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大阪地方裁判所 平成14年(ワ)9071号 判決 2003年2月13日

主文

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実及び理由

第1  請求

1  被告は、原告X1に対して、532万円及びこれに対する平成14年7月11日から支払済みまで年6パーセントの割合による金員を支払え。

2  被告は、原告X2に対して、250万円及びこれに対する平成14年7月11日から支払済みまで年6パーセントの割合による金員を支払え。

第2  事案の概要

本件は、被告に預金を有していた原告らが、被告に対し、原告X1においては、普通預金532万円及びこれに対する催告の日の翌日である平成14年7月11日から支払済みまで商事法定利率である年6パーセントの割合による遅延損害金の支払を、原告X2においては、普通預金250万円及びこれに対する催告の日の翌日である平成14年7月11日から支払済みまで商事法定利率である年6パーセントの割合による遅延損害金の支払をそれぞれ求めたのに対し、被告が、抗弁として、同各預金については、通帳と届出印鑑に酷似した印鑑を持参した氏名不詳者に対し当座貸越の上払い戻した後、同貸金については相殺済みであり、被告は民法478条により免責されると主張して争う事案である。

1  前提事実(証拠等によって認定した事実は、証拠等を掲げる。)

(1)  被告は、銀行業務を営む株式会社である。

(2)ア  原告X1は、昭和58年ころ、被告北支店(<略>所在)において、普通預金、定期預金及びこれを担保とする当座貸越等の取引を含む総合口座取引(以下同じ。)として、普通預金口座(口座番号<略>)及び定期預金口座(口座番号<略>)を開設した(以下「本件総合口座<1>」という。)。

イ  原告X1は、昭和58年ころ、被告鹿島支店(<略>所在)において、総合口座取引として、普通預金口座(口座番号<略>)及び定期預金口座(口座番号<略>)を開設した(以下「本件総合口座<2>」という。)。

ウ  原告X2は、平成6年ころ、被告松江駅前支店において、総合口座取引として、普通預金口座(口座番号<略>)及び定期預金口座(口座番号<略>)を開設した(以下「本件総合口座<3>」という。)。

(3)ア  原告X1は、平成14年3月28日当時、本件総合口座<1>の普通預金口座に普通預金として66万8399円、同総合口座の定期預金口座に定期預金として元金255万円を、また本件総合口座<2>の普通預金口座に普通預金として176万4738円、同総合口座の定期預金口座に定期預金として元金100万をそれぞれ預け入れていた。

イ  原告X2は、平成14年3月28日当時、本件総合口座<3>の普通預金口座に普通預金として69万6083円を、同総合口座の定期預金口座に定期預金として元金200万をそれぞれ預け入れていた。

(4)  被告の総合口座取引においては、普通預金の残高を超えて預金払戻しの請求があった場合には、この取引の定期預金を担保に定期預金合計額の90パーセント又は200万円のうちいずれか少ない金額を限度額とする当座貸越としての払戻しができることとなっている。また、定期預金の解約は、預金口座開設店に限定されている。

(5)  原告らは、<略>において居住し、本件総合口座<1>ないし<3>(以下「本件各総合口座」という。)の各通帳(以下「本件各通帳」という。)を自宅において保管していたが、平成14年3月23日ころから同月27日ころの間に、何者かに窃取された。なお、届出印鑑は、窃取されていない。(甲14号証、弁論の全趣旨)

(6)  平成14年3月28日、氏名不詳の男女甲及び乙(以下「本件氏名不詳者ら」という。)が被告大阪支店の窓口を訪れて、原告らの氏名を各記載し、いずれも「X1」という印章が押捺してある被告所定の各払戻請求書3通(以下本件総合口座<1>についてのものを「本件払戻請求書<1>」のようにいい、3通をまとめて「本件各払戻請求書」という。)を本件各通帳とともに提出して、本件総合口座<1>から預金266万円の払戻しを、本件総合口座<2>から預金266万円の払戻しを、本件総合口座<3>から預金250万円の払戻しをそれぞれ請求した。

