郎が脳出血で倒れたことにより,原告が心身共に疲労し,生活が困窮する中で行われたものであって,原告はそのために一層大きな落胆とショックを受けた。
これらの精神的及び肉体的苦痛を金銭に評価するに,500万円を下ることはない。
ウ 弁護士費用 53万円
原告は,弁護士に本件訴訟の遂行を委任し,着手金及び報酬金の支払を約した。うち53万円については,本件不法行為と相当因果関係のある損害として賠償されるべきである。
(被告国の主張)
原告がうつ病を発症していることは認めるが,その他は否認ないし争う。
平成12年9月11日の日比記念病院での受診は,風邪による受診であり,原告主張の損害内容にうつ病と無関係な風邪に対する治療も含まれている。
(被告乙原の主張)
不知ないし争う。
第3 当裁判所の判断
1 争点①(被告乙原の説明ないし言辞に違法性が認められるか)について
(1) 被告乙原の原告に対する言辞及び態度
ア ノート及び申立書の記載の信用性
(ア) ノート及び申立書の記載
証拠(甲3の1及び2,8の1及び2,18,23,原告本人)及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実が認められる。
a 原告は,太郎が入院してから,同人の日々の看護・介護の状況を市販のノートに書き留めていた(表紙に「No.2」<甲3の1>,「No.3」<甲3の2>と記されたノートを,以下それぞれ「『No.2』のノート」,「『No.3』のノート」といい,両者をまとめて「本件ノート」という。)。
「No.2」のノートには,平成12年5月29日から同年7月31日分まで,「No.3」のノートには,平成12年7月31日から同年8月3日分までの記載がある。
これらのノートの平成12年7月31日欄には,原告が新宮労基署に赴いた際の状況についての記載があり,本件相談の際の被告乙原の発言として,「会社から労災の手続きをしてもらったのですが,だめだったと聞き,理由を聞いたのですが,よくわからず,その説明をお願いしたいと思いましてまいりましたと話すと,『そんな話,始めてきいたよ,何にも会社の方から手続きは来ていないよ』と言われました。」,「『でもそんな事は,手続きしてもらってもダメです。まず労災はおりません』と言いながら労災の認定基準の本を出してひろげ,『こういう事がなければダメです』と説明してくれた。」とか,「『奥さんが知らないだけで朝,御主人は会社へ行って来ますと言ってうそをついてどこか別の所へ遊びに行ってたかも知れませんよ』とうすら笑いをしながら言って来た。」,「『とにかく前日,前々日が休みなので過労とはいえない。それで75%決まってしまうのでダメです。とにかく,奥さんが何を言ってもダメです。個人でせいきゅうできるものではありません。会社が何も言ってないのに,こういう事は,会社から請求する事であって個人ではダメなんですから,会社に言って下さい』と言われました。」などと記載されており,また,これらの記載部分の左側の余白部分には「女だてらに一人でよく来たね。あんたらみたいな人がいるから僕等の仕事が忙しくなる,もうこんといて」と,上部欄外には「どんな形ででも,基本給以外のお金(少しでも,たとえ10円でも,この部分は挿入部分)をもらっていたら,時間外手当をもらっている時になるとも言われました。」とそれぞれ書き加えられている。
b 原告は,前提事実(4)記載のとおり,新宮労基署から求められ,平成12年11月17日に同署に申立書(甲18,以下「本件申立書」という。)を提出したが,そこには,労災請求に至るまでの経緯の一つとして,本件相談時の状況についても記載されており,具体的な被告乙原の発言内容として,「『労災の手続きは個人ではできないのです』と断わられ,『話だけは聞きましょう』と言って下さったのですが,私が話をしたとたんから,パンフレットを出して『前日休みなので労災はダメです。倒れる前から頭が痛かったのだから労災はダメです。』」とか,「『奥さん,もしかしたら御主人,奥さんにうそをついて遊んでたのとちがう?』と笑いながら言いました。」,「『奥さんが言う様に労災の手続きをしていたら僕ら仕事がふえてたいへんやわ』と言われ私は情なく,泣いてしまいました。」,「会社からは書類は一度も出ていません,そんな話初めてです。もしかしたら電話でだれか聞いているかも知れませんけど,わかりません。」などという記載がある。
(イ) 本件ノート及び本件申立書の信用性
a 本件申立書の記載内容の信用性について
まず,本件申立書は,遅くとも平成12年11月までに一体の文書として作成されたもので,その後に部分的に書き加えられたりした可能性はない。また,本件申立書の上記記載部分の内容が原告が申請していた労災の認定判断について何らかの影響を及ぼすことは考えられず,したがって,原告が,新宮労働基準監督署長に対する申請の中で,意図的に被告乙原の言辞について虚構の事実を主張するに足りる動機を有していたことをうかがわせる事情も全く認められず,文書の性質上若干の誇張が含まれている可能性は否定できないものの,意図的な虚構の可能性はないと考えられる。
b 本件ノートの記載内容の信用性について
(a) 虚構の可能性について
