大分地方裁判所 平成13年(ワ)309号 判決 2005年9月22日
主文
1 被告は,原告乙野太郎に対し1906万7075円,原告丙川春子及び同丁山夏子に対しそれぞれ728万3538円並びに各金員に対する平成12年6月18日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2 原告らのその余の請求をいずれも棄却する。
3 訴訟費用はこれを5分し,その4を被告の負担とし,その余を原告らの負担とする。
4 この判決は,第1項に限り仮に執行することができる。
事実及び理由
第1 請求
被告は,原告乙野太郎に対し2287万円,原告丙川春子及び同丁山夏子に対し各868万5000円並びに各金員に対する平成12年6月18日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第2 事案の概要
本件は,亡乙野花子(以下「花子」という。)が,被告の開設している病院に入院し,同病院で髄膜腫摘出術を受けたところ,髄膜腫(頭部左側に発生)の対側(頭部右側)に急性硬膜下血腫が生じ,これにより死亡したこと(以下,この事故を「本件事故」という。)から,同人の法定相続人である原告らが,担当医師らに説明義務違反のほか,硬膜下血腫を発見するのが遅れた過失があるとして,使用者である被告に対し,民法715条に基づく原告ら固有の慰謝料,葬儀費用,弁護士費用や,花子から相続により承継取得した慰謝料,逸失利益等の損害の賠償及び不法行為の後である花子が死亡した日の翌日から支払済みまで民法所定年5分の割合による遅延損害金の支払を求めている事案である。
1 争いのない事実等(末尾に証拠番号を掲記した事実は,当該証拠によって容易に認定できる事実を含む。)
(1) 当事者等
ア 花子は,昭和5年*月*日生まれの女性であり,平成12年6月17日当時,69歳であった。(甲C1)
イ 原告乙野太郎(以下「原告太郎」という。)は,花子の夫であり,住所地で花子と2人で生活していた。原告丙川春子(以下「原告春子」という。)及び同丁山夏子(以下「原告夏子」という。)は,花子と原告太郎との問の子であり,花子らとは別居し,独立して生計を立てている。花子の法定相続人は,この3名である。(甲C1ないし3)
ウ 被告は,国家公務員共済組合連合会新別府病院(以下「本件病院」という。)を開設する特殊法人であり,同病院に勤務する医師らの使用者である。
(2) 本件の経緯
ア 花子は,平成9年ころより,年に1回程度,回転性のめまいを感じていたものであるが,平成12年6月2日,いつもより強いめまいを感じ,大分県別府市内の病院を受診し,MRI検査を受けた。その結果,脳腫瘍が見つかり,同月6日,本件病院の脳神経外科を受診し,髄膜腫(左前頭縁蓋部・4×4.5センチメートル大。なお,髄膜腫とは,硬膜中のクモ膜顆粒の細胞から発生すると考えられる良性腫瘍である。)と診断された。花子は,髄膜腫の摘出術(以下「本件手術」という。)を受けるため同月14日,同病院に入院した。(甲B1,乙A1,2,4の1から4まで,5の1から4まで)
イ 同月15日(以下,特筆しない限り,時刻のみで示すものは,同日に関するものであり,日付を省略する。)14時03分,本件手術は,同科の春山一郎医師(以下「春山」という。)の執刀で開始された。
春山らがドリルを用いて頭蓋骨を穿孔し,骨片を外したところ,硬膜が非常に緊満し,収縮期血圧が約220mmHgまで上昇し,上矢状静脈洞の一部から噴水状の出血が生じた。(乙A2,乙B1,5,証人春山)
ウ 春山らは,こうした頭蓋内圧亢進の原因を髄膜腫の腫瘍内出血あるいは髄膜腫周辺よりの出血であると考え,髄膜腫の周囲を剥離し,髄膜腫の一塊りを全て摘出し,髄膜腫直下の大脳皮質内の少量の血腫も除去した。しかし,頭蓋内圧亢進は全く改善せず,その原因が髄膜腫内出血及び髄膜腫周辺よりの出血ではないことが明らかとなった。(乙A2,乙B1,証人春山)
エ このため,春山らは,17時15分,開頭部に骨片を戻せないまま人工硬膜を用いて硬膜・頭皮のみを縫合して本件手術を終え,閉頭した。(乙A2,乙B1)
オ 春山らは,その後,頭蓋内圧亢進の原因を明らかにするため,花子に対し,17時45分に頭部CT検査を実施し,髄膜腫の対側に急性硬膜下血腫が形成されていることを発見した。直ちに開頭血腫除去を施行することとなり,18時18分に,同除去術(以下「本件再手術」という。なお,本件手術の際の皮膚切開部位と,本件再手術の際の皮膚切開部位の対応関係は,別紙図面のとおりである。)が開始された。本件再手術終了後,大脳皮質の戻り,拍動とも不良であった。その後の花子に対する頭部CT検査では,右大脳半球広範囲から左後頭葉にかけて梗塞巣の出現を見た。(乙A1,2,6から8まで,乙B1)
力 花子は意識障害のまま回復せず,同月17日1時26分に急性硬膜下血腫により死亡するに至った。
2 争点及び争点に関する当事者らの主張
本件の主たる争点は,① 説明義務違反の有無,② 硬膜下血腫発見の遅延の有無③ 損害額であり,各争点に関する当事者らの主張は,以下のとおりである。
(1) 説明義務違反の有無
(原告らの主張)
