大阪地方裁判所 平成8年(ワ)3864号 判決 1999年2月04日
主文
一 被告大阪府は、原告に対し、金三五万円及びうち金三〇万円に対する昭和六二年三月七日から、うち金五万円に対する平成八年四月二六日から、いずれも支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告のその余の請求をいずれも棄却する。
三 訴訟書用は、被告松木田義親及び同角野信弘について生じた分は原告の負担とし、原告及び被告大阪府について生じた分はこれを一五分し、その一を被告大阪府の負担とし、その余を原告の負担とする。
理由
【事実及び理由】
〔当事者の呼称等〕
以下、被告大阪府を「大阪府」、被告松木田義親を「松木田」、被告角野信弘を「角野」、丙太郎を「太郎」、丁原松夫を「丁原」、戊田竹夫を「戊田」、甲田梅夫を「甲田」、乙野春夫を「乙野」、弁護士大石一二を「大石弁護士」、弁護士増田勝久を「増田弁護士」という。また、丁原、戊田、甲田の三名を「丁原ら」、松木田、角野の両名を「松木田ら」、司法警察員に対する供述調書を「員面」、検察官に対する供述調書を「検面」、警察署付属の留置場あるいはその内部の留置室のことを単に「房」ということがある。さらに、第三(争点に対する当裁判所の判断)においては、特に断らない限り月日の記載は昭和六二年のそれであり、右年の記載はすべてこれを省略する。
第一 請求
被告らは、原告に対し、各自金一一〇〇万円及びうち金一〇〇〇万円に対する昭和六二年三月七日から、うち金一〇〇万円に対する平成八年四月二六日から、いずれも支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
第二 事案の概要
本件は、大阪府に勤務する警察官の違法な取調べ及び刑事公判廷における偽証により原告の人格権等の法益が侵害されたとして、原告が、大阪府に対しては国家賠償法一条一項に基づき、担当警察官である松木田ら個人に対しては民法七〇九条に基づき、これら一連の違法な行為によって被った精神的苦痛に対する包括的金銭評価としての慰謝料一〇〇〇万円及び本件訴訟の遂行を原告訴訟代理人に委任したことによる弁護士費用一〇〇万円の賠償を求めた事案である。
一 当事者間に争いのない事実等(証拠を掲記した以外の事項については、当事者間に争いがない。)
1 当事者
(一) 原告は、肩書地において建築業を営む者であるが、昭和六二年二月一四日、丁原らと共謀の上、夫太郎を殺害したとの容疑で逮捕・勾留され(以下、右容疑に係る事件を「本件被疑事件」という。)、同年三月二六日茨木署から大阪拘置所に移監された。
(二) 松木田及び角野は、いずれも大阪府に勤務し、大阪府警察(以下「大阪府警」という。)に所属する警察官(地方公務員)である。右両名は、右当時、大阪府警の警察本部捜査第一課に所属し、松木田は取調べ担当者として、角野はその補助者として原告の取調べを担当した。
2 捜査状況等
(一) 原告が逮捕された当時、本件被疑事件において共犯者とされた丁原らは、いずれも逮捕されており、丁原は、遅くとも同年二月一五日までに、原告から太郎を殺害してほしいとの依頼を受けた旨の供述をしていた。
(二) 原告は、警察官(同月一四日)及び検察官(同月一六日午前中)による弁解録取並びに裁判官の勾留質問(右同)の際、共謀の事実を否認していた。
(三) 原告は、逮捕翌日(同月一五日)の警察官の取調べの際、丁原に対し、渡韓前に五〇〇万円を、帰国後に六五〇〇万円くらいの現金を渡したことを認め、検察官による弁解録取の際には韓国に行った丁原から二度ほど電話をもらい、「ちゃんとしたから。」と連絡を受けたことを認めていた。
(四) 原告は、同月二一日午前大石弁護士及び増田弁護士と接見した後、午後の取調べにおいて自白(その内容については後述<第三の一1>する。)から否認に転じ、一度留置場に戻されたが、夜の取調べにおいて再度自白に転じた。
(五) 同月二二日、原告の警察官に対する最初の自白調書(以下「本件自白調書」という。)が作成された。
(六) 原告は、同月二四日午前、検察庁において検察官の取調べを受けたが、そこで作成された検面においては丁原との共謀の事実の有無につき明確な供述をしていない。
3 刑事公判の経過
(一) 原告は、同年三月七日、本件被疑事件につき大阪地方裁判所に起訴された(以下、右起訴に係る刑事事件を「本件刑事事件」という。)。
(二) 原告は、本件刑事事件の公判廷において、丁原らとの共謀の事実を全面的に否認して争った。
(三) 松木田らは、本件刑事事件の第一審公判廷(以下「刑事公判廷」という。)において、次のような趣旨の証言をした。
(1) 取調べ状況について
原告が特別要注意留置人に指定されたのは、原告に自傷のおそれがあったからであり、原告の挙動を監視して自白を迫った事実はない。また、大声を三回程度出した事実はあるものの、怒鳴ったり、脅迫的言辞を述べたり、原告を侮辱したりしたことはない。さらに、保釈や刑期のことなど自白の不当な誘因となるようなことは一切述べていない。
(2) 丁原の供述調書を原告に見せた事実について
原告が、丁原が逮捕されているという事実を信用しなかったので、丁原の身上経歴を記載した同年二月一一日付け員面のコピーの冒頭部分と署名指印部分を原告に示したことはあるが、調書の内容を読ませたことはない。
(3) 自白の時期について
原告は、同月一六日夜の取調べにおいて、丁原に太郎の殺害を依頼した事実を自白した。松木田らが甲田の子供のことなどを話して説得したところ、原告が「家に電話させてくれたら話をする。」旨述べたので、「汚い取引をするな。」と叱ったところ、「もう叱らないで、ごめんね。もう全部事件のことについて話するわ。」と述べ、しんみりした表情で、しかし涙を流すことなくすべてを自白したものである。原告の話すときの言動等から、供述を覆すことはないと判断し、動機の点を含め、もう少し詳細に調べてから調書にしようと思い、その内容を即座に調書にすることはしなかった。
(四) 本件刑事事件の第一審裁判所である大阪地方裁判所は、平成五年五月二七日、原告の捜査段階の自白の任意性を認めた上、共謀の事実を認め、原告に対し、懲役七年の刑を宣告した。
(五) 原告は、右判決を不服として、大阪高等裁判所に控訴の申立てをしたが、同七年五月二三日、同裁判所も原告の捜査段階の自白の任意性を認め、控訴棄却の判決をした。
(六) 原告は、右判決を不服として、最高裁判所に上告の申立てをし、現在、本件刑事事件は第二小法廷に係属中である。
二 争点
1 松木田らの取調べ過程における具体的違法行為の有無
2 松木田らの刑事公判廷における偽証
(一) 刑事公判廷における偽証の有無は、民事訴訟の審判対象となり得るか。
(二) (右(一)が肯定される場合、)偽証の有無
3 松木田らの個人責任の有無
三 争点に関する当事者の主張
