大阪地方裁判所 平成12年(ワ)2133号 判決 2000年10月30日
原告 A野太郎
右訴訟代理人弁護士 喜治榮一郎
被告 泉陽信用金庫
右代表者代表理事 南野恒治
右訴訟代理人弁護士 磯野英徳
同 河瀬真
主文
一 原告の請求を棄却する。
二 訴訟費用は、原告の負担とする。
事実
第一当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 原告の被告に対する、別紙債権目録記載の預金債権(以下「本件債権」という。)が存在することを確認する。
2 訴訟費用は、被告の負担とする。
二 請求の趣旨に対する答弁
主文同旨
第二当事者の主張
一 請求の原因
1 被告は、肩書地、他の本支店において、預金等の受入れ、資金の貸付け等の業務を行う信用金庫である。
2 原告と被告との間には、普通預金等の取引(以下「本件普通預金取引」という。)が存在する。
3 原告は、平成一二年二月一四日当時、被告に対し、本件債権四〇〇万円を含め、一三一八万九八四七円の普通預金債権を有していた。
4 被告は、原告に対し、本件債権が存在しないと主張している。
5 よって、原告は、本件債権が存在することの確認を求める。
二 請求原因に対する認否
請求原因事実は、いずれも認める。
三 抗弁
1 弁済
被告は、原告もしくは正当な権限を有する者に、平成一二年二月一四日、本件債権の弁済として四〇〇万円を交付した。
2 債権の準占有者に対する弁済(免責約款の適用による免責)
(一) 原被告間の本件普通預金取引には、「払戻請求書、諸届その他の書類に使用された印影を届出の印鑑と相当の注意をもって照合し、相違ないものと認めて取り扱いましたうえは、それらの書類につき偽造、変造その他の事故があってもそのために生じた損害については、当金庫は責任を負いません」との免責約款が存在する(乙一)。
(二) 被告は、被告住之江支店窓口において、原告名義の真正な預金通帳(以下「本件通帳」という。)を持参し、かつ原告の氏名の記載・押印がある払戻請求書(甲三、乙五。以下「本件払戻請求書」という。)を所持する氏名不詳者から、本件債権四〇〇万円の払戻(以下「本件払戻」という。)を請求されたため、これに応じて四〇〇万円を交付し、本件債権を弁済した。
(三) 被告は、本件払戻の際、本件払戻請求書の印影と届出の印鑑とを相当の注意をもって照合した上、払戻請求者が真の債権者であると信じて本件払戻を行ったものであり、そう信じるにつき、以下のとおり、過失がなかった。
(1) 本件払戻の時刻は、同日午前九時一四分であり、本件通帳の紛失届(乙二)が被告に出されたのは、それより後の同日午前九時五五分であった。
(2) 被告住之江支店の本件払戻当時の預金窓口担当者である土佐富美子(以下「訴外土佐」という。)は、本件払戻請求書(甲三、乙五)の印影と本件通帳上の副印鑑とを、平面照合のみならず、残影照合(通帳に押捺された副印鑑の上に本件払戻請求書の印影を重ね、本件払戻請求書をめくったり戻したりして照合する方法)により、各字画ごとに照合しており、金融機関の照合事務担当者に社会通念上一般に期待されている義務上相当の注意義務を十分に尽くした。
(3) 原告の届出印影は、本件通帳上の副印鑑と同一の印鑑による印影であるところ、右届出印影と本件払戻請求書の印影とは、その大きさ及び形状が同一である。
(4) 原告の被告に対する普通預金の残高は、一三一八万九八四七円であり、四〇〇万円は単なる預金の一部についての払戻請求にすぎず、また払戻金受領者が払戻請求をした支店は被告住之江支店であり、原告名義の普通預金取引支店であった。
(5) 本件払戻時、払戻金受領者の服装や態度には特に不審な点は無かった。
四 抗弁に対する認否及び主張
1 抗弁1(弁済)は否認する。本件払戻請求は、窃取された通帳及び偽造により作出された印影を用いて無権限者により行われたものであるから、本件払戻は、原告に対する弁済ということはできない。
2 抗弁2(免責約款の適用による免責)に対して
(一) 抗弁2(一)は認める。
(二) 抗弁2(二)は認める。ただし、本件払戻請求書の署名・押印は偽造により作出されたものである。
(三) 抗弁2(三)(1)は認める。(2)のうち、照合方法は知らない。担当者が相当の注意義務を尽くしたことは争う。(3)のうち、印影の大きさや形状が相似していることは認め、その余は否認する。両印影は、同一ではなく、業務上の注意義務を尽くして照合すればその相違は十分発見し得たはずである。(4)は認める。ただし、払戻が預金残高の一部であることが、被告の担当者の注意義務を免除したり軽減したりするものではない。(5)は否認する。被告が相当の注意をもって照合したこと、被告に過失がなかったとの主張は争う。
五 再抗弁―抗弁2に対して
以下のとおり、被告は、本件払戻に際して相当の注意を払っておらず、仮に本件払戻請求者が真の債権者であると誤信したとしても、そう信じるにつき過失があった。
