大津地方裁判所 昭和28年(わ)164号 判決 1960年6月11日
被告人 松尾四郎
明三八・一・一生 材木商
主文
被告人は無罪
理由
本件公訴事実は、
被告人は、
第一、昭和二十七年三月下旬頃より、同年四月二十五日頃迄の間滋賀県甲賀郡鮎河村大字大河原小字元越所在の滝谷内森林において、山口範次郎所有にかかる杉檜松類立木約三千石を、
第二、同年四月頃より同年五月十日頃迄の間右元越所在の流谷内森林において、田中商事株式会社所有にかかる杉檜類立木約千五百石を
各伐採窃取したものである。
というのである。
ところで、被告人は、右第一、第二事実とも、岐阜官材協同組合(以下単に岐阜官材と略称する)がその立木を田中商事株式会社(以下単に田中商事と略称する)より買い受けて、正当にこれを伐採したものであつて、盗伐したものではないと主張しているので、以下この点について考察することとする。
第一、岐阜官材と田中商事との契約とその経緯
第四回公判調書中被告人の供述記載、第六回公判調書中証人田中末雄、第六回及び第七回公判調書中証人田中幸吉、第九回公判調書中証人小石六郎及び同野村新蔵の各供述記載証人後藤玉吉、同沢井栄三郎(第十七回公判)、同田中幸吉(第二十一回公判)及び被告人(第十九回公判)の各供述、買主有限会社伊藤製材所(以下単に伊藤製材と略称する)売主田中商事の林業部田中幸吉の昭和二十六年二月十一日附立木売買並に伐出契約書二通(証第二及び第三号)、売主伊藤製材、買主荘川官材協同組合(以下単に荘川官材と略称する)及び岐阜官材の昭和二十六年二月十四日附契約書(証第四号)、買主伊藤製材、売主田中商事の昭和二十六年二月十八日附契約書写、荘川官材、岐阜官材及び伊藤製材間の昭和二十六年十月十六日附覚書(証第五号)、買主伊藤製材、売主田中幸吉の昭和二十六年十月二十三日附立木売買契約書二通(証第六及び第七号)、田中幸吉作成の伊藤製材宛領収証二通(証第八及び第九号)、及び買主岐阜官材、売主田中商事の昭和二十六年十一月二十三日附立木売買契約書(証第十号)を綜合すれば、伊藤製材は昭和二十六年二月十一日田中幸吉より田中商事所有の滋賀県甲賀郡鮎川村大字大河原小字元越内笹口右谷、左谷、宗ヶ谷、小割谷、大割谷、井戸谷に現存する杉、檜、松合計六千石を四十五万円で、同字通称元越谷に現存する杉、檜合計四千五百石を三十三万円で買い受けると共に、いずれも田中商事において伐採搬出する旨を約したこと、右いずれも石数責任持の約定があること荘川官材及び岐阜官材(代表者理事長は被告人)は、同月十四日伊藤製材から右笹口左右谷、宗ヶ谷、小割谷、大割谷、井戸谷より出材する松、杉、檜合計六千石を買い受けたこと、その後田中商事は前記田中商事と伊藤製材との契約を承認したが、伐採搬出が進捗しなかつたため、昭和二十六年十月二十三日右契約を立木売買のみに変更して伊藤製材が伐採搬出することとすると共に、その伐採区域を笹口左右谷、宗ヶ谷、大割谷、小割谷、追ヶ平、向ヶ平、元越三号地、猪足谷本谷入るより右は宮古屋分水迄、左は流谷分水迄に存在する松、杉、檜と変更したこと、伊藤製材は右売買代金の内金三十三万円はこれを現実に田中幸吉に支払い、金四十五万円は野村新蔵が田中幸吉のためにアトリエを建築することとしてこれを支払つたものとしたこと、しかし、その後もなお、立木の伐採搬出が思うように進捗しなかつたため、岐阜官材は自己の手で伐採搬出することを得策と考え、昭和二十六年十一月二十三日、田中末雄、田中幸吉、野村新蔵(伊藤製材代理人)、大塚千十郎、及び被告人が話し合つた結果、従前の契約を改め、田中商事と岐阜官材(荘川官材は契約関係より脱退)との間に直接立木売買契約が成立したこと、右契約は従前の田中商事と伊藤製材との契約を引き継いだものであつて、代金は既に支払つたものと考えられ、また石数責任持の約定もそのまま引継がれたものと考えられること、及び従前の契約においては末口三寸以下は伐採しないとの約定になつていたが、新契約においては山林の将来を考え胸高四寸以下の立木は伐採しないこととすると共に、従前の伐採区域では立木一万五百石伐採の約定に対し、現実の伐採可能石数が約五千石不足すると考えられたため、新たに滝谷附近若干を追加したことが認められる。
第二、岐阜官材と木下光との契約とその経緯