1 松木田らの取調べ過程における具体的違法行為の有無(争点1)について
(原告の主張)
松木田らは、原告に対して、次に述べるような違法・不当な取調べ(以下、順次「違法事由(一)」等という。)をして、意に反した自白を迫り、その結果、原告は、昭和六二年二月一八日ころ、意に反した自白をするに至った。
(一) 違法事由(一)
逮捕後、長時間の取調べをほとんど休みなく連日強行し、原告をして、パイプ椅子に姿勢を正して座らせ、自白しなければ膝を崩すことさえ許さなかった。
(二) 違法事由(二)
合理的根拠もないまま特別要注意留置人に指定し、留置室における原告の動静をも盗視下に置き、十分な睡眠時間も与えなかった。
(三) 違法事由(三)
逮捕のショックと連日の長時間にわたる厳しい取調べによって、逮捕時から食事のとれない原告が苦しさに耐えかねて、留置室に返してほしいと頼んでも、耳を貸さずに取調べを続行した。
(四) 違法事由(四)
手や丸めた調書で机を叩いたり、「人殺し」と何度も大声で怒鳴り、原告に顔を近づけて、「俺の顔を見ろ」と迫り、少しでも目をそらせるとうそをついているからだと大声を出し、目が汚れているなどと罵った。
(五) 違法事由(五)
結婚した乙野との性生活を嘲笑的に話題にするなどして、原告を繰り返し侮辱し、その自尊心を傷つけた。
(六) 違法事由(六)
原告に太郎の写真を見せて、「謝れ」とか「成仏させたれ」と言った。
(七) 違法事由(七)
原告に丁原の供述調書を読ませた上で、「共犯者が自白しているので今更関係がないと言っても通らない。」「黙っていたらお前だけがどんどん罪をかぶらなあかんよ。」と言った。
(八) 違法事由(八)
「逮捕事実を認めれば、保釈で出れる。」、「自白すれば七年くらいの刑ですむ。」、「仮釈放もあるので三年くらいで帰れる。」、「否認すれば何十年も刑務所に行かなければならない。」と言った。
(九) 違法事由(九)
自白をすれば「乙野や子供達にも会わせてやる。家の様子も見てきてやる。」「太郎の身内から守ってやる。」などと甘言を弄した。
(被告らの主張)
(一) 違法事由(一)について
(1) 刑事事件においては、勾留期間の制約もあるから、連日朝から夜まで被疑者の取調べをすることもやむを得ないことである。
(2) 原告は、パイプ椅子に座っている際に、立て膝をすることがあり、それを注意して下ろさせたことはあるが、自白しなければ膝を崩すことさえ許さなかったというようなことはない。
(二) 違法事由(二)について
特別要注意留置人への指定は、原告が精神的に不安定な状態であったことから捜査主任官(松木田らはこの地位になかった。)と総務課長(留置主任官)が判断した上で採られた措置であり、自白を得るためのものではない。
(三) 違法事由(三)について
原告は留置室にいるよりも取調べを受けている方が気が晴れて良いと言ったくらいであり、原告が留置室に帰して欲しいと頼んだことも、松木田らがそれに耳を貸さなかったこともない。
(四) 違法事由(四)について
正面を向いて話をするように言ったことはあるが、手や丸めた調書で机を叩いたり、「人殺し」と何度も大声で怒鳴ったり、原告に顔を近づけて「俺の顔を見ろ。」と迫り、少しでも目をそらせると、うそをついているからだと大声を出したり、目が汚れているなどと罵ったりして自白を迫ったことはない。
(五) 違法事由(六)について
原告に太郎の写真を示したのは、自供後の同月二七日ころ、人物特定のために他の多数の写真とともにであり、写真を見せて自白を迫ったものではない。
(六) 違法事由(七)について
丁原の逮捕を信じない原告に、丁原の供述調書(同月一一日付けのもの)のうち人定事項の記載されている一丁表と末尾の丁原の署名部分を見せたことはあるが、中味を読ませたことはない。
(七) 違法事由(八)について
起訴後原告より保釈の話が出たことはある。しかし、その際、松木田らは、弁護士に相談するように言っただけであり、その話をすることによって自白を迫ったことはない。
(八) 違法事由(九)について
接見禁止になっている原告に「乙野や子供達に会わせてやる。」などと言うはずはなく、そのようなことを言ったことはない。原告が「太郎の実家から押し掛けてくる。」と言ったのに対し、角野が「そういうことはうちの方から止めてやる。」旨を答えたことはあるが、それを条件として自白を迫ったことはない。
2 松木田らの刑事公判廷における偽証(争点2)について
(一) 刑事公判廷における偽証は民事訴訟の審判対象となり得るかについて
(原告の主張)
民事事件と刑事事件は関連はしていても別の訴訟であるから、先行する事件の結論に法律的に拘束されるものではなく(なお、本件刑事事件の第一審裁判所は松木田らの証言を事実認定の基礎として採用していないのに対して、控訴審裁判所は採用しており、松木田らの証言の信用性についての刑事事件の判断は確定していない。)、民事事件の審判対象とすること自体が許されなくなるものではない。
(被告らの主張)
刑事事件の有罪無罪は、刑事手続法規に基づき刑事裁判において決せられるものであり、その裁判での証拠の評価は当該刑事裁判所の専権に属するものである。したがって、刑事裁判においてある証言を偽証と認めず有罪判決がなされれば、民事裁判においてその証言の偽証を主張し、その偽証により有罪判決が導かれたと主張することはできないというべきである。
(二) 松木田らの偽証の有無について
(原告の主張)
(1) 松木田らの前記一3(三)の各証言は明らかな偽証であって、両名は共謀して、原告に対する取調べ状況につき、自己の記憶に反する虚偽の事実をそれぞれ証言し、本件刑事事件の第一審及び控訴審裁判所の判断を誤らせ、原告を有罪に導いたものである。
(2) なお、被告らは、松木田作成の手控え(以下「本件手控え」という。)の記載を根拠として原告が自白した日を昭和六二年二月一六日とするが、右記載の日付けは書き加えられた可能性があり、信用に値するものではない。
(被告らの主張)
松木田らは事実ありのままを証言したものであって、偽証と言われるようなものではない。
3 松木田らの個人責任の有無(争点3)について
(原告の主張)
松木田らの取調べは、強制、脅迫、偽計、不当な誘因に基づき原告に自白を迫るものであり、明らかに刑法に該当する犯罪行為であっていかなる観点からみても違法性が著しく強度であり、かつ、刑事公判廷における偽証も専ら原告を有罪とするために故意に行われたものである。したがって、松木田らが損害賠償責任を免れることは相当ではなく、被害者である原告に対して個人責任を負うべきである。
(松木田らの主張)
公務員がその職務を行うについて故意又は過失によって違法に他人に損害を与えたとしても、公務員個人はその責任を負わない。
第三 争点に対する当裁判所の判断
〔判断の要旨〕