本件髄膜腫は,早急に手術する必要性はなく,数か月に1回程度のCT検査による経過観察で足りる症例であった。髄膜腫の摘出術の実施にあたって担当医は,少なくとも,① 手術の必要性(特に緊急性)と危険性,② 手術以外の選択肢(例えば経過観察)の有無,③ 手術と手術以外の選択肢との優劣について患者及び家族に説明し,その選択の機会を与えるべき注意義務を負う。特に,本件においては,早急に手術する必要性はなかったのであるから,経過観察のうえ,何らかの新たな症状が発現した時点で手術を行っても予後に変わりはないこと,開頭手術であり,一定の危険性を伴うことを,花子や原告らに説明したうえで,直ちに手術を受けるのか,諸検査を含む経過観察とするのかを,選択する機会を提供することが義務づけられる。
ところが,春山らは,花子や原告らに対し,「治療としてはOP(外科手術)しかない」などとの説明を行っており,説明義務に違反した。
(被告の主張)
本件の髄膜腫は4センチメートルx4.5センチメートルと大きく,腫瘍周囲の脳浮腫が既に運動野に及んでいたことから,春山らは手術適応であると判断し,① 髄膜腫は大きく,このまま放置すれば近い将来手足の麻痺,けいれん,失語症など様々な神経症状が出現する可能性の高いこと,② これを回避するには手術で髄膜腫を摘出するしかないが,手術の危険性としては,手術操作による術後脳浮腫の増大とそれに伴う手足の麻痺,失語症等の神経症状の出現,術中の出血,術後感染,けいれんの出現などがあり,その他に予期せぬことが起きる可能性もあること,③ それらの危険性よりもこのまま手術をせずに経過を見て,髄膜腫がさらに増大することによって様々な神経症状が引き起こされる危険性の方が高いであろうことなど,必要にして十分な説明を行った。
(2) 硬膜下血腫発見の遅延の有無
(原告らの主張)
ア 硬膜下血腫の形成の経緯
本件手術における頭蓋骨の切開は,7箇所の穿孔のうち,3箇所が正中線を越えた対側に設けられ,対側の3箇所の穿孔を結んだ骨切除線は上矢状静脈洞のすぐ右側であり,特に3箇所の穿孔部のうち両端の2箇所の位置は上矢状静脈洞に極めて近接していた。したがって,本件での右急性硬膜下血腫は,開頭操作の際に,対側の穿孔形成過程あるいは骨切過程で上矢状静脈洞の一部(おそらくは端部あるいは橋静脈の静脈洞への流入口部)を損傷したために生じたものである。
イ 硬膜下血腫発見に至る経過
本件では,14時45分に骨片を除去した時点で,硬膜は頭蓋内圧亢進のため非常に緊満していた。春山らは,その原因を頭蓋内出血であると判断し,その部位を髄膜腫内あるいは髄膜腫周辺が最も疑われるとして,急いで髄膜腫摘出に着手した。その後,15時30分には髄膜腫が摘出されているが,髄膜腫周囲に出血が認められなかったため,人工硬膜を用いて17時15分に閉頭した。その後,同医師らは,17時45分ころに花子をCT室に運び,CT検査の結果,対側に広汎な硬膜下血腫が発見された。開頭のうえ,右硬膜下血腫の除去術である本件再手術が施行されたのは18時18分である。
ウ 硬膜下血腫発見の遅延
(ア) 髄膜腫摘出時の対側硬膜の観察等懈怠
開頭時に頭蓋内圧の異常な亢進を認めた場合の脳外科医は,直ちにその原因についての考察を行い,その原因として硬膜下血腫の発生が疑われた場合には,その発生を迅速に発見し,摘出すべき一般的注意義務を負う。
本件において,髄膜腫摘出時に,髄膜腫周囲に出血が認められず,脳組織の腫脹が治まらなかった時点では,一般的に,対側硬膜に対して何らかの操作を加えている以上,対側硬膜下血腫が発生する可能性は常に存在するし,① 本件手術後の最初のCTで対側硬膜下血腫は開頭部の硬膜に密着して存在していたことが認められるのであるから,本件では,注意深く観察すれば,硬膜が青みを帯びていることが分かったはずであるし,② 対側硬膜の緊満度が異常に高いことが認められたはずであること,③ 上矢状洞,大脳鎌等の正中構造の対側への偏倚が認められたはずであり,これらの事情から,対側硬膜下血腫の存在の可能性が高いと判断することはそれほど困難ではなかった。この場合,対側硬膜を1ないし2センチメートル切開して硬膜を開き,内腔を観察すれば,硬膜下血腫が直ちに噴出し,診断は容易に確定し得た。
したがって,春山らには,髄膜腫摘出時において,対側硬膜の観察等の義務を懈怠した過失がある。
(イ) 閉頭操作及び頭部CT検査の実施遅延
仮に(ア)の措置が無理だったとしても,本件のように,一刻を争う場合には,丁寧な閉頭を行うべきではない。脳組織が著しく膨隆している状況においては,脳組織には,人工硬膜を被せ,数箇所の縫合のみでよく,頭皮は1層の縫合でよい。そうすれば,30分以内に閉頭し,CT検査に移行することが可能である。しかし,本件では,髄膜腫摘出の終了(15時30分)から閉頭(17時15分)までに1時間45分を要しており,明らかに閉頭操作が遅延したものといえる。
したがって,春山らには,閉頭を簡易迅速に行い,頭部CT検査の早期実施により,頭蓋内出血の部位を特定する義務を懈怠した過失がある。
エ 因果関係
髄膜腫摘出時に対側の硬膜下血腫を疑って,直ちに対側の開頭がされていれば,花子が救命されていた可能性が高く,また,少なくとも閉頭が迅速に行われていれば,花子が救命されていた可能性がある。
(被告の主張)
ア 硬膜下血腫の形成の経緯
本件手術の対側穿孔部は,正中線より2センチメートル以上も離れた位置に設けられており,この位置では上矢状静脈洞を損傷することはないし,開頭操作の際に対側硬膜を傷つけたこともない。また,本件再手術時に認められた出血部位も,本件手術の開頭部位とは離れている。