本件ノートについて原告の文調を見るに,本件相談時の状況に関する記載部分には,それ以外の部分ではほとんど見られない「私は」という主語での書き出しや,「〜ました」といった「です・ます体」の結びなど,他者に対する報告としての文調が強く現れており,本件相談時の状況について,その不当性を他者に訴える意図を有していたか,他者に訴えたいとの心情を強く抱いていたことがうかがわれる。
しかしながら,本件全証拠によっても,原告が本件相談直後の段階で,被告乙原の言辞について意図的に虚構の事実を主張するに足りる動機を有していたことをうかがわせる事情は全く認められず,本件相談直後の段階で記載された部分について,意図的な虚構の可能性はないと考えられる。
(b) 記載の連続性が認められる部分の信用性
証拠(甲3の1,3の2)によれば,本件ノートには,平成12年5月29日から,本件記載部分より後となる同年8月3日までの分の毎日の事柄が記載されていて,ほとんど空行もないこと,本件記載部分のうち「No.2」のノートの7月30日分の末尾に紙片が貼り付けられていることと,同ノートの最終ページの上側の欄外と左側余白部分に記載があることを除くと,形式面で連続性を欠くところがないこと,記載内容にも特段の不連続がないことが認められる。
なお,証拠(甲3の1)によれば,7月30日分の末尾に貼り付けられた紙片は,ノート1ページ分を半分ほどに切って,両面に7月30日の介護状況を記載したものであることが認められるところ,この紙片の記載内容には本件記載部分の信憑性に直接影響する事柄が含まれていない上,これを貼り付けることが本件記載部分の作成時期を糊塗する上で何らかの役に立つものとも考えがたい。
これらの事実に加えて,証拠(原告本人)及び弁論の全趣旨によれば,これらの記載の連続性が認められる部分については,それぞれの記載が当該日付の当日中又はさほど日をおかないうちに順次記載されたものと推認することができ,その記載には意図的な虚構の可能性はないと認められる。
(c) 上部欄外及び左側余白部分の記載の部分
上部欄外の記載は,被告乙原から,役員報酬など基本給以外の手当てを支給されていれば時間外手当をもらっていることになると説明された旨の記載であるところ,これとは具体的な表現は異なるものの,同旨の記載が申立書にもあり,さらに被告乙原も同旨の説明をした旨供述している(被告乙原本人)のであって,この部分の記載について信用性を否定するべき事情は見当たらない。
また,左側余白部分の記載は,被告乙原から,「女だてらに一人でよく来たね」,「あんたらみたいな人がいるから僕らの仕事が忙しくなる」,「もうこんといて」と言われた旨の記載であるところ,本件申立書にも,被告乙原から,「奥さんが言う様に労災の手続きをしていたら僕ら仕事がふえてたいへんやわ」と言われた旨の記載があり,具体的な表現や発言時期については必ずしも一致しないものの同様な内容の記載が存することが認められる。
したがって,上記の欄外や余白の記載は,本文を記載した後に一部漏れていることに気がついた原告が,後刻,追加して記載したものと認められるが,その内容については,殊更,意図的に虚構の事実を追加した可能性は低いものと認められる。
c 以上のとおり,本件ノート及び本件申立書に記載された本件相談の状況については,原告の当時の認識をそのまま記載したものとして,一応の信用性を認めることができる。
d これに対し,被告は,本件ノートが8月3日で終わっていること,その記載内容が本人の供述や戊谷の陳述書(甲19)の記載内容と一致しない部分が存すること,記載内容自体に合理性がないことなどを理由に,その信用性を否定する。
しかしながら,8月3日で記載が終了していることが,直ちにそれ以前の記載内容の信用性を揺るがせる事情とは認められないし,また,記載内容が他の証拠と完全には一致はしないものの,互いに矛盾するようなものとまでは認められず,さらに,内容がおよそ有り得ないほど不合理である場合は格別,記載されている内容自体の合理性の有無は,その記載の信用性の判断に重きをおくことは相当でない。
むしろ,本件ノートや本件申立書の本件相談時の状況に関する記載は,本件相談の当日,電話で原告から話を聞いた一夫,当日の夜,原告宅に赴いて原告から話を聞いた戊谷の各陳述書(甲19,20)と大筋で一致しており,また,本件相談に立ち会った丙山が,本件相談終了時,原告が「実際にそのように泣いておられるようだったというのは覚えております。」と証言していることなどに照らし,十分信用できるものと認められる。
イ 本件相談に対する原告の認識について
(ア) まず,証拠(甲18,23,25,原告本人)及び弁論の全趣旨によれば,原告は,本件事故前の太郎の勤務状態を知っていたため,太郎のクモ膜下出血の発症は,労働災害ではないかと思っていたことから,丁川課長に対し,労災の手続を取ってくれるよう何度も頼んでいたこと,しかし,丁川課長からは,明確な回答をもらえないままの状況が続き,最後には,太郎の発症について労働基準監督署に問い合わせたが,労災として認定されない旨の回答を受けたとの説明を受けたが,その説明が曖昧で納得がいかなかったこと,そのため,平成12年7月31日,太郎が入院していた病院の事務員に紹介された社会保険労務士に相談するために,病院のある那智勝浦町から新宮市の同社労士の事務所まで来たものの,同社労士がホテル中の島と関係があったため,具体的な相談には乗ってもらえなかったこと,同社労士が,自分が相談に乗れなかった代わりとして,原告に新宮労基署に相談に行くことを勧め,同署に電話をしてくれ,道順を教えてくれたため,原告は,急遽,新宮労基署に赴くこととしたこと,その際,原告は,丁川課長にお願いした労災申請がなぜダメであったのか,その理由を説明してもらうとともに,できることならもう一度,太郎について労災の認定を求めたいと思っていたことが認められる。