松木田らは本件被疑事件における原告の取調べに当たって原告に対して交互に「人殺し」と何度も耳元で大声を出して怒鳴った。この行為は取調べの限界を超える違法な行為である。
本件刑事事件における松木田らの証言内容が虚偽であるか否かは本件訴訟において損害賠償請求の対象として審理すべき事項ではない。
松木田らは原告に対する関係で不法行為法上の個人責任を負わない
大阪府は松木田らの行った右違法行為につき国家賠償法一条一項に基づき損害賠償の義務を負う。
以下、その理由を述べる。
一 自白の内容及びその時期
1 自白の内容
最初に、次項以下における検討の前提となる原告の自白の内容を検討しておくこととする。
《証拠略》によれば、本件自白調書は「私は、知り合いの丁原松夫が韓国滞在中の私の夫丙川太郎こと丙太郎当時四二歳を殺してくれるというので丁原に韓国に行く旅費や報酬金等で約七〇〇〇万円を渡して殺してもらっていますので、ただ今からその詳しいことについてお話します。」(一項)という書き出しで始まり、「私は、丁原の言っていた離婚の話や韓国から帰って来れないようにすることができなかった時のことを考え心配になったのでそのようなことができんかったらどうするのと、聞きますと丁原は、最悪の場合は、いてまうぞと、答えたのです。私は丁原の言った最悪の場合、『いてまうぞ』と言った言葉は、最悪の場合は殺してしまうと、いう意味のことであり丁原のその時の話し方から主人を殺すのではないかということが感じ取られました。私は、そんなことして大丈夫と聞くと、丁原は、大丈夫や、お前は、細かく聞かんとけ、金だけ準備しておけ、わしに任せておけと、言ったので私は、総てを丁原に任す決心をし殺す方法等について聞かず渡韓費用等に使うという現金五〇〇万円を丁原に渡しました。」(七項)との、原告の供述が記載されている。
原告の自白の内容は、右のとおり、丁原のなした、太郎殺害の意図を示す発言に暗黙裡に同意したというものである。原告は本件訴訟において右内容の、自己に不利益な供述につき、松木田らから違法かつ不当な取調べを受け、強要されたものであるとしているものである。
2 自白に至る経緯に関する原告の供述内容等
(一)(1) 原告は、本件訴訟において、自白に至る経緯としておおむね次のとおりの供述をしている。
「二月一八日までの間に、一人が大声で「人殺し」と言えば一人がなだめたり二人で一緒に言ったりし、目と目を合わせて、その目が汚れているとか、目をそらしたら嘘ついてるな、犬畜生でも目をそらしたりはせえへんでと言ったりし、机を叩いたり姿勢を崩すとまっすぐにせいと言われるなど、激しい調べがなされた。」
「(二月一八日の調べも)最初は怒鳴ったりなだめたりが続いたが、そのうち、『そこまでお前がそんなことお願いしてない、別れ話と言うんであれば、別れる話を丁原がうまいことようつけんかったらお前どないしとったんや』と言って来て、それに韓国から帰れん方法もあると高槻の父が言ったことがあると言ったところ、さらに、それができなければ、次はどんな手段を取るんや、殺すしかないやろとなった。それに対し、そんなことをお願いしてませんと幾ら言っても聞いてくれず、このまま本当のことを言っていって、いつまでも信じてくれなかったらどないしよう、認めていくほうが本当に早く帰れるんやろか、という気持ちになり、『もう、それでいいです』と言った。そこで、松木田は調書の下書きのメモを作った。」
「二月一九日朝、松木田が房の前まで迎えに来たとき、原告が昨日言ったことを撤回したいと言ったところ、松木田はその場でものすごく怒り、一日中正座して座っとけと言われて房に戻され、看守の人に一日中見張っとれよと言って、出て行った。正座の間、原告は頭を下げることさえ許さない状態だった。
夕方から夜にかけての調べで、松木田は『どうや、つらかったやろ、わしらがこおへんかったら大変やろ、もうこういうことは二度としたくないやろ』となだめてきて、またもう下書きができてるんやで、証拠はここにできてるんやでということを言われ、一、二時間経って、また認めさせられた。」
「二月二〇日は、認めさせられるままに調べが進み、二月二一日、午前中に弁護人が来て、午後、再び自白を撤回した。するとまた、松木田は原告を房に戻して正座させ、再び房から出したときに、松木田は丁原の供述調書を見せ、それでまた認めさせられることとなり二月二二日に自白調書が作成された。」
(2) 前項に掲記した原告の各供述は、いずれも、自白の時期が二月一八日であることを前提とするものである。
(二) 原告は、刑事公判廷において、当初、二月二〇日過ぎに丁原の供述調書を見せられて自白するに至ったという趣旨のことを述べていたが、その後、二月一八日に自白したかのような供述に変更した。
(三) さらに、原告の主張を精査するに、原告は、訴状において二月二〇日ころ自白に追い込まれたと主張していたが、その後、右主張を変更し、二月一八日に自白したと主張するに至った。
3 本件手控えの信用性について
松木田らは、原告は二月一六日に自白したものであり、その取調べの際に作成したものが本件手控えであると供述している。
そこで、本項においてはその信用性について検討しておくこととする。
(一) 手控え作成の有無
松木田が取調べをしながら下書きを書き、後日まとめて供述調書にしていたことは原告も刑事公判廷において認めているところである。
(二) 本件手控えの記載内容と本件自白調書との整合性
(1) 本件手控えのうち「62・2・16」と日付を付した箇所に、次のような記載がなされている。
「<私> 別れる話がつく様な人と違うよ
<丁> 大丈夫そんな話をつける専門の人や
<私> もしあかんかったらどないするの
<丁> もう一つ方法がある 韓国から帰れん様にする
<私> その様なことが通用せんかったらどうする
<丁> 最悪場合はいてまうぞ あかん時はいってまうけど完全犯罪をする
と言った
私はすんなり別れればそれでいい 別れてもらう返事がなければ殺してもらう 納得した」
(右記載のうち、「私」は原告のことであり、「丁」は丁原のことであると考えられる。)
(2) 本件手控えと本件自白調書の各記載内容を比較・検討してみるに、本件手控えは本件自白調書の三項以下に相当する事項から記載が始まっており、本件自白調書の一、二項に相当する事項の記載がない。本件自白調書の三項以下についても、本件手控えには極く大雑把な記載がなされているのみである。
また、本件自白調書の八項以下に記載されている、丁原が韓国に行ってからのことについても、本件手控えには全く記載がない。
(三) 本件手控えの体裁
本件手控えの後ろから三枚目には、どこにもつながらない一枚だけのメモが綴じられている。しかも、項目数の記載があって、このメモは第六項と第七項の一部ということを示しており、ほかにもメモが存在したことをうかがわせる。したがって、本件手控えは系統的に整理され、それ自体完結したものであるとは言い難い。
