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大阪地方裁判所 平成13年(ワ)9868号 判決 2002年9月09日

主文

1  被告は、原告に対し、330万円及びこれに対する平成13年4月25日から支払済みまで年6分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  この判決は、仮に執行することができる。

事実及び理由

第1請求

主文と同じ。

第2事案の概要

本件は、被告に対して普通預金債権を有していた原告が、窃取された預金通帳を所持した第三者に対する被告の預金払戻しは無効であるとして、普通預金330万円の支払を求める事件である。

1  前提事実(争いのない事実及び証拠により容易に認められる事実)

(1)  原告は、被告新大阪駅前支店に総合口座を開設しており(以下「本件口座」という。)、平成13年3月27日現在、同口座の普通預金の残高は330万円余であった。

(2)  平成13年3月27日、被告江坂支店において、本件口座の預金通帳を所持する者が、預金通帳、払戻請求書(乙3)及び振込依頼書(乙4)を提出して、本件口座の普通預金330万円について払戻し及び他行(第一勧業銀行江坂支店)の原告名義口座への振込送金を求めた(以下、この預金払戻請求を「本件払戻請求」という。)。

同支店は、預金通帳に押捺されている届出印の印影(以下「届出印影」という。)と払戻請求書に押捺された印影(以下「本件印影」という。)とを照合し、両印影が同一の印章によるものであり、本件払戻請求は預金通帳及び届出印を所持する正当な権利者による払戻請求であると判断して、330万円の払戻し及び他行口座への振込送金を行った(以下、この払戻しを「本件払戻し」という。)。

(3)  原告は、平成13年3月28日、本件口座の預金通帳が窃取されていることに気付き、警察に被害届を提出した(甲5)。

(4)  原告は、平成13年4月24日、被告に対し、本件口座の普通預金330万円の払戻しを請求したが、被告は払戻しを拒絶した。

2  争点

本件の争点は、本件払戻しが債権の準占有者に対する弁済(民法478条)として有効か否かである。

(1)  原告の主張

本件払戻請求は、本件口座の預金通帳を窃取した何者かが、偽造印鑑を押捺した払戻請求書により払戻しを求めたものであり、被告には、本件印影が届出印によるものでないことを看過した点において過失があるから、本件払戻しは無効である。

ア 届出印影と本件印影とを比較すると、両者の間には、次のとおり複数の顕著な相違点がある。

(ア) 「裕」の第8画と第10画(「口」の左上角部分)が、届出印影でははっきりと離れているのに対し、本件印影では明らかにつながっている。

(イ) 「裕」の第9画と第11画(「口」の右上角部分)も、届出印影でははっきりと離れているのに対し、本件印影では明らかにつながっている。

(ウ) 「手」の第1画と第2画(横棒)が、届出印影では明確に離れているのに対し、本件印影では枝分かれするような形でくっついている。

(エ) 「典」の最終画が、届出印影ではなめらかな曲線であるのに対し、本件印影では角張っている。

(オ) 「井」の左縦棒の上端が、届出印影では同じ太さでカーブするだけであるのに対し、本件印影ではとげのように上方へ割れている。

イ 上記の相違点は、印章の使い込みによる変化、朱肉の種類や付き方、押印の仕方、紙質の差、ほこりや汚れの付着といった事情で説明できるものではなく、印章の同一性を否定するものであり、このような相違点を見逃した点において、被告の過失は明らかである。

ウ 本件のように従来取引のなかった江坂支店で預金残高のほぼ全額の払戻しを請求するという事態は異常であり、被告としては、一層注意して印影の照合を行うべきである。

エ 被告は、平成13年5月に通帳副印鑑制度(通帳の見返し面に届出印の印影の写しを貼り付ける制度)を廃止しており、副印鑑制度が届出印の偽造のために悪用される危険性を十分認識していたにも関わらず、廃止直前である同年3月に本件払戻しが行われており、被告の過失の判断においては、この点も考慮されるべきである。

