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大分地方裁判所 平成5年(ワ)246号 判決 1998年6月30日

原告

甲野一郎

右訴訟代理人弁護士

德田靖之

鈴木宗嚴

被告

右代表者法務大臣

下稲葉耕吉

右指定代理人

細川二朗

外九名

主文

一  被告は、原告に対し、金六一四八万四八〇八円及びこれに対する平成二年六月一六日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用はこれを五分し、その一を原告の負担とし、その余を被告の負担とする。

四  この判決は第一項に限り、仮に執行することができる。

事実及び理由

第一  原告の請求

一  被告は、原告に対し、金七七五四万円及びこれに対する平成二年六月一六日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  訴訟費用は被告の負担とする。

三  仮執行宣言。

第二  事案の概要

本件は訴外亡A(以下「次郎」という。)が、被告の設置する大分医科大学医学部附属病院(以下「附属病院」という。)において、モヤモヤ病(ウィリス動脈輪閉塞症。以下、単に「モヤモヤ病」という。)の治療のために頭部外科手術を受けた際、被告の被用者である医師らの手術方法等の過誤により次郎が死亡したとして、次郎の父である原告が、被告に対し、不法行為に基づく損害賠償を請求した事案である。

一  争いのない事実等(証拠を掲記していない部分は、争いのない事実である。)

1  当事者

原告は、平成二年六月一六日に死亡した次郎の父であり、その法定相続人である。

被告は、附属病院の設置者であり、次郎が附属病院に入院した当時、同病院脳神経外科において、医師D教授(以下「D医師」という。)、C医師(以下「C医師」という。)、A医師(以下「A医師」という。)を雇用し、患者の治療に従事させていた(以上につき争いがない。)。B医師(以下「B医師」という。)は、当時、財団法人健和会大手町病院脳神経外科部長であり、大分医科大学医学部の非常勤講師を努めていた(乙三三、証人D)。

2  次郎が附属病院において手術を受けるまでの経過

(1) 次郎は、小学四年生頃から中学一年頃にかけ、年に数回、手足、特に左側の手足の脱力発作を起こしていた。その頃、月に数回鎮痛薬を要するような頭痛発作もあり、また、手足の脱力発作は、大学二年以降入院までの間に、飲酒後や風呂上がりの後に数回発現しており、さらに、発作時に一過性の視野障害、発語困難等を伴うようになった。このように、次郎の神経症状は全体として進行性の経過をたどっていたところ、同科入院直前には、記銘力障害が加わり、薬剤師としての仕事上のミスも増えた。

(2) 次郎は、一過性の意識障害、脱力、発語困難、思考停止等の症状のため、平成二年三月二九日、附属病院脳神経外科を受診し、同年四月一六日に同科を再診し、同月二三日に同病院に入院した。同病院における検査の結果、次郎はモヤモヤ病と診断された。次郎の受持医は、A医師であった。

なお、同年三月三〇日、次郎は、D医師から委託された博愛診療所で脳波検査を受けたところ、モヤモヤ病に定型的な異常波である過呼吸後のリビルドアップ(以下、単に「リビルドアップ」という。)が捕捉された(乙二の12、13、一九の2、証人D)。

(3) 平成二年四月二三日、次郎は、一般検査を受け、軽度の高血圧(一六二/八〇mmHg)が認められた。また、単純CTによって、軽度脳萎縮が認められたが、出血や梗塞等は認められなかった。造影CTによっても、脳主幹動脈は描出されず、一方、両側基底核にモヤモヤ血管と思われる多数の点状陰影が認められた。血液生化学検査、一般神経学的検査では特に異常はなかった。

(4) 同月二四日、次郎は、脳血管造影を受けた。その結果、左右内頸動脈が頭蓋内で狭搾、閉塞していることが認められ、他の脳主幹動脈もほとんど造影されず、脳底部にモヤモヤ血管が認められ、また、後大脳動脈が、両側(特に左側)近位部で狭搾し、脳底部にモヤモヤ血管が認められた。

なお、前記脳血管造影の結果によれば、次郎のモヤモヤ病の病期分類(鈴木の頸動脈写所見の経時的変化の病期分類)は、両側とも六期相分類の第四期にほぼ相当した(乙一の38)。

(5) 同月二五日、次郎は、心電図検査、頭部単純撮影、胸部撮影を受けたが、特に異常所見はなかったものの、脳血流測定(IMP―SPECT法)により、左側頭から頭頂部に低血流流域が認められた。

3  次郎に対して施行された手術(以下「本件手術」という。)の概要及び経過

(一) 本件手術の概要

手術日 平成二年五月一八日

術式 脳・筋・動脈癒合術(EMAS。以下、単に「EMAS」という。)(両側)

麻酔 全身麻酔

執刀医 B医師及びC医師

助手 A医師他

なお、D医師は、本件手術を監督するために終始立ち会い、執刀医の後方から観察して指示を与えていた(証人D)。

(二) 本件手術の経過

全身麻酔下に、まず左側の手術のために仰臥位で、頭部を右向きに固定し、帽状腱膜及び側頭筋を残し、硬膜を露出して切開し、露出した脳表の中央部に浅側頭動脈を含む帽状腱膜及び側頭筋を置き、薄くそいだ側頭筋と帽状腱膜縁及び硬膜切開縁とを縫着して脳表を覆い、骨弁を整復後、骨弁の縁と周囲の頭部の皮下組織を絹糸で固定した。次に、右側の手術のため、頭部を左向きに固定し、左側と同様の手術を実施した。

手術時間は、同日九時三五分頃から一七時五五分頃までの約八時間二〇分、麻酔時間は、同日八時三〇分頃から一八時三〇分頃までの約一〇時間であった。手術後、次郎は覚醒不十分で意識障害が継続し、脳浮腫から脳梗塞に至った。

4  本件手術後の症状の経過及び死亡

(一) 同月一九日、次郎は、覚醒不十分で命令に応じず、右麻痺(特に上肢)が継続し、CT撮影の結果では、両側(特に左の側頭から頭頂葉)に浮腫が認められ、午後には三八度台の発熱が確認された。

