大阪地方裁判所 平成10年(行ウ)38号 判決 1999年10月04日
原告
甲野太郎
同
甲野花子
右両名訴訟代理人弁護士
山下潔
同
富永俊造
同
杉本吉史
同
鎌田幸夫
同
井奥圭介
同
池田直樹
同
岡本栄市
同
加納雄二
同
笠松健一
同
越尾邦仁
同
須田滋
同
長岡麻寿恵
同
乗井弥生
被告
大阪南労働基準局監督署長
近藤紘司
右指定代理人
草野功一
外七名
主文
一 原告らの請求をいずれも棄却する。
二 訴訟費用は原告らの負担とする。
事実及び理由
第一 請求
被告が平成八年一一月二六日付で原告らに対してなした労働者災害補償保険法による遺族給付及び葬祭給付を支給しない旨の処分を取り消す。
第二 事案の概要
本件は、通勤途中でオウム真理教の信者らから殺害された会社員の両親である原告らが、右災害が通勤災害に当たるとして被告に遺族年金及び葬祭給付の支給を申請したところ、被告が不支給の処分をしたため、その取消しを求める事案である。
一 前提事実(当事者間に争いがない事実及び弁論の全趣旨により容易に認められる事実)
1 本件災害の発生
(一) 本件犯行の共謀状況
宗教法人オウム真理教(以下「教団」という。)は、BことB(以下「B」という。)を教祖として、平成元年八月、東京都から宗教法人として認証され、山梨県上九一色村にサティアンと称する施設群を建設し、一万人を超える信徒を有し、全国各地に道場や支部を置く宗教団体であるが(ただし、その後、東京地方裁判所によって解散を命じられ、平成八年三月、破産宣告を受けた。)、平成六年五月ころ、信者獲得の手段として雑誌の読者コーナーに教団名を秘して文通相手を募集する記事を載せたりしていたところ、原告甲野太郎と原告甲野花子(以下、両名を併せて「原告ら」という。)との子である亡甲野一郎(以下「一郎」という。)が、その記事を読んで文通に応じてきたことから、教団信者のCやDにおいて一郎に対し入信の勧誘をすることになった。一郎は、同女らの熱心な勧誘にもかかわらず、入信を拒否していたが、そのころ、教団大阪支部信者のE(以下「E」という。)によって分派活動がされたことがあり、Bは、一郎が警察の道場で柔道の練習をしていたことなどを知って、一郎を教団分裂を画策している公安警察のスパイと誤信し、VX(有機リン系神経剤。化学名を、O-エチルS-〔2-ジイソプロピルアミノエチル〕メチルホスホノチオレートといい、人には刺激症状がないままに皮膚から吸収され易く、意識障害、呼吸停止、心肺停止などをもたらすとされ、その毒性は神経剤の中では最も強く、致死量は液体で二ないし一〇ミリグラムとされている。)を使って同人を殺害しようと決意した。Bは、平成六年一二月八日ころ、教団幹部であるF(以下「F」という。)とG(以下「G」という。)を呼び、同人らに対し、「Eが悪業を積んでいる。Eは教団分裂を図った。そのEを裏で操っているのは大阪の柔道家で一郎という男だ。一郎が公安のスパイであることは間違いない。VXを一滴垂らして一郎をポアしろ。あとは、おまえたちに任せる。」などと、一郎の殺害を命じ、FとGはこれを了承した。その後、教団施設である第六サティアン二階のFの部屋で、犯行の具体的な打ち合わせが行われ、F、G、H(以下「H」という。)、I(以下「I」という。)、J(以下「J」という。)及びK(以下「K」という。)の六名が犯行現場へ行くこと、Iを実行役とすること、同月一一日に予定されていたGの札幌市での信者勧誘ワークが終了後、犯行を実行すること、そのため、FがGの部下のJを連れて先に大阪入りし、一郎の自宅、勤務先を下見すること、犯行に使うVXはGがHと相談して準備することなどを取り決めた。Gは、その後、J及びL(以下L」という。)に対し、Fの指示に従って大阪へ同行するよう指示した。
(二) Fらによる犯行現場の下見と犯行用車両の準備等
Fは、平成六年一二月一〇日、J及びLと共に、山梨県上九一色村にある教団施設を出発し、JR新富士駅から新幹線で大阪に行き、教団大阪支部からの情報を基に、大阪の市内地図を見ながら、一郎の勤務先である株式会社佐武大阪営業所(大阪市住之江区南港南<番地略>)、同人が所属していた大阪市立修道館の柔道クラブの道場(大阪市中央区大阪城二-一大阪城公園内)及び同人の自宅(大阪市淀川区宮原<番地略>を順次下見した。Fは、実行役をさせるIが同日午後に大阪市内で開催されるコンサートの警備のために来阪していることを知っていたので、Iに連絡を取り、コンサートの警備終了後、教団大阪支部で待機するよう指示した。
