大阪地方裁判所 平成12年(わ)6068号 判決 2003年10月29日
主文
被告人は無罪。
理由
第1 公訴事実の要旨
本件各公訴事実の要旨は,
「 被告人は,大阪市内に本店を置き,有価証券の売買,その取次業務等を目的とする株式会社○○研究所(以下「研究所」ともいう。)の営業課長として,顧客の勧誘等の営業活動に従事していたものであるが,資金に窮し,研究所による株式売買の仲介等を仮装して一般投資家から株式購入代金等名下に金銭を騙取しようと企て,真実は,研究所が,資金に窮しているため,顧客から株式購入代金等に充当するため受領した金銭等は研究所の経費や債務の弁済,他の顧客への預託金の返済資金等として直ちに費消する意図であるのに,その情を秘し,あたかも研究所が顧客から受領した金銭等を顧客のための株式購入代金等に充当するかのように装い,
第1 研究所の代表取締役としてその業務全般を統括していた分離前の相被告人甲山太郎(以下「甲山」ともいう。)と共謀の上,平成11年9月30日ころ,兵庫県三木市加佐<番地略>のA方に電話をかけ,同人に対し,研究所が保有していたソニー株式会社の株式は既に売却済みであるのに,これを保有しているかのように偽って,「1株1万3380円で,100株,ソニー株をお分けしますから代金を当社に預けてください。」などとうそを言い,同人をその旨誤信させ,よって,同年10月1日ころ,同人をして,大阪市港区夕凪<番地略>所在の株式会社住友銀行港支店に開設の研究所名義の普通預金口座に,ソニー株式会社の株式100株の購入代金名下に現金140万円を振込入金させ(平成12年9月22日付起訴状記載の公訴事実第2)
第2 甲山と共謀の上,平成12年3月17日ころ,愛媛県西宇和郡三瓶町大字朝立<番地略>のB方に電話をかけ,同人に対し,研究所保有の株式会社光通信の株式100株は既に他の顧客に売却済みであるのに,同人に売却すべき上記株式を保有しているかのように偽って,「すぐに,確実に儲けることができる光通信株はいかがでしょうか。この株も既に利が乗ってるんです。当社が買ったときの安い値段でお分けしますので,ぜひ買ってください。当社は,この光通信株を1株8万7300円で買っており,100株で873万円になります。うちでお預かりしているお金があるので870万円で結構です。870万円を振り込んでください。」などとうそを言い,同人をその旨誤信させ,よって,同月21日ころ,同人をして,前記普通預金口座に,株式会社光通信の株式100株の購入代金名下に現金870万円を振込入金させ(平成12年11月2日付起訴状記載の公訴事実)
第3 甲山と共謀の上,
1 同年5月10日ころ,大阪市東住吉区北田辺<番地略>所在のC方に電話をかけ,同人に対し,研究所が保有していた東京応化工業株式会社の株式1000株を複数の顧客に重複売却するつもりであるのに,同人にのみこれを売却するかのように偽って,「値上がりしたいい株があるんです。当社が,単価2325円で購入した東京応化工業という株です。当社が,Cさんが持っている日本バルカーの株を売却しますので,その売却代金で,東京応化工業の株を買ってください。日本バルカーの株を当社に持ってきてくれますか。」などとうそを言い,同人をその旨誤信させ,よって,同月11日ころ,同人をして,同市中央区谷町<番地略>所在の研究所事務所において,同人から東京応化工業株式会社の株式200株の購入代金名下に日本バルカー工業株式会社の株券2枚(合計株数2000株,時価合計32万8000円相当)の交付を受け(平成12年10月20日付起訴状記載の公訴事実第3の1)
2 同月12日ころ,上記C方に電話をかけ,同人に対し,上記1同様に偽って,「Cさんからお預りした日本バルカーの株を売却したのですが,東京応化を購入するには,14万7000円の不足です。持ってきてください。」などとうそを言い,同人をその旨誤信させ,よって,同月16日ころ,上記1記載の研究所事務所において,同人から東京応化工業株式会社の株式200株の購入代金名下に現金14万7000円の交付を受け(平成12年10月20日付起訴状記載の公訴事実第3の2)
第4 甲山及び研究所社員乙川次郎と共謀の上,同月15日ころ,徳島市川内町加賀須野<番地略>所在のD方に電話をかけ,同人に対し,研究所保有の東京応化工業株式会社の株式1000株は既に他の顧客に売却済みであるのに,同人に売却すべき上記株式を保有しているかのように偽って,「当社で買っている優良株で,東京応化工業の単価2325円の株200株があります。これを当社の買値で譲ります。46万5000円を出して下さい。」などとうそを言い,同人をその旨誤信させ,よって,同月16日ころ,同人をして前記普通預金口座に,東京応化工業株式会社の株式200株の購入代金名下に現金46万5000円を振込入金させ(平成12年10月20日付起訴状記載の公訴事実第3の3)
もって,それぞれ人を欺いて財物を交付させたものである。」
というのである。
第2 本件における主たる争点及び当事者の主張
検察官は,研究所においては,ある特定の価格で研究所が購入した株式につき,これが値上がりした後に,顧客に対し,値上がり前の購入価格で提供する旨申し向けることにより,顧客より委託金を提供させる取引が恒常的に行われていたところ,当該株式が既に特定の顧客に提供済みとなっても,他の顧客に対し,これを重ねて提供して委託金を入れさせることも頻繁に行われており,本件各公訴事実に係る取引はいずれもそのようなものであった,そして,被告人は研究所の課長職にあったものとしてこの事情を知悉しながら,本件各取引に関与したものであるから,詐欺罪の共同正犯の罪責を負う旨主張する。
これに対して,弁護人は,①研究所と顧客との取引は株式の売買ではなく,研究所ないし甲山が購入した株式を契約に基づいて運用(買付と売付を同時に受託する。)する仕組になっていたのであるから,検察官が主張するように「買付」の時点のみをとらえて「既に売却済み」とか「二重売り」という批判は前提を欠き,この意味で本件では詐欺の実行行為がない,②仮に,①の点につき検察官の主張を前提に考えても,Aに関するソニー株,Bに関する光通信株,C及びDに関する東京応化工業株のいずれについても,研究所は,購入単価は違うにしてもそれぞれの時点で各顧客に提供し得るだけの株数を保有していた(購入単価の差額は研究所が負担するのであり,そのことに格別問題はない。),③そうでないとしても,研究所では株式の購入,決済等は甲山が独断で行っており,被告人は全くこれに関与しておらず,その経営状態についても分からなかったのであり,本件各取引についても研究所が保有する株数を超えて顧客に提供することになるとの認識はなかったから,詐欺の故意ないし甲山との共謀は認められないなどとして,被告人は無罪である旨主張する。
そこで,以下,これらの点について検討することとする。
【なお,書証を示す場合は,検察官請求証拠及び弁護人請求証拠の番号を括弧内に併記する(甲乙の数字は検察官請求証拠の番号を,弁の数字は弁護人請求証拠の番号を示す。)。また,公判廷における証人ないし被告人の各供述を示す場合は,これらの供述につき公判供述そのものが証拠になる場合と公判調書中の供述部分が証拠となる場合とがあるが,いずれについても単に「○○の公判供述」等と略記する。】
第3 当裁判所が認定した事実
<証拠略>等の関係証拠を総合すると,以下の各事実が認められる。
1 研究所の組織,営業活動及び経営状態等の概要について
(1) 研究所の組織等について
甲山は,約15年間,野村證券株式会社に勤務していたが,いわゆる詐欺会社を経営したことで詐欺罪により有罪判決を受けて服役した。そして,出所後しばらくして,知人に対する借金返済等のために,これまでの知識を生かせる証券関係の仕事で金もうけをしようと考え,平成10年7月16日,商号を株式会社○○研究所とし,目的を有価証券の投資業務等とするなどして研究所を設立した。そして,甲山は新聞の求人広告等を通じて研究所社員を募集し採用していった。
甲山は研究所の設立当初より社長として研究所の業務全般を総括しており(登記簿上,設立時から平成11年2月まではEが代表取締役とされ,甲山は平成11年2月に代表取締役に就任したとされているが,実質上は,設立当初より甲山が社長として研究所の業務全般を総括していた。),研究所の経営は甲山のワンマン経営によるものであった。
研究所の組織は,社長である甲山を頂点とし,その下に総務(総務及び経理を担当)及び営業等の部門が置かれ,さらに営業部門がいくつかの課に分かれて顧客の勧誘等の営業活動をするというものであった。研究所の営業部門において,社長の下は直接営業課長となっており,その間に部長等の役職はなかった。しかも,営業課長はその営業課をまとめるなどの役割を果たしてはいたが,仕事内容そのものについては営業課員との間にさほど大きな違いはなく,甲山と営業課長との間には地位,権限等で大きな差異があった。
研究所の事務所は,設立時,大阪市港区市岡元町所在の××ビルに置かれていたが,その後,平成11年4月に同市港区弁天所在の△△ビルに,同年9月に同市西区西本町所在の□□ビルに,さらに,平成12年3月に同市中央区谷町所在の**ビルにそれぞれ移転した。なお,××ビルでは6階のワンフロアで,△△ビルでは5階が社長及び総務部門,4階が営業一課,3階が営業二課,2階が営業三課と各階に分かれて,□□ビルでは8階のワンフロアで,**ビルでは6階のワンフロアで,それぞれ仕事がなされていた。ただし,□□ビル及び**ビルでは,総務部門と営業部門との間に衝立が置かれるなどして両者が遮へいされていた。また,事務所の設備としては,机やいすはもちろん,株式取引に関する高価なパソコンソフトを備えるなど,株式取引に関係する会社としてはそれなりのものを備えていた。
なお,平成12年6月7日,証券取引法違反の被疑事実で,研究所の事務所等に対し,捜索差押の強制処分がなされたことにより,研究所は事実上破綻した。
(2) 研究所における営業活動等について
甲山は,自らの経歴等によって証券取引法や有価証券に係る投資顧問業の規制等に関する法律で要求される登録を受けられる見込みがなかったことから,そのような登録が不要である,個人投資家が情報を交換し共同で資金を出し合って株式を購入するなどして投資活動をする投資クラブとして研究所の営業を行うこととした。そして,設立当初は,オプション取引を対象にして営業がなされていたが,平成11年2月ころからは株式取引を対象にして営業がなされるようになった。取引の対象となる株式は,甲山が,研究所名義又は甲山個人名義で証券会社と売買したものであり,社長でありワンマン経営者である甲山が,証券会社と取引する権限を一手に掌握し,また,金銭面もすべて管理していた。
