大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

大阪地方裁判所 平成17年(ワ)5021号 判決 2007年5月28日

主文

1  被告は,原告X1に対し,3836万6585円及びこれに対する平成16年1月13日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

2  被告は,原告X2に対し,3836万6585円及びこれに対する平成16年1月13日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

3  原告らのその余の各請求を棄却する。

4  訴訟費用は,これを2分し,その1を原告らの負担とし,その余を被告の負担とする。

5  この判決は,第1項及び第2項に限り,仮に執行することができる。

事実及び理由

第1請求

1  被告は,原告X1に対し,9386万8500円及びこれに対する平成16年1月13日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

2  被告は,原告X2に対し,9386万8500円及びこれに対する平成16年1月13日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

第2事案の概要

1  本件は,被告が開設するa病院(以下「被告病院」という。)において麻酔科の医師として勤務していたAが自殺したことにつき,Aの両親である原告らが,被告に対し,自殺の原因は,被告病院における過重な業務によってAがうつ病を発症し,これを増悪させ,さらにうつ病発症後も被告が適切な処置を執らなかったことにあるとして,不法行為又は債務不履行に基づく損害賠償(Aの死亡日からの遅延損害金を含む。)を請求した事案である。

2  争いのない事実等

(1)  当事者等

ア 原告X1は,A(昭和50年○月○日生,死亡時28歳)の父,原告X2は,Aの母である。

Aは,後記のとおり,平成16年1月13日に死亡し,原告らはそれぞれ2分の1の割合でAの財産を相続した。

イ 被告は,a病院(被告病院)を開設する財団法人であり,被告病院は,愛媛県新居浜市に所在する内科,精神科,外科などの診療科目を扱う病床数350床を有する総合病院である。

(2)  Aの経歴等

Aは,平成13年3月,b大学医学部を卒業後,同年5月,医師国家試験に合格し,平成14年1月から後記の死亡に至るまで,被告病院において研修医として勤務し,麻酔科の麻酔医として医師業務に従事していた。

(3)  Aの自殺

Aは,平成16年1月13日,被告病院内において,麻酔薬を静脈内に注射する方法により自殺を図り,同日午前7時9分,死亡が確認された(死亡推定時刻は同日午前4時30分。甲2)。

3  争点及び争点についての当事者の主張

(1)  被告病院における業務とAの自殺との間の因果関係の有無(争点1)

(原告らの主張)

被告病院におけるAの業務の内容,労働時間,Aの健康状態等を考慮すると,被告病院における業務は過重なものであり,それにより,Aがうつ病に罹患し,自殺するに至ったものといえるから,被告病院における業務とAの自殺との間には相当因果関係がある。

ア 被告病院における業務の内容,労働時間等

(ア) 業務内容

a 一般的業務内容

Aが麻酔科医として勤務していた被告病院には,麻酔科医は,Aの他には,B医師しかおらず,被告病院において行われる手術時の麻酔には,両名が立ち会わざるを得ないため,Aは,麻酔準備,手術への立会い,手術中の麻酔管理,患者の術後管理等の業務を行うなど,多忙を極めていた。Aは,手術患者以外にも,集中治療室における術後患者や麻酔科入院患者の管理,救急外来の対応等を行っていた。

また,被告病院においては,当直勤務が1か月に数回あり,その場合,Aの業務は,長時間の徹夜連続勤務となっていた。

b 業務に伴う心理的負担

医師の業務は,処置の当否により患者の生命が左右される可能性があるため,精神的緊張を伴うものであるが,中でも麻酔科医は,重篤な患者に手術をする際,危険な麻酔の処置を行うものであり,通常の医師よりも精神的緊張を強いられる。また,麻酔科医の業務は,患者の生命及び身体の安全に直結する点で仕事の要求度が高く,患者の状態に合わせて業務を行わなければならない点で仕事の自由度が少ない上,被告病院には麻酔科医が2人しかいなかったため,周囲からの支援も得がたい状況にあった。したがって,Aの業務に伴う心理的負荷は高度なものであった。

c 業務の不規則性

Aは,緊急の呼び出しなどのため,待機を強いられる業務に従事し,緊張から解放されることはなかった。すなわち,被告病院は救急病院であったため,緊急手術が珍しくなかったところ,Aは,全科の緊急手術の麻酔を担当しなければならず,常に緊急の呼び出しの可能性があり,緊急手術があれば,被告病院に赴き,麻酔を施していた。

この点,被告は,Aに待機義務がなかった旨主張するが,被告病院がAとの間で緊急の呼び出しをしない旨の取り決めをしていたわけではなく,2人の麻酔科医のうち,Aの方が若手であり,しかも被告病院の近くに居住していたのであるから,緊急時にAを呼び出さない合理的な理由はないし,人命に関わることで呼び出しを受けたのにAがそれを無視して出勤しないことはあり得ない。

(イ) 労働時間

被告病院の就業規則によれば,被告病院の勤務時間は,月曜日から金曜日までについては午前9時から午後5時30分まで,土曜日については午前9時から午後零時30分までと定められていたが,Aは,午前8時ころ,担当患者の病状の確認を開始し,少なくとも午後10時ころまで業務に従事していた。また,Aは,勤務開始前や終了後,あるいは休日であっても,緊急手術等に呼び出されて業務に従事していたため,休日を取得できていたとしても,1週間に1回のみであった。