結局,本件における硬膜下血腫の原因は不明である。
イ 硬膜下血腫発見に至る経緯
春山らが,原告らに対し,当初は髄膜腫摘出が15時30分と答え(甲A1),また答弁書でもそのとおり認めたことは,十分な検討をしていない段階での誤りで,実際には16時から16時15分ころである。骨片を外したときに硬膜が緊満していたとすると,マンニットール(脳圧降下剤)を投与し,ある程度脳圧が下降してから硬膜を開け始めるから,マンニットールの投与時間が本件手術の麻酔表(乙A2の28頁,以下「本件麻酔表」という。)により14時45分から14時55分と特定できることからして,本当に硬膜を開け始めたのは,15時前後と考えられ,15時30分に髄膜腫が取りきれていたはずはない。
ウ 硬膜下血腫発見の遅延
(ア) 髄膜腫摘出時の対側硬膜の観察等懈怠
春山らが認識していた硬膜が緊満しているという事象だけでは,出血部位がどこなのか分からず,その状況だけで対側硬膜下血腫が発生していると予想することは極めて困難である。そして,髄膜腫が存在する以上,髄膜腫内あるいはその周辺に出血が起こったことをまず第1に,しかも最も可能性が高いものと考え,髄膜腫摘出に踏み切ったのは必然的な判断である。さらに髄膜腫内及びその周辺の出血が否定された段階で,幾多の可能性のありうる出血部位の中から対側急性硬膜下血腫だけを想定せよとすることはできないのであって,出血部位の見当がつかない以上,この時点で速やかに閉頭し,頭蓋内圧亢進の原因解明を頭部CTに委ねようと考えたことは,緊急事態においてやむを得ない判断である。
本件で露出された対側硬膜はごく一部で,しかもその部位は血腫の一番端の部分にあたり,透見しにくいし,本件手術で硬膜を観察した春山ら4人の脳外科医も青みを帯びた箇所は発見していない。また,対側硬膜の緊満(左右差)や上矢状洞(正中構造)の偏倚は認められていない。
露出している対側硬膜を1ないし2センチメートル切開するという処置は,上矢状静脈洞に流入する静脈を傷つける可能性が高く,少なくとも本件のように急性硬膜下血腫を疑う所見がない場合に一般的に行われる処置ではない。
(イ) 閉頭操作及び頭部CT検査の実施遅延
実際の髄膜腫摘出時刻は,15時30分よりももっと遅い時間であり(16時から16時15分ころ),春山らは,同摘出後,髄膜腫周囲の出血を疑い血腫を発見して除去し(15分から30分程度),急いで閉頭(30分から45分程度)して17時15分に手術を終え,17時43分に頭部CTを施行して急性硬膜下血腫を発見し,18時18分に本件再手術を開始し,開頭・硬膜切開に約30分を費やし,18時50分に頭蓋内圧を減圧することができた。
以上の経過は,それぞれの操作において必要とされるものであって,やむを得ない措置であり,頭蓋内出血の部位を特定することが遅れたとすることはできない。
エ 因果関係
仮に髄膜腫摘出時を15時30分ころとすれば,30分ないし45分早く頭蓋内出血の特定を可能とするが,現実に頭部右側を開頭し,硬膜を切開して頭蓋内圧を減圧した時間から30分ないし45分前である18時5分から20分ころには,花子の大脳には致死的損傷が生じていたと考えられ,結果回避可能性はなかった。
(3) 損害の発生
(原告らの主張)
ア 慰謝料 合計2500万円
(ア) 花子は,69歳で不慮の事故によって死亡するに至ったものであり,本人固有の慰謝料としては2000万円が相当である。
(イ) 原告太郎は,本件事故により,最愛の妻を失ったもので,その慰謝料は300万円が相当である。原告春子及び同夏子は,母を失ったもので,慰謝料は各100万円とすべきである。
イ 逸失利益 1074万円
花子は死亡当時69歳の主婦であり,本件事故がなければ,少なくとも75歳までは家事労働に従事できた。平成10年度の賃金センサスの65歳以上の全女子労働者の平均年収は,298万9400円であり,これを基準とし,生活費控除割合を30パーセントとして中間利息を新ホフマン係数を用いて計算すると,1074万円(1万円未満切捨て)となる。
298万9400円×0.7×5.1336=1074万2468円
ウ 葬祭費 150万円
エ 弁護士費用 300万円
原告らは,弁護士に本件訴訟を委任し,その弁護士費用として認容額の10パーセントを支払う旨約定した。内金300万円を本件事故による損害として請求する。
オ まとめ
アないしエを合計すると,4024万円となる。花子固有の慰謝料及び逸失利益は,原告らが法定相続分に応じて相続し,葬祭費及び弁護士費用は原告太郎が負担するものである。
以上から,原告らは,被告に対し,請求の趣旨のとおり,原告太郎に対し,2287万円,原告春子及び同夏子に対して各868万5000円の各支払,及び花子の死亡した日の翌日からの民法所定の年5分の割合による遅延損害金を請求するものである。
(被告の主張)
争う。逸失利益については,本件のように,夫が既に退職し,子が独立している場合の主婦の場合,独自の逸失利益として算定するほどのものではないし,仮に家事労働を認め得るとしても,その対価としては,平均賃金に相当するとすべきでなく,平均賃金の3分の1程度に相当するに過ぎない。
第3 当裁判所の判断
1 説明義務違反について
