大阪地方裁判所 平成19年(わ)1721号 判決 2008年9月09日
主文
被告人は無罪。
理由
第1本件公訴事実
本件公訴事実は,「被告人は,1室を賃借していた大阪市a区所在の共同住宅(木造一部鉄骨造瓦葺2階建共同住宅,床面積合計約233.4平方メートル,以下「本件共同住宅」という。)に放火しようと決意し,平成18年10月6日午後1時30分ころ,現に10名が住居に使用し,かつ,現に6名がいる本件共同住宅の105号室被告人方3畳間において,同所の鴨居に吊してあったカーテンに,所携のライターで点火して放火し,その火を同所の天井,柱等に燃え移らせて,本件共同住宅を全焼させて焼損した」というものである。
第2事案の概要及び当裁判所の判断
当裁判所は,被告人が本件犯行に及んだことは間違いないものの,被告人は,犯行当時,精神遅滞,統合失調症に罹患し,幻聴に支配,少なくとも強く影響されて本件犯行に及んだもので,その責任能力を否定せざるを得ないものと判断した。
以下,このような結論に至った理由を説明する。
1 本件における争点及び当事者の主張
被告人が本件犯行に及んだことは明らかである。また,被告人が統合失調症に罹患していた可能性があり,これに影響されて本件犯行が行われたことは検察官も否定していない。したがって,本件における争点は,本件犯行当時,被告人の責任能力を否定すべき状況にあったといえるかという点にある。
(1) 検察官は,次のとおり主張する。
ア 確かに,被告人が本件犯行当時,妄想型統合失調症に罹患していた可能性は否定できない。しかし,Y医師が「その程度が非常に激しいものであるとは考えられない」旨の鑑定意見を述べている上,被告人が長年通院していたA診療所で本件犯行前約1か月間治療を受けていたこと,本件犯行翌日以降の入通院期間がわずか7日間にとどまっている点等からすれば,前記統合失調症の程度は,比較的軽度であったことが明らかである。そして,Y医師の鑑定意見によって,本件犯行当時,被告人に幻聴があったことが否定されるか,少なくとも,被告人の行動を支配する程度のものであったとはいえず,いずれにせよ本件犯行は幻聴に直接支配されたものとはいえない。
イ 被告人は,障害者通所更生施設の利用者として,通常の社会生活を営んでいたものであり,職員も,その行動に異常を感じていない点からみても,本件犯行前,被告人に特に異常がなかったことが明らかである。
ウ そして,信用すべき被告人の捜査段階の自白調書から,被告人は睡眠障害や焦燥感等を晴らそうと考え,ゴミ箱に捨てたティッシュに火をつけたものの,すぐに鎮火したため,面白くない,もっと火をつけてやろうと考えカーテンに点火したものである。犯行後,恐怖を感じ,その場から逃げた上,バケツに水をくんで不十分ながらも消火活動を行ったこと,現場から逃走し,その途中,婦人警官に職務質問を受けたものの,捕まったら死刑になると考え,放火の犯人であることをいわなかった事実も明らかである。このように犯行動機が十分了解可能なものである上,その犯行態様や犯行後の行動も了解可能で格別不自然な点はない。
エ 以上によれば,被告人は,本件犯行当時,心神喪失の状態にはなく,心神耗弱の状態にとどまっていたものと認められる。
(2) 一方,弁護人は,以下のように主張する。
ア Z医師の鑑定意見によって,被告人が,本件犯行当時,軽度と中等度の境界領域の精神遅滞にあった上,平成18年5月以降,抗精神病薬の投与が中止されたことにより,幻聴,妄想や焦燥感などの精神症状が進行し,本件犯行直前までにそれが相当悪化し,かなり重い統合失調症に罹患していたことが明らかである。
イ 被告人は,このような状況の下,被告人が公判で述べ,Z医師が認めているとおり,3名の男性の執拗な幻聴に耐えきれず,これに支配されて本件犯行に及んだものである。