また、第四回公判調書中被告人の供述記載、第七回公判調書中証人田中幸吉及び同木下光の各供述記載、証人木下光(第二十回公判)の供述、買主岐阜官材、売主木下光の昭和二十七年二月十七日附売買契約書及び田中商事作成の岐阜官材宛証と題する書面(証第十一号)を綜合すれば、田中商事は、昭和二十六年十一月三日井戸谷及び追ヶ平の立木約千五百石を木下光に売渡した(追ヶ平については伊藤製材に既に売渡されていたから二重売買となる)ので、岐阜官材は昭和二十七年二月十七日、これを更に木下光から買い受けたことが認められる。
第三、岐阜官材が滝谷で伐採した総石数及び日時
第三回公判調書中被告人の供述記載、第四回公判調書中被告人及び証人上野徳蔵の供述記載、第六回公判調書中証人田中末雄、第八回及び第十二回公判調書中証人山中義盛、第九回公判調書中証人小石六郎、第十回公判調書中証人船橋正六、第十四回公判調書中証人大石良衛の各供述記載、証人田中幸吉(第二十一回公判)の供述、被告人(第十九回公判)の供述福岡栄太郎の検察官に対する供述調書及び駿遠林業会社より岐阜官材宛葉書(証第十三号)を綜合すれば、岐阜官材は、結局滝谷を除いて総計七千四百三十一石八斗三升を伐採したのであるが、その中には前記木下光より買い受けた立木約千石余が含まれているので、岐阜官材が滝谷の伐採に取りかかるまでに、田中商事所有の山林から伐採した立木は約六千四百石であつたこと、そこで、岐阜官材としては約定の責任持石数一万五百石には約四千石不足するため、これを満すべく昭和二十七年三月中旬頃より滝谷の伐採に着手し、同年四月二十五日頃までの間に滝谷において約三千石を伐採したことが認められる。
第四、田中幸吉が滝谷内に明示を施した事実及びその日時場所
第七回公判調書中証人田中幸吉及び同木下光、第四回公判調書中証人山口範次郎の各供述記載、当裁判所による検証並に証人尋問調書、同調書中、証人山口範次郎及び同上野徳蔵の各供述記載、証人木下光(第二十回公判)の供述及び田中商事作成の岐阜官材宛昭和二十七年三月二十三日附内容証明郵便写を綜合すれば、田中幸吉は木下光とともに昭和二十六年十二月二十一日頃滝谷内の立木(当裁判所による検証並びに証人尋問調書添付見取図A、B附近)を削つて「これより奥伐採を禁ず、田中林業」との趣旨を記載して滝谷附近若干の区域を明示したことが認められる。もつとも、右の明示をした時期について、証人田中幸吉(第二十一回公判)は「昭和二十七年二月頃岐阜官材と木下光との間の同月十七日附の契約に関係して、被告人と話し合つたことがあるので、もしそれまでに明示していたのであれば、そのときに問題となつて滝谷の話が出ているはずであるが、そのような話が出なかつたところから考えると、明示したのは二月十七日以後であるかも知れない」旨の供述をし、被告人(第二十二回公判)も昭和二十七年三月十日頃と思う旨の供述をしているけれども、前記各証拠及び被告人の昭和二十八年七月三十日附検察官に対する供述調書に照し信用できない。
第五、山口範次郎と田中商事との契約及び明認方法
第四回公判調書中証人山口範次郎、同上野徳蔵、第六回公判調書中証人田中末雄、同田中幸吉、第十回公判調書中証人船橋正六の各供述記載、当裁判所による検証並びに証人尋問調書及び同調書中証人山口範次郎、同上野徳蔵の各供述記載、司法警察員作成の昭和二十七年四月二十一日附実況見分調書、司法警察員作成の関係書類追送書(末尾添付の写真六葉を含む)、買主山口範次郎、売主田中商事の昭和二十七年三月二十一日附仮契約書写及び同月三十日附売買契約書写を綜合すれば、田中商事は昭和二十七年三月三十日山口範次郎に対し滝谷の前記明示箇所より奥雑木林内の旧炭焼竈がある地点までに存在する杉檜全部を売り渡したこと、その見積石数は約五千石あつたこと、及び山口範次郎はその頃その地域に「山口製材所所有」「ここより奥立入禁止」と記載した立札を約十本立てたことが認められる。
第六、岐阜官材が前記第四の明示箇所より奥で伐採した石数
