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大阪地方裁判所 平成18年(ワ)6571号 判決 2008年11月25日

主文

1  原告の請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第1請求

1  被告は,原告に対し,4552万0918円及びこれに対する平成17年9月22日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

第2事案

1  事案の概要

本件は,A(昭和6年12月15日生まれの女性。)が被告の開設するB病院に入院した翌日に死亡したことについて,Aの相続人である原告が,Aの診療等に当たったB病院の医師はAの容体に照らして急性肺血栓塞栓症を疑い,鑑別診断のための検査を行うべきであったのにこれを怠ったなどと主張して,被告に対し,診療契約上の債務不履行又は不法行為(使用者責任)に基づく損害賠償及びAの死亡日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める事案である。

2  前提事実(争いのない事実及び証拠により容易に認定できる事実。認定に用いた証拠は,認定事実の末尾に掲記する。)

(1)  当事者

ア 原告は,Aの子である。

イ 被告は,大阪府Y市a町b丁目c番d号においてB病院を開設している。(甲B8)

ウ C医師は,平成17年9月当時,B病院救急科に勤務していた研修医である。D医師は,同月当時,B病院消化器内科に勤務していた医師である。E医師は,同月当時,B病院内分泌代謝内科に勤務していた医師であり,同内科の部長であった。(乙A6,8)

(2)  事実経過

ア Aは,平成17年9月21日(以下,年月を記載しない日は,平成17年9月のものである。)午後7時ころ,自宅で急に呼吸困難を訴えたため,同居していた原告が救急車を要請した。救急隊がA方に到着した時,Aは,居室床上に左側臥位の状態であった。救急車で搬送中のAのバイタルサインは,意識状態正常,呼吸数28回/分,呼吸状態正常,脈拍数81回/分,脈拍状態正常,収縮期血圧102mmHg,拡張期血圧66mmHg(以下,血圧の数値(mmHg)を収縮期,拡張期の順に「102/66」のように記載することがある。),SpO2(パルスオキシメーターで測定された動脈血酸素飽和度)90%であり,酸素3ℓ/分の投与開始後のSpO2は100%であった。(甲A1の2)

イ Aは,21日午後8時10分,B病院に搬送され(以下,この時点を「搬送時」という。),救急外来を時間外受診して,被告(B病院)との間で診療契約を締結した。C医師は,その際,同日の救急科当直医としてAの診察等を担当した。

その後のB病院におけるAの診療経過は,別紙診療経過一覧表記載のとおりである。

なお,D医師は,AがB病院内科に入院した同日午後10時20分(以下,この時点を「入院時」という。)以降,夜間当直医としてAを担当し,E医師は,22日午前10時ころ以降,Aを担当した(以下,上記3医師をAの診療等に当たった医師という意味で単に「担当医師」ということがある。)。

ウ Aは,22日午後0時40分から,B病院循環器科の医師で同科医長であったF医長による心エコー検査を受けた。

エ Aは,22日午後4時11分ころ,急性肺血栓塞栓症により死亡した。

オ Aは,後方視的にみて,搬送時の時点で急性肺血栓塞栓症を発症していた(ただし,診断の可否については,後記のとおり争いがある。)。

第3主要な争点及び当事者の主張

本件の争点は,①担当医師等の注意義務違反の有無,②①の注意義務違反とAの死亡との間の因果関係の有無,③損害の有無及びその額であり,争点に関する当事者の主張は,以下1~3のとおりである。

1  担当医師等の注意義務違反の有無(争点①)

(1)  原告の主張

ア 急性肺血栓塞栓症についての検査義務違反

(ア) 呼吸困難や胸痛を訴える患者の初診時に見逃してはならない致死性の高い3大疾患の一つに肺梗塞(肺血栓塞栓症の結果肺組織が壊死した状態)があり,このような患者を診る医師は,致死性の高い急性肺血栓塞栓症を念頭において診察,検査を進めなければならない。

(イ) Aの,①搬送時の主訴は,呼吸困難であり,②21日午後8時33分採血,同日午後9時5分判明の血液ガス分析の結果は,pO2(動脈血酸素分圧)が69.4mmHg,pCO2(炭酸ガス分圧)が25.5mmHgといずれも低値であって,低酸素血症が認められ,③同日午後9時28分に撮った胸部レントゲン写真(乙A5の1。以下「本件レントゲン写真」という。)では,上記②のとおり低酸素血症があるにもかかわらず肺野がきれいであり(異常所見がない。),また,左第二弓(肺動脈幹)の張りや肺野の透過性亢進が認められ,④同日午後9時37分に行われた心電図検査(以下「本件心電図検査」という。)では,右室負荷の所見である完全右脚ブロック及びV2~V6誘導における陰性T波が認められた。

Aの上記①~④の所見は,いずれも肺血栓塞栓症を否定するものではなく,むしろ疑うべき所見であり,さらに,Aは,後記イ(ア)のとおり搬送時にプレショック状態又は少なくともプレショック状態を疑うべき状態であり,低酸素状態が呼吸不全に該当する重篤なものであったから,致死性の高い疾患を鑑別すべき状況にあった。

(ウ) 急性肺血栓塞栓症では,うっ血肝による肝酵素の上昇が起こる。AがB病院に搬送された後の21日午後8時33分採血分の血液検査でLDH(乳酸脱水素酵素)が既に上昇しており,22日午前9時14分採血分の血液検査でLDH及びAST(アスパラギン酸アミノトランスフェラーゼ。GOTと同じ。肝細胞,心筋,骨格筋の障害時や溶血時に血中に高値を示す。)が上昇していた。

(エ) 以上によれば,担当医師は,上記(イ)の所見がそろった21日午後10時には,Aについて致死性の疾患であって早期の治療開始が肝要とされる急性肺血栓塞栓症を疑い,直ちに鑑別診断のための心エコー検査及び造影CT検査を行うべき注意義務があった。又は,担当医師は,遅くとも22日午前9時14分採血分の上記(ウ)の血液検査の結果が得られた時点で,急性肺血栓塞栓症を疑い,直ちに鑑別診断のための心エコー検査を行うべき注意義務があった。しかし,担当医師は,上記の検査を怠り,同日午後0時40分に至るまで,Aに対して心エコー検査及び造影CT検査を行わなかった。以上は,診療契約上の債務不履行又は不法行為における過失に当たる。

(オ) 被告の主張に対する再反論

被告は,Aに酸素を投与したことにより酸素飽和度が改善したことをもって,急性肺血栓塞栓症の可能性を否定的に判断した旨主張する。しかし,同疾患を発症していても,その進行の度合いによっては,酸素投与により酸素飽和度が改善する反応が出ることがあるから,上記の事態をもって同疾患の可能性を否定的にとらえるのは相当でない。また,診療経過上,21日午後9時5分や22日午前9時10分に行われた酸素投与時には酸素飽和度が改善しているが,同日午後0時40分に酸素投与量を増やした時には酸素飽和度は改善せずに悪化している。

イ ショック状態又はプレショック状態にあったAに対する全身管理義務違反

(ア) Aは,搬送時に,①収縮期血圧が90mmHg以下であり,Aが平成13年11月5日~平成17年6月21日の間にB病院を外来受診した際の収縮期血圧が110mmHg~132mmHgの範囲内であったことと比較しても明らかに低く,②呼吸困難があり,③酸素吸入を受けない状態におけるSpO2は85%で呼吸不全の状況であり,④顔面を含む全身が蒼白色であり,⑤21日午後9時5分に黒茶色泥状便失禁があって意識障害があると評価できる状態であった。以上によれば,Aは,搬送時において,低血圧と低酸素血症を呈し,プレショック状態又は少なくともプレショック状態を疑うべき状態であった。

低血圧と低酸素血症の原因が脱水と心原性のもののいずれであるかにより,輸液の内容が異なることとなる。脱水が原因であれば,脱水を解消するために積極的な輸液を行う必要があり,心原性のものが原因であれば,輸液により心臓の負荷が強まることを警戒して慎重に循環動態を観察しながら,他方で循環血液量不足による心原性ショックを起こさないように輸液をしなければならない。

以上によれば,担当医師は,Aに対し,搬送時から適正な輸液管理及び血圧を含む循環動態の観察を中心とする全身管理をすべきであり,適正な輸液管理のためにできるだけ早期に心エコー検査により低血圧と低酸素血症の原因を究明すべきであった。しかし,担当医師は,上記の原因究明を怠り,漫然と輸液を継続した。以上は,診療契約上の債務不履行又は不法行為における過失に当たる。

(イ) B病院のG看護師は,22日午前4時30分の時点において,Aにつき,①便失禁があり,②呼吸苦の状態にあり,③嘔気があり,④全身に冷汗があり,⑤血圧は84/60であり,⑥顔面が蒼白であったことを現認した。以上のAの容体は,同時点においてショック状態であったことを示している。したがって,同看護師は,この時点で,担当医師に対し,Aのショック状態を報告すべきであり,担当医師は,Aのショック状態の原因を鑑別診断するために,同時点の直後又は遅くとも同日午前9時ころには,血液ガス分析を含む血液検査及び心エコー検査をすべきであった。しかし,同看護師は上記報告をせず,担当医師は上記検査をしなかった。以上は,診療契約上の債務不履行又は不法行為における過失に当たる。