(7)  被告大阪支店窓口担当者A(以下「A」という。)は、提出された本件各払戻請求書に押印された印影と本件各通帳に顕出された印影(以下「本件副印鑑」という。)とを対比し、両者に同一性があると判断した。

そこで、Aは、本件氏名不詳者らに対し、本件総合口座<1>については普通預金残高(66万8399円)と当座貸越による普通預金への振替入金(199万1601円)の合計266万円を、本件総合口座<2>については普通預金残高(176万4738円)と当座貸越による普通預金への振替入金(89万5262円)の合計266万円を、本件総合口座<3>については普通預金残高(69万6083円)と当座貸越による普通預金への振替入金(180万3917円)の合計250万円をそれぞれ払い戻して交付した(以下「本件払戻し」という。乙1ないし3号証の各2)。

(8)  平成14年4月22日、原告X1は本件総合口座<1>及び<2>の各定期預金口座を、原告X2は本件総合口座<3>の定期預金口座を、それぞれ解約する旨の意思表示を被告大阪支店においてし、同意思表示は、同月24日、それぞれ本件各総合口座開設の各取引店に到達した。そこで、被告は、同日、上記(7)の当座貸越による貸付債権(解約時の貸越利息を含む。)について、本件各総合口座についていずれも普通預金に同日入金された定期預金の解約元利金と同額で相殺処理した。(<証拠略>)

(9)  原告らは、被告に対して、平成14年7月10日到達の書面で、両名が本件各総合口座に預け入れていた普通預金、定期預金及びこれらに対する利息の全額を支払うよう催告した。

2  争点

(1)  準占有者に対する弁済の成否(被告の過失の有無)

(2)  信義則違反

3  争点に対する当事者の主張

(1)  争点(1)(準占有者に対する弁済)について

(被告の主張)

ア 銀行が預金を払い戻すにあたり、払戻請求をした者が真実の預金者と異なる場合であっても、払戻し時において、銀行が尽くすべき相当の注意を払っていれば、銀行に過失はなく、当該払戻しは、民法478条により有効な弁済になるというべきである。

銀行が尽くすべき相当の注意を払ったと認められるには、特段の事情がない限り、届出印の印影と払戻請求書に顕出された印影との同一性を相当の注意をもって確認すれば足りる。また、銀行の担当者が払戻請求書に使用された印影と届出印の印影又は預金通帳に顕出された印影を照合するに際しては、特段の事情がない限り、折り重ねによる照合や拡大鏡による照合まで行う必要はなく、肉眼による平面照合の方法をもってすれば足りる。

イ 被告大阪支店窓口担当者Aは、払戻請求人甲及び乙に払戻受領権限がないことを知らなかった。また、本件各払戻請求書と届出印による印影の大きさは、ほぼ同じ大きさで、字体、書体もほぼ同一であり、全体の印象も酷似していた。ただ、本件各払戻請求書の方が字の線が若干太く見えなくもないが、朱肉の種類やその付き方、押印の方法や紙質の差等によって生じた相違とみる余地のあるものであり、被告に過失があったとはいえない。

ウ 総合口座取引による定期預金担保の当座貸越は、預金の払戻しや口座振込、口座振替等によって日常的に発生するものであり、しかも貸越限度額は、定期預金の90パーセント又は200万円のうちいずれか少ない金額を限度額としているのであるから、当座貸越による払戻しについて、普通預金の払戻しと区別して、定期預金の満期前の解約と同様の扱いをしなければならない理由はないし、普通預金の払戻しに比して特別な注意義務が課される理由もない。

エ また、本件氏名不詳者らの言動や挙動に不審な点は全く見受けられなかったから、被告が窓口において本人確認を行わなければならないような特段の事情はなかった。

(原告の主張)

