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大阪地方裁判所 平成7年(ワ)3277号 判決 1998年3月25日

甲事件原告・乙事件被告(以下「原告」という。)

甲野太郎

右訴訟代理人弁護士

堅正憲一郎

甲事件被告・乙事件原告(以下「被告」という。)

医療法人厚生会(財団)

右代表者理事長

田中武夫

右訴訟代理人弁護士

今口裕行

主文

一  甲事件について

1  甲事件被告(乙事件原告)が平成七年二月一八日に甲事件原告(乙事件被告)に対してした懲戒解雇が無効であることの確認請求にかかる訴えを却下する。

2  甲事件原告(乙事件被告)のその余の請求(損害賠償請求)を棄却する。

二  乙事件について

1  甲事件原告(乙事件被告)は、甲事件被告(乙事件原告)に対し、金七二〇〇万円及び内金三三四八万三八七〇円に対しては平成八年三月六日から、内金三八五一万六一三〇円に対しては平成九年八月二六日から、それぞれ支払いずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  甲事件被告(乙事件原告)のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用は、甲事件について生じた分及び乙事件について生じた分の五分の二を甲事件原告(乙事件被告)の負担とし、乙事件について生じた分の五分の三を甲事件被告(乙事件原告)の負担とする。

四  この判決の第二項1は、仮に執行することができる。

事実及び理由

第一当事者の求めた裁判

(甲事件)

一  請求の趣旨

1 被告が平成七年二月一八日原告に対してなした懲戒解雇が無効であることを確認する。

2 被告は、原告に対し、五〇〇万円を支払え。

3 訴訟費用は被告の負担とする。

4 第2項につき仮執行の宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1 原告の請求を棄却する。

2 訴訟費用は原告の負担とする。

(乙事件)

一  請求の趣旨

1 原告は、被告に対し、二億円及び内金一億円については平成八年三月六日から、内金一億円については平成九年四月一日から、それぞれ支払いずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2 訴訟費用は原告の負担とする。

3 仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1 原(ママ)告の請求を棄却する。

2 訴訟費用は原(ママ)告の負担とする。

第二当事者の主張

一  当事者間に争いのない事実

1  原告は、昭和六二年五月に国家試験に合格した医師であり、平成六年四月二八日、被告と雇用契約を締結し、同年五月から、被告の経営する医療法人厚生会共立クリニック(大阪市中央区<以下、略>に所在、以下「共立クリニック」という。)の院長として稼働していた。

2  原告は、被告に対し、平成七年一月二三日付けで、同年二月二八日をもって被告を退職する旨の届けを提出し、被告はこれを了承した。

3  ところが、被告は、平成七年二月一八日をもって原告を懲戒解雇に付す旨の通告を行った(以下、この懲戒解雇を「本件解雇」という。)。そして、本件解雇の理由として、<1>原告が共立クリニックの従業員に対して原告が開設を予定している医療施設に移籍するよう勧誘したこと、<2>原告が共立クリニックの患者に対して原告が開設を予定している医療施設に転院するよう勧誘したこと、<3>原告が共立クリニック所有の診療録、看護記録(看護サマリー)のデータをパソコンに入力して盗用したことが掲げられていた。

4  原告は、平成七年三月一日、大阪市中央区<以下、略>において、血液人工透析を主たる診療科目とするNクリニックを開設した。

二  原告の主張(甲事件の請求原因等)

1  本件解雇には、次の(一)ないし(三)の無効原因がある。

(一) 原告は、Nクリニック開設にあたって、共立クリニックの従業員の移籍や患者の転医を勧誘したことはない。また、共立クリニックの診療録、看護記録のデータについては、原告や共立クリニックの婦長がパソコンに入力し、診療に利用していたにすぎず、盗用した事実はない。

したがって、本件解雇は、解雇事由を欠く。

(二) また、前記のとおり、原告は、被告に対し、平成七年一月二三日付けで、同年二月二八日をもって退職する旨の届けを提出し、被告はこれを了承した。すなわち、原告と被告との間には、同日をもって雇用契約を終了させることについての合意が成立しているのであるから、本件解雇は、右合意に反し、許されないというべきである。

(三) 被告は、本件解雇を行うにあたって、懲戒事由の存否等につき、原告に弁明の機会を与えていない。本件解雇が懲戒解雇という重大な処分であることに照らせば、原告に弁明の機会を与えていないことは、手続きの重大な違法というべきである。

2(一)  被告は、無効の本件解雇を行ったばかりでなく、本件解雇を行ったことを共立クリニック内に告示し、また、第三者に告知するなどして、原告の名誉、信用を毀損した。

(二)  被告代表者の田中武夫(以下「田中」という。)は、平成七年二月九日、原告の父である甲野一郎(以下「一郎」という。)に面会し、原告の行動につき虚偽の説明をし、背任、横領、医師法違反の事実があると告げた。また、田中は、被告を債権者、原告を債務者とする仮処分(当庁平成七年(ヨ)第三四四号事件)の審尋の際、原告に対し、「お前何考えとんのじゃ。医者としてやっていかれへんど。」などと脅迫まがいの言動に及んだ。

(三)  被告の会長と称する田端尚夫(以下「田端」という。)は、平成七年二月八日、共立クリニック内において、原告の胸ぐらをつかみ、暴言を吐くなどの暴力、脅迫行為を行った。