(二) 同月二〇日、意識が傾眠ないし昏迷状態から半昏迷状態に低下し、右片麻痺が増強した。

(三) 同月二一日、CT撮影により、脳浮腫による低吸収域が両側(特に左側)で拡大し、脳が右へ偏位していたため、全身麻酔下に緊急手術(左減圧開頭術)を施行した。

(四) 同月二三日、CT検査を行い、全身麻酔下に緊急手術(左減圧開頭術)を施行した。

(五) 同月二八日、D医師は、神経学的所見等から次郎の脳は不可逆的状態にあると判断し、原告に対して、次郎が脳死状態である旨を告げた。

(六) 同年六月一六日一七時三五分、次郎の死亡が確認されたが、次郎の直接死因は脳梗塞であった。

5  モヤモヤ病の病態及び治療方法

モヤモヤ病は、何らかの原因で両側内頸動脈の終末部に慢性進行性の狭窄性変化を生じ、その側副路として脳底部にモヤモヤとした異常血管網が形成され、ついには両側内頸動脈系の頭蓋内主幹動脈の閉塞を来たして、脳循環が外頸および椎骨脳底動脈系より支配される疾患である。この脳底部に出現するモヤモヤ血管は、両側内頸動脈の慢性進行性の虚血性変化による脳血流不全に対応するために形成される側副血行路であると理解されている。この疾病は、原因が未解明のため、根本的な治療法は確立されておらず、現在のところ、対症療法しかない状況である。この対症療法としては、内科的療法と外科的療法があり、前者には脳循環改善剤、脳代謝賦活剤等の薬物療法が行われており、後者には、直接的血行再建術(浅側頭動脈と中大脳動脈の吻合術)と間接的血行再建術がある。EMASは、間接的血行再建術の一つであり、浅側頭動脈の分枝と側頭筋を脳表に接着させて血管新生を促すものである(以上につき争いがない。)。この間接的血行再建術には、EMASの他に、脳・筋癒合術(EMS。以下、単に「EMS」という。)と脳・硬膜・動脈癒合術(EDAS。以下、単に「EDAS」という。)がある。EMSは、頭蓋骨、硬膜を切開した部分に、側頭筋の弁を乗せて脳と接触させる手法である。EDASは、浅側頭動脈を切断せずに筋膜ごと筋肉から剥がし、頭蓋骨、硬膜を切開して露出した脳の表面に置いて接触させる手法である。EMASは、いわばEMSとEDASを折衷したものであり、筋膜が付着した浅側頭動脈と側頭筋とをいずれも脳に接触させる手法である。これらのうち、EDASは、浅側頭動脈の存在する長さにわたって開頭する必要があるものの、幅が必要ないため、開頭範囲は他の間接的血行再建術に比べて狭く、手術侵襲は比較的少ない(乙一八、二三の1ないし4、証人D)。

6  附属病院におけるモヤモヤ病患者に対する血行再建術の実施状況

附属病院脳神経外科では、昭和五七年一〇月の始業から本件手術までの間に一三名のモヤモヤ病患者に対して間接的血行再建術を行っているが、成人に対しては、両側同時はもちろん、片側だけでも、EMASを実施したことはなかった。同科において昭和五七年一〇月から平成二年五月までの本件手術以前に行われたモヤモヤ病患者に対する血行再建術の内容及び経過の概要は別表1のとおりである(乙一九の1、2、証人D)。

二  争点

1  両側同時EMASを実施した点についてD医師らに過失があったか否か。

(原告の主張)

(一) 手術、麻酔時間についての配慮の懈怠

モヤモヤ病は脳の循環障害が高度な病気であるため、外科的手術の際の麻酔による自発呼吸でない非生理的状態が長ければ長くなるほど、脳の虚血が進行する危険性がある。また、手術による開頭によって、脳を空気に曝射するとともに、減圧して脳に局所的な打撃を与えたり、手術に伴う外科的侵襲により脳が圧迫されて脳虚血が進行する危険性がある。

したがって、モヤモヤ病に対する手術は、手術及び麻酔侵襲のより少ない方法で短時間に終了する必要性がある。特に、次郎は、術前の平成二年四月二六日に実施された脳波検査において、二分間の過呼吸で意識状態が悪化し、眼前暗黒感を訴え、痙攣発作が疑われ、脱力が認められるという虚血発作を起こしており、わずかな過呼吸で脳虚血が進行し増悪する危険のある状態にあった。また、次郎には、麻酔導入時に過呼吸によるものと疑われる痙攣発作様の症状が出現していた。したがって、次郎に対しては、特に短時間で手術を終わらせる必要性があった。

他方で、間接的血行再建術としてのEMASは、他の手術方法であるEDASやEMSに比較して、開頭範囲が格段に大きく、手術手技も複雑であることから、手術時間が長時間に及ぶこととなる。このことは、開頭によって空気に触れる脳の範囲が広く、かつ長時間に及ぶこと、出血量も増大する危険性があることを意味する。

以上によれば次郎に対してEMASを実施する際に、D医師、B医師、C医師、A医師(以下「D医師ら」という。)が遵守すべき注意義務としては、脳虚血の進行、増悪を回避するため、手術を手術侵襲及び麻酔侵襲の少ない方法で短時間に終了するとともに、術後の患者管理等においては、安静の保持に配慮することが強く求められる。したがって、D医師らには、①EMASを両側同時に行ったこと、②手術後に本件患者に炭酸ガスを投与して過呼吸を助長したこと、の二点で注意義務違反がある。そして、①については、第一に、手術時間が片側ずつ実施する二期的EMASに比して二倍近い長時間に及ぶこと、第二に、手術中の出血量が増大すること、第三に、先に手術を終了した側を下にして他側の開頭手術を行うことになるため、先に開頭された側の脳が対側の手術時に圧迫を受けること、の三点が問題となる。

次郎に対してEMAS術を試みようとしていたD医師らは、モヤモヤ病に対する外科的手術に際し、手術及び麻酔侵襲の少ない方法で短時間に終了する必要性があることを確認した上で、次郎の手術前あるいは麻酔導入時の容態を踏まえて、まず一側のみEMASを実施し、手術後の患者の経過を注意深く観察して、対側の手術の当否、手術方法を検討すべき注意義務を負っていた。しかるに、D医師らは、右注意義務に反し、EMASの開発者である鑑定人中川翼(以下「中川鑑定人」という。)に事前にアドバイスを求めることも、次郎の容態を考慮することもなく、漫然と両側同時EMASを実施し、手術、麻酔時間を長期化させた過失がある。

被告は、両側EMASによるものが数少ないとしながら、EMASがEDASよりも特段手術侵襲が大きいと認められないから、手術及び麻酔時間による危険性は、手術方法によってはそれほど変わらないとする。しかし、EDASは、主に浅側頭動脈だけを装着させる方法であるが、EMASは、EDASと、筋肉だけを装着させる方法のEMSとを合体し、できるだけ多くの血管を装着させることによって、二次的に側副血行路を造るための手術であるから、開頭範囲を大きくすることが肝要である。したがって、予定される開頭範囲は、EDASに比べてEMASの方が格段に広く、それに伴う手術侵襲もEMASの方が大きいことは明らかである。

(二) 手術に伴う出血量について

(1) 本件両側同時手術の出血量は一六〇〇ミリリットルであるところ、片側のみの手術であれば、出血量はその半分となり、また、EDASの場合は、さらに出血量が少なくなる。したがって、EDASに比べてEMASの方が手術に伴う出血量が格段に多くなることが明らかであり、いかに輸血による対応がされていようと、出血量が多くなればなるほど、出血に伴う虚血状態の進行の危険性は増す。

(2) 特に、本件では、手術直後に、A医師から原告に対し、出血がかなりあったことが告げられており、問題リストや手術患者申し送り票に、手術中出血が多量であったため、術後、貧血から血行不良となり、創・脳実質への影響がある旨記述されているから、本件手術に伴う多量の出血が、次郎の脳虚血を増悪させていたことを医師や看護婦らは認識していた。

被告の一期的両側広範囲間接的血行再建術が奏功した症例報告(乙三九の2)は、両側EMASを実施したものではなく、また、出血量は一九五ミリリットルであり、報告書は、手術侵襲を大きくしないための出血量を二〇〇ミリリットル以下で行うように配慮しているのであって、本件手術には当てはまらない。

(3) D医師らは、手術に伴う出血量を抑え、虚血の進行を防止するためにも、片側のみのEMASを実施すべきであった。本件は、このような出血量についての配慮がされることのないまま、漫然と両側同時EMASが試みられ、一六〇〇ミリリットルもの出血を来たし、手術に際しての脳の圧迫、手術時間や麻酔時間の長期化に伴う非生理的状態の長期化と相まって、脳虚血の進行を助長させたものといえる。