Aの具体的な始業,終業時刻については,被告病院においてタイムカード等による労働時間管理が行われていなかったため,他の資料から推認するほかないところ,①Aによる電子カルテのアクセス記録,②麻酔科外来のA専用のコンピュータの起動記録,③麻酔・手術記録が資料として残存しており,これらの資料が複数ある日については,記録された時刻のうち,最も早い時刻を始業時刻,最も遅い時刻を終業時刻と考えることができる。ただし,②麻酔科外来のA専用のコンピュータについては,Aが不在の場合,看護師が午前9時ころから午後5時30分ころまで起動した状態にしていたため,午前8時45分以前及び午後5時30分以降に起動ないし終了された場合のみ,労働時間を算定する上で考慮することとする。以上のような資料がない場合,各日の勤務時間分だけ勤務したと考える。また,休日について,麻酔科外来のA専用のコンピュータに起動及び終了のデータが残存している場合にはその間の時間に,起動及び終了のデータが残存していない場合には電子カルテにアクセスしていた時間に,それぞれAが勤務していたものとする。

以上に基づいて自殺前6か月間(平成15年7月17日から平成16年1月12日まで)のAの時間外及び休日労働時間を計算すると,次のとおりとなる(別紙労働時間計算表の原告らの主張欄参照)。

① 1か月前(平成15年12月14日から平成16年1月12日まで)

115時間22分

② 2か月前(平成15年11月14日から同年12月13日まで)

140時間32分

③ 3か月前(平成15年10月15日から同年11月13日まで)

150時間18分

④ 4か月前(平成15年9月15日から同年10月14日まで)

133時間15分

⑤ 5か月前(平成15年8月16日から同年9月14日まで)

83時間10分

⑥ 6か月前(平成15年7月17日から同年8月15日まで)

117時間28分

以上のとおり,Aは,被告病院において,1か月当たり100時間を優に超える時間外労働を継続してきたものである。そして,長時間労働によって睡眠の質及び量が悪化することは周知の事実であり,睡眠障害や睡眠不足とうつ病との間には密接な関係があるから,被告病院における長時間業務はそれ自体,うつ病発症の原因になるものであった。

イ Aの健康状態

Aは,被告病院に勤務するまで健康であった。この点,被告は,Aがてんかんの症状を隠し,他人に知られることを恐れたため,うつ症状に移行したなどと主張するが,Aは,中学生の時にてんかんの疑いがあり,病院で検査を受けたが,異常はなかった。したがって,被告病院における業務以外にAが自殺する要因はない。

(被告の主張)

被告病院におけるAの業務の内容,労働時間,Aの健康状態等を考慮するならば,被告病院における業務とAの自殺との間に相当因果関係があるとは認められない。

ア 被告病院における業務の内容,労働時間

次のとおり,Aの勤務実態は,他の医師と同等あるいはそれより軽易なものであり,被告病院における業務が過重であったとはいえない。

(ア) 業務の内容について

毎週火曜日と金曜日に行われていた手術の麻酔は,Aの指導医であるB医師がほとんどすべてを実施し,Aは,補助的な業務のみを行っていた。また,被告病院では,緊急手術の割合が他病院と比べて極めて少なく,Aが単独で緊急手術の麻酔を担当したこともなく,緊急手術のための待機義務自体が免除されていた。Aは,ペインクリニック外来の患者の主治医になったことはあるが,集中治療室(ICU),救急外来,入院中の患者の主治医となったことはなかった。当直については,被告病院では,Aに1か月に1回しか当直をさせておらず,その際には,指導医のB医師が待機する態勢をとっていた。

以上のとおり,被告病院におけるAの業務は,質的に過重なものではなかった。

(イ) 労働時間について

被告病院の勤務開始時刻は,午前9時であったところ,Aが午前8時までに出勤したことはほとんどなく,概ね午前9時15分過ぎに出勤していた。また,Aは,昼の休憩をとり,昼食を摂ることができていた。Aに病院内での待機義務が課せられたことはなく,Aは休憩や休日を取得していた。

原告らの労働時間の計算は,看護師が午前8時45分以前においてもA専用のコンピュータを起動させていたことを考慮しない点において誤りがあり,より正確な労働時間は,カルテの記載量,処置内容,手術台帳,麻酔記録により算出すべきである。また,Aは,勤務が終わってからも被告病院内に残っていることも多く,原告らの主張する労働時間は,Aが現実に勤務していた時間を示すものではない。

イ Aの健康状態等

Aは,被告病院に勤務する以前から,長期にわたり,重篤なてんかんを患っていたのであり,その症状は,被告病院における業務から生じたり,被告病院における業務によって増悪したものではない。Aは,自己のてんかんを他人に知られることを恐れ,それを隠していたため,このことを原因として,てんかんがうつ症状に移行し,てんかんのコントロールが困難となった。また,Aのうつ症状は,Aが両親である原告らと不仲であったという家族関係等にも原因があり,被告病院における業務とは全く無関係である。

以上のとおり,Aは,てんかんの既往症や家族関係等を原因としてうつ症状が出現し,自殺するに至ったものと考えられる。

(2)  安全配慮義務違反の有無(争点2)

(原告らの主張)

ア 労働時間管理義務違反

使用者は,労働者の労働時間や業務量等について管理把握する義務があり,これは労働基準法の労働時間の制限についての定めや労働安全衛生法65条の3に基づくものであるから,当然安全配慮義務の内容となる。しかるに,被告病院は,医師の労働時間について一切把握していない。恒常的な長時間労働が心身の健康を損ねることは明らかであり,被告病院は,医療機関として通常人以上にこのことを知悉していたにもかかわらず,Aの労働状況について把握する義務を自ら放棄し,うつ病に罹患していたAを,通常の健康状態にある者にとっても心身の健康を損ねることが明らかな1か月100時間を超える恒常的な時間外及び休日労働に従事させたものであり,労働時間管理義務に違反した。