岐阜官材が滝谷で伐採した立木の内前記明示箇所より奥で伐採した石数について考えるに、既に認定したように岐阜官材が滝谷で伐採した総石数は約三千石である。ところで、証人木下光(第二十回公判)は明示箇所より下には七、八石しかなかつた旨供述しているし、証人田中幸吉(第二十一回公判)は明示箇所より下には約三百石の立木があつた旨供述している。右両名の供述には相当の開きがあるけれども、とに角岐阜官材が伐採した三千石の内殆んど全部が明示箇所より奥で伐採せられたものであることは右各供述から推して疑いのないところである、もつとも第六回公判調書中田中幸吉の供述記載によれば、「滝谷附近若干の立木は千五百石位あつた」旨の供述記載があるけれども、これは前記各供述に照し信用することができない。
第七、被告人の前記明認方法の認識及び伐採命令
第四回公判調書中証人山口範次郎及び同上野徳蔵、第八回公判調書中証人山中義盛、第九回公判調書中小石六郎の各供述記載及び被告人(第十九回公判)の供述によれば、昭和二十七年三月末頃山口範次郎が前記立札を立て、岐阜官材の伐採監督である小石六郎及び人夫頭である山中義盛に対し伐採禁止を申し入れたので、両名がこのことを被告人に連絡したところ、被告人は通知をするまで伐採を続けるよう指令したことが認められる。
第八、滝谷附近若干の意味――岐阜官材の伐採権の有無
しからば、果して田中幸吉が施した前記明示が、岐阜官材と田中商事との契約に基く正当なものであつたか否かについて考えることとする。
第六回公判調書中証人田中末雄、第七回公判調書中証人田中幸吉の各供述記載及び証人田中幸吉(第二十一回公判)及び被告人(第十九回公判)の各供述を綜合すれば、岐阜官材と田中商事の昭和二十六年十一月二十三日の契約の際、当事者は皆現場をよく知つていたので地図も使わず、記憶に基いて地域を決めただけであつて、滝谷附近若干についてもその区域について明確な話し合いがなく、ただ「向うにひとかたまりの立木があるがあれは伐つてもよいが、それより奥を伐つてはいけない」という程度の話があつただけで、その目印についても話合つておらず後日現地で取り決めるという話も、田中商事が現地で一方的に定めるという話もなかつたことが認められる。
そして、第七回公判調書中証人木下光の供述記載、証人田中幸吉(第二十一回公判)及び被告人(第十九回公判)の各供述を綜合すれば、田中幸吉が滝谷に境界の明示をしたとき岐阜官材の立会人もなく、明示したことについて岐阜官材の承諾を求めたこともないことが認められる。
従つて、昭和二十六年十一月二十三日の契約の際、当事者間に滝谷附近若干の区域は田中幸吉が明示をした地点までであるとの合意がなければ、田中幸吉が施した前記明示は無効のものといわなければならない。そこでかかる合意があつたか否かについて考察するに証人田中幸吉(第二十一回公判)は、「十一月二十三日の契約の際滝谷の入口より約二百メートル入つたところに約三百石位のひとかたまりの林があり、それを伐採することに了解がついていた。それより奥は区域外であるということを決めた。その際被告人から奥も伐採させてほしい」と云つていた旨供述しているけれども、一方同証人は「二百メートルとか三百石という言葉は出なかつた。あのひとかたまりの立木ということで了解した。私の方でひとかたまりの立木と云つていたことと松尾の方で思つていたひとかたまりの立木は違つていたのではないかと今になればそのように思われる。境界についてお互いに食い違いがあつたかも判らない」旨供述しており、更に問「それで、不足分は滝谷の方で伐つてもよいと云うことで大塚がどのように表現したらよいだろうかと云うことから滝谷附近若干という言葉を入れたのではなかつたか」、答「その通りです」との供述があつて、極めてあいまいである上、前記証言には以下述べるような矛盾があるので、信用することができない。すなわち、既に認定したように従前の契約では約四千石不足するということから、その不足分を伐採するために昭和二十六年十一月二十三日の契約の際、滝谷附近若干を追加したという経緯及び滝谷のうち田中幸吉が明示を施した地点より下には伐採するに足る立木が殆んどなかつたが、明示地点より奥には約五千石の立木が存在した事実から考え、岐阜官材が殆んど伐採すべき立木のない区域のみなを滝谷附近若干として追加する筈がないことは明白である。むしろ、下の方から伐採して行き、一万五百石に満つるまで滝谷で伐採し得るということを表現するために滝谷附近若干という含みのある言葉を選んだものと推測するのが自然である。