大分家庭裁判所 昭和45年(家)690号 審判
〔主文〕遺言者が別紙記載の旨の遺言をしたことを確認する。
〔理由〕(申立の要旨)
申立人は主文同旨の審判を求め、申立の実情として申立人は遺言者黒石佐市の長男であるが遺言者はグラヴイッツ腫瘍及びその肺、背椎骨盤転移症により国立○○病院に入院中であるが病勢悪化し死亡の危急が迫つたので昭和四五年一一月一八日別紙記載のような遺言を証人関口邦夫、北里秀子、緒方直見、佐伯宗太郎の立会のもとに行い、関口邦夫これを筆記し、各証人は筆記の正確なことを確認してこれに署名押印した。
申立人は同日関口邦夫から別紙遺言書の提示を受けたのでその確認を求めるというのである。
(申立後の経過)
本件申立は昭和四五年一一月二八日当庁に出され、当庁調査官において直ちに調査に着手したが既に危篤状態にあり直接遺言者の真意を確めることができないまま、遺言者は同年一二月三日午前九時三五分上記病院において上記病名により死亡した。
(当裁判所の認定する事実)
<証拠略>の結果を総合すると次のような事実が認められる。
1 遺言者は年齢六五歳旅館○○館、ホテル○○を各経営し、五年位前には○○市議会議長を勤めたこともあるが、近年は老齢と共に実際の活動はせず、旅館の経営も殆んど申立人に任せていた。家族関係は遺言者と先妻キミ子(昭和二五年一二月三〇日死亡)との間に申立人を長男とする四男三女を有し、更に後妻里子との間に二男を有し里子との婚姻届出は昭和四〇年四月一六日となつているが実際は死亡まで二〇年間位里子との関係があり、同人及びその子達と共同生活を送つて来た。
2 遺言者の死因となつた病気の経過は昭和四五年五月三〇日頃遺言者は急に歩行困難となり附近の病院を経て同年八月○○病院に入院して、悪性腫瘍であることが判明し、既に手を施す術がないという事で同年九月二三日国立○○病院に転院し、以後死亡まで同病院で治療を受けていたものである。
入院当時の遺言者の状態は下半身まひ、起床不能の状況で腫瘍が肺、胸椎、骨盤に転移し、脳転移も考えられる状態であつたこと、意識は普通であつたが、言語は明瞭を欠き、判断力は具体的事項については一応あつたと認められるが、総合的な知的能力は低下していたと認められる。こうした全身症状は入院時から死亡時に至るまでの間に次第に悪化していつたことが認められるが、精神状態については日によつて異り、一日中においても午前は比較的良く午後は悪くなるなど波があつたことがうかがわれる。
総じて遺言者の入院後の状態は全身的な苦痛の中にあつて排尿、排便も自力によつてなし得ず、身動きも殆んど出来ず、専ら周囲の者に依存して辛うじて生命をつないでいる状態で常時睡眠していて思考はあまりなし得ず、自らの発意によつて何事をかなし得る余地は少く、肉体的にも精神的にもその自由は局限されたものであつたといい得る。
3 こうした中にあつて昭和四五年一〇月二六日第一回の遺言書である昭和四五年第四一五四号遺言公正証書が作成され、それによると遺言者が合資会社○○館に対する持分全部を後妻里子及び同女との間の子保幸、同登の三名に各三分の一宛を遺贈する旨の遺言をした旨記載されている。
更に同年一一月七日第二回の遺言書である昭和四五年四三二三号遺言公正証書が作成され、それによると先に遺贈した合資会社○○館に対する持分を除くその余の遺言者の総財産を上記里子、保幸、登の三名に各三分の一宛を遺贈する旨の遺言をした旨記載されている。
遺言者は死亡に至るまで自己が回復不能の悪性腫瘍におかされていたことは知らなかつたもので、当時も死期を察知しすすんで遺言をしようとしたものではなく、その頃遺言者の側にあつて看護にあたつていた里子の勧めにより第一回の遺言書作成に至つたことが認められる。申立人は同日遺言公正証書の作成の事実を知り、遺言者に確かめたところ、遺言者は「一年すれば書きかえができるから」と答え、又申立人が「先妻の子である自分達七人の兄弟の事も考えてくれ」と申向けたのに対し「退院してから皆と相談してきちんとする」と述べていた。その直後申立人は遺言者の病状に鑑み遺言能力に疑問を抱き国立○○病院長立石九郎に面会し様子を尋ねたのに対し、かねて遺言者とは古くから知り合いその家族の実状もよく知つている同院長が遺言者の病室を見舞つたところ、遺言者は傍にあつた里子を室外に出し「周囲のものからいろいろいわれるのが辛い。長男に逢つてよく話を聞いてやつてくれ」と頼み、又同院長が「財産については家族の皆に公平にしてやらなければいけない」と申し向けたのに対し、遺言者が肯いていたことが認められる。
その後一一月七日第二回の遺言公正証書が作成されているが、申立人ら先妻の子達はこの事実を知らなかつたものである。
