大分地方裁判所 平成19年(わ)315号 判決 2010年1月13日
主文
被告人を懲役6年に処する。
未決勾留日数中640日をその刑に算入する。
理由
(罪となるべき事実)
被告人は,
第1元夫Aが結婚前から1000万円程度の金を持っていたにもかかわらず充分な生活費や養育費を渡さなかったことを知って立腹し,同人ほか1名が現に住居に使用している大分県甲市乙町所在の木造瓦葺き一部2階建建物(床面積合計約166平方メートル)に放火しようと企て,平成19年10月17日午前0時35分ころ,同建物1階6畳仏間及び7畳衣装部屋において,両部屋に敷かれていたカーペット等に灯油を撒布した上,所携のライターで仏間のカーペットに点火して放火し,これを床,天井等に順次燃え移らせ,よって,上記Aらが現に住居に使用している上記建物を全焼させて焼損し,
第2元夫Aが被告人の預けた金を返そうとしないことに立腹し,自らが居住し,現に元夫Aがいる大分県甲市丙町所在の集合住宅○号室(鉄筋コンクリート造,床面積約72.1平方メートル)に放火するとともに,同人を負傷させようと企て,平成19年10月20日午前8時50分ころ,上記○号室において,同人が就寝中の布団に灯油を撒布した上,所携のライターで点火して放火し,これを床,天井等に順次燃え移らせ,よって,現に同人がいる上記○号室を全焼させるとともに,同人に入院加療約28日間を要する気道熱傷,火炎熱傷ⅡからⅢ度(顔面・両側手背等)の傷害を負わせた。
(証拠の標目)省略
(法令の適用)
罰条
判示第1 刑法108条
判示第2のうち
現住建造物等放火の点 同法108条
傷害の点 同法204条
科刑上一罪の処理 同法54条1項前段,10条(判示第2につき1罪として重い現住建造物等放火の罪の刑で処断)
刑種の選択
判示第1,第2 いずれも有期懲役刑
併合罪の処理 同法45条前段,47条本文,10条(重い判示第1の罪の刑に法定の加重)
未決勾留日数算入 同法21条
訴訟費用 刑訴法181条1項ただし書(不負担)
(弁護人の主張に対する判断)
1 弁護人の主張
弁護人は,被告人が,本件各犯行当時,てんかんもしくはFAHR病といった大脳基底核の石灰化を伴う器質的な精神病に罹患しており,てんかん薬等の副作用と飲酒の影響で心神喪失ないし心神耗弱の状態にあったと主張するので,この点について判断する。
2 当裁判所の判断
(1) 脳器質性疾患の有無について(FAHR病等の検討)
ア 被告人は,過去にB病院でてんかんとの診断を受けている(弁3)。そして,C医師による精神衛生診断(弁1)において,両側淡蒼球の石灰化が特徴的であるとして,FAHR病がもっとも考えられると診断されている。
しかし,D医師による精神鑑定(現住建造物等放火及び殺人未遂事件被疑者精神鑑定書,甲61,以下「D鑑定」という。)において,てんかんやFAHR病は否定され,被告人には明らかな精神障害は認められず,性格傾向として情緒不安定性傾向があるとされた上,弁護人の請求により実施したE医師の精神鑑定(精神鑑定書,職5,以下「E鑑定」という。)においても,犯行時,脳器質性疾患は否定され,被告人は境界性パーソナリティ障害であり,抑うつ状態であったとされている。
D鑑定及びE鑑定は,いずれも診断の資料となった客観的事実に誤りはなく,合理的方法で行われている。生活歴に関する情報の差異により境界性パーソナリティ障害の確定診断に至っているか否かの相違が見られるが,脳器質性疾患の有無に関しては基本的に同様の診断をしているのであるから,その限度ではともに信用できる。
そして,D鑑定は,生活歴などの情報が十分でないため,DSM-4の人格障害の全般的診断基準を満たすとはいえないので,境界性パーソナリティ障害との診断はできないとしつつ,被告人の人格傾向の参考として,DSM-4の境界性パーソナリティ障害の下位基準を満たすことを指摘しているところ,E鑑定は,D鑑定において用いられた資料に加え,被告人の公判供述等もふまえて被告人の生活歴などを改めて詳細に検討し,DSM-4-TRの人格障害の全般的診断基準を満たし,下位基準も満たすとして,境界性パーソナリティ障害の確定診断に至ったものであるから,その診断を信用できる。