(三) VXの準備等
Gは、平成六年一二月一一日早朝、Kに対し犯行計画を打ち明け、Hと共にVXを持って大阪へ行き、犯行に加わるよう指示した。その後、Gは札幌市に行き、同日夕方、札幌市から上九一色村のHに電話をかけ、Kが訪ねていくので、同人の指示に従うよう伝えた。そこでKは、まず大阪に行くために、教団の在家信者から普通乗用自動車フォルクスワーゲンを借り受け、教団信者のM(以下「M」という。)に運転させて富士宮市内で待機させ、自ら別の普通乗用車日産マーチを運転して上九一色村に向かい、同日夜、一人で上九一色村の教団施設に入り、Hに対し、VXを準備して大阪に行って欲しいとのGの指示を伝えた。Hは、GらがBに指示されて大阪での殺人を計画していることを知り、直ちに第六サティアンから、殺害実行役が誤って自らVXを浴びた場合の治療のために有機リン中毒の治療薬であるパム等を入れた医療用の鞄や酸素ボンベを持ち出してマーチに積み込むとともに、教団施設のクシティガルバ棟へ行き、教団幹部であるN(以下「N」という。)から、VX溶液の入った耐熱瓶を受領し、同棟のスーパーハウス内で、同瓶から2.5又は三ミリリットル用の注射器二本にVX溶液一ないし1.5ミリリットルを吸入し、注射針とキャップを付けた上、それぞれビニール袋に入れ、これらをクーラーボックスに入れて使用のための準備をした。そして、Hは、右クーラーボックスを同車に積み込み、Kと同乗して、同日午後一〇時三〇分ころ、上九一色村を出発して、同日午後一一時、富士宮市内のスーパーの駐車場でMと合流し、右クーラーボックスなどの荷物をフォルクスワーゲンに積み替えた上、同車に乗り、東名高速道路を通って大阪に向かい、Mはマーチで東京に引き返した。
(四) 犯行現場の下見等
Gは、平成六年一二月一一日、札幌市での信者勧誘のワークを終え、同日午後一〇時ころ、関西国際空港に到着し、ハイエースで迎えに来たFらと合流した。Gは、Fから前日の下見の状況などを聞いた後、G自身も現場の状況を確認することとし、F及びLと共に、まず、一郎の勤務先会社を下見に行き、一郎の使用車両がその勤務先にあることを確認した。その後、Gらは、一郎の人相を確認していなかったことから、これを確認しようと考え、同月一二日午前〇時ころ、教団大阪支部のO(以下「O」という。)を電話で呼び出し、Oから一郎の人相及び特徴を聞き出そうとしたが、Oは、一郎ががっちりした体格で、眼鏡をかけていることしか覚えていなかったため、詳細な人相の確認はできなかった。
Gらは、さらに、一郎の自宅を確認するため、同日午前一時ころ、一郎方付近まで行った。そして、同人方前にある三階建の武長マンションが空き家であったことから、G及びFは、同マンションに侵入して屋上まで上がり、そこから一郎方を見下ろして、同人方の二階の部屋の中にうつ伏せの状態で本を読んでいた一郎を認め、そのがっちりした体格から同人が一郎であると確信した。
その後、Gらは、予約してあったホテルコンソルトへ向かい、その途上、G及びFにおいて、一郎の使用車両が勤務先会社に置いてあったことや一郎方が新大阪駅に近いことなどから、一郎は翌朝、出勤のため徒歩で新大阪駅へ向かうのではないかと予想し、その途中でジョギングを装って一郎に近付き、VXをかけるという殺害方法をとることを相談した。他方、Iも、Jと共に、同月一一日午後八時ころ、ホテルコンソルトに到着し、偽名を使って宿泊した。GとLは、同日午前四時ころ、新大阪駅においてH及びKと合流し、Hらを連れて一郎方前まで行き、同人方を確認させた後、これを見張るのに適当な場所として、一一階建のマンション「GSハイム新大阪」(以下「GSハイム」という。)を見つけ、その屋上に上がり、そこから一郎方を監視できることを確認し、ホテルコンソルトに戻った。
(五) 犯行直前の打ち合わせ状況等
