大阪地方裁判所 平成10年(モ)512号 決定 1998年7月07日
申立人(被告)
株式会社神戸屋
右代表者代表取締役
加村和夫
右代理人弁護士
松田安正
被申立人(原告)
桜井興業株式会社
右代表者代表取締役
松井信子
右代理人弁護士
中谷茂
同
山口勉
主文
本件申立てを却下する。
理由
第一 申立ての趣旨
被申立人(原告)は、申立人(被告)に対し、平成一〇年(ワ)第一九〇号新株発行無効確認請求事件の訴えの提起について、相当の担保を提供せよ。
第二 事案の概要
一 本件本案訴訟は、申立人(被告)の株主である被申立人(原告)が、申立人(被告)に対し、「申立人(被告)が平成一〇年一月一日にした発行価額を五〇〇円とする額面普通株式(一株の金額五〇円)二〇〇万株の新株発行を無効とする」との裁判を求める新株発行無効の訴えであり、その請求原因の要旨は、次のとおりである。
1 申立人(被告)の額面普通株式(一株の金額五〇円)の時価は少なくとも一二九二円であるから、発行価額を五〇〇円としこれを株主以外の者に割り当てて発行する本件新株発行は特別有利発行であり、株主総会の特別決議を経ることを要するところ(商法二八〇条ノ二第二項)、本件新株発行はこの手続を経ていない。
2 被申立人(原告)は、本件新株発行に先立ち、新株の割当てを受けた一三社に対し、本件新株発行に右の瑕疵等があることを通知し、併せて、後日本件新株発行の無効判決がされたとき迷惑をかけるので新株を引き受けないように内容証明郵便で求めており、新株の割当てを受けた一三社は、右瑕疵につき悪意であり、かつ、申立人(被告)が具体的な事業計画・現実的な資金調達の必要性がないのに被申立人(原告)の持分比率を低下させることを目的として本件新株発行を行おうとしているという背景事情を知りながら、本件株式の株金を払い込みこれを引き受けたのであるから、本件新株発行を無効としても取引の安全を害することはない。
二 申立人(被告)の主張
1 被申立人(原告)は、本件本案訴訟の請求が認容される見込みが皆無であることを認識しながら、もっぱら申立人(被告)の営業上の信用を毀損することを目的として本件本案訴訟を提起しているから、本件本案訴訟は「悪意」に基づく訴えの提起である。
(一) 新株発行は、株式会社の組織に関するものではあるが、それ以上に会社の業務執行として行われ、発行する新株の引受人のみならず、広範囲の第三者の法律関係に重大な影響を及ぼすことから、会社を代表する権限のある取締役が新株を発行した以上、これを無効とすることはできないと判示した最高裁判所の先例がある(平成六年七月一四日第一小法廷判決[裁判所時報一一二七号一頁])。本件新株発行は、申立人(被告)の代表取締役が行い、平成九年一二月三一日の払込期日までに新株の割当てを受けた者から株金全額の払込みがされ、平成一〇年一月一日新株発行の効力が発生している。したがって、本件本案訴訟は、右の最高裁判所の確立した判例に照らし、認容される可能性がない。
(二) 被申立人(原告)は、平成九年一二月一日、大阪地方裁判所に本件新株発行差止めの仮処分を申し立て、本件新株発行が第三者割当の有利発行であるのに株主総会の特別決議を経ていないこと、本件新株発行が被申立人(原告)の持株比率の低下を目的としていることを主張したが、同裁判所は、同月二二日、この申立てを却下し、被申立人(原告)は、同月二四日、大阪高等裁判所に即時抗告を申し立てたが、同裁判所は、同月二六日、この申立てを却下した。被申立人(原告)は、本件新株発行が法令に違反し又は著しく不公正な方法によるとの主張が裁判所に認容されず、本件新株発行が適法に完了したことを十分認識しながら、本件本案訴訟を提起している。
