和歌山地方裁判所 昭和33年(わ)203号 判決 1958年12月06日
被告人 南野礼次郎
主文
被告人を無期懲役に処する。
押収にかゝる刺身庖丁壱挺(証第一号)はこれを没収する。
理由
被告人は昭和二十二年十月強盗、強盗傷人、窃盗罪により懲役八年の刑を受け昭和二十五年八月札幌刑務所を仮出獄により出所して以来肩書住居で土工仕事に従事していたものであるが、同三十二年一月九日和歌山市布引において強盗殺人事件が発生した翌日頃被告人方の近隣出身で被告人も顔見知の和歌山県警察本部刑事部捜査第一課勤務巡査部長南野武雄(当三十二年)が犯人検挙の手懸をうるため被告人の両親から同事件発生当日の被告人の動静等を聴取したことを聞知するや、被告人は右強盗殺人事件には全く関係がないのに拘らず畢竟自己に前記前科があるため南野巡査部長から右事件の犯人として嫌疑をかけられたものと思い悩むと共に同巡査部長の措置に対し憤懣に堪えず、被告人自ら又は知人を介して同巡査部長に対し謝罪を求めこれに関する詑状の作成を要求したが、同巡査部長は前記聞込み捜査は上司の命令で行なつたもので決して不当なものではないし、警察官としても被告人の示すが如き内容の詑状に印を押すことはできないと被告人の要求を拒絶していたが、同三十三年六月頃になつて同巡査部長夫婦が被告人の近隣である実家に居住するようになつてから被告人は更に執拗に右要求を繰り返し同巡査部長宅に訪れたので、漸く被告人の行動に不安を覚えた同巡査部長は仲介人を依頼して被告人側と問題解決のため種々交渉を続けた結果被告人の真意は金銭的要求であると考え被告人が本件問題解決のため仕事を休んだ日数に応じて金銭を支払うべく交渉したところ、被告人が慰藉料を含めたより多額の金銭を要求したため折合いが付かずその後同巡査部長の上司が入つて話合いをすることになつたが、都合悪く延期されていたところ、被告人は前記の如き交渉経過をみて同巡査部長の誠意を疑い同人さえ謝まつて呉れればこのような苦しみはしなくて済むものと同巡査部長に対する憤懣の情いよいよ昂まり、遂に同年八月一日午後八時頃この日こそは同人に謝罪させようと考え若し同人が詑状の作成に応じなければ同人を殺害するも止むを得ずと決意し数日前買い求めておいた刃渡り二二・九糎の刺身庖丁一挺(証第一号)を衣服の下に隠し持つて和歌山市毛見千二百六十五番地の同巡査部長宅に赴き、同家四畳の間上り口に同人と並んで腰を掛け、かねて用意していた詑状の原稿(証第七号)を同人に示してその内容の確認を迫つたところ、同人が右詑状を碌に読まず冷淡な態度を示したため憤激その極に達し矢庭に前記刺身庖丁を右手に持ち殺意を以て同巡査部長の腹部及び頸部等を数回突刺し、以て腸間膜静脈及び左内頸静脈切損を伴う腹部刺創及び左頸部刺創を負わせ、同人をして出血多量のため間もなく同所において死亡するに至らしめて殺害したものである。
(証拠の標目)(略)
(法令の適用)
被告人の判示所為は刑法第百九十九条に該当するのでその情状について考慮するに凡そ兇悪犯罪特に強盗殺人犯の如き重大犯罪が発生した場合速かにこれが犯人を検挙して社会不安を除き、公共の福祉の維持を計ることこそ国家的不可欠事であり、このため捜査官憲はその全力を挙げ、法律の許容する権限を行使し、かつ基本的人権を全うしつゝ捜査の目的達成に邁進すべきものなることは言を俟たないところである。この場合当該犯罪の場所的或は時間的関係者が任意捜査においてはその範囲内において捜査官憲より、或は聞き込みを受け或は参考人として取調を受け、その他作為、不作為の協力を求められることあるは、これ又已むを得ないことでありこれを忍受し、協力することも又良き社会人としての立場であると云わねばならない。
本件においては判示事実の如く被告人の居住地方面に強盗殺人事件が発生し、警察官において必死の捜査に従事中偶々被告人の両親が一警察官より秘かに被告人の動静につき僅かの聞き込みを受けたものであり、元より被告人に前科があるのでこれを以て直ちに不快の念を抱くのもけだし人情として己むを得ないものがあり、殊にその警察官が被告人の住居地の出身者であり、かねて知合の間柄とすれば一層不快の度の強かつたことも想像に難くはないが、然し南野巡査部長の被告人の両親に対する聞込み捜査活動はその方法及び内容において特に被告人を被疑者扱にしたものでなく、前記犯罪につき何等かの手懸を得たいために試みたものと認め得られるので、この程度の聞込捜査を以て特に違法なものであつたとか、行き過ぎがあつたとは云い難く被告人においてもその前科ある者の心情を考慮しても、警察官の行為は個人的悪意を以ての行為でなく、全く公の職務によるものなることを考え、これを忍受すべきであつたと認めても敢えて難きを強ふるものでないと思われる。
然るに被告人はことこゝに出でず自己に前科あるため、犯人扱いにしたとして憤慨し、一年有半に亘り執拗に謝罪を要求し、被害者南野巡査部長やその上司の警察署長等の口頭の謝罪では満足せず、更に謝罪状を要求して譲らず幾多の仲裁人の努力、説得も退けて只管自己の要求を固持し続け、相手方において金銭的補償で代えられたき提案を受けるや休業日当、精神的慰藉料等合計三万二千円を主張して曲げずこれ又不調に終らせ遂に判示の如き惨虐な殺人行為を敢えてし、当時満三十二年の将来ある警察官の一命を奪い、然も本件は前記の如く被害者が捜査官として治安維持の為適法に行つた行為に対する復讐的殺人行為であつてかゝることが世上行われることがあつては社会の治安の維持にも影響なしとは云えないこと、又被害者の個人的事情を見るに一家には実父母、及び結婚後一年有余の妻等があり同人等をして一朝にして頼りとする一人息子や夫を失わせ悲歎のどん底へ突き落したこと、然も本件は被害者の実母の面前で行われた悲惨な状況等を考慮するとき、被告人にはその性格において非妥協、自己中心、執着性、過感等心気的傾向の異状のあつたことを斟酌してもその刑事責任は余りにも大きいと謂わねばならない。
よつて所定刑中無期懲役刑を選択し、押収にかゝる刺身庖丁一挺(証第一号)は被告人が本件犯行の用に供したもので被告人以外の者に属しないから、同法第十九条第一項第二号第二項を適用してこれを没収することとし、訴訟費用の免除につき刑事訴訟法第百八十一条第一項但書を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 中田勝三 林義一 早井博昭)