F、G、H、K、I及びJの六名は、平成六年一二月一二日午前五時ころ、ホテルコンソルトの一室に集まり、F及びGが、Iら四名に対し、「一郎という男は公安のスパイだから、VXをかけてポアする。一郎は三〇歳くらいで、柔道が強いらしい。一郎が朝自宅を出て会社に出勤する途中にジョギングを装って近付き、VXをかける。」などと犯行計画を説明した後、Iが一郎にVXをかける実行役、FがIに付き添って実行を援助する役、G及びKが一郎の動向を監視して実行役に知らせる見張役をそれぞれ務め、Hは実行役などが誤ってVXを自分にかけた場合などの治療役、Jは犯行用車両のハイエースの運転役として現場近くで待機することなど、各自の役割分担等を確認し合った。右謀議において、Gが、甲野宅周辺の住宅地図を広げ、甲野宅の位置や一郎の通勤時刻、一郎が自宅を出てからの予想される通勤経路についてを説明した上で、実行役のIに、「どっちにしてもこのへんでやってくれ。」と通勤途中での実行を指示した。また、Gは、ハイエースの待機場所などを説明し、見張役が一郎を発見した場合の無線機による連絡方法などを取り決めた。
F及びIが、用意していた灰色フード付きスウェットパンツに着替えた後、六名は同ホテルの地下駐車場に降り、VX溶液入りの注射器を入れたクーラーボックス等の荷物をハイエースに積み込んだ上、同車に乗り込み、Jが運転して、同日午前六時ころ、ホテルコンソルトを出発した。
(六) 犯行状況及び本件殺害
右六名は、平成六年一二月一二日午前六時すぎころ、GSハイム前に到着し、ハイエースを同所付近の路上に停めて、GとKは、予定どおり、無線機を持ってGSハイム屋上に上がり、双眼鏡を使って一郎方の見張りを開始した。また、F及びIは、準備運動と犯行後の逃走経路の確認を兼ねて、一郎の出勤経路と予想される道路をジョギングで一回りしてハイエースに戻った。その後、Hは、ハイエースの車内で、クーラーボックスからビニール袋に入れたVX溶液入り注射器一本を取り出して、Iに手渡し、Iはこれをビニールの買い物袋に入れ、その買い物袋の中で注射器を入れていたビニール袋を取り外し、買い物袋から直ちに同注射器を取り出せるよう準備した。そして、Iは、Fとの間で、ジョギングで走って行き、Fが一郎の前に出て注意を引く間に、IがVXをかけるという犯行方法の最終確認をした上、ハイエース内で、G及びKからの連絡を待って待機していた。折りから、一郎は、同日午前七時一〇分ころ、通勤のために自宅を出て、地下鉄御堂筋線の新大阪駅に向かって歩き出し、GSハイム屋上からこれを認めたKは、直ちに無線機でFに対し、一郎が自宅を出て新大阪駅の方へ向かったこと、一郎の服装は黒色ジャンパーで鞄を持っていることを連絡した。Fは、その連絡を受けて間もなく、一郎方から新大阪駅の方に向かって歩いていく一郎の姿を発見し、Iに対し、「あれだ、行くぞ。」と合図し、同人と共にハイエースから降り、一郎を追った。Iは、左手に持った買い物袋の中に右手を入れ、VX溶液入り注射器を逆手につかみ、同注射器のキャップを取り外して、駆け足で一郎の背後から同人に近づき、大阪市淀川区宮原<番地略>付近路上で、同注射器を持った右手を目の高さに振り上げて一郎に接近し、Fにおいて一郎を追い越してその前方に割り込み、一郎の進路を遮るや、同人の背後から同注射器を同人の後頸部付近に近づけてVX溶液をかけようとした。その際、Iは、注射針を、キャップと一緒に取り外したつもりでいたが、これを同注射器に付いたままとしており、しかも、これを一郎の首筋に接触させてしまい、一郎が「痛い。」と大声を出すことになった。そのため、Iは、一瞬動揺したが、すぐに右手を少し手前に引くと同時に、親指で同注射器のピストンを押し込んで、中のVX溶液全部を一郎の後頸部付近にかけた。そして、Iは、一郎を追い越し、Fと共に全速力で走って逃走した(以上の、Bによる殺害指示、謀議に始まる一連の犯行を、以下「本件犯行」という。)
一郎は、VX溶液をかけられた直後、Fらを追跡したが、同区宮原<番地略>付近の路上に至り、VX中毒により、その場に転倒した。これを目撃した者の一一〇番通報により、同日午前七時二七分、救急隊が現場に到着し、同日午前七時五一分、大阪市吹田市山田丘<番地略>所在の大阪大学医学部付属特殊救急部に一郎を搬送した。しかし、一郎は、同月二二日午後一時五六分ころ、大阪大学付属病院において、VX中毒により死亡した(以下「本件殺害」という。)。
