大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

大阪地方裁判所 平成13年(ワ)11749号 判決 2003年1月22日

原告

同訴訟代理人弁護士

山口孝司

矢倉千榮

被告

株式会社Y科学

同代表者代表取締役

同訴訟代理人弁護士

染川周郎

主文

1  原告の被告に対する別紙債務目録記載の損害賠償債務が存在しないことを確認する。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

事実及び理由

第1請求

主文第1項と同旨

第2事案の概要

本件は,被告(以下「被告会社」という。)の元従業員である原告が,採用及び退職の際に被告会社との間でした競業避止に関する合意が公序良俗に反して無効であるから,被告会社を退職後に別会社に就職したことによる債務不履行に基づく損害賠償義務を負担していないとして,その義務がないことの確認を求めた事案である。

1  争いのない事実

(1)  当事者等

ア 原告は,昭和59年3月に北里大学薬学部製薬学科を卒業し,薬剤師の資格を有している。

イ 被告会社は,実験用動物のマウス,ラット等の飼育及びその販売,医薬,農薬,食品,化粧品等の開発研究のための薬理試験,一般毒性試験等の実施等を業とする株式会社であり,製薬会社等から医薬品等の開発業務を受託する開発業務受託機関(以下「CRO」という。)として,医薬品等の治験を行っている。

ウ a株式会社(以下「a社」という。)は,製薬,生物工学,医療診断,医療機器に関連する臨床試験の管理,生物統計及び情報管理,医療に関する規制状況の情報収集,提供等を業とする株式会社であり,CROとしての業務を行っている。

(2)  原告の被告会社における就労

ア 原告は,平成12年1月5日に被告会社に採用され(ただし,同日から同年7月4日までは試用期間),臨床開発事業本部で勤務していたが,平成13年9月2日に被告会社を退職した。

イ 被告会社の臨床開発事業本部には,臨床開発部が設けられ,その下に臨床開発グループ等が置かれていた。原告は,臨床開発グループ内の一つの小グループのマネジャーの地位にあった。

原告の部下は,臨床開発の経験がない新入社員が2名,約2年間研究に携わっていたが治験のモニタリング業務に関する実務的な経験を有しない者1名の合計3名であった。

なお,原告は,部下の人事考課に関する権限を有しておらず,また,原告の部下に対する指示は,業務先訪問時の服装及び挨拶の仕方,業務上での交通機関の利用方法,アポイントの方法等いわゆる新入社員教育を内容としていた。

ウ 原告は,被告会社に勤務していた期間,被告会社がb株式会社から受託したDA-9501の治験のプロジェクト(以下「b社のプロジェクト」という。)及びc製薬株式会社から受託したMR3HSの治験のプロジェクト(以下「c製薬のプロジェクト」という。)のモニタリング業務に関与した。

原告は,b社のプロジェクトにおいて,モニターの一人であり,治験実施機関となった医療機関のうち鹿児島大学,京都大学及び九州大学の各医学部付属病院の担当となり,鹿児島大学医学部付属病院を合計84回訪問した。

エ 被告会社は,原告に対し,給与支給期間中,月額4000円の秘密保持手当を支給した。

(3)  退職後の競業避止義務に関する合意

原告は,被告会社との間で,就職に際し,平成12年1月5日に同日付け競業避止義務契約書及び誓約書により,また,退職に際し,平成13年8月30日に同日付け業務及び競業避止義務に関する合意書により,被告会社退職後1年間以内に被告会社又は別紙記載の会社又は団体(以下「Y科学グループ」という。)と競業関係にある会社に就職せず,これに違反した場合には損害賠償義務を負う旨をそれぞれ合意(以下,競業避止に関する前者の合意を「平成12年1月5日付け合意」,後者の合意を「平成13年8月30日付け合意」という。)した。

