大阪地方裁判所 平成14年(ワ)13367号 判決 2003年7月18日
大阪府●●●
原告
●●●
訴訟代理人弁護士
岡本英子
●●●
被告
大阪府住宅供給公社
代表者理事長
●●●
訴訟代理人弁護士
●●●
同
●●●
主文
1 原告の請求を棄却する。
2 訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第1請求
被告は,原告に対し,34万2378円及びこれに対する平成14年10月30日から支払済みまで年6分の割合による金員を支払え。
第2事案の概要
本件は,被告から特定優良賃貸住宅の供給の促進に関する法律(以下「特優賃貸法」という。)に基づく特定優良賃貸住宅(以下「特優賃貸住宅」という。)を賃借していた原告が,建物賃貸借契約を解約して,建物を明け渡したとして,当該建物賃貸借契約に付随する敷金契約に基づき,被告に対して(未返還)敷金の返還及びこれに対する本件の訴状送達日の翌日(平成14年10月30日)から支払済みまで商事法定利率年6分の割合による遅延損害金の支払を求めた事案である。
1 前提事実(争いのない事実を除き,認定に用いた証拠は括弧内に示す。)
(1) 平成8年1月1日,原告は,被告との間で,別紙物件目録記載の建物(以下「本件建物」という。)について,以下のような約定で賃貸借契約(以下「本件賃貸借契約」という。)を締結し(甲1号証),被告は,本件賃貸借契約に基づき,原告に対して本件建物を引き渡した。なお,本件建物は,特優賃貸法に基づき,大阪府知事の認定を受けた供給計画に従い供給される特優賃貸住宅である。
契約期間 平成8年1月1日から1年間。ただし,契約期間が満了する6ヵ月前までに賃貸人,賃借人のいずれからも別段の申出がないときは,本件賃貸借契約は,同一の条件をもってさらに1年間更新されたものとし,以後この例による。
賃料 月額14万7500円
共益費 月額8000円
支払方法 賃料及び共益費は当月分を当月28日までに支払う。
賃借人からの解約 賃借人が本件賃貸借契約を解除して退去しようとするときは,遅くとも15日前までに,賃貸人の定める住宅退去届を賃貸人に提出する。
(2) 本件賃貸借契約の締結にあたり,原告は被告に対して敷金として44万2500円を預け入れた。
(3) 原告は,被告に対し,1ヵ月以上前に本件賃貸借契約の解約を予告した上,平成14年8月2日に本件建物を被告に明け渡した。原告に本件建物の賃料の不払はなかった。
(4) 平成14年8月9日に被告担当者は,原告の立会いの下で,本件建物の原告負担となる補修箇所を査定し,退去跡補修査定結果報告書を原告に交付した(甲2号証,3号証,11号証)。
(5) 被告は,敷金44万2500円から補修費として34万2378円を控除した残額10万0122円を原告に返還した。また,被告は,原告に対し,補修箇所,補修方法,価格等の内訳を示した工事発注書兼工事完了報告書を交付している(甲4号証)。
2 争点及び当事者の主張
(1) 別紙「退去跡補修費等負担基準」(以下「本件負担区分」という。)に基づく修繕費負担特約の成否
(原告の主張)
ア 賃貸人の目的物を使用収益させる債務と賃借人の賃料支払債務が対価関係に立つという賃貸借契約の性質に照らせば,賃貸物件の通常の使用に伴い生じた損耗は賃料によってまかなわれるのが民法上の原則である。
したがって,賃貸人が,このような原則とは異なって,賃借人に通常の使用に伴い生じた損耗の修繕費用を負担させるには,賃借人においてそのような義務の具体的内容を認識した上で,それを負担する旨の意思表示をしたことが必要である。
イ 本件において,原告は,本件賃貸借契約締結時に,被告から本件負担区分を交付されたが,その「基準になる状況」欄を見ても,「破損」,「汚損」等と記載されているだけで,通常の使用に伴い生じた損耗を含むか否か不明確である。しかも,原告は,被告から,通常損耗を含む本件建物の一切の修繕費用を原告が実費で負担するという具体的内容についての説明を受けていない。
このような事情のもとでは,通常の使用に伴う損耗を超えた汚損,破損等が生じた場合に初めて費用負担が発生するとの認識が入居者一般の合理的意思であり,原告もそのような認識を持っていた。
したがって,原告には,本件賃貸借契約において通常損耗に関する費用を負担するとの認識が無く,これを負担するという意思表示をしていないから,(通常損耗についても負担させる)本件負担区分に基づく修繕費負担特約は成立していないというべきである。