そうすると、第九回公判調書中証人野村新蔵の「最初伊藤製材が田中幸吉から買つた山林にについて若し不足の場合はその奥も伐つてもよいとの承認を受けていた。松尾四郎が入つてきたときの契約にも不足の場合は奥も伐つてよいという話があつた。滝谷附近としておけば一万五百石になるまでそこから伐つてもよいという田中商事の話であつた」旨の供述記載及び被告人(第十九回公判)の「私の方から山の将来のために胸高四寸にしてはどうかと申したので、四寸ということにして一万五百石に満つるまで滝谷で伐採してくれという話であつた」旨の供述の方が信用度が高いものといわなければならない。このことは、第九回公判調書中証人小石六郎の記載によれば、同人は被告人から滝谷の下流の方から伐採していつて不足分があれば、奥の方を伐採してくれと云われたことが認められることからも窺いうるところである。そうすると田中幸吉が施した前記明示は契約に基かない一方的なものであつて無効のものであるというほかはない。もつとも、第十一回公判調書中証人福岡栄太郎の供述記載には、「昭和二十七年一月頃松尾四郎から岐阜官材へ来てくれという電報があつて、行つたときに、同人から滝谷の奥を伐らせてほしいから、あなたから田中社長に話をしてくれと頼まれた」旨の供述記載があり、当裁判所による検証並びに証人尋問調書中証人福岡栄太郎の供述記載には、「頼まれたのは昭和二十七年の雪の降つている頃だつたと思う。私は昭和二十七年一月頃ではなかつたかと思います。契約された後にあつたと思う」旨の供述記載があるが、被告人は終始この点を極力否定しているので考えるに、右時期については、第十一回公判では「よく覚えていませんが、昭和二十七年頃と思う」、問「昭和二十七年一月二十二、三日頃と違うか」答「そうかもわかりません」と述べあいまいな点があるし、検証の際における供述態度も自信がない様子に見えたし、同証人の供述は他の重要な点について供述の変転が著しい。例えば、第十一回公判では「昭和二十六年十二月頃と思います。五、六本の木を削つて『滝谷境界、これより奥は伐採禁止、田中商事』という意味のことを青いインキの様なもので書かれました。私が境界を山中等に教えた後、これより奥も伐るといわれたので田中幸吉にその旨話したところ、伐らさない様に印をつけたのだと思います」と供述していながら、検証の現場では「立木を削つたのは田中幸吉で何時頃削つて書いたものか私は知りません。私の見たのは三月頃に山口製材の立札が立つているのと一緒に見た。田中から木を削つてあることも聞いていませんでした」旨供述しているし、また第十一回公判では「滝谷は田中幸吉さんから聞いていた境界を山中に案内し指示した」旨供述しながら検証の現場では「滝谷の現場は山中にも小石にも指示していない。滝谷の範囲は知りません」旨供述している。更に同証人は昭和二十四年頃から同二十八年頃まで田中商事の社員として山林の監視に従事していたのであるから、かかる利害関係があり且つあいまいにして変転の著しい同証人の供述はにわかに信用しがたい。次に第六回公判調書中証人田中幸吉の供述記載には「昭和二十七年一月頃に福岡栄太郎が松尾四郎の使いとしての小石六郎から、滝谷の奥を伐らせてほしいと頼まれたと云つてきたが承諾しなかつた」旨の供述記載があるけれども更に「昭和二十六年夏頃であつたかも判りません」旨供述しているし、同証人は第二十一回公判でも最初「昭和二十七年一月当時に松尾も滝谷の奥の方を切らせてもらうために京都に話をしに行きたいと云うことを岐阜官材の事務所で福岡に云つていたと云うことを福岡から私は聞いておりました」問「それは昭和二十七年一月に間違いないか」答「間違いありません」と述べておきながら、後になつて、被告人の「滝谷の木を伐らせてほしいと福岡に言つたのは野洲川ダムの下の「さかりや」と云う家の座敷で二十三日の契約をする前にいつたのだかどうか、それは伊藤製材と契約をするときに伐らせてほしいと云つたのだかどうか」との問に対し「その通りです」と答え、裁判官の「その話が契約前のことであることをどうして知つたのか」との問に対し「松尾さんの説明で、そうだつたと思うのです。その話は契約前にあつたことを契約のあつた後に聞いたのです」と答え、これまたあいまいである上に変転が著しく前記供述記載はにわかに信用することができない。