2 本件処分
(一) 原告らは、本件災害が労働者災害補償保険法(以下「労災保険法」という。)に規定する労働者の通勤による死亡(同法は、死亡のほか通勤による負傷、疾病、障害をも保険対象とするところ、以下、右各対象を含めて「通勤災害」という。)に該当するとして、平成七年一一月九日、被告に対して遺族年金給付及び葬祭給付の請求をしたところ、被告は平成八年一一月二六日、本件災害の通勤起因性を認めず、不支給の決定をなした(以下「本件処分」という。)
(二) 原告らはこれに対して審査請求をしたが、平成九年一〇月三〇日、大阪労働者災害補償保険審査官はこれを棄却した。
(三) 右の棄却に対して、原告らは労働保険審査会に対して、平成九年一二月五日付けで再審査請求を行ったが、本件訴訟提起の時点で右再審査請求の申立てから三か月以上が経過している。
二 争点
本件災害の通勤起因性の有無
三 争点に関する当事者の主張
1 原告らの主張
本件災害は、「通勤による」(労災保険法七条一項二号)ものであるから、通勤起因性を否定した本件処分は違法なものとして取消しを免れない。
(一) 通勤災害制度の趣旨及び通勤起因性の判断要素
通勤災害に対して補償がなされるのは、労働者が通勤途上において所定通退勤時間を媒介として拘束され、通勤が業務遂行に関する個別企業の労働者としての行動に他ならないからである。通勤災害とは、個別企業の労働者として拘束された行動・状態に作用した危険の現実化と認められる災害を包摂するものとして考えるべきである。よって、当該災害の危険が通勤に通常伴うものであるか、通勤に通常伴わないものとはいえない被災者から見て偶発的なものであるかを問わず、法所定の「通勤」状態になければ被らなかったであろう災害は、通勤による災害と認定されるべきである。
通勤起因性の判断において重要なのは、災害を発生させた競合する諸条件の中で通勤が共働原因となっているかということ、また、共働原因の中で通勤が占める位置づけである。それらを以下の観点から具体的に検討するべきである。
(1) 通勤と犯行の結びつき
通勤が共働原因と評価されるためには、通勤が犯行を誘発したという程度の関係が必要である。ここで「誘発」という場合、犯行多発地域での犯行に限られず、多発していない地域でも、それまで犯行が起きていなくても、当該通勤経路が犯行に利用しやすい地域であれば、通勤が犯行の動機づけに大きく影響し、犯行を誘発したと評価できることがある。
すなわち、通勤経路、場所、時刻等の通勤に関する諸要素が、当該犯行の可能性を高めて、その実行を容易にするなどの犯行の誘因となった場合には、被災者にとって「場に拘束される」という意味でリスクが存在することもありうるから、通勤が災害発生の共働原因といえ、当該災害は通勤に内在する危険の現実化ということができる。
(2) 被災者と加害者の関係
「怨恨」や加害行為の「計画性」が直ちに通勤起因性を否定するものではない。当事者間になんらかの私的関係があっても、それが故に全て通勤起因性が否定されるのではなく、被災者自らが危険を惹起していないのであれば、いわゆる私怨とは区別される社会的リスクといえるから、通勤起因性は認められる。
(二) 本件災害の通勤起因性
(1) 本件通勤と本件犯行の結びつき
①本件通勤経路は、逃走車両を待機させ、加害者らが甲野宅前の空家(武長マンション)や一一階建マンション(GSハイツ)の屋上から一郎の動向を監視し犯行に備えるのに最も適していたこと、②不特定多数人が通行する公道である上に、道幅も広く、少し走行すれば容易に他の車両と紛れることができ、犯行後の逃走に適していたこと、③被害時刻も、午前七時一〇分であり、人通りが少ないこと、④柔道クラブの練習場である大阪府警福島警察署の柔道場の往復と異なり、犯行が警察に発覚しにくいこと、⑤一郎が柔道クラブに通っていたのは不定期であり、加害者らも一郎の通勤時刻であれば予想でき、犯行計画を立て実行に移すことができたこと、⑥一郎は、一週間のうち、本件通勤経路を徒歩で新大阪駅に向かい、電車通勤するのは通常月曜日のみであり、他の日は会社の営業車両を用いて通勤していたことなどからして、加害者らが人知れず本件犯行を計画どおりに確実に実行するのは、一郎が徒歩で新大阪駅まで通勤する月曜日の早朝で、本件通勤経路の本件犯行場所しかありえなかった。また、⑦本件犯行場所は、新幹線・東海道本線の新大阪駅から徒歩で数分の距離にあり、テロの要警戒地域で、もともと地域的危険性があったことからすると、本件災害において、通勤は単なる機会の提供にとどまらず、有力な共働原因となっていたというべきであるから、通勤に内在し、通勤に伴う危険が現実化、具体化したものである。
