大阪地方裁判所 平成9年(ワ)762号 判決 1998年1月23日
原告
橋本進
右訴訟代理人弁護士
植田勝博
被告
三井海上火災保険株式会社
右代表者代表取締役
井口武雄
右訴訟代理人弁護士
八代徹也
主文
一 原告の請求をいずれも棄却する。
二 訴訟費用は原告の負担とする。
事実
第一当事者の求めた裁判
一 原告
1 被告は、原告に対し、一六五四万九〇六八円及びこれに対する平成八年一〇月一日から支払いずみまで年五分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
3 仮執行の宣言
二 被告
主文同旨
第二当事者の主張
一 請求原因
1 被告は、平成二年ころ、損害調査主事を募集するため、「定年六〇歳、定年後満六三歳迄、一年毎の更改の契約可能」との趣旨の新聞広告(以下「本件広告」という。)を日刊紙に掲載した。
原告(昭和一一年九月一五日生)は、本件広告を見て、満六三歳まで稼働できるものと考え、勤めていた日産サニー大阪販売株式会社(以下「日産サニー大阪販売」という。)を中途退職して、被告の求人に応募し、平成二年八月一日、被告に入社し、以後被告の堺損害調査センターにおいて、損害調査主事として、保険事故の調査、交渉、保険金の支払い等の業務に従事していた。
2 原告は、平成八年五月二三日、被告の堺損害調査センター所長の大和博之(以下「大和」という。)から、満六〇歳が定年であることを理由に、同年九月に辞めてもらう旨を告げられ、同月末日をもって、定年退職扱いとされた。
3(一) しかしながら、本件広告は、一応定年は満六〇歳であるが、従業員が希望すれば、一年毎に雇用契約が更新されて、満六三歳まで働くことができるとの趣旨を示したものであり、したがって、被告は、従業員が希望すれば、当該従業員に契約継続の支障となるような特段の事情がない限り、一年毎に契約を更新して、満六三歳まで雇用を継続すべき労働契約上の義務を負担していたというべきである。
(二) 被告は、原告が更新を希望したにもかかわらず、満六〇歳を定年として扱ったのであるが、このことは、前記契約を更新して雇用を継続すべき義務に違反し、債務不履行を構成するというべきである。
(三) また、仮に、被告に従業員が満六〇歳に達した後に一年毎の契約を更新して満六三歳まで雇用を継続する意思がなかったのであれば、被告は、そのように受け取られるおそれのある本件広告を掲載すべきではなかった。それにもかかわらず、被告は、本件広告を掲載したため、満六三歳まで働けるものと誤信して被告に入社した原告は、期待を裏切られ、後記各損害を被った。
よって、被告は、原告に対し、不法行為責任を負担しなければならない。
4(一) 原告は、被告から、給与として月額二六万五二〇〇円及び賞与として年間五・〇三か月分(一三三万三九五六円)の支給を受けていた。
したがって、原告が満六〇歳以降満六三歳までの三年間に稼働していれば支給されたであろう利益の総額は、一三五四万九〇六八円であり、原告は、同額の経済的損害を被った。
(二) さらに、原告は、満六三歳まで働けることを信じ、それを前提として生活設計を立てていたが、被告の行為によって、期待が裏切られ、人生計画も狂い、多大の精神的損害を被ったが、これを金銭に評価すると、三〇〇万円を下らない。
5 よって、原告は、被告に対し、債務不履行または不法行為に基づき、右損害金合計一六五四万九〇六八円及びこれに対する平成八年一〇月一日から支払いずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。
二 請求原因に対する認否
1 請求原因1のうち、被告が平成二年ころ損害調査主事を募集するため新聞広告(本件広告)を日刊紙に掲載したこと、原告が被告の求人に応募したこと及び原告が平成二年八月一日に被告の堺損害調査センターに就職し、以後損害調査主事として保険事故の調査、交渉、保険金の支払い等の業務に従事していたことは認め、その余の事実は不知。
2 同2の事実は認める。
3 同3の主張は争う。
(一) 被告の就業規則においては、損害調査主事の定年年齢は満六〇歳とされているが、満六〇歳を超えた者についても、業務上の必要がある場合には、満六三歳を限度として一か年毎の雇用契約により再雇用することがある旨規定されている。そして、原告の労働条件は、就業規則によって決せられるものであるから、原告は就業規則所定の満六〇歳の定年年齢に達したことによって、被告を退職しなければならないことは明らかである。