(被告の主張)
ア 本件賃貸借契約においては,賃借人が,本件建物を明け渡すときは,本件建物の内外に存する賃借人又は同居者の所有するすべての物件を撤去してこれを原状に復するものとし,本件負担区分に基づき補修費を賃貸人の指示により負担しなければならないと規定されている。そして,本件負担区分が本件賃貸借契約に添付される形で原告に交付されている以上,これが本件賃貸借契約の内容となっていることは明らかである。
イ 本件負担区分においては,通常損耗か否かという基準はそもそも採用していない。項目毎に基準になる状況如何によって賃貸人と賃借人の負担が明確に区分されている。
ウ 被告は,入居者に賃貸するにあたっては,必ず入居説明会を開催し,その場で「すまいのしおり」等の諸資料を配付すると共に,本件負担区分の内容についても説明を行っている。原告との関係でいえば,平成7年12月中旬に被告の会議室において入居説明会を開き,約1時間30分程かけて賃貸借契約の概要や入居にあたっての注意点等を説明している。そして,説明会の場で,直ちに署名押印を求めるのではなく,交付した賃貸借契約書等の必要書類を一旦自宅に持ち帰ってもらい,説明会から十分な日にちをあけ,原告の場合には,平成7年12月27日に正式に本件賃貸借契約の締結を行っている。したがって,原告が契約内容を理解しないまま本件賃貸借契約を締結するということはあり得ない。
エ 以上に述べたことからすれば,原告と被告との間では,本件負担区分に基づく修繕費負担特約が成立しているというべきである。
(2) 本件負担区分に基づく修繕費負担特約の効力
(原告の主張)
本件負担区分に基づく修繕費負担特約は以下の理由から無効であるというべきである。
ア 通常損耗の修繕費用を賃借人の負担とする特約が法令に違反すること
(ア) 特優賃貸法3条6号,同法施行規則(以下「特優賃貸規則」という。)13条は,賃貸住宅を賃貸する者は,毎月その月分の家賃を受領すること及び家賃の3ヵ月分を超えない額の敷金を受領することを除くほか,賃借人から権利金,謝金等の金品を受領し,その他賃借人の不当な負担となることを賃貸の条件としてはならないと定めている。
(イ) 上記法令の規定は,賃借人から賃貸人に支払われるべき対価としては,賃料のみを予定し,それ以外の財貨の移転を前提とする契約内容は,賃借人に対する不当な負担として,契約自由の原則を排して公的に規制したものである。したがって,民法上負担義務のない通常損耗の修繕費用を賃借人に負担させる特約は,特優賃貸法や特優賃貸規則に違反するものであるといえる。
(ウ) なお,被告は特優賃貸法3条及び特優賃貸規則13条が,土地所有者その他建物の建設等を行う者からの供給計画の申請に対する都道府県知事の認定の基準を定めたものにすぎないと主張している。
しかしながら,上記法令の規定は,単に供給計画に対する都道府県知事の認定基準を定めるにとどまらず,その後の管理の適正,すなわち,賃貸人,賃借人間における適正な賃貸借関係の確立,確保のための基準として両者の契約関係自体に影響を及ぼす規定であるというべきである。
イ 通常損耗の修繕費用を賃借人の負担とする特約が公序良俗に反すること
(ア) 特優賃貸法は,中堅所得者等の居住の用に供する居住環境が良好な賃貸住宅の供給を促進するための措置を講ずることにより,優良な賃貸住宅の供給の拡大を図り,国民生活の安定と福祉の増進に寄与することを目的とする。そして,特優賃貸法3条6号及び特優賃貸規則13条は,このような立法趣旨に則り,特優賃貸住宅の賃貸が適正に行われることを目的として設けられた規定であって,適正な賃貸借関係を確立するための基準として,賃貸人,賃借人間の契約関係を規律するものであるから,賃借人の保護を目的とする法令にあたる。
(イ) このような特優賃貸法の立法趣旨や目的,さらに,現代における国家による消費者保護の要請が社会的に相当大きなものとなっていることに照らせば,これらの法令に違反することが公序良俗違反の重要な判断要素とされるべきである。
(ウ) 被告は,国の住宅政策の一翼を担い,社会の模範となるべき住宅供給公社であるのに対し,原告は一個人であるから,そのような個人の保護の要請が高い一方で,通常損耗の修繕費用を賃借人の負担とする特約を無効とすることについては,取引の安全を考慮する必要はない。