研究所における営業活動の具体的内容は,甲山や営業部門の社員が,甲山が入手してきた一般投資家の名簿等に基づいて電話をかけ,相手方に投資クラブである研究所の会員になるように勧誘し,会員となった顧客から,年会費を徴収した上,研究所との取引内容に応じて委託金の入金を受けるというものであった。そして,会員である顧客と研究所の取引内容は,研究所が証券会社と売買した株式でもって顧客から預かった委託金を運用するということで顧客から委託金として金銭を預かり,運用利益があればその利益の25ないし35パーセント程度を成功報酬として研究所が取得するというものであり,委託金の元本については6か月間顧客に返金できないが,利益についてはいつでも顧客に返金できるとされていた。そして,運用する個々の株式銘柄については研究所と顧客との合意に基づいて決定されることとされており,また,決済時には運用資金の残高を返金するかあるいは稀ではあるが運用していた株式の現物を顧客に返還することとされていた。
営業部門の者は,一定のノルマを課されながら,毎日のように電話をかけ,相手方に会員となるように勧誘し,さらに,主として社長である甲山らが指示する銘柄(推奨銘柄)を対象として研究所と取引するように勧誘していた。そして,その際,顧客に対し,研究所が投資クラブであること,研究所が顧客からの成功報酬で利益を上げており,顧客が利益を取得しなければ研究所の利益が発生しないシステムになっていること,委託金として預かった金銭については6か月間研究所で運用し,その間は返金できないこと,利益については,研究所が取得する成功報酬を除き,いつでも取得できること,顧客に損をさせるようなことはしないこと等を告げ,さらに,パンフレット(株式会社○○研究所作成の「生きている経済」で始まる表題のパンフレット[弁1]),研究所が作成した株情報のレポート(I. E. Rレポート)及び利益を受けている他の顧客の取引明細書等の資料を送付するなどし,例外的ではあるが大口の顧客等に対しては委託金の元本保証をするなどしていた。
研究所では,社長である甲山の指示により,顧客から,より多額の委託金を集めるため,研究所が既に証券会社から購入していた株式でその後株価が上昇して既に利益が乗った状態のものを,研究所が購入したときの安い価格で顧客と取引するということで顧客を勧誘することが頻繁に行われていた(以下,このような株式のことを「あんこ株」と称することとする。なお,研究所の推奨銘柄の中には「あんこ株」とそうでないものの両方があった。)。
営業部門の社員は,実際に顧客と取引ができるようであれば,売買注文書の所定の欄に,客名,取引日,取引種別(現物取引か信用取引か),売り買いの別,取引した株式銘柄,株数,単価等を記載し,それを課長のところで決裁を受け,さらに社長である甲山の決裁を受けることになっていた(課長が担当する場合は社長である甲山の決裁のみを受け,甲山が担当する場合は決裁を受けないこととなる。)。その後,総務部門の社員が,顧客台帳に記入した上,それまでの顧客の金銭の入金,出金,残高等が記載された取引明細書及びそれまでに研究所と取引した株式銘柄,売りと買いの別,株数,単価等が書かれた売買台帳及び委託金の受領証等を作成し,さらに,取引明細書,売買台帳,委託金の受領証等を顧客に送付するとともに,顧客に研究所が証券会社と実際に取引をしていることを示して顧客を安心させるため,当該取引に係る株式に関する証券会社から研究所宛あるいは甲山個人宛に送られてきた証券会社作成の取引報告書等をコピーしたものを顧客に送付していた(なお,すべての場合にこれらを必ず送付していたわけではない。)。
この証券会社から研究所あるいは甲山個人宛に送られてきていた取引報告書等のコピーしたものについては,当該取引報告書をそのままコピーしたものを顧客に送付するのではなく,顧客と研究所との間の取引に係る株式に関する事項(株式銘柄,単価,株数,約定日等)についてはそのまま残すが,当該取引に関係ない部分を消去し,また甲山個人が証券会社と取引していた場合には研究所と証券会社が取引したように細工するなどし,当該取引において,顧客と研究所との間では現物取引がなされたにもかかわらず,研究所あるいは甲山個人と証券会社との間では信用取引がなされた場合には,研究所あるいは甲山個人と証券会社との間の取引が信用取引であると分からないようにするなどした上でコピーしたものを送付していた。
そして,総務部門の社員から,当該取引の営業部門の担当社員には,取引明細書のコピー及び売買台帳のコピーのみが渡され,上記のように細工されることもあった証券会社からの取引報告書のコピーについては渡されていなかった。
なお,営業部門の社員の給与の内訳は,基本給約20万円,顧客から集めた年会費及び委託金の金額から顧客への返金額を引いた金額に応じた歩合であり,課長等についてはそれに加えて役職手当が付いていた。また,平成11年10月ころから同年12月ころまでの間及び平成12年1月ころから3月ころまでの間には,委託金獲得のキャンペーンが行われ,普段より高い歩合給が支払われた。
(3) 研究所の経営状態等について
研究所の営業利益は顧客から取得する年会費及び成功報酬であり,顧客から預かる委託金については顧客の株式の運用のためにのみ使われるものとされていた。しかしながら,実際は,研究所の営業利益のみでは研究所の経営を維持できなかったため,甲山において,研究所が取得した委託金の一部を流用し,研究所の本来の利益とその流用した委託金でもって,甲山個人の借金を返済し,人件費等の会社経費をまかない,委託金の返金に応じ(最終的には,委託金の返還を新たに取得した委託金でまかなうなどしており,いわば自転車操業に陥っていた。),さらに,証券会社から研究所あるいは甲山個人に対して請求された追加委託証拠金の支払いに充てるなどしていた。そして,甲山は,かかる経営状態ではあったが,いずれは委託金の委託期間をより長くし,より多くの資金を集め,その資金を元手に証券等で大きな取引をし,それでもって多額の利益を獲得して挽回しようなどと考えていた。
研究所の経営状態としては,平成10年12月ころ,甲山がオプション取引に失敗し,多額の損失を出して苦しくなったが,その後,株価の上昇等に伴い,一旦は改善されたものの,平成12年2月ころ,いわゆるIT関連株を中心とする株価が暴落したことで損をし,非常に苦しい状態となった。そして,甲山は,平成12年3月ないし4月ころから,社員に対し,株価の暴落に伴い,証券会社からの多額の追加委託証拠金を請求されているので,頑張ってより多くの委託金を集めるように指示していた(証人甲山太郎及び同丙田三郎の各公判供述並びに丁野花子の検察官調書謄本[甲472。とりわけ,添付資料六一一及び六一二からうかがわれる当時の研究所の幹部が集まったミーティングでの甲山の発言内容]等)。
しかしながら,甲山は,研究所の経営状態の良し悪しにかかわらず,社員への給与の支払を遅延したことはない上,顧客からの委託金の返還や利益の受渡しの要求にはほとんど応じており,強制捜査が行われて研究所が事実上破綻する直前においても,比較的多額の返金が行われていた(警察官作成の捜査報告書謄本[甲435。とりわけ添付資料3]等)。また,証券会社からの追加委託金の請求に対しても,甲山は何らかの方法で対応していた。
なお,研究所内では社員の間で,甲山には多額の資金を有するスポンサーがいると噂されていた。
2 研究所における委託金獲得方法及び取引の実態について
(1) 甲山は,前記1,(3)のとおり,委託金を流用していたところ,より多くの流用できる委託金を確保するため,以下のような方法を取った。
まず,前記1,(2)のとおり,「あんこ株」による取引で顧客を勧誘し,既に利益が乗った株式をいわば餌にして,委託金を研究所に入れるように勧誘した。
また,顧客と研究所との間では現物取引として取引がなされ,それに対応する委託金を取得した場合であっても,その一部につき,研究所あるいは甲山個人と証券会社との間では信用取引による取引を行い,その差額を研究所に留保していた。
さらに,すべての取引ではないが,研究所が保有していた,あるいは現に保有しもしくは保有するべき株数を超えて複数の顧客との間で取引を行い,当該株数に応じた額を超えて委託金を獲得するということもあった(以下,このような取引を「多重取引」という。)。このように株式取引について多重取引をするようになった経緯は次のとおりである。すなわち,平成11年3月ころ,甲山において野村證券株式会社の知人を通じて黒田電気等2銘柄の公募株をそれぞれ5000株入手できる予定であったことから,甲山の指示に基づき,研究所において,一斉に「あんこ株」である黒田電気の株式5000株を顧客に勧めて取引したのであるが,実際に甲山が野村證券株式会社から入手できた黒田電気の株式が1000株に過ぎず,結果として多重取引となってしまった。すなわち,研究所が保有することができた黒田電気の株式は1000株に過ぎないのに,黒田電気の株式5000株に相当する委託金が集められたのである。より多くの委託金を獲得したいと思っていた甲山は,このことに味を占め,その後,他の株式銘柄についても多重取引をして委託金を集めるようになった(証人甲山太郎の第11回公判供述及び第12回公判供述等)。どの銘柄をどの程度まで多重で取引するかについてはすべて甲山が独りで決めていた。そして,甲山は,「あんこ株」についてはあまりにも多重に取引すると研究所の負担が過度に増大するので,研究所全体で2.5倍から3倍の多重までという一応の目安で,取引の決裁をしていた(証人甲山太郎の第15回公判供述)。また,稀にではあるが,甲山において,多重に取引した株式と同じ銘柄の株式を後に買い足すなどし,価格は異なるが同じ銘柄の株式でもって,多重を解消したこともあった。
研究所では,上記のような取引がなされていたが,甲山は,取引に係る株式について,当該株式が研究所側と証券会社の間の取引では信用取引であることや,当該株式が多重に取引されていることを,自らすすんで営業部門の社員に明示したことはなく,社員全員がそのような取引の実態を認知していたわけではなかった。ただ,研究所の社員の中には,戊谷四郎,己田五郎,庚町六郎及び丙田三郎のようにいずれかの時点において研究所が株式を多重取引するなどして不法に委託金を集めていることに気付いた者もおり,その中には更に進んで自ら積極的に多重取引をしていた者もいる。そして,多重取引の場合,同じ内容の取引報告書を複数コピーして客に送付していたことから,戊谷四郎及び己田五郎のように,多重取引のことを「コピー」という隠語で呼称する者もいた(証人甲山太郎の第11回公判供述,戊谷四郎の検察官調書謄本[甲466,467],証人辛浜七郎及び同丙田三郎の各公判供述等)。
なお,甲山は,研究所の社員に対し,研究所は投資クラブなので登録等は不要であると説明し,また,戊谷四郎らは,他の社員に対し,研究所には顧問弁護士がおり,取引等について相談済みである旨説明していた。
