大阪地方裁判所 平成4年(ワ)7731号 判決 1993年9月28日
原告
吉田興三
被告
坂之上岬
主文
一 原告の請求を棄却する。
二 訴訟費用は原告の負担とする。
事実及び理由
第一請求
被告は、原告に対し、一〇〇万円及び平成四年九月二三日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。
第二事案の概要
夜間タクシーに乗つた酔客の指示によりタクシーが道路の設置物への接触を覚悟して抜け出る以外に方法のない場所に入り込まされ、これにより車両側面に損傷を受け、タクシー運転手は勤務会社内の信用を失墜させ勤務に支障を来し、転職を余儀なくされ、精神的損害等の損害を被つたとして、右タクシー運転手が右乗客を相手に、債務不履行ないし民法七〇九条に基づき、損害の賠償(主張額三一八万円のうち一〇〇万円につき)を求めている事案である。本件の争点は、以下に述べるとおり、被告の言動と本件事故との因果関係、被告の指示の違法性の有無、損害額である。
一 請求原因
1 被告は、平成四年八月一八日午前四時ころ、大阪市中央区八幡筋路上において、原告が乗務するユタカタクシー株式会社所有のタクシー(以下「原告車」という。)に乗車し、被告の住所地に帰宅する際、次のような指示をし、同原告車を走行させた。
(一) 被告は、乗車の際、阪神高速空港線池田出口まで行くよう指示したので、原告が同出口まで行つてその先どのように進行すべきかにつき再三指示を促すと、被告は、国道一七一号線を西宮方面に進めと指示したので、原告は、同指示に従つて進行した。原告は、猪名川の軍行橋手前で同橋を渡るのか尋ねると、被告は、直進するよう指示したのでそのまま進行していた。ところが、被告は、伊丹市役所の前付近でこの様な道は見たことがないというので、改めて道を尋ねると、被告は、前記池田出口で降りて中国自動車道に沿つて直進して欲しかつた旨述べた。そこで、原告がUターンして国道一七一号線を同出口方面に向かうと、軍行橋付近に至り再度Uターンするよう指示があり、同指示に従つて戻ると、尼崎・池田線に右折してくれとの指示があり、同線を中国自動車道方面に向かうと左折するよう指示があつた。原告が右指示に従い進むと、平坦な道と急な坂を登る道との分岐点に出たので方向を変えようとすると坂を登れとの指示があり、走行していたところ、道幅が非常に狭い間道に差し掛かつたので、道を変えようとすると、そのまま進むよう強い指示があつたので、進行して行くと、道幅が狭い上、左にカーブしている本件事故現場にさしかかつた。
(二) 原告は、その先に広い道が見えていたので、必死に何度もハンドルを切り換え左折しようと努力を重ねたが、遂に前進も後進も出来なくなつた。原告は、原告車を降り、脱出の方法を探つたが、鉄製のガードレール様の突起物に車両左側面を接触させて抜け出る以外にないように思われたので、敢えて同車を接触させつつ、ようやく抜けだすことが出来、やがて被告宅に到着した。
(三) 到着後、原告は、被告に対し、車両破損の原因の一部は被告の強引な指示にあつたのだから料金以外に五〇〇〇円程度負担できると有難いと申し出ると、被告は酒によつて指示したことに責任はないと右申出を拒絶した。
(四) 右接触事故による原告車の修理費は、約六万円を要し、原告は、そのうち二万円を負担せざるを得なかつた。そこで、原告は、平成四年八月二〇日ころ、被告に対し、前記事故状況を記載し、被告の指示が運転に困ることを期待するような無体なものであり、その結果についてどのように理解されているか知りたい旨の書状を出したところ、被告から留守番電話通じ、同書状の記載事実を認め、酒の上とはいえ、非常にご無理を言い、迷惑をかけて申し訳ありませんとの回答があつた。そこで、被告の勤務先で被告と面談すると、被告は、事故前の経過については水掛け論である旨の発言し、二万円を手渡そうとしたが、原告はそれを拒絶した。