更に、第七回公判調書中証人木下光の供述記載には「別に被告人に昭和二十七年二月頃滝谷山谷山林立木を伐らせてくれと頼まれたことはない。そのような空気があつただけです。昭和二十七年二月頃松尾はいずれ暖かくなつたら手土産でも持つて田中社長の処へ滝谷立木を伐らして貰うよう交渉しようと思つていると云つていた。」旨の供述記載があり、同証人は第二十回公判では「被告人も私との契約をした際に、滝谷を入れるように斡旋してくれと私に岐阜官材の事務所で申しておりました」と述べている。しかしながら、右二つの供述には明白な矛盾があるし、同証人の第二十回公判での証言によれば、同人は昭和二十六年頃から田中幸吉の友達として山の売買の相談にのつてきたこと、及び田中商事が山口範次郎に滝谷の山林を売り渡すのについても同人が相談にのり斡旋したものであることが認められるので、かかる利害関係があり、且つ前後の矛盾ある同証人の右各証言はにわかに信用することができない。従つて被告人が昭和二十七年一月頃に福岡栄太郎や、木下光に滝谷の奥も伐らして貰えるよう田中商事への斡旋を依頼したことがあつたと断定することはできない。仮にそのようなことがあつたとしても、それは田中幸吉が既に一方的に前記明示を施した後であるから、被告人がそれより奥を伐採する権利があると信じていても穏便に事を運ばんがためにそうすることもありうることである。従つていずれにしても岐阜官材に右明示を施した地点より奥の立木を伐採する権利がなく、且つかかる権利がないことを当時被告人が認識していたことの情況証拠とすることはできない。
以上説示したところから、岐阜官材は滝谷の立木については正当に伐採し得る権利を有していたものと認められる。
第九、前記明認方法と岐阜官材の伐採権との関係
しかし乍ら既に認定したように田中商事は昭和二十七年三月三十日滝谷の前記明示地点より奥の地域に存在する立木を山口範次郎に売渡し、山口範次郎は同日頃その立木に明認方法を施したのであるから、同日以後山口範次郎は立木の所有権を以て岐阜官材に対抗できるが、岐阜官材は伐採権を以て山口範次郎に対抗することができない。従つて同日以後に岐阜官材が右立木を伐採したならば、山口範次郎に対する関係において、右立木に対する同人の所有権を侵害することとなる。
第十、前記明認方法が施されてから後に岐阜官材が滝谷で伐採した石数
しからば、岐阜官材は山口範次郎が明認方法を施してから以後何石位伐採したかについて証拠を検討するに、この点について石数を述べているのは僅かに、第四回公判調書中証人上野徳蔵の供述記載に「上野徳蔵が昭和二十七年三月二十八日頃現場を見に行つた際岐阜官材の人夫が三十名位伐採していた。当時千石ぐらい伐採していた」旨の供述記載があるのと当裁判所による検証並びに証人尋問調書中に証人山中義隆の「山口が立札を立ててから千石位伐採していると思う」旨の供述記載があるのみである。もつとも、第七回公判調書中証人木下光の供述記載及び検証並びに証人尋問調書中証人山口範次郎の供述記載には「山口範次郎が滝谷の山林を買い立札を立てたときはまだ誰も伐採していなかつた」旨の供述記載があるけれども、第四回公判では証人山口範次郎自身「昭和二十七年三月二十八日に上野徳蔵に山を見にやらせた。上野の報告では岐阜官材が伐採していた」旨供述しているし、立札を立てる以前から岐阜官材が伐採していた旨の供述をしている証人が圧倒的に多いので証人木下光及び同山口範次郎の前記各供述記載は信用することができない。従つて明確なことは判らないけれども、山口範次郎が明認方法を施して以後に岐阜官材はなお約千五百石を伐採したとみるのが相当であろう。
第十一、明認方法の認識と不法領得の意思との関係