ウ 本件犯行動機は,幻聴に指示命令され,煙にまかれて死のうというもので了解不可能である。犯行の手段・態様も,「家に帰れ」という幻聴に指示命令され,自宅に戻ってアルバムを見ていたところ,「死ね,死ね」「火をつけろ」という3名の男性の声が何度も聞こえ,その場にあったライターで火をつけたという,無計画かつ衝動的なものである。私物が置いてある自宅アパートに火をつける行動自体が異常であるし,1度はバケツの水をかけたものの,その直後,火が燃え煙が出ている現場に10分も居座り続けていたことは明らかに異常である。
エ 以上によれば,本件犯行当時,被告人には責任能力がなかったことが明らかである。
(3) 既述の当事者双方の主張からも明らかなように,本件においては,犯行当時における被告人の精神疾患の状況,それがどのように本件犯行に影響を与えたのかという精神医学上の専門知識を要する事柄が争いになっており,この点について意見の異なる①Y医師作成の捜査段階の鑑定書及びこれを補足する公判供述(以下「Y鑑定」という。)と,②Z医師作成の鑑定書及びこれを補足する公判供述(以下「Z鑑定」という。)の2つの鑑定が存在し,各当事者の主張の根拠となっている。
したがって,本件においては,両鑑定のうち,いずれを採用すべきか,あるいは,いずれも不合理な点があって採用できないのか。その上で裁判所として,被告人の本件犯行当時の責任能力をどのように判断すべきかという点が実質的な争点である。
2 Y・Z両鑑定の概要と相違点,その検討
(1) Y鑑定は,「被告人は,中度の精神遅滞(知能年齢7歳4か月)であり,平成13年2月に父親が死亡後,妄想型統合失調症を発症して本件犯行当時も現在も疾病が持続している可能性がある。統合失調症は寛解期にあったと考えられ,持続的に幻聴が出現していた可能性は低く,たとえ幻聴が出現していたとしても,行動を左右するようなものではなく,焦燥を引き起こす類のものであったと考えられる。本件犯行当時,焦燥が著しかったこと,睡眠障害が持続していたこと,中度精神遅滞者で心理的葛藤状態にあったこと等から行動制御能力が著しく低下していた可能性を否定できないものの,事理弁識能力は保持していた」という内容である。
(2) 一方,Z鑑定は,「被告人は,本件犯行当時,精神遅滞と統合失調症に罹患していた。精神遅滞の程度は,元々は軽度であったものが,軽度と中度の境界領域までやや低下している。統合失調症は,遅くとも平成13年2月ごろに発症したもので,そのころから,幻聴や被害妄想が始まり,その後も強弱の波がありながら持続してきたものと考えられる。平成18年5月に,それまで続けられていた抗精神病薬の投薬が中止されたため,幻聴と被害妄想が徐々に悪化し,ある種の緊張状態あるいは亜昏迷も目立つようになり,焦燥感や睡眠障害も次第に強まっていった。本件犯行直前や犯行時には,3人の男が頭の中で,『死ね』『火をつけろ』などの指示命令をする活発な幻聴が続き,焦燥感と希死念慮が高まった。被告人は,これらの幻聴に強く影響され,衝動的にカーテンに火をつけた。被告人は,幻聴,焦燥感,希死念慮などの精神症状の影響下にあった上に精神発達の未熟さもあり,この時には,自分の行為のもたらす結果を全く予測していなかったのであり,本件犯行当時,理非善悪を弁識する能力及びその能力に従って行動する能力は全く失われていた」という内容である。
(3) 両鑑定は,本件犯行当時,被告人が統合失調症に罹患していたと確定的に診断できるのか(①),本件犯行当時,幻聴が出現していたといいきれるのか(②)という点で大きな差がある。