(五) 以上の事実から明らかなように、被告は故意に道に迷つたごとく装い、原告が鉄製のガードレール様のものに接触を覚悟して抜け出る以外に方法のない場所に誘い込んだものである。すなわち、被告は、現居住地に二九年もの長きにわたり居住しており、尼崎池田線は戦前より川西、池田、伊丹、尼崎各市の中心部を南北に貫通するいわゆる主要産業道路として機能しており、被告は伊丹市の中心部へ出るアクセス道路として本件間道を幾度も通行していたものであつて、本件間道を含め付近土地の道路状況を知悉していたものであるから、被告の前記指示は酔余のものではなく、積極的に原告を通行困難な道路へ導き、原告が真摯に右困難を切り抜けようとする様を見ることによつて満足を得ようとしたものであり、愉快犯と同視し得る悪意に満ちた意図に基づいたものである。
タクシーに乗車する乗客の義務として、乗車中の料金の支払義務の他、信義則上、運転者に対し、いたずらに通常の運転能力以上の注意力、技能の発揮を要し、若しくは車両の損傷や運転者の生命、身体に危険を及ぼす道路や運転方法を指示してはならない義務、いわゆる平穏に乗車する義務が存するのであり、他方、運転者には、右のごとき平穏な運転を害する指示に対し、運転進行を拒否し得るものというべきである。したがつて本件被告のような平穏な運転を害する指示をし、通行を運転者に強要したときは、右行為はタクシーの乗客の義務不履行というべきであり、ことに本件のように事前に料金メーターを切つている場合には義務違反の程度はさらに大きくなるというべきである。
2 前記被告の行為により原告に生じた損害は次のとおりである。
(一) 立替金損害
原告車の修理費等物的損害一六万円のうち、原告が立替支出した二万円
(二) 転退職による減給
原告の収益は、前記転職により月収約六万円の減収が生じており、右減収は少なくとも三年に及ぶものと見込まれるから、右減収による損害は二一六万円となる。
(三) 慰謝料
原告は、前記被告の行為により、職業運転手として過度の緊張を余儀なくされ、その信用を失い、人格をもてあそばれ、社会的信用を傷つけられたのであり、その精神的苦痛を金銭的に評価すると一〇〇万円を超えるものというべきである。
3 よつて、原告は被告に対し、債務不履行又は不法行為に基づき、損害賠償として(前記損害合計三一八万円のうち)一〇〇万円の支払と同金員に対する本訴状送達の翌日である平成四年九月二三日から支払済みに至るまで年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
二 請求原因に対する認否及び被告の主張
1 被告が平成四年八月一八日の深夜、大阪市中央区八幡筋路上において伊丹市の自宅に帰るべく原告車に乗車したことは認めるが、その余の事実は以下の主張に反する限度で否認する。
2 被告は、原告車に乗車した際、原告に対し「阪神高速道路に入つて、空港方面の最終で降りてまつすぐに行つてくれ、川を越えたら教えてくれ」と指示した。被告は、本件原告車がなんばの阪神高速道路に入つた付近で居眠りをし、その後、原告から起こされ、窓越しに付近の状況を見たところ、全く覚えのない所であつた。被告は、自宅へ帰るために左折する地点を通過してから起こされたものと考え、「阪神高速の降り口の所へ戻つてくれ」と指示した。被告は、右指示後、再度居眠りし、原告の運転する自動車がようやく中国自動車道の側道に出たので、いつものとおり焼肉屋の交差点を左折して自宅に帰るつもりでいたものである。被告は、睡魔に襲われ、居眠りをしていたこともあり、また、深夜で暗く原告がどこをどう走つているのか見当すらつかなかつた。阪神高速道路を出てからの道筋は、原告が主導権をもつて原告車を運行していたものであり、その運行経路や事故現場等については、被告には何らの認識もない。
原告は、阪神高速道路を空港の最終で降りて真つ直ぐ行つてくれとの被告の指示にもかかわらず、同地点で降りながら真つ直ぐ進行せずに左折して国道一七一号線を進行し、また、阪神高速道路の降り口に戻つてくれとの被告の指示にもかかわらず、国道一七一号線の軍行橋付近をUターンして尼崎・池田線との交差点を右折し、原告自身が中国自動車道の側道に出る近道と判断して本件間道を進行し、本件事故現場において本件事故を引き起こしたものである。
3 当時被告は飲酒していた上、睡魔に襲われ、日頃見慣れない場所でどこをどのように走つているのかすら分らない状態であつて、原告を指示する程の知識はなく、前記指示を除けば、その余の進行経路は、原告が職業運転手としての知識と経験に基づいて原告車を運転していたものであつて、被告が故意に道を迷わせ、狭い道に原告車を誘い込んで本件事故を惹起させたことはなく、被告に損害賠償義務はない。