(2) ここで,被告人は,公判段階において,顧客と研究所の間の取引は,投資クラブの形態で行う委託金の運用であって株式の売買ではない旨主張するので付言する。
確かに,顧客が,研究所に対し,取引の対象となる株式の対価以上の金銭を委託金として預けたり,株式取引をすることなくして委託金を預けることがあったこと,ある銘柄の株式について取引した後,顧客が入金することなく,他の銘柄の株式に乗り換えることがあったこと等からすると,取引の中には,売買とは異なる側面を有するものもあったことは否定できない。
しかしながら,不特定多数の一般投資家に対し,研究所の会員となって研究所と取引するよう勧誘し,委託金として研究所に入金させるという研究所の取引形態は,個人投資家が情報を交換したり,共同で資金を出し合って株式を購入するなどして投資活動をするという投資クラブとは大きく様相を異にしている。少なくとも,研究所が保有していた又は保有している株式で利益が乗った状態のものを研究所が証券会社から購入したときの安い価格で取引するという「あんこ株」を使った取引で,かつ,その際に顧客に研究所に対し当該取引に係る株式の対価にほぼ対応する委託金を入金させた場合には,「あんこ株」の売買であったというべきである。そして,このように,売買とは異にする側面を有する取引がある一方で,売買取引そのものがあったからこそ,顧客との間で委託契約書を作成して委任契約をした形を取る一方で,研究所の社員において,顧客との取引について売買注文書や売買台帳といった「売買」の文字が書かれた文書を作成し,その売買台帳を顧客に送付していたと考えるのが自然である。また,そうだからこそ,社員の中には研究所の取引すべてを売買ととらえていた者もいるのであり,また,本件各公訴事実において,研究所の取引相手とされるA,B,C及びDのいずれもが研究所との取引を売買として認識していたのである。
したがって,研究所の取引のすべてが,投資クラブの形態で行う委託金の運用で,顧客から預かった委託金を運用に応じて顧客に返還すれば足りるというようなものではなかったというべきであり,その取引の中には,明らかに売買そのものというべきものが存在するといえる。
そして,被告人は,少なくとも本件各公訴事実に係る取引については,いずれも上記の「あんこ株」の売買をしていたのであり,被告人において,その実態を認識していたものと認めるのが相当であるから,少なくとも本件各公訴事実に係る取引については,被告人の上記主張は採用できない。
3 被告人の経歴並びに研究所における立場,地位,営業活動及び行動状況等について
(1) 被告人は,大学卒業後,証券会社,投資顧問会社等で稼働していたが,新聞の求人広告を見て研究所に面接を受けに行き,平成11年6月末ころ,研究所に入社し,当時,戊谷四郎が課長を務めていた営業三課に配属された。このとき,ほぼ同時期に入社した社員は甲山らから研修を受けたが,被告人は,少し遅れて入社したことや既に証券取引の知識を有していたことから,研修を受けることなく,研究所の営業活動に従事するようになった。その後,平成11年12月ないし平成12年1月ころ,営業課長に昇進した。
被告人は約22年間証券会社で勤務していた経験等から,証券取引に精通し販売力に優れていたため,研究所における被告人の営業成績は,平成11年10月ころから同年12月ころにかけて行われた委託金獲得のキャンペーンで300万円を超える多額の歩合を支給されるなど,非常に優秀であった。
被告人が担当したとされる取引については,取引金額ベースでみると,約半分が多重取引とされている(警察官作成の捜査報告書謄本[甲437]で担当が被告人とされている部分参照)。そして,被告人及び同人が課長を務めていた課の課員は,かなりの割合で「あんこ株」を用いて取引をしていた。
なお,被告人が営業各課の取引を集計していたとの供述も存するものの(証人乙川次郎及び同丙田三郎の各公判供述並びに乙川次郎の検察官調書謄本[甲461]),これらの供述は,被告人が,いつの時点で,いかなる方法により,どのような取引について集計していたかについて判然とせず,このような供述から,被告人が営業各課の取引を集計しており,研究所全体の取引状況を把握していたと認めることは到底できない。
(2) 被告人は,入社後まもない平成11年7月上旬,研究所に現金144万円を入金し(弁護人作成の報告書[弁7]),研究所から「あんこ株」であった単価71万5000円及び単価73万円のネットワンシステムズの株式を各1株ずつ現物取引で買い付け,その後は入金することなく,同年8月3日ころ,単価807円の井筒屋の株式1000株を現物取引で(戊谷四郎の検察官調書謄本[甲467]添付の資料一〇参照),同月4日ころ,単価375円のナカバヤシの株式1000株を現物取引で(警察官作成の捜査報告書謄本[甲447])それぞれ研究所と取引し,さらに,単価1万0990円の日本システムディベロップの株式100株を現物取引で,単価1万1900円のCSKの株式100株を現物取引で,単価281円及び単価284円の日本特殊塗料の株式を各1000株ずつ現物取引でそれぞれ取引した(以上につき,警察官作成の捜査報告書謄本[甲437],被告人の検察官調書謄本[乙442]及び被告人の公判供述等)。
上記各取引のうち,単価71万5000円及び単価73万円のネットワンシステムズの株式,単価807円の井筒屋の株式並びに単価375円のナカバヤシの株式については多重取引とされており,単価1万1900円のCSKの株式,単価375円のナカバヤシの株式及び単価1万0990円の日本システムディベロップの株式については,被告人・研究所間の取引と研究所・証券会社間の取引種別が異なるものとされている(警察官作成の捜査報告書謄本[甲437]参照)。
また,上記各取引のうち,単価807円の井筒屋の株式については,研究所と被告人本人との間で上記の取引がなされた後の平成11年8月4日ころに,被告人が担当となって研究所とFとの間で現物取引により5000株の取引がなされている(戊谷四郎の検察官調書謄本[甲467]添付の資料一五)。そして,単価375円のナカバヤシの株式については,同月3日ころ,被告人が担当となって,研究所とCとの間で現物取引により1000株の取引がなされた後の同月4日ころ,研究所と被告人本人との間で上記の取引がなされ,さらに,同日から同月16日までの間に,被告人が担当となって,研究所とF等との間で現物取引により7000株以上の取引がなされている(警察官作成の捜査報告書謄本[甲447])。
そして,前記被告人・研究所の間の各取引のうち,CSKの株式100株及び日本特殊塗料の株式2000株を除き,被告人と研究所との間で決済がなされている。最終的な被告人の委託金の合計残高は約194万円となっており,計算上は利益を得ているが,被告人は一度も研究所から返金を受けたことはなく,研究所に委託金を入金した研究所の社員の中で一度も返金を受けなかったのは被告人ただ一人である(警察官作成の捜査報告書謄本[甲441])。
(3) 被告人は,甲山が不在であったときに甲山に代わって,平成11年12月28日から平成12年2月29日にかけて9回にわたり,直接平岡証券株式会社の担当者に売買の注文をした事実が認められるところ,その取引の一部について,売買注文書では顧客と研究所との間では現物取引とされているにもかかわらず,研究所と証券会社との間では信用取引がなされていた(警察官作成の捜査報告書謄本[甲437]及び被告人の警察官調書謄本[乙435]参照。)。なお,被告人が直接平岡証券株式会社の担当者に注文した取引のうち,買いの取引については,いずれも多重とはなっていない(警察官作成の捜査報告書謄本[甲432,437])。
(4) 被告人は,平成12年2月ころ,研究所全体で一斉にトランスコスモスの株式を対象とする取引の勧誘がなされた際,打ち止めの指示が出たにもかかわらず,自分が課長を務める課ではない社員がその株式を対象とする取引を継続していたのを見て,その社員に対し,もうその株式での取引を止めるように注意したが,その一方で,自分の課に所属する新入社員であった乙川次郎(以下「乙川」ともいう。)及び丙田三郎(以下「丙田」ともいう。)に対しては,まだその株式で取引してもかまわない旨述べたことがあった。
この点については,乙川,丙田及び辛浜七郎は,かかる事実があった旨供述しているところ(証人乙川次郎,同丙田三郎及び同辛浜七郎の各公判供述並びに乙川次郎の検察官調書謄本[甲461]),この3名の間で口裏合わせをして殊更被告人に不利な虚偽の供述をする事情は窺われない上,その供述内容が一致していて相互にその信用性を補強し合っているから,この点に関する上記3名の供述は信用することができ,したがって,かかる事実があったと認めるのが相当である。これに反する被告人の供述は採用できない。ただし,研究所は複数の種類のトランスコスモスの株式でもって顧客と取引をしているところ,被告人が上記のような指示をしたとされる株式がいずれのトランスコスモスの株式であったのかについては,丙田が単価3万5500円のものであった旨供述し,乙川が単価3万5750円のものであった旨供述していて(甲461),各供述は一致しておらず,判然としない。
なお,被告人が上記のような指示をしたとされるトランスコスモスの株式について多重取引がなされたか否かについては定かではない(単価3万5500円がトランスコスモスの株式については,多重取引であったとされているが,単価3万5750円のトランスコスモスの株式については,多重取引とはされていない(警察官作成の捜査報告書謄本[甲432]参照)。
(5) 被告人は,平成12年3月ないし4月ころ,被告人が担当していた顧客から,研究所の取引について警察から事情聴取を受けた旨聞き及び,甲山にそのことを告げたところ,甲山から,それは戊谷か誰かのいたずらであり,何ら心配することはない旨言われ,その後も,研究所を辞めることなく,勤務を続けていた。
4 本件各公訴事実に係る各取引について
被告人は,営業部門の社員として,基本的に,前記1,(2)のような営業活動をしていたところ,本件各公訴事実に係る各取引については以下のような事情が認められる。
(1) 平成12年9月22日付起訴状記載の公訴事実第2に係る取引(顧客名:A,株式銘柄:ソニー株式会社)について
ア 研究所は,平成11年6月22日,岩井証券株式会社から信用取引で単価1万3380円のソニー株式会社の株式(以下,このソニー株式会社の株式を「本件ソニー株」という。)500株を買い付け,同年9月22日,岩井証券株式会社で本件ソニー株500株を決済した。
研究所は,本件ソニー株について,合計13名の顧客との間で,合計3800株の取引がなされており,多重取引となっている(警察官作成の捜査報告書謄本[甲427]等参照。なお,研究所が11名の顧客と取引したとされている証拠書類もあるが,それはG及びHとの取引分が欠落したもので誤記である。また,合計3500株の取引がなされたとされている証拠書類が存するが,証人Iの第36回公判供述等によると,それは合計3800株の誤記である。)。