(三) 手術時の脳の圧迫に対する配慮の懈怠

(1) 両側同時手術の場合、先に開頭された側が下になった際には、頭の重み、反対側の骨に穴を開けて開頭する際の力、反対側の手術時の術者の手の重み等の影響により、先に開頭された側の脳に圧迫が加わって虚血状態を増悪させる危険性があるところ、反対側の手術中に下になる側の開頭範囲が広ければ広いほど、手術時の圧迫等の危険性が増すことになる。

(2) 被告は、本件手術で用いられたのは円座ではなく、馬蹄型の頭受けであるから、頭部がずれない限り、開頭部が本件の頭受けによって圧迫されることは考えられないと述べている。しかし、円座であろうと馬蹄型の頭受けであろうと、頭部のずれによって圧迫の可能性があることは否定できない。被告は、頭部が頭受けからずれたかどうかは術者が感知できるというが、長時間に及ぶ手術中、頭受け内のずれの有無を確認し続けることは不可能である。

被告は、三点固定方式であれば、頭部が動くことにより脳が圧迫されるおそれはないとしながら、一回の三点固定で両側の開頭範囲を確保することは困難であるとする。しかし、被告自ら、一回の三点固定で両側の開頭範囲を確保することが困難であり、三点固定を採用しないというのであれば、頭部がずれて脳が圧迫される危険性のある両側同時手術はそもそも実施すべきではない。

(3) したがって、D医師らは、手術中の頭部のずれに伴う脳の圧迫を回避すべき注意義務を負っていたにもかかわらず、この義務に反し、三点固定方式によることなく漫然と両側の同時開頭術を実施した過失がある。

(被告の主張)

(一) 手術、麻酔時間の長さについて

(1) 麻酔による非生理的状態について

原告は、本件手術において、麻酔による自発呼吸でない非生理的状態が長く続いたことが、その後の虚血症状の悪化につながった旨主張する。

しかし、モヤモヤ病について、麻酔による非生理的状態の長いことが虚血症状の悪化につながるという医学的見解は見当たらない。これまでモヤモヤ病の手術について症状が悪化したという症例報告は、いずれも動脈血中炭酸ガス濃度(以下「炭酸ガス濃度」という。)、血圧の変動が原因とされたものである。また、麻酔に関しては、六、七時間にわたって麻酔を維持することよりも、導入と覚醒時における処置の方が問題であり、他の手術法においてもその危険性は同じであるとする症例報告も存在するのであって、両側EMASによる同時手術の実施状況をみると、右の症例報告における見解が誤りであるとは一概にいえない。そうすると、モヤモヤ病の手術について、炭酸ガス濃度、血圧等の数値に問題がない場合において、麻酔による非生理的状態が脳虚血に与える影響の有無、程度については、一定の医学的知見はないのであり、したがって、麻酔による非生理的状態が長時間になるから手術を実施したことが誤りであったと断定することはできない。

また、厚生省特定疾患ウィリス動脈輪閉塞症研究班(以下「厚生省研究班」という。)が集計したモヤモヤ病に関する手術症例によれば、モヤモヤ病について血行再建術を受けたものが五八九例あり、そのうち両側同時手術が行われたのが八二例で、そのうち両側の間接的血行再建術によるものが七五例、そのうち両側EMASによる同時手術が行われたものが六例ある。その概要は別表2のとおりであり、手術成績は片側二期的手術と比較して何ら問題はない。そして、右六例についてみると、手術又は麻酔によると思われる合併症がみられた例はなく、退院時におけるADL(日常生活動作の状態を七段階で示す指標。数字が少ないほど良好であることを示す。以下単に「ADL」という。)が一であるのが四例あり、また、ADLが四又は二である二例も、術前からの障害が術後も残存しているものである。しかも、この六例は、いずれも本件手術が行われた平成二年五月一八日以前に行われている。この結果だけをみても、本件において両側EMASによる同時手術が許されないものとは一概にいえない。

また、附属病院においては、本件手術以前にも両側同時手術が別表3の手術時間で行われており、その多くが手術侵襲に弱いとされる小児であったにもかかわらず、いずれも術後経過は良好であった。さらに、愛媛大学医学部脳神経外科は、八歳の女児に対し、EMASのみの両側同時手術と比較して手術侵襲の大きさにおいて勝るとも劣らない両側同時手術(左側EDAS+EMAS+EGS、右側EDAS+EGS、手術時間七時間。なお、右のEGSとは、脳・帽状腱膜癒合術のことであり、これは、間接的血行再建術の一つで、帽状腱膜をリボン状に切り込み、その端を露出した脳表に置く方法である。)を行ったところ、良好な結果であった。

そして、両側EMASによる同時手術が、他の術式に比べて手術侵襲が特段に高いとはいえないのは、後記(2)のとおりであり、このことは前記厚生省研究班による集計結果からも明らかである。なお、両側同時手術のうち、両側EMASの占める割合は少数であるが、これは、EMASが使用されるようになったのが昭和五五年頃で、他の間接的血行再建術より遅い時期であったこと、EDASがEMASより開頭範囲が比較的少なく、術式として簡易であること、虚血性モヤモヤ病患者の多くを占める小児は、成人よりも新生血管の発達が期待でき、EDASで十分対応できる場合が多いことによるのであり、両側EMASによる同時手術の例が少ないことから、直ちに右術式が許されないものとはいえない。

したがって、両側EMASの同時手術が長時間かかるから許されないとはいえない。

(2) 手術侵襲の程度について

原告は、両側EMASによる同時手術が許されないとする根拠として、EMASは、予定される開頭範囲がEDASより格段に広く、それに伴う手術侵襲も大きいことを挙げる。しかし、ここで問題にすべきであるのは、両側EMASによる同時手術が、他の術式と比較して許されないとするほどの手術侵襲を有するかどうかであるが、原告の右主張によっても、開頭範囲が広いことから具体的に手術侵襲がどの程度大きくなるかは明らかではない。

また、間接的血行再建術について、術式により術後に症状が悪化したという医学文献や、EMASが他の術式より特に大きな手術侵襲を有するとする医学的見解も見当たらない。むしろ、EMASは、直接的血行再建術のように中大脳動脈を露出する必要がなく、あるいは吻合に際して一時遮断するという危険がない点において、他の間接的血行再建術と同様に、直接的血行再建術よりも安全といえる。そして、手術実績をみても、直接的血行再建術は、モヤモヤ病につき通常行われている術式であり、また、前記(1)のとおり、血行再建術による両側同時手術の成功例が八二例、そのうち両側が間接的血行再建術によるものが七五例、両側EMASのよる同時手術の成功例が六例あることが確認されている。

したがって、両側EMASによる同時手術が、他の術式により手術侵襲が大きいから許されないとする原告の主張は失当である。

(3) 開頭による脳の空気との接触について

原告は、両側EMASによる同時手術が許されないと主張する根拠として、EMASは予定される開頭範囲が広いため、脳の空気に触れる時間が長くなり、減圧するおそれが高まるため、脳が打撃を受ける危険がある旨主張する。しかし、本件手術は、開頭部位を湿らせた綿で覆い、手術に必要な部位のみについてその都度綿を除く方法で行われており、脳が直接空気に触れる時間を極力少なくしていたのであるから、開頭部位が空気に触れる機会があるからといって、そのために脳が打撃を受けることは考えられない。また、本件手術時の脳の内圧が亢進したという状況もなかったのであるから、開頭により頭の内部が減圧することも考えられない。

したがって、原告の右主張は失当である。

(4) 次郎の持つ過呼吸による虚血傾向について

原告は、本件において両側EMASによる同時手術が許されないとする根拠として、次郎が平成二年四月二六日に実施された脳波検査において二分間の過呼吸で虚血発作を起こしていたこと、麻酔導入時において過呼吸によるものと疑われる痙攣発作様の症状があったことから、次郎が虚血の傾向、程度が強い者であった旨主張する。