(4)  原告の被告会社退職及びa社への就職

原告は,平成13年9月2日に被告会社を退職し,同月3日にa社に就職し,新薬の開発に関する治験の実施及びモニタリング業務に従事している。

(5)  被告会社による競業行為の中止要求

被告会社は,原告のa社における就労が競業避止義務違反に当たるとして,競業行為の中止を求める平成13年9月25日付け内容証明郵便を原告及びa社に送付した。

2  争点

(1)  本件訴えに確認の利益があるか。

この点について,被告会社は,原告に対し,現実的かつ具体的に損害賠償請求をしていないし,現時点で請求する具体的な予定もないから,本件訴えに確認の利益はなく,原告としては,将来,仮に被告会社が原告に損害賠償請求をした場合には,その時点で争えば足りると主張している。

(2)  平成12年1月5日付け合意及び平成13年8月30日付け合意は,公序良俗に反するものとして無効か。

この点について,原告は,次のとおり主張している。すなわち,

ア 退職後の競業避止義務を定める特約は,労働者であった者の職業選択の自由を制約するものであるから,当該特約が合理的か否かは,競業行為により保護される企業利益の内容及びその保護の必要性と,労働者が職業選択の自由を制約されることにより受ける不利益の程度とを比較考量して,必要かつ相当な限度でのみ有効と認められるべきものである。

そして,競業避止義務については,労働者は,使用者が定める契約内容に従って付従的に契約を締結せざるを得ない立場に立たされるのが実情であり,そのような立場の差を利用して競業避止義務を定める特約が安易に約定されることがないとはいえず,また,もともとそのような義務がないにもかかわらず,専ら使用者の利益確保のために特約により退職後の競業避止義務を負担するのであるから,使用者が確保しようとする利益に照らし,競業行為の禁止の内容が必要最小限度にとどまっており,かつ,十分な代償措置をとっていることを要するものというべきである。

イ 本件では,以下のとおり,企業である被告会社の守られるべき利益と比較して労働者である原告の受ける不利益は著しく大きいから,平成12年1月5日付け合意及び平成13年8月30日付け合意は,公序良俗に反し無効である。

(ア) 原告の被告会社における就労期間は,試用期間を含めても1年9か月弱,本採用の期間は1年2か月弱と極めて短期間であったにもかかわらず,原告は,1年間もの長期にわたる競業禁止を義務付けられている。

(イ) 原告は,被告会社の臨床開発事業本部に所属し,マネジャーの役職にあったが,同事業本部臨床開発部の臨床開発グループのうち大阪支社内にある小グループの責任者であったにすぎず,権限のある高い地位にあったわけではない。

原告の部下は,臨床開発の経験を全く持たない新入社員が2名,約2年間研究に携わっていたがモニタリング業務に関する実務的な経験を有しない者1名がいただけで,原告は,これらの部下の人事考課に関する権限さえ有していなかった。また,原告のこれらの部下に対する指示の内容も,業務先訪問時の服装及び挨拶の仕方,業務上での交通機関利用方法,アポイントの方法,そのほか社会通念上の新人教育の範囲内にとどまっていた。

(ウ) 原告が被告会社の業務に従事したことにより得た知識とは,通常治験の実施,モニタリング業務に従事していれば当然に習得する知識,ノウハウにすぎず,原告の転職の自由を制限してまで守られるべき営業秘密はない。原告は,b社及びc製薬の各プロジェクトにおいて,各治験薬の製造開発に従事していたわけではなく,開発過程,薬剤の概要等をすべて把握しうる立場にあったわけではない。原告は,b社のプロジェクトの責任者であった被告会社大阪支社副部長のB(以下「B副部長」という。)のもとに置かれた10名のモニターの一人にすぎず,全体の症例数の5分の1程度にしか関与しておらず,訪問した医療機関も多数のうちの3機関にすぎないし,原告の業務内容は主として治験の実施手順の説明や治験薬の搬出搬入等の治験実施に伴う手続的なものであり,医療機関に対して治験薬に関する主要な説明を行ったのは原告ではない。また,二重盲検比較試験の手法が用いられた上,原告は治験の結果に関する報告会に参加せず資料等も受領しなかったから,治験の結果を知りうる状況になかった。原告はc製薬のプロジェクトについては,モニタリング業務に従事しておらず,治験に関する資料も受領しなかったから,プロジェクトに関する治験薬の具体的内容について知識を有していなかった。