本件手控えには二月二一日から同月二三日までの間の記載がないが、別紙「留置人出入簿の記載内容及び弁護人接見状況」のうち該当日の出場時刻及び入場時刻から推認される取調べ時間(右期間、検察官による取調べはなされていない。)との間に整合性がなく、取調べの内容及び経過を控えておくメモとしては完全なものであるとは言えない。
本件手控えの所々に書き込みがなされているが、右書き込みが後日なされたものであるのか否か、その外観のみを見て判別することは困難である。
(四) 作成者の供述
松木田は、本件訴訟において、本件手控えにつき、「茶封筒の中に当初は入れてましたが、ほかの書類と混同してどこかいったのかも分かりません、それについては私も分かっておれば、それは綴じておるでしょう、綴じてないということはどこか紛失してるということになります。ですから、先ほども何日の日にそれを綴じたということについては、限定した日にちはちょっと定かでないと申し上げたはずです。茶封筒の中に二つ折り、または三つ折りにして入れとった時期があったと私は申し上げたはずです。」と供述している。
(五) 以上、本件手控えについて検討したところによれば、その内容面・体裁面からみて、本件手控え自体を根拠として原告が二月一六日に自白したということを裏付けることはできないというべきであって、自白の時期を明らかにし得る証拠の存否を別の観点に立ってなお考察すべき余地があると言わなければならない。
4 自白時の状況及び自白後本件自白調書作成時までの取調べ内容に関する松木田らの証言内容
(一) 松木田が、刑事公判廷において、原告が自白したときの状況として証言した内容は前記第二の一3(三)(3)のとおりであるが、《証拠略》によれば、松木田は、刑事公判廷において、右のほか、二月一六日夜三〇分ないし四〇分くらいかけて原告を説得したところ、原告は七時過ぎころから自供を始めた、丁原との共謀の成立過程については一人二役のような話し振りで説明した旨の証言を、また、角野も刑事公判廷において右説明は一気になされた旨の証言をそれぞれしていることが認められる。
(二) 《証拠略》によれば、松木田は、二月一七日以降本件自白調書作成日までの取調状況について、刑事公判廷において、次のように証言していることが認められる。
<1> 二月一七日午前は昭和六〇年五月八日から、原告が渡韓した同月一一日までの状況について聴取。
<2> 同日夜は乙野との関係について聴取。
二月一八日は原告の生い立ち、太郎との結婚生活の内容について聴取。
<3> 二月一九日午前は角野とともに曽根崎警察署において戊田を取り調べた。
<4> 二月一九日夜は、太郎の時計(ロレックス)の購入状況、丁原に渡した金銭の調達状況について聴取。
<5> 二月二〇日午前は二月一六日夜の原告の供述内容について詳細聴取。
<6> 同日午後は主として丁原が韓国から原告に掛けた国際電話の内容について聴取。
<7> 同日夜は丁原に渡した金銭の調達状況について、再度聴取。
<8> 二月二一日午後、原告は自白を撤回した。
<9> 同日午後八時ぐらいから原告は「昨日まで言うておったことは本当なんです。」と言って再び二月一六日にした供述が事実に沿う旨の供述をした。原告に対して、自白を撤回した理由について問いただすと、増田弁護士から被疑者には供述拒否権がある旨教示されたということと、房から早く出してくれなかったことが原因である旨述べていた。
なお、原告が二月二一日午後自白を一旦撤回したという点については、原告の本件訴訟における供述と一致している。
5 本件被疑事件における、松木田による供述調書作成方法、作成方針及びそれらについての検討
(一)(1) 松木田が二月一六日に供述調書を作成しなかった理由として刑事公判廷において証言するところは前記第二の一3(三)(3)のとおりであるが、更にこのことをふえんして、松木田は刑事公判廷において「供述内容が丁原被告に転嫁するような、人に頼まれたから私もやったんだというような供述内容であったから、その点の追及、それから前回も言うてますように、自供内容が丁原被告の勧めだけであるのかどうか、又外に原因があるんじゃないかということで、その時点でいろいろ検討しましたら、乙野君という人材がおりますんで、その関係にそれじゃ関係があるんじゃないかということも考えられましたんで、そういうふうに調書も取らなかったし。」と証言しているほか、角野は刑事公判廷において「実行行為者たちはもう自供してるというふうなこともありましたんで、乙野君の関係もありますし、もう少しよく調べたほうがいいんじゃないかと、こういうふうな状況で取らなかったと、こういうことです。」と証言している。
(2) 二月二一日夜も供述調書を作成されていない理由として、松木田は刑事公判廷において「二一日に自供したときの被告自身の供述内容が、もう刑に服してきれいな気特になって、アパートで子供の成長見守りますというような供述内容、それと刑事さん寂しかったよというような供述内容、それにもうこういうこと嘘は言わないからというような供述を得たんで、その夜も調書は作成しておりません。」と証言している。
(二) 松木田は、供述内容の調書化について、刑事公判廷において「それにつきましては、供述が得られ、ある程度確信得られるような状況であれば、それは供述調書にし、又一通り粗筋を聞いて、それから調書に作成するという、いろんなケースがあります。一定した調書の作成方法というんじゃなくて、やっぱりケース・バイ・ケースですぐ調書を作成する場合もあれば、又は大まかな概要を聞いて、それを下調べの形で置いておいて後日調書を作成すると、こういうようないろいろなケースがあります。」との証言をしている。
(三) 確かに、犯罪捜査規範一七四条一項(「取調を行ったときは、特に必要がないときと認められる場合を除き、被疑者供述調書…を作成しなければならない。」)の規定するところによれば、前に作成した供述調書の内容とほとんど変わらないような供述を被疑者が引き続いてしたような場合は別として、そのような場合でない限り、被疑者の供述内容がどのように変遷していったかを明らかにするために、その都度供述調書が作成されるのが望ましく、とりわけ、自白の場合には被疑者でなければ語り得ないような、自白時の心情について時機を失うことなく供述録取する必要性が高いと考えられる。
その意味で、松木田の刑事公判廷における「乙被告の話す時の言動等から、供述を覆すというようなことも考えられませんでした」旨の証言には容易に首肯し難いものがある。
しかしながら、他方、前記(一)(1)の松木田らの証言内容が不合理であって、捜査実務上、およそそのような録取事務は行われるはずがないとまで断言し得る証拠もない。
6 原告の二月二三日付け員面の記載
右供述調書には「逮捕されて三日目(<当裁判所注>これは同月一六日に当たる。)に検察庁や裁判所に行き検事さんや裁判官にいろいろ質問され、隠しとおすことができないと思い、刑事さんに私の夫、太郎を丁原を通じて殺してもらいその報酬金を渡した事実について詳しく話したのですが」との供述記載があり、原告はこれに署名指印している。