(イ) さらに,証拠(乙2,証人丙山,原告及び被告乙原各本人)並びに弁論の全趣旨によれば,本件相談の際に,被告乙原及び丙山は,原告から少なくとも以下の事情を聞き取っていたことが認められる。
a 発症時の状況について
太郎が,課長以上が出席して毎月開催される定例の会議で,本人が献立について厳しく追及されるなど議論の最中に,クモ膜下出血を発症して倒れた。
太郎は,当日は,通常どおり午前6時ころに出勤し,通常どおり調理の業務を行っていたが,その最中である午前8時ころに,頭が金槌で殴られたように痛く,目の前が真っ暗になった旨調理場の他の労働者に話していた。
b 太郎の労働状況等について
太郎は,日頃,朝6時ころに太地町の自宅を出て,昼食のために午前11時半までに自宅に戻り,午後1時半ころ再度出勤し,午後10時ころに帰宅する。
太郎は,ホテルの調理場の人員が24人から17人に削減されたために忙しく,月に3回程度しか休日を取ることができなかった。
太郎は,ホテル中の島の常務から料理の単価を下げるよう厳しく要求されていたが,ホテルのセールスポイントは手作りの料理であることから,儲けにだけ走るわけにはいかないと悩んでいた。
季節ごとに献立を変える必要があったが,常務からの単価面での要求も厳しかったため,太郎は,自宅でも献立について考えていることが多かった。業務中は通常業務があるため,献立を考えることができず,自宅で献立を考えることが多かった。
(ウ) 一方,前提事実(3)イ記載のとおり,被告乙原は,原告に対して,発症前日及び前々日が休暇であったこと,定例会議中の口論は異常な出来事とはいえないこと,出勤及び帰宅の時刻についての原告の説明だけからでは太郎の労働時間を確認できないことなどを理由として,労災認定の見通しについて否定的な見解を示したこと,原告は,労災認定基準を解説したパンフレットを受け取って持ち帰ったが,申請書用紙の交付は受けなかったことが認められる。
(エ) 上記(ア)ないし(ウ)及び上記アの事実を総合すれば,原告は,一貫して,太郎について労災認定がなされてしかるべきであると考えていたことから,これを否定したという新宮労基署に,その理由を説明してもらいたいという思いと,何とか労災認定がおりないものかという強い希望や期待を持って同署を訪れ,労災認定に有益だと思われる太郎の労働状況等を詳細に説明したところ,その説明内容ごとに逐一被告乙原から否定的に応答され,情けなさと絶望感のあまり泣きながら同署を辞去したため,労災申請用紙の交付を求めるには至らなかったが,本件相談終了後も労災申請の意向を捨てたわけではなく,本件相談が不当なものであることを他者に訴えるかのような記録を日記に残すほど,本件相談における被告乙原の対応に強い不当感を抱いていたものと認められる。
ウ 原告の本件相談後の症状等について
証拠(甲18ないし20,23,証人丙山,原告本人)及び弁論の全趣旨によれば,次の事実が認められる。
(ア) 原告は,本件相談の終盤には,悔しさや情けなさ,絶望感が募り,訳の分からない状態になり,泣きながら新宮労基署を出た。
(イ) 原告は,本件相談の当日,新宮労基署を出た後のことについては,混乱状態であったために明確な記憶はなく,気がつくとスーパーマーケットの駐車場に自動車を停車していたが,そこから,大阪にいる一夫に電話をして新宮労基署での出来事を話そうとしたものの,興奮状態にあったため,泣いてばかりで,うまく話をすることができなかった。
原告は,その後,家に帰ってから近くに居住する妹である戊谷に電話をしたが,戊谷は,原告の電話での様子があまりにも異常であったため,心配になり,10時30分頃に原告宅を訪れ,原告から本件相談時の話を聞いてやり,原告が少し落ち着いた約2時間後に自宅に戻った。
(ウ) 原告は,本件相談の翌日以降,食欲が落ち,被告乙原の顔が現れて怖くて眠れないことがあり,戊谷が原告宅に泊まりに行くこともあった。
(エ) 一夫は,平成12年8月中頃,帰省して原告と太郎のことなどを色々話したが,原告が,新宮労基署での話になると被告乙原の顔を思い出して怖いと言い,血圧が上がるのか,しんどそうになるのが分かった。
(オ) 原告は,平成12年9月に高木社労士を通じて労災申請をしたため,新宮労基署から事情聴取のために出頭要請があったものの,怖いから新宮労基署には出頭することができない旨説明したところ,丙山が一人で原告の自宅や太郎が入院中の病院に出向いてくれた。
(カ) 原告は,平成12年12月20日,丙山から今回はどうしても出頭してもらいたい旨の要請を受けたものの,一人で出頭することができなかったことから,高木社労士に新宮労基署に同行してもらった。