Y医師は,①長年診察を受けていたA診療所のカルテに幻覚や妄想の記載が少ないから,統合失調症に罹患している可能性は否定できないものの違和感を感じるとされる。②一方,幻聴については,<ア>「死ね」などという強い意味を持つ言葉(幻聴)があれば当初から述べるはずなのに,捜査途中から述べているのは不自然である。<イ>同じ日の面談の中でさえも幻聴に関する返答が変わるのはおかしい。<ウ>病気は徐々に進行するのに,「死ね」という症状のみがいきなり突発的に出るとは考えにくい。<エ>「火をつけろ」という声がずっと聞こえ続けるのであれば消火活動をするとは考え難い。<オ>犯行現場に向かう途中,付き添っていた職員に言い訳をして離れ,犯行直後には犯行を否認したり嘘をつく能力も有している。これらの点から,幻聴の存在そのものに疑問を抱き(ただし,なかったことの証明はできない),本件犯行直前・直後の行動(前記<エ><オ>)からみて,被告人が本件犯行当時,幻聴に支配された状態にあったとは考え難いとされる。
一方,Z医師は,①平成13年ごろのA診療所のカルテに幻視や被害妄想をうかがわせる記載がみられ,その後も,性格変化や能力低下を疑わせる症状がカルテ上に残り,被告人が通っていた「B園」の職員の事情聴取からも確認されるのであり,これら客観的証拠をたどっても統合失調症という確定診断が下されるべきで可能性にとどまる旨のY医師の判断は非常に疑問に思う。そして,平成18年5月ごろ,抗精神薬の投与が中止され,悪化の途上にあったので,本件犯行時は,かなり重い状態になっていたと思うとされる。②<ア>被告人が述べる幻聴の聞こえ方,内容,対処の仕方は精神科臨床で経験する多くの統合失調症の患者の幻聴とほぼ同じ性格を持っている。<イ>被告人の知的能力からすれば,周囲に幻聴・被害妄想を訴える者がいないのに,このような幻聴を作出することは不可能である。<ウ>被告人が平成17年ごろ,B園の職員に耳が変であると述べたり,家出や自殺を図ったこともあるなど,背後に幻聴等があったとみて相当な行動もみられる。<エ>統合失調症の患者の一部には,幻聴体験をなかなか話さない者もいる。被告人のように,知的能力上の問題があり,かつ,内向的で長年父親と2人きりで他の人との付き合いなく生活してきたという特殊な生活歴があり,人に馴染みにくく,自分から積極的に話しかける人物ではないという人柄からすれば,幻聴について他人に訴えないことも不自然ではなく,本件犯行後,D診療所で幻聴について述べたのは,病気が悪化し,かつ,事件を起こし逮捕されたこと等で歯止めがはずれたのだと思う。<オ>幻聴の体験は,本人にとって非常に怖い強烈な印象であるが,いつどのような幻聴があったかとか,一字一句記憶が残るような体験ではない。<カ>被告人は,散歩の途中,集団から別れて,自宅に帰ると間もなく,いきなり火をつけるという異常な行動に及んでいる。以上の諸点に照らすと,従前から被告人に幻聴があったとみるべきで,幻聴の具体的な内容までは判然としないものの,幻聴に強く影響されて本件犯行に及んだことは間違いがないとされる。
(4) 以上にみたとおり,Y医師は,被告人には,従前,幻聴あるいは妄想等の症状が出現してないのに,急激にこのような症状が出るのは不自然であり,犯行直前・直後の行動をみても,被告人が幻聴に支配されていたとは思えないというのである。一方,Z医師は,これとは異なった意見を述べられている。
そこで,証拠に照らして,これら各意見に不合理な点がないかを検討する。
ア まず,本件犯行は次のような経過で発生したものである。
(ア) 被告人は,犯行当日午後1時ごろ,B園の仲間や職員と一緒に,近くのファーストフード店にお茶を飲むため徒歩で向かおうとしていた。ところが,その途中の同日午後1時20分ごろ,勝手に列から離れ,皆とは違う方向へと歩き始めた。気付いた職員が後を追いかけ止めようとしたが,声を掛けても,黙ったままどんどん歩いて行き,理由を聞いても,「杭瀬に買物に行きたい,3時半には帰る」などと答えて,同日午後1時25分ごろに,皆と別れた。
なお,前記職員は,被告人を見送り,10分ほどたったファーストフード店に着く以前の段階で救急車か消防車のサイレンの音を聞いている。同店に着いたのは午後1時45分前ごろである。