4 そこで本件遺言書作成の状況について見ると上記第一回の遺言公正証書が作成されたことを知つた申立人らは折を見て遺言者にその意思を確めたりしているうちに遺言者は公正証書作成は自己の真意ではない旨述べるようになつたことから申立人らはその取消を求めることを考えるようになり、里子の不知の間にこれを行うべくその機会を待つていた。
昭和四五年一一月一一日遺言者に附添つていた家政婦が辞め、同日以降申立人の妹美子、同麻子の両名と里子が交替で看病することとなり、同月一七日夜から翌一八日午前中は麻子が当番で美子の友人北里秀子と共に泊りこみで看病にあたることとなつていたところから同月一八日午前中に特別方式による遺言書作成の手筈をととのえていたと認められる。
そして同日朝、前夜熟睡して比較的精神状態の良好であつた遺言者に対し、麻子が「自分達の事も考えて欲しい。この前お母さんが公証人や弁護士さんを連れて来て作つた書類はないことにして、又元気になつてから改めて考えて欲しい」旨述べると遺言者もこれを了承したので、申立人らに知らせ同日午前一一時頃立会人として、申立人の知人関口邦夫、遺言者が以前経営していた○○タクシー会社の運転手であつた佐伯宗太郎、申立人の知人で国立○○病院の薬剤師緒方直見及び前記北里秀子の立会を求め同人らの面前で、あらためて麻子が遺言者に対し「この前お母さんが公証人や弁護士さんを連れて来て作つた書類は取消しにしてね」と述べると遺言者は「うん」とうなづきその後「何もかも取消す。無効とする」と述べたことが認められる。
これに基き関口邦夫が本件遺言書を作成し遺言者に読み聞けをして確めたところ、上記と同じ返事を得たので各立会人においてこれを認め署名押印したのである。
(当裁判所の判断)
以上認定の事実に基き判断すると遺言者の入院後死亡に至るまでの病状は極めて重篤なもので自己の肉体的苦痛に耐えその生命を維持するのが精一杯の状態であつて、自己の将来を予測し、周囲の近親者の生活を慮り、自己の財産につき適正な処分をするなどの考慮が充分なし得る状態であつたかは極めて疑問のあるところである。従つて意志の自由といつてもそれは精神的、肉体的に限定された状態におけるものであつて、例えば遺言者の心理は激浪にただよう小舟の様に周囲のもの、特に近親者などによつて何れへも傾く可能性を持つていたことが、同人の病態と死亡に至るまでの言動の中に看取される。
そして遺言者をめぐる近親者は申立人と先妻の子七名のグループと後妻里子と同女の生んだ遺言者の子二名のグループに分れ両者が互に遺言者の財産を自己に有利に配分を受けようとし対立しており、申立人は合資会社○○館の代表社員として実権を有するところから、順次遺言者名義の財産を会社名義に切換をなし、会社資産に対する持分額を変更することによつて申立人らに配分をはかるところから、これが里子の焦慮を招く結果となり、同人の勧めによつて第一回の遺言公正証書が作成されるに至つたと認められる。
その頃遺言者の看病は里子が主としてあたつて居り、瀕死の病床にある遺言者としては同人の意向に従わざるを得ない立場にあつたことを見逃し得ない。
そして第一回の遺言公正証書の作成を知つた申立人らが、その後は以前より一層近く遺言者に近づき、申立人をはじめ遺言者が生前末娘として可愛がつていたという麻子や美子らが親しく枕頭に待つて看病し、同人らの立場につき懇願すれば遺言者としては同人らの意向をも無視し得ない弱さがあつたと考えられ、それがもともと不確かであつた心境の変化となり、本件における複数の相異る遺言となつて顕われたと認められる。
危急存亡時における遺言者の遺言は多かれ少なかれこの様な制約された肉体的、精神的条件のもとになされることが多いのであるが、尚それがその人間の自由な意思に基くと呼び得る限り尊重されなければならないものを持つている。
本件遺言時おける遺言者の病状は入院後同時点までの状態と較べて著しく悪いという事はなく精神状態もこの時点において比較的良い方であつたと認められる。
しかしその状態はもはや精神的、肉体的に健全な人間が客観的合理的な判断をなし得るような完全に自由な意思の状態ではなく、その点では制限された自由であつたといわなければならないが、しかも尚病床にあえぐ遺言者が最後の生命をふりしぼつた同人なりの自由な意思の発想がそこにあつたと認める。これを筆記した別紙記載の遺言書は取消の対象となる遺言公正証書を限定している点において遺言書の真意がそのまま顕われていない部分もあるが、その大筋において遺言者の発言を記載したもので同人の真意に基くということができる。
よつて別紙記載の遺言は遺言者の真意に基くものであることを確認し主文のとおり審判する。 (土井博子)