1 被告の窓口担当者である訴外土佐は、印影の照合のみで署名の照合を行っていない。
2 従前、被告住之江支店で、入金したり払戻請求を行っていたのは原告自身であったから、同支店の担当者であれば、当然原告本人の顔を知っていたはずである。
3 被告の従業員は、事後に原告に対し、「支店内で払戻の用紙をとり、一旦外へ出てから再入室して来た顧客がいたということで、おかしいなあと思った。」と言っていた。
六 再抗弁に対する認否及び主張
1 再抗弁1のうち、訴外土佐が本件払戻請求書の署名の筆跡について照合していないことは認める。筆跡については被告を含め金融機関一般につき登録制度を有しておらず、また、普通預金の出金の際、署名の筆跡の照合まで行うとすれば、実質上預金窓口業務は遂行不可能であるばかりか、払戻の請求が家族・従業員など預金者本人の使者または代理人によりされる場合にも被告は払戻義務があるのであるから、預金の払戻にあたり、被告が署名の筆跡についてまで照合すべき注意義務はない。
2 再抗弁2のうち、原告自身が出入金請求を行ってきたことは知らない。その余は否認する。被告住之江支店においては、窓口業務担当者一人一日あたり約一三〇人から一四〇人の取扱件数があり、窓口担当者において預金契約者の顔を知るなどということは、特別な事情がない限りあり得ないことである。なお、原告は「案内不要」の届をしており、被告は原告を訪問したりしていない。
3 再抗弁3は否認する。被告の従業員は、原告に対し、「支店内に入った後、すぐ出ていった客がいた。」旨述べたにとどまる。さらに、後から入室して来た客が本件払戻を受けた者であるか否かについても何ら確認していない。また、実際に本件払戻を担当した訴外土佐は、一旦入室してすぐに出ていった客については全く認識していなかった。
理由
一 請求原因について
請求原因事実は、いずれも当事者間に争いがない。
二 抗弁1(弁済)について
1 《証拠省略》によれば、被告は、平成一二年二月一四日午前九時過ぎころ、被告住之江支店の窓口において、原告の氏名が記載された払戻請求書と本件通帳を示され、本件払戻を行ったものであることが認められるけれども、他方、《証拠省略》によれば、原告は、本件通帳を、同月一三日夕方ころから同月一四日午前七時三〇分ころまでの間に、原告が代表取締役を務める訴外株式会社A野の事務所内の金庫から氏名不詳者に窃取された(しかし、本件通帳の届出印は、別に手提げ鞄に保管しておいたため窃取を免れた。)ことが認められるのであって、右事実に鑑みれば、本件払戻請求は、窃取された本件通帳を用いて無権限の第三者が行ったものである可能性が高いというべきであるから、被告による本件払戻をもって、原告もしくは正当な権限を有する者に対する弁済と認めることはできない。
2 よって、抗弁1は理由がない。
三 抗弁2及び再抗弁について
1 当事者間に争いがない事実に、前記二1認定事実並びに《証拠省略》を総合すれば、次の事実が認められる。
(一) 原告は、本件通帳を、原告が代表取締役を務める訪外株式会社A野の事務所内の金庫に保管していたところ、平成一二年二月一四日午前七時三〇分ころ、出勤した従業員からの電話で、事務所が荒らされているとの連絡を受けた。原告は、その後一時間くらいかかって事務所に赴いたが、既に警察が事務所内を調べていたため、直ちには事務所内に立ち入ることができなかった。原告は、同日午前九時過ぎころ、事務所内に入れるようになったため、室内を調べたところ、金庫が開けられ、本件通帳が窃取されていることが判明した。しかし、本件通帳の届出印鑑は、本件通帳とは別に原告が手提げ鞄に保管していたため窃取を免れた。
(二) 原告は、同日午前九時三〇分ころ、被告に電話で、本件通帳が窃取されたことを連絡したが、被告からは、同日午前九時一五分ころ、既に本件通帳を用いて四〇〇万円が引き出されているとの回答であった。
(三) 他方、同日午前九時過ぎころ、被告住之江支店に氏名不詳の男性が訪れ、窓口で預金の払戻を担当していた訴外土佐に対し、本件通帳と既に原告の氏名が記載され印影が顕出された本件払戻請求書(甲三、乙五)を提出し、預金のうち四〇〇万円の払戻請求をした。
(四) 訴外土佐は、本件通帳に押捺されている副印鑑と本件払戻請求書に押捺された印影とを、まず、平面照合(両者を並べて見比べ、印影を照合する方法)により、次いで、残影照合(両方の印影を重ね合わせ、めくったり戻したりして照合する方法)により照合した結果、同一の印影であると判断したため、本件払戻請求に応じることとし、氏名不詳者に対し、四〇〇万円を交付して本件払戻を行った。
2 右事実を前提に、訴外土佐が本件払戻を行ったことにつき過失の有無を検討する。