(エ) 特優賃貸法上の家賃限度額の算定にあたっては,建物の償却費以外に維持管理費として建物の修繕費が家賃の構成要素となっている。したがって,本件建物の賃料には,通常損耗分の原状回復費用も予め含まれていることになるが,それにもかかわらず,退去時において更にこれを賃借人に負担させるのは修繕費用の二重取りである。
また,本件のような特約は,特優賃貸法における敷引きの禁止の潜脱である。
(オ) 以上のような点からすれば,本件の特約は,公序良俗に違反し,私法上も無効であるというべきである。
(被告の主張)
ア 本件負担区分に基づく修繕費負担特約は特優賃貸法や特優賃貸規則に違反するものではない
(ア) 原告は,修繕費用や退去時の原状回復費用のうち通常損耗を入居者に負担させること自体が特優賃貸法や特優賃貸規則が禁止する賃借人の不当な負担にあたると主張している。
しかし,敷金は,賃貸借契約を締結するにあたって,担保目的で交付される金銭であり,敷金によって担保される債権は家賃の支払,損害の賠償その他本契約から生じる一切の債務であるから,上記法令は,賃貸借契約から生じる債務であれば,賃料以外のものであっても賃借人に負担させることを認めているというべきである。原告主張のように本件負担区分に基づく修繕費負担特約が賃料以外の財貨の移転を前提とする契約内容であるからといって,当然に上記法令に違反するとはいえない。
(イ) 本件負担区分は,通常損耗か否かという基準で修繕費の負担区分を定めたものではなく,項目や基準になる状況の如何によって負担を区分したものであるが,その内容は,特に(賃貸人(土地所有者等)と賃借人の)どちらか一方に偏したものではなく,このような分担方式をとることが,賃借人に不当な負担を与えるものとはいえないというべきである。
イ 本件負担区分に基づく修繕費負担特約は公序良俗に違反しない
(ア) 近年,賃借人は,新築あるいは新築後間もない物件を好み,入居後も家族構成や収入に応じて比較的短期間のうちに他の住居へ移転する傾向が見られる。また,社会一般の傾向としても,他人が使用した物件等を敬遠するいわゆる清潔志向が高まっている。
このため,築後年数を経過した物件に関しては,通常の生活に伴う損耗や汚れについても賃借人が入れ替わる都度,相当の費用をかけてリフォームし,少なくとも次の入居者に不快感を抱かせない程度に生活上の汚れを落としたり,修繕するなどの必要に迫られている。
このような状況の下では,(リフォームや補修に要する)修繕費も決して小さなものではなく,賃借人が変わる都度,しかも比較的短期間に度重なって発生するこれらの修繕費まで賃貸人が負担しなければならないとすると,賃貸人にとって過度の負担となる。
他方,賃借人は,賃借期間中,建物を独占的に利用できる立場にあるのであり,かかる賃借人に,退去に際して,一度限り発生する修繕費を負担させても特段不合理とはいえない。
(イ) 特優賃貸法3条5号は,賃貸住宅の家賃の額が近傍同種の住宅の家賃の額(すなわち市場家賃)と均衡を失しないように定められるものであることを規定している。また,本件の物件は特優賃貸法12条に基づき建設費用の補助を受けているところ,このような場合には,同法上の家賃限度額の制限を受ける(特優賃貸法13条1項,特優賃貸規則20条)。
本件における特優賃貸法上の家賃限度額は1平方メートルあたり2841円(月額)である。他方,平成5年1月19日の財団法人日本不動産研究所の調査によれば,本件の物件にかかる比準賃料(すなわち市場家賃)は1平方メートルあたり2100円(月額)であり,一般賃貸市場において,家賃3ヵ月分の敷金を授受した場合の新規月額支払賃料は1平方メートルあたり2070円(月額)が相当であるとされている。被告は,賃料単価をこれらより低額の1平方メートルあたり1990円(月額)と設定し,本件建物については,その面積74.15平方メートルを乗じた月額14万7500円を賃料とすることとした。
なお,上記賃料に(本件で敷金から控除された)補修費全額(34万2378円)を上乗せしたとしても月額賃料は1平方メートルあたり2047円であり,前記特優賃貸法上の家賃限度額の範囲内である(計算式:{34万2378円/79ヵ月(原告の賃借期間)+14万7500円}/74.15平方メートル≒2047円(1平方メートルあたり))。
以上のように,本件賃貸借契約における家賃の額は法令の範囲内で設定されており,補修費が上乗せされている事実がないばかりか,仮に補修費を上乗せしても,特優賃貸法の制限の範囲内に収まる低廉な額である。したがって,修繕費の二重取りなど,暴利行為と評されるような事情はないというべきである。