イ 被告人は,甲山が用意した名簿に基づいて電話をかけ,平成11年7月下旬ころ,A(以下「A」という。)と知り合い,同女を勧誘していたところ,平成11年9月29日ころ,甲山から顧客に本件ソニー株で取引することの了解を得た上,電話でAに「1株1万3380円で,100株,ソニー株をお分けしますから代金を当社に預けてください。」などと述べて「あんこ株」であった本件ソニー株100株の購入を勧め,被告人が担当となって,Aに本件ソニー株100株を現物取引で売却することになった。そして,同年10月1日ころ,Aが,夫を介して,年会費及び本件ソニー株100株の購入代金等の合計として,現金140万円を研究所宛に振込入金した。しかしながら,被告人がAに本件ソニー株を売却したとされるときには,既に研究所は本件ソニー株を決済していたのであり,しかも多重取引となっていた。この売買において,Aと研究所との間の取引は現物取引とされているにもかかわらず,研究所と証券会社との間の取引は信用取引であった。
また,その後,被告人が担当となって,Aの依頼により,Aに「あんこ株」であったグッドウィルグループの株式1株を現物取引で売却し,これに対し,Aが,同年11月24日ころ,現金825万円を研究所宛に振込入金した。この売買において,A・研究所間の取引と研究所・証券会社間の取引との間に現物取引か信用取引かという取引種別に食い違いはなく,多重取引にもなっていないとされている。
なお,Aが研究所から購入したとされる本件ソニー株及び上記グッドウィルグループ株についてはいずれもAと研究所との間では決済されていない。
ウ 本件ソニー株については,被告人がAに売る直前に,甲山から既に決済済みであった本件ソニー株で資金を集めて欲しいと頼まれた研究所の社員庚町六郎(以下「庚町」ともいう。)が,そうと知りながら,自ら担当となって,Nと本件ソニー株を対象として取引し,これに対し,同年9月29日ころ,Nが研究所に現金1000万円を振込入金した。
庚町の供述(庚町六郎の検察官調書謄本[甲464],証人庚町六郎の公判供述)によれば,その際,庚町は,被告人に対し,「もうない株やけど,ソニーで1000万円引くことができました。」などと言ったところ,被告人は,1000万円という大金を獲得することができたことを感心していたこと,その入金があった翌日,被告人が,庚町に対し,自分もソニー株式会社の株式を100株売ったと告げるとともに,前日に塚本證券の社員が1000万円を取りに来たことを告げたとされており,この供述は捜査段階から一貫している上,庚町において,特段虚構を構える理由もなく,信用できるから,かかる事実があったと認めるべきである。これに対し,被告人は,庚町が供述するような上記事実はない旨述べるけれども,この被告人供述の根拠は単に記憶にないというにすぎず,信用できない。
エ なお,被告人は,平成12年6月上旬に,Aから,購入したソニー株式会社の株式及びグッドウィルグループの株式の返還を要求され,甲山にその旨伝えたところ,甲山から翌週にAに返還すると言われたので,Aに翌週返還すると伝えた旨供述するところ,それまでに被告人が担当した顧客に対する委託金等の返還に応じられなかったことがなかったこと,甲山もそのようなことがあったかもしれない旨の供述をしていること,Aもそのようなことがあった旨の供述をしていること,被告人の上記供述が捜査段階から一貫していること等からすると,上記事実の存在を否定できず,被告人に有利に,そのような事実があったと認められる。
(2) 平成12年11月2日付起訴状記載の公訴事実に係る取引(顧客名:B,株式銘柄:株式会社光通信)について
ア 研究所は,平成12年3月15日,内藤証券株式会社から現物取引で単価8万7300円の株式会社光通信の株式(以下,この株式会社光通信の株式を「本件光通信株」という。)100株を購入した(なお,当該株式について決済されていない。)。
研究所は,本件光通信株について,合計4名の顧客との間で,合計350株の取引をしており,多重取引となっている(警察官作成の捜査報告書謄本[甲428]等参照)。
イ 被告人は,平成11年12月ころ,甲山が用意した名簿に基づいて電話をかけ,B(以下「B」ともいう。)と知り合い,もともとは庚町がBの担当であったが,庚町の了解を得て,被告人がBの担当となり,Bに他の顧客で利益を上げている人の取引明細書を送付するなどして勧誘したところ,平成11年12月上旬,Bが研究所の会員となって,年会費として現金5万円を研究所宛に振込入金した。
被告人は,甲山から顧客に本件光通信株を売却することの了解を得た上,平成12年3月17日ころ,電話でBに「すぐに,確実にもうけることができる光通信株はいかがでしょうか。この株も既に利が乗ってるんです。当社が買ったときの安い値段でお分けしますので,ぜひ買ってください。当社は,この光通信株を1株8万7300円で買っており,100株で873万円になります。うちでお預かりしているお金があるので870万円で結構です。870万円を振り込んでください。」などと述べて「あんこ株」であった本件光通信株100株の購入を勧め,Bに本件光通信株100株を現物取引で売却することになった。これに対し,同月21日ころ,Bが本件光通信株100株の購入代金の一部として,現金870万円を研究所宛に振込入金した。しかしながら,被告人がBに本件光通信株を売却したとされる日には,先後関係がはっきりしないが,他の社員が担当となって,信用取引でではあるが,他の顧客に本件光通信株100株を対象として取引されており,多重となっていた。なお,この売買において,B・研究所間と研究所・証券会社間の取引種別に食い違いはない。
本件光通信株の取引以外にも,Bは,被告人の勧誘に従い,平成11年12月上旬,「あんこ株」であった単価1万1200円のCSKの株式100株を現物取引で購入し,その代金として現金112万円を研究所宛に振込入金し,平成12年1月中旬,「あんこ株」であった単価7万6900円のソフトバンクの株式100株を購入し,その代金の一部として現金622万円を研究所宛に振込入金し,さらに,単価1万3540円のCSKの株式200株,単価1万2440円のCSKの株式200株,単価9440円のCSKの株式200株,単価5600円のCSKの株式200株でそれぞれ研究所と現物取引で取引し,単価5600円のCSKの株式200株の取引の際に,委託金の残金が足りなくなったということで,現金120万円を研究所宛に振込入金した。その後,Bは,上記のとおり,本件光通信株を対象とする取引をした後の同年4月下旬ころ,光通信株を信用取引でナンピン買いをしようと考え,被告人にその旨伝えたが,被告人から現物で取引するように勧められたので,甲山と電話を交代してもらい,甲山と直接交渉したところ,甲山が了解したため,研究所と単価1万5800円の株式会社光通信の株式100株を信用取引で取引した。
Bが研究所と取引したとされる株式のうち,単価1万1200円のCSKの株式及びソフトバンクの株式についてはBと研究所との間で決済がなされて利益が出ているが,そのほかの株式については決済がなされていない。そして,平成12年1月下旬,被告人がBの依頼に応じて,返金依頼証を作成し,それを受けて甲山が決裁し,Bに対し,利益金として金140万2539円が支払われた。
ウ なお,被告人は,公判段階で,前記イのBとの取引のうち,単価5600円のCSKの株式及び本件光通信株の各取引については,実質上甲山が担当となって取引したものであり,自分は甲山から取引があったという報告を受けてただ形式的に売買注文書を作成したに過ぎない旨供述するので,この点について付言するに,Bが,被告人と話をした場合と甲山と直接話をした場合とを明らかに区別しながら,上記各取引については被告人に勧誘されて取引した旨明確に供述していること(とりわけ,Bの検察官調書謄本[甲455]はこのことのみを確認するために作成されたものであるとうかがわれる。),甲山もBの供述に沿う供述をしていること,いずれの取引についても売買注文書は被告人が作成しているところ(弁護人作成の報告書[弁26]及び警察官作成の捜査報告書謄本[甲428]),その営業手腕を買われて営業課長となっていた被告人に無断で,甲山が被告人に代わって取引したとは考えにくいこと,被告人が上記のように供述する主たる根拠はその記憶がないというものであり,その根拠は弱いものであること,被告人の捜査段階の供述の中には,本件光通信株の取引について,自分がしたのかどうかはっきりしない旨の供述も存すること(被告人の検察官調書謄本[乙469]及び警察官調書謄本[乙466,467])等に照らせば,被告人が直接Bに単価5600円のCSKの株式及び本件光通信株の取引を勧誘し,それによりBが研究所と当該各取引をしたと認めるのが相当である。
(3) 平成12年10月20日付起訴状記載の公訴事実第3の2及び3に係る取引(顧客名:C,株式銘柄:東京応化工業株式会社)及び平成12年10月20日付起訴状記載の公訴事実第3の3に係る取引(顧客名:D,株式銘柄:東京応化工業株式会社)について
ア 研究所は,平成12年5月2日,平岡証券株式会社から現物取引で単価2325円の東京応化工業株式会社の株式(以下,この東京応化工業株式会社の株式を「本件東京応化工業株」という。)合計1000株を購入し,同月29日,平岡証券株式会社で決済した。
研究所は,本件東京応化工業株を,合計7名との顧客との間で,合計2800株の取引をしており,多重取引となっている(警察官作成の捜査報告書謄本[甲447]等。なお,研究所が顧客であるJと本件東京応化工業株1000株の取引をした旨の記載がある証拠書類もあるが,それは200株の誤記である。)。
イ 被告人は,甲山が用意した名簿に基づいて電話をかけ,平成11年7月,C(以下「C」という。)と知り合い,被告人が担当となって同人を勧誘したところ,平成11年8月上旬,Cが研究所の会員になり,被告人に対し,研究所事務所近くの飲食店で年会費として現金5万円を手渡した。