ア 被告の主張は争う。

イ 印鑑照合については、社会通念上一般に期待される業務上相当な注意を払い、事務に習熟した銀行員が慎重に熟視することを要するところ、本件各払戻請求書に押印された印影は、真正な届出印鑑による印影と比較して、一見しただけでも、全体的に線が太く、にじんでいるなど明らかな相違が認められる。また、「○」の字だけを取り出してみても、「广」の上の「ヽ」の部分が真正な印影より明らかに太く大きいし、「廿」や「又」の部分は潰れてしまっている。また、「〓」は一つ一つの線が太くて丸いなど、明らかに相違している。

また、何度も押印しなおした形跡が見られるが、これは被告担当者も同一性に疑いをもったため再度押印させたものと思われ、そうであるならば、業務上相当の注意を払い、慎重に熟視すれば、その相違は肉眼でも容易に発見できたといえる。

したがって、被告窓口担当者には、業務上要求される注意義務を尽くさず、印影の明らかな相違を看過し、漫然と払戻しに応じたもので、過失があったといわざるを得ない。

ウ 本件は、被告北支店、被告鹿島支店、被告松江駅前支店を取扱店とする総合口座について、そのどの支店とも異なる大阪支店において払戻しがなされたケースである。

被告の総合口座取引規定によれば、定期預金の解約の取扱店を預金口座開設店に限定し、被告の注意義務を加重している。本件の定期預金を担保とする当座貸越による限度額全額までの貸出は、実質的には定期預金の期限前解約による払戻しと同視することができるのであるから、本来的には口座開設店でのみ取り扱うべきである。したがって、ネット払い(全店払い)によって当座貸越による払戻しに応じる場合には、定期預金の解約を取扱店に限定した約款の趣旨に照らし、払戻請求者が預金者本人であるかの確認については、普通預金のみの払戻しの場合に比してより慎重な注意義務を負うと解される。

エ 本件では、原告らには、被告大阪支店での取引実績は一度もなかったこと、本件各総合口座が公共料金や企業年金等の引落口座になっていたにもかかわらずほぼ全額の払戻しがなされたこと、払戻請求額はいずれも限度額一杯で合計782万円にものぼる通常考えられない多額の払戻請求であったこと、本件総合口座<2>の定期預金は満期が平成14年3月30日で、満期まであと2日と迫った同年3月28日に期限前解約に等しいといえる非常に不自然な請求であったことからすると、被告窓口担当者においても、払戻請求者の不審さに当然気づくはずであり、全く気づかなかったとすれば、払戻しについて注意義務を怠ったというべきである。

(2)  争点(2)(信義則違反)について

(原告の主張)

近年、盗取された預金通帳に押印されていた印影(副印鑑)から印鑑を偽造して預金の払戻しを受ける事件が多発している。そこで、被告は、副印鑑制度を廃止すべきであったし、預金者である原告らに副印鑑のない通帳と交換する機会を与え、あるいは預金者に通知するなどして副印鑑に対する注意を喚起すべきであったが、被告はいずれの措置も講じていないから、信義則上、原告らに対し、準占有者に対する弁済として免責を主張することは許されない。

(被告の主張)

原告の主張は争う。

近年、金融界の一部に副印鑑を廃止し、電子照合システムを導入する動きがあるが、そうであるからといって、金融機関の印鑑照合について、従前に比して特に高度な注意義務が課されることになるわけではないし、準占有者に対する弁済を理由に免責を主張することが信義則に反することにもならない。

第3  当裁判所の判断

1  争点(1)(準占有者に対する弁済)について

(1)  <証拠略>及び弁論の全趣旨を総合すれば、以下の事実が認められる。

ア Aは、平成14年3月28日当時、被告大阪支店において窓口担当として払戻請求書の受付と現金支払を担当していたもので、これまでに4、5年の窓口担当経験を有していた。