(三) 被申立人(原告)及びその現役員(松井信子[以下「信子」という。]、吉澤雅子[以下「雅子」という。]、獅山英子[以下「英子」という。]、比楽俊子[以下「俊子」という。]、片桐邦子[以下「邦子」という。])は、平成七年一一月五日に死亡した父桐山利三郎(以下「利三郎」という。)の遺産分割に対する不満から、申立人(被告)の代表取締役である桐山輝彦(以下「輝彦」という。)の人格攻撃をし、申立人(被告)が輝彦の一存により運営されているとして、以下のとおり申立人(被告)の会社運営につき誹謗中傷している。
(1) 平成九年四月ころから一一月ころまでの間、前後四回にわたり、申立人(被告)の主要取引先に対し、信子、英子及び俊子の連名で(疎甲一〇の1・2)、信子の名前で(疎甲一〇の3)、あるいは信子、英子、俊子、雅子及び邦子の連名で(疎甲一〇の4)手紙を送り、申立人(被告)の会社運営につき中傷誹謗している。被申立人(原告)は、右手紙において、申立人(被告)の株式を第三者に売却する旨表明している。
(2) 平成九年一二月一日に前記仮処分を申し立てた際、この事実を読売新聞社社会部記者に連絡して、平成九年一二月九日の読売新聞に「老舗パン屋お家騒動」と題する大々的な記事(疎甲二)を掲載させ、また、平成一〇年一月一二日に本件本案訴訟を提起した際、同様の方法で同月一三日の読売新聞に記事(疎甲一)を掲載させ、申立人(被告)の信用を著しく毀損した。
(3) 平成九年一二月二日、申立人(被告)のメインバンクである住友銀行の中之島支店長に対し、信子と被申立人(原告)代理人の中谷茂弁護士が、本件新株発行が実施された場合には被申立人(原告)保有の申立人(被告)の株式をライバル会社に売却する旨予告した。
(4) 平成九年一二月二〇日、新株を引き受けた各社に対し、右中谷茂弁護士が、質問状と題する書面を送付し、本件新株発行が違法であるとしてその引受けの中止を求めるとともに、引受けの際に申立人(被告)より提示された情報について回答を要求した。
(5) 申立人(被告)は、前記仮処分事件の答弁書において、被申立人(原告)が株式保有率の低下、あるいは新株の発行価額が低いと主張するのであれば、本件新株発行の発行価額と同額の一株五〇〇円で三五万株の新株を割り当てる旨の取締役会決議を行う用意があることを述べたが、被申立人(原告)はこれに応じなかった。なお、被申立人(原告)から申立人(被告)に対し、被申立人(原告)保有の申立人(被告)の株券を引き渡すよう申し入れがされたことは事実であるが、口頭によるものであり、かつ、被申立人(原告)が第三者に売却することを考えている以上、引渡しには躊躇せざるを得なかった。
2(一) 申立人(被告)は、本件本案訴訟が認容されれば、本件新株発行により払い込まれた株式払込金一〇億円を、各引受払込人に返還せざるを得ない。申立人(被告)は、資金調達の必要性から本件新株発行を行い、本件新株発行の払込金は、設備投資その他の目的に充当することを予定しているが、万一に備えてその計画を延期又は中止することも考慮せざるを得ず、資金計画に重大な支障をきたす。また、金融機関及び取引債権者も、本件新株発行による資本構成の向上などの信用性判断につき、訴訟終結までこれを差し控えざるを得ない。さらに、本件本案訴訟の提起について、商法二八〇条ノ一六、一〇五条四項により、公告することを要するところ、これにより、申立人の信用が著しく毀損される。このように、本件本案訴訟の提起は、これに対処するための弁護士費用あるいは社内の各種応訴手続のための出費をもたらすだけでなく、信用毀損による損害のほか、一般消費者に対し企業イメージの低下による売上減少などの営業上の損害も重大となる。