7 まとめ
以上1ないし6において検討したところを総合して考えてみるに、松木田らの供述には一部疑問の余地があるものの、二月一七日以降本件自白調書作成日までの取調状況に関する、松木田の刑事公判廷における証言のうち、二月一九日に戊田の取調べのために曽根崎警察署に赴いたとする点は留置人出入簿の記載と時間的に符合することをも勘案すると、原告は二月一六日に自白したということの蓋然性の方がより高いというべきである。してみると、これと異なる日を自白の日であるとした上、自白に至る過程で不当な取調べがなされたとする趣旨の、原告の前記2(一)(1)の各供述の信用性についてはとりわけ慎重に検討する必要があると言わなければならない。
そして、松木田らとしては原告が丁原に対して太郎殺害の依頼をしたか否かという点について事案を解明する必要に迫られていたこと、また、原告が自白の時期を明確に意識しないか又は誤解したまま、あるいは、更に進んで自白の時期と必ずしも関連付けないで取調全般のいずれかの段階で生じた事象として不当な取調べがなされたとの供述をしている可能性もあり得る(誇張や思い込みによってそのような供述になるおそれもある。)ということを考慮すると、本件被疑事件の捜査の全過程を通じて、原告が不当な取調べがなされたと主張している事項内容そのものに即して、松木田らの行った取調べの態様が相当なものであったか否かについて更に検討する必要があると言わなければならない。
二 本件被疑事件の捜査過程全般に関する付随的事情について
1 松木田らの取調べ全般に関する、原告の供述内容
原告は、刑事公判廷において、捜査段階において暴行を受けたことはない旨供述する一方、松木田らはしばしば執拗に理詰め尋問をしたり、時にはなだめすかすという方法で取調べを行った旨供述している。
2 丁原の捜査段階における供述内容
丁原の右供述内容は、原告から太郎を殺してくれる人を知らないかと相談があり、その後も再三にわたり太郎殺害を積極的に依頼されてこれに応じたというものであって、太郎殺害の計画に同意させられたという趣旨の原告の捜査段階における供述内容とは食い違っていた。
3 弁護人の接見状況
(一) 弁護人が原告に接見した回数・時間は、本件自白調書が作成された二月二二日までに、増田弁護士が二回、大石弁護士が三回、その後三月七日に起訴されるまでに、増田弁護士が二回、大石弁護士が四回、それぞれ一五分ないし二〇分ずつであった(別紙「留置人出入簿の記載内容及び弁護人接見状況」参照)。
(二) 右のとおり、大石弁護士らは起訴前に延べ一一回原告に接見したが、その間、警察から報道機関への情報提供について要請・抗議を行っているものの、取調べ行為自体については抗議をした形跡がない。
(三) 大石弁護士らは、刑事公判廷において、二月一九日に原告に接見した際不当な取調べを受けている旨の訴えは原告から受けていない旨証言しているが、他方、「たとえば大声を耳のそばで張り上げて、人殺し人殺しと呼ばれるというふうなのは、もう一九日とかそんなころからも聞いていますし、夜寝らしてくれないと、ものすごい、朝まで(<当裁判所注>「朝から」の意味であると考えられる。)晩まで取調べが続いて、体がしんどいというのは、二六日とかそんなんも言っていましたけどね。」との、一見矛盾とも思える趣旨の証言をしている。
(四) 大石弁護士は逮捕後に原告の姉と夫により選任されたもので従前原告と面識がなかったこと及び原告は同弁護士に対し「そんなに会いに来てくれなくて良い。後は家族のことだけ定期的に伝えてくれればよい。」とすら言ったことがあることからもうかがわれるように、本件被疑事件の捜査が行われていた当時、原告と同弁護士との間の信頼関係は未だ十分に形成されていなかったものと認められる。
4 検察官の取調べ
原告が検察官の取調べの際に松木田らの取調べ方法について抗議した形跡は認められないが、原告には従前逮捕された経験がないことに加え、二月一六日の検察官による弁解録取の際には松木田らが押送した上、松木田は弁解録取が行われている間原告の後ろに座っていたこと、同月二四日の検察官の取調べの際は松木田が押送し、取調中も一〇分から一五分立ち会ったこと及び三月四日、五日、六日の取調べは茨木署内で行われていたことからすれば、原告が警察官と検察官との違いをどれほど正確に理解していたかは疑問であり、検察官に抗議していないという事実を、松木田らによる取調べの相当性を検討する上で重要視することは相当ではないというべきである。
三 松木田らの取調べ過程における具体的違法行為の有無(争点1)について
1 違法事由(一)(連日長時間にわたる取調べを強行し、パイプ椅子に姿勢を正して座らせることにより自白を迫ったこと)、違法事由(二)(特別要注意留置人に指定し、動静を監視したこと)及び違法事由(三)(留置室に戻してほしいという要求を拒んだこと)について
(一)(1) 逮捕日である二月一四日から同月二二日の間における原告に対する取調べは、留置人出入簿によれば、二月一六日に勾留手続のため検察庁へ押送するため午前八時一三分に留置場を出ているのみで、それ以外は、九時三〇分から一〇時三五分の間に留置場を出場し、昼と夕方の食事時には留置場に戻っており、夜は、午後九時五〇分に留置場に戻っているのが一回あるが、それ以外は、午後九時前後か九時二〇分には留置場に戻っているほか、夕方の五時五五分や昼の〇時五四分から取調べのため留置場を出ている日がそれぞれ一回ずつある(二月一九日及び二一日)。逮捕日から起訴の前日までの留置場出入りの状況は、別紙「留置人出入簿の記載内容及び弁護人接見状況」記載のとおりである。
(2) 原告は、逮捕当日である同年二月一四日午後七時、精神的動揺による自殺等の危険性が認められるとして特別要注意留置人に指定され、同月二四日午後三時、その危険性がなくなったとして右指定が解除された。右指定期間中、係員一名が原告の留置室前数メートルの位置にパイプ椅子をおいて座り、留置室にいる原告に対する動静監視を行った。
原告は、睡眠を妨げられたので、監視をやめて欲しい旨の申入れをしたが、容れられなかった。
(3) 原告は、逮捕当初、激しい精神的動揺を示して接見した弁護士と正常な会話を交わせない程の状態であり、数日経過してもなお精神的に不安定な状態が継続していた。逮捕後しばらくの間は、食事ものどを通らず、留置室にいるときには泣いてばかりいる状態であった。
(4) 原告は、「疲れたので休ませて欲しい。」「房に帰して欲しい。」旨求めることもあったが、松木田らは「もう少し辛抱せい。」等と言った。
(5) 原告は取調中立て膝をすることがあり、松木田は原告がそのような姿勢を取ったときにはこれをたしなめ、「正面向いて話せ。」と注意した。