(二) 本件広告は、右再雇用される可能性があることを示したにすぎず、本件広告を掲載したことによって、被告が従業員の希望に応じて一年毎の契約更新に応じ、満六三歳まで従業員の雇用を継続する労働契約上の義務を負うことにはならないし、また、原告が本件広告を見て、満六三歳まで働けると考えたとしても、そのような期待は、法的保護に値しないというべきである。さらに、原告が、満六〇歳に達した後、任意に退職手続きをとったことを考えれば、被告に債務不履行や不法行為が成立する余地はない。
4 同4の主張は争う。
第三証拠
証拠関係は、本件記録中の証拠関係目録記載のとおりであるから、これを引用する。
理由
一1 前記当事者間に争いのない事実に、(証拠・人証略)、原告本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨を総合すれば、次の事実を認めることができる。
(一) 原告(昭和一一年九月一五日生)は、日産サニー大阪販売に勤務し、自動車代金の督促や所在が不明となった債務者の調査等の管理業務に従事していたが、日産サニー大阪販売から得ていた給与は、月額三五万円程、賞与は半期で六〇万円程度であり、日産サニー大阪販売の定年年齢は満六〇歳であった。原告は、平成二年二月ころ、本件広告を目にし、満六三歳まで稼働できるものと考え、被告(当時の商号は大正海上火災保険株式会社)の従業員募集に応募することとした。
原告には、そのころ、大学進学を希望していた二人の高校生の子があり、できるだけ長く働きたいとの希望を有していたところ、職務内容に大差がないと思われ、給与は若干低下するものの、定年年齢が三年間延長されるものと考え、二〇年程勤めた日産サニー大阪販売を退職し、被告に入社しようと決意したものであった。
(二) 原告は、筆記試験、二次にわたる面接や健康診断を受けた後、平成二年七月に採用の通知を受けた。原告は、同月三一日に日産サニー大阪販売を退社し、同年八月一日、被告に入社し、被告の堺損害調査センターにおいて、損害調査主事として、保険事故の調査、交渉、保険金の支払い等の業務に従事していた。
(三) 被告における損害調査主事の労働条件については、損害調査主事就業規則(<証拠略>)により、定年に達したことが退職事由とされ(一七条)、「従業員の定年は、満60才とする。定年退職日は満60才に達した時点の四半期末とする。」(一五条)とされているが、同規則の一六条には「会社は、業務上必要ある場合は、定年退職時に本人の健康状態、業務能力および業務意欲を勘案して、満63才を限度として1ケ年毎の雇用契約により再雇用損害調査主事として再雇用することがある。」と規定され、定年に達した後の損害調査主事を再雇用する場合があることを定めている。
(四) また、被告においては、損害調査主事を採用するにあたり、筆記試験実施の前に、一五分程度の時間をかけて、担当者から応募者に対し、募集要項の補足や会社紹介、業務内容の説明が行われ、また、応募者の質問にも応じていた。その際、被告の担当者は、定年や再雇用に関して、前記被告の就業規則の定めのとおり、定年が満六〇歳であり、満六〇歳に達した四半期末が退職日となること及び被告に業務上の必要がある場合には本人の健康状態、業務能力等を勘案して一年毎の契約により満六三歳を限度として再雇用することがあるとの説明を行うのが通例であった。
そして、その後に行われる第一次及び第二次の面接では、応募者の能力や意欲を判断し、損害調査主事としての適性の有無を判定し、さらに、健康診断で異常がなければ、採用内定の通知を発するという扱いであった。
(五) 原告は、平成八年五月二三日、被告の堺損害調査センター所長の大和から、満六〇歳が定年であることを理由に、同年九月で辞めてもらう旨を告げられた。原告は、この措置に納得できず、被告に対し、満六三歳まで再雇用するよう申し入れたが、被告は、原告を再雇用する意思がないとして、この申入れを拒絶し、同月末日をもって、原告を定年退職扱いとした。その後、原告は、再雇用などを求めて、調停(大阪簡易裁判所平成八年(ノ)第三八三一号事件)を申し立てたが、生活費に窮し、退職金や失業保険金受給の必要から、やむなく退職手続きに応じた。
(六) 被告においては、損害調査主事の募集にあたり、従前から本件広告と同様、定年は満六〇歳であるが満六三歳まで勤務が可能である旨の広告を掲載していた(<証拠略>は、平成八年二月一四日に大阪地域の日刊紙に掲載された広告で、「60歳定年制の社員採用 63歳迄1年毎契約可。」との記載があり、<証拠略>は、平成二年ころに東京地域の日刊紙に掲載された広告で、「定年60歳(定年後63歳迄1年更改の雇用も有り)」との記載がある。)。
