大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。
官報全文検索 KANPO.ORG
月額980円・今日から使える・メール通知機能・弁護士に必須
AD

大阪地方裁判所 平成6年(ワ)12244号 判決 1997年1月31日

原告

藤井恒男

右訴訟代理人弁護士

小西正人

被告

オリエントサービス株式会社

右代表者代表取締役

江幡義雄

右訴訟代理人弁護士

青木俊文

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告に対し、金四〇〇万円及びこれに対する平成六年一二月二九日から支払いずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二当事者の主張

一  請求原因

1  原告は、ダイキン工業株式会社(以下「ダイキン工業」という)において、フッ素樹脂加工技術者として稼働していたが、平成二年七月、ダイキン工業を退職し、その後、人材銀行に登録する一方、大分県東国東郡で施設園芸業に従事していた。

2  原告は、平成六年五月四日、株式会社アカデミック(分離前の相被告、以下「アカデミック」という)のコンサルタントである杉山幸子(分離前の相被告アカデミック補助参加人、以下「杉山」という)から、アカデミックがテフロン加工技術者(フッ素樹脂加工技術者)の求人をしているから面接してほしい旨を電話で告げられた。

3  原告は、平成六年五月六日、履歴書を杉山に送付して、アカデミックの求人に応募し、同月一三日、上京して、杉山同席のもとで、被告代表者江幡義雄(以下「江幡」という)及び同木村正輝(以下「木村」という)と面接し、身分を事業部長とし、給与を年額八〇〇万円以上(賞与は給料の四か月分)、被告が社宅を提供するなどの条件で、被告への就職が内定し、原告の着任時期は同年六月一〇日と決定した。

4  その後、原告は、被告に対し、被告が杉山を介して命じたフッ素樹脂加工事業計画書や誓約書を提出する一方で、前記施設園芸の事業を他人に譲渡するなど、平成六年五月末には、被告に着任する準備を完了させていた。

5  ところが、被告は、平成六年六月一〇日になっても採用の辞令を発せず、原告の問い合わせにも応じなかったが、同月二九日、木村は、原告に対し、原告の採用は検討中であるから暫く待つよう電話で告げ、さらに、被告は、同年八月二七日ころ、原告に対し、採用しない旨を書面で通知した。

6  前記のとおり、原告と被告との間においては、平成六年五月一三日、被告による原告の採用が内定したというべきである。そして、その後の誓約書の提出と相俟って、原告が被告に入社する旨の労働契約が成立したとするのが相当である。仮にそうでないとしても、前記事情によれば、原告と被告との間には、少なくとも、右の内容の労働契約の予約は成立していたことが明らかであるにもかかわらず、被告は、前記原告作成のフッ素樹脂加工事業計画書を検討し、新規事業(フッ素樹脂加工事業)を行わないこととし、原告を採用しなかった。

被告の右行為は、不当な内定の取消しであり、被告は、原告との雇用契約上の債務を実行しなかったのであるから、原告に対し、債務不履行責任を負わなければならない。

7(一)  原告は、前記のとおり、被告に入社することを前提に、施設園芸の事業を他人に譲渡したが、そのことにより、メロンの苗九〇〇本及びイチゴの苗五〇〇〇本の育成時期を逸し、平成六年度の収穫が不可能となった。そのことによって原告に生じた損害は、メロンの分が九〇万円(メロンの苗一本についての損害が一〇〇〇円として算出)、イチゴの分が一二〇万円(イチゴの苗一本についての損害が二四〇円として算出)であり、さらに、原告は、かすみ草の栽培時期も逸して、六〇万円の損害を被った。

(二)  原告は、前記フッ素樹脂加工事業計画書の作成につき、調査、立案、専門家との協議などを行うために、二〇日間を要した。

原告の右作業に対する報酬は、一日当たり五万円を下らないというべきであるから、右二〇日間の報酬の合計は、少なくとも一〇〇万円である。

(三)  原告は、被告に採用されたものと信じ、知人等にもそのことを告げたにもかかわらず、被告の前記背信行為により、面目をつぶされ、自らも精神的損害を被ったが、これを金銭に評価すると三〇万円が相当である。