イ Aの健康状態に基づく適正労働条件措置義務違反

(ア) Aは,被告病院において業務に従事するまでは,さしたる病歴はなく,健康体であったが,平成14年に被告病院の業務に従事するようになって以降,多様な疾病を発病するようになった。Aは,ギラン・バレー症候群のため,平成15年2月11日から同月22日までの間,被告病院に入院し,退院後は自宅療養したが,被告病院から職場復帰を要請されたため,復帰を早め,同年3月10日までしか療養できなかった。また,Aは,帯状疱疹のため,同年5月24日から同月30日までの間,被告病院に入院したが,入院期間中においても,入院患者の回診などの業務を行わざるを得なかった。

(イ) Aは,平成15年8月19日にうつ病を発症したが,B医師は,同年3月までにはその徴候を認識し,被告病院としても,B医師からの報告に基づき,Aがうつ病に罹患していることを認識していたにもかかわらず,被告病院は,Aに休職を命じるなどの措置を執らず,B医師による負担軽減措置を容認することはあっても,積極的にうつ病を治療するための対処をしなかった。

(ウ) Aは,平成16年1月5日,被告病院における自らの机上に一身上の都合で辞職するが,探さないで欲しい旨の書き置きを残し,失踪した。被告病院は,少なくとも同時点以降には,Aの症状がいつ自殺に及んでもおかしくない具体的な危険に直面していることを認識したにもかかわらず,具体的な対応を執り又は具体的な指示をすることなく放置し続けたばかりか,うつ病患者に対して環境の変化をもたらすことは最大の禁忌であるとされているにもかかわらず,Aを転勤させようとし,Aにこれを告知した。

以上のようなAの健康状態からすると,被告病院は,病院として,通常の健康状態にある者以上にAの労働時間,労働内容に配慮すべき安全配慮義務を有していたのに,治療継続期間中でさえAを業務に従事させたばかりか,うつ病に罹患しているにもかかわらず,何ら適切な措置を講じることなく放置していたものであり,前記義務に違背したことは明らかである。

仮に,被告病院がAに治療を勧告し又は自宅療養を勧めたにもかかわらずAがそれを拒絶したものであったとしても,うつ病患者は,就労継続が困難か事実上不可能な状態にあっても正常な判断ができず,他人に迷惑をかけると思い,限界まで頑張ろうとするのが通常であり,その結果耐えきれず破綻状態に至った場合に自殺に至るのであるから,被告病院がAの判断に従って勤務を継続させたのであれば,その一点のみをもってしても被告の責任は肯定される。

(被告の主張)

ア 労働時間管理義務違反について

医師は,病院内においては,労働者というより使用者ないし雇用者的立場にあり,医師の業務及び人事は特殊であることから,被告病院においてAの労働時間につき記録していなかったが,Aの労働時間については,上司であるB医師が把握,管理していたから,労働時間管理義務を怠っていない。

イ Aの健康状態に基づく適正労働条件措置義務違反について

被告病院及びB医師は,Aの症状に対し,安全配慮義務ないし健康配慮義務を履行していたのであって,前記義務を懈怠していない。

そもそも,被告病院は,Aのてんかんを全く知らずにAを採用するに至ったものであるが,Aは,自己のてんかんを秘匿し,強い希望により,被告病院における勤務を継続した。被告病院は,Aの症状につき,Aの姉に連絡して自宅療養を勧め,業務軽減を図るなどした上で,てんかん,うつ病の治療を勧めたが,Aはこれに応じず,原告らやAの姉もAに対し,何らの連絡,援助をしなかった。被告病院としても,Aの同意がなければ,前記症状に対する具体的治療をなし得なかった。

以上のとおり,被告病院では,Aのてんかんに合わせて勤務の軽減等の適切な対応をしており,安全配慮義務に違背するところは全くなかった。

(3)  損害の発生及び損害額(争点3)

(原告らの主張)

ア 死亡逸失利益  1億4623万7000円

Aは,死亡時まで,被告病院において医師として勤務していたから,平成16年賃金センサス第3巻・第4表,産業計・企業規模計・医師・全労働者平均賃金年収1227万6600円を基礎とし,生活費控除率を30%,就労可能年数を39年間(死亡当時28歳から67歳まで,対応するライプニッツ係数は17.017)として計算すると,Aの死亡逸失利益は,次の計算式のとおり,1億4623万7000円となる。

(計算式) 12,276,600×(1-0.3)×17.017=146,237,000(千円未満切捨て)

イ 死亡慰謝料  3000万円

ウ 葬儀費用  150万円

エ 弁護士費用  1000万円

オ 損害合計  1億8773万7000円

Aの被告に対する損害賠償請求権の合計は1億8773万7000円となり,原告X1及び原告X2は,ぞれぞれ,その2分の1に相当する9386万8500円の損害賠償請求権を相続した。

(被告の主張)

原告らが主張する損害額については,争う。

第3争点に対する判断

1  事実関係

証拠(甲1,2,4,9ないし11,17,乙1ないし15(枝番号を含む。以下同じ。),21,22,証人C,証人B,証人D,原告X1本人,原告X2本人)及び弁論の全趣旨によれば,次の各事実が認められる。

(1)  Aの労働状況

ア 担当業務,業務内容

(ア) Aは,平成13年3月,b大学医学部を卒業後,同年5月,医師国家試験に合格し,平成14年1月から被告病院において,B医師の指導のもと,麻酔科の研修医として勤務していた。被告病院における麻酔科医は,B医師とAの2人であった。

被告病院における勤務時間は,就業規則上,月曜日から金曜日までは午前9時から午後5時30分まで(うち休憩時間は午後零時30分から午後1時30分までの1時間),土曜日は午前9時から午後零時30分までと定められていた(就業規則28,31,33条)。