第三争点に対する判断
一 本件事故に至る経緯、その後の状況
後掲の各証拠及び原・被告本人尋問の結果によれば、次の事実が認められる(なお、原告の走行経路は別図1のとおりであり、本件間道の状況は別図2のとおりであり、本件事故現場の状況は別図3のとおりである。)。
1 原告は、平成四年八月一八日午前四時ころ、当時勤務していたユタカタクシー株式会社の運転手として同社が所有する原告車に乗務中、大阪市中央区の大阪ミナミの繁華街である八幡筋路上において、被告を客として乗せた。被告は、原告に対し、「阪神高速に乗つて空港線最終出口で降りてくれ」と指示をした。被告は、同月一七日午後六時ころから友人と酒を飲み、翌一八日午前〇時ころ、一人でカラオケスナツクの店に入り、飲酒を重ね、相当酩酊しており、原告に対し、「飲み屋で騙された。二〇万円あつた金が一万円札一枚しか残つていない。」などと発言した(甲第八号証)。
2 被告は、乗車後、酔いと疲れのため、眠り込み、阪神高速空港線池田出口付近において、原告が行く先についての指示を求めると、被告は、酔いと睡魔のため判断能力が減退していたことにより、国道一七一号線を進行するよう、ないしはそのように受け取られかねない指示をした。被告は、その後、伊丹市役所付近で行く先が違うことに気付き、前記池田出口まで戻るよう指示をした。その後、国道一七一号線を同出口方面に向かつたところ、被告は、あまりにも遠回りになることをおそれ、猪名川の軍行橋でUターンして欲しい旨の指示をした。原告が同指示に従つて同号線を戻ると、さらに、尼崎・池田線に右折してくれとの指示があり、同線を中国自動車道方面に向かうと左折するよう指示があり、そのとおり進んだところ、平坦な道と急な坂を登る道との分岐点に出たので方向を変えようとすると、被告は坂を登るよう指示をした。原告が同坂を走行すると、道幅が相当狭い間道に差しかかつたが、被告がそのまま進行するよう指示したので右間道を走行中、左に弯曲している本件事故現場付近にさしかかつた(甲第八号証、第三ないし第五号証、第七号証)。なお、原告は、右間道に至る以前にメーターを倒し、料金が増加するのを回避しており、かつ、原告車が右間道を走行中、本件事故現場に差し掛かる途中の同事故現場手前約二〇メートルの地点には、右折すれば幹線道路へ出ることができる交差点があつた(甲第一六号証)。
3 原告は、ハンドルを左に切り、左折進行しようとしたが一度では曲り切れなかつたので、停止し、後退して進行仕直そうかと考えた。だが、左斜め後方の確認が困難であつたことから、その場で切り返しを繰り返し、左折することにした。もつとも、切り返しにより左折する場合、左前方の曲り角に鉄製のガードレール様の設置物があり、原告車が同設置物に接触する危険があつたが、右設置物が細く見えたため、原告車が接触しても右設置物の方が変形してくれるように感じたことから、切り返しによる左折を決行することにした。被告は、後部座席の窓ガラスを開け、顔を出し、「オーライ、オーライ」と声を出したが、原告車左側面が前記設置物に接触しそうになつたことから、「こつち側当たりそうやで」、「接触しとるでえ」と右接触により原告車が損傷する危険があることを伝え、かつ、ガリガリという接触音がしていたにもかかわらず、原告車は敢えて左折を決行した(甲第八号証、第五号証、検乙第一号証)。
4 原告は、被告宅に到着後、被告に対し、車両破損の原因の一部は被告の強引な指示にあつたとして、被告の申出ていた料金七九六〇円と一万円との差額二〇四〇円以外に三〇〇〇円程度支出するよう申し出たが、被告は右申出を拒絶した(甲第八号証)。
右接触事故による原告車の修理費は、約一六万五一八〇円を要し(甲第一〇号証)、原告は、勤務先に対し、そのうち二万円を負担せざるを得なかつた(甲第一一号証)。そこで、原告は、平成四年八月二〇日ころ、被告に対し、前記事故状況を記載し、被告の指示が運転に困ることを期待するような無体なものであり、その結果についてどのように理解されているか知りたいとの書状を出したところ(甲第一号証)、被告から留守番電話通じ、同書状の記載事実を認め、酒の上とはいえ、非常にご無理を言い、迷惑をかけて申し訳ありませんとの回答があつた(甲第二号証)。そこで、被告の勤務先で被告と面談すると、被告は、事故前の経過については水掛け論であると発言し、二万円を手渡そうとしたが、原告はそれを拒絶した(甲第九号証)。