(1) 証拠(乙A1の6頁,乙A2の5頁,乙B1,5)によれば,平成12年6月6日,本件病院の夏川二郎医師は,花子に対し,良性腫瘍であるから手術で解決できる旨説明し,同月14日,春山は,原告太郎に対し,「恐らく良性腫瘍であるが,このまま放置すれば,徐々に腫瘍は増大し,様々な神経症状が出現する。治療としては手術しかない。手衛による危険性として,① 手術操作による脳浮腫の増大と,それに伴う意識障害,手足の麻痺等が出現すること,② けいれんの出現や術後感染が起こり得ること,③ 全身麻酔による影響として肺炎,肝障害等が起こり得ることが挙げられる。腫瘍は血液を多く含んでおり,摘出時,出血が多くなる可能性がある,そのため場合によっては輸血が必要となる。」などを説明したことが認められる。
(2) ところで,医師は,患者の疾患治療のために手術を実施するにあたっては,診療契約に基づき,特別の事情のない限り,患者に対し,当該疾患の診断(病名と病状)・実施予定の手術の内容・手術に付随する危険性・他に選択可能な治療方法があればその内容と利害得失・予後などについて説明すべき義務があると解される(最高裁平成13年11月27日第三小法廷判決,民集55巻6号1154頁参照)。そして,具体的な場面においては,当該疾患の種類や手術の内容,患者の精神状態等が様々であることから,医師の患者に対する説明義務の内容及び程度は,当該医療行為の種別・内容やその必要性及びこれに伴う危険性の程度,緊急性の有無等によって異なるもので,これらを総合勘案して説明義務の内容及びその程度を決定すべきものであり,他に選択可能な治療方法を伝達しなかったという一事のみによって,常に説明義務違反があると断定できるものではないと考えられる。
まず,本件手術の必要性の有無について,春山は本件髄膜腫が4x4.5センチメートルと大きく,術前の頭部MRI検査において脳浮腫が既に腫瘍周囲に広がって運動野にも及んでおり,手足の麻痺等何らかの神経症状が出現するのは時間の問題であると考え,また,髄膜腫が成長するかどうか経過観察を行っても,花子が高齢であるため別の疾患が発生し,要手術時に弊害となる可能性があるため,早期の手術が必要と判断したと陳述している(乙B5)。これについては,花子が69歳と高齢であり,発見時には頭蓋内圧亢進症状等が発現していなかったことからすると,手術を急ぐべき理由はなく,経過観察を行って新たな症状が発現し,あるいは髄膜腫に明らかな成長が認められた時点で手術を行っても治療予後に変わりがなかった旨の意見(鑑定の結果)も存在する。しかしながら,本件髄膜腫の部位が上矢状静脈洞の近傍であり,花子の年齢では髄膜腫が大きくなる可能性が存在し,もし,本件髄膜腫が上矢状静脈洞に到達すれば手術の難易度が格段に難しくなる(公立学校共済関東中央病院脳神経外科吉本智信医師作成の意見書(乙B6・以下「吉本意見書」という。))との意見があり,甲B4の医学文献にも髄膜腫の治療の原則は手術による全摘出であるが,上矢状静脈洞等の重要な血管を取り囲んで発育している場合には全摘出が難しくなることも少なくなく,髄膜腫の再発率及び長期予後は手術による髄膜腫の摘出度と深く関係しているとの記述があることからすると,本件手術の必要性についての春山らの判断は,医学的に十分根拠と合理性のある判断であったとみることができ,経過観察をすべきであったとの判断に比べて,殊更に根拠や合理性の薄い方法をとったということはできない。このようにみることができる以上,外科的手術を積極的に推奨した春山らの説明に問題があったとはいないし,「治療としてはOPしかない」とのカルテ(乙A2の5頁)の記載の趣旨についても,春山の陳述書(乙B5)によると,髄膜腫が小さい場合はガンマナイフ等の治療も選択できるが,本症例の髄膜腫の大きさでは腫瘍を消失あるいは縮小させるには手術しかないという意味で用いて説明したものと認められ,春山が断定的判断を告知して花子に経過観察選択の余地を全く与えなかったということもできない。
そして,本件手術は,脳外科の手術の中ではごく一般的な手術であり(甲B2,弁論の全趣旨),手術死亡率も低い(甲B3)ことなどの事情も指摘することができる。
以上の諸事情を総合勘案すると,春山らは花子や原告らに,髄膜腫の性質,本件手術の内容,本件手術から通常想定される術中・術後の合併症等の危険性を説明すれば,基本的には説明義務を尽くしたと考えられるべきであるところ,本件手術の危険性を始めとした上記各事項については,春山らは,上記認定のとおり比較的丁寧に説明しているということができる。そうすると,経過観察という方法がありうる(鑑定の結果における意見であり,これも医学的に根拠のある意見と考えられる。)ということについて,春山らがより説明した方が望ましかったのではないかという判断はありえても,それを行わなかったことが説明義務違反となるとまではいうことができない。よって,本件でなされた春山らの説明に特段の問題があるとは認め難いから,説明義務違反に関する原告らの主張は採用することができない。
2 硬膜下血腫の発見遅滞について
(1) 証拠(末尾に掲記)及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実が認められる。
ア 平成12年6月15日14時03分,本件手術は春山らの執刀で開始された。なお,本件手術には,春山を含め4名の脳外科医が立ち会い,そのうち春山を含む3名が日本脳神経外科学会が認定する専門医であった。全身麻酔導入までの間,花子には,けいれん・意識障害等の異常所見は認められなかった。