(イ) Aの月曜日から金曜日までの業務内容は,概ね,午前9時又は同15分ころまでに出勤し,午後零時ないし零時30分ころまで麻酔科において外来診療を行った後,毎週火曜日と金曜日には,午後に手術があるため,昼食を摂るとともに,麻酔の準備を行い(通常15分程度),午後1時ないし午後1時30分ころから手術に伴う麻酔の施術をし,手術終了後,その他の業務を行うというものであった。

また,Aは,平成15年1月から平成16年1月までの間,合計18回,1か月当たり1ないし2回の割合で夜間の当直勤務を担当した。

(ウ) Aの各業務の具体的な内容は,次のとおりである。

a 外来患者の診察

月曜日から土曜日まで,午前9時から午後零時までの間に外来患者を診察するというものであり,平成15年については,麻酔科全体で1日当たり平均11.03人,Aは1日当たり平均1.81名の患者を診察し,その他はB医師が診察していた。なお,Aの診察患者数が少ないのは,Aが非常に丁寧に熱心に診察をするため,患者一人当たりの診察時間が長くなり,また,複数の患者を同時並行的に診察する方法を行っていなかったためである。

b 手術時の麻酔業務

被告病院における平成15年の手術時麻酔の症例のうち,Aが担当した症例は,全身麻酔357例中76例,腰椎麻酔17例中5例,局所麻酔73例中8例であった。後記のとおり,平成14年3月,Aにてんかんの既往症があることをB医師が知った後は,Aが単独で麻酔を担当することはなく,B医師が必ず立ち会うようになった。麻酔の導入のみAが行い,その後,B医師が麻酔状態の維持及び離脱を担当するなどして分担することもあった。

c 麻酔前診察

手術で麻酔を行うのに先立ち,担当する患者を訪問して診察するというものであり,手術前日の外来診察時や,午後の麻酔業務が終了した後などに行っていた。大半の麻酔前診察は午後5時30分までに終了していたが,午後8時ころまでかかることもあった。

d ペインクリニック入院患者の処置

B医師とAは,ペインクリニックの入院患者につき,主治医,副主治医の役割を分担し,2人で診療していた。Aの体調が悪い場合や患者の治療が困難な場合には,主治医と副主治医の役割を交替することもあり,平成15年にB医師とAの両方が主治医を担当した患者は25人,入院延べ日数694日,B医師が単独で主治医を担当した患者は53人,入院延べ日数922日,Aが単独で主治医を担当した患者は4人,入院延べ日数78日であった。

e 集中治療室(ICU)における回診

Aは,集中治療室入室患者の回診を行うことがあったが,集中治療室入室患者の主治医となったことはなかった。平成15年1月から平成16年1月までにAが集中治療室へ回診した回数は,月平均して,勤務時間内が12回,勤務時間外が3回程度であった。

f 緊急手術に伴う麻酔

緊急手術の場合,原則として,B医師が麻酔を担当した。被告病院における平成15年の麻酔管理の手術症例は447例あったところ,緊急手術症例は42例,休日及び夜間の緊急手術症例は19例であり,Aが勤務終了後や休日に呼び出された回数は6回であった。なお,Aが呼び出された場合,B医師も同時に出勤するようにしていた。

イ 労働時間

被告病院においては,看護師についてはタイムカードにより労働時間を把握していたが,医師についてはタイムカード等により労働時間を把握することはしていなかった。

被告病院においては,それぞれの医師に割り当てられたコンピュータから共有コンピュータ内に保存された電子カルテにアクセスし,必要事項を記載するシステムが導入されており,各コンピュータは,少なくとも勤務時間内は,起動させるようになっていた。平成15年7月から平成16年1月までの間,A専用のコンピュータが起動していた時間は,概ね別紙労働時間計算表の原告らの主張欄記載の始業時刻から終業時刻までの間である。

もっとも,被告病院においては,外来の看護師において,朝のコンピュータ起動操作と夕方(勤務時間内)のコンピュータの終了操作を行うことになっており,外来看護師が医師よりも早い時刻に出勤した場合には,外来看護師がコンピュータを起動させていた。また,Aは午前9時ないし午前9時15分ころに出勤することが多かった。

(2)  被告病院勤務開始から自殺までの経緯

ア Aは,平成14年1月に被告病院の麻酔科で勤務を始めた。当初は,特段,様子に変わったところはなかったが,同年3月,麻酔科の外来診療中,突然,意識を消失して倒れた。Aは,右半身を中心とするけいれん発作を伴っており,発作後しばらく,右手の不全麻痺が認められた。

B医師が事情を聞くと,Aは,「高校生のころからてんかん発作が始まり,服薬治療を受けたが,うまくいかず,高校を中退した。大学受験資格を取得後,b大学医学部に入学した。てんかんについては,大学在学中や卒業後にも時々発作があり,調子の悪い時には薬を服用していた。発作は,起床時に発生することが多く,15秒間程度の意識消失の後,眠くなり,1ないし2時間の睡眠をとると元に戻るので,通常どおり勤務できる。大発作が起こることはない。てんかんのことは誰にも告げないでほしい。両親には何事があっても連絡しないでほしい。」旨述べた。B医師は,Aが薬を不規則に服用していたことから,規則正しく服薬し,発作後は睡眠を十分にとって症状を回復させた上で出勤することなどを条件として,Aに勤務を継続させることにしたが,万一手術中にけいれん発作を起こすと患者の生命に関わる事態も生じかねないので,手術時の麻酔をAのみに担当させることはせず,必ずB医師が立ち会うことにした。また,B医師は,Aにはてんかんを隠し通さなければならないという強固な気持ちがあると理解したことから,Aがてんかんを患っていることについては,誰にも告げないことにした。Aは,それ以降,時々,体調不良のために出勤時刻に遅れることはあったが,勤務中に発作が出現することはなかった。