(2)  被告の主張

原告の主張は争う。その理由は,下記ア~エのとおりである。

ア 特異的所見の不存在

Aの搬送時の主訴は,「2,3日前より呼吸困難感あり,昨日より食欲低下あり,全身倦怠感も出現した」というものであり,その他原告が急性肺血栓塞栓症を疑うべき根拠として主張する各所見は,いずれも特異性に乏しい一般的な検査所見又は臨床症状にすぎず,同疾患を疑わせるような特異的な所見ではなかったから,上記主訴及び各所見を根拠に,Aについて同疾患を疑うべきであり,鑑別診断のための検査を行うべきであったということはできない。

具体的に補足すると下記(ア)~(エ)のとおりである。

(ア) Aの血液ガス分析の結果においてpO2及びpCO2とも低値であったことについては,pO2が低下する病態が潜在している場合に一時的な過換気状態が合併すれば,pCO2が低値となることがあり得る。Aのように,急性肺血栓塞栓症のハイリスクとなる既往歴を持たず,長期臥床といったリスクファクターも有しない救急患者については,上記数値は直ちに同疾患を疑うべき所見とはいえない。

(イ) Aは,本件心電図検査で完全右脚ブロックの所見が認められるが,平成16年9月21日に行われた心電図検査でも同じ所見が認められており,Ⅰ誘導も同じ形のものであった。また,本件心電図検査では,急性肺血栓塞栓症の一つの特徴とされるⅢ誘導におけるQ波及びT波の異常波形がなく,Ⅱ誘導及びⅢ誘導における肺性P波もなかった。したがって,本件心電図検査の結果から同疾患を疑うことは困難である。

(ウ) 本件レントゲン写真では,左第二弓(肺動脈幹)の突出が認められるが,肺野の透過性亢進は見られず,急性肺血栓塞栓症を疑うべき特異的な所見はない。

(エ) Aは,元々LDH値が高い者であったから,その値が高いことは,急性肺血栓塞栓症を疑う根拠とならない。

イ 酸素投与による酸素飽和度の改善

急性肺血栓塞栓症により低酸素血症が生じる機序は,肺内に生じた死腔(換気はあるが血流がない肺胞)により換気血流不均等が生じ,肺胞に到達するまでに遮断されて酸素化されていない血液が,側副血行路を通じて,酸素化された血液と合流する右左シャント効果によるとされているところ,そのような機序で生じる低酸素血症であれば,通常は酸素を投与しても改善しない。なぜなら,換気血流が正常な肺胞における血液の酸素化機能が低下している場合であれば,高濃度の酸素を投与することによって酸素化が効率良く行えるようになり,低酸素血症が改善するが,急性肺血栓塞栓症のように死腔効果が基礎にある場合には,いくら高濃度の酸素を投与してもその部分の血流は酸素化されず,右左シャント量には変化がないからである。ところが,Aの場合,酸素投与によって酸素飽和度が改善しており,これは明らかに同疾患とは矛盾する経過である。

21日にAを診察した担当医師は,呼吸困難を訴えたAに対し,まず試みるべき酸素投与をしたところ,酸素飽和度が改善したことから,肺の換気機能の低下による病態を想定した。そのため,同担当医師は,急性肺血栓塞栓症の可能性を念頭に置かなかった。

ウ B病院で実施可能な検査及び治療の限界

(ア) 仮に,B病院の担当医師が21日にAについて急性肺血栓塞栓症を疑ったとしても,B病院は高次救急施設ではなく,心エコー検査に習熟した医師は常駐しておらず,同検査を緊急で行える態勢にはなかった。

Aは同日午後8時過ぎにB病院に救急搬送されたものであるから,担当医師が,同日夜の段階では救急処置のみを行うにとどまり,22日から本格的な診断の過程に入ったことは,やむを得ないことであった。一般市中病院における上記のような臨床現場の実状を考えると,Aに対する心エコー検査を同日に行ったことは,遅きに失したと非難されるものではない。

(イ) また,急性肺血栓塞栓症の治療にはヘパリン,ウロキナーゼ,t-PA等の薬剤を使うことが考えられるが,これら薬剤の使用には出血傾向を惹起するという危険が伴い,確定診断後に経験のある医師によって投与すべきものであるから,21日の段階で,Aにつき同疾患を疑ったとしても,治療を開始することは現実的に不可能であった。

エ Aは搬送時にプレショック状態又は少なくともプレショック状態を疑うべき状態ではなかったこと

原告が指摘するAの搬送時の所見からは,Aが明らかなプレショック状態であったと判断することはできない。担当医師は,Aにつき,搬送時に若干の呼吸困難があったものの,意識が明瞭であり,SpO2が85%であったが酸素3ℓ/分を投与したところ98%に改善したため,重篤な呼吸困難状態ではないと判断した。また,原告は,Aの収縮期血圧が90mmHg以下であることをもってプレショック状態又は少なくともプレショック状態を疑うべきであったと主張するが,Aのこれまでの外来診療時における収縮期血圧が110mmHg程度であったことと比較すると,Aについては,収縮期血圧が90mmHg程度で原告主張の状態であったはいえない。さらに,全身色蒼白についても,Aに貧血症状(ヘモグロビンが9.2g/dℓ。正常値は11.5g/dℓ以上)があったことによるものであり,これが原告主張の状態によるものとはいえない。

2  因果関係の有無(争点②)

(1)  原告の主張

ア 以下のとおり,前記1(1)の担当医師等の各義務違反とAの死亡との間には,相当因果関係がある。

(ア) 急性肺血栓塞栓症は,慢性の疾患でなく,救急治療に成功すれば予後が良好である。肺塞栓症研究会共同作業部会の調査報告では,同疾患の死亡率は14%であり,心原性ショックを呈した症例では死亡率が30%(うち血栓溶解療法を施行された症例では死亡率が20%,同療法を施行されなかった症例では死亡率が50%),心原性ショックを呈しなかった症例では死亡率が6%である。また,欧米のデータによれば,同疾患が診断されずに治療が行われなかった症例では死亡率が約30%であるが,十分に治療が行われた症例では死亡率が2%~8%である。

(イ) 担当医師が前記1(1)アの注意義務を尽くし,遅くとも21日午後10時の時点でAに対して心エコー検査を行っていれば,右室拡大,心室中隔の奇異性運動,三尖弁逆流,下大静脈の拡大等の右室負荷の所見が認められ,急性肺血栓塞栓症の疑いを持つことができた。さらに,造影CT検査を行えば,同疾患を確定的に診断することができた。ただし,同検査は,下記ウのとおり,以下の治療を行うために必須のものではない。

心エコー検査により同疾患が強く疑われれば,造影CT検査による確定診断を行う前に,下大静脈フィルターを留置して下肢や骨盤の塞栓子が肺動脈をふさぐことを防止できた。そして,同疾患を診断すれば,呼吸循環管理下で抗凝固療法(ヘパリン投与)及び血栓溶解療法(ウロキナーゼ投与)を行うことによりAを救命することができた。

(ウ) 担当医師等が前記1(1)イの注意義務を尽くし,Aに対する適切な全身管理を行っていれば,遅くとも22日午前9時ころの時点で,低血圧と低酸素血症の原因を究明する中で心エコー検査によりAの急性肺血栓塞栓症を診断することができ,呼吸循環管理下で抗凝固療法及び血栓溶解療法を行うことによりAを救命することができた。

イ 担当医師等が前記1(1)の各注意義務を尽くしていた場合,Aを救命することができる高度の蓋然性までは認めることができないとしても,救命することができる相当程度の可能性はあった。

ウ 被告の主張に対する再反論

被告は,急性肺血栓塞栓症の確定診断のための造影CT検査を行うためにAを検査場所まで移動させること自体により,塞栓子が遊離して急激かつ重篤な心原性ショックの状態を引き起こすことが合理的に推測されると主張する。

しかし,遅くとも22日午前4時30分にAが急変した後可及的速やかな時点で心エコー検査を行っていれば,同検査の結果及びそれまでの臨床経過を総合して同疾患を診断することができたから,造影CT検査は抗凝固療法及び血栓溶解療法を行うために必須のものではない。また,上記ア(イ)のとおり,心エコー検査により同疾患が強く疑われれば,造影CT検査による確定診断を行う前に下大静脈フィルターを留置して,塞栓子が肺動脈に到達するのを防止することができる。

仮に抗凝固療法及び血栓溶解療法を行うために造影CT検査を行う必要があったとしても,上記の時点では,心原性ショックを引き起こす程の大きな塞栓子は形成されていなかったと考えられる。

(2)  被告の主張

原告の主張は争う。その理由は,下記ア~オのとおりである。

ア 前記1(2)ウで主張したB病院で実施可能な検査及び治療の限界からすれば,仮に担当医師が21日午後10時の時点で急性肺血栓塞栓症を疑ったとしても,同時点のころに同疾患の確定診断をするための検査を行うことができたとは考えられず,したがって,同疾患に対する治療を行うこともできなかったから,その後の経過は実際に起こった経過をたどることになり,Aを救命することは不可能であった。