8  よって、原告は、被告に対し、債務不履行に基づき、損害金合計四〇〇万円及びこれに対する訴状送達の日の翌日である平成六年一二月二九日から支払いずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1、2の各事実は不知。

2(一)  同3のうち、原告が平成六年五月一三日に上京し、杉山同席のもとで、江幡及び木村と面接したことは認め、その余は否認する。

(二)  原告は、右面接の席上、毎週五日制、五年位の契約年数、事業部長の身分及び社宅の提供を求め、被告側がこれらの要望に応じられる旨の見通しを述べたにすぎない。なお、給料については、後日杉山を通して原告の希望を聞いたうえで被告が検討することとされたが、賞与支給に関する合意はない。また、原告の着任時期の話しも出ていない。

3  同4のうち、被告が杉山を介してフッ素樹脂加工事業計画書の作成を原告に求めたこと及び原告が被告に右計画書を提出したことは認め、その余は不知。

4  同5のうち、被告が採用の辞令を発しなかったこと、木村が平成六年六月二九日原告に対して原告の採用は検討中であるから暫く待つよう電話で告げたこと及び被告が同年八月二七日ころ原告に対して採用しない旨を書面で通知したことは認め、その余は否認する。

5  同6及び7の各主張は争う。

三  被告の主張

1  前記のとおり、平成六年五月一三日の面接の際に、原告の被告への入社が内定した事実はない。

2  被告は、平成六年五月一八日、杉山を通して、原告の希望する年収が一〇〇〇万ないし一三〇〇万円であることを聞き、これに原告の社宅用のマンションを借り上げる費用を加えると被告の社長の年収を超える金額となることから、原告が相応の価値のある人材であるかどうかを試す意味で、前記フッ素樹脂加工事業計画書の作成を命じたのである。しかるに、原告が作成した計画書は、採算がとれるものではなく、被告の期待を裏切るものであったため、結局、被告は、同年七月六日、原告を採用しないこととした。

3  ところが、杉山は、その間、被告に対して採用決定通知なる書面を送り付けて来たりするなど、被告が最終的判断に至っていないにもかかわらず、強引に原告の被告への入社手続きを進めようとしたので、被告は、杉山に対し、勝手な行動をしないよう厳重に注意したり、原告を採用するかどうか白紙の状態である旨を告げていた。さらに、被告は、平成六年七月六日、杉山に対し、原告を不採用とする旨の通知をしたが、被告としては、杉山を通して原告に右不採用の事実が知らされると思っていた。それにもかかわらず、原告から問い合わせがあったため、木村が、原告に対し、不採用の通知をしたのである。

四  被告の主張に対する認否

被告の主張は争う。

第三証拠(略)

理由

一  原告が平成六年五月一三日に上京し、杉山同席のもとで、江幡及び木村と面接したこと、被告が杉山を介してフッ素樹脂加工事業計画書の作成を原告に命じたこと、原告が被告に右計画書を提出したこと、被告が採用の辞令を発しなかったこと、木村が平成六年六月二九日原告に対して原告の採用は検討中であるから暫く待つよう電話で告げたこと及び被告が同年八月二七日ころ原告に対して採用しない旨を書面で通知したこと、以上の事実は当事者間に争いがない。

二  右当事者間に争いのない事実、(証拠略)原告本人及び被告代表者の各尋問の結果並びに弁論の全趣旨を総合すれば、次の各事実を認めることができる。

1  原告は、平成二年七月、三〇年余り勤めたダイキン工業を退職し、大分県東国東郡に居住して、メロンやイチゴの栽培などの施設園芸を始めた。

原告は、フッ素樹脂加工の技術者で、ダイキン工業においてもフッ素化合物の合成等の業務を担当し、退職当時は主任研究員の地位にあり、また、フッ素樹脂関係の著作や論文もあった。