(6) 原告は、二月二五日夜の取調べ中に身体の不調を訴え、松木田から「部屋に入って寝なさい。」と言われて留置室に帰った後、嘔吐して、病院に搬送され、「急性胃炎」と診断された。
(二)(1) 一般に、被疑者が逮捕又は勾留されている、いわゆる身柄事件にあっては、被疑者は、捜査官の要求があれば、取調室等への出頭を拒むことはできないし、出頭した後随時退去するということも許されない(刑事訴訟法一九八条一項ただし書)。
ところで、被疑者は取調べを受けることによる緊張と不安が、取調べの頻度が増すことによって、また、取調べが夜間にまで及ぶことによって次第に累積して、心身ともに疲労し、睡眠を妨げられ、恐怖や困憊におちいるであろうことは容易に推認することができる。しかしながら、捜査は迅速を旨とし、時間的制約もあることから、取調べが連日行われしかも長時間に及び夜間にまでわたるということ自体をもって直ちに非難することは相当でないというべきである。
結局、とりわけ身柄事件においては、取調べに着手する時被疑者が既に著しく睡眠不足や疲労の状況に陥っていることも少なくないということを考慮した上、取調べの際の被疑者の心身の状況をよく把握し、取調べの途中であっても休息を与えたり、あるいは取調べそのものを時には寛大にして、相手方の心身の状況に応じた範囲と程度の取調べにとどめるべきであって、これらの配慮を欠いた場合には違法となる余地があるというべきである。
(2)ア そこで、本件について検討してみるに、前項に述べたような見地に立つとしても、本件被疑事件の事案としての重大性に鑑みると、共犯者との共謀内容や動機を解明する必要性が高いことから、前記(一)(1)のような取調べ状況になるとしてもやむを得ないというべきである。また、二月二三日から起訴の前日までの間についてみても、特に不当に長時間の取調べが行われたとは言えないというべきである。
イ さらに、原告が二月二五日夜の取調べ中に身体の不調を訴えたときには即座に取調べを中止してその後相応の処置を講じているし、その取調方法にのみ帰因して原告の体調が損なわれたり著しく悪化したということを認めさせるに足りる証拠はない。
ウ 原告の主張する事実のうち、「パイプ椅子に姿勢を正して座らせ、自白しなければ膝を崩すことさえ許さなかった。」との点については、松木田らが取調べの際原告に対して立て膝の姿勢を取ることをたしなめ、パイプ椅子に姿勢を正して座らせたとしてもそのこと自体を違法と評価することはできないし、また、自白獲得のためにそのような姿勢を強いたということを認めるに足りる証拠もない。
エ 原告が特別要注意留置人に指定されたことについては、そもそも松木田らには特別要注意留置人の指定権限が与えられていなかったし、上司に対して右指定がなされるべきである旨の進言をした形跡も認められない上、当時原告は前記(一)(3)のとおり精神的動揺が激しく心身ともに不安定な状態にあったということにかんがみると、右指定をもって自白獲得の手段として採られた処置と断ずることはできず、捜査に従事する者には被拘束者の身体・生命の安全を保護すべき責任ないし義務があることをも前提にして考えると、右指定は合理的理由があるものといえ、右指定の結果、原告が留置室にいる間終日動静を監視され、そのため事実上睡眠をとりにくいという状況があったとしても、それはやむを得ないことと言わなければならない(本件において、右指定の趣旨を超えて不相当な監視が行われたということを認めるに足りる証拠はない。)。
オ 留置室に戻してほしいという要求を拒んだという点についても、前記(二)(1)に説示したとおり原告には取調べを受忍すべき義務があることからすると、原告の主張が理由のないものであることは明らかであるというべきである。
2 違法事由(四)(大声で「人殺し」と怒鳴ったりしたこと等)について
(一)(1) 原告は逮捕前人夫出しを一人で切り盛りしており、逮捕後の取調べ中においても松木田らに対して「私は五〇人も六〇人も人夫使うとるんや。少々の大声あげても応えへんのや。」「なんぼでも怒りなさい。それくらいのことで私がくじけると思っているの。」「私は知らないと言ったら死んでも知らないと言い通す女です。」などと言ってやりかえした。
(2)ア ところで、違法事由(四)の点につき、原告は、刑事公判廷や本件訴訟において、松木田らは、手や丸めた調書で机を叩いたり、角野と交互に「人殺し」と何度も耳元で大声を出して怒鳴り、原告に顔を近づけて、「俺の顔を見ろ」と迫り、少しでも目をそらせるとうそをついているからだと大声を出し、目が汚れているなどと罵ったと供述しているのに対して、松木田は、刑事公判廷において、取調べの際に「ちゃんと前を向きなさい。」と言ったことはあるが、机を手や調書で叩いたり、「人殺し」と叫んだりしたことはなく、大声を出したこともあるが、それは三回くらいで、同年二月一六日の自白前に家に電話をさせてくれと言ったときと同月二一日に自白を撤回したときと同月二七日に太郎の写真を原告が指ではじいたときのみである、最後のときは「成仏さしてやれや。」と大声で叱った旨の証言をしている。
イ 右いずれの供述ないし証言が信用できるかという点についてであるが、松木田は場面が異なるとはいえ大声を出したことがあるということ自体についてはこれを認めていること、原告は右ア掲記の供述を繰り返し行っていること、原告の供述に沿う趣旨の、大石弁護士の刑事公判廷における証言があること(前記二3(三))、原告の供述には具体性があることなどに照らし、原告の前掲記の、一連の供述はその頻度、内容の点において多少の誇張はあるにせよ大筋において信用できるものであり、首肯し得るというべきである。したがって、これに反する松木田らの証言は採用することができない。
(三) 捜査官は、被疑者の取調べに当たっては、相手方の人格を損なわないように、言葉による応対には相応の注意を払うべき義務があるというべきである。
そして、捜査官が被疑者を取り調べるに当たっては、時と場面によりいきおい多少声が大きくなることがあるのはやむを得ないとしても、被疑者の年齢、性別、知的能力、身体状況などその特性に応じて、冷静にかつ人権尊重の見地に立って相当性の範囲・程度を逸脱しない態様で取調べを行わなければならないというべきである。
これを本件についてみるに、前記(一)(1)のとおり原告がいかに気丈の女性であるとみられるとしても、また、仮に否認の内容が虚偽のものとみるべき合理的根拠があったとしても、被疑者に向かって「人殺し」ということは、その言葉の持つ語感自体からして、相手方を罵倒し、その人格を攻撃、非難する趣旨の響きを持つものであって相当でないと言わなければならない。しかも、二人がかりで、右のような暴言を大声で浴びせるということは相手方に対して強度の心理的圧力を与え、深い屈辱感を味わせるもので、なお一層妥当とは言えない。
