大阪地方裁判所 平成8年(ワ)2167号 判決 1997年1月13日
原告
井内美貴子
右訴訟代理人弁護士
岩田研二郎
被告
アイダ獣医科総合病院こと
會田常雄
主文
一 被告は、原告に対し、金八〇万円及びこれに対する平成八年三月一五日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告のその余の請求を棄却する。
三 訴訟費用は、これを五分し、その三を被告の負担とし、その余を原告の負担とする。
四 この判決は、第一項に限り、仮に執行することができる。
事実及び理由
第一 請求
被告は、原告に対し、金一四〇万円及びこれに対する平成七年六月一八日(損害発生の日)から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
第二 事案の概要
一 本件は、獣医師である被告が、原告の所有する猫の出産に関して行った陣痛促進剤の投与等が不適切であったとして、猫についての診療契約上の債務不履行(不完全履行)に基づく損害賠償を請求した事案である。
二 争いのない事実等
1 被告は、肩書住所地において、アイダ獣医科総合病院の名称で動物病院(以下「被告病院」という。)を営む獣医師である。
2 原告は、「カリン」という呼称のアビシニアン種の猫(生後二年一か月)を所有していた。カリンは、平成七年五月ころから、二匹の胎児を懐胎しており、同年六月一八日午後八時ころ、原告の自宅で産気づいた。そこで、原告は、被告に対し、同日午後九時三〇分ころ、カリンの出産の処置を依頼し、被告はこれを承諾した。
(この項につき、甲二、原告本人、被告本人)
3 被告は、カリンに対し、陣痛促進剤を二回注射した。その後まもなくカリン及び二匹の胎児は死亡した(甲一、原告本人)。
三 争点
1 被告の過失の有無
(一) 原告の主張
被告は、原告から猫の分娩に関する処置を依頼され、帝王切開によらずに陣痛促進剤を使用することにより自然分娩させることを選択したのであるから、このような場合、副作用を伴わない安全な薬剤を選択し、かつ、用法及び用量を守って投与した上、安全に分娩を終了できるよう適切な診療をすべき契約上の注意義務がある。しかるに、被告は、カリンについて体温、脈拍、心拍などの検査をすることなく、産道部に指を入れて触診したのみで、もっぱらヒト用の医薬品であり、猫を対象とする使用は許可されていない「ウテロスパン」という名称の薬剤を、平成七年六月一八日午後九時五〇分ごろと同日午後一〇時ごろの二回にわたって、それぞれアンプル一本の全量を漫然と注射し、しかも、その後カリンがぐったりしたにもかかわらず、何らの処置もしなかったのであるから、被告には、右診療契約上の注意義務違反がある。
(二) 被告の主張
被告の処置に不適切な点はなかった。被告がカリンに投与した陣痛促進剤は、プロスタルモンF五〇である。
2 カリン及び二匹の胎児の死亡と被告の行為との間の因果関係
(一) 原告の主張
カリン及び二匹の胎児の死亡は、被告による前記のようなウテロスパンの注射が原因である。
(二) 被告の主張
カリン及び二匹の胎児の死因は不明である。
3 損害の有無及び額
(一) 原告の主張
(1) カリンの死亡による財産的損害
三〇万円
カリンは、アメリカ合衆国の愛猫家団体からチャンピオンの認定を受けており、ペットショップにおける店頭価格は、三〇万円である。
(2) 胎児の死亡による財産的損害
四〇万円
胎児が生きて生まれたならば、一匹二〇万円で売却できる予定であった。
(3) カリンの死亡による精神的損害
五〇万円
原告は、カリンの死亡により精神的苦痛を受けたものであり、これに対する慰謝料としては五〇万円が相当である。
(4) 弁護士費用 二〇万円
被告の債務不履行行為と相当因果関係のある弁護士費用の損害は二〇万円である。
以上合計一四〇万円
(二) 被告の主張
右損害を争う。アビシニアン種の猫の店頭価格は五万ないし六万円程度である。
第三 争点に対する判断
一 事実経過
1 証拠(甲一、二、乙一、原告本人、被告本人)によると、次の事実を認めることができる。
(一) カリンは、平成五年五月二一日に生まれた雌のアビシニアン種の猫であり、平成六年九月一五日及び平成七年一月二七日に、それぞれ、大阪市平野区所在の南大阪動物医療センターにおいて、帝王切開により子猫を二匹ずつ出産した。
(二) カリンは、平成七年六月ころから二匹の胎児を懐胎しており、同月二日、南大阪動物医療センターにおいて診察を受けたところ、その経過は良好であり、同センターで出産を行う予定であった。
(三) カリンは、平成七年六月一八日午後八時ころ(以下、特に断りのない限り、同日のことである。)、産気づいたが、この日は南大阪動物医療センターの主治医が不在のため、同センターに帝王切開を依頼することができなかった。