原告は、ダイキン工業退職後、人材銀行に登録していた。

2  杉山は、アカデミックの従業員(コンサルタント)であり、アカデミックから支給される給与は、歩合給であった。アカデミックは、木村が代表者を兼任し、かつ、被告とグループ関係にある東洋合成工業との間で、人事顧問委嘱契約を締結しており、何件かの斡旋例もあった。

3  江幡は、被告の新規事業として、フッ素樹脂加工業への進出を企図していた。被告は、当初東洋合成工業の下請として右事業を行うつもりであったが、被告にはフッ素樹脂加工の経験がなく、従業員に対する教育の必要も生じてくることから、江幡は、東洋合成工業の担当者の田村秀夫(以下「田村」という)から聞いた杉山に対し、平成六年三月ころ、テフロン加工技術の熟練者の求人を申し入れた。その後、江幡は、被告にフッ素樹脂加工関係の営業力がないことなどから、フッ素樹脂加工業への進出を断念し、技術者の採用もしないこととしたが、そのことを杉山に連絡しなかった。

4  杉山は、江幡からの前記申入れを受け、求職者のリストやファイルをあたって原告を捜し出し、平成六年五月三日ころ、原告の大阪の自宅に電話をかけた。原告は、大分県東国東郡に居住していたが、大阪の自宅に杉山から電話があったとの連絡を受け、同月四日ころ、原告は、杉山から、電話をかけたところ、原告は、杉山から、テフロン加工技術者の求人があることを告げられ、これに応募する意思があるかどうか尋ねられた。原告は、杉山や被告がどうして自分の名前を知ったのか興味があったことなどから、面接に応じることとした。

5  杉山は、平成六年五月六日、江幡に電話をかけて、原告が面接に応じる意思がある旨を告げたところ、江幡は、前記求人は既に取り消したと述べた。杉山は、一旦は諦めたものの、同月九日、原告から履歴書が届けられたため、念のため東洋合成工業の田村に連絡をとったところ、木村がそのことを知り、江幡に原告との面談を勧めたため、江幡もこれを容れ、原告と面接することになった。そして、面接の日が同月一三日と決まり、杉山は、原告の履歴書等を東洋合成工業宛送付した。

6  原告は、平成六年五月一三日、東洋合成の本社で、杉山同席のもとに、木村及び江幡の面接を受けた。右面接の席上、木村は、被告の将来が心細く、新規事業としてテフロン加工を検討した結果、この度の求人に及んだ旨を告げた。また、右面接においては、原告の待遇が事業部長であること、週五日勤務であること、社宅の用意ができることや被告の給与体系上賞与は年二回、各二か月分であることなどの話しがなされ、原告は、希望する給与額を聞かれた。しかし、原告は、この面接に臨んだ目的が、どうして自分の名前が出てきたのかを確かめることや被告の要求する内容を知ることであり、希望する給料の額等について具体的に検討していなかったことから、給与の希望額は後に杉山を通して返事をする旨を告げるに止まったため、原告の給与額はもとより、勤務開始の時期等の具体的内容は決まらなかった。なお、その際、木村は、江幡に対して、新規事業の土地についての話しをしていたし、また、被告で働く場合少なくとも五年位は続けて欲しいとの希望を伝え、原告はこの申出を了解した。

もっとも、前記のとおり、被告は、右面接の際には、フッ素樹脂加工業への進出について、当初の熱意を失っており、原告と面談したのも、面接の結果によっては、フッ素樹脂加工業への進出を再検討してもよいとの考えに基づくものであった。また、木村は、原告の右面接における言動から、原告が希望する給与額は月額二〇万ないし三〇万円程度でそれほど高額ではないとの感触を得ていた。

7  原告は、右面接を終えての帰り、杉山と、入社日、着任日の話しをした結果、入社日は同年六月一〇日とすることとなったが、この話合いの際、杉山は、原告に対し、被告への入社が即決で内定したなどと告げた。