しかし、泣く、走る、あるいは息を吹きかけることにより過呼吸となり、意識がもうろうとしたり、一過性の虚血発作(神経脱落症状)が現れるのは、虚血性モヤモヤ病の特徴の一つとされており、本件のように、二分間の過呼吸により虚血による一過性の神経症状が現れることは、手術適応のある虚血モヤモヤ病患者によく見られることである。また、小児モヤモヤ病の場合、過呼吸後に意識が低下した間に、リビルドアップがモヤモヤ病患者の約八〇パーセントに出るとされているところ、次郎も、小児期において過呼吸の後に、大学生の時には飲酒及び入浴後に、反復して一過性脳虚血発作を起こしており、また、平成二年三月三〇日に行った脳波検査においても一過性脳虚血発作やリビルドアップが認められている。そして本件手術前におけるMRI及びCTにおいて、脳浮腫ないし脳梗塞の所見が認められないことも併せ考えると、次郎は、小児によくみられる虚血型と同様の脳虚血病態を有する者であったというべきであって、特異なモヤモヤ病患者あるいは虚血傾向が著しい者であったとはいえない。加えて、前記のとおり、小児モヤモヤ病患者に対する両側EMASによる同時手術につき成功例が存在していること及び小児期に発症した成人の虚血性モヤモヤ病に対する治療法は小児の場合と同様に考えてよいことを考慮すると、本件における脳波検査の結果から、本件において両側EMASによる同時手術が許されないとはいえない。

また、麻酔導入時における痙攣発作様の症状についても、すぐに収まっており、痙攣ではなく、苦しくて突っ張っただけと見る余地がある。さらに、麻酔記録を見ても、麻酔導入時に過呼吸をうかがわせるような炭酸ガス濃度や血圧の変動は認められないのであるから、それが過呼吸によるものとは断定できない。仮に、右症状が過呼吸によるものであるとしても、麻酔導入期において、自発呼吸から挿管による呼吸に切り替える際には過呼吸が起きやすく、右の症状が一時的なものであり、その後の症状悪化への影響があるかどうかも不明であり、仮に痙攣発作であったとしても、前記のとおり、手術適応のある虚血モヤモヤ病患者に通常見られる一過性の虚血症状であった可能性もある。

したがって、麻酔導入時における右の症状をとらえて、本件患者が、両側EMASによる同時手術が許されないほど虚血傾向が強い者であったとはいえない。

(5) 片側の手術をした後に経過観察をする必要について

原告は、両側EMASの同時手術を避けるべきであるとする根拠として、片側のみを手術し、経過観察をした後に、他の側の手術を検討すべきであったと主張する。

しかし、手術後の麻痺は、その後に症状が改善する場合も多く、手術後に麻痺に出るおそれがあることから、片側のみの手術をしなければならないとはいえない。また、手術後の失語症についても、附属病院での手術例をみても、手術後に失語症が発症又は悪化した事例は見当たらず、手術後に失語症が出るおそれがどの程度あるのかについては不明確であり、しかも、前記のとおり、両側同時手術による成功例が多くあること、両側EMASによる同時手術が他の術式よりも特段手術侵襲が大きいとはいえないことを考えると、失語症のおそれを理由に、片側のみの手術をした後に経過観察をしなければならないとはいえない。かえって、手術を二期的に行うことは、麻酔導入期及び覚醒期における過呼吸等の危険にさらす回数が増え、また、片側の脳に係る手術時期が遅れ、それだけ血行が回復する時期も遅れるという弊害があり、これらの弊害を避けるために両側同時手術が有効であるとする症例報告も存在する。

本件において、D医師らは、まず左側の手術を行い、その際の経過をみた上で、右側の手術を行うことを事前に計画し、実際にも、左側の手術が終わった時点で、炭酸ガス濃度、血圧、脳及び手術創の状態等に異常が認められないことを確認した上で、右側の手術に進んだもので、その後の手術中も異常はなかった。

したがって、本件の経過をみても、片側の手術で終わらせなければならないような状況はなかったのであり、本件において、片側の手術をした後に経過観察期間を置かなかったことに過誤はない。

なお、原告は、本件手術を行う前に、EMASの開発者である中川鑑定人に対してその是非を尋ねるべきであった旨主張するが、手術の是非は、患者の容態、術式の内容、手術侵襲の程度、手術実績等の事情を総合考慮した上で決定されるべき事項であり、本件においても、D医師らは、これらの事項を考慮し、EMASに関する中川鑑定人の症例報告も参照した上で本件手術の術式を決定したのであるから、それ以上にEMASの開発者に手術の是非を尋ねるべき義務はない。

(6) 以上によれば、本件において、手術時間が長い両側EMASによる同時手術を避けるべきであったという原告の主張は、いずれも医学的根拠が不十分であるか、これに反するものである。したがって、本件における両側EMASによる同時手術をし、その時間が長いものであったことにつき、D医師らに過失はない。

(二) 出血量について

原告は、両側EMASによる同時手術が、他の術式より出血量が多く、虚血の進行を来たすおそれがあり、本件手術における出血量が約一六〇〇ミリリットルだったのであるから、出血量が多い本件手術を行ったことに過失があると主張する。

しかし、手術に伴う出血によって脳虚血が進むか否かは、主として、ヘモグロビン(Hb・血液中に占める赤血球の容積比)、ヘマトクリット(Hct・赤血球中に占める赤い色素の量)等の血液成分の変動、血圧の変動等の状態から判断すべき事項である。

そして、出血量が極端に多い場合を除いて、出血量に見合った適正な輸血を行い、患者の血液成分及び血圧を適正に維持、管理すれば、出血による脳虚血のおそれが増えることは考えられない。輸血量が多すぎると、かえって血液粘度の上昇により末梢循環が悪くなり、虚血につながるおそれさえ生じる。本件手術では、手術中におけるヘモグロビン、ヘマトクリットの数値や血圧に大きな異常、変動は認められず、輸血もこれらの状況に応じて経時的に行われている。

したがって、本件手術における出血量が約一六〇〇ミリリットルであったことをもって、脳虚血のおそれが高まったとはいえず、これに反する原告の主張は失当である。

(三) 脳が圧迫されるおそれについて

(1) 原告は、本件手術において、先に開頭された左側が下になった際に、頭の重み、骨に穴をあける際に加わる力、術者の手の重みなどにより、左側の脳が圧迫されるおそれがあった旨主張する。

(2) 本件手術では、次郎に全身麻酔をした後、仰向けに寝かせ、左に肩枕を入れ、頭を右側に回転し、できるだけ真横を向くように頭受けの上に置いたが、頭受けと頭との間にはシーツ状の布及びガーゼ数枚が挟まれていた。そして、左側頭部の手術を終了した後は、右側に肩枕を入れ直し、姿勢を直した後に、頭を左に回転させ、再び頭受けの上に置き、その際、D医師らは開頭部位が頭受けで圧迫されないように確認した。右の頭受けは、馬蹄型で、その下にある支柱により頭部を浮かせる構造となっており、その支柱はねじ等で手術台に堅く固定されている。馬蹄型の部分は、金属の芯に厚いゴムが置かれ、その周囲に皮が巻かれており、その内側は、左側の開頭部位が納まる面積があった。そして、本件手術においては、術後に側頭筋を圧迫しないようにするため、骨弁の内側を削って薄くするとともに、骨弁の頭頂部と後頭部寄りの縁をすり鉢状に斜めに削って周囲の骨に引っかかるように整形した。骨弁を元の位置に戻すと、骨弁の側頭部寄りの部分は、骨弁の縁と周囲の骨との間に最大約二センチメートル幅の溝ができるが、鋭利な物を差し込むなどする場合は格別、その部分から脳に直接圧力がかかることはない状態であった。さらに、側頭筋は、本来の厚さが基部で約七ミリメートルであるが、骨弁の内側に入る部分は、末梢部に向かうにつれて厚さ五ミリメートルから二、三ミリメートルと次第に薄く整形され、開かれた硬膜内部においては、脳実質上に直接置かれる。そして、手術後は、骨弁と頭皮下組織を絹糸で結ぶことにより、骨弁が頭蓋骨から少し浮いた形に固定され、骨弁とその内部との距離を術前より広く保つように図られていた。