そこで、原告は、緊急に帝王切開を依頼することのできる獣医師をタウンページ(職業別電話帳)で探し、広告を掲載していた被告病院を知った。原告は、午後九時ころ、被告に電話で、カリンが産気づいたこと及び過去二回の帝王切開による出産経験があることを伝え、帝王切開ができるかどうかを尋ねたところ、被告はできると返答したので、原告は、被告に出産の処置を依頼することにした。
(四) 原告は、午後九時三〇分ころ、カリンを連れて被告病院に到着した。原告は、被告に対し、主治医から帝王切開が望ましいと言われていることを伝え、帝王切開による出産を申し入れた。これに対し、被告は、カリンを診察台に乗せ、その産道部を触診し、自然分娩で出産できると言ったので、原告は、帝王切開ではなく、自然分娩によりカリンを出産させることを承諾した。
被告は、午後九時五〇分ころ、カリンの首に、陣痛促進剤としてウテロスパンの一ミリリットルアンプル一本分を注射した。その後、カリンは、診察台の上のバスケットに入れられ、気張っているように見えたが、まだ出産しなかった。
そこで、被告は、午後一〇時ころ、原告に対し、もう一本陣痛促進剤を注射するから、バスケットからカリンを出すようにと言ったが、原告は、気張っているようだからもう少し待ってほしいと頼んだ。しかし、被告は、カリンを触診し、午後一〇時一〇分ころ、カリンに再びウテロスパン一ミリリットルアンプル一本分を注射した。被告は、原告がカリンを被告病院に連れてきたときから二度目の注射をするまでの間、カリンの体温や脈拍を計ったり、心音を聞いたりするなどの診察はしなかった。
被告が二度目の注射をしたところ、カリンはぐったりし、気張る様子もなかった。そこで、原告は、被告に対し、大丈夫かと尋ねたところ、被告は、このままでは産みそうにないから、翌日まで待って、主治医にみせるようにと言い、タクシーを呼んだ。
(五) 原告は、午後一〇時二〇分ころ、被告病院を出て、タクシーで、南大阪動物医療センターへ向かった。それから二、三分したころ、タクシーの車内で、カリンを入れたバスケットが、がくがくと震えた。
原告は、午後一〇時三五分、南大阪動物医療センターでカリンの診察を受けたが、カリンは、既に心肺停止し、死亡していた。同センターの獣医師が、午後一一時ころ、カリンを開腹したところ、二匹の胎児も死亡していたが、カリンの子宮は破裂していなかった。
(六) 原告が、同月一九日午前零時過ぎころ、被告に電話をかけて、カリンの死因を尋ねたところ、被告は、「注射を二本打って死ぬはずがない。」と答え、同日の朝に原告から再度電話があった際は、「おまえとは話しにならん。第三者を間に入れるように。」と言って、原告との話合いに応じなかった。
2 被告は、カリンに投与した薬剤がプロスタルモンF五〇であると主張し、乙第一号証(診療録)及び被告本人尋問の結果中にはこれに副う部分がある。
しかし、証拠(乙一、原告本人)及び弁論の全趣旨によると、次の事実が認められる。
(一) 原告は、カリンの死亡に関し、被告を相手方として調停を申し立て、平成七年一〇月三日の第一回期日において、被告に対し、カリンの診療録を持参し、カリンに投与した薬品名を明らかにするよう求めたが、被告は、同年一一月一〇日の第二回期日において、薬品名は説明したものの、診療録は持参しなかった旨調停委員を通じて原告に回答し、その後も原告からの要求にもかかわらず、診療録は呈示されなかった。
(二) 被告は、本件訴訟の答弁書では、陣痛促進剤投与の時刻を午後九時五五分及び午後一〇時一五分である旨主張していたが、平成八年六月一四日付け準備書面では、これを午後九時五〇分及び午後一〇時二〇分である旨主張を訂正し、その後、診療録(乙一)が証拠として提出された(当裁判所に顕著である。)。
(三) 右診療録の裏面には、「症状及経過」欄に「PM一〇:〇〇」の記載があるほか、「処置及処方」欄の四行目に「プロスタルモンF五〇」の記載があるが、さらに、その下に、午後九時五〇分にプロスタルモンF五〇を0.8ミリリットル投与し、午後一〇時二〇分にも同様に0.8ミリリットル投与した旨の記載がなされている。
また、右「処置及処方」欄の二、三行目は、一旦書いた文字の上に重ね書きした痕跡が認められるが、被告は、本人尋問において、この部分に何が書かれているか説明することができなかった(後半部分は、当裁判所に顕著である。)。
(四) 原告が午後一〇時二〇分ころに被告病院を出るときまでに、被告は、右診療録の裏面については、一行目から三行目までを記載しただけであった。
以上のような診療録の作成経緯、記載態様、これが原告や裁判所に呈示された経緯及び時期に照らすと、乙第一号証のうち、被告の前記主張に副う部分は信用し難い。また、被告がカリンに投与した薬剤に関する被告本人尋問の結果は、全体としてその供述が曖昧であり、薬品名を言い間違えるなどの点に照らし、信用し難いといわなければならない。
他方、原告本人尋問の結果によると、原告は、血統の保証された猫を繁殖させ、これを販売することを業とするものであり、被告による二回目の陣痛促進剤の注射後、カリンがぐったりしたことから、翌日に南大阪動物医療センターで受診させる際、その薬品名を報告するため、注射後の空のアンプルを手にとって確認したというのであって、これらの点に照らすと、被告がカリンにウテロスパンを注射した旨の原告本人尋問の結果は信用することができる。