イ Aは,平成15年2月7日,視力障害,複視(物が二重に見える)症状が出現し,被告病院の眼科を受診したところ,ギラン・バレー症候群(多発性神経障害の一種)と診断されたが,症状は軽度であった。

Aは,同月11日,当直勤務において患者を診察中に,てんかんに起因するけいれん発作を再度発症し,意識を消失した。直ちに内科系の当直医がAの治療を行い,Aは,そのまま被告病院脳神経外科に入院し,ギラン・バレー症候群の治療も受け,同月22日に退院し,同日から同年3月10日まで自宅で療養した。

同年2月11日の発作により,Aにてんかんの既往症があることが被告病院内に知れることとなった。被告病院長は,Aが規則正しく服薬し,規則正しい生活を送れば,症状をコントロールすることが可能であるとして,勤務を継続させることとし,Aは,同年3月11日から被告病院における業務に復帰した。

復帰後のAの業務内容は,基本的に従前と同じであったが,当直勤務は同年4月22日から再開し,それまで月平均3回程度あったものが復帰後は月1回程度に軽減され,午後の手術に備えての麻酔準備も3分の2はB医師が担当するようになった。緊急手術時の麻酔については,Aに担当させないことも検討されたが,Aの希望により,Aに連絡をとり,来院可能であればAも担当するが,B医師が必ず立ち会う態勢をとった。また,Aは,てんかんにつき,被告病院脳神経外科のE医師から抗けいれん薬の処方を受けるようになった。

ウ Aは,平成15年3月末ころから,B医師をはじめとした被告病院の職員に対し,攻撃的な態度をとったり,口論をすることが多くなるなど,気分の変調が顕著となった。例えば,AがB医師の指導のもと,手術中に麻酔を施していた際,麻酔をかけるために使用する容器を誤って破損したため,B医師から新たな容器を用いてやり直すよう指示されたところ,興奮して,その必要性を感じない,必要ならばB医師が行えば良い旨述べて容器を投げ捨てたりする一方,興奮が収まった後には,泣きながら謝罪したり,「自分は同年代の同僚と比べ,十分な仕事ができないため,先生(B医師)に負担をかけて申し訳ない。」旨述べたりした。

B医師は,そのころから,Aにうつ状態が出現していると判断し,Aに対し,数回にわたり,精神科を受診するよう勧めたが,Aは,うつ病であることを否定し,精神科を受診しなかった。Aは,同年8月15日,服用していた抗けいれん薬アレビアチンにより中毒(血中濃度上昇)を起こし,同月20日まで被告病院に入院した。Aは,その時点から,抗けいれん薬をエクセグランに変更するとともに,B医師の勧めに従い,同月19日から,E医師の処方による抗うつ剤デプロメールの服用を始めた。

Aは,同月ころから,夜間,診療用ベッドで横になっていたり,机でうつぶせになったりする姿が目立つようになり,B医師において早く帰宅するように注意したが,病院の方が落ち着くとしてなかなか帰宅しないこともあった。

エ B医師は,その後,Aの症状が悪化してきたと感じ,平成15年10月に開催されたb大学医学部麻酔科の同門会(b大学医学部出身の麻酔科担当医師による会合)において,b大学関連病院の麻酔科長による会議の席で,Aがてんかん及びうつ症状を患っていることやその治療状況,業務を軽減していることなどを報告したところ,後日,b大学医学部麻酔科から,Aに愛媛県新居浜市内のcクリニックを受診させるよう指示を受けた。B医師は,Aに対し,少なくとも3回,時間をかけて,cクリニックを受診することを勧めたが,Aは頑なにそれを拒否した。

Aのうつ状態は同年11月ころから激しくなり,そのころ,遅れて出勤することも増えてきたことから,B医師は,再びてんかん発作が増加したと考え,Aがこれ以上被告病院で勤務することは困難であると判断し,同月20日,b大学医学部のF助教授に対し,Aの症状が限界に来ていることから転勤させてもらいたい旨の申し出をし,F助教授もこれに同意したため,b大学医学部麻酔科内において,Aを被告病院から異動させる方針が固まった(被告病院は,b大学医学部の関連病院であり,医師の人事異動はb大学医学部が実質的に決めていた。)。

b大学医学部麻酔科の医局長は,同年12月,Aに対し,被告病院からb大学医学部麻酔科又はd病院に異動させる旨を告げた。また,被告病院長も,そのころ,Aに対し,被告病院よりもゆとりのある病院で勤務する方が良い旨述べ,異動を示唆した。

オ Aは,平成16年1月5日朝,被告病院外来病棟の自己の机上に「一身上の都合で退職します。」という内容の手書きの辞職届及び「静かに過ごしていなくなってしまうので,探さないでください。」という内容を記載したメモを残したまま,行方がわからなくなった(なお,同日,A専用のコンピュータが午前零時17分から午前2時54分まで作動しているので,Aは,その時間には被告病院内にいたことになる。)。

B医師は,これらの辞職届及びメモを発見し,Aが自殺を企てるおそれがあり,命に関わる問題であると判断し,直ちに被告病院長,b大学医学部麻酔科の医局長,教授,助教授に連絡するとともに,Aの姉であるGに対し,電話で,Aが行方不明になったこと,うつ病,てんかんを発症し,治療中であったこと,興奮状態が落ち着き次第,b大学に異動させる予定であることなどを知らせた。なお,B医師がGに連絡をし,原告らに連絡しなかったのは,Aが被告病院に連絡先として伝えていた電話番号がGのものであったこと,Aから原告らには絶対に連絡しないようにしてほしいと告げられていたためである。