(ウ) 本件で補修した箇所は,壁クロス,天井クロス,床シートや畳表,襖の張替が大部分で,かつ,破れているなどいずれも傷みが目立つところであり,賃借人の清潔志向に対応するために必要な修繕にとどまるものである。
また,補修箇所の認定には原告も立ち会って,双方が納得した上で補修箇所を決定している。
さらに,補修は外部の業者に委託して行っており,その物品費用については,被告がメーカー単価を参考に,人件費については財産法人建設物価調査会の建設物価に基づき決定しており,市場価格と比較して不当なものではない。
(エ) 特優賃貸法上の家賃限度額の算定にあたっては建物の維持管理費として修繕費が家賃の構成要素とされているが,家賃限度額はあくまでも上限額について定めたものである。本件建物の賃料も家賃限度額の範囲内で決定されたものであるが,近隣地域の市場家賃を比準賃料としており,この市場家賃においては修繕費がその構成要素とはされていない。つまり,本件建物の賃料には通常損耗分の原状回復費用は含まれておらず,被告が原告の退去時に修繕費用を実費精算しても修繕費の二重取りとはならない。
(オ) 以上のとおり,本件負担区分に基づく修繕費負担特約は,社会的妥当性の観点から見ても必要性及び合理性を有し,かつ,原告もその趣旨を理解して合意したものであるから,これが,公序良俗に反するとはいえないというべきである。
第3判断
1 本件負担区分に基づく修繕費負担特約の成否について
原告は,(通常損耗についても負担させる)本件負担区分に基づく修繕費負担特約の成立を否認している。
しかしながら,原告は,本件賃貸借契約の締結に先立ち,平成7年12月中旬頃,被告の開催した入居説明会に参加し,そこで,被告作成の「すまいのしおり」等の資料をもらって説明を受け,その後,同月27日に(平成8年1月1日付けの)本件賃貸借契約を締結しているものである(乙1号証,弁論の全趣旨)。この「すまいのしおり」には,補修費等の負担基準を説明した部分があり,そこでは,修繕用語の説明のほか,本件負担区分と同内容の表等が掲載されている(甲1号証,乙1号証)。また,本件賃貸借契約では,賃借人が,本件建物を明け渡すときは,本件建物の内外に存する賃借人又は同居者の所有するすべての物件を撤去してこれを原状に復するものとし,本件負担区分に基づき補修費を賃貸人の指示により負担しなければならないと規定され,「すまいのしおり」にあったものと同内容の修繕用語の説明や本件負担区分等が本件賃貸借契約の契約書に添付される形で原告に交付されている(甲1号証)。
そして,本件負担区分は,「項目」欄,「単位」欄,「基準になる状況」欄,「施工方法」欄及び「負担基準」欄からなり,例えば,「項目」が「金物(戸車・レール・引手・丁番・錠前・ラッチなど)」とされているものについては,「単位」は「個」,「基準になる状況」は「破損・紛失」の場合と「腐食・損耗」の場合とに分けられ,前者の「施工方法」は「取替」で「負担基準」は「退去者」とされ,後者の「施工方法」は「取替」で「負担基準」は「土地所有者等」とされている。また,「項目」が「襖紙・障子紙」とされているものについては,「単位」は「枚」,「基準になる状況」は「汚損(手垢の汚れ・たばこの煤けなど生活することによる変色を含む)・汚れ」,「施工方法」は「貼替」,「負担基準」は「退去者」とされている(甲1号証)。
修繕用語の説明では,例えば,「破損」については「こわれていたむこと。また,こわしていためること。」と,また,「汚損」については「よごれていること。または,よごして傷つけること。」などといった具合に説明されている(甲1号証)。
このように,本件負担区分は,通常損耗か否かとは別の観点から原状回復費用の負担方法が定められ,退去者(すなわち賃借人)の負担とされるものの中にはいわゆる通常損耗についての原状回復費用といえるものも含まれていることは表の記載からして明らかである。
これらの点を総合すると,本件において,原告と被告との間で,本件負担区分に基づく修繕費負担特約が成立しているというべきであり,当該特約全部が成立していなかったとか,通常損耗の現状回復費用の部分については原告に負担意思がなく,負担合意が成立していなかったなどということはできない。
2 本件負担区分に基づく修繕費負担特約の効力について
(1) 特定優良賃貸住宅制度について