全身麻酔後,3点ピンで頭部を固定し,正中線を越えてコの字型に皮膚を切開し,頭皮を翻転し,頭蓋骨を露出させ,1番手ドリル(1番手ドリルには安全装置がついており,ドリルが硬膜を突き抜けることはないよう設計されていた。)を用い,頭蓋骨に穿孔を7箇所設け,そのうち,3箇所の穿孔は正中線を越えた対側(但し,正中線を越えて2センチメートルほど離れた位置)に設けた。穿孔と穿孔の閔は,硬膜剥離子,線鋸誘導子を用いて各穿孔間の頭蓋骨と硬膜の癒着をはがし,その後2番手ドリル(2番手ドリルには保護板がついており,直接刃が硬膜の下に潜らないような設計になっている。)にて穿孔問の頭蓋骨を線状に切除のうえ,硬膜剥離子を用いて頭蓋骨と硬膜間の剥離をすすめ,骨片を除去した。骨片には,硬膜上から頭蓋骨内に浸潤した髄膜腫の一部が付着していた。
14時45分ころ,春山が,上記のように,骨片を外したところ,硬膜が非常に緊満し,それまで正常範囲にあった収縮期血圧が220から230mmHgまで急激に上昇し,上矢状静脈洞表面の小さな穴から噴水状の出血が見られ,手術用綿等にて止血した。頭蓋内圧が亢進しているのは明らかであったため,14時45分ころから15時ころにかけてマンニットール300ccを静注し,これにより血圧は低下した。(乙A2,乙B1,5)
イ 春山らは,こうした頭蓋内圧亢進の原因を髄膜腫内出血あるいは髄膜腫周辺よりの出血であると考え,髄膜腫の周辺に沿って左側硬膜切開を行ったところ(右側硬膜は切開していない。),脳表が髄膜腫とともに上方に向かって膨降した。髄膜腫の周囲を剥離し,髄膜腫の一塊りを全て摘出し,髄膜腫直下の大脳皮質内の少量の血腫も除去した。しかし,頭蓋内圧亢進は全く改善せず,その原因が髄膜腫内出血及び髄膜腫周辺よりの出血ではないことが明らかとなった。(乙A2,乙B1)
ウ このため,春山らは,人工硬膜(ゴアテック)を用いて膨隆した脳表を包むように硬膜を縫合し,開頭部に骨片を戻せないまま頭皮を縫合し,17時15分手術を終えた。この時点で両側瞳孔は軽度散大し,対光反射はなかった。(乙A2,乙B1)
エ その後,春山らは,頭蓋内圧亢進の原因を明らかにするため,17時45分ころに花子に対し,頭部CT検査を実施したところ,髄膜腫の対側(右側)に急性硬膜下血腫が形成され,正中偏位が著明で,脳幹周囲の脳槽が消滅していることが判明した(乙A6)
オ 直ちに開頭し,血腫除去を施行することとなり,18時18分に本件再手術が開始された。
春山らは,右前頭部から頭頂部,側頭部に至る広範囲に開頭を行い,硬膜下血腫を除去したが,頭頂部の橋静脈(上矢状静脈洞に入り込む手前部分)に裂孔(壁の半分くらいが裂けていた。)があり,そこから出血が見られたため止血し,その他にも上矢状静脈洞に沿ってにじむような出血が数箇所見られたため,これらの箇所を止血した。脳表は下方に沈降しており,右大脳のほぼ全体を観察することができたが,右大脳には明らかな血管の損傷,異常は認められなかった。春山らは,硬膜を縫合し,右側も骨片を戻さずに頭皮を縫合し,21時45分に本件再手術を終えて閉頭した.しかし花子は,昏睡状態で,両側の瞳孔は散大し,対光反射は消失していた。その後の頭部CTでは右大脳半球広範囲から左後頭葉にかけて梗塞巣の出現が描出された。(乙A1,2,7,8,乙B1,証人春山)
カ その後,花子は意識障害のまま回復せず,同月17日1時26分に急性硬膜下血腫により死亡するに至った。
なお,花子の病理解剖はなされておらず,被告から原告ら遺族に病理解剖を求めることもなかった。
(2) 事実認定の補足説明
ア 硬膜下血腫の発生原因及び時期について
(ア) 花子の死因となった硬膜下血腫の原因となった出血が,本件手術において,骨片を除去した時点までに生じたことは当事者間に争いがない。硬膜下血腫は,一般的には,橋静脈あるいは脳表面の小血管(動脈あるいは静脈)が頭蓋内圧の急激な変動あるいは頭部外傷時の直接・間接的な外力により破綻することによって生じるものである(鑑定の結果)が,本件では,本件全証拠によっても,脳表面の小血管の破綻は観察されていない一方(乙B1によると,春山も,本件再手術の際,右大脳のほぼ全体を観察することができたが,明らかな血管の損傷,異常は認められなかったとしている。),橋静脈については,本件再手術時に,対側(右側)の橋静脈の一部に損傷があることが発見されていること(乙A2の31頁),硬膜下血腫は,花子の大脳半球と硬膜面の状況から,下方から上方に向かって形成されたと考えられ,その最上部は出血点の近傍に存在しなければならないところ,本件手術後本件再手術前に撮影された頭部CTの画像においては,上記最上部は,橋静脈の近傍に位置していること(乙A6のNo12,鑑定の結果)からすると,本件硬膜下血腫の原因が橋静脈の損傷によるものと推認するのが相当である。
(イ) 原告らは,春山らの開頭操作の際に硬膜が損傷し,硬膜下の橋静脈を破綻させ,硬膜下血腫を形成させたと主張しているので,この点について検討する。