被告人は,本件東京応化工業株についての甲山から販売指示が出されたことに従い,平成12年5月10日ころ,電話でCに「いい株があるんです。当社が,単価2325円で購入した東京応化工業という株です。この株も当社が購入したときよりも値上がりしています。当社が,Cさんが持っている日本バルカーの株を売却しますので,その売却代金で,東京応化工業の株を買ってください。日本バルカーの株を当社に持ってきてくれますか。」などと述べて「あんこ株」であった本件東京応化工業株200株を勧め,被告人が担当となって,Cに,本件東京応化工業株200株を現物取引で売却するということになり,その代金として,日本バルカー工業株式会社の株式2000株の売却代金を充て,更に不足額については現金で支払うということにした。これに対し,同月11日ころ,Cが,研究所事務所において,本件東京応化工業株の購入代金に充てるものとして日本バルカー工業株式会社の株券2枚(合計株数2000株)を被告人に手渡した。さらに,同月12日ころ,被告人は,不足額がはっきりしたということで,電話でCに「Cさんからお預りした日本バルカーの株を売却したのですが,東京応化を購入するには,14万7000円の不足です。持ってきてください。」などと述べ,同月16日ころ,Cが,研究所事務所において,本件東京応化工業株の購入代金の一部として現金14万7000円を被告人に手渡した。しかしながら,被告人がCに本件東京応化工業株を売却したとされる日には,先後関係がはっきりしないが,他の社員が担当となって,少なくとも,他の顧客合計3名に対し,本件東京応化工業株が合計1200株売却されており,多重となっていた。なお,この売買において,C・研究所間と研究所・証券会社間の取引種別に食い違いはない。
本件東京応化工業株の取引以外にも,Cは,平成11年8月上旬,「あんこ株」であった単価375円のナカバヤシの株式1000株を被告人に勧められて現物取引で購入し,その代金として現金37万5000円を,研究所事務所近くの飲食店で,被告人に手渡し,さらに,同年9月中旬ころ,今後値上がりする株式として単価575円のユニダックスの株式1000株を勧められて当該株式を対象にして研究所と現物取引で取引し,不足金額としての現金10万円を,当時同市西区西本町に所在していた研究所事務所で,被告人に手渡した。
上記ナカバヤシの株式についてはCと研究所との間で決済がなされているが,そのほかの株式については決済がなされていない。そして,ナカバヤシの株式の決済により利益が出ているが,Cに利益金は支払われていない。
ウ ところで,乙川は,平成12年1月に研究所に入社し,被告人が課長を務めていた課に配属されて被告人の指導を受けながら仕事をしていた。そして,乙川が,甲山が用意した名簿に基づいて電話をかけ,平成12年4月ころ,D(以下「D」という。)と知り合い,乙川が担当となって同女を勧誘したところ,同年5月上旬,Dが研究所の会員となり,年会費として現金8万円を研究所宛に振込入金した。
乙川は,甲山等の販売指示に従い,同年5月15日ころ,電話でDに「当社で買っている優良株で,東京応化工業の単価2325円の株200株があります。これを当社の買値で譲ります。46万5000円を出してください。」などと述べて「あんこ株」であった本件東京応化工業株200株を勧め,Dに本件東京応化工業株200株を現物取引で売却するということになり,乙川がその旨の売買注文書を作成し,上司の課長であった被告人の決裁を受けた。そして,同月16日ころ,Dが,本件東京応化工業株200株の購入代金として現金46万5000円を研究所宛に振込入金した。しかしながら,乙川がDに本件東京応化工業株を売却したとされるときには,本件東京応化工業株1000株は,既に被告人及び他の社員が担当となって他の顧客に売却されており,多重取引となっていた。なお,この売買において,D・研究所間と研究所・証券会社間の取引種別に食い違いはない。
本件東京応化工業株の取引以外にも,Dは,乙川の勧誘に従い,平成12年5月上旬,「あんこ株」であった単価1800円のセガ・エンタープライゼスの株式200株を現物取引で購入し,その代金として現金36万円を前記年会費と共に研究所宛に振込入金した。このセガ・エンタープライゼスの株式の売買については,D・研究所間の取引と研究所・証券会社間の取引との間に現物取引か信用取引かという取引種別に食い違いがあるとされているが,多重取引とはされていない。
なお,上記セガ・エンタープライゼスの株式及び本件東京応化工業株についてはいずれもDと研究所との間で決済されていない。
第4 争点についての検討
1 以上の各事実を前提に検討することとするが,まず,本件各公訴事実に関し,甲山については,真実は,研究所が資金に窮しているため,顧客から株式購入代金等に充当するため受領した金銭等は研究所の経費や債務の弁済,他の顧客への預託金の返済資金等として直ちに費消する意図であるのに,その情を秘し,あたかも研究所が顧客から受領した金銭等を顧客のための株式購入代金等に充当するかのように装い,当該取引に係る株式は既に売却済みであり若しくは既に他の顧客に売却済みであるのに又は複数の顧客に重複売却するつもりであるのに,当該株式を保有しているか又は当該顧客にのみ当該株式を売却するかのように偽って,被告人及び乙川を通じて,Aから本件ソニー株100株の購入代金等として現金140万円を,Bから本件光通信株100株の購入代金として現金870万円を,Cから本件東京応化工業株200株の購入代金として日本バルカー工業株式会社の株券2枚及び現金14万7000円を,Dから本件東京応化工業株200株の購入代金として現金46万5000円をそれぞれ騙取したことは認定できる。
しかしながら,研究所の社員は入社当初において研究所の多重取引等の違法取引を何ら認識しておらず,甲山は研究所の社員に対し,研究所が多重取引等の違法取引をしていたことをすすんで明示したことはなく,むしろそれを隠していたのであって,甲山が被告人に対し,多重取引等の違法取引について明確に述べたことはなく,被告人との間に少なくとも明示の共謀が存していたとはいえない。この点で,その構成員全員がその違法性を十分認識しながら詐欺取引をするという典型的な会社ぐるみの詐欺事件とはその様相を異にしているのであって,十分な吟味が必要である。
そして,本件では,被告人が研究所全体の詐欺取引の実態又は本件各公訴事実に係る個々の詐欺取引を認識していたといえるか,ひいては詐欺について黙示の共謀及び故意があったといえるかが問題となる。
そこで,以下,被告人の主観面として詐欺についての黙示の共謀及び故意があったといえるかについて検討することとするが,まずは被告人の主観面に関する被告人以外の研究所関係者の各供述を吟味した上で(ただし,前記第3で言及した部分を除く。),検討することとする。
なお,被告人は,捜査段階から公判段階を通じて終始一貫して詐欺の故意及び共謀を否認している。
2 被告人以外の研究所関係者の各供述について
(1) 甲山の供述(証人甲山太郎の公判供述)について
甲山は,被告人が研究所の多重取引等の違法取引を認識していた旨の供述をしているところ,甲山は自らの罪を認め,有罪判決を受けて刑の執行を受けている最中に供述しており,特段虚偽の供述をする理由はうかがわれないのであって,その供述は基本的には信用性を有するというべきである。
しかしながら,甲山の被告人が研究所の多重取引等の違法取引を認識していた旨の供述については,特段具体的かつ明確な根拠に基づいて述べられているわけではなく,被告人の研究所における地位,営業成績等に照らしてなされた推測の域を出ていない。
なお,甲山は,被告人が本件ソニー株等の株式について顧客に売却することの許可を受けに来た際,被告人に「(当該株式が)もうない。」と述べた旨供述しているが,そもそも甲山が被告人にそのようなことを述べたか否かについて曖昧な点が否めない上,結局は被告人に当該株式を売却することを許可しており,被告人としてはその許可を受けて取引をしているのであって,かかる甲山の供述をもって,被告人が,研究所が既にない株式を売却していたり,多重売却するなどの違法な取引をしていたことを認識していたと認定するのは相当ではない。
(2) 乙川の供述(証人乙川次郎の公判供述及び同人の検察官調書謄本[甲461])について
乙川は,前記第3,4,(3),ウのDに対する本件東京応化工業株の売却の際の認識については,検察官の面前では,Dに対する本件東京応化工業株の売却の際,多重取引であることを認識しており,したがってまた,Dから現金を詐取したことを認める旨の供述をしていたが,当公判廷では,Dに本件東京応化工業株を売却した時点では多重の認識はなく,その後の平成12年5月16日ころにKに東京応化工業株式会社の株式を売却したときに初めて多重であるかもしれないという認識を有するに至った旨供述し,また,Dに対する本件東京応化工業株の売却の可否を尋ねたときの被告人の回答については,検察官の面前では,被告人に「もうなくなっているけど。」と言われた旨供述していたが,当公判廷では,「もう売れてないかも。」と言われた旨供述している。
このように乙川はその供述を変遷させているところ,確かに,上記の乙川の検察官の面前での供述は具体的で,臨場感に富むもので,一応の信用性を有するといえるが,捜査機関の研究所関係者に対する取調べが研究所が会社ぐるみで詐欺行為をしていたことを前提になされ,しかも相当厳しかったことがうかがわれ,乙川についても任意ではあるが多数回にわたって呼出しを受けて取り調べられていること,乙川の検察官の面前での供述中に,単価4万6300円のソフトバンクの株式について多重販売であったと思っていたが,実際には多重となっていなかったという部分が存するところ,かかる供述が存するのは当初乙川が研究所の違法取引に加担していることを前提としてかなり誘導的な取調べがなされていたからではないかと疑われること,一方,上記の乙川の当公判廷での供述は,曖昧な点も存するものの,特段客観的事実に矛盾する点は見当たらず,その信用性を一概に排斥することはできない。
(3) 丙田の供述(証人丙田三郎の公判供述等)について
丙田は,被告人が研究所の多重取引等の違法取引を認識していた旨供述するところ,その供述は概ね一貫していると推認される上,丙田は被告人の部下で,被告人のことを含めてその課のことをよく知っていた者であり,また,特段虚偽の供述をする理由もうかがわれず,その供述は一応信用し得るものである。
しかし,丙田の被告人が研究所の多重取引等の違法取引を認識していた旨の供述は,一応の根拠はあるにしても(前記第3,3,(4)),結局のところ,丙田自身が研究所の違法取引を認識していたにもかかわらず,自分の上司である被告人が認識していなかったはずはないというものであり,推測の域を出ない。
(4) 壬村八郎の供述(証人壬村八郎の公判供述及び同人の検察官調書謄本[甲468])について
壬村は,検察官の面前では,研究所の違法取引に加担したことを認める内容の供述をしていたが,当公判廷では,最終的に研究所の違法取引には気が付いたが,研究所の違法取引に加担したことを否定する内容の供述をし,また,検察官の面前では,被告人が研究所の多重取引等の違法取引を認識していたかのような出来事があった旨の供述をしていたが,当公判廷では,その部分に関して否定する内容の供述をしている。
このように壬村はその供述を大きく変遷させているところ,壬村の検察官の面前での供述は,具体的で臨場感に富むものであり,一応信用性を有するといえるが,捜査機関において,壬村を任意ではあるが多数回にわたって呼び出し,研究所が会社ぐるみで詐欺行為をしていたことを前提に,相当追及的に取り調べたことがうかがわれること,壬村の当公判廷での供述が客観的事実と矛盾しているわけではないこと等に照らすと,壬村の当公判廷での供述の信用性を排斥するほど,高度の信用性を有するとはいえない。