(一) 本件通帳に押捺された副印鑑は、印鑑届に押捺された届出印鑑(乙三)と同一であるところ、右届出印鑑による印影と、本件払戻請求書(甲三、乙五)に顕出された印影とを比較すると、その大きさは同一であり、文字の形状も同一であるかもしくは酷似している。なお、原告の届出印鑑は窃取を免れていたから、本件払戻請求書に押捺された印影は、届出印鑑により顕出されたものではなく、右印影が偽造された印鑑を押捺して顕出されたものであるのか、パソコンないしプリントゴッコ等を用いて作出されたものであるのかは必ずしも明らかではないが、いずれにしても、真正な印影と比較したとき、両者は酷似しており、肉眼で両者を見分けることは極めて困難である。もっとも、本件払戻請求書の原本(乙五)に押捺された印影には若干の変色が認められるけれども、これは、時間の経過によりもしくは警察による捜査(指紋採取)の際の薬品の影響によって本件払戻請求当時とは若干異なる色になっていることも十分考えられるところであるから(土佐証人は、本件払戻請求書が提出された時点ではもっと印影の朱色が濃かったと供述する。)、現時点での各印影の色が若干異なっているというだけでは、前記認定判断を左右するには至らない。
(二) 訴外土佐は、平成元年四月以来、約一二年にわたって印鑑照合事務に従事し、印鑑照合事務に熟練した者といえるところ、本件払戻請求書の印影と本件通帳上の副印鑑の照合にあたっては、平面照合のみならず残影照合の方法による照合も行っており、右照合方法につき、金融機関照合事務担当者に社会通念上一般に期待されている注意義務に欠ける点はない。
なお、原告は、訴外土佐が本件払戻請求書の署名の照合を行わなかったことをもって相当の注意を欠いたと主張するけれども、一般に、わが国では、金融機関は署名(筆跡)については登録制度をとっておらず、通帳及び届出印の押捺された払戻請求書が窓口に提出されれば払戻に応じる取扱としているところ、筆跡の同一性については印影の同一性以上に照合が困難であって、普通預金の出金の際、印影の同一性の照合に加えて署名の筆跡照合まで行うとすれば大量の定型処理による預金窓口業務は著しく困難なものとなること、また、預金の払戻請求は、預金者本人のみならず家族や従業員等の使者又は代理人によりされることも頻繁であることなどに鑑みれば、右のような取扱もなお十分な合理性を有するものということができる。したがって、金融機関の窓口担当者は、預金払戻請求に際し、印鑑照合に加えて払戻請求書に記載された署名の筆跡の照合まで行うべき注意義務はないというべきであるから、訴外土佐が署名の照合を行わなかった点をとらえ、本件払戻につき過失があったとするわけにはいかない。
(三) 原告は、被告住之江支店においては常に原告自身が入金したり払戻請求したりしていたから、担当者は原告を知っていたはずであると主張するけれども、被告住之江支店においては、窓口担当者は一日あたり平均約一三〇人ないし一四〇人の顧客の事務処理を行っているというのであるから、仮に、入出金の際には常に原告自身が窓口に赴いていたとしても、窓口担当者が当然に預金者である原告の顔を認識しているはずであるということはできず、担当者である訴外土佐が原告の顔を認識していたとの事実を認めるに足りる証拠はない。
(四) 原告は、また、事後に、被告住之江支店従業員から、支店内で払戻の用紙をとり、いったん外へ出てから再入室してきた顧客がいておかしいと思った、との話を聞いたと主張するが、右事実を認めるに足りる客観的な証拠はないし(土佐証人は、原告と応対した従業員が右のような話をしたことを否定する供述をしている。)、そもそも、仮に再入室して来た者がいたとしても、それが本件払戻請求者であるか否かも明らかでないばかりか、いったん外へ出てから再入室したというのみでは、払戻請求につき不審を抱かせる事情とまでは言い難いから、原告の主張事実を前提としても、右事実から直ちに、訴外土佐が本件払戻請求に応じたことにつき過失があったということはできない。
(五) 他に、本件払戻請求につき、不審な点があったというような事情は一切窺われない。
3 以上のとおり、訴外土佐は、金融機関の預金払戻担当者に通常要求される相当の注意をもって、本件預金通帳上の副印鑑と本件払戻請求書の印影を照合した上、同一であると判断して本件払戻を行ったものと認められ、本件払戻請求者が正当の受領権限を有しないことを疑わしめる特段の事情も認められないから、被告は、本件払戻に際し、本件払戻請求者が権限を有すると誤信したことにつき無過失であったということができ、したがって、被告による本件払戻は、債権の準占有者に対する弁済として有効であり、本件債権は、右弁済により消滅したというべきである。
四 結論
以上より、原告の請求は理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担については、民事訴訟法六一条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官 増森珠美)
<以下省略>