(二) 本件担保提供申立事件において、被申立人(原告)が供すべき担保は、単に訴訟費用の賠償請求権の引当てに止まるものではなく、申立人(被告)の損害賠償請求権の引当てとなる。その額は、本案訴訟が新株発行無効の訴えであるときには、払込金額を訴額として算出した弁護士費用を最低限の金額とすることが合理的な基準である。
三 被申立人(原告)の主張
1 申立人(被告)の主張1は争う。被申立人(原告)は、申立人(被告)の筆頭株主として、株主総会の特別決議を経ないまま行われた特別有利発行により多大の損害を受けることから、株主としての正当な利益を擁護する目的で本件本案訴訟を提起したものであり、被申立人(原告)には本件本案訴訟の提起につき「悪意」はない。
(一) 申立人(被告)の主張1(一)のうち、申立人(被告)指摘の最高裁判所の先例があることは認めるが、本件本案訴訟が認容される可能性がないとの主張は争う。最高裁判所の先例はあるが、個々の事案により結果は異なる可能性がある。申立人(被告)の主張は、株主たる被申立人(原告)の訴え提起権(商法二八〇条ノ一五)、裁判を受ける権利(憲法三二条)を奪う考え方であり許されない。なお、被申立人(原告)が差額支払請求訴訟(商法二八〇条ノ一一)を提起せず、新株発行無効の訴えを提起したのは、前者では共益権の侵害が回復できないからである。
(二) 申立人(被告)の主張1(二)のうち、新株発行差止めの仮処分の申立て及び即時抗告がいずれも却下されたことは認め、その余の事実は否認する。本件新株の発行価額(五〇〇円)が「特ニ有利ナル発行価額」(商法二八〇条ノ二第二項)に該当するか否かを判断するには、適正な資料に基づいて取締役会決議の時点における時価を把握し、時価と右発行価額との乖離が許容範囲内か否かを判断すべきところ、前記仮処分手続において、申立人(被告)は、直近の財務諸表及び附属明細書の提出を拒否し、また、裁判所も時価及び乖離を判断することなく仮処分の申立てを却下している。本件本案訴訟では、右の誤りが是正されるはずである。
(三) 申立人(被告)の主張1(三)(1)のうち、信子らが各手紙を送付したことは認めるが、これが被申立人(原告)による申立人(被告)に対する誹謗中傷であるとの主張は争う。信子らの手紙は、いずれも個人的なもので、輝彦と五人の姉妹(信子・雅子・英子・俊子・邦子)との仲を円満にすべく努力していた桐山義弘(以下「義弘」という。)が、輝彦の怒りを買って申立人(被告)の代表取締役から解任されたことから、五人の姉妹が義弘を申立人(被告)の代表取締役に復帰させてやりたいと考え、仲を取りもってもらう目的で送付したものであり、弟を思う姉たちの情の自然の発現である。
(四) 申立人(被告)の主張1(三)(2)のうち、読売新聞に記事が掲載されていることは認め、その余は否認する。読売新聞の記事は、原告と関係がない。
(五) 申立人(被告)の主張1(三)(3)の事実は否認する。
(六) 申立人(被告)の主張1(三)(4)の事実は認める。質問状は、株主としての権利を擁護する目的で、有利発行に該当する事実を調査するためのものであり、また、新株発行が無効となった場合、引受人に迷惑がかかるので、引き受けないよう申入れたにすぎない。
(七) 申立人(被告)の主張1(三)(5)のうち、申立人(被告)が前記仮処分事件の答弁書において、被申立人(原告)に対し、一株五〇〇円で三五万株の新株を割り当てる旨の取締役会決議を行う用意があると述べたこと、被申立人(原告)がこれに応じなかったことは認める。被申立人(原告)は、申立人(被告)に対し、申立人(被告)に預託していた申立人(被告)の株券の返還を請求したが、申立人(被告)が正当な理由なく返還しないため、この株券を担保にして新株の引受代金一億七五〇〇万円を手当することができなかった。また、被申立人(原告)は、新株の割当てを受けても、株主としての自益権、共益権が維持されるだけで、そのほか何のメリットもない。