(イ) 本件共同住宅の複数の住民は,同日午後1時30分ごろ,焦げ臭いにおいがすることに気付いた。
(ウ) 同日午後1時40分ごろ,複数の住民が,被告人方の玄関引き戸が開き,後ろから煙が吹き出しているにもかかわらず,玄関の上がり框に座り,ぼーっとした表情でどこか一か所を見つめて,何も言わず,身動きしない被告人の姿を目撃している。被告人は,早く逃げるよう大声で呼びかけられても反応しなかった。その後,しばらくして,被告人は,玄関の外に出てきて,アパートの北側道路に立ち,火事をながめていたが,このときも,終始,ぼーっとした様子であった。その後,被告人は,無表情でゆっくりしたスピードで,アパートから離れて行こうとした。その様子をみた住民の一人が,消防隊員に「火元の人間なので早く捕まえてほしい」旨言い,婦人警察官が,その後を追った。
イ 本件犯行後の経過,被告人の供述経過等
(ア) 被告人は,警察に任意同行された後の同日午後9時15分から同55分までの間,D診療所で診察を受けたが,刺激を与えないと茫然とした様子になる状態であり,医師に対し,「聞こえてくるのは3人の若い男で度々命令してくる」などと述べた。その後,被告人は,翌7日から11日まで,E病院に入院した。同病院においても,被告人は,3人の男の声の幻聴があると述べており,同病院では,病名として統合失調症,精神遅滞等,症状として幻聴,不眠等と診断された。被告人は,同月11日,F病院に転院し,13日に退院した。同病院においても,被告人は,「声がする,おどかされる,悪口をいわれる,殺すといわれる」などと述べており,同病院では,統合失調症,知的障害等と診断された。
なお,同月25日に大阪地方検察庁で行われた簡易精神鑑定においては,「精神遅滞(中度)兼統合失調症,犯行時は幻聴の影響も有り気分も抑うつ的であるので理非弁別の能はない」と診断されている。
(イ) その後,被告人は,同月27日以降,Y医師による鑑定を受けた(ただし,鑑定留置は同月31日以降)。
(ウ) 被告人は,その間,逮捕当日(前記退院当日の同月13日のこと)の弁解録取や送検時の弁解録取の際には,ステレオの後ろが燃えていたなどと自室が出火元になったことは認めていたが,火を放ったことは否定していた。
しかし,同月17日以降,被告人がY医師の鑑定に付される前日の同月26日までの調書では,否認していたのは死刑が怖かったからである旨述べ,部屋の中でイライラしてライターで火をつけたことは間違いない旨事実を認め始め,「鼻をかんだティッシュに火をつけたがゴミ箱に入れたらすぐに火が消えて,煙だけ出てるだけで,おもしろくなかったからもっと火をつけたろうと思いカーテンに火をつけた。火のついたカーテンをゴミ箱の中に入れた。グニャーとなって燃えた。天井の方まで燃えた。バケツで水くんで水をかけたけど,燃えているところにかからんかった」などと述べている。幻聴の存在をうかがわせる調書もあるが,本件犯行と関連づけて述べられたものはない。
(エ) ところが,同月28日以降の調書では,被告人は,本件犯行自体を認めながらも,「『死ね』という声が聞こえてきたので皆と別れた。煙にまかれ死のうと思った」などと,幻聴に影響されて本件犯行に及んだ旨供述するようになり,公判でも,幻聴の生じた時期や,幻聴の内容についてははっきりしないものの,ほぼ同旨の供述をしている(犯行については,アルバムを見て,タバコを吸ってからカーテンに直接火をつけた,一度はバケツに水をくんで消そうとしたという内容である。)。
なお,被告人は,前記のとおり28日に捜査官に対し幻聴の影響を供述するようになった理由について,検察庁で白髪の医師に「何か怖いものありますか」と聞かれて,時々「死ね,死ね」と聞こえてくることを思い出したなどと述べている。