以上のような本件手術の態様、特に頭受けの使用状況からすると、手術中に頭部がずれて開頭部位が頭受けに直接当たる状態にならなければ、重みや力がかかっても、開頭部周辺の健常な頭蓋骨がこれを受け止めるから、開頭部位が頭受けにより圧迫されることはなく、開頭部位が頭受けに直接当たるほどに頭部の位置がずれることも通常考えられない。また、前記の骨弁、側頭筋の整形、縫合の形態等を考えると、仮に開頭部位に何らかの力が加わっても、骨弁が側頭筋や脳内部を圧迫するおそれは極めて低い。

さらに、D医師らは、脳に圧迫が生じることを強く懸念し、そのような事態が生じないように注意しながら本件手術を行ったのであるから、仮に開頭部位が頭受けに直接当たるほどずれるような事態が生じたとしても、頭の位置と方向及び頭部の下にある布やガーゼがずれることなどにより、これを容易に察知し、直ちに頭部のずれを修正できる状態であった。

加えて、頭部のずれが生じるような力が加わるのは、開頭する際の比較的短時間のみであり、また、その余の間は、麻酔深度が良好に保たれている限り頭部が動くことはないところ、本件手術中の麻酔状態は良好だったのであるから、手術中に頭部のずれが生じないよう注意し続けることは可能であった。

のみならず、本件手術の翌日である平成二年五月一九日九時三〇分に撮影したCT(乙五。以下「一九日のCT」という。)では、手術時に開頭部位が下にならなかった右側においても、左側と同様の部位に低吸収域が生じていることからすると、これらの低吸収域の発現は、脳への圧迫によらないものと認められる。

原告は、左側の脳への圧迫があったことの根拠の一つとして、CT上の低吸収域も、左側が右側より先行して現れている旨主張するが、術後に初めて撮影された右CTにおいて、左右両側に低吸収域が、現われていたのであるから、左側に先に低吸収域が現れたことを前提とする原告の右主張は失当である。

(3) 原告は、本件手術において、三点固定方式によることなく、両側同時手術を行った点に過失がある旨主張するが、三点固定方式は、極めて細かい作業を要する顕微鏡手術において常用されており、モヤモヤ病の手術に用いる必要がないものであるばかりか、金属ピンを頭部の三か所に刺すことにより、側副血行路となっている浅側頭動脈等の頭皮下血管及び頭蓋骨内の血管が損傷されるおそれがあるため、脳虚血が問題となるモヤモヤ病の手術には不適切なものである。したがって、三点固定方式を用いるべきであったとする原告の主張は失当である。

(4) 以上によれば、本件手術において脳が圧迫されたとはいえないのであって、これに反する原告の主張は失当である。

2  術後管理についての過失があったか否か。

(原告の主張)

(一) 次郎は、本件手術後、覚醒不十分のまま意識障害が継続し、本件手術の翌日である平成二年五月一九日には、右麻痺(特に上肢)が継続し、CT撮影の結果、両側(特に左側の側頭から頭頂葉)が浮腫を来たしている所見まで認められた。このように、手術後四、五時間が経過しても意識が覚醒せず、浮腫まで確認された場合、D医師らは即座に減圧切開術、バルビツール療法等を施行して浮腫進行を回避するための措置を施すべき注意義務を負っていた。しかるに、D医師らは、右注意義務に反し、減圧切開術、バルビツール療法等を施すことなく漫然と放置したため、浮腫を急激に進行させ脳梗塞にまで至らせたものである。

この点につき、被告は、一九日のCTが撮影された同日九時三〇分の時点では、浮腫は比較的軽度で、脳室は左右対称に保たれ、正中線の対側への偏位はほとんどなかったため、抗浮腫・脳圧下降剤の点滴静注以外の措置を追加する必要はなかったと主張する。しかし、そのCT所見は、左に強い浮腫と左右の梗塞、正中構造の右への偏位、低吸収域が確認されているのであり、右点滴静注のみでは改善できないほど浮腫の程度が重度で進行性であったものである。このことは、右点滴静注がされたにもかかわらず、浮腫が進行して脳ヘルニアを起こすとともに、脳梗塞に至った事実からも明らかである。また、被告は、保存的治療を続行した根拠として、減圧手術を実施すると、硬膜内に自然に形成された脳への側副血行路を損傷することになるため、かえって脳虚血を助長する危険性があることを挙げるが、これは、D医師らが、結果的に同月二一日及び二三日に、左減圧開頭術を実施している事実と矛盾する。

(二) 前述のように、モヤモヤ病は脳の循環障害が高度な病気であること、次郎は、本件手術直前に虚血発作を起こすなど、わずかな過呼吸で脳虚血が進行し増悪する危険のある状態にあったこと、EMASはあくまで二次的に側副血行路を造るための間接的血行再建術であり、手術の完了自体はモヤモヤ病の治癒を意味せず、血行が再建されるまでの間、なお脳の循環障害は継続することからすると、手術後における患者管理、特に脳虚血増悪の原因となる過呼吸、不穏状態の防止のために細心の注意を払うことが求められる。したがって、D医師らは、脳虚血の進行、増悪を回避するために、術後の患者管理、特に安静の保持に配慮すべき注意義務を負う。ところが、D医師らは、本件手術後に炭酸ガスを投与して過呼吸を助長した点で注意義務違反がある。

次郎には、手術後に不穏状態が確認されたことにより炭酸ガスを投与されている。本件のような虚血性脳血管障害のあるモヤモヤ病患者に対して炭酸ガスを投与すると、炭酸ガスが脳幹を刺激し、呼吸数を多くして過呼吸を来たし、脳虚血を進行させる危険性がある。したがって、次郎の術後管理に際しては、ガスボンベにより炭酸ガスを漫然と投与することなく、次郎を鎮静させ、過呼吸の発生を未然に防止すべき注意義務があったにもかかわらず、D医師らは、右注意義務に反し、次郎に漫然と炭酸ガスを投与し続けた結果、術後、次郎を過呼吸状態に至らせ、脳虚血状態を進行、増悪させたというべきである。

D医師らは、以上に述べたような注意義務違反の結果、次郎を脳浮腫から脳梗塞にまで至らせて死亡させたものである。

(被告の主張)

(一) 原告は、一九日のCTの所見やそれまでの症状からみて、同日に減圧開頭術やバルビツール療法等の方法を採るべきであったのに、これを行わなかったために脳浮腫を進行させた旨主張する。しかし、同日のCT所見については、比較的軽度で、非進行性の脳浮腫とみるべきものであり、急激かつ高度に進行すると判断することができないものであることは、後述のとおりである。そして、軽度の浮腫の場合は、まず保存的治療を行い、効果がなかった場合に初めて減圧開頭術等を考慮すべきであり、本件においても、保存的治療として、それまでに行っていた降圧剤マニトール、鎮静剤ホリゾン等の投与を続行している。