イ Aが急性肺血栓塞栓症に急激な心原性ショックを合併したのは,大きな塞栓子により肺動脈幹又は両側の主肺動脈が突然閉塞され,心臓に還流する血液の量が急激に減少し,右心不全から低心拍出量症候群に陥ったことによるものであると考えられる。このような機序による心原性ショックは,同ショックを引き起こす前の全身状態の管理とは直接の関係がなく,塞栓子が遊離することを防止できなければ発症を防ぐことはできない。

Aは,22日午後1時に単純CT検査を受けるためにベッドからCT検査台に移動したときに心原性ショックの状態となっている。そうすると,仮に,Aが実際に心エコー検査を受けた同日午後0時40分より早い段階で同検査が行われ,右室負荷が判明して急性肺血栓塞栓症の疑いが強くなったとしても,抗凝固療法及び血栓溶解療法を行う前提として同疾患の確定診断をするために造影CT検査を行う必要があり,その際にAを移動させること自体により塞栓子が遊離して急激かつ重篤な心原性ショックの状態となったことが合理的に推測される。以上によれば,同日午後0時40分の時点より早い段階でAにつき同疾患を疑って検査を行ったとしても,実際と同じ経過をたどったことが合理的に推測されるから,原告の主張する担当医師等の義務違反とAの死亡との間に相当因果関係はない。

ウ 原告は,担当医師が21日午後10時の時点でAに対して心エコー検査を行っていれば,右室拡大,心室中隔の奇異性運動,三尖弁逆流,下大静脈の拡大等の右室負荷の所見が認められたと主張する。

しかし,一般に,発症時に失神を呈するような重症の急性肺血栓塞栓症の症例であっても,その多くは部分的に塞栓子が自然に溶解し,回復傾向を示すものである。Aの診療経過によれば,搬送時の時点の病態が酸素投与及び通常の輸液により顕著に改善していることからすると,塞栓子による肺動脈の閉塞が自壊又は血栓溶解作用によりいったん解消されたものと考えられる。そうすると,仮にAが実際に心エコー検査を受けた22日午後0時40分より早い段階で同検査が行われたとしても,症状が落ち着いていた段階においては,同疾患による右室負荷の所見が得られなかった可能性がある。

エ Aの肺動脈幹又は両側の主肺動脈を閉塞した塞栓子は,下肢において既に形成されていた陳旧性のものであると考えられる。そうすると,仮に原告の主張する時点において抗凝固療法を行って新たな血栓の形成を抑制しても,元々あった塞栓子を消滅させることも遊離しない状態にすることもできなかったと考えられる。したがって,抗凝固療法を行ってもAを救命することは不可能であった。

オ 原告は,心エコー検査により急性肺血栓塞栓症が強く疑われれば,造影CT検査による確定診断を行う前に下大静脈フィルターを留置して塞栓子が肺動脈に到達するのを防止することができると主張する。

しかし,同フィルターの留置は,造影CT検査により同疾患を確定診断した後に行うものであるとされている。また,同フィルターを留置する手技は肺血管造影と同じであることから,同フィルターを留置する処置を行うために患者をベッドから放射線診断治療のための台に移動せざるを得ないところ,Aが造影CT検査を受けるためにベッドからCT検査台に移動したときに塞栓子が遊離してAの肺動脈をふさいだと考えられることからすれば,同フィルターを留置するためにAを放射線診療治療台に移動する際に同じ経過をたどる可能性がある。

3  損害の有無及びその額(争点③)

(1)  原告の主張

ア Aの損害

(ア) 逸失利益 1388万2653円

Aは,死亡時73歳であり,B病院の担当医師等の義務違反がなければ,平均余命の半分の8年間(ライプニッツ係数6.463)は就労が可能であった。そうすると,Aの逸失利益は,賃金センサス産業計企業規模計学歴計女子の平成16年の給与額306万8600円から生活費として3割を控除し,上記ライプニッツ係数を乗じた1388万2653円となる。

(イ) 死亡慰謝料 2600万円

(ウ) 相続

原告は,上記(ア)及び(イ)を合計した3988万2653円の損害賠償請求権を相続した。

イ 原告の損害

(ア) 葬儀費用 150万円

(イ) 弁護士費用 413万8265円

原告は,本件訴訟の追行を原告代理人に委任した。その弁護士費用のうち損害額の約1割に当たる上記金額は,被告が負担すべき原告の損害である。

ウ 上記ア及びイの合計は4552万0918円となる。

(2)  被告の主張

争う。

第4当裁判所の判断

1  事実認定

前記第2の2の前提事実(以下「前提事実」という。)並びに証拠(甲A2,3の1・2,4の1・2,乙A1~4,5の1・3,6~9,証人C,証人D,証人G,証人E,原告本人)及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実が認められる(認定に用いた診療録(乙A1~4)を各認定事実ごとに記載するが,その書証番号及び丁(頁)数の記載は,例えば乙A1号証の3丁(頁)であれば「乙A1-p3」のように表示する。)。

(1)  搬送時から入院時までの間のAの身体状態及び診療内容等

ア 搬送時

血圧は84/50~88/60,脈拍数は94回/分,体温は36.7℃であった。SpO2は80%~85%に低下した。

Aは,救急外来担当のC医師に対し,2,3日前から呼吸困難感があり,昨日(20日)から食欲低下があって全身倦怠感も出現した旨述べた。C医師は,Aを診察したところ,胸痛はなく,意識障害はなく,顔面は蒼白であり,下肢に浮腫は認められなかった。眼は,貧血様を示し,黄染はなく,聴診器検査では,胸部にラ音はなく,吸気肺音は良好であった。C医師は,Aに対し,血液検査,心電図検査及び胸部レントゲン検査をすることとした。

(乙A1-p18,4-p32)

イ 21日午後8時20分ころ

血圧は88/60であった。Aは,発汗があり,全身色が蒼白で顔色は不良であった。

(乙A4-p12)

ウ 同日午後8時30分ころ

血圧は87/65,心拍数は94回/分,体温は36.7℃,SpO2は84%~85%であった。

(乙A4-p12)

エ 同日午後8時33分ころ

血液検査が行われ,同検査で行われた血液ガス分析の結果は,pHが7.535(下限値7.35,上限値7.45),pCO2が25.5mmHg(下限値35mmHg,上限値45mmHg),pO2が69.4mmHg(下限値75mmHg,上限値100mmHg),動脈血酸素飽和度(以下「SaO2」という。)が94.5%(下限値92.0%,上限値98.5%),BE(ベースエクセス。血中の酸性物質,アルカリ性物質の量の指標。)が-0.7mmol/ℓ(下限値-3mmol/ℓ,上限値3mmol/ℓ。強塩基の場合は負の値となる。)であった。その他の検査項目の結果は,ヘモグロビン量が9.2g/dℓ(下限値11.5g/dℓ,上限値15.0g/dℓ),白血球数が6650個/μℓ,CRP(C反応性蛋白。炎症や組織破壊性病変が生ずると急激に血中に増加する。)が0.34mg/dℓ(下限値0mg/dℓ,上限値0.25mg/dℓ),ASTが27IU/ℓ(下限値8IU/ℓ,上限値38IU/ℓ),ALT(アラニンアミノトランスフェラーゼ。GPTと同じ。)が8IU/ℓ(下限値4IU/ℓ,上限値44IU/ℓ。肝細胞障害時に肝細胞から逸脱して血中ALT活性は高値を示す。),LDHが230IU/ℓ(下限値100IU/ℓ,上限値220IU/ℓ)であった。

C医師は,上記検査結果から,pO2とpCO2が少し低いこと,SaO2の数値とSpO2の数値に乖離があること,貧血が少しあること,炎症反応は問題となるほど上昇していないことを認め,pO2の値については,Aの年齢に照らすと異常値ではないと考え,pCO2の値については,年齢的なものと過換気状態が原因であると考えた。

(乙A1-p18・p36-1,2-p15,4-p12・p51)

オ 同日午後8時58分ころ

血圧は77/37,心拍数は85回/分,SpO2は89%であった。

(乙A4-p12)

カ 同日午後9時1分ころ

血圧は95/65,心拍数は87回/分であった。

(乙A4-p12)

キ 同日午後9時5分ころ

心拍数は92回/分であり,少量の黒茶色泥状便があった。

C医師は,Aに対し,酸素3ℓ/分をカニューレで経鼻投与したところ,SpO2は98%~99%まで上昇した。Aは,C医師に対し,すごく楽になった旨述べた。酸素3ℓ/分の投与は,同日午後10時15分まで継続された。

(乙A1-p18,4-p12・p13・p51)

ク 同日午後9時28分ころ

臥位で本件レントゲン写真が撮影された。C医師は,本件レントゲン写真から,心胸比が60.51%であり,肺野はクリーンで明らかな肺炎像は認められないと判断した。

(乙A1-p18,4-p12・p13)

ケ 同日午後9時36分ころ

点滴ルートが確保され,ソルデム3A500mℓの点滴が開始された。

(乙A4-p12・p13)