Gは,B医師からの連絡を受けて,直ちに奈良県に居住する原告らに連絡をし,原告らにおいて,被告病院に向かう準備をしていたところ,Aから原告らに電話があり,もうすぐ被告病院に戻るので心配いらない旨告げられた。その日,Aは,高松市へ行っていたが(何の目的で行っていたかは不明である。),同日夕方,被告病院に勤務中のB医師に対し,自分の病状等をGに話したことに抗議する内容の電話をかけた。

カ 平成16年1月5日,被告病院とb大学医学部麻酔科の人事担当者間で,Aの処遇について協議がされ,現時点でAを刺激するのは得策ではないとして,Aの興奮状態が落ち着き次第,同年2月ころ,b大学医学部に異動させ,カウンセリングや治療を受けさせる方針を採ることとした。B医師は,被告病院長から,異動になるまでAを刺激しない状態で勤務を続けさせることにする旨聞かされたが,それ以上に特に指示はなかった。

Aは,翌6日以降,従前どおり,被告病院に定時に出勤した。同日以降のAの出勤時刻,退勤時刻は,概ね別紙労働時間計算表の裁判所の認定欄記載のとおりであり,Aは,同月6日は午後9時57分まで,7日は午後11時57分まで,8日は午後8時10分まで,9日は午後9時まで,10日(土曜日)は午後6時55分まで勤務し,11日(日曜日)には午前9時から翌12日(祝日)午前9時まで当直勤務をした後,同日午後零時22分から午後7時54分まで麻酔科外来病棟にて勤務した。

原告X2は,同月6日,心配して被告病院を訪ねたが,外来診療をしているAの姿を確認すると,家族が行って失踪のことで騒ぐのもどうかと考え,誰にも会わずに奈良に帰った。

キ Aは,平成16年1月13日,被告病院内において,麻酔薬を自己の静脈に注入する方法により自殺を図り,同日午前6時45分ころ,外来病棟で倒れているところを発見され,同日午前7時9分,死亡が確認された。検視の結果,死亡推定時刻は同日午前4時30分ころであった。また,遺書は発見されなかった。

ク B医師は,証人尋問において,Aにつき,「診察は非常に熱心で,患者を思う気持ちは素晴らしいものがあった。自分自身に対する要求水準が高く,医師としての仕事も気に入っていたが,器用ではなく,技術の習得には平均よりも時間と根気を要していた。看護師からは,仕事が遅い,時間がかかるなどの苦情が出ることがあり,それに反発して看護師等と言い争いになったりするなどしていた。特に平成15年11月以降,うつ症状が顕著であった。」と述べている。

2  うつ病と自殺との関係

証拠(乙15)によると,次の事実が認められる。

うつ病患者の対応で大切なことは,①本人に病気であることを理解させること,②休息を取らせること,③医師の診察を受けさせることであるといわれている。また,自殺の危険因子として,①自殺未遂歴,②精神疾患の既往,③サポートの不足,④性別,⑤年齢,⑥喪失体験,⑦性格,⑧他者の死の影響,⑨事故傾性,⑩児童虐待などが挙げられており,失踪と自殺との関係については,「失踪がどのような意味を持っていたのか正確にとらえるのは決して易しくないが,うつ病と失踪が重なった場合は,非常に深刻な事態と考えるべきである。自殺の前段階として失踪に及ぶこともある。失踪に及び,その後発見された時点で,まず精神科医による診断を受けるように手配すべきである。未遂があったら,決して放置してはならない。その場合にはたとえ本人が強く拒んだとしても,考えつくあらゆる方法を取って,本人の安全を確保し,どのような方法を取ったとしても,精神科受診につなげるようにしなければならない。」(高橋祥友『自殺予防』岩波新書)とされている。

3  争点1 (被告病院における業務とAの自殺との間の相当因果関係の有無)について

以上の認定事実を前提として,被告病院における業務とAの自殺との間の相当因果関係につき,判断する。

(1)  原告らは,被告病院における長時間労働等による過重な業務によってAがうつ病に罹患し,自殺するに至った旨主張する。

ところで,原告らは,労働時間について,午前8時45分以前にA専用のコンピュータが起動されていた場合には,Aが起動させたものとして労働時間を計算しているが,外来看護師が医師よりも早い時刻に出勤した場合には,外来看護師が起動処理を行ったと認められるのであるから,A専用のコンピュータが起動されていた時間の全てをAの労働時間と認めることはできない。そうすると,月曜日から土曜日については,Aは午前9時に出勤していたことを前提として労働時間を算定すべきであり,日曜日については,コンピュータの起動時刻をもって出勤時刻と認めるのが相当である。また,被告病院における勤務終了時刻(月曜日から金曜日までは午後5時,土曜日は午後零時30分)よりも後にコンピュータが終了処理されていた場合は,Aが終了処理を行ったと考えることができるから,その場合には,コンピュータの終了時刻をもって退勤時刻と認めるのが相当である。当直については,午前9時から翌日の午前9時までをもって労働時間と認める。さらに,月曜日から金曜日までの勤務時にはそれぞれ1日あたり1時間の休憩時間を,休日の当直勤務時には8時間の休憩時間をそれぞれ取得していたと考えることとする。

以上によると,死亡前の半年間(平成15年7月17日から平成16年1月12日まで)における,Aの労働時間は,概ね別紙労働時間計算表の裁判所の認定欄記載のとおりであり,そのうち,所定労働時間を上回る部分は,次のとおりとなる。

① 1か月前(平成15年12月14日から平成16年1月12日まで)

105時間32分

② 2か月前(平成15年11月14日から同年12月13日まで)

121時間45分

③ 3か月前(平成15年10月15日から同年11月13日まで)

123時間04分

④ 4か月前(平成15年9月15日から同年10月14日まで)