3  原告は、本件解雇及び右2項記載の不法行為によって、名誉、信用を傷つけられ、多大の精神的損害を被ったが、右損害を金銭に評価すると、五〇〇万円が相当である。

4  よって、原告は、被告に対し、本件解雇が無効であることの確認及び損害金五〇〇万円の支払を求める。

三  被告の主張(乙事件の請求原因等)

1  共立クリニックは、原告を院長とし、透析技師(看護士)三名、看護婦一三名、事務職員三名で構成し、血液人工透析を主たる診療科目とする診療所であり、平成七年三月一日の時点で、八七名の患者が慢性腎不全等のため、通院し、血液人工透析の治療を受けていた。

2  原告は、被告に雇用され、共立クリニックの院長の地位にあったのであるから、被告に対し、右雇用契約に基づき、善良なる管理者の注意義務をもって、患者の医療行為にあたるとともに、従業員を監督して、診療所の円滑な運営にあたるべき義務があるというべきである。

しかるに、原告は、被告に事前に通知することもなく、平成七年四月一日を目途に、大阪市中央区<以下、略>所在の椿本ビル三階において、共立クリニックと同一診療科目である血液人工透析を主たる診療科目とするとする(ママ)Nクリニックを開設し、経営する計画を立て、次の違法行為を行った。

(一) 原告は、平成六年一二月ころからNクリニック開設に至るまで、共立クリニックの従業員に対し、原告が平成七年二月二八日付けで被告を退職し、同年四月一日から主として血液人工透析を主たる目的とするとする(ママ)診療施設を独立開業することを喧伝したうえで、共立クリニックを退職し、右原告が開業を予定している診療施設に就職するよう勧誘した。

(二) 原告は、平成七年一月ころからNクリニック開設に至るまで、共立クリニックに通院していた患者に対し、原告が平成七年二月二八日付けで被告を退職し、同年四月一日から主として血液人工透析を主たる診療科目とする診療施設を独立開業することを喧伝したうえで、右原告が開業を予定している診療施設開業後は、共立クリニックから右診療施設に転院するよう口頭あるいは案内状を発送する方法で勧誘した。

(三) 右患者転院に備えて、平成六年ころから平成七年一月ころまでの間、共立クリニックの患者の診療録、看護記録記載のデータを、原告所有のパソコンに転写、入力し、そのフロッピーを持ち出した。

そして、Nクリニックは、原告の計画どおり、平成七年四月一日に開設され、原告は、直ちに診療を開始した。

3  原告の右各行為は、原告が被告に在籍している間に行われたものについては債務不履行に、本件解雇後は被告の営業権を侵害する不法行為にそれぞれ該当する。

4  共立クリニックにおいては、前記のとおり、平成七年三月一日の時点で八七名の患者が通院し、診療を受けていたが、同月三一日、そのうちの四六名が一斉に共立クリニックでの治療を中断し、同年四月一日から、Nクリニックに転医する事態が発生した。

人工透析患者は、腎移植術を行う以外一生涯人工透析治療を受けなければならない。そして、慢性腎不全という傷病の性質上、人工透析患者が一旦専門施設での人工透析治療を開始すると、ほぼ一生涯同じ施設での治療が継続され、死亡、住所の変更等の事由がない限り、転医することは稀であることに鑑みれば、右患者の大量転院は、原告の前記不当な勧誘行為に起因することは明らかである。

5  共立クリニックにおいては、平成七年四月一日以降、患者数が激減し、その後もNクリニックへ転院した患者数を回復できない。

右転院した四六名の患者の平成七年一月から三月までの治療費差益額(収益額)は、一か月平均一五五六万六二八〇円であり、被告は、右転院の結果、同年四月一日以降、毎月右と同額の損害を被っている。

6  よって、被告は、原告に対し、平成七年四月から平成九年三月までに生じた損害合計三億七三五九万〇七二〇円の内金二億円及びこのうちの一億円については平成八年三月六日(乙事件の訴状送達の日の翌日)から、一億円については平成九年四月一日から、それぞれ支払いずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

第三証拠

証拠関係は、本件記録中の証拠関係目録記載のとおりであるから、これを引用する。

第四当裁判所の判断

一  原告は、甲事件において、本件解雇が無効であることの確認を求めている。

しかしながら、原告は、自らが提出した退職届により、遅くとも平成七年二月二八日をもって被告を退職したことを当然の前提としているのであるから、現時点において、原告と被告との間に、原告が被告の職員たる地位を有するか否かを巡る争いがあるわけではない。そして、原告は、本件解雇の無効確認が、原告と被告との間の法律関係の確定に必要かつ有益である事情について、何ら主張をしないのであるから、結局、右本件解雇の無効確認は、確認の利益を欠き、不適法というほかはない。

よって、本件解雇の無効確認を求める訴えは、却下を免れないというべきである。

二  前記当事者間に争いのない事実、(証拠・人証略)、原告本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨を総合すれば、次の事実を認めることができる。

1  被告は、昭和六一年四月一日に設立された医療法人であるが、大阪市平野区に医療法人厚生会共立病院(以下「共立病院」という。)及び大阪市中央区に共立クリニックを開設している。共立病院は、一二九床の入院ベッドを有し、内科、胃腸科、外科、整形外科、泌尿器科を診療科目とする病院であり、共立クリニックは、共立病院の分院と位置付けられ、内科、循環器科を診療科目としていたが、その中心は、腎臓病患者に対する血液人工透析であった。そして、共立クリニックは、院長ほか看護士(透析技師)三名、事務職員三名、看護婦一三名で構成されていた。