また、減圧開頭術は、それまでに形成されていた側副血行路を遮断、阻害し、かえって虚血を助長させるおそれがあり、また、バルビツール療法には、血圧、呼吸の管理が難しく、低血圧や感染症などの副作用が多いという弊害もあるから、これらの措置を同日の段階で行うことは不適切でさえある。

したがって、平成二年五月一九日に減圧開頭術、バルビツール療法を採るべきであったとの原告の主張は失当である。

(二) 原告は、虚血性脳血管障害のある患者に対して炭酸ガスを投与することは、脳幹を刺激して呼吸数が多くなり、過呼吸により炭酸ガスを排出することになるから誤りであり、むしろ鎮静すべきであった旨主張する。

しかし、過呼吸状態になった患者に炭酸ガスを投与することは、モヤモヤ病の術後処置法として脳神経外科の教科書にも記載されている。そして、本件の術後である同年五月一八日一八時から翌一九日六時三〇分頃までの間における炭酸ガスの投与に関する経過は、別表4のとおりであり、炭酸ガスの投与を止めてから約二時間後である同月一九日二時四〇分頃、炭酸ガス濃度の数値が回復している。しかし、右表によれば、①同月一八日二一時四五分頃に炭酸ガス濃度の数値が27.8になったのが、同日二〇時一五分頃に炭酸ガス投与量を毎分三ないし五リットルから毎分一リットルに減らした後であること、②同日二三時四〇分頃に炭酸ガス濃度が30.3と少し上昇したのが、二二時頃に炭酸ガス投与量を毎分一リットルから毎分五リットルに増やした後であることが認められ、炭酸ガスの投与量の増加に対応して、炭酸ガス濃度が上昇した局面もある。

したがって、本件での術後経過をみても、炭酸ガスの投与をすれば、過呼吸により体内の炭酸ガスが減少するとはいえない。

なお、D医師らは、別表4のとおり、鎮静剤ホリゾンを数回投与することにより鎮静を図っていたにもかかわらず、不穏状態が解消されなかった。

したがって、術後において炭酸ガスの投与をしたことが誤りであるとする原告の主張は失当である。

3  仮にD医師らに注意義務違反があったとして、これと次郎の死亡との間に因果関係があるか否か。

(原告の主張)

(一) 被告は、本件手術において、開頭部位が下にならなかった右側に低吸収域が発生していたことから、この低吸収域が、左右両側とも脳の圧迫に起因するものではないことを強く推認させるとする。しかし、本件では手術直後から左側の脳の虚血に起因する右側の不全片麻痺が頻発しているうえ、左側に強い浮腫が確認され、低吸収域の出現も左側が先行し、その範囲も左側の方が広く、五月二一日には、左の浮腫が強く、梗塞が著明になっていたために、左側の減圧開頭術が実施されていることからすれば、手術中の左側の脳の圧迫が脳虚血につながったことは十分推認できる。

また、左側に遅れて出現するに至った右側の低吸収域は、手術時間の長期化や手術に伴う多量の出血、さらには術後の炭酸ガス投与による過呼吸に起因する脳虚血の進行として十分説明できる。

(二) 被告は、術後の不穏状態の際に強度の過呼吸があったとはいえないというが、手術中の炭酸ガス濃度は、40.9ないし45.4にコントロールされていたにもかかわらず、手術後に27.8に激減したことからすれば、術後の不穏状態の際に、強度の過呼吸があったと認められる。

したがって、D医師らの過失と次郎の死亡との間には因果関係があり、D医師らの所為は不法行為に該当するから、被告は民法七一五条一項により、不法行為責任を負う。

(被告の主張)

(一) 前記のとおり、本件において、麻酔により次郎を非生理的状態においたために脳に虚血のおそれが高まったとはいえず、左側頭部が開頭後に下になった際に脳が圧迫されるおそれがあったともいえない。本件では、手術当日の五月一八日一九時頃から翌日一九日六時頃までの間、炭酸ガス濃度が三〇前後と低くなっており、その間、右肢の麻痺や不穏状態が生じている。しかし、医学文献には、術後の意識障害への対策として、炭酸ガス濃度を三〇ないし三五に保つべきとしたものや、頭蓋内圧亢進に係る措置につき、炭酸ガス濃度を二五以上に保つべきであるとしたものがあり、附属病院においても、炭酸ガス濃度の平均値が三九、正常範囲が三二ないし四六とされていることからすると、炭酸ガス濃度が前記の程度に下がったことをもって、直ちにその後の症状悪化を招くような脳虚血が生じたとはいえない。また、次郎の手術後の呼吸数も毎分二〇ないし二四回の範囲内で特に大きく変動していないから、呼吸状態は荒く、不穏ではあったものの、強度の過呼吸状態とはいえず、したがって、脳に著しい浮腫を来たすようなものではなかった。

さらに、一九日のCTにおいて左右の脳にみられる低吸収域は、脳浮腫が相当に進行していたとみられる五月二一日以降に撮影したCTの所見と比較して、黒さの程度は薄く、また、正中線の偏りや脳ヘルニアの所見も認められない。そもそも、右CTは、手術終了から約一四時間後に撮影されたものであり、術中に脳浮腫の症状が何ら認められなかったのであるから、術後に不穏状態があったことを考慮しても、術後に発生した脳浮腫が、同月一九日九時三〇分に脳梗塞に近い状態にまで急激に進行することは考えられず、そのような症例報告も見当たらない。したがって、右CTに現れた低吸収域は、軽度かつ可逆的な脳浮腫と判断すべきものであって、不可逆的な脳梗塞又はこれに近いものではない。

また、炭酸ガス濃度は、同日四時三〇分頃に36.9になってから四〇台に戻っており、神経症状は特に悪化しておらず、また、意識レベルも、同日七時頃に「おはよう」と話したように、一時改善がみられている。

以上の点に加え、モヤモヤ病が病態及び発生機序について現代の医学的知見によっても十分解明されていない病気であることも併せ考えると、次郎の症状が悪化した原因及び因果関係は明らかでない。

4  損害額

(一) 原告の主張

(1) 逸失利益

次郎は、昭和六〇年に第一薬科大学を卒業し、昭和六一年六月一二日に薬剤師免許を取得して、同年一〇月から昭和六三年三月まで国立小倉病院に薬剤師として勤務し、同年四月一日から死亡当時まで、国立南九州中央病院に薬剤師として勤務しており、本件医療事故がなければ、今後も薬剤師として勤務して昇級し、男子大学卒業者の平均の生涯年収以上の収入を得ることは確実であった。

本件手術前の病状を前提とすれば、次郎は、一〇〇パーセントの稼働能力を有していたとは言い難いが、本件では、モヤモヤ病の治療のための手術中の事故によって死亡した際の逸失利益が問題となっているから、本件手術が注意義務に従って行われた場合の治癒、回復の蓋然性があることを前提に算定されるべきである。しかも、次郎は、本件手術当時、国立病院の薬剤師として勤務していた国家公務員であったから、本件で考察すべきは、薬剤師としての勤務に復帰できるかどうかで足りる。

そこで、本件手術による治癒、回復の蓋然性について検討するに、本件手術以前の附属病院脳神経外科におけるモヤモヤ病に対する手術治療実績によると、手術が成功した場合には、手術を実施した一六名の患者のうち、一一名の患者の容態が軽快している。特に、本件のような脳虚血型の患者に対する外科的手術については、不明者一名を除き、手術によって容態はすべて軽快しており、そのうちの多くについては、手術前に認められた症状が消失したとされている。

