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大阪地方裁判所 平成21年(わ)1420号 判決 2010年5月25日

主文

被告人は無罪。

理由

第1本件公訴事実,争点及び当事者の主張の概要

1  本件公訴事実

本件公訴事実は,「被告人は,平成20年10月17日午前1時25分ころ,大阪府茨木市a町b丁目c番d号付近の路上において,歩行中のA(当時28歳)に対し,自転車で追い抜きざまに,背後からその後頭部をハンマー様のもので1回殴打する暴行を加え,よって,同人に加療約1週間の頭部挫創の傷害を負わせた。」というものである(以下,同年中のできごとについては年度を省略する。)。

2  争点及び当事者の主張

弁護人及び被告人は,本件の犯人(以下,単に「犯人」という。)は,被告人ではない旨主張する。したがって,本件の争点は,被告人と犯人との同一性である。

この点,検察官は,①被害者は,本件犯行の直前に,ジョギング中にすれ違った男を被告人であると識別し,さらに,すれ違った男と犯人とが同一人物であると供述しているから,被告人と犯人とが同一人物であると考えられること,②被害者の目撃した犯人の特徴と当時の被告人の特徴とが一致していること,③被告人は本件犯行時刻前後に外出しており,帰宅時刻は犯行現場から帰宅に要する時間と符合していること,④被告人は,本件犯行後,本件に特段の関心を示し,犯人のみしか知り得ない情報を持っていたこと等,被告人が犯人であることを肯定する方向の種々の事実があるから,被告人が犯人であると認めることができると主張する。

これに対し,弁護人は,被害者の前記供述は,観察条件,似顔絵の作成過程,選別手続の過程のいずれにも問題があるから信用することはできないし,検察官の主張する被告人の犯人性を肯定する方向の事実はいずれも被告人と犯人の同一性について十分な推認力を有するとはいえない上,被告人が犯人であることと矛盾する方向の事実も存するから,被告人が犯人であるとの立証はなされておらず,被告人は無罪であると主張する。

そこで,以下では,順次,検察官の主張する積極事実について検討を加えたた上,弁護人の主張する消極事実をも検討し,健全な社会常識に照らし合理的な疑いを入れない程度に被告人を犯人であると認めることができるか検討を進めていく。

第2前提となる事実

以下の事実は,当事者間に,概ね争いはなく,証拠上,優に認定することができる。

1  犯人は,10月17日午前1時25分ころ,公訴事実記載の路上を歩行中の被害者の後頭部を,背後から自転車で追い抜きざまに鈍器で殴打した。

2  被告人は,同日午前零時24分ころ,少なくとも長髪ではない髪型で,太った体型ではなく,白い長袖シャツのすそをズボンから出し,前かごに黒いリュックを入れ,後部荷台に鉄亜鈴を載せた26インチのシルバーの自転車で自宅マンションを出,午前1時31分ころ,帰宅した。

被告人の自宅マンションと本件犯行現場との距離は道なりで約1100メートルであり,通常走行での自転車の所要時間は約四,五分である。

第3被害者がすれ違った男と被告人の同一性について

1  被害者は,犯行に遭った直前にすれ違った不審な男と犯人とが同一人物であると思うが,そのすれ違った男は被告人であったと供述する。

被害者は,被告人とは面識がなく,被告人にことさら不利な供述をするような事情は窺われない上,記憶していることと記憶していないことを区別して供述するなど,供述態度も真摯である。しかし,人の顔といった言語化しにくいものに対する観察,記憶の困難性,記憶変容の危険性に照らすと,その観察条件,記憶・選別手続の正確性をさらに慎重に検討する必要がある。

2  観察条件等の検討の前提となる基本的事実関係

被害者の証言,Bの証言,被害者の警察官調書(甲5),写真撮影報告書(甲9,32,33),捜査報告書(甲10,36)等の関係証拠によれば,被害者が不審な男を目撃し,すれ違うまでの経緯,目撃状況,目撃後の状況は以下のとおりである。

(1)  被害者は,10月17日午前1時ころ,日課としているジョギングをするためにめがねを着用して自宅を出発した。

被害者は,ジョギングをしながら,本件犯行現場につながるe遊歩道に入って,その遊歩道を北に進み,遊歩道上を約1.4キロメートル進んだ大阪府茨木市f町g番付近(以下,「折り返し地点」という。)で折り返し,今度は遊歩道を南に進んでジョギングを続けた。