コ 同日午後9時37分ころ

本件心電図検査が行われた。同検査では,心拍数が87回/分,洞調律であること,完全右脚ブロック及びV2~V6誘導における陰性T波が認められた。C医師は,以上の結果とAが貧血,糖尿病等で受診していた間の平成16年9月21日に行われた心電図検査の結果と比較して,大きな変化はないと判断した。

(乙A1-p18,3-p1~p5)

サ 同日午後9時50分ころ

血圧は94/67,心拍数は89回/分,SpO2は99%であった。

(乙A4-p12)

シ C医師は,Aの所見及び検査結果から,緊急を要する疾患の発症は疑わず,慢性的な呼吸器疾患が背景にあるのではないかと考え,経時的な経過観察の必要があると判断して,Aを入院させることとした。なお,C医師は,Aについて,2,3日前から呼吸困難感があった旨の説明があったこと,酸素投与により酸素飽和度が改善したこと,下肢浮腫がなかったことなどから,急性肺血栓塞栓症の発症は念頭になかった。

ス C医師は,Aの入院に際し,内科当直医のD医師に対し,以上のAの所見,検査結果及びC医師の診断内容を申し送った。

(2)  入院時から22日午前9時までの間のAの身体状態及び診療内容等

ア 21日午後10時20分ころ

(ア) Aは,低酸素血症,貧血及び低蛋白血症の精査,加療のため,B病院に入院した。

(イ) D医師は,Aを診察し,また,上記(1)エの血液検査の結果,本件心電図検査の結果及び本件レントゲン写真を確認し,Aについて以下の所見を得,また,判断をした。

a 顔色が悪く少し元気がないが,意識ははっきりしていて会話ができたことから,重症感はないとの印象を持った。

b 本件レントゲン写真から,肺炎に相当する一塊の陰影は認めず,心拡大を認めた。

c Aが従前から糖尿病及び貧血に対する診療のためにB病院に通院していたこと,20日から食欲が低下して全身倦怠感を訴えていたことから,Aにつき摂食不良を原因とする脱水や低蛋白血症を起こした可能性があると考え,また,本件レントゲン写真から得られた上記所見等から心不全を起こした可能性もあると考え,これらの疾患を基に呼吸不全を起こした可能性があると判断した。なお,Aには肺血栓塞栓症の危険因子が認められず,入院時の時点では,急性肺血栓塞栓症の発症は考えなかった。

(ウ) D医師は,Aに対して行われていた酸素3ℓ/分の投与及び上記(1)ケの点滴を継続することとし,看護師に対し,心不全が疑われることから点滴の量をやや少なくすること,呼吸不全が悪化したときは酸素の量を増やしてSpO2が92%以上の状態を維持することを指示した。

(乙A2-p5・p6)

イ 同日午後10時30分ころ

血圧は90/64,心拍数は90回/分,呼吸数は18回/分,体温は36.1℃,SpO2は97%であった。Aの両足首には軽度の浮腫が認められた。

(乙A4-p30)

ウ 同日午後10時36分ころ

D医師は,Aの血液検査をオーダーした。

(乙A4-p14)

エ 22日午前0時30分ころ

G看護師は,準夜勤の看護師から,Aについて,低酸素血症及び貧血で入院したこと,胸部レントゲン写真上肺炎像等はないこと,血液ガス分析の結果は特に異状がないこと,酸素3ℓ/分の投与によりSpO2が97%~99%の状態を維持して経過観察中であること,夜間はSpO2が92%以上の状態を維持するとの指示事項について,申し送りを受けた。

オ 同日午前2時30分ころ

G看護師は,Aの病室を訪れた。Aに異状は見られなかった。

カ 同日午前4時30分ころから午前5時ころまで

(ア) G看護師外1名の看護師がAの病室を訪れ,眠っていたAに声を掛け,仰臥位から左側臥位へ体位変換をした。Aは少量の排便をしていたので,G看護師らがAの臀部を洗浄していたところ,Aは突然呼吸苦を訴えた。G看護師らがAを仰臥位に戻したところ,Aは嘔気を訴え,全身に冷汗があった。血圧は84/60,心拍数は66回/分,SpO2は90%~93%であった。

(乙A4-p17・p30)

(イ) G看護師は,Aに心肥大があったことから,心負荷が掛かって循環動態に変化が起こったと考え,心電図モニターを装着した。心電図モニターの波形,心拍数及び調律の状態は,入院時のものと比較して,特段の変化はなかった。また,G看護師は,低血糖を疑って血糖値を測定したところ,325mg/dℓであった。嘔気は数分で消失したが,顔面は蒼白であり,尿の排泄はないが,下腹部の膨満はなかった。

(乙A4-p17)

(ウ) G看護師は,他の1人の看護師と交代で,病室内でAの様子を観察した。午前4時46分ころのSpO2は93%であった。

(乙A4-p30)

キ 同日午前5時ころ

Aは,同時刻ころ,状態が落ち着いたので,G看護師は,それ以後は看護師詰所内のモニターでAの観察を続けた。

血圧は94/66,心拍数は92回/分,体温は35.8℃であった。Aの心電図は,心電図モニターを装着してから下記コまでの間,異状は見られなかった。

(乙A4-p30)

ク 同日午前6時45分ころ

G看護師がAの病室を訪れたところ,Aは眠っていた。血圧は90/60,心拍数は90回/分であった。

(乙A4-p30)

ケ 同日午前7時ころ

G看護師は,D医師に対し,Aの状態について,入院時よりSpO2が低下しているが,92%以上を保つため,酸素3ℓ/分の投与を継続していること,心電図のモニタリングをしていること,夜間の経過と現在は落ち着いていることを報告した。G看護師は,その際,Aが食事を楽しみにしていたことから,全粥を食べさせてよいかを確認し,D医師からその許可を得た。

コ 同日午前7時30分ころ

血圧は86/40,心拍数は91回/分,体温は35.7℃であり,SpO2は95%以上であった。G看護師は,Aが同日午前4時30分に嘔気を訴えたことから,その確認のために白湯を飲ませたところ,Aに異状は生じなかった。

その後,Aは,G看護師がベッドの頭部側を45度挙上して朝食の準備をしている最中に呼吸苦を訴え,SpO2が86%~88%に低下した。G看護師が酸素投与の量を3ℓ/分から5ℓ/分に増加したところ,Aの呼吸苦は軽減し,SpO2は92%~95%に改善した。

(乙A4-p30)

サ 同日午前8時12分ころ

G看護師は,Aの同日日中の担当医師に関してE医師と相談し,E医師からC医師と共同で受け持つことを条件に了承が得られたため,E医師に対し,以上のAの経過を報告した。なお,C医師は,当直明けのため,診療免除の対象者であった。

シ 同日午前8時30分ころ

血圧は88/40,心拍数は100回/分であった。

(乙A4-p30)

(3)  22日午前9時以降のAの身体状態及び診療内容等

ア 同日午前9時ころ

B病院の消化器内科の医師で同科の部長であったH部長は,同科の研修医であったI医師をAの担当医師に指名した。

イ 同日午前9時10分ころ

血圧は90/52,心拍数は100回/分であった。

Aは,看護師に対し,「苦しい,しんどい,暑い」と訴えた。SpO2が90%に低下したため,看護師は,Aに酸素マスクを勧めたが,Aがこれを拒否したため,酸素5ℓ/分~7ℓ/分をカニューレで投与したところ,SpO2は92%となった。

(乙A4-p23・p30)

ウ 同日午前9時14分ころ

前日のD医師のオーダー(上記(2)ウ)に基づき,Aの血液検査が行われた。同検査の結果は,ASTが67IU/ℓ(>上限値),ALTが28IU/ℓ,LDHが317IU/ℓ(>上限値)であった。

(乙A2-p16・p21,4-p52)

エ 同日午前9時29分ころ

I医師は,原告の意向によりAを診察することができなかったが,Aに昇圧剤であるカテコラミン(カタボン・Low)の点滴投与をすることをオーダーし,看護師に対して,収縮期血圧80mmHg以上を保つように同薬剤を1時間に3mℓずつから順次増量するよう指示した(ただし,同薬剤は,同日午後1時15分ころ,Aの状態が急変するまで使用されていない。)。その後,H部長は,循環器科のF医長及びJ研修医をAの担当医師として指名したが,F医長らは,原告の意向によりAを診察することができなかった。

(乙A4-p17・p21)

オ 同日午前9時50分ころから午前10時10分ころまで

E医師は,同日午前9時50分ころ,ポケットベルで呼出しを受け,同日午前10時ころに病室に着いてAを診察し,本件心電図検査の結果及び本件レントゲン写真を確認し,それ以後,Aを担当した。

Aの血圧及び脈拍は低めながらも維持され,心電図モニターの波形は安定していて不整脈はなく,頻呼吸であるが胸痛等の苦悶はみられず,チアノーゼはなく,胸部聴診の結果は正常であったが,話し掛けに対する応答はかすかな発声のみであり,衰弱した様子であった。E医師は,以上のAの身体状態にかんがみて,緊急に蘇生処置に準ずるショック治療を行う必要性はないと判断したが,看護師からI医師がカテコラミンをオーダーしたことを聞き,Aが重症患者であるとの認識を持ち,また,Aの血圧が低下していたことから,急性心筋梗塞等の循環器系の疾患が起こっている可能性があると考え,症状の解明検討を開始した。