この点,本件手術後本件再手術前に撮影された前記頭部CTの画像(乙A6のNo12)において,頭部右側に点状に2箇所空気の貯留とみられる放射線の低吸収域が撮影されており,この空気貯留は,左側を開頭した時点では既に頭蓋内圧が亢進しており,空気が左硬膜内に侵入し,硬膜下腔を通って右硬膜下腔に移動することはあり得ない以上,未だ頭蓋内圧が低い時点で右側硬膜が断裂し,空気が開いた穴から右側硬膜下腔に流入し,それが血腫形成後も残存したものと推定されるとの見解があり(鑑定の結果),同見解は内容が合理的であるし,前記認定事実によると,本件手術の際,春山が骨片を外したところ,硬膜が非常に緊満していただけでなく,右側硬膜と接する上矢状静脈洞表面の小さな穴から噴水状の出血が見られたのであるから,頭蓋骨切除等の際に,頭蓋骨の下の部位に損傷を与えた可能性が高いということができるから,上記見解のとおり,春山らが正中線より右側を開頭した際に硬膜に損傷が生じたことが推認できる。
この硬膜損傷と橋静脈の損傷との関連について,証拠(鑑定の結果,甲B3,吉本意見書)によると,開頭における手術操作はどのように丁寧に行ったとしても,硬膜とそれに密着して存在する橋静脈にある程度の外力が加わるため,橋静脈の出血等を招く可能性が比較的高いことが認められ,本件手術前に撮影された髄膜腫周辺のMRI画像(乙A5の2)によれば,本件手術の開頭範囲の内部に2本の橋静脈が存在することが認められる。そして,乙A2号証の麻酔記録によると,骨片除去後,花子の血圧が急上昇したのが14時45分ころであるから,出血開始は14時30分ころと推定できる(かなりの大出血であっても,血圧高度上昇を来すまでには少なくとも数分間は必要である。鑑定の結果)。
(ウ) これらのことからすると,本件手術でも,春山らの開頭操作により(具体的には,骨片を硬膜からはがすときか,穿孔から穿孔へ線鋸誘導子を渡す際),硬膜が損傷し,その下の橋静脈が破綻し,14時30分ころから出血が開始したと一応推定できる。これに対し,被告らの主張のうち,開頭部位と本件再手術時の出血部位の相違の点(証人春山もその旨証言している。同証人の尋問調書添付図面参照)は,被告提出の吉本意見書でもその合理性を排斥されているし,対側硬膜を傷つけていないという点は,前記のCTに造影された点状の空気貯留により明確に否定されている。その余に,前記推定を否定する客観的な事情や証拠は見当たらず,硬膜下血腫の原因について,上記認定と異なる見解をとることは困難である。
イ 髄膜腫摘出の時刻
(ア) 被告は,髄膜腫の摘出時刻に関し,答弁書では15時30分に(髄膜腫の)摘出を終えた旨の主張をしていたにもかかわらず,平成16年7月6日付けの準備書面では,実際に摘出したのは16時から16時15分であった旨訂正している。
この点,被告は,答弁書及び訴訟前の原告らとのやりとりを記載した甲A1号証は,十分な検討をしていない段階での発言であり,手術の手順,本件麻酔表,本件手術に立ち会った関係者の供述を総合すると,15時30分に髄膜腫の摘出を終えるのは不可能で,むしろ,16時か16時15分に終えたと考えるのが合理的で,かつ記憶にも整合するとしている。確かに,カルテには,複数箇所「(髄膜腫の)摘出後『急いで』閉頭した」旨の記述も出ており(乙A2の6頁,10頁),春山らが相応の切迫感を有していたことは窺える。
(イ) ところで,開頭時における突発的,かつ異常な頭蓋内圧亢進の原因は一般的に,喚気不全(血中酸素濃度低下,炭酸ガス濃度上昇),広汎な脳虚血後再灌流に起因する急激な脳浮腫(巨大な腫蕩を切除した後,あるいは脳血栓・塞栓が発生した場合),及び頭蓋内出血(硬膜外,硬膜下,脳内血腫)のいずれかであり,このうち,硬膜下血腫は,一旦発生すれば,放置すれば急速に死を来すので,患者の予後はその発生をどれほど迅速に発見し,摘出し得るかによって決定される(鑑定の結果)。
そして,このような知見を前提として,原告らは,本件のように,原因不明の脳膨隆がある場合の速やかな閉頭措置として,脳組織に人工硬膜を被せ,数箇所のみ縫合し,頭皮は一層の縫合のみ行えば,遅くとも30分以内に閉頭することができたと述べている(鑑定の結果もこれと同様である。)。これに対し,被告らはこのような具体的な手技に関しては反論しておらず,むしろ,手術記録(乙A2の27頁)では,頭皮を2層に縫合したと記載されており,春山らが,原告らの主張する簡易な縫合方法をとらなかったことが認定できる。
(ウ) さらに,被告側が髄膜腫摘出の時刻を16時00分ないし15分ころと主張する根拠も,客観的な資料はなく,春山らの記憶や,手術の通常の手順等のみである。しかし,春山らの記憶については,本件手術から4年近く経過した後の記憶と,訴訟提起前の記憶とを比較して前者の方により信用性があると認めることは一般的に困難であるうえ,鑑定の結果(補充鑑定書)では,髄膜腫切除は14時45分に始まり,約45分間を要して15時30分に終了したという当初の被告らの説明ですら,本件における髄膜腫の状態と開頭時の状況を考慮すると,「腫瘍摘出が極めて迅速に行われたとは言えないにしてもそれに要した時間は常識的な範囲を逸脱するものではない」と指摘されており,一般的な手順であれば開頭から髄膜腫摘出までもっと時間がかかるはずであるとの被告らの主張は,その正当性について疑問を抱かざるを得ない。
(エ) 以上によれば,髄膜腫摘出の時刻については,15時30分ころと認めるほかなく(春山らは,当初本件麻酔表記載の血圧の推移を見てこのように主張していたものと認められるから,十分な検討をしていなかったとは考えにくい。なお,髄膜腫の摘出が一定の血圧の低下をもたらせることがあることは,鑑定の結果にも沿い,自然である。),これに反する被告の主張は採用できない。