よって,E鑑定により,被告人は犯行時,境界性パーソナリティ障害であったと認めることができる。しかしながら,境界性パーソナリティ障害は性格の偏りであり,本件各犯行,さらに本件各犯行に至るまでにみられた自殺企図やFに対する無断投薬を始めとする問題行動等は,境界性パーソナリティ障害により怒り等の感情のコントロールが困難で衝動性が高いことに起因するものと考えられるものの,善悪の弁識能力及びその弁識に従って行動する能力が低下しているような状態にはなかったといえる。
イ 弁護人は,被告人が若年でありながら両側淡蒼球の石灰化が確認されており,後頭葉,前頭葉,側頭葉の一部,小脳での血流低下という脳の客観的所見から血流低下部位の障害の存在やこれに起因する精神症状,神経症状の出現が推測でき,本件で確認された抑うつ状態という精神症状に認知の障害や異常が伴っていれば,神経精神症状である可能性が大きいから,被告人は本件各犯行当時,遺伝的要因が強く疑われる大脳等の器質性精神障害による認知障害や人格変化をきたしており,脳の器質性精神障害による病的思考あるいは衝動が,本件各犯行に至るまでのFに対する無断投薬を初めとする了解困難な異常な行動やその延長線上にある本件各犯行を支配していたと主張する。
しかしながら,E鑑定は,被告人の淡蒼球の石灰化の密度は低く,沈着部位も限局した小さなものであり,その量と広さと広がりから見て生理的石灰化と区別がつかないこと,淡蒼球破壊の神経症状や精神症状が認められないこと,SPECTで淡蒼球に血流低下がないこと,知能指数の低下がなく知的機能の障害が進行していないことから,FAHR病と診断できないとしている。FAHR病の概念は必ずしも確立されていないが,E鑑定は,その症状や客観的所見に基づく合理的な定義をもとに診断しており,信用することができる。
そして,大脳基底核に血流低下はないが,後頭葉,前頭葉,側頭葉の一部に軽度血流低下,e-ZISで小脳に明瞭な血流低下がみられるところ,弁護人は,E鑑定はかかる血流低下の病的意義が不明であるとしていることから,被告人に大脳疾患が存することを科学的に否定しきれておらず,認知障害を伴った症状の混在は大脳疾患に伴う精神神経症状の特徴とされていることに照らしても,鑑定を信用することができないと主張する。
しかしながら,脳血流を測定するもう一つの方法である3D-SSPでは軽度血流が低下しているにすぎなかったこと,小脳症状が正常であること,被告人は広く使われる診断基準であるDSM-4-TRに従って境界性パーソナリティ障害と診断されているところ,境界性パーソナリティ障害では原因は不明ながら同様の血流低下を示すデータが出ていること,血流低下の病的意義を解明するための検査を尽くしていることから,これを明らかにしていないことの一点をもって鑑定の信用性を否定することはできない。
(2) 飲酒,服薬の影響の有無
ア 判示第1の事実における飲酒,服薬の影響
被告人は,食事の際に500ミリリットル缶入りのビールを飲み,コップに半分くらいの焼酎で処方された量の薬を飲んだと供述している。起きたときに身体に酒が残っている感じはなかったと供述していること,日ごろの飲酒量に照らせば少量であること,犯行から2時間後の飲酒検知で呼気からアルコールを検出していないこと,薬の量は定量であることから,犯行時に飲酒,薬の影響があったとは認めがたい。
イ 判示第2の事実における飲酒,服薬の影響
被告人は,前の日の夕方,公判廷では朝昼晩の3回分の薬をまとめて,捜査段階では晩の1回分である1錠を飲んだと供述しているが,薬を飲んでも飲まなくても変わらないとも供述していること,犯行当日は薬を飲んでいないこと,犯行直前に被告人と話した警察官が会話や応答の態度,歩き方にも特段おかしいと感じる様子はなかったと供述していることから,犯行時に薬の影響があったとは認めがたい。
(3) 動機について
ア 判示第1の事実の動機
犯行の動機は,被告人が経済的に苦しいAとの結婚生活を我慢していたにもかかわらず,Aが結婚前から1000万円程度の多額の金を持っていたことに腹を立て,その財産を燃やそうとAの住居に放火したというものであって,全く了解できないものではない上,被告人が境界性パーソナリティ障害であったことも併せ考慮すれば,より了解できるものである。
イ 判示第2の事実の動機