2  原告は、昭和六二年五月に医師国家試験に合格した医師であり、同年七月から大阪船員保険病院に、平成元年七月から国立大阪病院に、平成四年七月から大阪大学医学部付属病院に、平成五年七月から共立病院に、それぞれ勤務し、大阪船員保険病院では一般内科と透析を担当し、国立大阪病院及び大阪大学医学部付属病院では腎臓病の診療にあたっていた。そして、共立病院においては、内科一般と腎臓を担当していたが、平成六年になって、当時の共立クリニックの院長が開業し、退職することとなったため、その後任として、共立クリニックの院長への就任を求められた。原告は、腎臓を専門としていたことから、力を発揮できるものと考え、共立クリニックの院長に就任することにし、同年五月一日から二年間の期間を定めて、共立クリニックの院長になるとともに、被告の理事に就任し、共立クリニックの管理者となった。

なお、共立クリニックにおける常勤の医師は、原告だけであった。

3  原告は、共立クリニックに勤務していた際、事務長の谷口正廣(以下「谷口」という。)との間で、パソコンの導入や関連病院の医師との付き合いなどに関する意見のくい違いから、谷口との関係に円滑を欠く面があった。

なお、原告は、平成六年八月ころ、自費でパソコンを購入し、共立クリニックに持ち込んで、患者の記録を入力するなど、診療業務に使用していた。

4  被告においては、平成六年一二月二一日、透析室長の佐古守(以下「佐古」という。)から、一身上の都合を理由とする退職届が提出された。佐古が谷口による慰留を受け入れなかったため、谷口は、同月二三日、原告に対し佐古の説得を指示したが、結局、佐古の決意は変わらなかった。

5  ところが、平成六年一二月三〇日に婦長の村田環(以下「村田」という。)も退職届を提出し、さらに、平成七年一月七日、いずれも主任看護婦の森崎江利子(以下「森崎」という。)及び内野ひとみ(以下「内野」という。)の退職届(森崎の退職届には、同年四月五日をもって共立クリニックを辞める旨が記載されていた。)を村田が谷口のもとに持参するに至って、谷口は、村田ほか前記三名の職員が退職してしまうと、共立クリニックの透析診療の現場が混乱し、業務が成り立たなくなると考えた。そして、谷口は、村田が退職を思いとどまれば森崎及び内野も共立クリニックに残るであろうとの観測のもと、村田に対して、説得を重ねたが、村田の退職の意思は変わらなかった。

そこで、被告の理事長の田中が直接村田と会って話すことになり、田中と村田は、平成七年一月一八日、会談したが、村田の辞意は変わらず、その後の説得にもかかわらず、村田はもとより、森崎及び内野も、退職の意思を翻すことはなかった。

6  さらに、谷口は、平成七年一月二三日、原告から、一身上の都合を理由に、同年二月末日をもって共立クリニックを退職する旨が記載された「退職辞任届け」と題する書面(<証拠略>)の提出を受けた。田中は、原告が辞職届けを提出したことにつき、二年間の契約期間を無視し、また、共立クリニックの管理者であり、かつ、被告の理事に就任しているにもかかわらず、このような行動に及んだ原告の無責任な態度に憤慨したが、結局、原告の退職を承認することとして、退職届けの受領した旨を記載した書面及び原告が円満に退職した旨を記載した書面に記名、押印した(<証拠略>、なお、この円満退職した旨を記載した書面等は、原告が開業するにあたって、医師会から提出を求められたものであり、原告は、後日これらの書面を東大阪医師会に提出した。)。その後、田中は、原告と面談したが、その際、原告は、共立クリニックを退職して開業することを告げただけで、診療科目や診療施設の開設場所については話さなかった。

7  谷口は、その後も、村田、森崎及び内野の慰留に務(ママ)めたが、効を奏しなかった。その際、内野は、村田とともにNクリニックへ行く旨を明言し、谷口が、村田に確認したところ、村田は、自分が誘ったわけではない、共立クリニックには看護婦が残らず成り立たなくなるだろうと述べたりした。また、看護婦の三隅文子も、平成七年一月二八日、同年二月末日をもって共立クリニックを退職する旨の退職届けを提出した。

8  被告は、入院患者の一人から、原告が平成七年一月三一日付けの開業案内を郵送してきたことを聞きつけ、その提供を受けた。この案内は、原告が被告を退職し、新たに血液人工透析を主たる診療科目とする診療施設を開設する旨を記し、さらに、透析診療を行う曜日、時間帯等を記載したものであった。被告は、右案内やこれに添付されていた地図によって、原告が共立クリニックから歩いて数分の場所に血液人工透析を目的とした仮称Nクリニックの開業を計画していることを知り、原告の行動に疑問を抱くに至った。そこで、谷口は、平成七年二月七日夜、原告が使用していた私物のパソコンを調べたところ、ハードディスクに共立クリニックの患者の住所録、症状等を記した看護サマリー、各患者の一週間あたりの透析回数、診療の曜日、透析液の量、注射液や使用する人工腎臓、内服薬の種類等が記録されているのを確認したが、パスワードが設定されていてアクセスできないものもあった。谷口は、さらに、村田が自費で購入し、共立クリニックでの業務に使用していたパソコンも調べようとしたが、パスワードが設定されていたため確認できなかった。