一方、中川鑑定人らが著した「モヤモヤ病患者五〇名に対する血行再建術」によると、血行再建術が行われた五〇名の患者のうち、三四名(六八パーセント)の状態が秀、一五名(三〇パーセント)が優と判定されている。このように、モヤモヤ病の外科的手術、とりわけEMASは、極めて高い治癒率を示している。

したがって、本件の手術が注意義務に反することなく実施された場合には、患者の容態が改善し、手術前に認められた症状は消失し、薬剤師として職場に復帰できた蓋然性は極めて高い。しかも、本件では、原告は、将来の昇級、昇額分を請求していないのであるから、この点を考慮しても逸失利益を減額すべきでない。

そうすると、次郎が死亡した平成二年賃金センサス旧大・新大卒三〇才男子の年収は、五一九万二六〇〇円であるから、生活費控除率を五〇パーセントとし、就労可能年数六七歳までの三七年間の労働能力喪失期間に対する中間利息を新ホフマン係数(20.625)で控除して一万円未満を切り捨てると、五三五四万円となる。

(2) 慰謝料

次郎は、本件医療事故がなければ、国立病院の薬剤師として勤務、研究に専念し、結婚して幸せな家庭を築いて行くことができた。志半ばで死亡せざるを得なかった次郎の無念さは察するに余りがあり、諸般の事情を考慮すれば、慰謝料は一八〇〇万円が相当である。

(3) 葬儀費用

原告は、本件医療事故による次郎の死亡に伴い、葬儀費用の出捐を余儀なくされたが、このうち、本件医療事故と相当因果関係のあるのは一〇〇万円である。

(4) 弁護士費用

原告は、医療事故の特殊性、専門性から、各原告訴訟代理人に本件訴訟の提起及び遂行を委任した。本件医療事故と相当因果関係にある弁護士費用は、五〇〇万円である。

よって、原告は、被告に対し、不法行為に基づく損害賠償請求として、合計七七五四万円及びこれに対する本件医療事故の発生の日である平成二年六月一六日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

(二) 被告の主張

原告は、本件手術が適正に行われていれば次郎が治癒、回復する蓋然性が高かったのであるから、このことを前提に逸失利益が算定されるべきである旨主張する。しかし、モヤモヤ病の手術における治癒率が一概に高いとはいえず、しかも、そもそも逸失利益とは、不法行為がなかった場合に得られたであろう利益を損害として算定するものであるから、適正な行為が行われた場合というような仮定条件に基づいて考えるべきものではない。

したがって、逸失利益の算定上、手術が適正に行われ、疾病が治癒、回復した場合の結果を考慮すべきであるという原告の主張は失当である。

第三  争点に対する判断

一  手術方法選択についてのD医師らの過失の存否(争点1)

1  前記争いのない事実等に、証拠(甲八、乙一の1ないし18、36ないし45、二の1ないし17、五、六、一八、一九の1、2、二四の3、二九、三〇の1、2、三三、三五の1ないし3、三七の1、2、三八、三九の1ないし3、四二の1、2、四三の1ないし4、証人D、同B、同中川翼、鑑定)及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められ、乙第三八号証及び証人Dの証言のうち、右認定に反する部分はいずれも採用できない。

(一) 次郎は、平成二年三月三〇日、博愛診療所で脳波検査を受けた際、過呼吸時、手に痺れ感と軽い痙攣が認められ、また、過呼吸によりリビルドアップが出現した。次郎は、同年四月二六日にも脳波検査を受けたが、その際、過呼吸に陥り、二分後に意識状態の悪化、眼前暗黒感が認められ、さらに、上肢が脱力し、ほぼ筋力喪失の状態となって、握手ができない、震えがあるなどの症状を呈し、虚血発作と思われる意識障害が一時間持続した。

(二) 本件手術において、D医師らは、全身麻酔を行ったが、その際、過換気で上肢の痙攣様症状が一時出現した。そして、D医師らは、左側の手術のために仰臥位で次郎の左に肩枕を入れ、頭部を右向きにしてできるだけ真横を向くように馬蹄型の頭受けに固定し、術野を広く消毒した後、滅菌布によって術野以外を覆った。この頭受けは、左側の開頭範囲よりやや広いもので、スポンジが巻かれていた。その後、左側の頭皮を浅側頭動脈を温存しつつ弧状に切開し、下層の帽状腱膜から剥離して耳側に翻転した上、浅側頭動脈の両側に沿って約一センチメートル幅の帯状に帽状腱膜及びその下層の側頭筋を残し、帽状腱膜及び側頭筋を頭皮の切開縁に沿って切開し、耳側に翻転して頭蓋骨を露出させた。そして、頭蓋骨に骨孔を六個設けた上、骨孔間を切開して骨弁を除去し、硬膜を露出させた。この頭蓋骨の切開範囲は、縦約五センチメートル、横約八センチメートルの長方形であった。

次に硬膜を切開し、露出した脳表の中央部に浅側頭動脈を含む帽状腱膜及び側頭筋を置き、そいで薄くした側頭筋(先端部では厚さ約二ミリメートル、基部では厚さ約七ミリメートルであり、大きさは、頭蓋骨の切開範囲より縦横とも一センチメートル程度小さかった。)と帽状腱膜縁及び硬膜切開縁とを縫着し、脳表を覆った。骨弁は、元の位置に戻して固定した場合に、骨弁の縁と側頭骨の縁との間で、浅側頭動脈や側頭筋基部が締め付けられて圧迫されたり、また、側頭筋によって脳が圧迫されたりしないように、側頭筋と接する部分の骨弁の内板と外板及びその間の骨髄を削り取り、側頭骨側も同様に若干削って滑らかにし、側頭筋基部が骨弁下に潜る部分では骨弁側と周囲の頭蓋骨との間に幅一ないし二センチメートルの溝が作られた。そして、骨弁については、後縁(後頭部側の辺)及び上縁は、すり鉢状に斜めに切られたが、下縁は側頭筋を入れるための空間を設けるために、また、前縁(前頭部側の辺)は、直前に皮膚の縁があって技術的に困難であったことから斜めではなく、骨に対してほぼ垂直に切られた。B医師は、このように整形した骨弁の周縁近くにドリルで穿った数個の小孔に絹糸を通し、周囲の頭皮下組織と結んで骨弁を少し浮かすような状態でを固定するとともに、ドレーンを硬膜外に設置して頭皮創を二層に縫合した。そのため、骨弁は、前縁と下縁については、沈み込まない構造にはなっていなかった。

さらに、右側の手術のため、左側頭部を下にして馬蹄型の頭受けに固定し、左側と同様の手術を行った。ただ、右側では、すでに浅側頭動脈と脳表血管との吻合がみられたため、これを避けて開頭範囲を左側よりも小さくした。

(三) 本件手術における出血量は一六〇〇ミリリットルであり、一〇〇〇ミリリットルが輸血された。手術において輸血が行われる場合、出血量よりも輸血量が少ないのが通常である。また、本件手術中におけるヘモグロビンやヘマトクリットの数値(麻酔開始時には、ヘマトクリットが37.6パーセント、ヘモグロビンが13.5g/dlで、麻酔終了時には、ヘマトクリットが三八パーセント、ヘモグロビンが13.0g/dlであった。)及び血圧に大きな異常や変動は認められず、輸血もこれらの状況に応じて経時的に行われた。