(2)  被害者は,折り返し地点から,南に約43.8メートル進んだ地点で,遊歩道上に自転車にまたがったまま,被害者と正対する方向(北方向)に向かって立っている男の姿を約45メートル前方に認めた。

被害者は,深夜の遊歩道に,自転車にまたがったまま立っているという男の様子に加えて,近づくにつれて男の視線を感じてきたので,恐怖感,不信感を強めた。被害者は,男から約11.9メートルの地点で,男と目が合ったが,「ほんの一瞬」で,その男の視線をはずした。その直後,男は,被害者をにらむような目つきのまま,自転車の前かごに入れているバッグの中に手を入れ,まさぐるような仕草をした。それを見た被害者は,男から何かをされると思い,スピードを上げ,男の横を走り抜けた。

(3)  被害者は,そのまま遊歩道を南に走り続け,不審な男とすれ違った場所から約1キロメートル先にあるh交差点で走るのをやめ,引き続き遊歩道を南方向に歩いた。そうしたところ,h交差点から約200メートル南側の本件犯行場所で前記前提事実1の被害に遭い,その直後,自転車で逃走する犯人を目撃した(犯人の目撃状況等については後述する。)。

(4)  同日午前2時ころから午前6時ころまでの間,被害者は,茨木警察署で事情聴取を受けた。その際作成された供述調書(甲5)には,すれ違った男の特徴について,「メガネをかけた30歳前後の男性」としか記載されていない。

(5)  その後,被害者は,いったん帰宅したが,同日正午ころ,再度警察官から呼び出され,大阪府警本部鑑識課で,犯行に遭った直前にすれ違った男の似顔絵(甲36)を作成した。似顔絵の作成の際は,部屋には,似顔絵を描く鑑識課の担当者と被害者の二人しかおらず,捜査官は同席していなかった。その際,担当者は,事件の概要は知っていたが,犯人の特徴等についての情報は知らなかった。なお,当該似顔絵について,被害者は,すれ違った男に似ていると供述している。

3  観察条件等についての検討

(1)  弁護人は,実況見分調書(甲35)の照度測定結果には疑問が残るし,その結果を前提にしたとしても,被害者がすれ違った男の顔の概要を識別するだけの十分な明るさがあったとはいえない上,その具体的状況に照らしても,被害者がすれ違った男を目撃した際の観察条件は悪く,被害者は男の顔をおよそ認識していなかった旨主張する。

確かに,被害者がすれ違った男を目撃した際の現場の明るさは,前記実況見分調書等の関係証拠を前提にしても必ずしも十分なものとはいえないし,その明るさからすると,約11.9メートルという距離も近いとはいえない。また,被害者は,すれ違った男と目を合わせた時間について「ほんの一瞬」であった旨述べており,観察時間に関しても十分とはいい難い。

しかし,やや逆光ぎみとはいえ遊歩道上の外灯の灯りや,マンションの居住部分から漏れる灯りがあった上,被害者は,男とすれ違うまでに,遊歩道上を約1.4キロメートル近くに渡ってジョギングし,暗さに目が十分に慣れた状態であったこと,被害者は目撃時,めがねを着用しており,矯正視力は右目1.5,左目1.2であったこと,被害者は,すれ違った男の様子から,その男を不審者として意識し,かつ,その不信感は男に近づくにつれて高まり,男と目が合い,同人の顔を目撃した時点では,男に対する注意力は一定程度高まっていたと認められること,すれ違った男を目撃してから約半日後の時点で,捜査官からの暗示等が認められない状況下で,被害者自身が,すれ違った男に似ていると判断できる似顔絵(甲36)を作成することができたこと等に照らすと,少なくとも,そのような似顔絵に描かれた表情を観察することはできたと考えられる。

この点,弁護人は,似顔絵作成の際,警察が,当日に入手した被告人の10年前の写真(甲47)を基に警察官が恣意的に誘導した疑いが強いと主張するが,そのような行為は,捜査官にとっても被害者供述の信用性を根底から覆しかねない危険な行為である上,事件発生から半日後の時点で,捜査官の中でそのような行為をしなければならないほど被告人に対する捜査官の容疑が高まっていたとまでは考えにくいことからすると,本件捜査を担当したB刑事が証言するように,本件においては,そのような事実は認められない。