2 申立人(被告)の主張2は否認ないし争う。
第三 当裁判所の判断
一 当事者間に争いのない事実と一件記録によれば、本件本案訴訟に至る経緯について、以下の事実を一応認めることができる。
1 申立人(被告)は、桐山正太郎が創業し、弟の利三郎とともに営んできた事業を元に、昭和七年一二月一六日、パン・菓子類の製造、販売などを目的とする株式会社として設立されたものであり、昭和四六年には利三郎の長男輝彦が利三郎の跡を継いで代表取締役社長に就任し、平成三年代表取締役会長となり今日に至っている。平成九年一一月七日現在の発行済株式総数は一三九四万八〇〇〇株(一株の金額は五〇円)、資本金は六億九七四〇万円であり、発行済株式総数の52.2パーセントは桐山一族及びその関係会社が、8.3パーセントは元副社長の亡吉沢一郎の一族とその関係会社が保有し、その余の約四〇パーセントは取引先、従業員等が保有している。
2 被申立人(原告)は、桐山一族の関係会社であり、申立人(被告)の株式二〇九万五三五四株(約一五パーセント)を保有する筆頭株主である。被申立人(原告)の発行済株式総数は二〇〇〇株であり、輝彦の長男健一が六〇〇株(三〇パーセント)、二男義弘の長男桐山義光(以下「義光」という。)と二男桐山二郎(以下「二郎」という。)が各二〇〇株(一〇パーセント)ずつ、五人の姉妹(信子・雅子・英子・俊子・邦子)の本人又は直系卑属が各二〇〇株(一〇パーセント)ずつ保有し、役員構成は、輝彦が代表取締役兼取締役、義弘が取締役(利三郎も生前は取締役)となっていた。
3 利三郎には、長女信子、長男輝彦、二女雅子、三女英子、四女俊子、五女邦子及び二男義弘、以上七人の子供がいる。輝彦は、康子との間に長男健一、長女桂子及び二女弘子をもうけ、健一は昭和六三年一二月七日その妻美香とともに利三郎の養子となっている。義光及び二郎は、義弘の子である。
4 利三郎が平成七年一一月五日に死亡すると、申立人(被告)代理人の松田安正弁護士を遺言執行者とする公正証書遺言三通の存在が明らかとなった。五人の姉妹(信子・雅子・英子・俊子・邦子)は、このうち最新の遺言(疎乙三)の記載を見て、健一・その妻美香が利三郎の養子となっていたことをはじめて知った上、従前の遺言(疎甲一三)では輝彦が本宅を取得し代償金として本宅の相続税評価額の半額を五人の姉妹と義弘に支払うとされていたところ、最新の遺言では健一が本宅を取得する一方五人の姉妹と義弘に対する代償金は支払われないこととなっているなど遺言内容が輝彦及びその家族に有利に変更されていたことから、輝彦が利三郎の遺産を独り占めしており遺産配分が不公平であるという不満と輝彦らに対する不信の念を抱いた。
5 五人の姉妹(信子・雅子・英子・俊子・邦子)は、義弘に働き掛けて、義弘の二子義光と二郎が保有する被申立人(原告)の株式につき議決権の行使の委任を邦子が受け、平成九年三月八日の株主総会で被申立人(原告)の取締役に輝彦と義弘を再選せず、新たに信子・雅子・英子・俊子(監査役に邦子)を選任し、同日代表取締役に信子を選任した。
6 輝彦は、この事態を招いた義弘を、平成九年三月二八日申立人(被告)の代表取締役から、同月三一日株式会社神戸屋レストランの代表取締役からそれぞれ解任し、平成一〇年三月には申立人(被告)と神戸屋レストランの取締役に再任しなかった。