(エ) b社及びc製薬のプロジェクトの各治験薬は,いずれも原告がモニタリング業務に従事する前に,特許権の内容が公開されており,被告会社が主張する,製薬会社の治験薬の開発に関する知識及びノウハウは,公知のものとなっている。

(オ) 原告は,b社のプロジェクトに関しては,治験薬概要書,治験実施計画書(いわゆるプロトコル)等の関連書類を受領したが,被告会社を退職した際に,受領した書類をすべて被告会社に返却した。原告は,c製薬のプロジェクトについては,公表文献の調査を行い,医療機関から治験の一般的申請手順の説明を受け,夜間緊急連絡先となったにすぎず,モニタリング業務には従事せず,治験薬概要書,治験実施計画書等の治験の具体的内容が分かる資料も受領していない。

(カ) そもそも,実情として,CROは,同時又は前後して,複数の製薬会社から,多様な薬剤に関する治験の業務を委託されているところ,このような状況が実現しているのは,CRO及びその構成員が製薬会社に対して秘密保持義務を負い,治験薬に関する情報が,競合する他の製薬会社に漏えいされることは通常ありえないと考えられているからである。したがって,製薬会社の企業秘密は,このような秘密保持義務によって守られるべきものであり,それ以上にCROの従業員に対して競合するCROへの就職を制限する必要性はない。

なお,被告会社の主張によると,本件の競業避止義務の範囲は製薬会社には及ばないとのことであるが,製薬会社の治験薬に関するノウハウを保護するという目的からすると,競業する他の製薬会社への転職を制限すべき必要性が高いはずであり,守られるべき利益と禁止すべき競業行為との関連性を欠いている。

また,治験を実施する医師や医療機関事務担当者は,医局の人事異動により他の医療機関に転勤しているのが実情であり,社会通念上それが許容されているのは,秘密保持義務により製薬会社の知的財産権が確保されていることに基づいている。

(キ) 被告会社にとって守られるべき利益として,被告会社の携わる治験の実施方法に関するノウハウが考えられるが,治験の実施手順は,厚生労働省令である「医薬品の臨床試験の実施の基準」(以下「新GCP」という。)や業界団体の指針にのっとって行われなければならず,各病院ごとの手順の違いはあっても,CRO独自の手順があるわけではない。なお,原告は,b社のプロジェクトに参加するまで新GCPによる治験を経験したことがなく,同プロジェクトではB副部長の具体的な指示命令を受けながら治験を行った。

(ク) 原告は,昭和59年3月に大学を卒業して同年5月に薬剤師としての資格を取得し,以来,薬剤に関する業務に従事してきたが,平成12年1月に被告会社に入社するまでの約16年間のうち約10年間は,製薬会社において被告会社における業務と同様の臨床開発業務に従事してきた。このような職歴を有する原告が,被告会社と競業する臨床開発業務を行う会社に1年間就職することができないとすると,原告が培ってきた専門知識の活用の場が奪われ,新たな就職先を探すことが極めて困難となる上,1年間のブランクにより,めまぐるしく進展する医薬業界から取り残されることになり,原告の生活の糧を奪うに等しい。

(ケ) 本件の競業避止義務の内容は,一般職員であれば就業期間及び地位を問わず,一律に1年間,場所的制限を設けることなく全国的範囲で,かつ薬剤師が薬剤の管理及び調剤を行っている医療機関dクリニックを含む被告会社のグループ会社全社との関係で競業を禁止するものとなっており,原告の職業選択の自由は大幅に制約されている。

(コ) 月額4000円の秘密保持手当は,競業避止義務の対価ではないし,仮に対価の意味を含むとしても,対価として十分であるとは到底いえない。原告は退職金の支給等の競業避止義務の代償措置は何ら受けていない。