(2)  被告の主張

被告は、本件払戻請求につき、いわゆる平面照合により印影の照合を行っており、印影照合担当者に要求される業務上相当の注意をもって照合を行い、その結果、本件印影と届出印影が同一であると判断して本件払戻を行ったものであり、被告に過失はなく、本件払戻しは債権の準占有者に対する弁済として有効である。

届出印影と本件印影とを比較対照すると、印影の形、大きさ、字の大きさ、字体、文字全体の印象のどれもが同一である。原告主張の両印影の相違点は、仮にそのような傾向があるとしても、朱肉の種類や付着の仕方、押捺の際の押す力、紙質などの相違によると考えられる程度のものであり、印象の同一性を疑わせるほどの相違ではない。

副印鑑制度の廃止と窓口における印影の照合の程度とは直接関係がない。

第3判断

1  預金払戻請求の際の印影照合における注意義務について

預金の払戻請求を受けた銀行の担当者は、預金通帳に添付されている届出印の印影(いわゆる副印鑑)と払戻請求書に押捺された印影とを照合するに当たっては、払戻請求者が正当な受領権限を有しないことを疑わせる特段の事情のない限り、折り重ねによる照合や拡大鏡等による照合をするまでの義務はなく、肉眼による平面照合の方法によって両印影を比較照合すれば足りると解される。そして、平面照合を行う場合には、印影照合事務の担当者に一般に期待される業務上の相当の注意をもって照合を行うことを要し、そのような事務に習熟している銀行員が相当の注意を払って照合するならば肉眼によって印影の相違を発見し得るにもかかわらず、そのような印影の相違を看過して払戻請求に応じたときは、銀行には過失があり、当該払戻しは債権の準占有者に対する弁済の効力を有しないと解するのが相当である。

2  本件払戻しにおける印影の照合について

(1)  前提事実及び証拠(乙3~6、証人A)によれば、次の事実が認められる。

ア 被告においては、印影の照合は、原則として平面照合の方法によって行っており、同一性が疑われる場合には、折り重ね照合の方法を用いたり、他の担当者が重ねて照合を行ったりする方法が採られている。平面照合を行うに当たっては、<1>形、<2>全体の大きさ、<3>文字の部分と輪郭部分との接点、<4>文字の全体の印象の4点を基準として同一性を判断するよう研修等において指導されている。

イ 本件払戻請求に係る印影の照合は、被告江坂支店のAが担当した。Aは、当時、入行後約3年を経過し、このうち約2年6か月は窓口業務を担当し、印影照合について十分な経験を有しており、過去に印影の相違を発見したこともあった。

ウ Aは、平面照合の方法により届出印影と本件印影との照合を行い、前記の4点につき両印影に相違はなく、払戻請求者の態度にも不審な点はなかったことから、両印影は同一の印章、すなわち届出印によるものであり、通帳及び届出印を所持した正当な権利者による払戻請求であると判断し、本件払戻し及び指定口座への振込送金の手続を行った。

なお、Aは、当日、約100人の顧客の窓口業務を処理した。

エ 本件払戻請求当時、被告においては、口座開設店以外の店で払戻請求があった場合の取り扱いとして、5つの点検項目、すなわち、<1>過去、自店で窓口での払出実績があること、<2>当日初めての出金取引であること、<3>当日直前に入金の取引がないこと、<4>通帳備考欄の店番の約半数以上が自店であること、<5>午前10時以降の申出であること、の5項目をチェックし、該当しない項目のある場合にはより慎重な対応をとることを内部規定として定めていたが、これは、現金払いの場合に適用すべきものとされており、本件のような他口座への振込送金の場合は対象とされていなかった。このため、本件払戻請求については、上記取り扱いに従った点検は行われなかった。

(2)  本件通帳の届出印影自体は証拠として提出されていないが、総合口座印鑑届(乙1)の印影は届出印影と同一のものと認められるので、これを基準として、届出印影と本件印影とを比較対照することとする(なお、乙1の印影は、原告が現に所持する届出印により押捺したと認められる印影(甲1)と同一であると認められる。)。