ウ 本件硬膜下血腫の発見可能時期
(ア) 前提となる医学的知見と医師の注意義務脳が不可逆的損傷を受ける虚血の閾値は,血流低下の程度とその持続時間によって決定される。血腫発生の場所,発生速度,脳の状況,頭蓋内圧上昇の程度,その他の条件は個々の症例によって大きく異なるので,脳に不可逆的損傷が発生する虚血時間の閾値を一般的に限定することは困難である。しかし,動物実験では,高度脳虚血が1時間以上続くと広汎な不可逆的脳損傷が発生するという結果が多く報告されている。高度な脳圧亢進が生じた症例においては,血腫発生後,長くても2ないし3時間の間に血腫除去が行われなければ,不可逆的損傷が脳に広汎に発生すると考えられる。脳外傷による急性硬膜下血腫の致命率は,術前意識障害の程度・年齢・受傷から手術までの時間等によって左右される。
海外の症例報告によれば,ある程度の脳機能が維持されて生存した患者においては受傷後170分以内に手術がなされている一方,死亡例での受傷から手術までの時間の平均は390分であった。(鑑定の結果)
このような医学的知見を前提にすると,硬膜下血腫が疑われる患者については,脳外科医師は,患者の脳が不可逆的な損傷を受けることがないように,可及的速やかに血腫の発生部位を特定し,外科的手術によって血腫を除去すべき一般的注意義務を負っている。
(イ) 髄膜腫摘出時の対側硬膜の観察等懈怠の有無原告らは,まず,異常な頭蓋内圧亢進を認めた場合,対側硬膜に対しても開頭操作を加えている以上,対側硬膜下血腫の発生可能性を疑うべきであり,髄膜腫を除去しても,脳組織の腫脹が治まらない段階で,対側の硬膜を観察し,露出している対側硬膜を1,2センチメートル切開して硬膜を開き,内腔を観察すれば,直ちに血腫を発見できたと主張する。
確かに,前記認定事実によると,本件手術は正中線を越えて,対側の頭蓋骨も切除していること,このような正中線を越える手術は,腫瘍が片側性であるときは避けるべきであるとの文献も存在すること(甲B3),春山らは,骨片を外した際,上矢静脈洞表面の小さな穴から噴水状の出血を見て,手術用綿等で止血していること,髄膜腫やその周辺の少量の血腫を除去しても頭蓋内圧亢進が改善しなかったなどからすると,春山らが,髄膜腫等を除去したが,脳組織(脳表)の腫脹が収まらない段階で,対側の何らかの異常を少なくとも可能性の一つとして疑うべきではなかったかの疑問が拭いきれない。
しかしながら,春山らは,髄膜腫摘出の際に対側硬膜下血腫が発生したとの症例報告を知らなかったと述べており(乙B1,5,証人春山),このような症例が文献等で紹介されたことを示す証拠も提出されていないから,花子の症状は,実務的には例の少ない症例であった可能性を否定することができない。また,原告らの主張する対側硬膜の緊満や正中構造の偏倚も,髄膜腫摘出の時点で,容易に認めることができたとはいい難く,少なくともそれを示す証拠は十分ではない(推測に基づく面が多分にある。)。さらに,対側硬膜を観察する措置についても,対側硬膜の露出部分の大きさや硬膜下血腫の部位からして,必ずしも青みを帯びているかどうか判断できたか疑問が残る(現実に春山らは確認できていない。)。
したがって,これらの事情を総合すると,疑問は拭いきれないものの,春山らが,対側硬膜の観察を怠ったとまで断定することはできないというべきである。さらに,露出している対側硬膜を1,2センチメートル切開するという処置については,花子の頭部対側への侵襲性を伴い,静脈等に損傷を与える可能性があるものであることは否定できず,当時の医療水準として,かかる措置が積極的に推奨されたと認めるに足りる証拠はない(吉本意見書もこれに沿う。)から,同処置をとることが春山らの義務であったとまでいうことは困難である。
むしろ,頭蓋内圧亢進の原因が硬膜下血腫の他にも多数あること(硬膜下出血の他,硬膜外出血,脳内出血なども考えられる。)を踏まえると,可及的迅速に行われる限りにおいては,一旦閉頭し,頭部CTで頭蓋内圧亢進の原因を精査するという判断をとることは十分合理性を有する。
したがって,この点に関し,疑問は拭いきれないものの,春山らのとった判断が誤っていたとみることはできず,春山らに過失があったとまではいないから,原告らの主張は採用することができない。
(ウ) 閉頭操作及び頭部CT検査の実施遅延の有無
前記イのとおり,髄膜腫の摘出時刻が15時30分であったことを前提とすると,髄膜腫摘出後,閉頭を終えた17時15分まで,約1時間45分も要していることになり,原告らの主張する手技(遅くとも30分で閉頭できる。)に比し,時間がかかり過ぎているといわざるを得ず,閉頭措置が遅延したといる(鑑定の結果。また,髄膜腫摘出が15時30分であったことを前提とすれば,吉本意見書も同様の結論をとる。)。