他方,被告会社は,次のとおり主張している。すなわち,

ア 競業避止義務を定める特約が有効であるかどうかは競業行為禁止により保護される企業利益の内容及びその保護の必要性と労働者が職業選択の自由を制約されることにより受ける不利益の程度とを比較考量して,必要かつ相当な限度でのみ有効と認められるべきである。そして,競業避止義務を定める特約が合意されたのが,もともと当事者間の契約なくして実定法上労働契約終了後の競業避止義務を肯定しうる場合についてであり,競業禁止期間,禁止される競業行為の範囲,場所につき約定し,競業避止義務の内容を具体化したという意味を有するときには,当該特約は,競業行為の禁止の内容が不当なものでない限り,原則として有効である。

イ 上記基準から以下の諸事情をみると,本件は,当事者間の契約なくして実定法上労働契約終了後の競業避止義務を肯定しうる場合であり,競業避止義務を定めた平成12年1月5日付け合意及び平成13年8月30日付け合意は,いずれも有効である。

(ア) 原告は,b社及びc製薬の各プロジェクトにおけるモニタリング業務(治験の依頼,契約,治験薬搬入,治験実施中の治験の質の確保のためのモニタリング,原資料の直接閲覧,終了業務,治験薬の回収)を担当した。原告は,それぞれのプロジェクトに関し,治験薬概要書,治験実施計画書,症例報告書等の各製薬会社が提供した資料を検討し,また,b社のプロジェクトでは治験実施機関である鹿児島大学医学部付属病院を合計84回,京都大学医学部付属病院を合計96回,九州大学医学部付属病院を合計69回訪問して医師らに治験薬の薬理作用等について説明し,質問にも応答するなど,当該治験薬の概要,安全性試験,臨床試験の内容のすべてを把握しうる立場にあり,また把握していなければその業務は遂行し得ないものであった。実際に,原告は,メーカーが80億円から100億円を要する莫大な費用と期間をかけて開発してきたすべてのノウハウを習得できる立場にあった。

なお,各治験薬に関する特許権の内容は公開されているが,当該治験薬の開発の経緯に関する知識やノウハウ及び人に対する治験の結果は公開されていない。

(イ) 各プロジェクトの治験依頼者は,被告会社に対して厳しい秘密保持契約を締結させており,万一,被告会社の従業員が秘密を漏えいした場合,被告会社は多額の損害賠償責任を負担せざるを得ない立場にある。CROとしては,製薬会社の信頼を得るために従業員に秘密保持義務を遵守させる方法を制度として確立していることが重要であって,そのために,被告会社は,従業員に対して競業避止義務契約の締結と履行を求めているのである。

(ウ) 原告は各プロジェクトにおいてモニタリング業務を担当したことにより,治験の実施方法に関する被告会社のノウハウを知り,被告会社が治験を実施した医療機関を知るに至った。原告が,これら医療機関に接触し,在職中に知り得た秘密を公開し,当該医療機関との信頼関係を毀損するおそれもある。

(エ) 被告会社は,原告に対し,本件の競業避止義務等に対する代償措置として,給与支給期間中,月額4000円の秘密保持手当を支給した。

(オ) 制限する業務の範囲については,治験業務の特殊性からすればY科学グループと競業関係にある会社への就職を制限することには合理性がある。なお,契約上制限しているのは,Y科学グループと競業するCROへの就職だけであることは,契約の文言上明らかである。原告は,薬剤師の資格を有する者として世間並みの条件による就職はできるのであるから,生活の糧を奪うことにはならない。

(カ) 場所的範囲については,確かに全国的範囲で競業避止義務を課しているが,被告会社グループの同業他社は,同業者団体であるCRO加盟の正会員14社及び準会員5社しかなく,被告会社の本社所在地からも国内での場所を限定することは無意味である。