(乙A2-p7)

カ 同日午前10時10分ころ

E医師は,ミオコールスプレーを噴霧することで,心筋梗塞が発症していればその治療になり,また,同噴霧によって心電図に変化があれば心筋梗塞発症の診断の役に立つと考え,Aに対し,ミオコールスプレーを2回噴霧した。

(乙A4-p25)

キ 同日午前10時30分ころ

血圧は112/63,心拍数は100回/分,SpO2は95%であった。

(乙A4-p30・p31)

ク 同日午前10時31分ころ

E医師は,心筋梗塞を疑って,トロポニンT(心臓及び骨格筋の筋原線維を構成する収縮蛋白であり,心筋障害のマーカー。),CKMB(クレアチンキナーゼアイソザムMB。心筋に主に存在し,心筋梗塞などの心筋障害と骨格筋障害の鑑別に用いられる。)を検査項目に含めた血液検査をオーダーした。

(乙A4-p21)

ケ 同日午前10時44分ころ

心電図検査が行われた。その結果,洞調律であり,完全右脚ブロック及び陰性T波が認められ,中隔心筋梗塞及び前側壁心筋虚血の疑いがあると判断された。E医師は,F医長に対し,Aが心筋梗塞を発症している可能性の有無に関して相談したところ,F医長は,右脚ブロックの波形があるために心電図の読解が難しいこと,従前の心電図との比較が必要であることを述べた。その後,F医長は,平成16年9月21日に行われたAの心電図検査の結果と本件心電図検査の結果とを比較し,概ね陰性T波に関して変化がないとの意見を述べた。E医師は,このころ,Aに対し,再度ミオコールスプレーを2回噴霧した。

また,このころ,E医師は,Aが診察を受けていたK内科クリニックのK医師から電話を受け,同医師とAの病状に関する話をするうちに,Aの原因疾患として肺血栓塞栓症の可能性を考えた。

(乙A2-p7,3-p6・p8)

コ 同日午前11時30分ころ

血圧は82/49,心拍数は96回/分,SpO2は92%であった。

(乙A4-p30・p31)

サ 同日午前11時50分ころ

上記クのオーダーに係る血液検査(同日午前11時5分ころ採血)の結果が出た。同検査結果は,トロポニンTが陽性,CKMBが9IU/ℓ(下限値0IU/ℓ,上限値24IU/ℓ),ASTが375IU/ℓ(>上限値),ALTが138IU/ℓ(>上限値),CPKは73IU/ℓであった。

E医師は,同検査結果が上記ウの血液検査の結果と比べて循環動態が大きく変化していることを示すものであること,一般に心筋虚血を示すトロポニンTが陽性であり,心筋梗塞が起きると上昇するASTの値が上昇するとともに,ALTの値も上昇している一方,心筋に異状があれば数値が上がるCPK(クレアチンキナーゼ)及びCKMBの各値が異常値でないことから,以上の所見は,心筋梗塞を示唆するものではなく,肝臓に異状があり,肝臓の血流が低下していることを示すものと推測した。E医師は,F医長の意見も聴いて,Aの原因疾患として,右心系に負荷が掛かる疾患である肺血栓塞栓症又は右心系の弁疾患の可能性があると考え,F医長に対し,心エコー検査の実施を依頼し,同日午前11時54分ころ,同検査をオーダーしたが,F医長から,午後でないと心エコー検査はできない旨言われた。

(乙A2-p7・p17,4-p21・p53)

シ 同日午後0時ころ

血圧は84/46,心拍数は96回/分,呼吸数は30回/分,体温は35.7℃,SpO2は93%であった。

(乙A4-p30・p31)

ス 同日午後0時11分ころ

このころ看護師詰所にいたC医師は,E医師とF医長の相談の結果を踏まえて,Aの胸部レントゲン検査をオーダーし,同日午後0時20分ころ,同検査が行われた。

(乙A4-p21)

セ 同日午後0時40分ころ

F医長は,Aに対し,心エコー検査を行った。同検査中,AのSpO2が低下して89%~90%となったため,酸素投与の量を7ℓ/分に増やされた。

同検査の結果,左室は右室からの圧排があり,右心房の顕著な拡大があり,右室の拡大があり,三尖弁の逆流が高度であり,下大静脈の拡大があった。F医長は,同検査の結果,顕著な右心負荷が見られたことから,肺梗塞が疑われると診断した。

(乙A2-p7・p8・p13,4-p25)

ソ 同日午後0時52分ころ

E医師は,肺血栓塞栓症を疑って造影CT検査をオーダーした。Aは,同検査が行われるまで酸素7ℓ/分の投与を受けて待機することとされた。

(乙A4-p22・p25)

タ 同日午後1時ころ

Aは,CT検査室へ移動した。酸素7ℓ/分の投与下でSpO2は80%であった。Aは,ベッドからCT検査台へ移動された際,SpO2が66%に低下した。酸素マスクにより酸素10ℓ/分が投与されたところ,SpO2が80%台後半まで回復した。Aは開眼しており,呼び掛けに対してうなずく反応があった。

(乙A4-p25)

チ 同日午後1時15分ころ

Aは,CT造影剤用の血管確保中,顔面が蒼白となり,呼吸が停止し,頸動脈の脈拍を触れることができない状態となった。その後,Aは,自発呼吸が停止し,心電図モニター上,PEA(電気機械解離)ないし心停止となり,瞳孔は右が7mm,左が3mmとなった。B病院内の救急チームが呼び出され,Aに対し,心臓マッサージ,バッグマスク換気等の蘇生処置が開始された。

(乙A2-p8,4-p25)

ツ 同日午後1時20分ころ

7Frチューブが気管内に挿管され,心臓マッサージが継続された。同日午後1時25分,Aは病棟に移動した。

(乙A2-p8,4-p25)

テ 同日午後1時26分ころ

血液検査が行われ,その結果は,CKMBが17IU/ℓ,ASTが568IU/ℓ(>上限値),ALTが212IU/ℓ(>上限値),LDHが896IU/ℓ(>上限値)であった。

(乙A2-p18)

ト 同日午後1時30分

SpO2は83%,脈を触れることができない状態であり,人工呼吸器が装着された。

(乙A2-p8,4-p25)

ナ 同日午後1時30分ころから午後1時55分ころ

ボスミン,硫酸アトロピン等の薬剤が投与されたが,心電図モニター上,PEAの状態は変わらなかった。

同日午後1時43分ころ,血液ガス分析が行われ,その結果は,pHが6.893(<下限値),pCO2が41.2mmHg,pO2が60.1mmHg(<下限値),BEが-24.2mmol/ℓであった。

(乙A2-p8・p19,4-p25・p26・p54)

ニ 同日午後2時20分ころから午後3時6分ころ

プロタノール,ラシックス等の薬剤が投与された。

同日午後2時54分ころ,血液ガス分析が行われ,その結果は,pHが6.936(<下限値),pCO2が83.7mmHg(>上限値),pO2が41.5mmHg(<下限値),BEが-13.8mmol/ℓ(<下限値)であった。

(乙A2-p8・p20,4-p26・p55)

ヌ 同日午後4時11分

E医師により,Aの死亡が確認された。

(乙A2-p9,4-p26)

2  医学的知見(甲B1~3,7,乙B1,2,4,鑑定の結果)

(1)  急性肺血栓塞栓症の病態

同疾患は,静脈,心臓内で形成された血栓が遊離して,急激に肺動脈及びその分枝を閉塞することにより血流が途絶して生じる疾患である。同疾患は,肺動脈の閉塞による循環虚脱と換気血流不均等分布による急性Ⅰ型呼吸不全(高炭酸ガス血症を伴わない低酸素血症)が主たる病態であり,急激な肺高血圧が生じると右室不全から低心拍出量症候群,ショックとなり,急性死に至ることもある。

(2)  急性肺血栓塞栓症の原因,危険因子

同疾患の塞栓源は,主に下肢及び骨盤内の深部静脈血栓である。肺血栓塞栓症の危険因子は,①血流の停滞(うっ滞),②血管内皮障害,③血液凝固能の亢進である。

(3)  急性肺血栓塞栓症の診断

同疾患は致死性の疾患であることから,これを疑った場合はできるだけ早急に診断するよう心掛けるべきであるとされている。同疾患は,身体症状,身体所見,一般検査所見において特異的なものがないことから,診断は困難であるとされている。

ア 臨床所見

(ア) 自覚症状

急性肺血栓塞栓症と診断できる特異的なものはないが,突然の呼吸困難や胸痛を訴える頻度が高い。呼吸困難は,突発的で頻呼吸を伴うことが多い。これらの他に,強い全身倦怠感,動悸,失神,冷汗,咳嗽,血痰等が認められる。呼吸困難と胸痛を示す疾患には,急性心筋梗塞,大動脈解離,気胸,肺炎,胸膜炎,慢性閉塞性肺疾患,同疾患の悪化,胸腔内腫瘍,心不全等があり,これらを鑑別する必要があること,他に説明ができない突然の呼吸困難で,危険因子がある場合には,急性肺血栓塞栓症を鑑別診断に挙げなくてはならないとされている。