(5) 辛浜七郎の供述(証人辛浜七郎の公判供述)について
辛浜は,被告人が研究所の多重取引等の違法取引を認識していた旨供述するところ,その供述は概ね一貫していると推認される上,辛浜は被告人の同僚又は部下として被告人の行動状況等についてよく知っていた者であり,また,特段虚偽の供述をする理由がうかがわれず,その供述は基本的に信用できるというべきである。
しかしながら,辛浜の被告人が研究所の多重取引等の違法取引を認識していた旨の供述は,一応の根拠は存するものの(前記第3,3,(4)),結局のところ,辛浜自身が研究所の違法取引を認識していたにもかかわらず,自分以上の地位にあり,しかも自分よりも営業成績の良かった被告人が認識していなかったはずはないというものに過ぎない。
(6) 癸畑九郎の供述(証人癸畑九郎の公判供述及び同人の検察官調書謄本[甲470])について
癸畑は,検察官の面前では,研究所の多重販売等の違法取引を認識しており,自らもその違法取引に加担したことを認める内容の供述をしていたが,当公判廷では,自らが営業活動をしていた当時,研究所の違法取引には全く気が付かなかった旨の供述をしている。
このように癸畑はその供述を大きく変遷させているところ,癸畑の検察官の面前での供述は,相当具体的で臨場感に富み,内容も自然でそれなりに信用できるものではあるが,癸畑の検察官の面前での供述のうち,黒田電気の株式について,当初から1000株しかなかった株式を多重販売したとされている点については,当初は黒田電気の株式を5000株入手できる予定で顧客への販売活動をしていたが1000株しか入手できず,結果として黒田電気の株式が多重取引になってしまったという甲山の供述(証人甲山太郎の公判供述,前記第3,2,(1)参照)と矛盾しており,この点に関しては癸畑の当公判廷での供述の方が甲山の供述に合致すること,捜査機関において,癸畑を任意ではあるが多数回にわたって呼び出し,相当追及的に取り調べたことがうかがわれること等に照らすと,自らの刑責を免れるためという癸畑において供述を変遷させるべき理由が存するとしても,細部にわたってまで高度の信用性を有するとは言い難い。そして,癸畑の検察官の面前での供述のごく一部に,被告人が「あんこ株」を多重販売していたとする部分が存するが,その部分については根拠が曖昧で,そのほかに被告人の認識を根拠付けるような具体的な供述はなされていない。
(7) 戊谷四郎の供述(証人戊谷四郎の公判供述及び同人の検察官調書謄本[甲466,467])について
戊谷は,検察官の面前では,研究所の多重販売等の違法取引を認識しており,自らもその違法取引に加担したことを認める内容の供述をしていたが,当公判廷では,自らが営業活動をしていた当時,研究所の違法取引には気が付かなかった旨の供述をしている。
このように戊谷はその供述を大きく変遷させているところ,戊谷において自らの刑責を免れるためという供述を変遷させる理由が存する上,戊谷の検察官の面前での供述は,相当具体的で臨場感に富み,内容も自然でそれなりに信用できる。しかしながら,戊谷の検察官の面前での供述のうち,被告人が研究所の多重販売等の違法取引を認識していたとする点については,その根拠が必ずしも明確ではなく,推測を述べているに過ぎない部分が存し,また,被告人が既にない井筒屋の株式を顧客のFに売却していたとする点については,前記第3,3,(2)のとおり,その直前に同じ井筒屋の株式で被告人自身が研究所と取引していたことからすると,被告人において井筒屋の株式が既にないことを認識していなかったと考えられるのであり,この点で不自然なものとなっている。
(8) 庚町六郎の供述(証人庚町六郎の公判供述及び同人の検察官調書謄本[甲462ないし464])について
庚町は,検察官の面前では,研究所の多重販売等の違法取引を認識しており,自らもその違法取引に加担したことを認める内容の供述をしていたが,当公判廷では,その一部について違法取引とは気が付かなかったなどと供述している。
このように庚町はその供述を変遷させているところ,庚町が当公判廷で供述した当時,庚町において自ら刑事裁判を受けており,庚町がその供述を変遷させる理由がある上,庚町の検察官の面前での供述は相当具体的で臨場感に富み,内容も自然であり,また,当公判廷での供述と食い違っていない部分も存するので,それなりには信用できる。しかしながら,そうだとしても,庚町の検察官の面前での供述のうち,被告人が研究所の多重販売等の違法取引を認識していたとする点については,一応の具体的な根拠は存するものの(前記第3,4,(1),ウ),明確なものとはいえず,結局のところ,自分の言動等に基づく推測の域を出ない。
なお,庚町の供述の中には,平成12年4月ころのミーティングで,三菱マテリアルの株式を「コピー」すなわち多重取引すればいいという話がなされ,被告人もこのミーティングに出席しており,この話を聞いていたはずだとする部分があるが(庚町六郎の第26回公判供述,同人の検察官調書謄本[甲462]),同じミーティングに参加していたと思われる丁野花子及び辛浜七郎は,当該ミーティングで三菱マテリアルの株式を「コピー」するという話があったという供述をしておらず,庚町の供述するような話があったかもしれないにしても,被告人がそのことを聞いていたかどうかについては判然としない。
(9) 丁野花子の供述(証人丁野花子の公判供述及び同人の検察官調書謄本[甲472])について
丁野は,検察官の面前では,研究所の多重販売等の違法取引を認識しており,自らもその違法取引に加担したことを認める内容の供述をしていたが,当公判廷では,自らが営業活動をしていた当時,研究所の違法取引には全く気が付かなかった旨の供述をしている。
このように丁野はその供述を大きく変遷させているところ,丁野の検察官の面前での供述は,具体的で臨場感に富むものであり,一応の信用性を有するといえるが,捜査機関において,丁野を任意ではあるが多数回にわたって呼び出し,研究所が会社ぐるみで詐欺行為をしていたことを前提に相当追及的に取り調べたことがうかがわれること,丁野の検察官の面前での供述のうち,研究所の取引に不審を抱いていたにもかかわらず,旧知の間柄であるLに現金220万円という多額の委託金を研究所に入金させたとされている点は,不自然で一概に信用できず,むしろこの点に関しては研究所の取引に不審を抱いていなかったからこそ,Lに委託金の入金を勧めたという丁野の当公判廷での供述の方が自然であること等に照らすと,丁野の当公判廷での供述のうち,研究所の総務部門の社員であった子原春子から泣きながら研究所の不正を打ち明けられたにもかかわらず,研究所が違法な取引をしているとは全く思わなかったかのように供述する点は不合理であること等を考慮してもなお,丁野の当公判廷での供述の信用性を排斥するほど,高度の信用性を有するとはいえない。
なお,丁野の供述によれば,当時課長であった癸畑九郎が,既に売り切れていたソニー株式会社の株式を顧客に付けてしまったことがあり,その際,甲山が「もう,ソニーはないよ。売り切れたよ。」と言ったのに対し,癸畑九郎が「だってぇ,もうお客さんに言ったんだもん。」と言い,これを見て,丁野があきれ果てて,被告人と顔を見合わせ,被告人に「あんなん課長がおおっぴらに言うか。」などと言ったという事実が認められる。丁野は,この言動について,検察官の面前では,研究所では多重販売という違法行為について暗黙の了解となっていたが,研究所の社員が皆口に出さなかったにもかかわらず,課長という立場にあった癸畑九郎が口に出したことにあきれたことによるものである旨供述していたが,当公判廷では(第27回及び第28回公判供述),癸畑九郎が顧客にソニー株のことを述べて勧誘したからといって,既にもうない株式を顧客に売ろうとしていたこと,癸畑九郎の行動が子供じみていたことにあきれたことによると供述しているところ,前記のとおり,丁野の検察官の面前での供述に高度の信用性が認められない一方,この点についての丁野の当公判廷での供述の内容が不合理であるとまでは言い切れないことから,上記の丁野の言動の意味については,真偽不明というほかない。
(10) 丑藤夏子の供述(証人丑藤夏子の公判供述及び同人の検察官調書謄本[甲474])について
丑藤は,検察官の面前では,研究所の多重取引等の違法取引を認識していた旨の供述をしていたが,当公判廷では,それを否定する供述をしている。
このように丑藤はその供述を変遷させているところ,丑藤の検察官の面前での供述は,具体的で臨場感に富み,内容に不合理な点もなく,一応の信用性を有するといえるが,捜査機関において,研究所が会社ぐるみで詐欺行為をしていたことを前提に相当追及的に丑藤を取り調べたことがうかがわれること,丑藤は,株式取引についての知識が豊富であるとはいえず,研究所での営業成績が悪かったのであり,研究所の取引の実態等を十分に理解する能力があったかについて疑問がないではないこと等に照らすと,丑藤の当公判廷での供述の信用性を排斥するほど,高度の信用性を有するとはいえない。しかも,丑藤の検察官の面前での供述のうち,被告人が研究所の多重取引等の違法取引を認識していた旨の供述は,結局のところ,丑藤自身が研究所の違法取引を認識していたにもかかわらず,自分よりも地位が高く,自分よりもはるかに営業成績の良かった被告人が認識していなかったはずはないというもので推測の域を出ていない。
(11) 小括
以上によれば,被告人を除く研究所関係者の各供述のうち被告人が研究所の多重取引等の違法取引を認識していたという旨の供述は,前記第3で認定した事実を除けば,具体的な事実に基づいてなされたものとは言い難く,結局のところ被告人の地位,営業成績等からの推測の域を出ていない。そして,これらの供述の中にはその信用性自体に疑問が存するものもある。
3 被告人の主観面についての検討
(1)ア 前記のとおり,研究所の営業利益が顧客から取得する年会費及び成功報酬のみとされていた上,研究所の全取引の相当部分が「あんこ株」による取引であったのであるから,このような営業を継続すれば,株価が下落した場合には研究所の利益がほとんど生じない上,既に利益の乗った状態の「あんこ株」で顧客と取引することにより研究所が被る損失を考えれば,甲山が株式取引等で大きな運用利益を上げるなどの特段の事情がない限り,研究所の経営そのものがいずれ破綻するであろうことはその仕組上明らかであって,研究所の営業方法そのものに資金調達の面で大きな問題が内在していたといえる。そして,証券取引に精通し,多数の「あんこ株」による取引を自ら担当するなどしていた被告人においても,このような問題点自体は把握していたと認めるのが自然である。