ウ 既にみたとおり,本件犯行は,被告人が施設の仲間たちと集団で徒歩でお茶を飲みに出かける途中,突然,集団から離れ,被告人の自宅があった本件共同住宅に放火したというもので,それ自体異常である。誤差があるにせよ,被告人は仲間から離れた後,わずか5分余りで本件犯行に及んだことになり,検察官の主張(冒頭陳述1頁)によると,別れた場所から犯行現場まで約350メートル,徒歩で約4分かかるということであるから,被告人は同所に戻り,鍵を開けて室内に入るや,ほどなく火を放った可能性が極めて高い。
また,本件犯行後,犯行場所を見分し,出火原因・出火場所を特定した検証報告書によれば,六畳間の各柱等の極めて床面に近接した部分の焼損が激しく,同室の下方からの立ち上がりと認められたので,検証を行った。その結果,出火場所は三畳間床付近で,放火の方法は,何らかの媒介物に接炎放火し,短時間で火が立ち上がったものと考えられるが,媒介物等の残渣や揮発性油分の採取はできなかったとされている。
検察官が信用性が高いと主張し,本件犯行の動機・態様が了解可能なものであることの根拠としている,前記捜査段階の自白調書の内容は,被告人が犯行直後から一貫して医療関係者に述べ,また,28日以降は捜査官にも訴えるようになり,公判に至っても一貫して主張している幻聴等に触れられていない点のみからみても,被告人と十分な意思疎通を行った上,その真意が適切に反映されたものといえるのか疑問を禁じ得ない。しかも,そこで述べられた犯行状況,すなわち,三畳の間から中学時代のアルバムを取り出し,六畳の間でアルバムを見て懐かしい友達と会いたいなどと思い,それを元に戻してタバコを吸い,その後3回ほど鼻をかみ,これに火をつけたもののすぐ消えてしまったので,さらにカーテンに火をつけるという経過は,既述のとおり,自宅に戻った後,余り時間的余裕がなかったと考えられることや,被告人の記銘力(昼食を食べたことすら忘れる)に照らして疑問を禁じ得ない。また,アルバムを見て,カーテンに火を付けた,1回バケツに水をくんで火を消そうとしたという点についても,なるほど,捜査,公判,鑑定時を通じて供述が一貫しているが,アルバムを見たという点に疑問が生じることは先に述べたとおりであり,その余の点についても,前記検証報告書に記載された出火原因・焼損状況等に照らして,疑問なしとはし得ない(天井に燃え移ったといいながら,床付近が出火場所とされ,ゴミ箱が火種となったにしては残渣等が残っていない点で問題がある。)。被告人が,死刑等の重罰に処せられることを強くおそれていると認められることや,これら供述が行われたのは,本件犯行後,入院等により一定の治療を終えた後のことであるところ,幻聴等に強く影響されていない段階ならば,被告人には自分に都合よく嘘をつく能力はあるとされていること(Z医師の供述)からすれば,被告人が相手をみて,その様子に合わせて都合良く話している疑いを払しょくできない。
そうすると,第三者の供述に裏付けられた以外の部分,すなわち,被告人が施設の仲間たちと別れた後,玄関前の上がり框で座っている様子を目撃されるまでの間に何があったのかという点は,被告人の放火により,被告人方から火が出たという点を除いて,その詳細は不明というほかない。
エ そこで,これら事実をもとにZ・Y両医師の鑑定の合理性について,検討を加える。
(ア) 先述のとおり,本件犯行の詳細については不明な部分もあるが,被告人が仲間から突然離れ,自室に戻るやほどなく放火に及び,後ろから煙が吹き出す状況の中で,玄関の上がり框に1点を見つめて座り込み,周りの声に反応せず,ようやく動き出した後も,ぼーっとした様子で火事の様子をみて,その後,ゆっくりと動き出したこと,本件犯行後,入院等して診察を受けたD診療所においても,刺激を与えないと茫然とした様子となり,幻聴を訴えたこと等の事実は,客観的な証拠もあり,間違いのないところである。
このような経過は明らかに異常で,犯行後の被告人の様子も異常というほかない。