7 平成九年四月に信子(疎甲一〇の1)から、同年七月に信子・英子・俊子(疎甲一〇の2)から申立人(被告)の主要取引先に対し、事実経過を報告するとともに、義弘の代表取締役への復帰と輝彦・義弘・五人の姉妹間の話合いの仲介を依頼するとの文面の手紙を送付した。さらに、同年八月に信子(疎甲一〇の3)から、同年一一月信子・雅子・英子・俊子・邦子(疎甲一〇の4)から申立人(被告)の主要取引先に対し、五人の姉妹の立場及び主張に対する理解を求める趣旨の手紙を送付したが、文中、輝彦の生き方・経営姿勢・申立人(被告)の現状を、全国紙を発行している新聞社に知らせ記事に取り上げてくれるようにするつもりであり、また、被申立人(原告)が保有する申立人(被告)の株式を売却するつもりである旨記載している。
8 申立人(被告)は、筆頭株主である被申立人(原告)に相談することなく本件新株発行を企図して、平成九年一一月七日に取締役会を開催し、額面普通株式二〇〇万株を一株五〇〇円の発行価額で、払込期日を平成九年一二月三一日、募集方法を第三者割当てと定め、新株を発行することを決議した。新株の割当てを受ける者は、日清製粉株式会社(三四万株)、オリエンタル酵母工業株式会社(二〇万株)、株式会社日本長期信用銀行(一六万株)、株式会社住友銀行(一四万株)、東洋信託銀行株式会社(一〇万株)、株式会社三和銀行(一〇万株)、冨士製餡工業株式会社(七万株)、石川株式会社(二〇万株)、鐘淵化学工業株式会社(二〇万株)、住友信託銀行株式会社(一五万株)、ミヨシ油脂株式会社(一四万株)、株式会社大和銀行(一〇万株)、株式会社彫刻グラビア(一〇万株)の一三社である。割当てを受けた者に、輝彦と個人的な関係のあるものは存在しない。なお、申立人(被告)は、新株発行の必要性につき、投資の必要性、財務体質強化の必要性等を抽象的に主張するのみで、払込金の具体的な使途、具体的な投資内容等については、今日に至るまで、被申立人(原告)に説明していない。
9 被申立人(原告)は、平成九年一二月一日、大阪地方裁判所に本件新株発行差止めの仮処分を申し立て、本件新株発行が第三者割当ての有利発行であるのに株主総会の特別決議を経ていないこと、本件新株発行が被申立人(原告)の持株比率の低下を目的としていることを主張するとともに、新株の割当てを受けた一三社に対し、代理人中谷茂弁護士が平成九年一二月二〇日付けの質問状を内容証明郵便で送付し、本件新株発行が違法であるとしてその引受けの中止を求めるとともに、引受けの際新株の時価につきどのような説明を受けたかの回答を求めた。
10 大阪地方裁判所は、平成九年一二月二二日、右仮処分の申立てを却下し、被申立人(原告)は、同月二四日、大阪高等裁判所に即時抗告したが、同裁判所は、同月二六日、この申立てを却下した。
11 新株の割当てを受けた一三社は、平成九年一二月三一日の払込期日までに株金を払い込み、申立人(被告)は、平成一〇年一月六日、発行済株式総数を一五九四万八〇〇〇株、資本の額を一一億九七四〇万円とする変更登記を了した。
12 被申立人(原告)は、平成一〇年一月一二日、大阪地方裁判所に本件本案訴訟を提起した。
13 読売新聞(疎甲一・二)は、平成九年一二月九日、前記仮処分の申立てがされた事実を報じ、平成一〇年一月一三日、本件本案訴訟の提起がされた事実を報じた。
二 商法二八〇条ノ一六、二四九条二項において準用する一〇六条二項にいう「悪意」とは、株主が新株発行無効の訴えを提起する目的が、商法が株主に提訴権を規定した趣旨に照らし、これを著しく逸脱していることを言うものと解するのが相当である。新株発行無効の訴えを手段とすることにより不当な利益を得ようとの意図で右訴えを提起した場合に限らず、株主としての正当な利益を擁護するという目的以外の商法が許容しない目的により右訴えを提起した場合がこれに当たるのであり、請求原因の重要な部分に主張自体失当の点があり、主張自体を大幅に補充あるいは変更しない限り請求が認容される可能性がない場合、請求原因事実の立証の見込みが低いと予測すべき顕著な事由がある場合、あるいは申立人の抗弁が成立して請求が棄却される蓋然性が高い場合などに、そうした事情を認識しつつあえて訴えを提起したものと認められるときには、「悪意」の存在が一応疑われることになる。