(キ) 本件の競業避止義務の期間は,1年間にすぎない。

(3)  原告がa社に就職したことにより,被告会社に損害が発生したか。

第3争点に対する判断

1  争点(1)について

被告会社は,原告に対していまだ損害賠償請求をしておらず,請求する具体的な予定もないから,本件訴えに確認の利益はない旨主張している。

しかし,被告会社が,原告に対し,原告のa社における就労が競業避止義務違反に当たるとして競業行為の中止を求めたことは,前記第2の1(5)のとおりであるし,本件訴訟において,被告会社は,請求棄却の判決を求めるとともに,将来,本件訴訟の対象となっている損害賠償義務の存在を前提として原告にその履行を求める可能性があることを示唆しているのであって(変更後の請求に対する被告会社の平成14年9月10日付け答弁書),これらの事実からすると,本件訴えには確認の利益があるというべきである。

2  争点(2)について

(1)  事実関係

前記争いのない事実,証拠(<証拠省略>)及び弁論の全趣旨によると,次の事実が認められる。

ア 原告の職歴

(ア) 原告は,大学卒業後の昭和59年4月に製薬会社であるe製薬株式会社に就職し,同年5月に薬剤師の資格を取得した。原告は,就職の当初には,大学病院等において医薬品を販売する際の医薬品の効用等を説明する業務を行い,その後,平成9年7月に退職するまでの約10年間は,被告会社における業務と同様の臨床開発業務に従事し,治験のモニター業務を行った。

(イ) 原告は,e製薬株式会社を退職後,同じく製薬会社であるf株式会社に平成12年1月まで勤務し,業務部製品企画担当の課長代理として,新薬の製造承認前からのプロダクトプラン及びマーケットプランの作成を行った。

イ 原告は,被告会社に就職するに際し,平成12年1月5日,被告会社を含むY科学グループとの間で,以下の内容を骨子とする秘密保持契約を締結した。

(ア) 原告は,この契約締結の事実,この契約の内容,Y科学グループから取得した情報・技術資料・処方・知識などに類する一切の事実について,在職中及び退職後,これを秘密にし,Y科学グループの承諾なしに開示しない。

(イ) 原告が在職中に得る可能性のあるすべての機密情報は,Y科学グループの文書による承諾なく公にしない。また,原告は,Y科学グループの許可がない場合,その利益となる場合を除き,在職中又は退職後,他のいかなる人,会社,法人団体にもその情報の入手を容易にする状態にせず,かつ,在職中,無断でこれを使用しない。

なお,機密情報とは,Y科学グループから原告に明かされた情報や原告が仕事に従事した結果として又はそのことを通して知り得た情報のことであり,原告がY科学グループにおいて独自に作り上げ又は見つけた情報や検索情報,開発情報,発明(特許の有無にかかわらない。)・発見・概念・アイデア・購入物・市場で売買される物・販売品に関する情報を含む。また,Y科学グループ(又はその関係団体・関連会社)の生産物・化合物・その方式・その過程・職業上の秘密や雇用について関連のある商売・産業についてあまり知られていない情報を含む。

(ウ) 従業員により作成・収集され,又はY科学グループの業務に関して在職中に生じたすべてのメモ・ノート・記録その他の書類及びそのコピーは,理由の如何を問わず,退職時にY科学グループに引き渡す。また,退職日以降であっても,Y科学グループからの要求があれば,いつでもこれを引き渡す。

(エ) 原告は,Y科学グループから依頼された職務を実施するに当たり,補助者がいる場合,その補助者に前記(ウ)の趣旨を十分周知徹底させるとともに,当該業務を履行させることとし,その不履行についてはY科学グループに対して一切の責任を負う。

(オ) 原告は,すべての資料につき,Y科学グループの許可なく複写及び複製をしない。

(カ) 原告は,Y科学グループにより知り得た情報によって同一開発成果物等を作製しない。

(キ) 原告が,この契約に違反してY科学グループに損害を与えた場合,Y科学グループは,原告に対し,就業規則の懲戒規定を適用し,また,その損害賠償を請求することができる。