イ 平成14年3月28日午前11時ころ、本件氏名不詳者ら(甲及び乙)が被告大阪支店を訪れ、男性甲が、Aの窓口で、本件各通帳を提示し、これらの通帳でそれぞれいくらずつ引き出しができるかを尋ねた。Aは、通帳を後方オペレーターに回し残高照会をした後、支払可能額を甲らに説明した。残高を聞いた甲らは、記帳台に行き、それぞれ本件各払戻請求書(乙1ないし3号証の各2)に記載した。この間、本件氏名不詳者らは、あたかも夫婦であるかのように振る舞い、笑顔を見せる等、あやしい素振りもなく落ち着いた様子であった。本件氏名不詳者らは、記載後、Aの窓口に本件各通帳及び本件各払戻請求書を提出し、預金の払戻しを請求した。

ウ Aがいわゆる平面照合をしたところ、本件払戻請求書<1>(乙1号証の2)のお届け印欄に押された印影の、「○」の部分がきちんと顕出されておらず、判読し得なかったため、もう一度押印を依頼したところ、今度は最初の印影と二つ目の印影とが一部重なり合い、抹消の意味を持つ印影になってしまった。そこで、Aは、さらにもう一度押印をするよう依頼し、結果として全部で三つの印影が当該払戻請求書上に顕出された。3回目に押印された印影は、副印鑑の印影に比べると、「X1」の周りの枠がやや太く、「X1」という部分も若干太めに見えはしたものの、この差異は、印章の押し方や朱肉の付きすぎによって印影がにじんだために生じたものと考えたAは、その印影が特におかしいものとは思わなかった。

また、本件払戻請求書<2>(乙2号証の2)についても、お届け印欄に押された印影の左枠部分が一部欠けていたことから、もう一度押印を依頼し、全部で二つの印影が当該払戻請求書上に顕出された。2回目に押印された印影も、副印鑑の印影に比べると全体的にやや太めに見えたものの、Aは、印鑑を強く押しつけてにじんでしまったものと考え、払戻請求書の印影が偽造印であるかもしれないとの疑念を抱くことはなかった。

本件払戻請求書<3>(乙第3号証の2)の印影は、枠の部分はにじみがほとんどなく、副印鑑の印影とその太さにおいて相違はなかった。ただ、よく見ると「△」の字の「〓」部分がやや太いように見えなくもなかったが、Aは、多少の字の太さは印章の押し方や朱肉の付き具合によって生じたものと考え、この印影が偽造印によるものとは思わなかった。

なお、原告らは、本件各通帳の届出印として、全て同じ印鑑を使用していた。

エ Aは、本件各通帳見返しにある副印鑑にて、上記のように平面照合をした上で、今回の払戻請求人が面識のない人物らであったことから、慎重を期して、さらに折り重ね照合を行った。その結果、本件副印鑑の印影と本件各払戻請求書(乙1ないし3号証の各2)の印影とは、上記のにじみによる枠と文字の若干の太さの違いを除けば、字の形は一緒であり、同一の印章による印影に相違ないものであると判断した。

被告が上記の出金手続をしている間の、約30分の待合時間においても本件氏名不詳者らは笑顔で会話を交わし、甲は帽子を取るなどして、とてもリラックスしている感じであった。

オ Aは、本件払戻金額が、総額で782万円になることから、被告事務取扱要領(乙7号証)の「項目3 帳票類の点検 (3)500万円以上の払戻請求書への検印 B ネット扱の現金支払の場合」に該当するかもしれないと考えて、本件当時の被告大阪支店支店長代理に対し、取引店に電話照会する必要がないかを問い合わせたが、同人から、本件払戻しは、1口座500万円以下であることから、この規定には当たらないので照会は不要であるとの回答を得た。

カ 現金の再鑑を終えた後、Aは窓口に本件氏名不詳者らを呼び、現金を渡した。その際、Aは、本件氏名不詳者らに対し、「たくさんのお金ですが、何かご入り用ですか」と尋ねたところ、甲は、「急にいることになって」と落ち着いた様子で答えた。