この点,本件では,17時15分に閉頭し,頭部CTを経て18時18分に本件再手術が開始され(この間約1時間),その後19時5分までには硬膜下血腫が除去されたことが認められる(硬膜下血腫除去の正確な時刻は不明であるものの,乙A2の33頁に「血腫除去後出血とまらずBP60台となり,輸血開始する」とあり,乙A2の32頁の麻酔表と対比すると,血圧が60mmHg台になったのは19時5分なので,硬膜下血腫除去が終わったのはこれより前であると認められる。被告は,頭蓋内圧が減圧できたのは18時50分であると主張しているので,血腫除去はこのころと考えることもできる。)。すなわち,14時30分ころの出血から,頭蓋内圧の減圧ができた18時50分までの間でも,260分が経過しており,前記(ア)に記載した医学的知見によっても,ある程度脳機能を残して生存することが可能な患者の受傷から手術までの時間である170分ないし180分(3時間)をはるかに超えていることが認められる。そして,不可逆的損傷を受けた脳に血流を再開すると急激に脳浮腫が発生し,それは多くの場合新たな脳内出血の発生を伴うが,本件再手術後の経過も同様であり,花子には,本件再手術開始以前に大脳の致死的(不可逆的)損傷が生じていたと考えられる(鑑定の結果)から,橋静脈の出血(硬膜下血腫形成)から本件再手術までの時間が長すぎたことが,花子に致命的な結果を与えたものとみることができる。
一方,仮に本件で,鑑定人の指摘する簡易な閉頭を行い,髄膜腫摘出(15時30分)の30分後に閉頭を終え(16時),同じ時間経過で頭部CT,本件再手術の準備をすれば(約1時間),17時ころには本件再手術を開始でき,その35分ないし50分後には硬膜下血腫を除去できた可能性があり,少なくとも,硬膜下血腫を形成する出血が開始した14時30分から3時間経過するまで(17時30分ころまで)に血腫を除去できた蓋然性は少なくなかったものといえる(鑑定の結果(追加鑑定書5頁)にも,「1時間でも早くCT検査・再手術が行われていれば,致命的な脳ヘルニア・脳死の発生を防止し得た可能性が高い」との指摘があり,上記想定が裏付けられる。)。
そして,前記(ア)の医学的知見によれば,硬膜下血腫発生後,長くても2時間から3時間の問に血腫除去が行われなければ,不可逆的損傷が脳に広汎に発生すると考えられている一方,海外の症例報告によれば,ある程度の脳機能が維持されて生存した患者においては受傷後170分以内に手術がなされているから,血腫形成後,およそ3時間が経過するまでに血腫を除去できる可能性があれば,花子の救命可能性も相当程度あったということができる。
以上によれば,閉頭遅滞と花子の死亡との間には,相当因果関係を認めることができる。
3 損害の発生
(1) 慰謝料 2200万円
証拠(甲A1,乙A1,2)及び弁論の全趣旨によれば,花子は,本件手術に至るまで,69歳という年齢ではあったものの,夫である原告太郎と同居し,平穏な暮らしを送っていたものと認められる。そして,本件手術にあたり,花子がそれほど不安感をもっていなかったことは甲A1号証の原告らの発言からも窺われるところである。このような事情のもとに,花子の精神的苦痛を慰謝するものとしては1800万円が相当である。
さらに,上記事情に照らせば,原告太郎の固有の慰謝料は,200万円,原告春子及び夏子の慰謝料は各100万円と評価するのが相当である。
(2) 逸失利益 713万4150円
花子は,本件死亡時,無職の夫と同居する69歳の主婦であったものと認められる。69歳の女性の平成12年における平均余命は19.03年であるから,少なくとも原告らの主張する6年間の間(75歳まで)は家事労働を行うことができたものと認められ,これを金銭評価するのが相当である。そして,年齢と生活状況,夫の就労状態等を併せて考えると,その間の家事労働を平均して金銭評価すれば,女子65歳以上の平均賃金の7割に相当する金額とするのが相当で,その生活費控除率は,30パーセントとする。
以上によれば,286万8300円(平成12年度賃金センサス女性労働者学歴計65歳以上の平均賃金)×0.7×(1-0.3)×5.076(6年に対応するライプニッツ係数)=713万4150円となる。(1円未満四捨五入)
(3) 葬儀費用 150万円
葬儀費用としては150万円が相当である。
(4) 相続
上記のうち,花子固有の慰謝料及び逸失利益は,原告太郎が2分の1(1256万7075円),原告春子及び同夏子が各4分の1(各628万3538円。1円未満四捨五入)ずつ,その損害賠償請求権を相続した。
(5) 弁護士費用
(1)ないし(4)のとおり,原告らが取得した損害賠償請求権の総額は,3063万4151円となるので,弁護士費用としては,その約1割に相当する300万円を相当と認める。
なお,葬儀費用,弁護士費用については,原告春子及び同夏子に固有の損害分がありうるが,実際は原告太郎が全額支出の負担をしていることが認められる(弁論の全趣旨)から,同損害分も含めて相当因果関係のある原告太郎の損害と認める。
(6) 小括
以上によれば,原告太郎は,固有の慰謝料,葬儀費用,弁護士費用と,相続した花子の慰謝料及び逸失利益の合計である金1906万7075円,原告春子及び同夏子は,各固有の慰謝料と,各相続した花子の慰謝料及び逸失利益の合計である各728万3538円,及びそれぞれこれらの金員に対する不法行為の日よりも後である花子の死亡した日の翌日である平成12年6月18Bから民法所定の年5分の割合による遅延損害金の各支払を,被告に対し,請求することができる。
第4 結論
そうすると,原告らの請求は,主文第1項の限度で理由があるから,これを認容し,その余は理由がないからいずれも棄却することとし,訴訟費用の負担について民事訴訟法65条1項本文,64条本文,61条を,仮執行宣言について同法259条1項を各適用して,主文のとおり判決する。