二 原・被告の主張の検討
1 原告主張について
原告は、被告の前記指示は、語気鋭く、乱暴な強い調子のものであつた上、被告は、現居住地に二九年もの長きにわたり居住しており、本件間道を含め付近土地の道路状況を知悉していたと考えるべきであり、尼崎池田線は戦前より川西、池田、伊丹、尼崎各市の中心部を南北に貫通するいわゆる主要産業道路として機能しており、被告は伊丹市の中心部へ出るアクセス道路として本件間道を幾度も通行したと考えるのが自然であり、被告は故意に道に迷つたごとく装い、原告が鉄製のガードレール様のものに接触を覚悟して抜け出る以外に方法のない場所に誘い込んだものであり、被告の指示は酔余のものではなく、積極的に原告を通行困難な道路へ導き、原告が真摯に右困難を切り抜けようとする様を見ることによつて満足を得ようとする愉快犯と同視し得る悪意に満ちた意図に基づいたものであると主張する。
しかし、被告が酒に酔い、疲労し、かつ、飲酒時の料金についての不満から不機嫌であつたため、右指示が必ずしも丁寧なものではなく、上品さを欠くぶつきらぼうなものであつた可能性は否定できないが、さりとて睡魔に度々襲われる程酩酊し、かつ、幾度も道を間違え、自己がどこにいるのかも正確には認識していなかつた被告が自信に満ちた断定的な指示を繰り返したとは考え難く、また、仮に被告からそのような指示が繰り返されていれば、原告が途中でメーターを倒し、被告との間で特にいさかいもなく被告宅まで被告を乗車させるなどという行動をとることは不自然であるから、右指示が被告の主張するような語気鋭く、乱暴な強い調子のものであつたとまでは認め難い。
そして、被告が本件付近の道路状況、本件間道の状況を知悉していたことを認めるに足る証拠はない上、漠然とした方向感覚に基づき走行ないし指示を続けているうちに予想外の狭道に入り込み抜け出すことが困難となることは往々にしてみられる出来事であること、被告が故意に深夜自己が乗込んでいるタクシーを同車が脱出できないような場所に誘い込むなどという事態は、酔いと疲れからタクシーに乗込み、帰宅を急いでいた被告の行動としてあまりに不自然かつ不合理であること、被告は、本件事故前、原告車が接触しないように周囲を見渡し、接触の危険が生じた際にはむしろ原告に注意を喚起していること、本件事故後の被告の行動をみても愉快犯と目されるような行動は特に見当たらないことなどに照らし、原告の右主張は採用できない。
2 被告の主張について
被告は、被告の指示は、原告車に乗車する際、空港方面の最終で降り真つ直ぐに行つてくれと言つたことと、伊丹市役所の付近で阪神高速道路の池田出口まで戻つてくれと言つたことのみであり、その他の指示はしていないと主張する。
しかしながら、被告は、酔いと睡魔のため、本件接触に至る経緯をほとんど記憶していない上(乙第一号証、被告本人尋問の結果)、その内容、態様いかんはともかく、被告の何らの指示もなく、原告が前記経路を走行したとは考え難いから、被告の右主張は採用しない。
三 被告の言動と本件事故との因果関係及び被告の指示の違法性について
1 前記認定事実に基づき、被告の言動と本件接触事故との因果関係の有無を検討すると、本件事故現場は、道幅が狭く、左に弯曲していたことから、原告車にとつて左折することが容易ではなかつたとはいえ、原告車の進路左前方にガードレールが設置されていること(甲第五号証)から明らかなように車両の走行を予定している道路であつて、比較的小型の車両であれば、左折することは一応可能であつたが、原告車はいわゆるクラウンであり、車長約四四七センチメートル、車幅約一六五センチメートルの大きさがあるため、別図3のとおり、同車により本件事故現場を通過することは原告のような職業運転者にとつても、極めて困難であり、夜間においては不可能に近いことが認められる。