そして,作成された似顔絵は,被告人と似ているところもあり,そのような似顔絵の存在は,すれ違った男は被告人であったとする被害者の識別供述を補強するものといえる。

(2)  しかしながら,前述したように,被害者がすれ違った男を目撃した際の,明るさ,距離,観察時間のいずれの点についても十分とはいえない状況に鑑みると,目撃した際に被害者に記憶された男の像は,多分に細部が捨象された,全体的な印象といった面が強いように考えられる。そのことは,被害者が再三にわたり,にらみつけるような目が印象に残っていると供述していることからも窺えるところである。したがって,似顔絵やそれによって補強された被害者の識別供述の証拠価値を検討する際には慎重な姿勢が必要である。

なお,この似顔絵が作成されたことで,被害者は,見知らぬ男の顔の特徴という言語化しにくい記憶を外部に固定化することができ,既知性のない人物の顔に関する記憶が時間と共に減退していく危険をそれなりに回避することができたと同時に,すれ違った男の顔に関する被害者の記憶は,その後は,似顔絵の顔と入れ替わってしまっている危険もあるという点に留意する必要がある。

4  次に,被害者が,写真面割り等を経て,犯行に遭った直前にすれ違った男を被告人であると同定していく選別手続等について検討する。

(1)  被害者は,12月2日に至って,それぞれ18枚の顔写真が貼付された2冊の異なる写真面割台帳(甲61,62)を示され,一見した風貌の趣がやや異なる2枚の被告人の写真を,いずれもすれ違った男であるとして選別した。

たしかに,これら写真面割台帳に貼付された被告人の顔写真は,もともとめがねを掛けていない被告人の顔写真に,前記似顔絵に描かれためがねの特徴とよく似ためがねの画像を合成して作成されたものであるから,被告人の顔写真にのみ,被害者がすれ違った男の固有の情報が付加されているものであった点で,問題があることは否定できない。

しかし,いずれの写真面割台帳も,被告人以外の人物の掛けているめがねが全て,似顔絵に描かれているめがねと大きく異なるというものではない。また,年齢,顔の輪郭,髪型等の,めがね以外の特徴についても被告人のみが特徴的に浮かび上がってしまうような人物の写真が選択されていたものではなく,それぞれに貼付された18枚の写真全体を見た場合に,前記の合成部分は,被告人の顔写真を選別する際に,暗示,誘導となるほど特異なものではない。

また,被害者が選別した2枚の被告人の写真は,1枚が2年ほど前のもの(甲61),もう1枚が10年ほど前のもの(甲62)と撮影時期が異なり,同年齢の人物としては,一見した風貌はやや異なるようにも見える。被害者が,このような2枚の被告人の写真を,いずれもすれ違った男として選別していることは,実際に目撃した者でなければ分からない固有の特徴を被害者が把握しているからと考えることもできる。さらに,被害者は,選別の際に,被告人の写真を見てぴんときたが,実際に答えを出すまでには時間をかけたと証言しており,この点は,被害者の写真選別に対する慎重さの表れであるといえる。そして,目撃から選別手続までかなりの期間が経過しているものの,前記のとおり,似顔絵を作成したことで,被害者は,時間の経過に伴う記憶の減退をある程度回避することができている。

これらの事情に照らすと,被害者が,慎重な姿勢をもって手続に臨み,結果として,2冊の写真面割台帳から,それぞれ撮影時期の異なる被告人の顔写真をすれ違った男として選別したことは,識別供述の信用性を考える上で,一定の重要な意味があるということができる。

(2)  しかしながら,すれ違った男を目撃してから,写真面割りによる選別手続まで46日も経過しており,いかに似顔絵の作成により,記憶の減退をある程度回避できていたとはいえ,やはり,相当に記憶が減退・変容していた可能性は否定できない。また,似顔絵として固定化されたすれ違った男の顔は,それほど個性的な顔ではなく,似顔絵との類似も,人物の同一性を特段に高める要素とはならない。加えて,その選別内容を検討すると,被害者は,「2年前の写真(甲61)よりも,10年前の写真(甲62)の方が,すれ違った男に似ている。」旨供述しているところ,10年前の写真は,年齢的に若い印象を受ける写真であり(なお,この顔写真は,ややあごを引いた感じでにらみつけるような目つきをしており,同じ写真面割台帳の他の写真と比較し,やや個性的である。),前記似顔絵の人物も,それなりに若い年代を想像させる表情であって,犯行時の被告人の年齢と必ずしも整合するものでもない。前述したとおり,被害者に記憶されたすれ違った男の像は,多分に全体的な印象といった側面が強いこと等にも鑑みると,これらの写真面割台帳に基づいて,すれ違った男を被告人と識別した点は,それ単独で,すれ違った男を被告人であると認定できるほどの強い証拠価値が認められるものではなく,それなりに似ていたという程度で評価するのが相当である。