なお、前記案内状は、原告が右パソコンに入力した住所録を使用し、共立クリニックの患者全員に対して送付したものであった。

9  被告は、前記原告や職員の退職、原告による血液人工透析を目的とした診療施設の開設、患者への案内送付などに関して、原告から事情を聞くため、平成七年二月八日、共立クリニックの理事室で、被告の関係者と原告との面談の機会を設けた。しかし、原告は、理事室内に足を踏み入れたものの、着席しようともせず、すぐに退室しようとしたため、同席していた被告の理事の田端が、原告の白衣の裾を掴んで座らせようとしたが、原告は、これを振り切って部屋を出た。なお、この面談には、当時共立病院の総婦長であった城田クニ子(以下「城田」という。)や被告代理人の弁護士今口裕行(以下「今口弁護士」という。)も立ち会っていた。

10  谷口は、平成七年二月九日、前記案内に記載されていた原告の開業予定の場所を訪れてみると、人工透析設備の工事が進行中であったので、その状況を撮影した。そして、今口弁護士は、それまでの経緯を踏まえて、平成七年二月九日、被告の代理人として、原告に対し、前記各事情が判明したこと及び田中による原告の退職届受理は錯誤により無効であり、原告に対しては改めて懲戒解雇手続きを行うとともに、刑事、民事上の措置を講じる予定であることを記した通告書を内容証明郵便で発した。

そして、原告は、平成七年二月一〇日からは、共立クリニックに出勤しなくなった。

11  その後も、共立クリニックの職員からの退職届の提出が相次ぎ、平成七年二月二五日までに、村田、森崎、内野を含む共立クリニックの看護婦一三名全員が同年三月末日まで(ただし、森崎及び内野については、同年四月五日)に退職する意思を表明するに至ったが、これらの職員が退職理由として述べたのは、佐古に誘われNクリニックへ行く、村田、森崎や内野が辞めるので今後仕事をしていく自信がなく、不安であるなどということであった。

なお、被告の側では、田中が各患者の家を回って、事情を説明し、共立クリニックでの受診の継続を要請するなどしたほか、原告を相手方として、当庁に対し、仮処分命令を申し立てていた(当庁平成七年(ヨ)第三四四号事件、なお、右事件は、当初共立クリニックの患者に対する転院勧誘による業務妨害の禁止を求めるものであったが、後に共立クリニックの従業員に対する転職勧誘による業務妨害の禁止を求めるものに変更された。)が、当庁は、平成七年三月一四日、右仮処分命令申立事件につき、原告に共立クリニックの従業員に対して共立クリニックからの退職や原告が開設を予定している診療施設への就職の勧誘などにより、被告の業務の妨害を禁ずる旨の決定をした。

12  共立クリニックにおいては、平成七年一月中には、原告の後任として、共立病院の名誉院長職にあった稲葉正人(以下「稲葉」という。)の就任を求めることとし、また、田中や城田のつてをたどるなどして、看護婦を集め、何とか診療態勢を維持することができた。

13  原告は、平成七年四月一日から、Nクリニックの診療を開始したが、診療を開始したころのNクリニックの原告を除いた職員構成は、看護婦が一二名、透析技師が四名、事務職員等が三名の合計一九名であったが、看護婦一二名の全員及び事務職員の一名は共立クリニックの退職者であり、透析技師のうち三名も共立クリニックから移転した者であった。

原告が被告を退職してNクリニックの開設を計画したのは、平成六年一〇月ころであり、原告は、自己資金二〇〇〇万円と銀行及び父親からの借入金を開業資金とし、そのころから、透析関係の業者を通じて診療施設の開設場所を探し始め、同年一二月ころには、建物が決まり、借り受けた。また、血液人工透析に使用する機材は、平成七年に入ったころ、リース業者から貸与を受けることとなった。そして、診療施設で稼働する職員については、就職情報誌に広告を載せて募集したが、この広告に応じて就職した者は、三名であった。

14  共立クリニックにおいて血液人工透析を受けていた患者の数は、平成二年以降、九二ないし一一七名であったが、平成五年四月からは八十名台に減り、以後概ね九十名前後で推移し、平成七年三月は、八七名であった(なお、平成五年四月に患者数が減少したのは、原告の前任の院長が退職し、開業したことによる患者の移動によるものであり、右患者の移動は被告も了承していた。)。ところが、Nクリニックが診療を開始した平成七年四月に入ってからは、患者数が四五名に激減し、その後も、共立クリニックでの受診をやめる患者が出た。そこで、被告が調査したところ、共立クリニックの患者のうち、平成七年四月に四五名が、同年五月、七月、九月及び一二月に各一名が、Nクリニックに転院し、人工透析を受けていることが判明した。なお、右平成七年一二月に転院した患者は、その後共立クリニックに戻ってきたが、この患者は、同年一一月、たまたま会った村田に勧誘され、Nクリニックに転院した旨を述べた。

15  被告は、原告が共立クリニックの職員の退職及びNクリニックへの転職を勧誘し、共立クリニック患者に対しNクリニックへの転院を勧誘し、さらに、患者の記録等を盗用したものと判断し、平成七年二月一五日付けの懲戒解雇通告書を発し、右理由により同月一八日をもって原告を懲戒解雇する旨を通告した。

16  Nクリニックが他の診療施設から紹介を受けた患者数は、共立(ママ)クリニック開(ママ)業した平成七年四月ころは一名程度であり、同年夏ころまでに二、三名、同年冬にさらに二、三名程度であった。そして、共立クリニックからNクリニックに転院した患者の合計のうち、平成七年一一月一三日、平成八年一月一〇日、同年六月一四日及び平成九年二月三日に、各一名が死亡し、平成八年八月二六日、平成九年三月三一日及び同年七月二日に、各一名が他に転院した。Nクリニックの平成九年六月ころの患者数は六十数名で、そのうち共立クリニックから転院した患者は三八名であった。また、共立クリニックからNクリニックに移籍した職員のうちの六名は、平成八年までにNクリニックを退職した。

