大津地方裁判所 昭和41年(わ)373号 判決 1967年5月08日
被告人 井上直三
主文
被告人は無罪。
理由
本件公訴事実は「被告人は、自動車運転の業務に従事するものであるが、昭和三九年二月二八日午後五時二〇分頃、普通貨物自動車を運転し、国道八号線(幅員七、五米)を木之本方面より長浜方面に向い吹雪中を時速約四〇粁で南進し、前方を先行する北川新次(当時三六才)の運転する第二種原動機付自転車(以下前車と称す)に追従しつつ、伊香郡高月町大字東物部三〇九番地の一地先の同国道と右方に通ずる道路との交差点の手前にさしかかつたのがあるが、当時吹雪中で右北川は頭巾を深くかぶつていたため後方から接近する自動車のエンジンの音も聞えにくい状態で且後をふり向きにくい状態であつたから、自動車運転者としては右北川が右交差点において後続する車はないものと簡単に考えて右折する事を予想し前車が右交差点で右折しないことがはつきりするまで同交差点附近で追抜きをせずいつでも急停車できる程度の間隔を常に保つて進行し、事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのにかかわらずこれを怠り、前車が交差点の手前から方向指示器により右折合図をなすとともに右手を水平に挙げて右折する旨の合図をして右折せんとしていたことを看過し、前車はそのまま国道左側を直進するものと軽信し、前車を右側から追い越そうとして漫然同一速度で前車に接近した過失により前車と約二、三米に接近して漸く方向指示器による前車の右折合図に気付き危険を感じ、把手を右に切るとともに急制動をかけたが及ばず、自車左側面部を前車右側面部に接触させて前車をその場に転倒させ、よつて前記北川新次をして頭蓋内出血などのため翌二九日午後一時二五分頃同郡木之本町大字木之本所在伊香病院において死亡させたものである」というにある。
そこで、検討するに、後記各証拠を綜合すると「被告人は、自動車運転の業務に従事するものであるが、昭和三九年二月二八日午後五時二〇分頃、普通貨物自動車(ダツトサン、大四み二九一七号)を運転して国道八号線(幅員七、五米、当時交通閑散)を、滋賀県伊香那木之本町方面から同県長浜市方面に向い、吹雪中を、時速約四〇粁で南進中、約五〇米前方に、頭巾を深くかぶり国道左端を時速三五粁位で先行する北川新次(当時三六年)運転の第二種原動機付自転車(以下単に前車という)を認め、これに漸次接近しつつ同郡高月町大字東物部三〇九番地の一地先国道と西方直角に通ずる県道(幅員三、八米)との丁字型交差点(交通整理は行われていず、左右の見とおしは良好)手前にさしかかつた際、前車がなお直進を続けるものと考え、前車の右側方一米余の余裕を保つて同一速度で直進、追抜こうとして、右交差点の側端手前約三米、前車に二米位接近したところ突如前車が右折方向指示ランプを点滅させて交差点に入り右折を開始したのを認め、急拠、把手を右に切ると同時に急制動の措置を講じたが及ばず、自車の左側面部を前車の右側面部に接触させて、前車をその場に転倒させ、これがため北川新次をして頭部打撲による頭蓋内出血により翌二九日午後一時二五分同郡木之本町七二五番地伊香病院において、死亡するに至らしめた」との事実を認定することができる。
(証拠)<省略>
そこで、本件の争点は、右確定事実のもとで、被告人に対し、検察官所論の注意義務(追抜きの際の注意義務)を認めうべきかの点及び本件事故につき被告人に過失を認めうべきかの点に帰着する、と考えるので、以下に検討する。
先ず、交通法規によると「車輛が交差点を右折するときは、その側端の三〇米手前から、手または方向指示器による右折合図をなしつつ、できる限り道路の中央に寄りかつ交差点の中心直近の内側を徐行して右折すべきもの」と定めている(道路交通法第三四条、第五三条、同法施行令第二一条)。しかるに、前示の如く北川は交差点側端手前に至つて、突然右折合図をなして交差点に入り右折開始をしたのであるから、北川の右折方法は、明らかに交通法規に違反するものであり、同人のこのような過失ある車輛操作が本件事故の主因をなすもの、というのほかはない。次に、被告人の注意義務及び過失の存否を検討するに、普通、交差点における追抜きそれ自体は、追越しの場合と異なり、これを禁ずる交通法規の明文はなく、また、禁ずべき理由もないから、本件の場合、被告人が前車を追抜こうとしたこと自体は、何ら違法とはいえない。ただ、被告人が前車を追抜こうとするにつき、被告人に対し検察官所論の注意義務(公訴事実掲記の追抜きの際の注意義務)を課すべきかどうかについては疑問があるが、本件の場合交差点は交通整理が行われておらず、左右見とおしのきく所であり、当時交通も閑散であつたから、被告人において、前車の正常運転を期待する限り、前車は直進するものと考えるのも、強ち無理とはいえない。この点について、北川が頭巾を深くかぶつており、音も聞えにくく、後をふりむきにくい状態であつたとしても、別段、所定の右折方法をとることの妨げとなるものではないから、被告人をして、前車が法規違反の右折をするかも知れないことを予想させるに足る特段の事情とはいえない。また、稀に、法規違反の右折をする運転者もあるのが現状であるとしても、本件の如き前車の突然の違法右折にまで、被告人に予見を命じ、これに対処して事故の発生を未然に回避すべき万全の運転方法を講ぜよ、と要求することは、被告人に通常の注意義務を超える過当な運転上の注意義務を課する結果となり、妥当とはいえない。しかして、被告人としては、前示認定の如く前車の右折を認めるやいなや、急拠、把手を右に切り同時に急制動の措置を講じたのであるが、ときすでに前車との接触を回避できない客観的状況に追い込まれていたものとみることができる(この点は第六回公判調書中の証人浅野重市の供述記載による)から、この点につき、被告人に刑責を問う程度の過失を認めることも、また無理である。
かく考えると、検察官主張の「北川が右折に際し方向指示ランプのほかに、別に右手を水平にあげて右折合図をした」かどうかの点は、前示判断を左右するに足る資料とはならない。
結局、本件は、公訴事実につき、被告人に検察官所論の業務上の注意義務を認め難く、ひいては過失責任を認めることも至難であるというべく、他に被告人に過失を認めるに足る証拠もない。
よつて、刑事訴訟法第三三六条により、被告人に対し無罪を言渡すべきものとし、主文のとおり判決する。
(裁判官 谷賢次)