その際,原告は,被告乙原の顔を見た途端に体が震えだし,椅子に座ろうとしたが崩れ落ちてしまい,床にしゃがんだまま立つことができず,被告乙原を指さしながら「うーうー」といったうめき声のようなものを発することしかできなかった。その後,原告は,高木社労士に抱えられながら,2階の受付から1階の会議室に移動し,そこで高木社労士立会の上で丙山一人から聞き取り調査を受けた。
(キ) 原告は,新宮労基署に書類を届ける必要があるときは,戊谷に頼んでいた。また,原告は,平成14年11月15日に戊谷と二人で新宮労基署に丙山を訪ねた際も,丙山からは2階の事務所に来て欲しい旨言われたが,建物入口で足がすくみ,どうしても2階まで上がることができなかったため,その様子を見た丙山から,「無理でしたら,一階の方でお話し致します。」と言ってもらった。
これらの事実を総合すれば,原告は,本件相談後すぐの時期から既に被告乙原に対して強い恐怖心を抱いていたこと,その恐怖心はその後長期間持続していたことが窺われる。
エ 小括
(ア) 断定的な説明内容及び説明態度について
以上の事実を踏まえて証拠(甲3の1,18,23,原告本人)を検討するに,たしかに,本件ノート,本件申立書,原告の陳述書及び供述には,相互間に出来事の順序の食い違いが見られたり,問題となる発言が出てくるまでのやりとりが欠落していて唐突な印象があることは否定できないものの,こうした点を考慮してもなお,本件相談に関する原告の供述や書証の記載部分は,根幹部分において一貫しており,その内容が具体的であり,他の証拠とも整合性を有するものであるから,これらの証拠のうちの被告乙原が原告の相談内容を徹底してはねつけるような断定的な態度を取った旨の記載及び供述は十分信用することができる。
一方,被告らは,被告乙原において,パンフレットを示しながら認定基準を説明した上で,申請をするかしないかは申請人が判断することであると説明したに過ぎない旨主張しており,これに沿う内容の証拠(乙7,丙1,証人丙山,被告乙原本人)も存する。
しかしながら,単に認定基準等につき一般的な説明を受けただけでは,原告が上記ウのような状況に陥ることは考えられず,上記の証拠に係る供述は,裏付けに乏しく,にわかには信用できない。
以上の結果,上記の原告作成の各書証の記載や原告の供述のとおり,被告乙原は,原告に対し,太郎が前日及び前々日に公休を取得していたことなどを理由として,労災申請の手続をするだけ無駄であるかのように断定的に述べた上,太郎が原告には会社に出勤すると嘘を言って別の所で遊んでいたのではないか等と述べたり,自宅での献立作成は業務とは認められない旨述べたりして,原告からの説明に対し,逐一取り合わない態度を示していたものと認めることができる。
(イ) 侮辱的な言辞について
a 太郎の浮気を示唆する言動
上記ア(ア)において認定したとおり,原告は,本件ノート(甲3の1)には,被告乙原が,薄ら笑いを浮かべて,「奥さんが知らないだけで朝,ご主人は会社に行って来ますと言ってうそをついてどこか別の所へ遊びに行ってたかも知れませんよ」と言った旨を記載し,本件申立書(甲18)には「奥さん,もしかしたらご主人,奥さんにうそをついて遊んでたのとちがう?」と笑いながら言われた旨記載している。
たしかに,これらには被告乙原が小指を立てて太郎の浮気を示唆したことは記載されていない。しかし,本件ノートには,上記の記載に続けて,「私は,腹が立って,なんと主人をぶじょくするのだと思った」との記載があり,原告が被告乙原の発言が文言以上に侮辱的なものと受け止めていたことがうかがわれるのであって,このことをも考慮すれば,被告乙原が小指を立てる仕草をした旨の記載がないことから,直ちにそうした仕草がなかったものと考えることはできない。
そして,証拠(甲19,20)によれば,原告は,本件相談直後に,戊谷及び一夫に電話をかけて,被告乙原から,太郎が仕事をしていると言って女性と遊んでいたかも知れないと小指を立てて言われた旨,泣きながら訴えていたことが認められる(なお,被告国は,本件相談当日の出来事に関する戊谷の陳述書(甲19)の記載が本件ノート(甲3の1)の記載と矛盾する旨主張するが,両者の記載を対照するに,両者の内容は必ずしも互いに相容れないものとまではいえない。)。
さらに,証拠(甲9,13)及び弁論の全趣旨によれば,原告以外にも,被告乙原による聞き取り調査の際,退社時のタイムカードを押してからもなお仕事をしていた旨説明したのに対して,被告乙原から,「それはわからないでしょう,どっか帰る途中で寄り道しているかわからないと小指を立てながら言われた」として,感情を害している旨苦情を申し立てている労災申請者がいることが認められる。
小指を立てるという表現は,現在においてはあまり一般的でなく,かつ,あまり品のいい表現方法でもないことから,極めて限られた表現方法であると認められるところ,女性である原告が,殊更,かかる表現を受けた旨虚偽の陳述をするとは考え難いし,複数の人間がたまたま同一内容の虚偽の陳述をするとはより一層考え難く,むしろ,両者が同一人から同様の体験をしたと考える方が極めて自然である。
これらの事実を総合すれば,被告乙原が,原告に対して,太郎が出勤しているよう装って遊びに行っているのではないかと述べる際に小指を立て,その遊びの相手が女性であることを示唆したものと認めることができる。