(ク) この契約は永久に存続するものとする。

ウ b社のプロジェクト及び同プロジェクトにおける原告の職務内容

(ア) b社のプロジェクトにおける治験薬であるDA-9501については,平成9年5月1日に特許が国際公開されており,その特許公報には,化学的組成,対象疾病や効果等が記載されている。被告会社が同プロジェクトにおいてb株式会社から依頼を受けた治験は,健康な成人を対象として行われる第Ⅰ相試験で推定した至適用量範囲での調節投与が日本人の集中治療室収容患者に有効かつ安全であるかどうかを検討し,外国における第Ⅱ相及び第Ⅲ相臨床データ(いずれも患者を対象として行われる試験)の日本人への外挿性を検討するためのものであった。

治験実施計画書の立案及び治験実施機関の選定は,b株式会社の担当者がした。

(イ) b社のプロジェクトは,新GCPにのっとって行われた。新GCPは,厚生省薬務局長通知として平成2年に施行された医薬品の臨床試験の実施の基準(以下「旧GCP」という。)の内容が改められて,平成9年に薬事法に基づき厚生省令として定められたものであり,原告が被告会社に就労していた期間中,治験の手続は,法令上,新GCPに従って行わなければならず,新GCPに定められていない手続について治験実施機関である各病院によってやり方が異なる部分はあったが,CROによって手続が異なることはなかった。

(ウ) b社のプロジェクトにおいては,第Ⅱ相臨床試験は,投与された薬が治験薬であるかどうか分からないようにする二重盲検比較試験の方法が採用され,薬を投与する医師,投与される患者だけでなく,モニターも投与された薬が治験薬であるかどうか分からなかった。

(エ) 原告は,平成12年3月ころ,b社のプロジェクトにおいて,第Ⅱ相臨床試験のモニタリング業務を担当することとなった。原告のほかにモニターとなった者は9名おり,原告は,治験実施機関となった医療機関のうち,鹿児島大学医学部付属病院,京都大学医学部付属病院及び九州大学医学部付属病院を担当し,鹿児島大学医学部付属病院を合計84回,京都大学医学部付属病院を合計96回,九州大学医学部付属病院を合計69回訪問した。

原告は,新GCPに従った治験手続に関与するのは初めてであり,B副部長から指示命令を受け,担当する病院の治験担当医師に対して治験実施の推進を依頼し,治験担当医師が治験実施計画書に記載された手順のとおりに治験を実施しているかどうかを確認し,治験担当医師が実施した治験の内容を症例報告書に記載することを依頼し,その記載方法を説明し,治験薬を搬入回収するなどの業務を行った。

原告が担当した病院において,治験説明会が実施され,原告も参加したが,治験担当医師らに対する治験薬概要書の説明及び治験実施計画書の説明は主としてb株式会社の担当者又はB副部長が行い,原告は主として医療機関での薬の出し方等治験実施の手順についての説明を行ったが,治験薬の内容について説明を行ったこともあった。

(オ) 原告は,b社のプロジェクトのモニタリング業務を担当することとなった際,同プロジェクトの治験薬概要書,治験実施計画書,症例報告書,同意説明書及び合意SOP(標準業務手順書)を受領した。同プロジェクトの治験薬概要書は,100ページ前後の記載があり,開発の経緯,物理的・化学的及び薬剤学的性質並びに製剤組成,毒性に関する試験,薬理作用,動物及びヒトにおける吸収・分布・代謝・排泄,臨床試験,データの要約及び治験責任医師に対するガイダンスが記載されていた。同プロジェクトの治験実施計画書には,治験実施体制,治験実施計画の内容が記載されていた。原告は,被告会社を退職した際,上記の治験薬概要書等の文書を被告会社にすべて返却した。

(カ) 治験の結果については,各医療機関の症例が集約,分析されて,治験成績報告会等で発表されるのが通常であるところ,b社のプロジェクトでは,集約されたデータを分析したのは被告会社の統計解析部門の担当者であり,平成13年8月ないし9月ころの治験成績に関する報告会が開催されるまでは,個々の患者に対して投与された薬が治験薬であったかどうかを含め治験の結果を知る立場にあったのは,被告会社においてはB副部長と統計解析部門の担当者だけであった。原告は,同報告会に参加せず,配布された資料も受領しなかった。