そこで、原告は、施設園芸の仕事ができなくなると考え、同年五月末ころ、後継者を捜し出し、施設園芸の仕事を委ねたが、無理に頼んだことなどから、原告が被告で働くことになると予想された五年間について、土地を無償で使用させることとなった。

8  杉山は、平成六年五月一八日、江幡に対し、原告の希望条件を通知するとともに、被告会社が原告を同月一三日付で採用決定した旨の記載のあるアカデミック宛採用決定通知書及びアカデミックと被告との間の人事顧問委嘱書の案をファクシミリで送付し、被告の検討を求めた。右原告の希望条件は給与月額五四万四〇〇〇円以上、年収一〇〇〇万から一三〇〇万円の範囲内、社宅の提供や引越手当の支給を求め、かつ、入社前に社宅の下見のため上京したいなどというものであった。なお、この希望条件に示された一〇〇〇万から一三〇〇万円の範囲内という年収額は、原告自身が希望したものではなく、杉山が、一般的な給与水準を考慮したうえで提示したものであり、杉山としては、右金額に固執するつもりはなく、これを基準に被告と交渉し、原告にできるだけ多くの年収を確保させようと考えていた。

江幡は、被告が原告を採用するか未定であるにもかかわらず、杉山が独断で右採用決定通知書を作成し、被告に送り付けてきたと考えて立腹し、杉山に電話をかけて、勝手なことをやらないよう厳重に注意するとともに、採用が決まっていないことを理由に、原告が希望していた社宅の下見も断った。

江幡は、原告が予想以上の高額な給与を希望してきたことから、被告で雇用するのは無理だと考えたが、木村は、アカデミックが原告に良い案があると言っているとの話しを聞きつけ、江幡に対し、それほど高額の報酬を要求する以上は何か考えがあるのではないか、それを聞いてみたらどうかなどと勧めた。そこで、江幡は、原告に事業計画書の提出を求めることとし、同月二一日、杉山に対し、原告にテフロン事業開始にあたっての年度別収支予想、購入器具の購入費等を問い合わせるようファクシミリで依頼し、杉山は、同月二四日、原告にその旨電話で告げた。江幡は、さらに、同月二五日、原告の電話での問い合わせに応じ、計画書の作成を依頼した。

9  原告は、右依頼に従い、必要な調査等を行った後、平成六年六月一〇日、計画書の作成を完了し、これを杉山に送付したが、杉山は、この計画書が江幡の要求に合致しないものであると考え、原告と電話で打ち合わせをしながら、計画書の修正を行い、これを清書して、同月一三日ころ、ファクシミリでその一部分を被告に送信し、同月一五日には、計画書の全部を郵送した。

江幡は、右計画書の内容が多くの需要を見込めない一〇〇〇リットルオートクレーブの生産計画で、到底採算が合わないものであるなど、被告が期待していたものとはかけ離れていたため、原告の採用については、同月一七日に木村と話し合い、最終的に決定することとした。

また、右郵送された計画書とともに、前記のものと同様同年五月一三日付で採用決定した旨の記載のある採用決定通知書等が送付されたため、江幡は、杉山に対し、原告の書類を受領したこと、原告の採否については同年六月一七日に木村とミーティングを行う予定であり、現在のところは白紙の状態であること及び被告としてはスカウトの依頼はしておらず、採用通知も出していないなどと記載した文書をファクシミリで送信した。これに対して、杉山は、良い返事を待っているとの返答を送った。

10  原告は、右計画書に分かりにくい点があったことや、そもそも、この計画書に記載したオートクレープは、多くの需要が見込めない製品であったことなどから、平成六年六月一七日、木村に対し、右計画書の補足説明に行きたい旨を告げ、木村の了解を得た。また、そのころ、原告は、江幡から、工場の建物の規模などについての問い合わせを受けたことがあった。