一方、共立クリニックの患者数は、その後、若干増え、平成八年四月の時点では、五一名になった。

なお、被告は、当初原告の対応に反発したが、患者の便宜と安全を優先するとの見地から、原告に対し、共立クリニックからNクリニックに転院した患者の看護サマリーを交付した。

三  原告の損害賠償請求(甲事件)について

1  原告は、共立クリニックの従業員の移籍や患者の転院を勧誘したことはなく、共立クリニックの診療録、看護記録(看護サマリー)を盗用した事実はないにもかかわらず、被告が、そのことを理由に原告に対して本件解雇を行ったこと、本件解雇を行ったことを共立クリニック内に告示し、第三者に告知するなどして、原告の名誉、信用を毀損したこと、田中が平成七年二月九日に一郎に面会し、原告の行動につき、背任、横領、医師法違反の事実があると虚偽の説明をしたこと、田中が前記当庁平成七年(ヨ)第三四四号事件の審尋の際に原告に対して「お前何考えとんのじゃ。医者としてやっていかれへんど。」などと脅迫まがいの言動に及んだこと及び田端が同月八日に共立クリニック内で、原告の胸ぐらをつかみ、暴言を吐くなどの暴力、脅迫行為を行ったことが不法行為に該当するとして、被告に対し、損害賠償を請求するので、この点について判断する。

2(一)  前記認定の事実によれば、共立クリニックにおいては、平成六年一二月から平成七年二月にかけて、職員の退職希望の表明が相次ぎ、佐古のほか、婦長の村田をはじめ一三名の看護婦全員及び事務職員一名が退職届を提出するに至った。一般に、病院職員の離職率は比較的高いといわれているが、そのことを考慮してもなお、一定の短い期間にこれほど多くの退職者が集中することは、異常といわなければならない。

確かに、原告が共立クリニックの職員にNクリニックへの移籍を働きかけたことが認められる明確な証拠は乏しいといわざるを得ないが、このような行為は、通常秘密裏に行われることが多いことに鑑みれば、右の事実の有無は、他の間接事実から推測するほかない。

そして、共立クリニックを退職した看護婦一三名のうちの一名を除く一二名、透析技師三名及び事務職員一名がNクリニックに採用されているのであるが、これらの退職者が、再就職先の見込みもなく被告を辞職するとは考え難く(証人佐古は、共立クリニックを辞めた後、三上クリニックに就職するつもりであった旨を証言するが、この証言内容は具体性を欠き、右転職計画の存在は疑わしい。)、Nクリニックへの就職について、原告と何らかの合意があったと考えるのが自然である。さらに、退職者の中には、村田とともにNクリニックで働く旨を述べたり、原告から勧誘を受けたと告げた者がいたこと、佐古が、平成七年二月初めころ、城田に対し、原告から共立クリニックの一・五倍の給料で誘われていると述べ、また、村田も、同じころ、城田に対して、原告から誘われた旨を話していること(これら事実は、<証拠略>によって認めることができる。)、原告が平成六年一〇月ころから血液人工透析を目的とする診療施設の開業を計画し、同年一二月には開設場所が決定したにもかかわらず、被告に退職の意向を告げたのは平成七年一月二三日であり、その後も診療科目や診療施設の設置場所は話さなかったこと、共立クリニックの職員のほとんどがNクリニックに移転することが判明していたにもかかわらず、原告がこれを被告に告げなかったことや前記認定の事実に顕れた諸事情を総合して考慮すれば、少なくとも、原告が佐古や村田など共立クリニックの主要な職員に退職を働きかけ、Nクリニックに就職するよう勧誘したことは、優に推認できるというべきである。

もっとも、前記認定の事実によれば、森崎や内野は、共立クリニックを辞める村田と行動を共にすると述べていたのであるし、他の職員の中にも、同様の立場で行動した者もいた可能性がある。しかし、原告は、これらの者が共立クリニックを退職し、Nクリニックに移籍することを熟知していたうえで、共立クリニックの経営に重大な支障を及ぼすことを認識しながら、これらの者を採用したことが明らかであるから、そのことを理由に勧誘がなかったとすることはできない。

なお、共立クリニックを退職してNクリニックに採用された職員のうちの数名から、右退職が任意によるものである旨を記載した陳述書(<証拠略>)が提出されているが、前掲各証拠に照らせば、その記載をそのまま採用することはできない。また、被告が平成七年三月二〇日に内野に対して共立クリニックの患者にNクリニックへの転院を働きかけたことを理由に懲戒解雇を通告したことから紛争が生じ、同年四月一三日、被告と内野との間に被告が右解雇を撤回し、内野の退職を承認するなどの内容の和解が成立したこと(これらの事実は、<証拠略>によって、認めることができる。)も、前記認定を左右するものではない。

(二)  また、前記認定の事実によれば、原告は、共立クリニックで血液人工透析を受けている患者の全員に対して、原告が共立クリニックを退職し、共立クリニックに極めて近接した場所に人工透析を行う診療施設を開設し、平成七年四月から診療を開始する旨の案内状を送付し、同月に入ってからは、共立クリニックで人工透析の診療を受けていた患者のうちの四五名が一斉にNクリニックに転院したのである。