ア 両印影は、大きさ、形状がほぼ同一であり、「甲」「乙」「丙」「丁」の4文字の配列や各文字の字体も一見したところ非常に良く似ている。

イ しかし、各文字を注意深く比較照合すると、両印影の間には、次の各点において相違が認められる。

(ア) 「裕」の第8画と第10画(「口」の左上角部分)が、届出印影では離れているのに対し、本件印影では接している。

(イ) 「裕」の第9画と第11画(「口」の右上角部分)が、届出印影では離れているのに対し、本件印影では接してつながっている。

(ウ) 「手」の第1画の水平部分と第2画(横棒)が、届出印影では明確に離れているのに対し、本件印影では枝分かれするような形で接している。

(エ) 「典」の最終画が、届出印影ではなめらかな曲線であるのに対し、本件印影では角張って直線的であり、折れ線のように見える。

(オ) 「井」の左縦棒の上端が、届出印影では同じ太さでなめらかな曲線を描いているのに対し、本件印影では右上角が角張り、太さも太くなっている。

ウ 上記の相違点のうち、(エ)は、朱肉の付き具合、ほこりの付着などの押捺時の条件の違いや印章の使い込みによる変形によって起こり得る相違とは考え難く、印章の同一性を疑わせるものというべきである。また、(ア)~(ウ)及び(オ)の各相違点は、個々に見れば、ほこりの付着や朱肉の付き方、にじみなどの押捺時の条件の違いによって生じたとも考え得る程度の相違ではあるが、相違点が複数に及ぶ上、(エ)のような明らかな相違点の存在することからすれば、印章の同一性に疑いを生じさせるものというべきであり、払戻請求者に再度の印章の押捺を求めて照合を行えば、押捺時の条件の違いによるものではなく、印章自体の相違によるものであることを発見し得たと考えられる。

以上のような相違点の存在からすると、両印影は同一の印章により顕出されたものではなく、本件印影は偽造印鑑によるものであると認められる。

エ 預金通帳及び届出印を所持して預金の払戻しを請求する者は、特段の事情のない限り、預金者本人又は預金者から預金の受領権限を付与された者と考えられるところ、印影照合事務は、払戻請求者が届出印を所持する事実を確認するために行われるものである。払戻請求を受けた銀行は、正当な権利者に対して払戻義務を負うのは当然であるが、一方、正当な権利者でない者の払戻請求に応じることは、預金者に対する預金の保管義務の履行を怠るものであり、それ故、印影照合に当たっては、相当な注意をもって照合を行うことが要求されるのである。そして、近年、通帳の副印鑑を利用した偽造印鑑による預金の不正出金事件が相次いでおり、このような状況の下で被告においても平成13年5月に副印鑑制度を廃止するに至っていること(同事実は、甲3により認められる。)に照らせば、印影照合担当者には、副印鑑を利用した偽造印鑑による払戻請求が行われる可能性をも考慮して、払戻請求書の印影と通帳の印影(副印鑑)との照合に当たり、印影の大きさ、形、文字の配列や全体的な印章にとどまらず、各文字について慎重に比較照合を行うことが求められるものというべきである。

以上の見地に立って検討すると、両印影の上記の相違点は、印影照合事務に習熟した銀行担当者が相当の注意を払って照合するならば肉眼によって発見し得たものであり、かつ、上記相違点を発見したならば、重ね合わせ照合や他の担当者による再度の照合、あるいは、払戻請求者に再度の押捺を求めた上での照合など一層慎重な照合を行うことにより、上記相違点が押捺時の条件の違いや印章の使い込みによる変形に基づくものではなく、印章の違いによって生じたものであることを確認し得たと考えられる。したがって、本件払戻請求の際の印影照合を行った担当者には、上記の相違点に気付かず、より慎重な照合を行うこともなく印影の同一性を認めた点において過失があるというべきであり、本件払戻しは債権の準占有者に対する弁済として有効とはいえない。

3  以上によれば、原告の請求は理由があるから、主文のとおり判決する。

(裁判官 山下郁夫)

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