原告は、その後話しに進展がみられなかったため、同月二九日、木村に電話をかけて、前記補足説明のことを告げたところ、木村から、暫く待って欲しいと言われた(なお、結局、右補足説明は行われなかった)。

11  江幡は、平成六年六月一七日に予定していたミーティングができなかったため、同年七月五日になって、木村と話し合いのうえ、原告を採用しないことに決定したが、その理由は、原告の希望する給与額が高額に過ぎること、フッ素樹脂加工は事業として採算が採れないこと及び原告の事業部長としての能力に疑問があることであった。そして、江幡は、同日、杉山に対し、原告を採用しないことに決定した旨の書面を郵送したが、江幡は、アカデミックから送付された原告の紹介状に採否はアカデミック宛に連絡するよう記載してあったので、原告へはアカデミックから不採用が知らされるものと考え、原告に対しては、通知をしなかった。

なお、原告を不採用とした理由の一つに原告の希望年収額が高額であるとの点があったが、木村は、これを減額して原告を採用しても意欲ある労働は期待できないと考え、原告や杉山に対して、年収に関する交渉はしなかった。

12  その後、原告は、平成六年六月から同年七月にかけて、自らを被採用者とする誓約書や履歴書を杉山に送付したり、同年八月一日ころには、杉山にメロンを届けたりし、杉山も、電話や手紙で原告と連絡をとっていたが、原告には、被告との間の労働契約がどうなっているのかは分からず、原告が被告への採用が難しいことを知ったのは、同月八日の電話で、杉山から被告への採用の望みが薄いと告げられたときであった。原告は、そのころ、木村に対して、採用についての問い合わせをしたが応答はなく、同年九月初めころ、木村に対し、農業を他人に譲り、六月以降就業可能な状態で待機しているなどと記載した被告への採用についての問い合わせの手紙を送ったところ、同年一〇月二日ころ、木村からの返事が届いたが、この返事には、前記面接の際に原告の話しから受けた就職条件についての印象と後にアカデミックから提示された条件とが大きく違い採用を難しくしたこと、被告はそれでも事業の開始の方策を探り、原告の手も煩わせたが、新規事業を行うための銀行からの借り入れも難しいなどの事情から事業は困難との結論に至ったこと、このことはアカデミックにも連絡し、原告の了解が得られているものと思っていたことなどこれまでの経過が記載されていた。原告は、右木村の手紙を見て、被告に不採用となったことを理解した。

三  右認定の事実に基づき、原告の請求の当否につき、検討する。

1(一)  原告の本件請求は、原告と被告との間に採用内定がなされ、被告から前記事業計画書の作成、提出を命ぜられたことによって、右採用内定が本採用に至ったというべきであり、仮にそうでないとしても、原告と被告との間には、被告が原告を雇用する旨の労働契約の予約が成立していたことを前提に、被告が原告を採用しなかったことが債務不履行を構成するとして、被告に対し、損害賠償責任を追及するものである。

しかしながら、前記認定の事実によれば、被告は、一旦はフッ素樹脂加工業への進出を企図したものの、その後右進出を諦めるに至ったのであって、江幡は、杉山に依頼したフッ素樹脂加工技術者の求人を断念し、杉山による原告の紹介に対しても、これを謝絶したのである。しかし、杉山がこの経緯を田村に告げ、このことを耳にした木村が江幡に原告との面接を勧めたことから、平成六年五月一三日の面接が実現したのであるが、被告は、この面接の際には、フッ素樹脂加工業への進出の意欲も薄れており、また、フッ素樹脂加工業を行うにあたって必要とされる物的施設や資金導入等が具体的に検討された形跡もない。さらに、前記面接においても、原告を事業部長の地位に就けること、社宅を提供すること、週五日制とすることなどの点については被告が原告の希望を容れる方向で話しが進んでいたものの、具体的業務の内容や勤務開始時期の取決めはなかったのである。これらの事情に、通常の雇用契約において最も関心の高い要素の一つである原告の給与については、後に原告が杉山を通して被告に連絡することとされたに止まり、何ら具体性のある金額が決められなかったことをも考え併せれば、右面接の際に原告の採用が内定されたり、原告と被告との間で、労働契約の予約が成立したなどとすることはできない。