5  顔以外の特徴の共通点

被害者は,公判廷において,すれ違った男の顔以外の特徴について,「黒色に見えるリュックのようなバッグが入った黒色の前かごのついた自転車にまたがっており,やせ型で,長袖シャツを着ていた。」と供述している。

本件当日の外出時及び帰宅時における被告人の特徴は,前記前提事実2のとおりであり,自転車の前かごにリュックを入れ,長袖シャツを着,少なくとも太った体型ではなかったという点で,被告人とすれ違った男との間には共通性が認められる。もっとも,これらの共通点は,いずれも特段珍しいものではなく,これらの特徴に共通性が認められることをもって,前記2ないし4の検討に基づく被害者の識別供述の信用性の程度を格段に高めるものではない。

第4すれ違った男と犯人の同一性について

被害者は,「すれ違った男と犯人の人間的な雰囲気は似ていたし,深夜で,この男を目撃してから被害に遭うまですれ違った人物はなかったことから,すれ違った男と犯人は同一人物であったと思う。」旨供述しているのでこの点について検討する。

被害者がすれ違った男を目撃した地点から,本件犯行現場までの距離は,約1.2キロメートルであり,被害者がすれ違った男を目撃してから,本件犯行までは約5分程度の時間が経過している。また,犯行現場を含め,被害者がジョギングをしていた遊歩道は,木立に囲まれ外部からの見通しはよくないとはいえ,他の道路からの進入路もあり,周囲と遮断するような構造物もない。

他方,本件犯行時刻は,10月中旬の平日の深夜午前1時25分ころという人通りの少ない時間帯であり,実際に,被害者が当日にジョギング中に遊歩道上で出会った人物は,すれ違った男以外には,ジョギング中の男性一人であった。また,被害者の供述によれば,少なくとも,すれ違った男と犯人には,自転車に乗り,長袖シャツを着,長くも短くもない髪型でやせ型であるという共通点があり,正面からと背後からの目撃という違いはあれ,被害者は,両者の人物としての雰囲気が似ていたと認識できたというのであるから,すれ違った男と犯人とが同一人物である蓋然性は,それなりに高いということができる。

もっとも,前述のとおり,すれ違った場所と犯行現場の距離や,現場が誰もが自由に通行できる遊歩道であることを考えると,この状況のみから,すれ違った男と犯人とが同一人物であると断定することはできない。

第5被告人と犯人との特徴の共通点について

1  被害者は,犯人の特徴について,公判廷において,「白い長そでシャツを着て,長ズボンをはいていた。シャツのすそは出ていた。髪型は,長くもなく,短くもなく,ちょっとぼさっとしたような感じで,体格は,やせ型だった。自転車は,26インチぐらいの大きさで,後部に荷台がついており,泥よけの色はシルバーだった。」と供述している。

そして,前記前提事実2のとおり,被告人は,当時,少なくとも長髪ではなく,白色の長袖シャツを着て,シャツのすそをズボンから出した状態であり,26インチの後部に荷台のついたシルバーの自転車を引いていた。また,被害者は,被告人の自宅マンションのエレベーターホールやエレベーター内のビデオに映った被告人の後ろ姿を見て,後ろ髪やシャツがよく似ていると証言している。

このように,被害者が公判廷で供述する犯人の特徴と被告人の特徴の共通点は,それなりに具体的なものとなっている。

しかし,観察条件について検討すると,被害者は,犯人を目撃した際の状況について,「後頭部を殴打された後,犯人を追いかけようと走り出したが,すぐに,殴打された衝撃でめがねが外れていたことに気づいた。そこで,落ちためがねを取りに戻って掛け直し,再び犯人を追いかけながら犯人を目撃したが,首筋に血が流れていることに気づいたことから,二,三歩で,追いかける意欲をなくし,犯人を見失った。犯人を目撃していた時間は,数秒だった。」旨供述している。