b 原告を追い返すかのような言動
上記アで認定したとおり,原告は,本件ノート(甲3の1)に,被告乙原から「女だてらに一人でよく来たね。あんたらみたいな人がいるから僕らの仕事が忙しくなる,もうこんといて」とも言われた旨を,ページの左側の余白部分に書き加えている。
そして,原告は,既に認定したとおり,本件申立書(甲18)に「奥さん,もしかしたらご主人,奥さんにうそをついて遊んでたのとちがう?」と笑いながら言われた旨,及び相談途中で「奥さんが言う様に労災の手続きをしていたら僕ら仕事がふえてたいへんやわ」と言われた旨を記載していることに加え,被告乙原が,太郎の発症当日の状況と発症前日及び前々日が休暇であったことを理由として,太郎についての労災申請は認められないものと考え,原告からの説明に取り合わない態度を示していたことをも併せ考えると,本件ノートの上記記載は余白部分に書き加えられたものではあるが,十分信用することができるものというべきである。
以上によれば,被告乙原が,原告に対して,本件相談の際,原告の求める労災申請が無駄であり,これを受け付けると被告乙原らにおいて無駄な作業を強いられるとして不快感を示し,原告を追い返すような言動をしたものと認めることができる。
(2) 上記言辞及び態度の違法性
ア 労働基準監督署における窓口相談のあるべき姿
労働基準監督署は,労働者等から労災請求を受理した上で,自らその調査及び判断を行う行政機関であるところ,不適切な請求が行われれば,請求者が不利益を受ける場合があるのみならず,労働基準監督署の業務にとっても無駄な負担となりうるものであるから,労災請求を行おうとする者から労災請求に関する問い合わせや手続相談があった場合には,適切な請求が行われるようにするため,必要に応じて手続を教示したり,労災補償制度の趣旨,内容や労災認定の要件,基準等を一般論として説明することは当然行われるべきものであるし,相談者から聴き取った内容を前提として,あくまで参考意見として相談者に対しておおよその見通しを事実上伝えることも,適切な請求の実現のために有益であり,かつ,労働基準監督署としての公正さを失するものでない限り,それ自体は違法視されるべきものではなく,むしろ行政サービスの一内容として積極的に求められるものとさえ考えられる。
もっとも,そのような場合にも,窓口相談において,担当者が相談者に侮辱的言辞をもって対応することや,相談者の判断を誤らせるような誤った内容の説明を行うことが許されないことは言うまでもない。また,申請の意思決定はあくまで相談者が自発的意思に基づいて判断すべきであって,相談者の相談内容から申請の可否が一見して明らかである場合は別として,事案の調査が十分には行われていない段階で,相談者に対して断定的な意見を示し,申請の当否を云々して申請の断念や撤回を迫ることは,参考意見の提供という範囲を超えるものであって,許されないものと言うべきである。
イ 被告乙原の言辞等の違法性
(ア) まず,被告乙原の言辞については,上記(1)エ(イ)のとおりの侮辱的な内容が含まれていたことが認められるところ,これが違法性を有するものであることは明らかである。
(イ) また,被告乙原の言辞については,上記(1)エ(ア)のとおりの断定的な内容が含まれていたことが認められる。
ここで,被告乙原の説明内容の当否について検討するに,証拠(乙3,4,5)及び弁論の全趣旨によれば,脳血管疾患及び虚血性心疾患の認定基準について,以下の事実を認めることができる。
a 平成7年2月1日付の労働省労働基準局長の通達では,業務による過重負荷の評価基準として,まず第一に,発症直前から前日までの業務が特に過重であったか否かを判断し,次いで,発症前1週間以内の業務が特に過重であったか否かを判断することとされていたが,発症前1週間より前の業務については,この業務だけで血管病変等の急激で著しい増悪に関連したとは判断しがたいものと考えられていて,発症前1週間以内の業務が日常業務を相当程度超える場合には,発症前1週間より前の業務を含めて総合的に判断するという程度の位置づけしか与えられていなかった。
b 平成13年12月12日付の厚生労働省労働基準局長の通達では,業務による明らかな過重負荷と認められるものとして,異常な出来事,短期間の過重業務,長時間の過重業務に区分して認定要件を定めた上,発症日を起点とした1か月単位の連続した期間を見て,発症前1か月間ないし6か月間にわたって1か月当たりおおむね45時間を超える時間外労働が認められない場合は,業務と発症との関連性が弱いが,おおむね45時間を超えて時間外労働時間が長くなるほど,業務と発症との関連性が徐々に強まると評価できること,発症前2か月間ないし6か月間にわたって1か月当たりおおむね80時間を超える時間外労働が認められる場合は,業務と発症との関連性が強いと評価できることをふまえて判断するとの基準が示されるに至った。