また仮に相対的有力原因説に立つとしても、本件通勤経路は加害者らの殺害行為の共働原因であっただけではなく、「有力・重要な原因」であったから、その通勤起因性は肯定される。
(2) 被災者と加害者の関係
加害者らが本件犯行に至ったのは、教団が一郎を一方的にスパイであると誤信した結果にすぎず、加害者と一郎との間に特別な怨恨関係があるわけではなく、しかも一郎には本件災害を招いたことについて何の落ち度もない。それが仮に一郎を狙った計画的犯行であったとしても、私的な怨恨関係と評価されるべきではないし、自らが危険を惹起したものとはいえないから、社会的なリスクが発現したと評価すべきである。
(3) 本件災害の通勤起因性
以上のとおり、本件では、被災者と加害者らの関係及び加害者らが本件犯行場所、時刻を決定した経過を検討すれば、加害者らが確実にしかも加害者らの犯行であると気付かれずに実行するには、本件通勤経路における本件犯行場所、時刻をおいて他になかったのであり、本件通勤が決定的に重要な役割を果たしており、本件災害発生の有力ないし重要な共働原因となっており、通勤起因性が認められる。
(三) 他の事例との均衡
通勤起因性が認められた次の事例と、本件との間には何ら論理的な相違はない。いずれの事例も、通勤経路そのものが災害の誘因となっているという点で同じである。
(1) 地下鉄サリン事件
本件と同じく、教団による地下鉄サリン事件では、労働省は「『危険の内在』をできるだけ幅広く認めることで、救済対象者の枠を広げるなど認定基準の緩和を含めて見直しを検討したい」とし、通勤途上および出張中や既に出勤して仕事先に向かう途中の被災者について「霞が関周辺には危険が内在していた」という論理で通勤起因性を認めている。不特定多数ではあっても確実に殺害の意図をもって犯行が行われたケースであり、霞が関を狙い利用する必要性が小さければ通勤起因性は認定されなかったと思われるが、これは犯行と場所に不可欠な結びつきがあれば通勤起因性が認められやすくなることを示す。
(2) 薬剤師事件
大阪府豊中市の阪急電車庄内駅のホームで帰宅途中のダイエー庄内ダイエードラッグ薬剤師の被災者である女性が、店に出入りするうちに女性に好意を持ち、交際を申し込んで断られた男に刺殺された事件につき、淀川労働基準監督署は、不特定多数の人間が集まり、犯罪の危険が内在していたこと、加害者が被災者を好きになったとしても、被災者にすれば多数の中の一人にすぎず、二人の間には恨みなどのつながりはないことから通勤に伴う危険が現実化したとして通勤起因性を認めている。
加害者が被災者という特定の個人を計画的に狙ったものであり、動機においても被災者が、加害者から一方的に片思いされたケースであり、教団から一方的にスパイであると誤信された本件と全く同様である。
2 被告の主張
本件災害に通勤起因性は認められないから、本件処分は適法である。
(一) 通勤起因性の判断要素
通勤災害といえるためには、通勤起因性、すなわち、災害が通勤に通常内在する危険が具体化(現実化)したものと認められなければならず、通勤起因性の判断は、災害の発生に不可欠な条件となった諸事情の下において通勤が災害の発生に相対的に有力な原因であるかどうか、すなわち、経験則に照らし、当該通勤には当該災害を発生させる具体的危険性があったと認められるかどうかを客観的な事後予測のもとに行う必要がある。
本件災害のように第三者の犯罪又は加害行為によって被災した場合に、通勤に内在する危険が具体化した災害といえるかどうかの判断に当たって考慮すべき要素として、次の事情が挙げられる。
(1) 災害を被りやすい環境にあったかどうか