被害者の裸眼視力は両目とも0.1であり,犯人の特徴に関する被害者の供述は,もっぱらめがねをかけ直した後の目撃に依拠するところ,写真撮影報告書(甲31)等の関係証拠によれば,その時点では,被害者と犯人とは少なくとも約25.6メートルは離れていたと認められる。犯行現場付近には外灯が設置されており,ある程度の灯りがあったことは認められるものの,そのような距離に照らすと,やはり明るさは十分とはいい難い。また,殴打された直後に犯人を追いかけようとしながらの目撃であり,ある程度の注意力を持って目撃したとはいえ,負傷に気づいたことから短時間で追いかけるのをやめ犯人から目を離していることからすると,客観・主観の両面において観察条件は良好とはいえない。

2  次に,被害者の供述経過について検討すると,被告人が逮捕されるまでに作成された被害者の供述調書(被害直後に作成された供述調書(甲5)を含む。)には,いずれにも,犯人のシャツや自転車の色についての記載はなく,髪型についても,短髪でも長髪でもない髪型程度の記載しかない。その後,被告人が逮捕された当日の12月5日及び同月10日に至って,被害者は初めて,本件当日に被告人が自宅マンションを外出し,帰宅する際に写されたエレベーター内防犯カメラの映像写真を捜査官より見せられた。12月10日に前記被告人の映像写真を見せられた際には,被害者は,被告人の後ろ髪や体型が犯人によく似ていると供述し,さらに,被告人に対する実面割(白色のシャツを着用し,シルバーの自転車に乗った状態で行われたもの。)等が行われた12月17日には,犯人のシャツの色は黒っぽいよりは白っぽい色だったと思うと供述するに至っている。

このような供述経過について,被害者は,犯人のシャツの色が全体として白系統であったというのは当初から記憶として持っていたと証言し,さらに,犯人の特徴について,警察官にできる限り供述して供述調書にしてもらったと証言しているが,前述したように,エレベーター内防犯カメラの映像写真を見るまでに作成された被害者の供述調書には,犯人のシャツの色について具体的な記載がない。犯人のシャツや自転車の色については,必ずしも似顔絵の作成等により記憶が固定化されたとはいえないことを考えると,被害者は,エレベーター内防犯カメラに写された被告人の映像写真等を見せられたこと等によって,無意識のうちに,その際に得られた情報がすり込まれ,被害者の目撃時の記憶とその後に得られた情報とが混濁している可能性が少なからずあり,時間の経過とともに内容が付加されている特徴部分については,被害者が犯人を目撃した当時の記憶と同じであることには疑問が残る。

他方,犯行直後に作成された供述調書に記載のある点に関しては,記憶の減退,変容を来している可能性は低く,また,そこに記載されている内容程度であれば,前記の観察条件でも目撃することは十分可能であったといってよく,変遷のない部分については信用性が認められる。

3  以上のとおり,被害者の証言のうち,犯人の特徴として信用できる部分は,「犯人は,やせた体格,短髪でも長髪でもない髪型であり,長袖シャツを着て,シャツの後ろのすそをズボンから出していた。犯人の乗っていた自転車の後部には荷台がついていた。」という部分であり,被告人も,その限度では,その特徴を満たしていると認められる。もっとも,これらの特徴は,いずれも特段際立った特徴というわけではなく,これらの特徴の一致は,それのみで被告人の犯人性を強く推認させるような大きな意味を持つ事実とはいえない。

第6被告人の本件後の行動について

検察官は,①本件で使用された凶器はハンマー様のものと考えられるが,被告人は成傷可能なハンマーを所持していた上,未だ凶器について「鈍器」としか報道されていない時期に,被告人は,インターネットで「茨木,ハンマー」という単語で検索をしており,犯人しか知り得ない情報を持っていたといえる,②被告人は,インターネットでの検索の他,本件を報道している新聞を図書館でコピーするなど本件について特段の関心を抱いていたとして,これらの事情も被告人が本件の犯人であることを示す間接事実であると主張する。そこで,この主張の当否について検討する。

1  「茨木,ハンマー」での検索

まず,本件で使用された凶器について検討すると,被害者は,本件で用いられた凶器を目撃してはいない。しかし,被害者の傷害は,1回の殴打でありながら,約4センチメートルの間隔をあけて2か所に挫創があるというものであり,かつ,加療期間が約1週間に止まるものであったところ,被告人の自宅から発見された5本のハンマーのうち,重さ1ないし1.5ポンドのハンマーであればそのような傷害を負わせることは十分に可能である。