そして,被告乙原が原告から聴き取った内容を,本件相談当時の認定基準を前提として検討するに,太郎のクモ膜下出血の発症が業務上の災害と認定できるか否かの判断に当たっては,太郎が発症前日及び前々日が公休であったことが強い消極要因として働くものの,これを覆す要因としての発症前1週間以内の業務やそれより前の業務の過重性については,その認定において労働時間と自宅における献立作成等による負担とが特に重要な要素となると予想されるところ,これらについての原告の事情説明には,太郎が月に3日程度しか休暇を取れなかったことや,朝6時ころに自宅を出て昼食のために午前11時半までに自宅に戻るが午後1時半ころに再度出勤し,午後10時ころに帰宅していたこと,自宅で献立を考えざるを得なかったこと,常務から単価の引き下げを強く要求されており,料理の質を維持しなければならないこととの板挟みとなり相当程度のストレスを感じていたことなど,積極的な認定を相当程度導きうる内容も含まれていたことが認められる。
たしかに,これらの事情説明の内容は,本件相談の段階では,十分な裏付けを備えたものと言えるものではなかったものと考えることができるが,被告乙原は,これらの点について何らの資料もない段階であるにもかかわらず,既に認定したとおり,原告に対して単にその真偽を確認するのではなく,むしろ積極的に反駁して原告の主張する事情を逐一否定的に理解し,それを前提として消極的な見通しを断定的に述べているのであって,この点において被告乙原の説明は違法であったと評価することができる。
(3) まとめ
以上の次第であるから,本件相談時における被告乙原の原告に対する言動には,違法性が認められるから,国の公権力の行使に当たる公務員が,その職務を行うについて,違法な行為を行ったものというべきである。
2 争点②(相当因果関係の有無)について
(1) 本件相談以前の原告の状態
証拠(甲3の1,15,18,原告本人)及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実を認めることができる。
ア 太郎の看護及び介護による原告のストレス等
(ア) 太郎の容態
太郎は,平成12年3月3日にクモ膜下出血を発症して病院に救急搬送され,さらに脳外科のある病院に転送されたが,その後,孫の泣き声で目を開いてきょろきょろする程度の植物状態に陥り,以後,死亡するまでの間,一度も意識を回復することはなかった。
なお,平成12年6月26日には,医者が,原告ら太郎の家族に対して,太郎が肺炎を起こしており,いつどうなるか分からないから覚悟をしておいてほしい旨伝えたことがあった。
(イ) 原告が行っていた看護及び介護
太郎の入院中,太郎の看護や介護はほとんどを看護師やヘルパーが行っていたが,原告は,ほとんど毎日病院を訪れ,あるいは病院に泊まり込んで,太郎の様子を見たり,話しかけるなどして,太郎に付き添っていた。
なお,平成12年6月26日ころ以降は,原告は,ほとんど毎日のように病院に泊まり込み,おおむね夕方から夜にかけて数時間程度自宅に戻る以外は病院で太郎に付き添っていた。
(ウ) その他原告の精神及び身体の状況をうかがわせる事情
原告は,太郎がクモ膜下出血を発症して倒れてから,被害的なものの捉え方をする傾向が見られたほか,本件ノートの中でときおり疲労を訴えていた。
イ 小括
以上の事実によれば,原告は,夫である太郎が平成12年3月3日にクモ膜下出血を発症し,その後,ICUでの治療を受けたが植物状態のままであり回復の見通しが立たない状態であったことに加え,発症後,太郎に付き添って介護・看護をしており,本件相談の前ころは連日のように病院に泊まり込んでいたことなどの事実が認められ,これらの事情を総合すれば,本件相談当時においては,原告には相当程度の精神的,肉体的なストレスが蓄積されていたであろうことが容易に推測できる。
もっとも,具体的な症状として明らかに認められるのは,せいぜい原告が疲労を訴えていたり,被害的なものの捉え方をするようになったという程度であって,原告が本件相談当時すでにうつ状態にあったことを直接に示す事情をうかがわせる証拠は特段見当たらない。
なお,被告国は,丙山が,平成13年9月頃,一夫から電話で,原告が平成12年6月頃からうつ状態となり,攻撃的になっていたと聞いたことがある旨証言していることを捉え,本件相談時には,原告がすでにうつ病を発症していた可能性がある旨主張するが,証拠(甲15,16,17の1及び2)並びに弁論の全趣旨によれば,原告が一夫と行き違いが生じ,同人との意思疎通がうまくいかなくなったのは平成13年5月のゴールデンウィーク後のことであることが認められ,そうすると,上記の丙山の証言は,1年間違っている可能性が高いというほかなく,他に,本件相談時以前から,原告がうつ病を発症していたことを窺わせるような的確な証拠は存在しない。
(2) 本件相談後の状況
証拠(甲3の1,15,16,17の1及び2,18ないし20,23,証人丙山,原告本人)及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実を認めることができる。
ア 本件相談当日の状況
原告は,本件相談後,その日のうちに,携帯電話で一夫及び戊谷に電話をかけて,被告乙原からひどい応対をされたことを泣きながら話した。
また,原告は,本件相談当日分の事項として本件相談日の翌日に記載したという本件ノートの中で,被告乙原の態度や人を馬鹿にした話し方などに腹が立ち,太郎の労災申請について労働基準監督署と相談した旨の丁川課長の説明が虚偽であったことで余計に情けなく感じた旨記載している。