(イ) 身体所見として頻呼吸,頻脈,頸静脈怒張,ショック・低血圧等がある。胸部聴診所見として,Ⅱp音亢進,Ⅲ音,Ⅳ音を認めるとするものがあるが,特異的なものはないとされている。

イ 検査所見

(ア) 心電図

右側胸部誘導(V1~V3)における陰性T波が多く見られる。また,不完全右脚ブロックやⅠ誘導におけるS波,Ⅲ誘導におけるQ波及び陰性T波がよく知られているが,頻度は必ずしも高くない。しかし,急性肺血栓塞栓症に特異的な心電図所見は存在しない。

(イ) 胸部レントゲン

心胸比拡大,肺動脈の拡大,胸水貯留,閉塞肺動脈領域の透過性亢進を認めることがあるが,ほぼ正常であることが多く,診断に直接結び付く特異的な所見はない。ただし,胸部レントゲン検査は,低酸素血症を招く他の心肺疾患との鑑別に役立つことがある。

(ウ) 一般血液検査

特異的な所見はない。白血球,LDH又はASTが上昇したり,赤沈が亢進することがある。また,FDP(蛋白分解酵素の作用で血液凝固により生じたフィブリンが分解されて生じる物質),D-ダイマー値(フィブリン形成後の線溶の指標)は,炎症を含む様々な病態で上昇するため,肺血栓塞栓症の証明には不向きであるが,これらが正常値であった場合は,同疾患の発症を否定的にとらえることができる。

(エ) 血液ガス

低酸素血症を認めることが多い。過換気のために低炭酸ガス血症を認めることも多い。

(オ) 心エコー

簡便で実用的な方法であり,肺血栓塞栓症の検査手順として有用であるとされている。右室拡大,心室中隔の奇異性運動,三尖弁逆流,下大静脈の拡大等の右室負荷の所見が認められる。

(カ) 肺血流シンチグラム

血流の欠損を認める一方で,換気は正常かやや低下する所見(換気血流不均等)が認められることがある。ただ,特異性が低いとの批判があり,確定診断に関する同検査の評価は一定していない。

(キ) 肺動脈造影

確定診断に最も有用な検査方法である。肺血管内の造影欠損や血流途絶像が主要所見である。肺動脈圧や右室圧等の測定も可能であり,急性肺血栓塞栓症の重傷度の評価に役立つ。

(4)  治療

急性肺血栓塞栓症の治療は,肺血管床の減少により惹起される右心不全及び呼吸不全に対する急性期の治療と,血栓源である深部静脈血栓症からの同疾患の再発予防のための治療とに大別される。可及的速やかに治療を開始することが原則である。

ア 呼吸循環の管理

ショックを伴う症例では,強心薬の投与を少量から開始する。高用量の酸素を投与し,それでもなお低酸素血症が持続する場合は,気管内挿管を考慮する。

イ 抗凝固療法

まず,肺動脈内,塞栓源における新たな血栓の生成を予防するとともに,血栓により分泌される神経液性因子の放出を阻止することにより肺血管,気管支の攣縮を抑制し,肺高血圧,低酸素血症を改善するために,ヘパリンを投与する。

ウ 血栓溶解療法

血栓溶解薬としてt-PA又はウロキナーゼが用いられる。適応は,急性の血行動態異常(低血圧,低酸素血症又は明らかな右室負荷)を示す場合とされる。出血の副作用があることから,脳血管障害,消化管出血,最近の手術や外傷の既往,出血性素因の有無等の確認が必要である。

エ 下大静脈フィルター

下大静脈の腎静脈直下に金属製のフィルターを恒久的に留置して塞栓子の移動を予防する治療法であり,下肢や骨盤の血栓が再度肺血管へ移動することを予防するものである。適応は,①抗凝固療法の禁忌例,②肺血栓塞栓症の再発例,③ハイリスク患者(広範又は進行性の静脈血栓),④肺動脈血栓摘除術後の症例等であるとされる。

オ 血栓除去

経カテーテル的血栓吸引,破砕や肺動脈血栓摘除術により,血栓を除去する治療である。

3  争点①(担当医師等の注意義務違反の有無)について

(1)  急性肺血栓塞栓症についての検査義務違反の有無について

ア(ア) 原告は,担当医師は,搬送時から21日午後10時ころまでの間に得られた所見等から,Aについて急性肺血栓塞栓症を疑い,直ちに鑑別診断のための心エコー検査及び造影CT検査を行うべき注意義務があったにもかかわらず,これを怠ったと主張する。

(イ) 前記1の認定事実(以下「前記認定事実」という。)(1)によれば,上記の間に担当医師(C医師)が得たAの所見等は,2,3日前から呼吸困難感があり,昨日(20日)から食欲低下があり,全身倦怠感も出現したという搬送時におけるAの説明,バイタルサイン,血液ガス分析の結果,胸部レントゲン写真及び心電図検査の結果であり,バイタルサイン,血液ガス分析の結果,胸部レントゲン写真及び心電図検査の結果の各具体的内容は,(1)のア~サのとおりであることが認められる。

以上の所見等及び鑑定の結果(鑑定要旨を含む。以下同じ。)中これらの所見等に関する各鑑定人の意見によれば,Aは,搬送時から同日午後10時ころまでの間に呼吸困難,低血圧,低酸素血症の状態,症状を呈していたことが認められる。なお,後方視的にみてAが搬送時の時点で急性肺血栓塞栓症を発症していたことは当事者間に争いがない(前提事実(2)オ)ところ,このことを前提とすると,上記の間にAに見られた上記の状態,症状は,同疾患によるものであったということができるが,上記の間に担当医師がAについて同疾患を疑い,診断することができたかどうかは別の問題である。

(ウ)a 前記認定事実(1)によれば,搬送時から入院時までの間Aの担当医師であったC医師は,file_2.jpg血液ガス分析の結果については,pO2とpCO2が少し低いこと,SaO2の数値とSpO2の数値に乖離があること,貧血が少しあること,炎症反応は問題となるほど上昇していないことを認め,pO2の値については,Aの年齢に照らすと異常値ではないと考え,pCO2の値については,年齢的なものと過換気状態が原因であると考えたこと,file_3.jpg本件レントゲン写真については,心胸比が60.51%であり,肺野はクリーンで明らかな肺炎像は認められないと判断したこと,file_4.jpg本件心電図検査の結果については,心拍数が87回/分,洞調律であること,完全右脚ブロック及びV2~V6誘導における陰性T波を認めたが,以上の点は,Aが貧血,糖尿病等で受診していた間の平成16年9月21日に行われた心電図検査の結果と比較して大きな変化はないと判断したこと,file_5.jpg以上の所見等に基づいて,緊急を要する疾患の発症は疑わず,慢性的な呼吸器疾患が背景にあるのではないかと考え,経時的な経過観察の必要があると判断して,Aを入院させることとしたこと,file_6.jpg2,3日前から呼吸困難感があった旨のAの説明,酸素投与により酸素飽和度が改善したこと,下肢浮腫がなかったことなどから,急性肺血栓塞栓症の発症は念頭になかったこと,以上の診断及び判断をしたことが認められる。

b 鑑定の結果によれば,file_7.jpgAのpO2(69.4mmHg)は下限値とされている値(75mmHg)より低い値であったものの,低さの程度は大きくなく,わずかな低酸素血症があって努力呼吸をすることによりカバーしている状態であり,呼吸不全(一般にpO260mmHg以下であると定義されている。甲B9,13)と評価されるほどの重篤な低酸素血症ではないといえること(鑑定人L,同M),file_8.jpg本件レントゲン写真からは,心臓の陰影が若干大きく,左第2弓肺動脈の起始部が少し太いことが認められるが,著明に大きい又は太いというものではなく,肺野については透過性亢進を含め異状と認める所見はないこと(鑑定人N,同L,同M),file_9.jpg本件心電図検査の結果からは,右側胸部誘導における陰性T波が認められるものの,同所見は,Aが貧血,糖尿病等で受診していた間の平成16年9月21日に行われた心電図検査の所見とほぼ同じであって,新たな変化を指摘することができないものであること(鑑定人N,同M),file_10.jpg搬送時から21日午後10時ころまでの間に得られたAの所見等は,いずれも肺血栓塞栓症に特異的な所見ではなく,摂食不良による脱水,消化管出血(貧血),心筋梗塞,誤嚥性肺炎等の疾患においても見られるものであること(前記2の医学的知見,鑑定人N,同M),file_11.jpgこれらの点からすると,救急外来の臨床現場において,上記の間に得られた上記所見等からAにつき急性肺血栓塞栓症を積極的に疑うことは困難であったと結論づけている(鑑定人N,同L,同M)。そして,同結論を左右するに足りる事情はない。

c 以上によれば,担当医師(C医師)の上記aの診断及び判断は,不適切なものとはいえず,Aにつき急性肺血栓塞栓症を疑わなかったことが担当医師(C医師)に求められる注意義務に反するものということはできない。