そして,被告人のみが使用していたパソコンのインターネット閲覧履歴の解析結果によれば,被告人は,本件に関する多数の検索を行う中で,10月23日に,インターネットの検索サイトで,「茨木,ハンマー」の条件で検索を行っているが,この時点で,本件犯行の凶器を「ハンマー」とする報道はなかった。

2  本件に関する新聞のコピーの所持,多数回に渡る検索

検証調書(甲19)及び被告人の公判供述によれば,被告人宅では購読していなかった産経新聞10月17日夕刊のコピーが被告人の自宅の被告人の部屋に置かれており,被告人が,図書館からコピーして部屋に置いていたものであると認められる。

また,前記のとおり,パソコンの解析結果によれば,10月18日及び19日に,多数回に渡って,本件に関すると窺われる条件での検索やサイトの閲覧がなされており,被告人自身も,公判廷において,本件に関するインターネットでの検索やウェブページの閲覧をした旨述べている。

3  本件後の事情に対する評価

以上のように,本件以後,被告人が本件に関して高い関心を抱いていたこと,本件について凶器である可能性のあるハンマーに限定した検索を行っていたことは,特異な行動といえ,被告人が犯人であることを疑わしめる事情ではある。

しかし,被告人には,平成16年に,e遊歩道にある公園で,桜の木をハンマーでたたいていたところを通行人に注意されたことが発端となってトラブルとなり,駆けつけた警察官に対し,趣旨不明な発言をしたことから保護され,結果として国家賠償請求事件にまで発展した経験がある。このような経験を持ち,かつ,後述するように犯行時刻に近接する時間帯に犯行現場から数百メートル付近にいたことを自認している被告人にしてみれば,自宅付近でハンマーのようなものを凶器とした通り魔的事件が発生すれば,自分が疑われると考え,前記のような行動に出ることも,それほど不自然なこととはいえない。

したがって,被告人の前記のようなやや特異な行動は,必ずしも被告人が犯人であることにのみ結びつく事実とはいえないから,これらの事情の持つ意味は,被告人が犯人であると仮定すれば合理的であるという仮定に基づく評価に過ぎないから,独立して犯人性を推認させる価値は低く,犯人性を判断する上で重要な事情とはなり得ない。むしろ,被告人の犯人性を考察する上で,不当な印象を与える危険な側面がある。したがって,被告人の犯人性を検討する上では除外するのが相当である。

第7小括(第2ないし第6の積極的間接事実の総合的検討)

1  ここで,以上の検討をふまえて,被告人の犯人性について検討する。まず確認すべきは前記前提事実である。つまり,被告人は,犯行時刻を含んだそれに近接した時間帯に,自転車に乗っているという共通点を有した状態で,犯行現場からほど近い距離の範囲の屋外にいたことになる。しかも,被告人の公判供述によれば,被告人は,この外出時間中に本件犯行現場から数百メートル南の遊歩道付近に立ち寄っているというのであるから,10月中旬の平日の深夜午前1時25分ころという犯行時間帯の特殊性を考えると,この事実は,被告人の犯人性を考える上で重要な基礎となる事実である。

そして,前記第3及び第4によれば,犯行の5分ほど前に,被害者が遊歩道ですれ違った,犯人である蓋然性もそれなりに高い男は,被告人とそれなりに顔が似ていた人物であり,長そでシャツを着,前かごにバッグを入れていたという点でも共通している。また,第5によれば,犯人と被告人は,後部に荷台のついた自転車という点以外にも,長そでシャツを着,裾をズボンから出しており,長くも短くもない髪型でやせていたという限度で共通点があることになる。

2  このように,本件では,被告人が犯人であることを肯定する一定の蓋然性をもった複数の事実が存在する。このような事実が,被告人が犯人でないにもかかわらず,偶然にそろってしまう蓋然性は,高くないといえる。したがって,このような事実のみから被告人が犯人であると推認することは,相当程度の合理性があるといえる。しかし,前述したように,被告人が犯人であることを肯定する方向のこれらの事実は,いずれも固有の問題点があり,犯人性肯定方向に働く蓋然性の強さにも一定の限界が存する。したがって,このような事実が複数存在することによって,それらの各間接事実の問題点が補われ,被告人と犯人の同一性が立証されたものと考えてよいかについては,さらに慎重に検討する必要がある。