イ 平成12年8月中旬ころの状況
原告は,平成12年8月中旬には,お盆休みを利用して帰ってきた一夫に対し,一夫がいなかった間の経緯を説明したが,その説明の中で,新宮労基署での話になると,被告乙原の顔を思い出して怖いと話していた。
ウ 本件申立書作成
原告は,平成12年10月から11月にかけて,労災申請のために極めて詳細な事実関係を記載した申立書を作成した。原告は,この申立書の作成のために,ホテル中の島の関係者等に会って事情を聞かせてもらうこともあった。なお,この申立書は,大部分が,太郎の出勤時刻,帰宅時刻や自宅での作業内容,健康状態などといった原告自身が直接認識した事実だけでなく,太郎の発症時やその前後の状況についても,関係者からの聞き取りに基づいて詳細に記載されている。
エ 平成12年12月20日の聞き取り調査の際の状況
原告は,平成12年12月20日に聞き取り調査のため新宮労基署を訪れた際,恐怖感のせいで一人で同署を訪れることができなかったため,高木社労士に付き添いを求めており,付き添いがなければ同署を訪れることができない状態であった。また同署では,丙山からの聞き取り調査には応じることができたが,被告乙原に対しては,うめき声のような声を上げるだけで何も話ができなかった。
オ 平成13年6月から同年7月ころまでの状況
原告は,平成13年のゴールデンウィークころ,労災申請に際して一夫との行き違いが生じるなどしたため,労災申請に関することは何も話したくなく,無理に話そうとすると,代理人弁護士や裁判所職員に対してであっても言葉が出なくなり,また,誰と会うのも怖く,長男や親戚,友人でさえ怖く感じるに至っており,極度の疲労,不眠,食欲不振,不安,恐怖感,抑うつ感などを訴えていた。
(3) くどう内科クリニックでの受診時の状況
証拠(甲15,16,22の2,原告本人)及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実を認めることができる。
ア 初診時(平成13年8月18日)
原告は,怖い夢を見るため不眠であること,食欲がないこと,体重は46キログラムであるが,これは一時減少した後再び増加したものであることなどを医師に対して述べている。
また,原告は,健康調査票による問診において,「近ごろ自分の性格に変わってきたところがありますか」という質問に対しては「いいえ」と回答しており,直接に性格について尋ねた,「神経質な方ですか,人からそういわれますか。」,「くよくよと先のことを取越苦労をしますか。」との質問に対して「はい」と回答している。
イ 平成13年9月以降
原告は,その後,継続的にくどう内科クリニックに通院して受診し,精神療法,投薬を受けている。この間,原告は,医師に対し,太郎の友人の使い込み(9月28日など)や,おばからの干渉(10月27日),いとこの急死(平成14年2月16日),太郎の死亡(7月6日),長男との意見の対立(7月27日)などを身の回りの変化として訴えている。原告の食欲不振や不眠,疲労などは一進一退を続けながら軽快の傾向を見せているが,些細なことでも長男との対立が生じると,不眠になったり,長男の声を聞くだけで怖くなったりするとの訴えが目立つ。
(4) 小括
以上の事実に証拠(甲27,28)を総合すれば,原告は,元来神経質な性格であったこと,本件相談のころには,太郎の突然の発症及び太郎に対する看護,介護により相当程度の精神的,肉体的ストレスが蓄積されていたことが推測できる一方,原告が,本件相談を境に,労働基準監督署や被告乙原に対する恐怖感を強く抱くようになり,この恐怖感によるものと思われる悪夢や不眠などを訴えるようになったこと,平成13年6月ころには,さらに原告と長男との間で労災申請に関する方針が対立したことも手伝って,恐ろしい夢を見て眠れず,労災申請に関連することは何も話したくなくなり,無理に話そうとしても言葉が出なくなってしまうほどであったこと,そのようなときには長男も親戚や友人も怖く感じる状態であったこと,本件相談後にも原告にとって心理的・精神的負担となりうる出来事がいくつかあったものの,それらによっても原告の状況が極端に悪化することはなかったことが認められる。
そして,原告が,太郎のクモ膜下出血の発症が労災であるとの思いを強くし,労働基準監督署に行けば,職員の尽力によって労災申請が受け付けられ,最終的には労災認定がなされるであろうとの期待を抱いて新宮労基署の窓口に赴いたことがうかがわれること(甲23,原告本人)をも合わせて考えれば,原告のうつ病の発症の原因は,原告が精神的,肉体的ストレスを蓄積していたところへ,本件相談における被告乙原の対応によってそれまでの期待感が一気に恐怖感,絶望感に変化した経験にあると考えるのが最も合理的である。
(5) 因果関係の相当性
なお,被告乙原の違法行為は,1度切りの,長くとも1時間程度のやりとりの中で侮辱的言辞や断定的な説明などの不適切な対応をしたというものにとどまっている。それにもかかわらず,この違法行為から上記のような経過をたどって原告がうつ病を発症するに至ったのは,原告の元来の性格上の素因や,本件相談当時の精神的,肉体的ストレスの蓄積,労働基準監督署の窓口相談に対する期待の大きさなど,原告側の要因も多分に寄与した結果であると考えざるを得ない。