104時間45分

⑤ 5か月前(平成15年8月16日から同年9月14日まで)

37時間55分

⑥ 6か月前(平成15年7月17日から同年8月15日まで)

84時間06分

以上のとおり,Aの労働時間は相当長時間に及んでいるが,上記の労働時間は必ずしも実働時間を示しているものではない。すなわち,Aは,病院の方が落ち着くとして,勤務終了後も帰宅せずに被告病院内に留まっていたこともあり,また労働時間中における休憩の取得状況や具体的な実働時間については不明であるから,上記の労働時間の長さのみをもって直ちに被告病院における業務が過重なものであったということは困難である。

また,Aにおいて,てんかんに罹患していたことがうつ病発症にかなり影響していたと考えられる。すなわち,Aは,被告病院で勤務を始める時にはてんかんに罹患していることを誰にも告げていなかったが,平成14年3月に外来診療中に意識を消失して倒れ,B医師にてんかんに罹患していることが知れ,さらに平成15年2月に当直勤務中にてんかんに起因するけいれん発作を発症させ,てんかんに罹患していることが被告病院内で広く知られることになり,同年3月に職場復帰をしたころから,気分の変調が顕著となり,うつ状態が出現しているなどの経緯からすると,てんかんの罹患あるいはてんかん発作により思いどおりに業務ができないことへの苛立ちや嫌悪感といったものがうつ病発症にかなり影響していたと考えられるところであって,被告病院における業務のみによってうつ病に罹患したと認めることはできない。

(2)  もっとも,Aは,平成15年3月ころからうつ状態が出現し,同年8月にうつ病に罹患しているとして抗うつ剤の服用を開始したが,症状が改善せず,同年11月からはうつ状態が激しくなり,てんかん発作のために遅れて出勤することが増加したため,B医師において,被告病院での勤務は困難であるとして,業務のより軽い病院へ異動させるべく行動していることからすると,この時点において,Aの症状は,業務に著しく支障を来す程度に悪化していたものと認められる。

そして,被告病院におけるAの業務は,拘束時間が長時間に及ぶものであること,処置の当否如何によっては患者の生命,身体に重大な結果をもたらすおそれがあるため,精神的緊張を強いられるものであること,Aはいまだ経験が浅く,経験を積んだ麻酔科医には軽易と思われる業務であっても負担を感じることがあったと考えられること,勤務時間外でも緊急手術等のために呼び出しを受ける可能性があるため,時間的に制約を受けるだけでなく心理的にも完全に解放されることがないなど,執務外における負担も決して小さいものとはいえないことなどからすると,被告病院において,Aの当直勤務を平均して月1回に軽減したり,B医師がAの業務を代わって行うことができるように絶えず待機したりするなど,一定の負担軽減措置は講じていたものの,Aの症状が業務に著しく支障を来す程度にまで悪化していた状況下においては,Aにとって被告病院の業務が相当過重になっていたものということができる。特に,Aは,平成16年1月5日に辞職届や自殺することを予告するようなメモを残して失踪し,その時点のAの心理状態は通常の状態ではなかったと考えられるが,Aは,それ以降も,翌6日に職場に復帰し,従前と同様の業務を担当し,特に,同月7日には午前9時から午後11時57分まで勤務し,同月11日には午前9時から翌12日午前9時までの当直勤務も行っていたのであって,通常の心理状態ではないAにとってかかる業務は明らかに過重なものであったというべきである。

Aが自殺した理由については,遺書は残されておらず,定かではない面があるものの,前記認定の自殺に至るまでの経緯からすると,Aは,うつ病が悪化し,てんかん発作も出現するなどして,自分の思うように業務ができなかったところ,仕事熱心で自分自身に対する要求水準が高い性格もあって,将来に対する絶望感から自殺するに至ったものと推認することができる。

そうすると,被告病院における業務がAの自殺の主要な要因になっていたということができ,被告病院における業務とAの自殺との間には,相当因果関係を認めることができる。

4  争点2(安全配慮義務違反の有無)について

(1)  一般に,使用者は,従業員との間の雇用契約上の信義則に基づき,従業員の生命,身体及び健康を危険から保護するように配慮すべき義務(安全配慮義務)を負い,その具体的内容として,労働時間,休憩時間,休日,休憩場所等について適正な労働条件を確保した上,労働者の年齢,健康状態等に応じて従事する作業時間及び内容の軽減,就労場所の変更等適切な措置を執るべき義務を負うところ,Aは被告病院において麻酔科医として勤務していたのであるから,被告病院は,Aに対し,前記義務を負っていた。

そして,被告病院におけるAの業務は,労働時間の質量ともに決して軽いものではなく,B医師は,Aのうつ病の症状が悪化していると認識し,遅くとも平成15年11月ころには,被告病院における業務を継続させることは困難であると考えるに至り,被告病院長においても,同年12月までには,Aを被告病院において勤務させるのは困難であるとの考えからAを異動させる方針を固めていたのであるから,被告病院としては,その時点でAに休職を命じるか,あるいは業務負担の大幅な軽減を図るなどの措置を執り,Aに十分な休養をとらせるべき注意義務を負っていたというべきである。とりわけ,Aが平成16年1月5日に自殺を示唆するメモを残して失踪した後にあっては,Aが自殺する危険性が顕在化し,かつ,切迫した状況にあったのであるから,より一層Aの健康状態,精神状態に配慮し,十分な休養をとらせて精神状態が安定するのを待ってから通常の業務に従事させるべき注意義務があったというべきである。