ところで、被告人は第十九回公判において「二重売買されたときは明認方法を先にした方が勝つということを知らない。先に買つたものに権利があると思つている。これまで明認方法をしたり、されたりしたことはない」旨述べているのでこの点について検討するに第八回公判調書中証人山中義盛、第九回公判調書中証人小石六郎及び検証並びに証人尋問調書中証人山中義隆の各供述記載を綜合すれば、昭和二十七年三月末頃山口範次郎が立札を立て伐採するなと云つてきたので、山中義盛と小石六郎が相談して岐阜官材の被告人に問合せたところ、被告人から一万五百石の契約があり、買受けた立木だから伐採してもよいとの返事があつたので伐採を続けたことが認められ、第七回公判調書中証人木下光の供述記載によれば、田中商事が滝谷の山林を山口範次郎に売渡した後被告人が境界線は認めないと云つていたことが認められる。また、証人後藤玉吉(第十七回公判)の証言によれば昭和二十七年四月頃、岐阜官材の役員会で理事長である被告人が、足りないときは、滝谷で一万五百石に満つるまで伐採するということだから若干という抽象的なことになつているのだという説明をしたことが認められ、更に第九回公判調書中証人小石六郎の供述記載によれば、小石六郎が被告人に仮処分があつたことを報告したとき被告人が仮処分は不当だと云つたことが認められる。以上の各事実と岐阜官材より田中商事宛昭和二十七年四月十八日附内容証明郵便(証第十二号)を綜合すれば、被告人は山口範次郎が明認方法を施したことを知つた後も、岐阜官材に伐採権があるものと信じていたことを推認することができる。しかして、この点の錯誤はいわゆる非刑罰法規に関する錯誤であるから、法律の錯誤ではなく事実の錯誤であるといわなければならない。すなわち、被告人は伐採権なきに拘らず伐採権あるものと誤信して伐採したものであるからいわゆる不法領得の意思を欠如するものといわなければならない。
第十二、公訴事実第一に対する結論
従つて以上を要するに、明認方法が施される以前に伐採した約千五百石については正当な伐採権に基いて伐採したものであり、明認方法が施された以後に伐採した約千五百石については伐採権ありと信じて伐採したものであつて、不法領得の意思を欠くものである。
次に流谷について考察することとする。
第十三、流谷において岐阜官材が伐採した日時及び石数
第六回公判調書中証人田中末雄、第十一回公判調書中証人福岡栄太郎、検証並びに証人尋問調書中証人福岡栄太郎の各供述記載及び福岡栄太郎の検察官に対する供述調書を綜合すれば、岐阜官材は昭和二十七年三、四月頃、流谷内において約千五百石を伐採したことが認められる。もつとも、福岡栄太郎の検察官に対する供述調書にはあたかも、昭和二十七年五月十日過頃仮処分があるまで岐阜官材が流谷で伐採していたかの如き供述記載があるけれども、右供述記載を仔細に検討すると「確かその年の五月十日過頃かに仮処分がありました。それ迄に岐阜官材の方で伐採した流谷の杉、檜は私の見積りでは約千五百石程と思います。」と述べているのであつて、右供述によれば五月十日頃に仮処分があつたことは明らかであるが、その頃まで岐阜官材が流谷を伐採していたのを福岡栄太郎が見たことがあるのかどうか不明であり、他に岐阜官材が五月十日頃まで流谷を伐採していたことを認めるべき証拠はない。
第十四、流谷の立木に対する岐阜官材の所有権の有無及びその認識の有無
そこで、前記昭和二十六年十一月二十三日附の岐阜官材と田中商事間の立木売買契約において、その伐採区域の中に流谷が含まれていたか否かについて考えることとする。同日附の契約書(証第十号)には伐採区域中に「流谷」との記載はない。しかし、「猪足谷」との記載はある。しかして既に認定したように田中商事と岐阜官材との間の同日附契約は従前の田中幸吉と伊藤製材との間の立木売買契約を承継したものであるところ、従前の伊藤製材と田中幸吉との間の同年十月二十三日附の立木売買契約書二通(証第六及び第七号)には「猪足谷本谷入るより右は宮古屋分水迄、左は流谷分水迄」との記載があるので「猪」というのは猪のうち右の範囲を指すものと考えられる。ところが、「分水迄」という記載は、字義きわめて漠然としているといわなければならない。けだし、谷はすべてその谷の上流の頂上にあたる分水と、谷の左右の二つの分水との合計三つの分水に囲まれているのであるから、単に分水という場合そのいずれの分水を指すのか不明であるからである。そこで、契約当事者が契約の際現実に如何なる合意をしたかを検討しなければならない。