エ c製薬のプロジェクト及び同プロジェクトにおける原告の職務内容

(ア) c製薬のプロジェクトの治験薬であるMR3HSは,平成12年5月23日に特許権が公開され,化学的組成,対象疾病等が記載されている。

(イ) 原告は,c製薬のプロジェクトにおいては,治験が開始される前に公表文献の調査を行い,治験実施が予定されていた医療機関を訪問して当該医療機関独自の治験申請書等の書類の記入をしてもらっただけで,モニタリング業務は担当しなかった。

(ウ) 原告は,c製薬のプロジェクトに関し,治験薬概要書や治験実施計画書等の書類を受領しなかった。

オ 原告のその他の職務内容

原告は,b社及びc製薬の各プロジェクトのほか,もう1件の治験のプロジェクトにモニターとして参加し,治験実施機関である病院を訪問したが,具体的な職務内容はb社のプロジェクトにおいて担当した職務とほぼ同じものであった。

カ 原告の退職及びa社への転職

(ア) 原告は,平成13年8月ころ,a社への就職を決め,同年9月2日に被告会社を退職した。

(イ) 原告がa社に転職したことにより,被告会社に不都合ないし具体的な損害は発生していない。

(2)  判断

ア 従業員の退職後の競業避止義務を定める特約は従業員の再就職を妨げその生計の手段を制限してその生活を困難にするおそれがあるとともに,職業選択の自由に制約を課すものであるところ,一般に労働者はその立場上使用者の要求を受け入れてこのような特約を締結せざるを得ない状況にあることにかんがみると,このような特約は,これによって守られるべき使用者の利益,これによって生じる従業員の不利益の内容及び程度並びに代償措置の有無及びその内容等を総合考慮し,その制限が必要かつ合理的な範囲を超える場合には,公序良俗に反し無効であると解するのが相当である。

イ 本件において,被告会社は,退職後の競業避止義務を定める特約の目的は,従業員に秘密保持義務を遵守させる方法を制度として確立することによって製薬会社の信頼を得ること,治験薬に関する秘密及びノウハウや治験の実施方法に関するノウハウを保護すること並びに従業員が治験を実施した医療機関に接触し,在職中に知り得た秘密を公開して当該医療機関との信頼関係を毀損することを防ぐことにある旨主張している。

しかし,治験薬に関する秘密及びノウハウについて,原告がモニターとして関与したb社のプロジェクトにおいては,前記(1)ウ(ア)のとおり,その治験薬の特許が国際公開され,化学的組成,対象疾病や効果等が記載された特許公報が出されており,c製薬のプロジェクトについては,原告が治験薬や治験手続の内容を知りうる立場にあったことの立証はない。

また,治験の実施方法に関するノウハウについては,前記(1)ウ(イ)のとおり,原告が被告会社において就労していた期間中,治験の手続は,法令上,新GCPに従って行わなければならず,新GCPに定められていない手続について治験実施機関である各病院によってやり方が異なる部分はあったが,CROによって手続が異なるということはなかったのであり,証拠上,被告会社独自のノウハウといえるほどのものがあったとは認められない。

仮に被告会社に治験薬に関する秘密やノウハウがあったとしても,証拠(原告本人)によると,CROは同時又は前後して複数の製薬会社から多様な薬剤に関する治験の業務を委託されていることが認められるところ,このような受託の態様が実現しているのは,各製薬会社の企業秘密がCRO及びその従業員等の秘密保持義務によって保護されており,治験薬に関する情報が競合する他の製薬会社に漏えいされるようなことは通常起こらないことによるものと考えられる。そうだとすると,あるCROの従業員が競合するCROに転職した後であっても,当該従業員が秘密保持義務を負担する限り,他の製薬会社に情報を漏えいする危険性が高いとはいえず,このような競合するCROへ転職を制限する必要性も大きいとはいえない。