もっとも,被告乙原にとって,これらの要因のうち,ストレスの蓄積については,相談内容からある程度まで推測可能であろうし,窓口相談に対する期待の大きさについても,窓口相談に大きな期待をかけて労働基準監督署を訪れる者は必ずしも少なくないと考えられる上に,原告とのやりとりの中でもある程度は把握できるものと考えられるのであって,これらの要因がうつ病発症の基礎にあることをもって,被告乙原の違法行為と原告のうつ病発症との間の因果関係の相当性は否定されないと言うべきである(甲27,28)。
3 争点③(公務員個人に対する損害賠償の可否)について
(1) 国家賠償法1条は,公権力の行使に当たる公務員がその職務を行うについて,故意又は過失によって違法に他人に損害を与えた場合について,国又は地方公共団体に賠償の責を負わせることとし(国家賠償法1条1項),当該公務員に対しては,故意又は重過失がある場合に限り,国又は地方公共団体の求償権を認めている(国家賠償法1条2項)ところ,これらは,国又は地方公共団体の責任を自己責任と位置付け,公務員個人の責任を否定することを前提としているものと解される。
したがって,国家賠償法1条の適用がある場合には,公務員に故意又は重過失が認められる場合であっても,公務員個人は被害者に対して直接に損害賠償責任を負わないものと解すべきである。
(2) 本件において,被告乙原が,国の公権力の行使に当たる公務員であって,その窓口相談における相談者との応対は,その職務を行うについてなされた行為であるところ,上記によれば,被告乙原は原告に対して直接に損害賠償義務を負うことはないことになる。
4 争点④(損害論)について
(1) 弁護士費用以外の損害
ア 治療費等
証拠(甲4の1,4の4,4の5,14,原告本人)及び弁論の全趣旨によれば,平成12年9月11日及び平成13年5月9日の日比記念病院での受診は,風邪ないしは感染症の診察及び治療を目的としたものであることが認められ,また,平成14年7月18日の同病院に対する文書料2100円の支払(甲4の6)がうつ病の治療等のために支出されたものと認めるに足りる証拠はない。その結果,本件違法行為と相当因果関係があると認められる治療費は,以下のとおりであり,その合計は27万6990円である(甲4の2,4の3,5の1ないし8,6の1及び2,7の1ないし3)。
(ア) 日比記念病院 3710円
(イ) くどう内科クリニック 6万5610円
(ウ) ほほえみ調剤薬局(薬剤費) 20万7670円
合計 27万6990円
イ 慰謝料
原告が,平成12年7月31日の被告乙原の言動によって,うつ病を発症し,平成13年8月以降通院治療を余儀なくされたものであるところ,これらの精神的及び肉体的苦痛を金銭をもって慰謝するには,本件違法行為の回数・程度,原告の罹患した疾病・治療期間等本件に顕れた諸事情を総合すれば,70万円が相当であると認める。
(2) 原告の素因等を理由とする控除
既に上記2(5)において認定したとおり,原告が,被告乙原の違法行為から上記のような経過をたどって原告がうつ病を発症するに至ったのは,原告の性格上の素因や,ストレスの蓄積,窓口相談に対する期待の大きさなど,原告側の要因も多分に寄与した結果であると考えざるを得ない。
また,証拠(甲15,17の1及び2,原告本人)並びに弁論の全趣旨によれば,原告は,本件相談によるうつ病発症後,労災申請の方針等をめぐって,何度か一夫と対立しており,特に,原告の精神状態が平成13年6月ころに労災申請に関して極めて不安定になったのは,労災申請等の方針をめぐる一夫との意見の対立が強く影響していることがうかがわれる。
このような事情に照らせば,上記損害の2分の1についてのみ,被告乙原の違法な行為に帰責できるものと認めるのが相当である。
(3) 弁護士費用
本件事案の内容及び訴訟遂行の難度,請求認容額などを考慮すれば,原告が本件訴訟遂行のために弁護士に支払を約した着手金及び報酬金のうち,10万円については,本件不法行為と相当因果関係のある損害と言うべきである。
5 結論
以上によれば,原告の本件各請求は,被告国に対して,不法行為に基づく損害賠償金として58万8495円及びこれに対する不法行為日である平成12年7月31日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める限度においてのみ理由があり,被告国に対するその余の請求及び被告乙原に対する請求はいずれも理由がない。なお,仮執行宣言については,被告国の支払能力は十分であり,また,被告国のいかなる財産に対して原告の仮執行が行われるかが予測困難であるために場合によっては被告国の事務に混乱を生じる事態が引き起こされるおそれも否定できないことが認められるものの,本件損害賠償は金銭をもって原告の精神的苦痛を償うという性質を有することに照らし,14日間の猶予期間を設けた上で,原告の仮執行を認めるのが相当であると考えられる。
よって,主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官・村岡寛,裁判官・秋本昌彦,裁判官・寺元義人)