(エ)a 上記(ウ)の点に関して,原告は,呼吸困難や胸痛を訴える患者の初診時に見逃してはならない致死性の高い3大疾患の一つに肺梗塞があり,このような患者を診る医師は,致死性の高い急性肺血栓塞栓症を念頭において診察,検査を進めなければならないと主張する。

確かに,前記2の医学的知見によれば,同疾患により急激な肺高血圧が生じると,右室不全から低心拍出量症候群,ショックとなり,急性死に至ることがあることが認められ,このことから,file_12.jpg「絶対に見落としてはならない致死的3大胸痛疾患が,急性心筋梗塞,解離性大動脈瘤,肺梗塞の3つである。」(甲B9,13),file_13.jpg「胸痛を訴える患者の初療の際には,絶対に鑑別診断から落としてはならない。」(甲B12),file_14.jpg「呼吸困難や胸痛を訴える患者を見たときは,常にこの疾患(急性肺血栓塞栓症)を念頭におくべきである。まず,疑うことが重要である。」(甲B1)と指摘する文献が存在する。

しかし,前記認定事実(1)によれば,Aには搬送時から21日午後10時までの間に胸痛の所見はなかったから,上記file_15.jpg及びfile_16.jpgの各指摘部分をAに当てはめる前提を欠く上,file_17.jpgの指摘をしている文献は,上記3大疾患を病歴や身体所見から疑い,胸部X線や心電図で鑑別して見落とさないようにする旨記載しているところ,上記(ウ)のとおり,上記の間におけるAの状態,症状に係る所見並びに本件レントゲン写真及び本件心電図検査の各結果から同疾患を疑うことは困難であったから,担当医師(C医師)において同疾患を疑わなかったことが,上記file_18.jpg及びfile_19.jpgの指摘に反するものということはできない。また,file_20.jpgの指摘については,肺血栓塞栓症は,近時我が国においても増加する傾向にあって一般にも浸透しつつあるものであるが,心筋梗塞等と比較して発症率が低いことから,本件当時,循環器内科以外の臨床医において,呼吸困難を訴える患者について肺血栓塞栓症を鑑別診断に挙げることができる者は多くない状況にあったこと(鑑定人M)からすると,上記指摘は,急性肺血栓塞栓症の早急な診断のための一つの理想的な在り方を示したものであると解され,循環器内科以外の臨床医において,呼吸困難を訴える患者すべてについて同疾患を疑って診察,検査をする義務を負うとまではいえない。そして,上記(ウ)bのとおり,鑑定の結果によれば,いずれの鑑定人も,同疾患が致死的な疾患であることを前提とした上で,21日午後10時までに得られたAの所見等から同疾患を疑うことは困難であったとしている。

以上によれば,原告の上記主張は採用することができない。

b また,原告は,Aは搬送時にプレショック状態又は少なくともプレショック状態を疑うべき状態であり,低酸素状態が呼吸不全に該当する重篤なものであったから,致死性の高い疾患を鑑別すべき状況にあったと主張する。

しかし,Aの低酸素血症に関しては,呼吸不全と評価されるほどの重篤なものでないことは上記(ウ)bfile_21.jpgのとおりであるから,この点において原告の主張はその前提を欠くものであるし,Aが搬送時にプレショック状態又は少なくともプレショック状態を疑うべき状態であったとの指摘に関しては,後記(2)アのとおり,搬送時におけるAの状態から直ちにAにつき致死性の高い疾患を鑑別すべき状況にあったと認めるには足りない。

したがって,原告の上記主張は採用することができない。

(オ) 以上によれば,担当医師(C医師)が21日午後10時の時点までにAの所見等から急性肺血栓塞栓症を疑わなかったことを注意義務違反ということはできない。そうすると,担当医師(C医師)が同疾患の疑いを持つべきことを前提とする原告の上記(ア)の検査義務違反の主張は採用することができない。

イ(ア) 原告は,担当医師は,遅くとも22日午前9時14分採血分の血液検査の結果が得られた時点で,Aにつき急性肺血栓塞栓症を疑い,直ちに鑑別診断のための心エコー検査を行うべき注意義務があったにもかかわらず,これを怠ったと主張する。

(イ) 上記血液検査の結果は,前記認定事実(3)ウのとおりであり,AST及びLDHの各値は,それぞれの上限値とされている値より高いものであったことが認められる。そして,前記2の医学的知見によれば,急性肺血栓塞栓症では,LDH又はALTが上昇することがあることが指摘されており,鑑定の結果によれば,鑑定人Lは,上記血液検査の結果及びAの呼吸困難,低酸素血症,血圧低下という所見を総合すれば,Aについて肺血栓塞栓症を疑うに足りると考えられる旨の意見を述べている。

しかし,上記血液検査の結果は,採血後直ちに出るものではないところ,同結果が出た時間については,これを具体的に特定し得る証拠はないが,Aに係る22日午前11時5分採血分の血液検査の結果が出たのがそれから約45分後の同日午前11時50分ころであること(前記認定事実(3)サ)からすると,採血された同日午前9時14分から同程度の時間が経過した同日午前10時ころであったと推認することができる。そうすると,同時刻の時点では,E医師がAの診察を始めており(前記認定事実(3)オ),それ以後のE医師の対応については,鑑定の結果によれば,いずれの鑑定人も,上記の時刻以降にE医師が行ったAに対する診療行為等は急性肺血栓塞栓症に対するものとして適切であるとの意見であり,同意見を左右するに足りる事情はない。

(ウ) 以上によれば,原告の上記(ア)の主張は採用することができない。

(2)  ショック状態に対する全身管理義務違反の有無について

ア(ア) 原告は,Aは搬送時の時点でプレショック状態又は少なくともプレショック状態を疑うべき状態であり,担当医師は,入院時から適正な輸液管理のためにできるだけ早期に心エコー検査により低血圧及び低酸素血症の原因を究明すべき注意義務があったにもかかわらず,これを怠ったと主張する。

(イ) 前記認定事実(1),(2)によれば,搬送時から21日午後10時ころまでの間に得られたAの所見等は,上記(1)ア(イ)で説示した呼吸困難,低血圧,低酸素血症の状態,症状があったほか,顔面が蒼白であり,発汗があり,少量の黒茶色泥状便があったこと,同時刻ころから入院を経て同日午後10時30分ころまでの間のAのバイタルサイン,担当医師が認めたAの所見等の具体的内容は,前記認定事実(2)のア及びイのとおりであることが認められる。そして,前記認定事実(2)によれば,入院時以降Aの担当医師であったD医師は,それまでに行われた血液ガス分析の結果,本件レントゲン写真,本件心電図検査の結果,C医師からの申し送り事項及び自らの診察の結果を基に,Aが従前から糖尿病及び貧血に対する診療のためにB病院に通院していたこと,20日から食欲が低下して全身倦怠感を訴えていたことから,Aにつき摂食不良を原因とする脱水や低蛋白血症を起こした可能性があると考え,また,本件レントゲン写真から得られた所見等から心不全を起こした可能性もあると考え,これらの疾患を基にAは呼吸不全を起こした可能性があると判断し,他方,Aに肺血栓塞栓症の危険因子が認められないことから,急性肺血栓塞栓症の発症は考えなかったことが認められる。

(ウ) 鑑定の結果によれば,収縮期血圧が90mmHg以下であること,顔面が蒼白であること,発汗があることは,ショックの病態に該当する又はその病態として見られる身体状態であることが認められる。他方,前提事実,前記認定事実(2)のア及びイ並びに鑑定の結果によれば,Aは,収縮期血圧については,救急車でB病院に搬送中(21日午後8時4分ころから午後8時10分ころ(甲A1の2))は102mmHgであったところ,搬送時(同日午後8時10分)には84mmHg~88mmHgに,午後8時58分ころには77mmHgに低下したものの,同日午後9時1分ころには95mmHgに回復したこと,心拍数については,上記のとおり血圧の低下があったにもかかわらず,搬送時から同日午後9時50分ころまでの間は85回/分~94回/分の範囲内であり,頻脈とまではいえないものであること(鑑定人N),同日午後8時33分採血分の血液ガス分析の結果において,BEは-0.7mmol/ℓであったことが認められる。

以上の事実関係によれば,Aの収縮期血圧は,入院時より前の時点で90mmHg以上の状態に回復しており,その後入院時までに,血圧が急激に低下したり,重篤な循環不全の状態が継続していたことをうかがわせる事情は認められず,鑑定の結果では,以上のAの状態に関して,全身の酸素欠乏状態が長時間続いていた形跡はないとしている(鑑定人L,同M)。そして,前記認定事実(1),(2)アによれば,Aは,搬送時から入院時にかけて意識障害はなく,酸素投与を受けたことにより呼吸困難も改善し,入院時の診察の際には担当医師(D医師)と会話することができているのであるから,担当医師(D医師)がAについて重篤感を持たなかったこと(証人D)に問題があるということはできず,したがって,担当医師(D医師)が,ショックとの関係で,緊急にAに生じている状態の原因を鑑別し,直ちに治療を開始することを必要とする状況にあったということはできない。そうすると,担当医師(D医師)が,入院時において,Aにつき摂食不良を原因とする脱水,低蛋白血症及び心不全を起こした可能性があると考え,それまでに行われていた酸素投与及び点滴を継続して経過観察を行うこととしたことが不適切であったということはできず(鑑定人N,同M),同時点において心エコー検査を行わなかったことが診療上の注意義務に違反するものと認めることはできない。