この点についても、前記共立クリニックの職員に対する移籍の勧誘について判示したところと同様、原告が共立クリニックの患者に転院を勧誘したことが認められる明確な証拠に乏しいが、共立クリニックで人工透析を受けていた患者の病名の多くは慢性腎不全で、一般に慢性腎不全患者は、腎移植以外に回復の方法はなく、したがって、死亡するか職場、住居の移転以外の理由による転院が希といわれている(証人稲本も、同旨の供述をしている。)のであるから、このような患者が、時を同じくして大量かつ一斉に転院するとは通常考え難い。なるほど、原告が共立クリニックで人工透析を受けている患者全員に対して送付した案内状には、積極的にNクリニックへの転院を働きかける趣旨の記載はないが、稲葉は、陳述書(<証拠略>)において、独立開業を予定している勤務医が退職前に勤務先の診療施設の患者に対して開設予定の診療施設の場所や診療時間帯等を記載した挨拶状を送付することは、医療関係者の中においても異例である旨を述べている。さらに、Nクリニックに転院した患者の中には、村田に勧誘されてNクリニックに転院したと述べた者がいたことや原告には共立クリニック以外の医療機関に透析患者の紹介を積極的に求めるなどした形跡がないにもかかわらず、自己資金二〇〇〇万円のほか父親や金融機関から多額と思われる金員を借入れ、看護婦や透析技師の人数だけからみてもほぼ共立クリニックに匹敵する規模のNクリニックを開設したことに照らせば、原告は、共立クリニックから転院してくる患者をあてにしたうえで、Nクリニックを開設したといわざるを得ない(前記認定の事実によれば、Nクリニック開設のころ、他の医療機関から紹介された患者は一名程であり、その後も、ごく僅かの患者が他の医療機関から紹介されたにすぎなかったのであるから、共立クリニックの患者の転院がなければ、Nクリニックの経営が成り立たなかったことは明らかである。)。このような事情に照らせば、原告がNクリニックに転院するよう働きかけたこともまた、優に推認できるというべきである。

(三)  また、前記認定の事実によれば、原告のパソコンには、共立クリニックで人工透析の診療を受けていた患者の住所録や看護サマリー等のデータが記録されており、原告は、実際にこの住所録を使用して共立クリニックの患者全員に対する案内状を発送したのである。このことに、原告が共立クリニックで人工透析の診療を受けていた患者に、Nクリニックに転院するよう働きかけたとの前記事情を考え併せれば、原告は、原告が共立クリニックの患者をNクリニックに転院させることを目的として、右住所録を盗用したというべきである。

もっとも、前記認定の事実によれば、看護サマリー等のデータは、原告が共立クリニックにおける診療に利用していたのであるし、その後、被告から原告に対して看護サマリーが交付されたことに照らせば、原告が、退職の際、消去した可能性が否定できず(原告は、本人尋問において、これらのデータは被告を退職する際消去した旨を供述している。)、原告がこれらのデータを盗用したと断定することはできない。

(四)  以上判示の事情を考えると、被告が本件解雇の理由とした事実は、いずれも存在したというべきであり、したがって、被告が本件解雇を行ったことは、不法行為を構成するとはいえない(<証拠略>によれば、被告の就業規則に懲戒解雇の規定(一二条(6))はあるものの、賞罰については別途定めるものとされている(五四条)。そして、本件においては、右賞罰に関する規定が提出されていないことを考慮すると、本件解雇の私法上の効力については問題が残るものの、前記判示の事情に照らせば、被告が原告の非を咎めるために、本件解雇を行ったことについては、やむを得ないといわなければならず、これを不法行為とすることはできない。)。

なお、前記判示のとおり、本件解雇の理由とされたデータの盗用のうち、明確に認められるのは住所録にとどまり、看護記録等については、盗用があったと断定できないのであるが、このことから直ちに、本件解雇が不法行為になるものではない。

(五)  原告は、さらに、被告が本件解雇を行ったことを共立クリニック内に告示し、また、第三者に告知するなどして、原告の名誉、信用を毀損したこと、田中が平成七年二月九日に一郎に面会し、原告の行動につき、背任、横領、医師法違反の事実があると虚偽の説明をしたことを主張するが、これらのことが認められる的確な証拠はない。

もっとも、前記認定の事実によれば、原告の行動に対する被告の反発は極めて強く、田中が共立クリニックで人工透析の診療を受けていた患者の各家庭を回って事情を説明し、共立クリニックでの診療の継続を要請していた。また、原告の陳述書(<証拠略>)には、田中が一郎に面会し、原告を背任等で訴える旨を述べたとの記載があり、前記事情からすれば、その際、被告の関係者が原告の非違行為を非難するかのような言動に及んだことも充分考えられる。しかしながら、前記判示の状況に照らせば、被告側の関係者が原告に対してある程度の批判的な言動に出ることは、やむを得ない側面があったといえるし、それが社会的相当性を逸脱した程度に至っていたと認められる事情も窺えない。

よって、原告の前記主張は採用できない。

(六)  原告は、田中が前記当庁平成七年(ヨ)第三四四号事件の審尋の際に原告に対して「お前何考えとんのじゃ。医者としてやっていかれへんど。」などと脅迫まがいの言動に及んだこと及び田端が平成七年二月八日に共立クリニック内で原告の胸ぐらをつかみ、暴言を吐くなどの暴力、脅迫行為を行ったことを主張するが、これらのことが認められる的確な証拠はないから、原告の右主張も採用しない。