三1 申立人(被告)は、最高裁判所の確立した判例に照らし、被申立人(原告)が主張する事由は新株発行の無効事由とならないから、本件本案訴訟において、被申立人(原告)が勝訴する見込みは皆無であり、また、被申立人(原告)は、そのことを認識しながら本件本案訴訟を提起しているから、「悪意」であると主張する。
確かに、申立人(被告)指摘の最高裁判所の判例があり、株式会社の代表取締役が新株発行をした場合には、右株式が、株主総会の特別決議を経ることなく、株主以外の者に対して特に有利な発行価額をもって発行されたものであっても、その瑕疵は、新株発行無効の原因とはならないと判示し(昭和四六年七月一六日第二小法廷判決)、さらに、株式会社を代表する権限のある取締役が新株発行をした以上、たとえ、新株が著しく不公正な方法により発行された場合であっても、右新株の発行は有効であり、また、新株発行の効力を画一的に判断する必要があるから、発行された新株がその会社の取締役の地位にある者によって引き受けられ、その者が現に保有していること、あるいは新株を発行した会社が小規模で閉鎖的な会社であること等の個別的な事情によって新株発行の効力を個々の事案ごとに判断することは相当でないと判示している(平成六年七月一四日第一小法廷判決)。この最高裁判所の判例に示された一般法理を本件本案訴訟に当て嵌めれば、本件本案訴訟において被申立人(原告)の請求が認容される可能性は相対的に低いものと言わざるを得ない。
しかしながら、商法は、新株発行の手続上の瑕疵について、そのいずれを新株発行の無効事由とするかにつき明文の規定を置いていない。新株発行の無効事由に関する解釈には自ずから幅があり、事実、被申立人(原告)主張の手続上の瑕疵が無効事由に当たるとする見解も見受けられる。また、被申立人(原告)指摘の最高裁判所の判例が前提とする事実関係と本件本案訴訟の事実関係は、当然のことながら同一ではないから、本件本案訴訟の審理に当たっては、最高裁判所の判例のいわゆる射程距離につき検討を要することになる。念のため付け加えれば、最高裁判所が判例を変更することは禁止されていない。
事件を受任した訴訟代理人弁護士としては、一見不利にみえる最高裁判所の判例がある場合に、事案の相違を指摘し、あるいは右判例を当該事案に形式的に当て嵌めることによってきわめて不当な結論となることを主張して異なる一般理論の呈示を求める等の訴訟活動を行うことが予定されているのである。裁判所としては、悪意の範囲を不当に拡張することによって、株主の正当な利益の擁護を不当に制約することのないように配慮すべきである。
したがって、申立人(被告)指摘の最高裁判所の判例の存在を知りながら本件本案訴訟を提起することから、直ちに、被申立人(原告)が、商法が株主に提訴権を規定した趣旨に照らし、これを著しく逸脱する目的で本件本案訴訟を提起しているものとみる、すなわち被申立人(原告)に悪意があると認めることはできない。
2 また、申立人(被告)は、被申立人(原告)が本件本案訴訟の提起に先立って申し立てた新株発行差止め仮処分の申立てを却下され、即時抗告も同様に却下されていることを指摘する。
しかしながら、仮処分は、本案訴訟を前提とする保全処分であり、限られた資料を元に限られた期間でその審理が行われるものであるから、仮処分の申立てが却下されたからといって、本案訴訟で争うことが許されなくなるわけではないし、仮処分と本案訴訟とで結論が異なることも十分あり得る。