(2)  上記認定事実を前提に、被告の本件払戻しに過失が存するかどうかを判断する。

ア 総合口座取引において、銀行が権限を有すると称する者からの普通預金の払戻しの請求に応じて貸越をし、これによって生じた貸越債権を自働債権として解約されて普通預金に入金された定期預金の元利金の返還請求権と相殺した場合において、銀行が普通預金の払戻しの方法により貸越をするにつき、銀行として尽くすべき相当の注意を用いたときは、民法478条の類推適用により、相殺の効力をもって真実の預金者に対抗することができると解される(最高裁昭和63年10月13日判決・判時1295号57頁参照)。

そして、銀行の印鑑照合を担当する者が、払戻請求書に使用された印影と預金通帳に届出印により顕出された印影(副印鑑)とを照合するにあたっては、特段の事情のない限り、折り重ねによる照合や拡大鏡等による照合をするまでの必要はなく、肉眼による平面照合の方法をもってすれば足りるものと解されるが、銀行の印鑑照合を担当する者として、社会通念上一般に期待される業務上相当の注意をもって慎重に照合を行うことが要求され、かかる事務に習熟している銀行員が相当の注意を払って熟視するならば、肉眼をもって発見しうるような印影の相違が看過された場合には、銀行側に過失の責任があるものと解される。

なお、原告らは、ネット払い(全店払い)によって当座貸越による払戻しに応じる場合にはより慎重な注意義務を負う旨主張するが、総合口座取引においては、普通預金についてその残高を超えて払戻しの請求があった場合には、定期預金を担保に不足額を当座貸越として自動的に貸出し、普通預金へ入金の上払い戻される(甲1号証)のであって、その実質は、普通預金取引に近いものであることに鑑みると、その注意義務の程度は、上記の程度にとどまると解するのを相当とする。

イ これを本件についてみるに、上記認定のとおり、本件払戻しの際の本件氏名不詳者らの言動や挙動について特に不審感を抱かせるような具体的状況はなかったのであるから、折り重ね照合や本人確認等を要求すべき特段の事情は存せず、平面照合により印影の一致を確認すれば足りるものというべきである。

この点、原告らは、<1>原告らには、被告大阪支店での取引実績は一度もなかったこと、<2>本件各総合口座が公共料金や企業年金等の引落口座になっていたにもかかわらずほぼ全額の払戻しがなされたこと、<3>払戻請求額はいずれも限度額一杯で合計782万円にものぼる通常考えられない多額の払戻請求であったこと、<4>本件総合口座<2>の定期預金は満期が平成14年3月30日で、満期まであと2日と迫った同年3月28日に期限前解約に等しいといえる非常に不自然な請求であったことから、本件各払戻請求が不審なものであった旨主張する。

しかし、<1>については、被告では山陰地方から大阪に転勤してきて大阪で取引をする顧客は多く、これまで大阪での取引実績がなかった原告らの預金が被告大阪支店で払い戻されることも被告にとってさほど珍しいことではなかったことが認められる(証人A)。<2>、<3>については、顧客の都合により急に多額のお金が必要になることがあり得るし、その預金がたとえ、公共料金の引き落としに当てられた口座のものであったとしても、その引き落とし時までに再び必要な金額を填補しておけば公共料金の引き落としには何ら支障はないのであるから、その預金を全額払い戻したとしても、必ずしも不自然な行動とまではいえない。さらに<4>についても、金利の面を考えるならば、あと2日で満期を迎える定期預金については、解約をするよりもむしろ貸越を希望する方が預金者としては自然なことといえる。したがって、原告らが主張する上記事由はいずれも、本件各払戻請求について不審感をいだかせる事情ではなかったということができる。

ウ そして、本件各通帳は、本件払戻しの後、本件氏名不詳者らが持ち帰ったため、現在本件各通帳の副印鑑そのものを参照することはできないものの、原告らが被告に対してした印鑑届(乙1ないし3号証の各1 以下「本件印鑑届」という。)の印影は、本件各通帳の届出印によるもので、本件副印鑑と同一の印章による印影であるから、本件副印鑑と本件印鑑届(乙1ないし3号証の各1)の印影とは、ほぼ同一であると解される。