犯行の動機は,生活保護を受給するために預けた815万円余りの金をAが返そうとしないことに怒り心頭に発し,Aにけがをさせようとして同人が現在する自己の住居に放火したものであり,前同様,その動機は了解可能である。
(4) 犯行態様等について
ア 判示第1の事実の犯行態様等
被告人は,あらかじめ車庫に隠していた,2リットルのペットボトル4本に入れた灯油を部屋に持ってきて,普段からAが貴重品を持ってくるあたりであると知っていた仏間と衣装部屋に撒き,第三者による犯行を装って空のペットボトルを隣家の敷地内に置いてから,カーペットにライターで火をつけており,放火行為として合理的かつ合目的的な行動をとっている。
火をつけた後は再び寝ようとして布団に入ったが,バチバチッという音にやばいと思い,Aを起こし,自分の荷物を持って逃げ出していることから,周囲の状況を的確に判断して行動しているといえる。
さらに,被告人は,Aに対し,警察でAの火の不始末が原因であると言うように何度も求めるなど,犯跡の隠蔽を試みている。
イ 判示第2の事実の犯行態様等
被告人は,あらかじめ冷蔵庫に隠していた浅漬けの素の入れ物に入れた灯油を,けがをさせようとしているAが寝ていたベッドに撒いて,ライターで火をつけており,放火行為として合理的かつ合目的的な行動をとっている。
判示第1の事実のときのように予想外に燃え広がってしまうと困るとして灯油の量を減らしていること,予想外に火が大きくなったとして警察に行って家が燃えていると言ったこと,コンビニエンスストアでライターや灯油のついたジャンパーを捨てて犯跡を隠蔽していることから,自己の行為やその結果など,周囲の状況を認識して判断の上行動しているといえる。
(5) 結論
これらの事情を総合すると,本件各犯行当時,被告人は,境界性パーソナリティ障害のために一般人と比べると怒り等の感情のコントロールが困難で衝動性が高い状態にあり,また,抑うつ状態にあったと認めることができるものの,精神病にはり患しておらず,動機が了解可能であること,犯行時に合目的的行動を取っていることなどからしても,物事の善悪を判断し,その判断に従って行動する能力が全くないか著しく減退した状態にはなかったといえる。
(量刑の理由)
1 本件は,被告人が,元夫の住居に放火した現住建造物等放火(判示第1),元夫のいる自己の居室に放火して全焼させ,元夫に傷害を負わせた現住建造物等放火,傷害(判示第2)の各事案である。
2 判示第1については,深夜の住宅密集地で,灯油を利用して放火したものであり,犯行の態様が危険である。元夫方が全焼するとともに,隣家4件が類焼し,近隣住民は大きな恐怖を味わったのであるから,犯行の結果も重大である。延焼家屋の住民の被害感情は強く,被告人の厳罰を希望しているのも当然である。被告人は元夫が被告人が金銭的に苦労した結婚当時から多額の金を持っていたことに腹を立てたものであるが,そうであるからといって家を燃やそうとするというのは短慮にすぎ,動機に酌むべき点があるとはいえない。
判示第2についても,集合住宅において,判示第1に比べれば少量とはいえ,灯油を利用した犯行態様は危険である。自宅居室を全焼させた上,近隣家屋には水害などの被害を生じさせ,近隣住民に大きな恐怖を与えている。元夫は入院加療約28日間を要する熱傷を負い,いまだに不自由な生活を余儀なくされている。犯行の結果は重大といえる。被告人は,預けた金を元夫が返そうとしないことに腹を立て,火をつけることで被害者に傷害を負わせようとしたというものであるが,短慮にすぎることは前同様である。
以上によれば,被告人の刑事責任は重大である。
3 しかしながら,以下のとおり,被告人のために有利に酌みうる事情も認めることができる。
まず,第2事実については,階下の住民に350万円,居室の所有者に90万円の被害弁償がなされている。被告人には,その責任能力に影響しないものの,人格障害があり,本件各犯行時には,頼りにしていた内縁の夫と連絡が取れず,かわいがっていた息子を施設に預けたことから,抑うつ状態となり,体重が著しく減少するなど,肉体的にも精神的にも追いつめられた状態であった。
また,被告人に前科はない。幼い3人の子供と内縁の夫が被告人の社会復帰を待ち望んでいる。
そこで,これら諸事情を総合考慮の上,被告人に対しては主文の刑を科することとした。
(求刑 懲役8年)
(裁判長裁判官 宮本孝文 裁判官 西﨑健児 裁判官 嶋田真紀)