また,研究所が投資クラブであると称しながら,その実態が投資クラブとは大きくその様相を異にしており,中には少なくとも証券取引法には違反するような取引がなされていたこと,研究所の営業利益が会費及び成功報酬とされているにもかかわらず,社員の給与の歩合給が成功報酬等を基に算出されるのではなく顧客から集めた委託金等の額から顧客への返還額を差し引いた額を基に算出されていること,社員が顧客に渡していたパンフレットにおいていくつかの点で誇張されていることなど,研究所の営業等について社員ならば当然不審を抱くべき点が見受けられる。
さらに,研究所では,大半の取引において,研究所側と証券会社との間では信用取引で取引がなされているにもかかわらず,顧客と研究所との間では現物取引で取引がなされていたり,多重取引がなされていたのであって,かかる取引形態がいわば常態化していたといえるところ,営業部門全体の営業活動を子細にみれば,かかる取引形態を認識することは十分可能である。そして,社員の中には,このような取引の実態に気が付いていた者も少なからず存在していたのであり,その中には被告人の上司,同僚,部下及び被告人より遅く入社してきた者もおり,また,研究所の中でうわさにもなっていたのであるから,証券会社等に長年勤務し,証券取引に精通し,営業成績が優秀で比較的多額の給与の支払いを受け,営業課長として勤務していた被告人においてもまた,このような取引実態を認識してしかるべきであったということはいえる。
そして,総務部門において,証券会社からの取引報告書と営業部門の担当者が作成した売買注文書の両方を見ることができ,さらに証券会社からの取引報告書に細工をすることもあったのであるから,総務部門の社員の中には研究所の違法取引の実態を認識していた者がいたと推認されるところ,被告人は営業部門であったが,総務部門に赴くことは可能であり,総務部門と営業部門とがワンフロアで仕事をしていたこともあるのであるから,被告人において総務部門の状況を把握していたとしても不自然ではない。
被告人は,甲山が不在であったとき,証券会社の担当者に直接売買の注文をしたことがあり,その中には顧客と研究所との間では現物取引とされていたにもかかわらず,研究所と証券会社との間では信用取引がなされていたものがあり,証券会社の担当者に注文する際には取引種別を告げるのが通常であろうから,被告人においてかかる取引のずれを認識してしかるべきであったといえる。
イ 次に,被告人は,研究所全体では,ある株式を対象とする取引の打ち止めの指示が出た際,当該株式での取引を継続していた他の課の社員を注意する一方で,自分の課の部下には当該株式での取引の継続を指示したことがあったのであって,かかる被告人の行動からすると,被告人が普段から多重取引を認識していたとも解し得る。
本件ソニー株に係る取引に関し,被告人が担当になって本件ソニー株をAに売却する前に,庚町が被告人に「もうない株やけど,ソニーで1000万円引くことができました。」などと告げており,庚町としては被告人に既にない株式で取引したことを暴露したもといえる。そして,被告人が担当となって本件ソニー株をAに売却した際には研究所が証券会社から本件ソニー株を買い付けてから3か月が経過しているが,通常であれば購入後3か月を経過した株式は決済されているのではないかと疑問が生じるのであって,証券取引に精通している被告人において,本件ソニー株が既に決済されているのではないかとの疑問を抱くのが自然だとはいえる。
また,本件東京応化工業株に係る取引に関し,寅沢十郎が東京応化工業株式会社の株式2000株を売却し約500万円の委託金を獲得したということで研究所の社員から拍手されたことがあり,それ以前にも多数の東京応化工業株式会社の株式が売却されていたのであるから,その場に居合わせた者としては,研究所が保有していた株式数を超えて顧客に売却していたことを認識し得たはずである。
ウ 以上の事情に加え,平成12年2月ころ,いわゆるIT関連株を中心として株価が暴落し,同年3月ないし4月ころ,研究所が多額の追加委託証拠金を請求されるなどしていたことは研究所の社員の間では周知の事柄であり,研究所の経営状態が悪化していたことを被告人も認識していたと認められ,遅くともその時点では会社の経費等をどのようにして調達するのか不審を抱いてしかるべきであること,研究所の事務所等に強制処分がなされた後,乙川,丙田及び丑藤夏子に対し,口止めと思われる電話をかけていること,強制処分がなされた後まもなく妻と離婚するなど,自らが責任を負うことを前提とする行動をしていること,前記2のとおり,研究所の関係者のうち,少なくない者が被告人が研究所の多重取引等の違法取引を認識していた旨供述し又はしていたこと等をも併せ考慮すれば,被告人が研究所全体の詐欺取引の実態又は本件各公訴事実に係る個々の詐欺取引につき認識していたのではないかとの強い疑いが生じることは間違いない。
(2) しかしながら,他面において,以下のような事情も認められる。
ア 研究所において,研究所と証券会社との取引及び顧客と研究所との取引等の取引実態の全体を把握していたのは,ワンマン経営者であった甲山のみであり,営業課長となっていた被告人といえども,甲山とはその地位,権限等に決定的な差があり,被告人においても甲山の指示のままに,これに従って仕事をしていた面が否めないし,被告人が入社してから研究所が強制捜査を受けるまでの期間は約11か月間に過ぎず,被告人が研究所の取引実態のすべてを把握することは相当に困難であったともいえる。
また,総務部門の社員であれば,証券会社からの取引報告書と営業担当者が作成した売買注文書を見比べて,多重取引等の研究所の違法取引に気が付くこともできたと思われるが,総務部門と営業部門とは一応遮蔽されて区分されており,総務部門で細工されることもあった証券会社からの取引報告書のコピーについては営業部門の社員に渡されない仕組みになっていたのであるから,営業部門の社員であった被告人が総務部門の状況を把握することが容易であったとはいえない。
そして,研究所の全取引を把握できれば,多重取引等になっているという認識を有してしかるべきであるが,研究所における営業活動は,必ずしも組織的になされていたものではなく,むしろ,より多くの歩合給を獲得するべく,個々の社員がそれぞれに電話をかけて騒然とした中で勧誘し,その後,課長や社長の決裁を受けるという形態を取っており,横のつながりが薄く,営業部門の社員といえども,営業部門全体の状況を容易に把握できたとまでは言い難い。
そもそも,被告人を含め,研究所の社員は新聞の求人広告を見るなどして研究所に入社しているところ,少なくとも入社当初は研究所が多重取引等の違法取引をしているという認識を全く有していなかった。そして,甲山は自らの前科はもちろん研究所の違法取引を明らかにしないようにしていたし,社員の中には途中で気が付いた者もいた反面,気が付かなかった者もいたのであり,気が付いた者も研究所が違法取引をしていることを公然と口にはしなかった。また,「あんこ株」で取引すること自体は何ら詐欺罪を構成するものではないし,研究所内にはそれなりの人的物的設備が整っており,外見上明らかに研究所が違法なことをしている様子ではない上,研究所では多重取引等の違法取引ではない取引も数多くなされており,被告人が担当した取引の中にも多重取引等の違法取引ではない取引も数多く存在する(なお,稀ではあるが,甲山は多重取引等がなされた株式について単価は異なるが同じ銘柄の株式であてがったこともあった。)。さらに,研究所の事務所等が強制捜査を受けるまでは,顧客との間で返金等を巡ってトラブルが発生したことがほとんどなく,顧客から捜査機関に被害届が出されていなかったのであって,社員に研究所が違法取引を敢行しているという認識を惹起させる事情に乏しい。そして,甲山らにより,社員に対し,研究所は投資クラブであるから証券取引業法等で要求される登録等は不要である旨,取引については顧問弁護士に相談済みである旨の説明がなされ,甲山にはスポンサーがいるとうわさされていたのであって,社員がある種の安心感を有していたとしても不自然ではない。
また,研究所において,社員の給与の支払いが遅延したことはなく,研究所の事務所等に強制処分がなされて事実上破綻する直前まで,顧客に比較的多額の返金が行われるなどしており,社員が,経営状態が悪化してきたという認識を有していたとしても,研究所の経営について高度の危機感を有していたといえるかについては疑問が残る。実際,研究所の経営状態が良好であった時期も存したのであり,また,証券会社から多額の追加委託証拠金を請求された際にも,何らかの方法で対応していたのである。
なお,研究所の設立当初から研究所にいた者は,研究所の取引方法が確立していく過程を見ながら,当初××ビルにあった事務所がワンフロアで狭かったこともあって,多重取引等を認識し得る機会が多かったといえるが,被告人は研究所での取引方法がほぼ確立した後に入社した者であり,また,入社時に甲山からの研修を受けておらず,設立当初からいた者に比べれば,その機会が少なかったことも間違いないところである。
イ 次に,被告人は,打ち止めの指示が出ていたにもかかわらず,取引を継続していた他の課の社員を注意する一方で,自分の課の部下には当該株式での取引の継続を指示したことがあるが,当該株式について多重取引となっていたか否かについては判然としないのであるから,そのことをもって,被告人が多重取引を認識していたと認めるには躊躇せざるを得ない。
また,被告人は,自らが担当していた顧客から,研究所の取引に関して警察から事情聴取を受けた旨聞き及んだ際,甲山に告げて確認したことはあったが,研究所を辞めることはなかった。そして,被告人は,研究所と取引し,比較的多額の委託金を入金していたが,その後,研究所に対し,委託金及び利益の返還を求めることはなかったし,しかも,研究所に委託金を入金した社員の中で一度も返金を受けなかったのは被告人ただ一人であったのである。これらの被告人の行動からすると,被告人が研究所を詐欺会社とは思っていなかったとも考える余地が存する。
ところで,被告人は,平成11年8月上旬,自らが研究所との間で取引をするとともに,その取引の対象となった株式と単価及び銘柄が同じ株式でもって自らが担当となって顧客と取引しており,これらの株式については客観的には多重取引とされているところ,自らが研究所と取引した株式が多重取引になると知りつつ,研究所と取引したり,顧客に勧めるとは考え難く,少なくともこの時点では被告人は研究所の多重取引等の詐欺取引に気が付いていなかったと認めるのが相当である。