したがって、被申立人(原告)が新株発行差止めの仮処分の申立て及び即時抗告の申立てがいずれも却下されたことを認識しながら本件本案訴訟を提起したことから、直ちに、被申立人(原告)が本件本案訴訟につき悪意を有するとはいえない。
3 さらに、申立人(被告)は、被申立人(原告)及びその現役員(信子・雅子・英子・俊子・邦子)が利三郎の遺産分割に対する不満から輝彦の人格攻撃をし、申立人(被告)の会社運営につき誹謗中傷していることを示す事実として、①信子らが申立人(被告)の主要取引先に対し手紙を送付していること、②読売新聞社に対し、本件仮処分の申立て及び本件本案訴訟の提起に関する情報提供をして、二回にわたり記事を掲載させたこと、③信子と中谷茂弁護士が、住友銀行中之島支店長に対し、被申立人(原告)が保有する申立人(被告)の株式の売却を予告したこと、④同弁護士名義の質問状を本件新株を引き受けた一三名に送付したことを指摘する。
このうち、①及び④に関する事実関係は、前記認定のとおりである。②のうち、読売新聞に二回記事が掲載されたことは前記認定のとおりであり、一件記録によれば、信子ら被申立人(原告)の関係者から読売新聞社に対する情報提供がされたことがうかがわれる(もとより、記事を掲載するか否か、またその内容は、読売新聞社が決定したものである。また、その記事の内容は、格別申立人(被告)の営業上の信用を毀損するものではない)。③については、これを認めるに足りる証拠が提出されていない(疎甲一四には申立人[被告]の主張に沿う部分があるが、これを裏付けるべき客観的な疎明資料は提出されていない)。
申立人(被告)指摘の①及び②は、輝彦らに対し不信の念を抱いていた信子らが、輝彦らの譲歩を得て公平と考える遺産分割を実現し、かつ、義弘を代表取締役に復帰させることを願って行ったものと推認される。その相当性には疑問がないではなく、輝彦を批判することが結果的に申立人(被告)の業績に悪い影響を及ぼすおそれもあった。しかしながら、信子らの批判の対象は輝彦であって申立人(被告)ではない。被申立人(原告)が申立人(被告)自体を誹謗中傷しているとも言えない。なお、申立人(被告)指摘の④は、本件新株発行に利害関係を有する被申立人(被告)が、本件新株発行の阻止を目指して行った活動であり、特に違法視されるものではない。
なお、申立人(被告)は、本件新株発行差止めの仮処分において、被申立人(原告)に対し、各割当人と同様、一株五〇〇円で三五万株の新株を割り当てる旨の取締役会決議を行う用意があることを述べたのに、被申立人(原告)がこれに応じなかったことを指摘するが、被申立人(原告)にとって経済的メリットのない提案であったからとの説明は十分理解することができる。
結局、申立人(被告)が筆頭株主である被申立人(原告)に対し本件新株発行の必要性について具体的な説明をしないこともあり、信子ら五人の姉妹が申立人(被告)の代表取締役である輝彦に対して、肉親なるがゆえに増幅した不信の念を抱いていることは、前記認定の事実関係から推認されるところではあるが、そのことから、筆頭株主であり、本件新株発行の効力について利害関係を有する被申立人(原告)が、もっぱら申立人(被告)の営業上の信用を毀損することを目的として本件本案訴訟を提起したとまで言うことはできない。
4 以上の次第で、被申立人(原告)がもっぱら申立人の営業上の信用を毀損する目的で本件本案訴訟を提起しているとは言えず、商法が株主に提訴権を規定した趣旨に照らしこれを著しく逸脱していること(悪意)には当たらない。
四 よって、その余の点を判断するまでもなく、本件申立ては理由がないので、主文のとおり決定する。
(裁判長裁判官池田光宏 裁判官末吉幹和 裁判官小林邦夫)