そこで,次に,被告人が犯人であることと矛盾する方向の事実はないかという観点から検討を加え,被告人と犯人の同一性について総合的に検討する。

第8被告人が犯人であることと矛盾する方向の事実の有無について

1  めがねを掛けた被告人のi交番への訪問について

(1)  前記の検討及び推論によれば,本件で,被告人が犯人であるとすると,少なくとも被害者とすれ違った際に,被告人はめがねを掛けていたことになる。

しかし,本件当日のエレベーター内防犯カメラの映像によれば,被告人は,めがねを掛けていない状態で外出しており,警察官による行動確認によっても,後述するi交番に被告人が訪れた場面の他は,めがねを掛けた被告人の姿が確認できていないことからすると,被告人は,外出時はめがねを掛けないのが通常であると考えられる。

したがって,被告人が犯人であるとすると,外出時は通常掛けることのないめがねを,少なくとも,被害者と犯行直前にすれ違った際には掛けていたことになる。

(2)  ところで,C証人は,10月30日午前2時10分ころ,i交番に,シルバーの自転車に乗り,縁が銀色の丸いめがねを掛けた被告人が,自宅マンション付近に不審な男がうろついていると申告してきた上,当該交番勤務の警察官に自ら本名を告げたと証言する。交番に出向いた際の被告人のめがね着用の有無については,C証人と被告人とで供述に食い違いがあるが,仮にそのようなC証言が信用できるとすると,被告人は,通常は掛けることのないめがねをわざわざ掛けて,自宅近くの交番に出向き,警察官に対し自ら本名を告げたということになる。

しかしながら,被害者が,すれ違った男と目があったと証言していることからすると,被告人が犯人であるとするならば,被告人は,少なくとも,めがねを掛けた自分の姿を被害者に目撃されていることは認識しているはずである。また,被告人は,本件当時,外出の際に自転車の後部荷台に載せていた鉄亜鈴は運動に使用したと供述し,鉄亜鈴自体は,犯行後自転車で逃走するのにじゃまになるし,自己の自転車に特異な特徴を付けることになることに照らすと,被告人が自宅を出発する時点での外出目的は,運動をすることであったと考えられる。そのように当初めがねをかけずに運動目的をもって外出した被告人が,少なくとも本件犯行に及ぶ直前の時点でめがねを掛けていたとすると,やや中途半端な感は否めないが,自らの容姿を偽装するために着用していた可能性が高いといえる。そうであるなら,本件犯行当時のめがねを掛けた姿でわざわざ警察官のところに出向き,自らの本名を告げるというのは,被告人が犯人であることと整合しにくい行動といえる。

(3)  逆に,C証言が信用できないこととなると,この点に関する事実に関し,警察内部の捜査過程で虚偽の事実が意識的に混入されていることになり(C証人は,めがねを掛けた似顔絵写真(すれ違った男の似顔絵を写真にとったもの)を見せられる前に,被告人がめがねを掛けていたという話をしていたと証言しており,その時点で無意識のうちに記憶が変容していた可能性は考えにくい。),第2ないし第6で検討した被告人が犯人であることを肯定する方向の事実認定の基礎となる証拠の信用性が疑わしくなることになる。

(4)  このように,10月30日に交番を訪れた際に被告人がめがねを掛けていたというC証言は,それが信用できるとしても,被告人が犯人であることについてそれなりの疑問を抱かせるものであるし,それが信用できないとすると,被告人が犯人であることについて多大な疑問を生ぜしめるものである。

2  被告人が外出時に自転車の後部荷台に鉄亜鈴を載せていたことについて

前記前提事実2のとおり,被告人は,本件当日,自転車の後部荷台に鉄亜鈴を載せた状態で自宅マンションを出発し,同様の状態で自宅マンションに帰宅している。被告人の供述によれば,鉄亜鈴を,ワイヤー錠で固定した状態で後部荷台に載せていたというが,この鉄亜鈴は5キログラムの重量があり,ある程度の大きさがあることに照らすと,そのような状態で犯行に及ぶと,犯行時や逃走時に音や落下等でじゃまになる可能性があるし(犯行現場の地面は土である。),後部荷台に鉄亜鈴が載っているという際立った特徴を被害者に目撃される危険も生じる(なお,被告人の鉄亜鈴は,検証時,自宅玄関に裸の状態で置かれていた。)。したがって,鉄亜鈴を自転車の後部荷台に付けたままの状態で犯行に及ぶと考えるのはやや不自然な面がある。現に,被害者は,犯人の自転車の後部に荷台のあることは気づいており,逃げる犯人の髪型等についてもある程度の記憶を有しているが,後部荷台に何らかの積載物があった記憶はない旨証言している。