本件各払戻請求書に押捺された印影と本件印鑑届とは、その大きさは同一で、全体的にやや丸みを帯びた字体もほぼ同一のものであり、「○」の文字の「广」の部分の「ノ」が、始めから終わりまで均一の太さを保っているのではなく、始めの部分と終わりの部分が同じくらいの太さであるのに対して、丁度カーブする部分のみが、それらに比較すると細目になっている等の字の特徴も一致していて、全体の印象は極めてよく似ている。

他方、確かに、本件払戻請求書<1>(乙1号証の2)の逆さまに押された印影や、本件払戻請求書<2>(乙2号証の2)の横向きに押された印影と本件印鑑届の各印影とを比較すると、本件払戻請求書<1>、<2>の上記印影の枠部分の方が本件印鑑届のそれよりも一見して太く、全体としてにじんでいる上、「○」の字の「廿」や「又」の部分は潰れてしまっていたり、「〓」は一つ一つの線がやや太くて丸いようにも見える。しかし、同一印鑑によって押印された本件払戻請求書<2>(乙2号証の2)のお届け印枠欄に押された一部欠けた部分のある印影の枠の部分や本件払戻請求書<3>(乙3号証の2)の印影をみると、ほぼ本件印鑑届の印影の枠と同じ幅になっていることをもあわせ考慮すると、この枠の太さや上記の文字の一部の潰れ等についての相違というのは、同一の印章によりながら、印章の使い込みや欠損等による印章自体の変化、印章への朱肉の付き具合や押捺の仕方、紙質の違い等の、使用条件の変化等によって生じ得る範囲内での相違であると認められる。

そうすると、上記印影の相違は、印鑑照合事務に習熟している銀行員が相当の注意を払って慎重に平面照合をしたとしても、別異の印章によるものであるということを容易には発見しがたいものであったということができる。

エ したがって、本件印鑑照合を担当したAが平面照合(同人は、上記認定のとおり、折り重ね照合もしている。)によって本件払戻請求書に押捺された印影と本件副印鑑との相違が別の印章によるものであることに気付かなかったとしても、それにつき、同人に過失があったとは認められない。

2  争点2(信義則違反)について

近年、盗難された預金通帳に貼付してある副印鑑を利用して払戻請求書上の印影が偽造されることを防止するため、一部の銀行では、副印鑑制度を廃止し、いわゆる電子照合システムを導入するという動きもみられるようであるが、本件事故当時このような動きが銀行業界の一部に存在したからといって、そのことをもって直ちに、被告が副印鑑制度を廃止しなかったり、副印鑑制度について原告らに注意を喚起しないで、準占有者に対する弁済として免責を主張することが信義則に反するとまではいえない。けだし、副印鑑制度は、比較的低コストで口座開設店以外でもネット払いを受けられるという利便性があり、預金者本人の通帳・印章の管理、銀行の印鑑照合が相当の注意をもって行われる限り、なお合理性のある制度といえること、また、副印鑑制度に代わる制度の導入には、かなりのコストがかかり、副印鑑制度の廃止を行っている銀行も銀行全体の一部分にとどまっているという現状に鑑みるならば、本件当時、被告において副印鑑制度の廃止をしていなかったとしてもやむをえないものといえるからである。そして、預金者本人が通帳の管理について相当の注意を払って行っていれば、そもそも副印鑑から偽造印章を作るということはできないのである。そうであるならば、副印鑑に対する注意を預金者に通知しなかったという一事をもって、直ちに信義則上、被告が原告らに対し、準占有者に対する弁済として免責を主張することが許されなくなるとはいえない。

よって、この点に関する原告らの主張は理由がない。

3  結語

以上によれば、原告らの請求はいずれも理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法61条、65条1項本文を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 揖斐潔)

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