また、被告の大阪総務部管轄にかかる大阪損害調査部及び関西損害調査部所属の損害調査主事で、昭和六二年から平成六年に入社した者の合計は一三二名であり、そのうちの八三名が定年年齢に達したが、再雇用されたのは四二名であった。なお、被告が雇用した損害調査主事で、満六三歳までの雇用を主張して紛争となったのは原告のみである。
2 なお、原告は、本人尋問において、第一次面接の際面接者であった当時の堺損害調査センター所長の小島信康(以下「小島」という。)が、真面目に働いていれば定年後も六三歳までは皆いける、飲酒事故などを起こせば懲戒解雇されるが、普通に、真面目に働いていれば問題はないなどと告げた旨を供述し、原告の陳述書(<証拠略>)にも同旨の記載部分がある。
しかしながら、他に小島の右発言があったことが認められる的確な証拠がないうえ、大和作成の陳述書(<証拠略>)には、小島自身が右発言をしたことを否定した趣旨の記載があることなどの事情に照らせば、前記原告の供述や陳述書の記載部分から直ちに、小島が原告主張のような発言をしたとの事実を認定することはできない。
二 以上認定の事実によれば、被告の就業規則においては、損害調査主事の定年年齢は満六〇歳と定められていたのであり、被告としても、この定年年齢が損害調査主事に適用されることを前提として、業務上の必要に応じて、再雇用を行うなどしていたのであって、満六〇歳に達した損害調査主事につき、本人の希望があれば、再雇用を行い、満六三歳に至るまで雇用契約を更新するとの取扱いを原則としていたとはいえない。
確かに、被告は、損害調査主事の募集につき、「定年六〇歳、定年後満六三歳迄、一年毎の更改の契約可能」との趣旨の新聞広告(本件広告)を日刊紙に掲載したのではあるが、(証拠略)の広告の記載がいずれも定年年齢が満六〇歳であることが明記されていることやこれに引き続いて、あるいは括弧書きで満六三歳まで契約が可能であることが付記されているとの形式に照らせば、その趣旨は、被告の定年年齢が満六〇歳であることを明示するとともに、定年年齢に達した後も、被告の就業規則上満六三歳まで再雇用される制度があることを注意的に示したにすぎないと解するのが相当である。
なるほど、原告主張のように、本件広告の記載を、従業員が希望すれば被告が雇用契約の更新に応じなければならないことを意味するものと解する余地が全くないとはいえないものの、前記認定のとおり、被告においては、筆記試験の際定年年齢や再雇用の制度について説明を行うのが通例であり、原告が応募した際にも同様の手続きが踏まれたと推測されること、被告が本件広告と同旨の損害調査主事の募集広告を掲載していたにもかかわらず、満六三歳までの再雇用をめぐって紛争になったのは原告のみであったことなどの事情を考えると、本件広告は、通常人の解釈を前提としても、従業員が希望すれば満六三歳までの雇用契約の更新を内容としたものとはいえず、したがって、本件広告は、客観的にみても、従業員の希望により、特段の事情のない限り、満六三歳まで稼働できるとの内容を含む雇用契約の申込みの誘引であったとは考えられない。
四(ママ)1 以上判示したところによれば、本件広告は、募集の対象となった損害調査主事の定年年齢が満六〇歳であることを明らかにしたうえで、再雇用によって、満六三歳まで一年ごとに雇用契約が更新される場合があることを示したにすぎず、被告には、原告と雇用契約を締結した際、主観的にはもとより客観的にも、原告らの定年年齢は満六〇歳であり、再雇用については業務上の必要性を勘案して決定するとの認識しかなかったというべきである。したがって、仮に、原告が、本件広告を見て、満六三歳に達するまで雇用契約が更新されるとの期待や認識を抱いたとしても、原告と被告との間に、原告が希望すれば契約関係が満六三歳まで更新されるとの内容の雇用契約が成立していたということはできない。
そうすると、被告には、原告の希望に従って、雇用契約を更新し、原告を再雇用すべき労働契約上の義務があるとはいえないことになるから、原告の債務不履行に基づく損害賠償請求は、その余の点について判断するまでもなく、失当といわなければならない。
2 また、前記判示にかかる本件広告の趣旨や被告の担当者が筆記試験の際に損害調査主事の定年年齢、再雇用の制度についての説明を行っていると推測されることに照らせば、被告が本件広告を掲載したことに過失があったとはいえないことは明らかというべきである。
よって、原告の不法行為に基づく損害賠償請求も、その余の点について判断するまでもなく、失当である。
五 以上の次第で、原告の本件請求は、いずれも理由がないから棄却することとして、主文のとおり判決する。
(口頭弁論終結の日 平成九年一一月一三日)
(裁判官 長久保尚善)