したがって、松木田らが原告を取り調べるに当たって、少なくとも、交互に「人殺し」と何度も耳元で大声を出して怒鳴ったという点については、たとえ右行為と自白との間に何ら因果関係がないとしても、もはやそれ自体取調べの目的・範囲を逸脱するものとして違法であると言わなければならない。
3 違法事由(五)(乙野との関係を話題にして自白を迫ったこと)について
本件被疑事件においては、乙野の存在が犯行の動機ではないかと疑われており、松木田らが原告と乙野との関係について取り調べたことは認められるが、これを嘲笑的に話題にするなどして、原告を繰り返し侮辱したということを認めるに足りる証拠はない。
4 違法事由(六)(太郎の写真を見せて自白を迫ったこと)について
松木田が取調べ中に原告に太郎の写真を見せ、「成仏させてやれ」と言ったことがあることは同人も刑事公判廷において認めているところ、同証言によれば、原告が被害者に対して悪いという気持ちを持っているかどうか試す気もあって共犯者の写真とともに太郎の写真を見せたところ、原告が「怖くもないし、なんでそんなもん見せるんですか。」と言って、太郎の写真を指で弾き飛ばして床に落したので、「恨みがあったか知らんけど、成仏させたれや。」と大声で言ったというのであって、松木田が右のような言葉を言うに至った経緯としては首肯し得るので、同証言は信用することができるというべきである。してみると、原告は松木田の右行為によって心理的動揺を来したとは考え難いので、右行為をもって違法な権利侵害行為に当たると言うことはできない。
5 違法事由(七)(丁原の供述調書を示して自白を迫ったこと)について
(一)(1) 《証拠略》によれば、松木田らは、丁原が「原告から太郎の殺人を依頼された。」旨供述するはずがないと言い張る原告に対し、丁原の供述調書のうち右供述部分と同人の署名・指印の部分を示したことが認められる。
(2) この点につき、松木田らは、原告が丁原の逮捕を信じなかったので、丁原の身上経歴を記載した二月一一日付け供述調書の人定事項を記載した一丁表と末尾の署名指印部分を見せたことはあるが、内容を読ませたことはない旨終始一貫して供述している。
しかしながら、《証拠略》によれば、中嶋邦明弁護士は原告とは太郎の裁判の弁護を通じて従前から知り合いであって、一月二六日には本件に関し相談を受けていたこと、同弁護士は丁原の逮捕を確実に知った二月一二日の時点で原告に丁原逮捕の事実を伝えていたこと、原告は警察での弁解録取の際弁護人として同弁護士を選任する旨の意思を表明していること及び同弁護士は警察から連絡を受けて逮捕当日原告と接見していることが認められ、これらの事実に照らして、原告が丁原の逮捕を信じなかったとは考え難く、右松木田らの供述を採用することはできない。
(二) ところで、本件被疑事件については、甲田、戊田、丁原の逮捕、取調べが先行しており、とりわけ丁原は、原告からの積極的な依頼によって報酬目当てに犯行に及んだ旨自白していたこと、現に原告は丁原に多額の金銭を支払っていること、原告自身かねて太郎との離婚を強く望んでいたことを認めていたことなど、丁原の自白が真実に沿うものであると疑うに足りる要素が多分にあったのであるから、松木田らが丁原の供述に基づいて原告を厳しく追及したであろうことは十分に考えられる。
そして、複数人による共同犯行と目される事件の捜査に当たっては、真相究明のため、関係者間の供述の食い違いを問いただす必要性が高いことは明らかであって、問答が次第に進展することにより、発問の内容や態様が、ときに理詰めの形とならざるを得ないのは、自然の成行きともいえる。したがって、理詰めによる取調べがなされたということのみをもって、直ちに違法性を帯びると解することはできない。この場合の違法性の有無は、質問の内容、態様、程度の総合判断によるべきであって、その追及の程度が基本的人権を侵害するような強度の精神的圧迫の程度に達した場合に強制に当たるものとして、違法となる余地があると解するのが相当である。
(三) 本件について考えてみるに、松木田らが原告に丁原の調書を示した意図は原告の供述するとおり丁原の供述内容を原告に知らせるところにあったとみるべきであり、右供述内容が書面化されたものを、原告が突きつけられたことによって、単に口頭で告げられるような場合と比較してある程度強い心理的圧迫を受けたであろうことは否めないが、その後も原告は自己の一貫した供述内容(丁原の提案に対して暗黙に同意したにすぎないという趣旨の供述)を堅持していることに照らし、右方法による取調べが原告の意思決定に不当に影響を及ぼしたとは考え難く、理詰めによる質問の一方法として相当性の枠を逸脱しているとはいまだ言い難い。
6 違法事由(八)(保釈、刑期、仮出獄の話をすることにより自白を迫ったこと)について
(一) 《証拠略》によれば、大石弁護士は、三月二日に原告と接見した際、原告から仮出獄や保釈のことについて尋ねられたが、同弁護士は、その際、原告に対し、刑期は「七年ではすまない。」、仮出獄も「三分の一では難しい。三分の二ぐらいは経過しないと認められていない。」、また保釈についても、「そう簡単には出られませんよ。」と助言したことが認められる。
(二)ア 原告は、刑事公判廷あるいは本件訴訟において、松木田らはその取調べの過程で原告に対し「認めれば、保釈で出れる。」、「二月一八日ころ、自白すれば七年くらいの刑ですむし、仮出獄の制度もあるので三分の一で出られると言われた。」という趣旨の供述をしている。
イ 一方、松木田らは、刑事公判廷あるいは本件訴訟において、刑期や仮出獄の話をしたことはない、起訴後に原告が保釈の話をしたことがあったが、その折は、弁護士に聞くようにと言った、起訴後にロス事件の三浦和義の話が出た旨証言ないし供述をしている。
ウ そこでまず松木田らの右イの各供述について検討してみるに、逮捕された経験のない原告が他から知識を与えられることなく三月二日の接見時に大石弁護士に対して前記(一)のごとく質問できるとは思われないこと、また、松木田らから刑期や仮出獄の話をされたときの状況として原告が供述するところの、「黒い分厚い本を示しながら」「家や家族があるから三分の一で出られる。」「三浦和義とその彼女の話をしながら」などというのは具体性があることに照らして、刑期や仮出獄の話をしたことはない旨の松木田らの供述は措信できない。
(三) 翻って、原告の前記(二)アの各供述について検討してみるに、その供述するところは、一般論と本件被疑事件を混淆し、原告が誤解していると思われるふしがないではない。すなわち、本件被疑事件の事案としての重大性を考慮すると、容易に保釈が許されるとは考えられないので、松本田らが捜査官として本件被疑事件につき起訴後のことにまで話を及ぼし「認めれば、保釈で出れる。」と言ったということは想定し難い。また、「二月一八日ころ、自白すれば七年くらいの刑ですむし、仮出獄の制度もあるので三分の一で出られると言われた。」という趣旨の供述については、その時期に関する供述態度はあいまいであって、松木田らが原告に対して刑期につき触れるとともに刑期の三分の一ぐらいを経過すれば仮出獄できるという話をしたという限度で信用し得るというべきである。