(七)  原告は、さらに、本件解雇の無効事由として、田中が原告の平成七年二月二八日付けの退職を了承したとか、本件解雇の手続違背を主張する。しかしながら、前記認定の事実によれば、田中が原告の退職を了承したときは、原告が血液人工透析を主たる診療科目とするNクリニックを共立クリニックの間近で開設することを知らなかったのであり、本件解雇は、その後判明した事実に基づくものである。右の事情に鑑みれば、田中が以前に原告の退職を了承していたことが本件解雇を違法ならしめるものではない。また、本件解雇が原告の弁明を聞くことなしに行われたものであったとしても、そのことから直ちに、本件解雇が違法になるものではない。

よって、右各事情を考慮してもなお、被告の対応が不法行為に該当する余地はないというべきである。

3  以上の次第で、原告の損害賠償請求(甲事件)は、その余の点について判断するまでもなく失当である。

四  被告の損害賠償請求(乙事件)について

1  原告が共立クリニックの職員に退職を働きかけ、Nクリニックに就職するよう勧誘したとの点について

(一) 前記認定の事実によれば、共立クリニックを退職した看護婦一三名のうち一二名、事務職員一名及び佐古ほか二名の透析技師がNクリニックに採用されたのであり、このような事態の発生により、共立クリニックは、診療体制に壊滅的ともいえる打撃を受け、診療業務の継続に重大な影響を生じたことは容易に推測できる。そして、原告は、前記認定のとおり、これらの職員に共立クリニックからの退職やNクリニックへの就職を勧誘したのであるから、当然に、共立クリニックが右のような状況に陥ることを予期していたというべきである。

(二) 被告の就業規則には、このような行為を直接禁じた規定は見当たらない。そして、原告には、経済活動の自由があるから、被告を退職したり、自ら血液人工透析を行う診療施設を開設すること自体は、原則として自由である。また、原告が診療施設開設にあたり、有能かつ信頼関係のある看護婦等の職員の確保を図るため、共立クリニックの職員を採用することも、必ずしも不当であるとはいえない。しかし、だからといって、原告がどのような行動をとっても許されるというわけではなく、あくまでも社会的に見て相当といえる程度にとどまることが要求されるというべきである。そのような場合に、原告に要求される注意義務の内容については、これを一般的に明示することは困難な面があるが、少なくとも、共立クリニックの経営を左右するほどの重大な損害を発生させるおそれのあるような行為は禁止されると解するのが相当であり、原告は、被告との雇用契約上の信義則に基づき、このような行為を行ってはならないという義務を負担しているというべきである。

しかしながら、原告が行った共立クリニックの職員に対する移籍勧誘の行為は、その態様、被告に与えた重大な影響等前記判示の事情に照らして、右相当性を逸脱したものといわざるを得ない。ことに、原告は、共立クリニックの院長の地位にあり、かつ、被告の理事にも就任していたことに鑑みれば、その責任は重大といわなければならない。

(三) 右判示の次第で、原告が共立クリニックの職員に退職を働きかけ、Nクリニックに就職するよう勧誘したことは、原告と被告との間の労働契約における信義則上の義務に反し、債務不履行を構成するというべきである。

2  原告が共立クリニックの患者に対してNクリニックへの転院を勧誘したとの点について

(一) 前記認定の事実によれば、共立クリニックで血液人工透析を受けていた八七名の患者のうち四五名が平成七年四月にNクリニックに転院してしまい、その後も転院者が出ているのであるが、右事態の発生により、血液人工透析を主たる業務とする共立クリニックにおいては、単純に計算しても、診療収入が半減することになり、その経営に重大な損害を与えたことは明らかである。そして、原告は、前記認定のとおり、共立クリニックで血液人工透析を受けている患者全員に対してNクリニックへの転院を勧誘したのであるから、共立クリニックが右のような状況に陥ることを予期していたというべきである。

(二) 被告の就業規則には、このような行為を直接禁じた規定は見当たらない。そして、前記のとおり、原告が血液人工透析を行う診療施設を開設することは原則として自由であり、その施設で受診する患者を集めること自体も、社会的に相当と認められる限度においては、不当とされることはない。しかしながら、血液人工透析を受ける者のほとんどが慢性腎不全の患者であるという事柄の性質上、ある診療施設に通院可能な地域の患者数はおのずから限られているのであるから、原告が共立クリニックに極めて近い場所に診療施設を開設し、共立クリニックの患者に転院を働きかければ、共立クリニックの患者が減少し、その経営に影響を与えることは明らかであったというべきである。しかも、前記のとおり、原告には、共立クリニック以外の医療機関に透析患者の紹介を積極的に求めるなどした形跡もないにもかかわらず、多額の金員を借入れ、共立クリニックに匹敵する規模のNクリニックを開設したことに照らせば、原告は、共立クリニックから相当数の患者がNクリニックに転院することを見越して、Nクリニックを開設したといわざるを得ない。右の事情に鑑みれば、原告は、共立クリニックの院長たる地位を利用し、共立クリニックの患者を奪うことを企図していたといわれても仕方がない。

そして、前記1(二)で述べたように、原告は、被告との雇用契約上の信義則に基づき、少なくとも、共立クリニックの経営を左右するほどの重大な損害を発生させるおそれのあるような行為を行ってはならないという義務を負担しているというべきであり、右義務違反の有無は、結局、その行為が社会的にみて、相当なものかどうかによって判断されることになるが、原告の共立クリニックの患者に対する転院勧誘にかかる行為は、その意図、態様、被告に与えた重大な影響等前記判示の事情に照らして、右相当性を逸脱したといわざるを得ない。ことに、原告は、共立クリニックの院長の地位にあり、かつ、被告の理事にも就任していたことに鑑みれば、その責任は重大といわなければならない。