災害発生場所付近の状況、時刻、地域における災害の発生頻度、被災者の性別などを勘案して当該災害を被りやすい環境下にないと判断される場合は、通勤に内在する危険が具体化した災害であるといえず、通勤起因性は認められない。
(2) 当事者間の怨恨等の特別な関係、計画性の有無
犯罪や加害行為に計画性があったり、被災者と加害者との間に怨恨等の特別な関係がある場合には、その加害行為は通勤と直接関係のない原因により、単に通勤を機会として行われたにすぎないと考えられることから、通勤に内在する危険が具体化した災害であるといえず、通勤起因性は認められない。
(二) 本件における通勤起因性
(1) 本件通勤経路の環境
本件災害発生前に、早朝の本件災害発生地域において、一郎のごとく男性に対する第三者による殺害のような犯罪行為が多発していたという事実が認められないことから、経験則上一般的に一郎の通勤途上が本件のような災害が発生し得る環境下にあったとはいえず、本件災害と場所に不可欠な結びつきがあったとはいえない。
(2) 私的関係に起因する怨恨、計画性等の有無
加害者らの加害行為の目的及び事件の経過からみれば、一郎を公安警察のスパイと誤信したとはいえ、加害行為には計画性があり、一郎と加害者らとの間には私的関係に起因する怨恨等があったといえる。そして、加害者らはこのような私的関係に起因する怨恨等の下に、一郎という特定の個人を対象として、殺意をもって、あらかじめ準備していた注射器内のVX溶液を一郎の身体にかけて殺害するという計画を立て、その計画を実行したものである。
右のように、本件犯行が、教団の利益のためであれば手段を選ばないという教団特有の体質に基づく計画的なものであることや、一郎が一週間に二回くらいは退勤後に柔道クラブに通っており、その場合の帰宅時刻は午後九時ころであったことを考えれば、加害者らが下見の結果から、本件災害当日における一郎の通勤途上が好都合であると判断して、一郎の通勤行為を機会として利用したにすぎず、下見をした時期や期間によっては、柔道クラブとの往復行為、事業場外における営業活動、所用のための自宅から目的地までの往復行為など、一郎の通勤行為以外の外出中であっても襲撃が行われ得た。
(3) 本件災害の通勤起因性
右のとおり、本件災害は、一般的に災害を被りやすい状況にあったといえない環境下において、私的関係に起因する怨恨等の下に、一郎という特定の個人を対象とした殺害計画を実行するため、単に通勤を機会として利用したことによって発生した災害であって、本件通勤がなければ本件災害を被らなかったであろうということはできない。通勤に内在する危険が具体化した災害であるといえず、通勤起因性は認められない。
(4) なお、原告らは、一郎が電車通勤するのは通常月曜日のみであり、他の日は会社の営業車両を用いて通勤していたと主張するが、原告らの労災給付支給申請時における被告への報告や、原告らのその後の労働基準監督署の担当官への申述では、一郎が通勤に会社の営業車両を用いていたことについては言及していないし、一郎の勤務先事業場においても、通勤経路は電車等を乗り継ぐものであるとの前提で、通勤費も支払われている。
(三) 他の事例との均衡
いずれの事案もそれぞれの災害発生状況等を踏まえ、労災保険法上の通勤災害に該当するかどうかという観点から個別的に判断したと考えられ、本件災害に通勤起因性を認めなくても何ら均衡を失しない。
(1) 地下鉄サリン事件
地下鉄サリン事件は、教団施設への警察の強制捜査を阻止するため、朝の通勤時間帯に警視庁に近い霞が関駅を通る地下鉄の車内にサリンがまかれたものであり、国会及び官庁周辺において通勤時間帯を狙った犯罪である。加害目的を持った者から狙われていた特定の被災者はおらず、しかも当該地域においては、従来から襲撃等暴力を伴う行為の発生もみられることから、このような場所を通勤する者は、災害を被りやすい環境下にあったものと判断して、通勤起因性が肯定された。
本件災害の場合は、私的関係に起因する怨恨等の下に特定の個人である一郎を殺害するという目的を達成するため通勤を機会として計画的に行われた犯行の結果であって、霞が関駅を通る地下鉄を利用する不特定多数人の殺害を意図する行為である地下鉄サリン事件と同一に論ずることはできない。
(2) 薬剤師事件