ア 特優賃貸法は,我が国において,優良な賃貸住宅のストックが不足しているという現状認識のもと,民間の土地所有者等による賃貸住宅の供給について建設に要する費用の補助や家賃の減額に対する補助等の各種助成措置を講じる一方で,建設された住宅が公的賃貸住宅として適正かつ安定的に管理されるように所要の措置を講じ,中堅所得者層の居住の用に供する優良な賃貸住宅の供給を促進することを目的としているものである(特優賃貸法1条,なお甲5号証参照)。(なお,特優賃貸法では,住宅の供給方式として,民間の土地所有者等が建設及び管理を行うもの(ただし,賃貸住宅の管理は,地方公共団体,地方住宅供給公社,その他一定の要件を満たした民間法人等が行う。),地方住宅供給公社等が建設及び管理を行うもの,並びに,地方公共団体が建設及び管理を行うものが予定されている。)
イ 建設された住宅が公的賃貸住宅として適正かつ安定的に管理されるための措置として,特優賃貸住宅を建設及び管理しようとする者は,当該住宅の建設及び管理に関する計画(供給計画)を作成し,都道府県知事の認定を受けなければならないとされている(特優賃貸法3条)。供給計画の中に,賃貸住宅の家賃その他賃貸の条件に関する事項が記載されなければならないが(特優賃貸法2条2項6号),都道府県知事が供給計画を認定する基準として,賃料については近傍同種の住宅の家賃の額と均衡を失しないこととされ(特優賃貸法3条5号),また,賃貸人は,毎月の家賃及び家賃の3ヵ月分を超えない額の敷金を受領することを除き,賃借人から権利金,謝金等の金品を受領し,その他賃借人の不当な負担となることを賃貸の条件としてはならないととされている(特優賃貸法3条6号及び特優賃貸規則13条)。
ウ 建設省住宅局長が発出した平成5月7月30日付け「特定優良賃貸住宅の供給の促進に関する運用について」と題する通達(以下「運用通達」という。)では,賃貸人と入居者との間の賃貸借契約についてモデル契約案を示し,これに準拠した契約書を用いることを求めている(甲8号証)。また,特優賃貸法6条を受けて公表された平成5年7月27日付け「認定事業者が特定優良賃貸住宅の管理を行うに当たって配慮すべき事項」と題する建設省告示では,賃貸借契約書を適正に作成し,保管することと定められ(甲9号証),国土交通省住宅局住宅総合整備課監修の「特定優良賃貸住宅の管理(平成14年度版)」で,これは,運用通達に示されたモデル契約案による書式の契約書を作成することであるとの見解が示されている(甲7号証)。
そこで,運用通達で示されたモデル契約案をみると,同案の13条1項で「乙(注:借主のこと)は,本契約が終了する日までに(中略),本物件を明け渡さなければならない。この場合において,乙は,通常の使用に伴い生じた本物件の損耗を除き,本物件を原状回復しなければならない。」と規定されている(甲8号証)。
(2) 本件建物の賃料設定について
本件建物の賃料は,近傍同種の住宅の家賃の額と均衡を失しないように定められるなければならない(特優賃貸法3条5号)。また,本件建物(を含む物件)は特優賃貸法12条に基づき建設費用の補助を受けている(乙2号証,弁論の全趣旨)ので,当該物件の賃料については,その建設に必要な費用,利息,修繕費,管理事務費,損保保険料,地代相当額,公課その他必要な費用を参酌して国土交通省令で定める額(家賃限度額)を超えてはならない(特優賃貸法13条1項,特優賃貸規則20条)。
本件建物を含む物件の特優賃貸法上の家賃限度額は1平方メートルあたり月額2841円(計算式:1358万1420円/4778.90平方メートル(総専有面積))である(乙2号証)。また,財団法人日本不動産研究所による調査によれば,平成4年12月1日の価格時点における賃貸事例比較法により求められた本件の物件の比準賃料は1平方メートルあたり月額2100円,また,賃料3ヵ月分の敷金が差し入れられていた場合の比準賃料は1平方メートルあたり月額2070円である(乙3号証)。
被告は,賃料単価を1平方メートルあたり月額1990円とし(乙2号証),これに本件建物の面積74.15平方メートルを乗じて,最終的に本件建物の賃料を月額14万7500円と決定した。
(3) 争点に対する判断