(三) 右判示の次第で、原告が共立クリニックの患者に転院を勧誘したことは、原告と被告との間の労働契約における信義則上の義務に反し、債務不履行を構成するというべきである。

3  原告が共立クリニックの患者の住所録、看護サマリー等のデータを盗用した点について

(一) 前記認定の事実によれば、原告は、少なくとも共立クリニックの患者の住所録に関しては、これを盗用したというべきである。

(二) そして、右住所録の盗用は、共立クリニックの患者に対してNクリニックへの転院を勧誘する目的のもとに、その手段として行われたものであるから、この行為もまた、原告と被告との間の雇用契約における債務不履行を構成するというべきである。

4  なお、被告は、原告に対する職員たる身分喪失後の不法行為責任も主張するが、前記認定の事実によれば、原告の違法行為の主要な部分は、いずれも被告在職中に行われたというべきであり、原告が、被告の職員たる身分を失った後に共立クリニックの職員に対する移籍や患者に対する転院の勧誘、共立クリニックのデータの盗用を行ったことが認められる証拠はない。

したがって、本件においては、被告主張にかかる右不法行為が成立する余地はないというべきである。

5  損害について

(一) 前記判示のとおり、原告には債務不履行があるというべきであるから、この行為によって被告が被った損害を賠償しなければならない。

(二) 被告は、損害として、患者数が減ったことによる診療収入の減少分を主張し、Nクリニックに転院した四六名の患者の平成七年一月から同年三月までの保険請求額から使用した薬品、材料費及び消費税を控除した各月毎の金額の合計額を三で除した金額である一五五六万六二八〇円を一か月あたりの損害として請求している。

(三) しかしながら、当該行為がなかったならば得ていたであろう利益の填補という損害賠償制度の趣旨に照らせば、損害額の算定にあたっては、前記使用した薬品、材料費及び消費税だけでなく、人件費等の経費も控除して計算するのが公平に適うというべきである。

(四) もっとも、本件においては、患者数に応じた適正な職員数や患者の診療に要する人件費等の経費を算定する資料の提出がなく、また、本件のように、特定の時期に急激に患者数が減少した場合、患者数に相応しい職員数への即応も困難であったことが推測される。

さらに、損害額算定の基礎となる患者数についても、本来患者が診療施設を選択することは自由であり、原告がNクリニックを開設し、共立クリニックの看護婦もNクリニックに移転することにともない、それまで診療に携わっていた原告や看護婦との信頼関係を重視して、自らの意思に基づいて、Nクリニックに転院した患者もないとはいえないし、それ以外にも、何らかの理由で共立クリニックから転院しようとしていた患者が存在した可能性も否定できない。このような事情を考えると、被告主張のように、平成七年四月及び五月にNクリニックに転院した合計四六名を基礎とすることの妥当性には疑問が残るといわざるを得ない。

(五) 以上の判示を前提に、被告が被った損害額算定の判断に入るが、被告は、前記損害額算定の方法について、(証拠略)で、薬品の種類や単価を示して、右計算の根拠を明らかにしている。そして、原告がこれらの価格等について何ら具体的な反論をしないことに鑑み、損害額の算定にあたっては、右被告主張の金額によることとする(原告も、血液人工透析の診療機関を経営する者であるから、個々の問題点を指摘して具体的な反論を行うことは容易であったはずである。)。

そうすると、被告における患者四六名の保険請求額から使用した薬品、材料費及び消費税を控除した金額は、一か月あたり一五五六万六二八〇円ということになる。しかし、前記のとおり、控除されるべき金額には、人件費等の諸経費も含まれるべきであるが、この金額が明らかでないこと、原告の勧誘行為の結果とみられる転院患者数はより少なかった可能性があること、Nクリニックの転院した患者の中にも、さらに他に転院したり、死亡した者がいたこと、平成七年四月に転院した患者は四五名であったことなどの事情を総合して斟酌したとき、被告に生じた損害は、一か月あたり三〇〇万円とするのが相当である。

(六) そして、被告が求める損害は、平成七年四月一日から平成九年三月末日までに生じた分であるから、その総額は、三〇〇万円に二四か月を乗じた七二〇〇万円である。

また、被告が内金一億円に対する遅延損害金の起算日として主張する平成八年三月六日の前日までに発生した損害金は三三四八万三八七〇円(同月分は、三〇〇万円を三一で除し、五を乗じて算出した金額)となる。

なお、平成八年三月六日から平成九年三月末日までに生じた損害金合計三八五一万六一三〇円については、本件記録上乙事件における請求拡張申立書が原告に送達された日(催告日)の翌日であることが明らかな平成九年八月二六日を起算日とする。

第五結語

以上の次第で、甲事件のうち、本件解雇の無効確認請求にかかる訴えを却下し、甲事件のその余の請求(損害賠償請求)を棄却し、乙事件については、七二〇〇万円及び内金三三四八万三八七〇円に対しては平成八年三月六日から、三八五一万六一三〇円に対しては平成九年八月二六日から、それぞれ民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める限度で認容し、そのその(ママ)余の請求は棄却することとして、主文のとおり判決する。

(口頭弁論終結の日 平成一〇年一月一九日)

(裁判官 長久保尚善)

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