しかしながら、本件事故現場を原告車で左折することが不可能ないし著しく困難であつたとしても、同車を後退させ、他の進路を選択することは可能であるのであつて、敢えて左折するか否かの判断は、運転の素人であり、乗客に過ぎない被告ではなく、日頃職業運転手として原告車を運転し、同車の形状、大きさ、曲る場合の同車の動き等について知識と経験とを有し、いかなる場合に同車を損傷させることなく安全に進行させ得るかにつき知識と経験を有し、本件事故当時、原告車を支配・管理し、運転していた原告の責任において判断すべき事項である。そして、(本件事故現場に至るまでの道路や交差点においてはともかく)同現場を左折すること自体につき、被告が指示、強要をした形跡は原告の陳述書、当法廷における供述においても特に見当たらず、左折するか否かの判断は専ら原告がしていることが認められること、原告車が本件事故現場を左折することが困難であることは原告主張のとおりであるが、一度で左折できなかつた時点において、職業運転者として原告車を運転していた原告が、降車するなどして周囲を確認し、左折を断念して同車を後退させ、他の道路へと進路を変更することは可能であつたものと解されること、本件においては、約二〇メートル程後退すれば幹線道路へと通じる道路があり、原告車を接触させる危険のない走路を選ぶことは十分可能であつたこと、原告は敢えて左折を敢行すれば原告車の車体がガードレール状の設置物に接触することを認識しながら、同設置物が細く見えたため、原告車が接触しても右設置物の方が変形してくれるものと判断し、原告車が設置物に接触しそうになつたことを知らせる被告の言葉やガリガリという接触音を無視し、敢えて左折を決行したことを考慮すると、左折することが不可能ないし著しく困難な本件事故現場を敢えて左折した責めは、専ら職業運転手として現実に原告車を運転し、接触の危険を認識しながら敢えて左折を敢行した原告に課せられるべきであり、原告の意に反して物損事故が生じたからといつて、その責任を接触の危険があることを告げていた乗客に過ぎない被告に転嫁すべきではない。
したがつて、本件事故の原因は、原告が自らの判断により、前記左折を決行したことにあり、原告の本件事故現場に至る以前の被告の言動は本件接触事故の契機となつたに過ぎず、右指示と本件事故との間に因果関係があるとは認め難い。
2 原告は、タクシーに乗車するに際する乗客の義務として、乗車中の料金の支払義務の他、信義則上、運転者に対し、いたずらに通常の運転能力以上の注意力、技能の発揮を要し、若しくは車両の損傷や運転者の生命、身体に危険を及ぼす道路や運転方法を指示してはならない義務、いわゆる平穏に乗車する義務が存するのであり、被告は同義務に違反したと主張するので、この点につき判断する。
前記認定事実によれば、本件事故現場に至る以前の被告の指示に不適切ないし誤りが多く、指示の際の言動も、酔い、疲労と不機嫌であつたことなどからいささか上品さを欠き、ぶつきらぼうなところがあつた可能性を否定できないが、右指示に際し、社会通念上是認し難い程度の著しい暴言、又は、脅迫、強要があつたとまで認めるに足る証拠はないこと、タクシーの乗客が酔いと眠気のため何度となく行く先を間違えることは往々にして見られる出来事であり、それによりタクシーの運転者に精神的苦痛が生じたとしても、右苦痛は運転区間の伸張に伴う料金の増加により慰謝されるべき事柄であること、原告が被告に対し本件事故直後要求した額は約五〇〇〇円に過ぎないこと、原告は原告車の修理費のうち二万円を負担したが右は小額であり前記事故態様に照らし原告が負担を求められてもやむを得ない範囲と解されること、原告は本件事故により転職を余儀なくされ、月平均約六万円の減収が生じていると主張するが右減収の事実を認めるに足る的確な証拠はなく、そもそも右転職が本件事故に起因するのか事故後の原告の行動、勤め先との対立に起因するのか自体判然としないことを考慮すると、同指示の不適切性により原告に精神的苦痛が生じたとしてもタクシー運転者として社会通念上受忍すべき限度の範囲内にあり、債務不履行ないし不法行為に該当するとまで評価すべき違法性は認め難い。
したがつて、原告の前記主張は、いずれにせよ理由がない。
四 以上の次第で、その余の点を判断するまでもなく、原告の本訴請求は理由がないので棄却することとし、訴訟費用の負担について、民事訴訟法八九条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 大沼洋一)
別図1 事件当日の走行跡
<省略>
接触現場の図
<省略>