他方,仮に,被告人が犯行時は鉄亜鈴を荷台から外していたとすると,犯行後にその鉄亜鈴を後部荷台に設置し直して帰宅したと考えることになるが,犯行時刻から帰宅時刻までの時間と,犯行場所と被告人の自宅マンションの位置関係からしても十分な時間的余裕があったわけではないし,逃走の必要性も考えると,そのような行動にも不自然な感が残る。

このように,被告人が,本件当日,自転車の後部荷台に鉄亜鈴を載せた状態で自宅マンションを出発し,同様の状態で自宅マンションに帰宅したことも,被告人が犯人であることにそれなりの疑問を抱かせる事実である。

3  捜査機関の不自然な行動

被害者は,「犯行当日である10月17日午後10時ころ,自宅で,警察官から,めがねを掛けていないいろいろな人の顔写真を見せられたことがあった。その際は,機嫌が悪く,写真を見て,すれ違った男がいるか分かろうともしなかった。」と証言している。本件捜査を担当したB刑事は,「犯行当日又は翌日に被害者に示した写真は,似顔絵の人物の顔の特徴を基に抽出しためがねを掛けた人物の写真約30枚であった。その中に被告人の写真は含まれていなかった。このときに写真を示した際,被害者が,体調が芳しくないと訴えたことから,手続を途中で打ち切った。その後,再度,同様の写真を被害者に示したことはない。これらの写真は,本件の捜査本部を閉めた際に処分したと聞いている。」旨証言している。

このように犯行当日に被害者に示された写真がめがねを掛けた人物のものであるか否かが被害者とB刑事とで食い違っているが,犯行当日,警察は,容疑者として浮上した被告人の犯歴照会により,めがねを掛けていない被告人の写真(前記10年前の写真)を入手し,その旨の捜査報告書(甲47)が同日付けで作成されていることからすると,午後10時ころという夜のやや遅い時間に,被害者が証言するようにめがねを掛けていない写真を示されたというのであれば,その写真の中に被告人の顔写真が含まれていないというのは不自然である。そして,途中で打ち切ったにもかかわらず再度写真面割手続を行うことをせず,しかも,捜査本部を閉める段階でそれらの写真を処分するという点もにわかに納得しがたい点である。

このように考えると,被害者の証言を前提にすると,B刑事は,結果的に被害者が被告人の写真を選別できなかったという事実を隠すために,被害者に示した写真にその段階で警察が入手していた被告人の写真が含まれるはずがないように,被害者がすれ違った男の特徴照会からめがねを掛けた人物の写真であると証言している可能性が生じてくる(なお,この点は,被害者の記憶違いという可能性もなくはないが,めがねを掛けていない写真であったとの証言に対しては,それ以上何ら質問されていない。)。

このような事情は,担当捜査官の事実隠蔽的な姿勢を疑わしめるものであり,第2ないし第6で検討した被告人の犯人性を肯定する方向の事実認定について,その認定基礎となる証拠の信用性を疑わしめる事情となる。

第9被告人の犯人性について

第8における検討により,被告人が犯人であることと矛盾し得る方向の事実や,犯人性を肯定する方向の事実認定の基礎となる証拠の信用性に疑問を生ぜしめ得る事情が認められた。そのうち,被告人が犯人であることと矛盾し得る方向の事実は,犯人が合理的な行動を取ることを念頭に,いくつかの過程を踏まえて検討したものであり,被告人が犯人であることとおよそ両立しないといえるほどのものとはいえない。また,犯人性を支える証拠の信用性に疑問を生ぜしめ得る事情も,いくつかの過程が前提となっており,決定的な疑問を生じさせるものでもない。

しかし,前述したとおり,第2ないし第6の被告人の犯人性を肯定する方向の事実にもそれぞれ固有の問題点があって,その個々の推認力について一定の限界があり,かつ,第8で検討した事情があることを考えると,前記の被告人の犯人性を肯定する方向の事情を総合しても,被告人の犯人性を肯定する方向の個々の間接事実の問題点が補われ,被告人の犯人性が立証されたものと考えるには,未だ合理的な疑いが残っているというべきである。

したがって,被告人が本件犯行の犯人であるということはできず,本件公訴事実については犯罪の証明がないから、刑事訴訟法336条により無罪の言渡しをすることとする。

(裁判長裁判官 遠藤邦彦 裁判官 本村曉宏 裁判官 田郷岡正哲)

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