被告人が,統合失調症に罹患し,本件犯行当時,その状態が悪化し,幻聴にとらわれて本件犯行に及び,犯行後も亜昏迷の状態にあったとするZ鑑定は,上記の経過を合理的に説明する,十分に納得のできるもので,その信用性は極めて高いものと考えられる。
(イ) もっとも,検察官は,「Z鑑定は,<ア>中等度以上の統合失調症の患者には責任能力を問うべきでないとの特殊な立場に立っており,中立性・公平性を欠く疑いがある。<イ>Z医師が問診を行ったのは,本件犯行後,約1年2か月以上も経った後のことで,知的障害者である被告人の記憶保持能力に照らして,同問診結果を重視できないことが明らかであるのに,これを過度に重視している。<ウ>幻聴・妄想の存在を認めないA診療所等の,従前被告人と長年緊密に接してきた複数の医師及び施設職員の記録と齟齬し,客観的裏付けを欠いている。したがって,信用できない」旨主張する。
しかし,これら検察官の主張はいずれも失当というほかない。
なるほど,Z医師は,統合失調症の患者の責任能力を慎重に判断すべきであるとの立場に立つようである。しかし,被告人を統合失調症と診断する根拠,本件犯行への影響について述べるところは,いずれも合理的で,証拠に照らして納得のいくものである。責任能力を最終的にどのように判断するかは裁判所の専権であり,精神科医師の立場で一定の意見を述べているに過ぎず,その診断や判断に先の立場が影響して不合理な結論を導き出していると疑わせる点はない。
また,被告人に対する問診結果についても,Z医師は,精神科医師としての豊富な経験をもとに,幻聴が本人にとって非常に怖い強烈な体験であり,事細かな点は忘れるにしても,その根幹部分においては強く記憶に残るという前提のもと,客観的な事実の流れに照らして不合理な点はないかを慎重に検討しており,その判断は十分に信用できるものである。
さらに,A診療所や施設の記録に,被告人の幻聴・妄想の存在を示すものがないという点についても,後述のとおり,そのような記載がないとはいえない。しかも,Z医師は,施設職員に聴き取りをする等して幻聴や亜昏迷の出現をうかがわせる事実を的確に指摘している。また,被告人がこれまで明示的に幻聴等を訴えなかった理由として指摘する点は合理的で納得のいくものである。
(ウ) 一方,Y鑑定は,客観的資料の検討が不十分で,事実経過を表面的にみているというほかなく信用できない。以下,その理由を述べる。
Y医師は,本件犯行当時,持続的に幻聴が出現していた可能性は低いとされる。そのように判断される根拠は,<ア>被告人が長年通院していたA診療所のカルテに幻覚・妄想の記載が少なく,また,本件犯行直前にも普段どおりの生活をしていたこと,<イ>本件犯行当時,強い幻聴が出ていたのであれば,捜査当初,その訴えをしないとは考え難いし,その述べる内容が変遷するというのも不自然であること,<ウ>また,被告人が仲間から離れる際に嘘をつき,犯行後に警察官に対して犯行を否認するなど了解可能な行動をとっていること等である。
しかし,A診療所が作成した精神障害者保険福祉手帳用の診断書には,被告人には幻覚や妄想が存在しており,現在のところ,抑制されてはいるものの,些細なストレスで再燃する可能性があるとの記載がある。また,同診療所の診療録にも被告人が警察官が20人くらいいる気配がする,棺桶が見える,親父の火葬後のしゃれこうべが見えるなどと訴えたり,「死にたい」「電車に飛び込みたい」などと訴えたり,イライラして物を壊すなど粗暴な行動に出たことをうかがわせる記載がある。また,被告人が入所していた福祉施設の職員は,抗精神病薬の投与が中止された平成18年6月以降,被告人が,深夜に徘徊したり,昼食を食べたことを忘れて過食になったり,バス停のベンチで一人正座をする異常行動があった旨述べている。さらに,同施設の記録にも,被告人は,平成18年7月ごろ,足取りや体のふらつきは全くなくなったが,ぼーっと座っているだけで声をかけないと活動を始められないことが多くなった。笑顔が少なくなり,無表情でいることも多く,職員の問いかけに対しても「ふんふん」と気のない返事をすることがよくあった。同年9月ごろには,勝手に外出したり,無表情でいることや,鋭い目つきで一点を凝視することが多くなり,精神的に不安定な状態であったなどとの記載がある。