(エ) 以上によれば,原告の上記(ア)の主張は採用することができない。

イ(ア) 原告は,Aは22日午前4時30分の時点においてショック状態であったから,これを現認したG看護師は,担当医師に対し,Aのショック状態を報告すべきであり,担当医師は,Aのショック状態の原因を鑑別診断するために,同時点の直後又は遅くとも同日午前9時ころに血液ガス分析を含む血液検査及び心エコー検査をすべきであったと主張する。

(イ) まず,G看護師が22日午前4時30分の時点で担当医師にAの身体状態を報告すべきであったかについて検討する。

a 前記認定事実(2)カ(ア)によれば,G看護師らは,同時刻ころ,病室を訪れ,眠っていたAに声を掛けて仰臥位から左側臥位へ体位変換をしたところ,Aは,少量の排便をした状態であり,その後,突然呼吸苦,嘔気を訴え,全身に冷汗があって顔面が蒼白であり,収縮期血圧が84mmHgに低下し,SpO2が90%~93%であったことが認められる(以下,上記のAの身体状態の変化及びその状況を「4:30の出来事」という。)。

b 前記認定事実(2)カの(イ)及び(ウ),同キによれば,G看護師は,4:30の出来事に対して,Aに心肥大があったことから心負荷が掛かって循環動態に変化が起こったと考えて心電図モニターを装着し,低血糖を疑って血糖値を測定し,他の看護師と交替で病室内でAの様子を観察したこと,Aの心電図モニターの波形,心拍数及び調律の状態は,入院時のものと比較して特段の変化がなく,その状態は同日午前7時30分ころまで同じであったこと,Aの嘔気は数分で消失し,特段の処置をしないままで同日午前5時ころまでには状態が落ち着き,血圧は94/66に回復したことが認められる。

c 証人Gの証言によれば,G看護師は,4:30の出来事があった後約30分程度でAの状態が落ち着き,収縮期血圧が90mmHg台に回復したことから,4:30の出来事を当直医に報告しなかったことが認められる。これによると,G看護師が4:30の出来事を当直医に報告しなかった理由は,G看護師が4:30の出来事を一時的な身体状態の変化であると判断したことにあると推認される。

d そこでG看護師の上記判断の当否を検討するに,上記a~cの認定事実及び前記認定事実(2)のエ及びクによると,Aは4:30の出来事があった後特段の処置をしないままで約30分程度で落ち着いた状態になり,収縮期血圧も94mmHgに回復したこと,G看護師は,22日午前0時30分ころ,準夜勤の看護師からAの担当を引き継ぐ際に,Aは酸素3ℓ/分の投与によりSpO2が97%~99%の状態を維持して経過観察中であること,夜間はSpO2が92%以上の状態を維持するとの指示事項について申し送りを受けたこと,SpO2は,4:30の出来事があったときは90%~93%,同日午前4時46分ころは93%であり,申し送りを受けた上記指示事項をほぼ満たすものであったこと,同日午前6時45分に病室を訪れた際,Aの血圧は90/60であって,収縮期血圧は90mmHg台を維持していたことが認められる。以上の事実関係を併せ考慮すると,G看護師の上記判断には,相応の理由があるということができる。

e この点に関し,鑑定人Lは,搬送時から22日午前4時30分ころまでの間のAの身体状態からすると,G看護師の上記判断は甘く,4:30の出来事は医師に報告するのが普通である旨の意見を述べ,鑑定人Mは,上記の間のAの身体状態を見た場合,4:30の出来事はかなり重篤な状態であると認識したほうがよく,G看護師は,そのように認識した場合には,4:30の出来事を医師に知らせるべきであったと思うとの意見を述べている。しかし,上記dのとおり,G看護師の上記判断には相応の理由があるといえるものであり,この点と上記各鑑定人の意見の内容を併せ考えると,上記各鑑定人の意見の趣旨は,Aの身体状態に照らし,G看護師は4:30の出来事を当直医に報告するのが望ましかったことをいうものと解される。

f 以上によると,G看護師は,4:30の出来事について,上記各鑑定人がいうように医師に報告するのが望ましかったと考えられるが,4:30の出来事を一時的な身体状態の変化であると判断したことには相応の理由があり,その結果,4:30の出来事を当直医に報告しなかったことが担当看護師に求められる注意義務の違反に当たるとまではいうことができない。

(ウ) 次に,担当医師が22日午前4時30分の直後の時点においてAのショック状態の原因を鑑別診断するために血液ガス分析を含む血液検査及び心エコー検査をすべきであったかについて検討する。

同時点において担当医師が4:30の出来事を認識していたと認めるに足りる証拠はない。そして,G看護師が医師に4:30の出来事を報告しなかったことが注意義務違反に当たるということができないことは,上記(イ)で説示したとおりである。そうすると,同時点において担当医師に上記各検査を行う注意義務を求める前提を欠く。

なお,鑑定の結果によれば,いずれの鑑定人も,同時点で血液ガス分析を含めた血液検査をするのが相当であった旨の意見を述べているが,また一方,血液検査の結果からは,Aがショック状態であるのかどうかが判定できるにとどまり,ショック状態であると判定できる場合には,それが心原性のものかそうでないものかを判別しなければ治療手段を選択することができず,その判別手段として心エコー検査が有用である旨を述べている。そして,同検査の実施については,鑑定人Lは,上記時刻の直後の時点で何が何でも同検査をするべきであるとはいえないとの意見を述べており,他の2人の鑑定人も,同時刻の時点で同検査を実施すべきであったとの意見は述べていない。そうすると,仮に担当医師が4:30の出来事を上記時刻のころに認識し得たとしても,その直後の時点で上記各検査を行うことが担当医師として求められる注意義務の内容になるとはいい難い。

(エ) 最後に,担当医師が22日午前9時の時点においてAのショック状態の原因を鑑別診断するために血液ガス分析を含む血液検査及び心エコー検査をすべきであったかについて検討する。

前記認定事実(2)のキ~シ,同(3)によれば,4:30の出来事におけるAの状態が落ち着いた同日午前5時ころ以降同日午前9時ころまでの間のAの身体状態は,同日午前7時30分ころにベッドを挙上した際にSpO2が一時的に下がった以外,大きな変動はなかったこと,同日午前9時ころには,同日の日中勤務態勢におけるAの担当医師がH部長により指名されたが,当該担当医師は原告の意向によりAを診察することができなかったこと,その後,同日午前10時ころにE医師による診察が行われたこと,E医師は,Aの身体状況にかんがみて,緊急に蘇生処置に準ずるショック治療を必要とすることはないと判断したが,血圧が低下していたことから急性心筋梗塞等の循環器系の疾患が起こっている可能性があると考え,症状の解明検討を開始したこと,E医師は,上記診察及びそれまでに得られていたAの所見等に基づき,同日午前10時31分ころに血液検査をオーダーし,同日午前11時5分ころ採血され同日午前11時50分ころに出された血液検査の結果等から,F医長の意見も聴いて,原因疾患として,右心系に負荷が掛かる疾患である肺血栓塞栓症又は右心系の弁疾患の可能性があると考え,F医長に対し,心エコー検査の実施を依頼し,同日午前11時54分ころ,同検査をオーダーしたことが認められる。

以上認定された同日午前9時以降の一連の診療行為等をみると,原告が問題として取り上げる同時刻の時点における担当医師の検査不実施については,担当医師に指名された医師がそのころAを診察できなかった状況があったところ,当該状況は原告の意向により生じたものであり,担当医師側に非を問うのは相当でない。そして,Aの死亡原因が急性肺血栓塞栓症であることは当事者間に争いがないことからすると,前記認定事実(2)シ及び同(3)で認定した同時刻の前後に見られたAの諸々の身体状態は同疾患によるものと推認することができるから,Aの当該身体状態の原因を鑑別することは,すなわち急性肺血栓塞栓症の鑑別をするのと同じものとなることが考えられるところ,鑑定の結果によれば,いずれの鑑定人も,上記の時刻以降にE医師が行った当該身体状態のAに対する診療行為等は急性肺血栓塞栓症に対するものとして適切であるとする意見であり,同意見を左右するに足りる事情はない。

そうすると,同日午前9時の時点において,担当医師に,Aに生じたショック状態の原因を鑑別診断するための血液ガス分析を含む血液検査及び心エコー検査を怠った注意義務の違反があるということはできない。

(オ) 以上によれば,原告の上記(ア)の主張はいずれも採用することができない。

第5結論

以上のとおり,原告が主張する担当医師等の義務違反を認めることができないから,原告の請求は,その余の点について判断するまでもなく,理由がないというべきである。よって,原告の請求をいずれも棄却することとし,訴訟費用の負担につき民訴法61条を適用して,主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 青野洋士 裁判官 下澤良太 裁判官 高山慎)

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