薬剤師に係る通勤災害事案については、夜間における庄内駅周辺地区は、従来から引ったくり、痴漢等の行為の発生がみられ、被災者もハンドバッグを奪われていることから、そのような場所を通行する者は災害を被りやすい環境下にあったものとして、通勤起因性が肯定された。また、当該事案において、被災者と加害者とは、ドラッグストアーにおいて接客業に従事する店員と一顧客との関係にすぎないことから、面識はあったが私的関係に起因する怨恨等はなかったと考えられ、計画的な犯行でもなかった。
第三 争点に対する当裁判所の判断
一 通勤起因性の意義
1 労災保険法は、通勤災害を、労働者災害補償保険の対象とする。これは、昭和四八年の同法改正によって設けられたものであるが、通勤が特別の場合を除いて一般に使用者の支配下にあるものではないから、通勤災害を業務上の負傷、疾病、障害又は死亡(以下「業務災害」という。)ということはできないものの、通勤は、労働者が労務を提供するための不可欠な行為であって、単なる私的な行為とは異なるものであること、通勤途上の災害が、産業の発展や通勤の遠距離化等によってある程度不可避的に生じる社会的な危険となっており、これを労働者の私的生活上の損失として放置すべきものではない等の理由によって規定されたものである。
労災保険法によれば、通勤災害についても業務災害とほぼ同様の保護が与えられるが、業務災害は、業務すなわち労働者が労働契約の本旨に従って行うところの使用者の支配下における行為に起因する災害であるのに対し、通勤は、労働者によるその住居と就業場所との往復行為であって、使用者の支配下に入る前又はこれから脱した後の行為であり、また、住居の選定、通勤経路手段の選定等は労働者の自由意志によるところであり、その通勤という過程において生じた労働者の損害を使用者がすべて負担しなければならない理由はなく、業務災害と通勤災害とは、その性格を異にするものである。
2 そこで、通勤災害は、「通勤による」ものでなければならず、通勤とは、労働者が、就業に関し、住居と就業の場所との間を、合理的な経路及び方法により往復することをいい、業務の性質を有するものを除くと規定されている(同法七条二項)。
また、「通勤による」とは、通勤と負傷等との間に相当因果関係があることを必要とする趣旨であり、これは、通勤に内在する危険が現実化したことを指す。そして、通勤途上の交通事故のように一般的に通勤に内在する危険と目されるものについては、これが生じれば通勤に内在する危険が現実化したといえるが、単に通勤中に災害が生じたというだけでは足りない。また、通勤途上に第三者による犯罪の被害を受けたというような場合では、通勤がその犯罪にとって単なる機会を提供したに過ぎない場合は、これを通勤に内在する危険が現実化したとはいえないというべきである。原告らは、通勤が災害の誘因となっていれば通勤起因性を肯定できる旨主張するが、通勤途上が犯罪実行のために都合よかったという程度で誘因となるのであれば、通勤途上の犯罪行為はその殆どが通勤災害となるものであり、単に災害が通勤中に生じたというだけで保険の対象とするのと異ならなくなり、通勤災害を通勤に内在する危険の現実化したものに限定する労災保険法の趣旨にそぐわず、採用できないところである。
二 本件災害の通勤起因性
1 本件災害は、前述のように、教団の代表者であったBが一郎を公安警察のスパイと誤信してVXを使って同人を殺害しようと決意し、教団幹部であるFとGにこれを命じたことに発し、FとGにおいて、F、G、H、I、J及びKの六名で犯行を実行することなどの犯行の具体的な打ち合わせを行い、HにVXを準備させ、Fにおいて、次いで、G、F及びLにおいて、一郎の勤務先や自宅を下見し、その後、GとFにおいて、一郎の使用車両が勤務先に置いてあったことや一郎方が新大阪駅に近いことなどから、一郎が翌朝出勤のため徒歩で新大阪駅へ向かうのではないかと予想し、その途中でジョギングを装って一郎に近付き、VXをかけるという殺害方法をとることを相談し、犯行当日午前五時ころ、他の四名をホテルコンソルトの一室に集め、「一郎の出勤途中にジョギングを装って近付き、VXをかける。」旨の犯行方法を説明し、右六名において、実行役等の役割分担等を確認したうえ、同日午前六時ころ、本件現場付近に赴いて、Iにおいて、VXを充填した注射器を準備して待機し、通勤途上の一郎を認めるや、予定どおりに、ジョギングを装って近付き、VX溶液全部を一郎の後頸部付近にかけて、殺害したというものである。