このように,被告人が幻聴を直接訴えた様子はないものの,Z医師が指摘するように幻聴・妄想あるいは亜昏迷を示唆する状況が多々認められ,その精神状態は相当悪化していたというべきで,Y医師が述べるように普段どおりの生活をしていたとは言い難い。
また,確かに,被告人は,捜査当初は幻聴を取調官に訴えていない。しかし,先述のとおり,その供述経過等に照らすと,これ自体が不自然というべきである。一方では医療関係者に幻聴を訴えている点からみても,既に述べたとおり,被告人が相手方や,相手の様子,場等を選んで幻聴の供述をしていたと考えられるのであり,幻聴の出現を否定する根拠とはならない。その述べる内容が変遷していることについても,既に述べた点や,被告人が知的能力に劣り,その記銘力や表現力には問題がある上,Z医師によれば,幻聴は強烈な恐怖体験として強い印象が残っても,その時期や言葉の一字一句等という細かな部分まで鮮明に記憶が残るものではないというのだから,変遷していること自体をもって不合理とする決定的根拠とはなりえない。
被告人が,本件犯行の直前・直後に了解可能な行動をとっているとの点についても,既述のとおり,本件犯行前後の行動を大きく全体としてみれば,不自然で了解不能というべきである。
なるほど,被告人は,本件犯行直前,仲間たちの列から離れる際,一応合理的な対応を行ったようである。しかし,この点について,Z医師は,極期の精神状態以外では,それ相応の言動(対応)を取ることは可能である旨説明しており,被告人が本件犯行当時幻聴に影響されていなかったといえる十分な根拠にはならない。犯行後に犯行をごまかした点も同様である。
既に述べたとおり,被告人が実際のところ部屋の中でどのような行動に及んでいたのか,その真相は分からないし,本件犯行直後の行動も既述のとおり異常というべきものである。Y医師は,この点についても茫然自失の状態と解すべきであるとされるが,D診療所においても異常な状態が続いていたこと等に照らして疑問である。
以上述べた理由から,Y医師の鑑定は採用できない。
3 責任能力についての当裁判所の判断
以上みてきたとおり,被告人の本件犯行当時の精神疾患の有無及び程度を判断する上で専門家の意見として尊重でき,また,尊重すべきはZ鑑定である。
同鑑定によれば,被告人は,本件犯行当時,精神遅滞と統合失調症に罹患し,しかも,抗精神薬の投与が中止されていたことから,その程度が悪化して精神遅滞の程度が進み,統合失調症の状態も相当重い状況にあったものと認められる。
本件犯行は,既述のとおり,被告人が,何かに駆り立てられているかように仲間から離れて自宅に戻り,ほどなく本件犯行に及んだもので,被告人が公判で述べているとおり幻聴に強く影響されて行われたものとみるほかない。このような本件犯行に至る経過,さらには,本件犯行後も茫然とした様子で,最終的には現場から立ち去ろうとしたものの,それについても積極的に逃走等するようなものではなかったこと等からすると,被告人は,本件犯行当時,精神遅滞と統合失調症,特に統合失調症に基づく幻聴に支配,少なくとも強く影響されて,是非を弁識し,行動を制御する能力を失った状態で本件犯行に及んだものと強く疑われ,被告人に対して刑事責任を問うことは許されないというべきである。
第3結論
以上によれば,被告人の本件行為は,心神喪失者の行為として罪とならないから,刑事訴訟法336条前段により,被告人に対し無罪の言渡しをする。
(求刑 懲役8年)
(裁判長裁判官 和田真 裁判官 平城文啓 裁判官 塚田有紀)