既に認定したように昭和二十六年十一月二十三日の契約の際、当事者は皆地図も使わず記憶に基いて地域を決めただけであつて、その地域を後日現地で取り決めるという話も、田中商事が現地で一方的に定めるという話もなかつたことが認められる。しかして、証人田中幸吉(第二十一回公判)及び被告人(第十九回公判)の各供述によれば、昭和二十六年十一月二十三日の契約の際流谷という言葉は特に出なかつたことが認められる。
ところで、証人田中幸吉(第二十一回公判)は「十一月二十三日の契約の際流谷を含まないということは明確には出ていないが、当然皆流谷は入つていないと思つていた。流谷は谷としては小さいが立木は相当あつたし、伊藤製材との契約のときには、はつきり流谷という言葉が出て、流谷は含まないという話がはつきり出た。そのときは松尾とは関係ないが、当然松尾は野村からそのことを聞いたものと考えられるので松尾も当然流谷は含まないという立場に立つておられたものと考える。当時流谷と猪足谷は別のものという習慣になつていたのでわかつていたと思う。既に他人に売却されていない区域を伐採するということになつていたのではない」との趣旨を供述しており、証人田中末雄の第六回公判調書における供述記載によれば「流谷と猪との間に別の谷が二、三あり、半道位離れている。松尾が盗伐した山林と松尾が買つた山林とは離れています」旨述べているし、証人福岡栄太郎の第十一回公判調書における供述記載によれば「土地としては猪足谷の方が大きいが田中商事所有の猪足谷は少いので流谷の方が大きい。大きさの比率は四分六分で流谷の方が大きい」旨述べている。しかも、証人田中幸吉(第二十一回公判)及び被告人(第十九回公判)の各供述によれば、宮古屋谷は契約に含まれていないことが明らかに認められるので、契約書に「流谷分水迄」「宮古屋分水迄」と同じ表現で記載されている以上、流谷もまた契約に含まれていなかつたようにも考えられる。
しかし、一方被告人は、第十九回公判において「昭和二十六年十一月二十三日の契約の際猪について特に指示説明がなかつたが、従来どおり流谷も当然入つていたと思つていた。流谷分水とあるのは田中と伊藤の契約にあつたものですが、他人に売つてある部分を除いた全部というように解決していた。野村新蔵がこれから奥は他人に売つてあるので売れている分水までと云つていた。昭和二十六年五、六月頃に小石、山中、野村と私とが山を見に行つたときに野村から説明を受けた」旨供述し、第二十二回公判において「伊藤から受取つたときに、契約書について言葉の意味から流谷が入るか宮古屋谷が入らないのかと云うことについて検討したのではなく、これより奥は他人に売つてあるからだめだと云うことを田中や野村から聞いた程度です。田中からは山の田中商事の事務所で昭和二十六年の夏頃に田中幸吉から聞いた。そのとき流谷という言葉は出ていない。あそこからあそこまで売れているのだということを申しました。田中幸吉と伊藤製材との契約は初めは全山ということになつていた。その後谷の名称を契約書に入れたが、実質的には全山から伐採してよいという野村からの説明を受けていました」旨供述している。そして第九回公判調書中証人野村新蔵の供述記載には、「流谷の分水の他の面は売れており、立木はない。その反対側が猪足谷に加わつており契約の中に入つている。最初私が田中幸吉から買つた山林は元越内となつていたと思う」旨の供述記載があり、伊藤製材と田中幸吉間の昭和二十六年二月十一日附立木売買並に伐出契約書二通(証第二及び第三号)によれば、一通(証第二号)には谷の名称を特定してあるのに他の一通(証第三号)には通称元越谷と記載してあるに過ぎないことが認められ、第二十一回公判調書中証人田中幸吉及び検証並びに証人尋問調書中証人福岡栄太郎の各供述記載によれば、流谷は他に売却されておらず、流谷より奥の谷は、他人に売却されていたことが認められ、被告人(第十九回公判)の供述によれば、宮古屋谷も他人に売却されていたことが認められる。しかして、当裁判所による検証並びに証人尋問調書によれば、流谷は猪足谷に注いでいる猪足谷の中にある小谷であり、その水量は猪足谷のそれの五分の一程度のものであることが認められ、第八回公判調書中証人山中義盛、第九回公判調書中証人小石六郎、検証並びに証人尋問調書中証人山中義隆及び同松本経男の各供述記載によれば同人等は流谷という名称を知らず或はその名称を聞いていてもその場所を知らなかつたことが認められまた検証並びに証人尋問調書中証人福岡栄太郎の供述記載には、裁判官の問「仮に契約書に猪足谷と書いてある場合証人として流谷も含むと解釈するか」に対し「私個人としては流谷も猪足谷の小谷であつて、猪足谷と解釈します」との供述記載がある。