二 ウテロスパンについて
証拠(甲四ないし六、原告本人)によると、ウテロスパンはヒト用の陣痛促進剤であり、猫に対する使用は許されていないこと、ウテロスパンに含有される硫酸スパルテインは、子宮収縮の増強及び子宮出血の治療の目的で、弛緩出血、子宮復古不全、人工妊娠中絶の場合に用いられること、硫酸スパルテインのヒト(成人)に対する一回の使用適量は五〇ないし一〇〇ミリグラムとされており、一〇〇ミリグラムが一ミリリットルのアンプル一本分に相当すること、ウテロスパンは子宮収縮力が強く、用法を誤ると子宮破裂のおそれがあり、特に過去において異常出産や帝王切開の経験があるものは一層その危険性が高いこと、ウテロスパンは、心疾患のある患者に対する投与が禁じられ、その投与により、動悸、不整脈等の循環器障害の副作用が生じるおそれがあること、ウテロスパンを動物に使用する際には、その健康状態、産歴、胎児の体位、形献、位置及び子宮の状態や、循環器が正常に機能しているか、それに耐えられる生理的機能を有しているかを臨床的に確認する必要があること、過去において異常出産や帝王切開の経験があり、あるいは子宮、胎児や循環器に異常がある場合には、投与を避けなければならないこと、以上のことが認められる。
三 争点1(被告の過失の有無)及び同2(因果関係)について
前記一、二によると、カリンの妊娠の経過は順調であったにもかかわらず、被告が午後一〇時一〇分ころカリンに二回目のウテロスパンの注射をした直後、カリンはぐったりし、午後一〇時三五分には既に心肺停止して死亡し、二匹の胎児も同日午後一一時ころまでには死亡していたこと、ウテロスパンは、猫に対する使用が許されていないこと、ウテロスパンの投与により循環器障害の副作用が生じるおそれがあること、被告が二〇分程度の間にカリンに投与したウテロスパンの量は、ヒトの使用適量の二倍にもなるものであったことが明らかであり、他方、本件において、カリンの死亡がウテロスパンの注射以外のことに起因するとの立証は全くない。そうすると、被告が、カリンにウテロスパンの注射をしたことにより、カリンに循環器障害が生じるなどして、カリン及び二匹の胎児が死に至ったものと推認せざるを得ない。
そして、被告は、前記一のとおり、カリンの産道部の触診を行ったのみで、胎児の状態やカリンの循環器の機能についての検査を行うこともなく、カリンに対し、猫には使用が許されていないウテロスパンの一ミリリットルアンプル二本をわずか二〇分の間隔で漫然と注射したのであるから、被告には過失があるといわなければならない。
四 争点3(損害の有無及び額)について
1 カリン及び胎児の死亡による財産的損害 合計七〇万円
証拠(甲九、原告本人)によると、カリンは、アメリカ合衆国の愛猫家団体(CAF)からチャンピオンの認定を受けており、そのペットショップにおける店頭価格は三〇万円以上であること、カリンの胎児の父猫も前記団体からチャンピオンの認定を受けており、このような胎児一匹のペットショップにおける店頭価格は二〇万円以上であること、原告は、被告の診察中に、被告に対し、カリンと胎児の父猫がチャンピオンであることや胎児に関してはこれを引き取る客が生まれるのを待っていることなどを話したこと、以上の事実が認められる。
右事実によると、カリンの死亡による財産的損害及び胎児二匹の死亡による財産的損害は、原告主張のとおり、それぞれ三〇万円、四〇万円とするのが相当である。
2 カリンの死亡による精神的損害 〇円
原告は、さらにカリンの死亡による精神的損害の賠償を請求しているが、原告本人尋問の結果によると、原告は、カリンを愛玩用としてではなく、商品として飼育していたこと(胎児も同様の予定)が認められるのであり、このことや、前記財産的損害の賠償額を考慮すると、原告がカリンの死亡により精神的苦痛を受けたことは考えられるが、これに対して別途金銭的給付をもって償うべきほどのものと認めることはできない。
3 弁護士費用 一〇万円
原告が原告訴訟代理人に本件訴訟の提起、追行を委任したことは当裁判所に顕著であるところ、本件は不法行為にも該当すると考えられること、本件事案の難易、審理経過、認容額等を考慮し、被告の債務不履行行為と相当因果関係のある弁護士費用の損害は、一〇万円と認める。
五 結論
以上の次第で、原告の本件請求は、被告に対し、損害賠償金八〇万円及びこれに対する訴状送達日の翌日であることは記録上明らかな平成八年三月一五日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるが、その余は理由がない(なお、本件は債務不履行による請求であるから、損害発生の日から当然に遅延損害金が生じるわけではない。)。
(裁判長裁判官小佐田潔 裁判官大藪和男 裁判官齋藤聡)