これによれば、一郎の殺害とその手段がまず決定され、殺害の場所についてはその後の下見によって決定されたものであるが、そうすると、本件犯行が一郎の通勤途上に行われたのは、単なる機会として選択されたに過ぎず、通勤途上が犯行現場となる必然性はない。
以上によれば、本件災害を通勤の危険性が現実化したものとは認め難く、これが通勤によって生じたものということはできない。
2 原告らは、本件通勤経路の諸条件が、本件犯行を確実に実行することを容易にしており、加害者らが人知れず確実に実行するには、一郎が徒歩で新大阪駅まで通勤する月曜日の早朝で、本件犯行場所しかあり得なかった旨主張する。
確かに、人を殺害するという犯罪を計画的に実行する場合、犯人とすれば、最も発覚しにくく確実に計画を遂行できる条件を選択するのが通常であり、本件犯行においても、事前に検討された様々な日時、場所及び方法のうち、加害者らは本件犯行のとおりの日時、場所及び方法を最も都合の良いものと考えて選択したと考えられる。
しかし、一郎が自宅から外出するのが常に通勤のために本件通勤経路を徒歩で通る場合だけではなく、現実には柔道クラブからの帰路で本件の通勤経路を通ることがあることや、休日に外出することも十分考えられることからも明らかなように、単に本件犯行が実行された日時、場所が、加害者らにとって都合がよかったというだけで、加害者らによる一郎の殺害が、本件通勤経路で、しかも月曜日の早朝でなければ起こり得なかったということはできない。
なお、原告らは、一郎が本件通勤経路を徒歩で新大阪駅に向かい、電車通勤するのは月曜日だけであったと主張するが、乙三、五及び六に照らし、その主張は採用できないし、仮に原告らの主張どおりであったとしても、本件犯行の加害者らがその事実を認識しており、本件犯行の実行に当たってそれを参考にしたことを認めるに足りる証拠はない。
また、原告らは、本件犯行場所が、テロの要警戒地域で、もともと地域的危険性があったとも主張するが、これを認めるに足りる証拠はない上、仮に右事実が認められるとしても、一郎という特定の人物を狙った本件犯行における通勤起因性の判断とは無関係というべきである。
3 原告らは、加害者らと一郎との間には特別な怨恨関係がなく、加害者らが本件犯行に及んだことについて一郎に何の落ち度もないから、社会的なリスクが発現したものとして評価すべき旨を主張する。
確かに、教団と一郎との関係を怨恨関係と表現するのは必ずしも適切ではないし、教団が一郎を公安警察のスパイと誤信し、殺害しようと計画したことについて一郎に落ち度があり、自ら本件災害を惹起したということはできない。
しかし、怨恨関係があったことそのものが重要なわけではなく、教団は当初から一郎という特定の個人を教団にとって危険な人物と目して殺害することを計画したのであって、通勤と関係なく殺害が計画されたことからすると、怨恨関係がないことをもって通勤起因性を肯定することにはならない。また、教団による本件犯行を社会的リスクということができるとしても、社会的リスクの全部が労災保険法によって保護されるものではないから、そのことだけで通勤起因性を肯定できるものではない。
4 原告らは、その主張する他の事例と比較すれば、本件災害についても通勤起因性を肯定すべき旨を主張するが、他の事例における判断が当裁判所の判断を拘束するものではないうえ、地下鉄サリン事件については、特定の人物を狙ったものではないという点で本件とは大きく事案が異なるというべきであるし、その主張する薬剤師事件については、事実関係が必ずしも明らかでなく、これと本件災害を同じに扱わなければ公平を害するといった事情も認められない。
第四 結論
以上の次第であるから、本件災害の通勤起因性を認めず、遺族年金及び葬祭給付を不支給とした本件処分に違法はなく、原告らの請求はいずれも理由がない。よって、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官松本哲泓 裁判官川畑公美 裁判官和田健)