ア 建物賃貸借契約は,賃料という対価と引き換えに賃借人に建物の使用収益を認めるものであり,時の経過及び賃借人の通常の使用によって生じる建物の損耗については,通常,対価たる賃料に織り込まれていると考えられるから,特約がない限り,賃借人は通常損耗についての原状回復費用を負担する義務はないというべきである。もっとも,本件賃貸借契約においては,前述のとおり,本件負担区分に基づく修繕費負担特約の成立が認められるところである。これに対して,原告は,当該特約が,特優賃貸法3条6号及び特優賃貸規則13条に反し,かつ,公序良俗にも反するものであり,(私法上)無効であると主張している。
イ この点,確かに,所管官庁(当時の建設省)は,運用通達等を通じて,通常損耗の原状回復費用を賃借人の負担としないという原則形態を契約条項上明確化することにより,原状回復費用の負担に関する紛争を回避するための行政指導をしていたことが認められるところである。
しかしながら,特優賃貸法13条1項,特優賃貸規則20条の規定からも窺えるように,特優賃貸法は,家賃限度額を超えない限り,通常損耗等の原状回復費用を賃料算定要素として考慮することを容認しているものと考えられ,そうであるとすると事前に賃料に含めて回収するか,契約終了時に実費精算の形で回収するかの違いにすぎない上,本件建物について,仮に,賃料に補修費の額を全額上乗せしたとしても月額賃料は1平方メートルあたり2047円であり,前記特優賃貸法上の家賃限度額の範囲内である(計算式:{34万2378円/79ヵ月+14万7500円}/74.15平方メートル≒2047円(1平方メートルあたり))。(なお,甲2号証によれば,原告の退去時における本件建物の状況について,壁クロスの破れ等,通常損耗を越える可能性が高いものも含まれていることが認められ,そうであるとすれば,それについては当然に借主がその原状回復費用を負担すべきことになるから補修費を上乗せした賃料は上記よりさらに安くなるものと考えられる。)
そうすると,本件において,本件負担区分に基づく修繕費負担特約が,上記行政指導に従わず,通常損耗の原状回復費用の一部を賃借人に負担させるような内容になっていることの一事をもって,直ちに「賃借人の不当な負担」にあたり,特優賃貸法3条6号及び特優賃貸規則13条に違反するということはできない。
ウ 以上で述べたことに加えて,通常損耗であるか否かの区別が必ずしも明確でないことからすれば,本件負担区分のような観点からの原状回復費用の分担を決めることもあながち不合理とはいえないこと,本件負担区分における土地所有者等(すなわち賃貸人側)と退去者(すなわち賃借人側)の負担について,土地所有者等側に一方的に有利な配分がなされているとはいえないこと,近年の一般的な傾向として,清潔志向が高まっていることから入居者を確保するために賃借人が変わる都度にリフォームを行う必要に迫られている(弁論の全趣旨)ところ,その一部を実額精算の形で賃借人から徴収することもやむを得ない面があること,被告においては,賃貸借契約の締結に先立ち事前の説明会で入居希望者に本件負担区分を交付して,検討する機会を十分に与えていること,本件負担区分の記載内容からして,これを読んだ者にとって通常損耗の一部についても賃借人の負担になりうることは理解し得ることに鑑みれば,本件負担区分に基づく修繕費負担特約がその効力を否定しなければならないほどの社会的妥当性を欠いているということはできないというべきである。
したがって,本件負担区分に基づく修繕費負担特約が公序良俗に反し無効であるということもできない。
エ ところで,原告は,本件負担区分に基づく修繕費特約は,修繕費用の二重取りになると指摘している。確かに,前述のとおり家賃限度額の算定にあたっては,修繕費も賃料構成要素とされているから,実際の家賃の設定如何によっては,修繕費用の二重取りという問題が出てくる可能性がある。しかしながら,少なくとも本件では,1平方メートルあたりの月額家賃限度額より850円以上低い1平方メートルあたり月額1990円という賃料が採用されており,二重取りと評価できるほどの修繕費用が賃料に織り込まれているとはいえないというべきである。
また,原告は,本件負担区分に基づく修繕費特約は,特優賃貸法における敷引きの禁止を潜脱するものであるとの主張もしている。しかしながら,被告は,退去時に,原告の立会いの下で査定を行った上で,本件負担区分にしたがって実額精算をしているものであり,実際の損耗の程度にかかわらず,明渡し時に敷金から一定額を差し引く敷引きとは明らかに異なるから,原告の上記主張も認められない。
3 結語
以上のとおりであるから,原告の本訴請求は理由がない。よって,主文のとおり判決する。
(裁判官 飛澤知行)
<以下省略>