そして、刑期、仮出獄、保釈に関する右程度の話が、取調べの過程において原告から自白を獲得するための手段として行われたものであるということを認めさせるに足りる証拠はない。したがって、松木田らが丁原の供述に沿う趣旨の供述をしていない原告に対して、右のような話題を持ち出して話をするということ自体不適当なことと言わなければならないが、これによって原告の権利が侵害されたとは言い難い。
7 違法事由(九)(甘言を用いて自白を迫ったこと)について
(一) 《証拠略》によれば、次の事実が認められる。
(1) 原告は、逮捕当初より、家に残してきた四人の子供達(当時一七歳、一四歳、一三歳、一二歳)のことを心配するとともに、太郎の実家の者達が原告の家に乗り込んできて、原告の人夫出しの仕事や財産を乗っ取ってしまうのではないかということを強く心配していた。
(2) 松木田らは、原告の求めに対し、「取調べが終われば、乙野や子供達にも会わせてやる。」「行けたら家の様子も見て来てやる。」と言い、太郎の身内が家を乗っ取ることを心配する原告に対し、「家は警察が守ってやる。」等と言った。
(二) ところで、甘言を用いたり何らかの便宜を与えたりすること、そのこと自体は刑事訴訟法上自白を誘導するおそれのある行為としていわゆる適正手続に違反する余地があるとしても、私法上の見地からはそれだけでは直ちに権利侵害を伴う違法な行為であるとまではいえない。
本件において、原告は自らの打算に基づきあるいは親族からの非難に対する保身の策として、原告の求めに応じて捜査官が示唆した前記(一)(2)の便宜的供与を自ら受け容れる意思を表示したとも解し得る余地があるものであって、これらの便宜的供与が自白を引き出すことを意図して行われたとかあるいは原告の有する何らかの利益ないし権利を侵害するためにこれとは異なる別の意図の下に行われたということを認めるに足りる証拠はない。
8 まとめ
以上によれば、松木田らが取調べという職務行為を行うに当たり原告に対して交互に「人殺し」と何度も耳元で大声を出して怒鳴ったという点については、もはや取調べの限界を超える違法な行為であったと言わなければならない。
しかしながら、本件証拠上、松木田らが本件被疑事件において捜査権を行使するに当たり、ほかに、社会通念上相当と認められる方法、範囲を逸脱して違法な職務執行行為を行ったということを認めるに足りる証拠はない。
四 松木田らの刑事公判廷における偽証(争点2)について
1 刑事公判廷における偽証が民事裁判の審判対象となり得るかについて
原告は松木田らが刑事公判廷において虚偽の証言をしたと主張するところ、刑事公判廷において証言をすることが警察官の職務と関連する行為であるといえるか否かはともかくとして、原告が違法と主張する証言内容(前記第二の一3(三)、三2(二)参照)はいずれも自白の証拠能力とりわけいわゆる自白の任意性に関わる事項であって、これらの証言は本件被疑事件に対する刑罰権の行使に重大な影響を及ぼすものであることは明らかである。したがって、本件訴訟において、松木田らの右証言内容が偽証であるか否かを審理するということは、取りも直さず、刑事訴訟手続において審理されるべき自白の証拠能力の有無そのものについて重ねて審理するという側面を有することとならざるを得ない。
いま仮に刑事手続の終結に先立ち、民事訴訟においてこの点につき審理することが許されるとするならば、刑罰権の行使に重大な影響を及ぼす事項を刑事手続に先んじて審理し、判断することを容認することになる。
しかしながら、本件のごとき刑罰権の実現に影響を及ぼす証言内容については、仮にそれが原告の権利ないし利益を直接的に侵害する内容を伴うものであるとしても、少なくとも刑事手続が進行中の場合には刑事手続法規に基づく審査が優先されると解するのが現行法制度に合致するものであるというべく、刑事手続に先行し、民事訴訟において自白の任意性に関わる証言を偽証であるとして損害賠償の請求をすることは許されないと解するのが相当である。
したがって、本件刑事事件が上告審で係属中である本件の事実関係の下では、松木田らの偽証を理由とする大阪府に対する損害賠償請求及び松木田らに対する損害賠償請求はいずれも理由がないと言わなければならない。
三 松木田らの個人責任の有無(争点3)について
前説示のとおり、松木田らの取調べ過程には違法行為と評価できるものがあるから、右違法行為につき、松木田らが個人責任を負うかについて更に検討するに、公権力の行使に当たる地方公共団体の公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によって違法に他人に損害を与えた場合には、当該地方公共団体がその被害者に対して賠償の責めに任ずるのであって、公務員個人はその責任を負わないと解するのが相当であるところ(最高裁昭和五二年一〇月二五日第二小法廷判決・裁判集民事一二二号八七頁、同五三年一〇月二〇日第二小法廷判決・民集三二巻七号一三六七頁等)、右違法行為は「地方公共団体の公務員」が「その職務を行うについて」なしたものであるから、松木田らは個人責任を負わないと解するのが相当である。
四 原告の損害(争点4)について
1 原告は松木田らから交互に「人殺し」と何度も耳元で大声を出して怒鳴られたことにより精神的苦痛を被ったと認めることができるところ、原告の被った右精神的苦痛は、右違法行為の内容等本件に現れた一切の事情を考慮すると、三〇万円をもって慰謝されるのが相当である。
なお、原告の請求のうちには取調べ過程における具体的違法行為に対する損害賠償請求も含まれているものと解するのが相当である。
2 右認容すべき慰謝料額及び本件事案の内容等に鑑みると、原告が原告訴訟代理人に本件訴訟を委任したことによる弁護士費用のうち五万円の限度で大阪府に負担させるのが相当である。
第四 結論
以上によれば、原告の本訴請求は、大阪府に対し、前記第三の四認定の損害三五万円及びうち三〇万円に対する不法行為の後の日である昭和六二年三月七日から、うち五万円に対する不法行為の後の日である平成八年四月二六日から民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を認める限度で理由があるから右限度でこれを認容し、その余は理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法六一条、六四条を適用し、仮執行宣言は相当でないのでこれを付さないこととして主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 高山浩平 裁判官 大西忠重 裁判官 棚田みどり)