また,原告は,平成12年1月に被告会社に就職したばかりで,前記(1)ウ(エ)のとおり新GCPに従った治験手続に参加した経験が従前なかったこと,前記(1)ウ(エ),(カ)のとおり,b社のプロジェクトでは10名いたモニターの一人にすぎず,治験結果に関する情報も得ておらず,c製薬のプロジェクトでは前記(1)エ(イ)のとおり,治験が開始される前に公表文献の調査を行い,治験実施が予定されていた医療機関を訪問して当該医療機関独自の治験申請書等の書類の記入をしてもらっただけで,モニタリング業務は担当しなかったし,前記(1)オのとおり,その他のプロジェクトにおいてもb社のプロジェクトにおけるのと同様の職務を担当しただけであったのであって,それぞれの治験薬ないし治験手続についてのすべての知識やノウハウを得ることができる地位にあったとはいえず,被告会社が主張するような秘密保持義務と競業避止義務とを課すことにより担保する必要性は低いというべきである。

ウ 一方,被用者である原告が競業避止義務を課されることによる不利益については,前記第2の1(2)及び前記(1)アのとおり,原告が大学卒業以降被告会社を退職するまでの約17年5か月間の職業生活のうち12年近くの期間にわたって新薬の臨床開発業務に従事し,治験のモニター業務を行ってきたことに照らすと,仮に競業避止義務の内容が被告会社が主張するように被告会社の同業他社であるCROへの転職を制限するだけのものであると解したとしても,原告の再就職を著しく妨げるものといわざるを得ない。

エ 以上のように,原告の受ける不利益が競業避止義務によって守ろうとする被告会社の利益よりも極めて大きいこと,給与支給期間中月額4000円の秘密保持手当が支払われていただけで退職金その他の代償措置は何らとられていないことにかんがみると,原告が被告会社を退職する際にした平成13年8月30日付け合意は,競業避止義務の期間が1年間にとどまることを考慮しても,その制限が必要かつ合理的な範囲を超えるものであって,公序良俗に反し無効であるといわなければならない。

また,本件において,被告会社における採用時点での原告の将来の配置転換の予定などについては主張立証が全くないし,被告会社は,原告の薬剤師としての資格及びこれまでの経歴から,原告にモニタリング業務を担当させた旨主張していること(被告会社の平成14年1月25日付け準備書面の2(1))に照らすと,被告会社は,将来的にも,原告にモニタリング業務を担当させることを予定していたものと推認されるところ,先に説示したとおり,モニタリング業務について退職後の競業避止義務を定める必要性は大きいとはいえないから,原告が被告会社に就職する際にした平成12年1月5日付け合意も,その必要性には疑問があるのであって,公序良俗に反するとまでいえないとしても,少なくとも原告のように競業避止義務を負うべき就労の実体がないまま退職に至ったような場合を想定したものではないといわなければならない。そうすると,同日付け合意は,このような場合には適用されないと解すべきであるから,原告がこれに従う義務はないというべきである。

(3)  まとめ

以上のとおり,本件の競業避止義務を定めた平成12年1月5日付け合意及び平成13年8月30日付け合意は,いずれも原告に競業避止義務を負わせるものではないから,原告がこれらの合意違反による債務不履行に基づく損害賠償義務を負う理由はない。

第4結論

以上の次第で,原告の本件請求は理由がある。

(裁判長裁判官 小佐田潔 裁判官 大島道代 裁判官 朝倉亮子)

(別紙) 債務目録

原告が,平成13年9月3日から平成14年9月2日までの間,a株式会社に雇用され就労したことが,被告退職後1年間以内に被告及び下記会社又は団体と競業関係にある会社に就職してはならず,これに違反した場合には損害賠償義務を負う旨の原告と被告との間の合意(平成12年1月5日付け競業避止義務契約書2条,3条及び同日付け誓約書7項本文又は平成13年8月30日付け業務及び競業避止義務に関する合意書2項,4項による合意)に違反する債務不履行であるとして,これにより,原告が被告に対して負担する損害賠償債務

株式会社Y科学安全性研究所

株式会社Y科学薬物代謝分析センター

株式会社Y科学臨床開発事業本部

株式会社Y科学臨床薬理研究所

株式会社g研究所

医療機関dクリニック

h研究所

i研究所

有限会社Y産業

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例