更に、第十二回公判調書中証人山中義盛の供述記載によれば「福岡が猪足谷の内で他に売つた個所があるということだつたので私の方から案内してもらつた。昭和二十六年十二月頃に案内してもらつたが、流谷は境界内であつた」旨の供述記載あり、検証並びに証人尋問調書中証人福岡栄太郎の供述記載には「境界を案内したとき、山中、小石等に流谷の向う側は他人に売買されていると申しておきました」旨の供述記載がある。また同証人の供述記載には「昭和二十七年三月頃、岐阜官材の人夫が流谷山林を伐採しているのを知つたので、田中に知らしたが、田中幸吉から別に止めるようにとも聞かなかつたのでほつておきました」との供述記載があるし、同調書中証人山中義隆の供述記載によれば、流谷を伐採しているときも木馬道をつけているときも福岡より注意を受けたことが無いことが認められる。もつとも、第十一回公判調書中証人福岡栄太郎の供述記載には、「昭和二十七年四月頃岐阜官材の人夫が境界を越えて流谷の立木を伐採しているのを見付け山中に伐採を中止するよう申し入れた」旨供述記載があるけれども前記各供述記載に照し信用することができない。また第八回公判調書中証人山中義盛、第九回公判調書中証人小石六郎の各供述記載によれば、同人等は被告人から田中林業の山林から一万五百石を伐り出してくれと頼まれたことが認められる。以上の各証拠を綜合すれば、流谷は猪足谷の一部であり、しかも他に売却されていなかつたのであつて、猪足谷のうち要するに他に売却されていない部分が、「猪足谷」と表現されて契約に含まれていたようにも考えられる。もつとも、検証並びに証人尋問調書中証人福岡栄太郎の供述記載によれば「昭和二十六年十二月頃山中、小石等を案内したとき田中幸吉から聞いていたとおり流谷は含まれていないと説明した」旨の供述記載があるけれども、同調書によれば、福岡か小石及び山中に指示したという稜線は、指示したと称する場所からは、検証当時前方に針広混交林の葉がおい茂つて視界を妨げ全然見ることのできない状態であつたことが認められるし、既に述べたように同証人の供述は変転著しく、またあいまいな点が多く、かつて田中商事の社員であつたという同証人の地位から考えてにわかに信用することができない。従つて、流谷の立木は岐阜官材が田中商事から買い受けたものであることを否定し去ることはできない。
更に、被告人は第二十二回公判において、「伊藤製材所と契約したときに出ている宮古屋分水、流谷分水までというのは事件になつてから知つた。宮古屋谷分水迄と流谷分水迄と同じような表現をしていて、一方は入らないし、一方は入るということについて比較して考えたことはない」旨供述しており、第六回公判調書中証人田中末雄の供述記載には「抗議すると松尾は買つた山だから伐採すると云つていた」旨の供述記載があり、同調書中証人田中幸吉の供述記載には「流谷は猪足谷の一部だから伐採したという弁解を聞いたことがある」旨の供述記載がある。以上の各事実及び各証拠に、岐阜官材より田中商事宛昭和二十七年四月十八日附内容証明郵便(証第十二号)を綜合すれば、少くとも被告人は、流谷も契約に含まれていると信じていたことが認められる。第六回公判調書中証人田中幸吉の供述記載には「猪足谷の下に流谷が含まれると解釈する岐阜官材と現地の習慣で猪足谷と流谷は別区域であるとする田中商事との見解の相違から起つた紛争である」旨の供述記載があるが、端的に事件の真相を表現するものであるのかも知れない。
第十五、公訴事実第二に対する結論
従つて以上を要するに、流谷の山林が岐阜官材の所有物でなかつたことの証明は不十分であり、少くとも被告人は岐阜官材の所有物であると信じて伐採したものであるから、仮に流谷の山林が田中商事の所有物であつたとしても、事実の認識を欠如するものといわなければならない。
結局本件各公訴事実はいずれも犯罪の証明がないことに帰するので刑事訴訟法第三百三十六条後段の規定により被告人に対し無罪の言渡をする。
よつて、主文のとおり判決する。
(裁判官 佐古田英郎)