そして,その後の同年9月下旬ころ,被告人が担当となってAに本件ソニー株を売却しているところ,この取引が既にない株式を対象とした詐欺取引であったことを被告人が認識していたといえるためには,同年8月上旬から同年9月下旬までの間に被告人において,研究所が詐欺取引をしているという認識を抱くような出来事がなければならないことになる。この点,庚町が被告人に「もうない株やけど,ソニーで1000万円引くことができました。」などと告げており,庚町としては既にない本件ソニー株で取引したことを述べた事実が一応認められるが,その際の被告人の反応は1000万円という大金を獲得することができたことを感心していたにとどまり,既にない株式でもって取引をしたことに関しては何らの反応もなされていないのであって,被告人が上記の庚町の言葉のうち既にない株式で取引したという一部を聞いていなかった可能性が否定できない。そして,この取引においては,最終的には甲山の許可も受けている。そうすると,被告人が,本件ソニー株が既にないことを認識しながら,Aに本件ソニー株を売却したと認めるにはやはり疑問が残るというべきである。
また,寅沢十郎が東京応化工業株式会社の株式2000株を売却し約500万円の委託金を獲得したということで研究所の社員から拍手されたことがあったが,その際に,被告人がそのことを十分認識していたかについても疑問がないとはいえない。
ウ 本件においては,研究所関係者合計10名が,当公判廷において証人として出頭しているところ,いずれも検察官の面前では研究所の多重販売等の違法取引を認識していた旨供述し,詐欺を自白していたにもかかわらず,そのうち7名もの者が,当公判廷において,検察官の面前での供述を翻している。そして,捜査段階の研究所関係者に対する取調べは,研究所が詐欺会社であり,本件が会社ぐるみの詐欺事件であることを前提に,結果として多重取引になっている証拠書類を示しながら,厳しく追及したことがうかがわれる上,これらの者の供述は捜査段階においても一貫していたわけではない。さらに,被告人を除く研究所関係者の各供述のうち被告人が研究所の多重取引等の違法取引を認識していたという旨の供述は,具体的な事実に基づいてなされたものに乏しい。
以上の事情に加え,被告人自身が多重取引を意味する「コピー」という隠語を使っていた形跡がうかがえないこと,被告人においては,野村證券株式会社に長年勤務していた甲山を信頼していた面が存すること,研究所の関係者の多くが少なくとも捜査段階においては自白しあるいは自白に転じたのに対し,被告人は捜査段階から終始一貫して詐欺の共謀及び故意を否認していること等をも併せ考慮すれば,被告人が研究所全体の詐欺取引の実態又は本件各公訴事実に係る個々の詐欺取引を認識していたと認めるには疑問があるというべきである。
(3) 以上を総合すれば,被告人が研究所全体の詐欺取引の実態又は本件各公訴事実に係る個々の詐欺取引を認識してしかるべきであり,したがって,被告人に詐欺の故意ないし共謀があったとの強い疑いが生じるとはいえるが,他面において,被告人が研究所全体の資金繰りの状態や詐欺取引の実態,あるいは本件各公訴事実に係る個々の詐欺取引を認識していたと認めるにはなお疑問があり,結局,被告人に本件詐欺の故意ないし共謀があったと認めるには合理的な疑いが残るというべきである。
4 なお,当事者双方の主張にかんがみ,各取引ごとに問題となる点について,ここで更に若干の補足的判断を示しておく。
(1) Aとの取引に関し,弁護人は,甲493号証によると,ソニー株については研究所は,Aとの取引がなされた平成11年10月1日時点において1000株を保有しており,これに対応する顧客に対する提供は甲山がダミーとして使用していた「a」,「b」及び「c」の各名義分を除くと合計700株に過ぎないから,そもそも多重売買にはなっていないと主張する。
しかしながら,既に述べたとおり,同じ銘柄の株式でも単価がいくらかということは基本的には重要な要素であり,被告人のAに対する勧誘文言は「1万3380円のソニー株」を提供する旨がその核心部分であるといってよいところ,甲493号証によれば,研究所は単価1万3380円のソニー株式をこの時点で既に売却していたのであるから,弁護人の主張をそのまま採用することはできない。
ただ,被告人の詐欺の故意を考えるについては,これに関連して留意すべき点がある。すなわち,甲493号証の多重売買一覧表の「顧客との取引」欄に記載された者のうち,「a」,「b」及び「c」については,関係証拠によれば弁護人も指摘するように,架空人名義であって実体のないものと認められるから,多重売買かどうかを判断するに当たってはこれを除外して考えるべきものであり,そうすると,研究所は単価1万3380円のソニー株式500株を持っていたのに対して,平成11年9月30日ないし10月1日時点において,Aを含めて合計4名に合計700株を提供したことになるのであるが,そのオーバーの程度は僅かに200株に過ぎないから,被告人が甲山との間で明示的な詐欺の共謀をしていたのであればともかく,諸々の間接事実から詐欺の故意(ないし甲山との黙示的共謀)の推認が問題となる本件にあっては,相当強く推定が働く事情がない限り,軽々に認定をすることは許されないというべきである。しかるに,既に述べたように,このAとの取引は,被告人が研究所に入社してから3か月程度しか経っていない時期のもので,まだ課長職に就く前のことであること,甲山は被告人に明示的には多重売買をしていることを明かしてはいなかったことのほか,前記第4,3,(2)で認定した各事情に照らせば,被告人が本件ソニー株が売却済であったことはもちろん,同株式500株を超えて売却することについても,そのような認識を有していたと認めるのは相当に困難だといわざるを得ない。
(2) 次に,Bとの取引に関しても,弁護人は,甲493号証によると,光通信株については研究所は平成12年3月10日に100株,また同月15日に100株を購入しており,200株が同月22日まであったことは明らかであるところ,Mの売買注文書には日付がないが,総務の卯松が記入している「3/24」の記載からみると,その2日前の3月22日に取引が成立したことが分かり,そうすると,3月17日になされたBとHの取引合計200株は何ら多重売買になっていないから,本件取引の性質につき検察官の主張を前提としても,「既に他の顧客に売却済みであるのに」との事実は認められないと主張する。
確かに,被告人らがBに光通信株の取引を持ちかけた3月17日ころの時点において,研究所が弁護人の主張するとおりの株数を保有していたことは甲493号証によって一応認められるものの,本件訴因との関連でみると,8万7300円で購入した同株式は100株のみであり(3月15日購入分),残りの100株は13万円で購入したもの(3月10日購入分)なのである。そして,同じ銘柄の株式でも単価がいくらかということは基本的には重要な要素であり,4割以上も高い13万円の株式を含めて多重か否かを判断するのは相当でないから,弁護人の主張をそのまま採用することはできない。
ただ,このことに関連して留意すべきは,平成12年1月以降に限ってみても研究所ないし甲山は,極めて頻繁に光通信株の売買を繰り返しており,例えば,平成12年1月24日には500株,3月22日400株,4月28日には3000株というように多数の光通信株を保有(光通信株式売買一覧表の株数残高欄参照)していたのである。そして,研究所においては株式の購入,売却は甲山が一手に行っていたもので,被告人はこれに殆ど関与していなかったのであり,とりわけ購入価格の点については被告人は知る機会もなかったものと認められるから,本件において被告人の詐欺の故意を検討するに当たっては,これらの事実はその故意を否定する方向に働く事情であるというべきである。
(3) 更に,Cとの取引に関しても,被告人がCに東京応化工業株を勧めた平成12年5月10日ころの時点において,研究所が保有していた東京応化工業株の株数についてみると,前記第3,4,(3)で認定したように,被告人がCに勧めた価格が2325円の同株式は5月2日に購入した1000株であるが,看過できないのは甲493号証によれば,同じ5月2日に二つの証券会社から価格2410円で東京応化工業株1000株を購入(信用取引)していることであって,これを合わせれば研究所は合計2000株を保有していたことになる。そして,後者の東京応化工業株は,問題とされる2325円の同株式と比較して1株当たり僅かに85円の差額しかないのであり,このように差額が極めて少額の場合には,弁護人のいう「単価にして僅か85円の差は研究所が負担し,(2325円の東京応化工業株と)同一のものとみなして取り扱うことは何ら不自然なことではないし,よく行われていることである。」との主張も一概に排斥し難いところがあり,そのように考えれば,甲493号証の「多重売買一覧表」の記載に照らして明らかなようにCに対する本件取引は多重売買になっていないとも考えられるのである。また,仮に,このような見解をとらないとしても,被告人の詐欺の故意ないし共謀の存否について検討する場面では,厳密にいえば多重ではあっても,かかる微妙な程度のオーバーを被告人が認識していたと認めるに足りる証拠は十分でないといわざるを得ない。
(4) このように,上記(1)ないし(3)の諸点も,前記第4,3,(3)の判断を補強するものである。
第5 結論
ここで,本件捜査の在り方等について考えてみると,本件で捜査機関が収集した取引株式数,顧客数等の客観的データに関しては,大きな誤りがあったとまではいえないにしても,決して軽微とはいえない入力ミス等の誤りが多々見受けられ,また,本件において多重取引になっていたか否かを判断するためには不可欠の客観的資料が第30回公判を過ぎてから提出されるという事態があった。しかも,このような書類(例えば甲489)についても入力ミス等の誤りがあり,とりわけ,その多重取引一覧表中の東京応化工業株に関する誤りは,看過し難いものである(この点については甲493で訂正がなされている。)。そもそも,これらの基礎データは,必ずしも証券取引等に精通していたとはいえない捜査官によって集められたものであるが,捜査の初期の段階では時間の関係もあって必ずしも十分な分析が困難だったのであるから,その後に収集された証拠,とりわけ関係者らの供述等と照らし合わせて吟味し直されるべきものであったのに,そのような作業はあまりなされていないように思われる。むしろ,誤ったデータを基に関係者を取り調べた形跡すら窺われるのである。このようにして本件捜査においてはこの種事犯の解明につき最も重要な客観的側面がややなおざりにされていたと評せざるを得ず,これが事実認定を困難にしていることも否定できない。
以上の次第であって,本件各訴因に関し,被告人に詐欺の故意及び甲山らとの共謀があったと認めるには合理的な疑いが残るといわざるを得ず,結局,本件各公訴事実のいずれについても犯罪の証明がないことに帰するから,刑訴法336条により被告人に対し無罪の言渡しをすることとする。
(裁判長裁判官・角田正紀,裁判官・柴山智,裁判官・石田由希子)