(四) 本件手術では、硬膜の切開から硬膜の縫合終了までの間において、脳が露出された時間は、左側が約一時間三〇分、右側が約一時間であった。D医師らは、硬膜を切開して脳が露出した後、直ちに脳を湿らせた綿片で覆い、手術には必要な部位について、その都度綿片を除くようにしていた。

(五) 次郎は、本件手術後の平成二年五月一八日一九時には軽度の意識障害があり、麻酔が覚める頃の同日二二時には中等度の意識障害に陥り、術後、かなりの不穏状態が続いた。また、同日一九時には、左右上肢の硬直と左右上下肢の麻痺が認められたが、麻痺の程度は右上下肢の方が強かった。さらに、同日二一時三〇分頃には、右不全片麻痺となった。次郎は、この不穏状態に伴って過呼吸となり、炭酸ガス濃度が三〇前後にまで低下した。

意識レベルは、同年五月一九日から二〇日にかけては、数値が一〇〇まで低下したこともあったが、おおむね二桁で推移していた。しかし、麻痺の程度については、右上肢が、同月一九日の段階で「三」であったものが、「二ないし三」から「二」(一時は「一ないし二」)となり、また、右下肢が、同月一九日の段階で「四ないし五」であったものが、二〇日の段階で「二ないし三」となり、いずれも悪化傾向にあった。

同月一九日朝になっても、次郎の意識は清明にならず、右上下肢の麻痺も依然として続いていたため、頭蓋内の状況を調べる目的で、同日九時にCT撮影をしたところ、脳の正中線の偏位は認められなかったが、脳の左側の部分がかなり広範囲にやや黒く撮影されており、脳梗塞の状態を呈していた。

(六) 昭和五三年から昭和六一年までの間にモヤモヤ病の血行再建術九〇例(うちEMASが三六例)を実施した中川鑑定人の手術例の中には、炭酸ガス濃度、血圧が正常であった場合にも、脳虚血が発生したものがあった。また、右手術中の全身麻酔下では、自発呼吸でないため、その間、患者が非生理的状態に置かれることは否定できない。

(七) 厚生省研究班が集計したモヤモヤ病に関する手術症例によれば、平成七年末までのモヤモヤ病の症例のうち、血行再建術を受けた症例数は五八九例で、そのうち、両側同時EMASが実施された症例は別表2のとおりであり、成人に対して両側同時EMASが実施された症例は二例である。

2 右1の認定事実と前記争いのない事実によれば、D医師らは、本件手術前に行われた脳波検査、頭部CT検査、脳血管撮影等によって、次郎のモヤモヤ病が相当進行した部類に属するものであったことを把握していたと解される上、本件手術前に行われた脳波検査の際、過呼吸に陥り、二分後に虚血発作と思われる意識障害が一時間持続したことがあり、また、本件手術の際における全身麻酔導入時にも過呼吸によるものと思われる痙攣様症状が出現していること(被告は、右痙攣が過呼吸によるものとは断定できないと主張するが、右主張は、乙一の37、39に照らして採用できない。)からすると、次郎は脳虚血の傾向及び程度が著しい者であったことは明らかであり、さらに、本件手術のような場合の全身麻酔下では、自発呼吸でないため、患者が非生理的状態に置かれることは否定できず、右麻酔中の炭酸ガス濃度、血圧が正常であっても、脳虚血の発生する可能性があることから、できるだけ短時間に手術を終えることが適切であるが、本件手術では、手術時間が約八時間二〇分(片側EMASの手術時間は通常三、四時間)で、麻酔時間は約一〇時間に及んでおり、その間に脳虚血が発生した可能性は否定できず、しかも、本件手術において、EDASよりも手術侵襲の大きいEMASを両側同時に実施しなければならない必要性、緊急性はなかった(この点につき、証人Dは、脳の両側に虚血状態が広範囲で強度に現れていたことから、両側EMASによる同時手術を実施しなければならなかった旨証言するが、前記認定の本件手術当時の次郎の症状からすると、両側を同時に手術しなければならないほどの必要性、緊急性があったとは認められない。)と解されるほか、日本全国で成人に対して両側同時EMASが実施されたのは、別表2のとおり、昭和五八年と昭和五九年に一例ずつしかなく、成人に対する両側同時EMASがある程度普及した治療方法であったともいえないのであって、このような諸事情を考慮すれば、D医師らには、本件手術当時の医療水準において、次郎に対し、両側同時EMASを実施した点に過失があると解するのが相当である。

二  D医師らの過失と次郎の死亡との因果関係(争点3)

前記一1(五)で認定した本件手術当日における次郎の意識障害の程度、不穏状態の出現、麻痺の内容、程度、炭酸ガス濃度の数値とその翌日(平成二年五月一九日)における麻痺の程度の推移、頭部CT検査の結果からすると、本件手術によって脳虚血を生じ、その結果、脳梗塞を発生させたと解するのが相当であり、これに反する被告の主張は採用できない。

したがって、その余の点につき判断するまでもなく、被告には、本件手術による次郎の死亡の結果について、民法七一五条に基づく損害賠償責任があるといわなければならない。

三  損害額(争点4)

1  逸失利益

次郎は、昭和六〇年に第一薬科大学を卒業し、昭和六一年六月一二日に薬剤師免許を取得して、同年一〇月から死亡当時まで、国立病院の薬剤師として勤務しており、独身であった。次郎は、モヤモヤ病のため、本件手術の少し前頃から記銘力低下等の症状があり、薬剤の組合わせでミスをするなど仕事上に支障が出ていた。モヤモヤ病について血行再建術が実施されても完全に治癒しない場合もある(甲七、乙一の12、14ないし16、42、二の4、9、一九の2、四三の4、弁論の全趣旨)。

右認定事実によれば、次郎は、死亡時(満三〇歳)から六七歳までの三七年間(中間利息の控除として新ホフマン係数20.6254を適用)にわたり平成二年賃金センサス旧大・新大卒男子労働者三〇歳から三四歳の平均年収五一九万二六〇〇円の七〇パーセントに相当する三六三万四八二〇円の収入を得る高度の蓋然性があったと解されるが、右金額を超える収入を得ることができたと認めるに足りる証拠はない。また、右に認定した次郎の身上関係、生活状況からすると、次郎の生活費として五〇パーセントを控除すべきである。

そうすると、相当因果関係のある逸失利益は、三七四八万四八〇八円(前記年収三六三万四八二〇円に前記新ホフマン係数と生活費控除率を適用。円未満切り捨て。)となる。

2  葬儀費用

前記1で認定した次郎の身上関係、社会的地位、その他一切の事情を考慮すれば、葬儀費用としては一〇〇万円が相当である。

3  慰謝料

前記一、二で認定判示した本件手術の経緯、内容、前記三1で認定した次郎の身上関係、生活状況、その他一切の事情によれば、慰謝料としては一八〇〇万円が相当である。

4  弁護士費用

原告の請求額、前記認容額、その他、本件訴訟に現われた一切の事情を考慮すると、弁護士費用としては五〇〇万円が相当である。

四  よって、原告の本訴請求は、六一四八万四八〇八円(前記三の各損害合計額)及びこれに対する本件不法行為後である平成二年六月一六日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度において理由があるからこれを認容し、その余は理由がないから棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法六一条、六四条を、仮執行の宣言につき同法二五九条一項をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する(なお、被告の申し立てた担保を条件とする仮執行免脱宣言は、相当でないのでこれを却下する。)。

(裁判長裁判官安原清藏 裁判官後藤慶一郎 裁判官高橋亮介は、転補につき、署名捺印することができない。裁判長裁判官安原清藏)

別紙別表<省略>

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