しかるに,被告病院長は,B医師を通じてAの業務の負担を適宜の方法により軽減する措置を執りつつも,Aを引き続き勤務させ,平成16年1月5日にAが失踪し,自殺する危険性が顕在化した段階においても,Aの業務を軽減するための措置を具体的に講じることなく,当直勤務を含め,通常どおりの業務にAを引き続き従事させていたのであるから,Aに対する安全配慮義務を怠ったというべきである。

(2)  この点,B医師は,証人尋問において,「できる範囲で仕事をしてもらう方が症状の改善には良いと考えた。Aの家族関係に問題があることを聞かされていたので,失踪のことも原告らには連絡しなかった。もしAから休職の申し出があればもちろん認めていた。」旨供述する。

確かに,Aから休職の申し出がないのに,無理に休職させることによってかえって症状が悪化する可能性もないわけではなく,Aが急に休んだ場合にもB医師が対応できる態勢を整えた上でAに業務を継続させたことがあながち誤りであったということはできず,絶えずAをフォローしていたB医師の熱意と努力は並大抵のものではなかったことは容易に理解できる。

しかしながら,平成15年11月ころから,Aの症状は悪化し,被告病院での勤務は困難であると判断され,平成16年1月5日には,自殺を示唆する言動があり,非常に深刻な事態となっていたのであるから,それ以降においては,被告病院での業務をさせるのではなく,いかに両親との不仲を聞かされていたとしても,両親である原告らに連絡し,まずAの安全を確保し,精神科を受診させ,Aの精神状態が安定するのを待って,Aの今後の業務について相談すべきであったということができ,被告病院長においてそのような措置を講じることなく,Aを通常の業務に従事させたことは,安全配慮義務に違反し,違法というべきである。

(3)  以上より,被告は,民法715条に基づき,Aの死亡により生じた損害を賠償する責任を負う。

5  過失相殺について

被告の主張は,過失相殺にかかる主張を含むものと解されるところ,Aが自殺に至った経緯は前記認定のとおりであるが,うつ病に罹患し,悪化するに至ったことにつき,Aのてんかんの既往症が影響していることは否定し難いところである。また,Aは,B医師から再三勧められたにもかかわらず,精神科医による診察を受けなかったことが,うつ病を悪化させ自殺するに至らせたものと考えられる。

かかる事情について,Aの病状を考慮すると,直ちにAに過失があると評価することはできないものの,本件における損害賠償額を算定するにあたっては,これを全面的に被告の負担に帰することは公平を失するというべきであるから,民法722条2項の規定を類推適用して損害額から相当額を控除するのが相当であり,本件においては,前記の事情を総合考慮し,損害額の30%を減額するのが相当である。

6  争点3(損害の発生及び損害額)について

(1)  死亡逸失利益  7311万8815円

前記のとおり,Aは,死亡時まで被告病院において医師として勤務し,証拠(甲17)によれば,平成15年1月から同年12月までの間に,給与561万2500円,賞与172万2412円の合計733万4912円の収入を得ていたことが認められるが,Aは当時研修中であったのであるから,研修を終えた後は,さらに高額の収入を得る蓋然性が高かったものと考えられる。したがって,Aの死亡逸失利益を算定するにあたっては,基本的には,平成16年賃金センサス第3巻・第4表,産業計・企業規模計・医師・全労働者平均賃金年収1227万6600円を基礎とすべきであるが,Aがてんかんの既往症を有し,うつ病に罹患していたことからすると,ある程度休養をとりながら医師業務を行わざるを得なかったものと考えられ,前記平均賃金の70%をもって基礎収入と定めるのが相当である。

生活費控除率については,Aが当時独身であったことやAの収入を考慮すると,50%とするのが相当であり,就労可能期間は死亡時からAが67歳に達するまでの間の39年間(対応するライプニッツ係数は17.0170)として死亡逸失利益を計算すると,次の計算式のとおり,7311万8815円となる。

(計算式) 12,276,600×0.7×(1-0.5)×17.0170=73,118,815(円未満切捨て。以下同じ。)

(2)  死亡慰謝料  2500万円

被告病院におけるAの業務の状況,死亡時の状況など一切の事情を考慮すると,Aの死亡慰謝料は2500万円と認めるのが相当である。

(3)  葬儀関係費用  150万円

Aの葬儀費用としては150万円が相当である。

(4)  過失相殺

以上の合計は9961万8815円となるところ,前記のとおり,Aの損害額につき,30%の過失相殺をするのが相当であるから,過失相殺後の残額は,次の計算式のとおり,6973万3170円となる。

(計算式) 99,618,815×(1-0.3)=69,733,170

(5)  相続

Aの損害額は合計6973万3170円となり,原告らは,ぞれぞれ,その2分の1に相当する3486万6585円の損害賠償請求権を相続したことになる。

(6)  弁護士費用

本件事案の性質,難易度,認容額等を考慮すると,弁護士費用としては,原告らにつき各350万円を認めるのが相当である。

7  結論

以上より,原告らの請求は,それぞれ,3836万6585円及びこれに対する平成16年1月13日から支払済みまで年5分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるからこれらを認容し,その余は理由がないから棄却し,仮執行免脱宣言は相当でないからこれを付さないこととし,主文のとおり判決する(近年,精神的疾患を患い,自殺にまで至る者が少なくないが,本件においては,てんかんの既往症があり,うつ病に罹患したAに対し,上司であるB医師が可能な限りのフォローを続けたものの,B医師のみによってはフォローし切れず,若い将来のある医師が自ら命を絶ったものである。てんかんやうつ病に対し,周囲の者が十分な理解を示し,本人も罪悪感を持つことなく可能な範囲で業務を続けながら適切な治療を受けていれば,このような結果に至らなかったと考えられ,誠に残念な事案である。-このことを最後に付言する。)。

(裁判長裁判官 大島眞一 裁判官 富岡貴美 裁判官 高橋祐喜)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例