そして、本件に顕れた諸事情に照らしても、他に原告主張の債務不履行の根拠となるべき契約関係が原告と被告との間に発生するに至った事実を認めることはできない(なお、前記認定のとおり、木村は、右面接を終えた際、原告が希望する給与は月額二〇ないし三〇万円程度であるとの感触を得たのであるが、この額は、後に杉山が被告に通知した一〇〇〇万ないし一三〇〇万円という年収額はもちろん、原告が希望していた月額五四万円余りという給与額に比しても相当の隔たりがある。このような認識の著しい相違からしても、原告と被告との間に、原告主張にかかる採用内定や労働契約の予約などの契約関係の成立を認めることは困難というべきである)。

(二)  これに対して、原告は、前記面接の際に、木村が原告に対して、少なくとも五年はやってくれますねなどと告げ、原告がこれを承諾したことをもって、原告と被告との間に原告主張の契約関係が成立した旨を主張するが、前記認定の事実に照らせば、木村の右言辞は、原告を採用してフッ素樹脂加工業を起こした場合、投資が多額に上り、また、採算が採れるようになるまで相当の期間を要するであろうことから、原告の事業に対する意欲や長期間勤務する意思を確認するためのものであったというべきであり、面接における原告や木村の右言動から直ちに原告主張の契約関係の成立を認めることはできない。

(三)  原告は、さらに、被告が原告に対し前記事業計画書の作成、提出を命じたことについて、契約関係の存在を前提としなければ考えられないと主張する。

確かに、いかに被告への入社を希望していたとはいえ、従業員ではない原告に無償でそのような計画書の作成を求めることは、一見奇異に感じられないではないが、前記認定のとおり、杉山を通して被告に伝えられた原告の給与の額が木村や江幡が予想していた額に比してあまりに高額であり、被告としては、到底原告を採用できるものではないとの思いに至っていたところ、木村が原告に腹案があるとの話しを聞きつけ、どのようなものか聞いてみるよう江幡に勧めたことが原告が右計画書の作成を求められるに至った発端となったものであることに鑑みれば、被告が特段の報酬を約することもなく、原告に右報告書の作成、提出を求めたとの一事をもって、原告主張の契約関係の存在の根拠とすることはできない。

(四)  また、前記認定の事実によれば、杉山は、平成六年五月一三日の面接終了後、原告に対し、即決で採用が決まった旨を述べたり、被告に対して、二回にわたって原告の採用決定通知書を送りつけたりしているのではあるが、仮に、杉山が、原告が被告に採用されたと思ってこれらの行為を行ったものであったとしても、それは、杉山の主観的な認識にすぎないのであるから、右の事情をもって、原告主張の契約関係の成立を認めることもできない。

四1  以上判示のとおり、原告と被告との間には、原告が主張するような契約関係が存在していたとすることはできないのであるから、原告の本件請求は、その余の点について判断するまでもなく、失当といわなければならない。

2  確かに、本件においては、原告の採用を巡って、杉山と被告との間で、あるいは杉山と原告との間で、どのようなやりとりが行われたのかが必ずしも明らかでない点がある。また、関係者相互の間における意思疎通が充分でない面があったりしたほか、杉山や江幡、木村の原告に対する対応についても、原告からの問い合わせに対して経過等を充分に説明するなど誠意ある対応を怠ったのではないかとの疑いを払拭しきれない点がないではないが、前記のとおり、原告と被告との間の契約関係の存在が認められない以上、被告の原告に対する債務不履行を理由とする本件請求は、許されないといわなければならない。

五  以上の次第で、原告の本件請求を棄却することとして、主文のとおり判決する。

(裁判官 長久保尚善)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例